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日本史についての雑文その312 律令国家の建設
天武天皇は天智天皇の同父同母の兄弟ではなく比較的身分が低い皇族であり、おそらくは天智の異父兄の女系皇族であったのであり、壬申の乱以前の天武、すなわち大海人皇子は改新政府内の随一の実力者であることに加えて、天智天皇の娘婿であるという点で権威を保っていたのでしょう。天智天皇は決して一般には評判の良い君主ではありませんでしたが、改新政治の創始者であり大王家の正統に繋がる血筋でもあることから改新政府内部においては唯一の求心力であったのであり、大海人皇子が改新政府内部で中心的な役割を果たすためには天智との縁戚関係は欠かすことの出来ないものでした。
その大海人皇子が672年に壬申の乱に勝利し、翌673年に飛鳥宮において52歳にして天武天皇として即位したのです。古代最大の内乱を極めて短期間で武力で制した天武は不世出の英雄、一種の神のごとき超越的存在として人々から崇められ、また、壬申の乱での親新羅派の勝利によって超大国である唐と絶縁して対峙していくことになったという緊張感から生じる一体感も相まって、天智が得ることの出来なかった一般に対する大きなカリスマ的求心力を獲得することになったのでした。
しかし即位した天武が主に取り組まねばならなかったことは天智の遣り残した律令国家建設事業の継続であり、それを行う改新政府内における天武の求心力を保証するものは天武自身の資質による一般的カリスマ人気ではなく、むしろ天智の娘の持統の夫であり天智の後継者であるという血縁的な正統性であったのでした。
つまり天武天皇は律令国家建設に際して2種類のカリスマ性を駆使したのだといえます。1つは天武自身の特異な個性に基づく政治指導者としてのカリスマ性、もう1つが伝統的な権威を有した血統の継承者としてのカリスマ性でした。天武は妃の持統を経由して引き継いだ伝統的カリスマ性に、自らの英雄的資質によって新たに獲得した個人的な神的権威および政治的カリスマ性による装飾を施して、天上の最高神の子孫であり、その最高神の現世に顕れた「現神(あきつみかみ)」であり君主である「すめらみこと」という新しい概念を作り出し、自ら「すめらみこと」を名乗ったのです。
「すめらみこと」の「すめら」は「澄む」に由来し、「みこと」は神や王の尊称であるので「澄みきった神であり君主であるもの」というような意味で、政治的・宗教的に聖別された神的超越性を言い表す特殊な尊称であるといえるでしょう。このような特殊な大和言葉が新たに作り出されたのです。
そして、「すめらみこと」という、この新しい大和言葉に照応する漢字としては天智以降使われていた君主号である「天皇」を充て、この「すめらみこと」という日本の君主は東アジア世界におけるシナの皇帝の臣としての「王」とは隔絶した、シナ皇帝と対等の存在であるということを明確にしたのです。こうして天武天皇によって「古代天皇制」のシステムが作り出されたのでした。

天智天皇の時代に新たに生まれた「日本(ひのもと)」という国は「日神の治める国」という意味でしたから、その日本の現神(あきつみかみ)であり君主である「すめらみこと」と同体であり先祖であるとされる「天上の最高神」とは「日神」、つまり太陽神でなければならず、そこでこの天武天皇の時代において、古くから大王家で首長霊として祀られてきた太陽神である「アマテラス」を「天照大神」と呼ぶようになり、「天上の最高神」、すなわち「天つ神のリーダー」「高天原の主宰神」として扱うようになったのです。
つまり、日本(ひのもと)の君主である「すめらみこと」は天上の最高神であり太陽神である天照大神の子孫なのであり、同時に最高神たる天照大神がこの世に顕現した姿でもあり、人間の姿をした神であり、しかもそれは最高神であるから、「すめらみこと」とは単に日本の人民の上に立つ君主であるだけではなく、天上や地上に存在する他の八百万の神々の上位に君臨する超越的存在なのであり、人民から見れば隔絶した尊い存在であるということになります。
これは、それ以前の祭主や神の依り代としての大王とは全く異次元の存在であります。大王はあくまで人間であり、外部に存在する神の霊力を取り込み駆使することが出来るというだけの存在でありました。あくまで大王は神ではなく、神は大王よりも上位に存在し、大王は神を敬い祀っていました。しかし「すめらみこと」は神そのものであり、しかも最高神の化身ですから、最高神以外のあらゆる神は「すめらみこと」の臣下という扱いになるのです。天皇は日本に住むあらゆる官人や人民を臣下として支配し位階を授けるだけでなく、あらゆる神々の位階も授ける資格を有するのです。人々の上位に存在する神々でさえも臣下として扱うことが出来るわけですから、一般人から見て「すめらみこと」という君主は極めて超越的な神聖性を持っていることになります。
これが「天皇」という君主の従来の「大王」とは異なった点で、こうした「神の中の神」としての天皇の隔絶した神聖性、絶対的権威がこの後の時代において日本の支配層や人民に刷り込まれた結果、天皇が生き神様であるかのような観念が定着し、権勢で皇室を圧倒するような権力者が現れても、天皇はあくまで別格の存在であり、臣下の分際でおいそれと弄くっていいような存在とは見なされず、決して自らが天皇に取って代わって日本の君主になろうというような発想が生じなくなったのです。

そうした「天皇(すめらみこと)」の権威を裏付けるものとして、天武天皇は天照大神を祀る伊勢神宮の地位を上昇させて祭祀形態を整備し、天照大神を主神とした王権神話の体系化を推進していくことになります。すなわち、天武は天皇家に伝わる言い伝えを整理して稗田阿礼という官人に命じて誦習させたといわれていますが、実際は古くから伝わる幾つかの土着神話を改変し合体させて、天照大神という天の最高神を創造し、その最高神の子孫が大王家の始祖となるという王権神話を作り上げたのでしょう。この王権神話が「古事記」の原型となるのです。
そして更に681年には天武の勅命で国史の編纂も開始されました。これも王権神話からの続きで、天照大神の血統と神的権威が大王家を経て天智、そして天武へといかに正統に継承されてきたのかを示すことが目的とされており、これらの王権神話や歴史の体系化作業は天武時代に開始され、天武が686年に亡くなった後も持統天皇をはじめとする歴代天皇に引き継がれ、712年に「古事記」、720年に「日本書紀」として結実することになるのですが、7世紀末の天武持統時代において王権神話の形成作業を通して、天照大神を頂点とした日本の神々のヒエラルキーが整備され、天照大神と天皇が同一視されることによって、天皇を頂点とした日本の神社の序列が整えられ、現在に繋がる日本神道の体系が形成されました。また天皇の神々や人民に対する優越が固定化していくようになったのでした。

672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は673年に52歳で即位し、皇室本宗家である天智系の血統を受け継ぐ持統皇后との共治体制をとり、天武が686年に65歳で亡くなった後は、その時点で41歳となっていた持統が政務を引き継ぎ、690年には正式に持統天皇として即位します。その持統天皇は697年に天武と持統の間の子である草壁皇子が天智の娘の阿陪皇女との間に設けた子である軽皇子に皇位を譲ります。これが15歳で即位した文武天皇ですが、52歳となっていた祖母の持統上皇は文武との共治体制を敷き、実質的に政務を執り続け、そうした統治形態は702年に持統上皇が没するまで継続しました。
こうして見てみると、7世紀最後の四半世紀において常に統治の中心に座っていたのは持統女帝であり、この新たに始まった古代天皇制において彼女が特別な存在であったことが窺われます。また持統の没後、その後を継いだ文武天皇が707年に25歳の若さで没すると、その子でまだ幼少の首皇子即位までの繋ぎ役として即位したのが文武の母であった阿陪皇女であり、この46歳で即位した阿陪皇女、すなわち元明天皇もまた天智天皇の娘であったということからも、この天武持統朝においては天智の血を濃く受け継ぐ者に大きく皇位継承の優先資格があるということが分かります。
この天智系の血統の皇位継承のためのサポートを使命とする一族が藤原氏なのですが、その始祖の藤原不比等は壬申の乱の時点では13歳の少年でしたが、おそらく天武天皇時代の早いうちから持統皇后の側近となり、天武没時の686年には27歳になっていましたから、天武から持統への皇位継承に際して何らかの重要な働きをしたと想像できます。そしてその後、不比等は持統天皇の側近として腕を奮い、持統没後は文武、元明、元正の三代の天皇に仕えることになります。

この7世紀最後の四半世紀の天武から持統の治世は「天皇(すめらみこと)」の神的権威を制度化するために即位式や大嘗祭をはじめとした各種の宮中儀式や、その舞台装置としての王宮における大極殿などの天皇の占有空間などを「神」としての天皇にふさわしい形態に創造、改変し整備していった時代でもありました。
そしてそうして確立された天皇の絶対的権威を中心に据えて求心力として、超大国である唐と絶縁対峙するという切迫感の中で、急速に律令国家体制を整備していった時代でもあります。それは唐と対抗し得る強国、文明国になろうという目的意識に基づくものでしたが、その手っ取り早い方法は唐の制度を模倣することでした。つまり幕末から明治初期における「夷の技をもって夷を制す」の精神と同じことで、「唐に対抗するに唐の技をもってする」というわけです。
しかし模倣するにあたって2つ問題点があり、1つは日本と唐とでは情勢や文明形態が違うということで、もう1つは日本は唐と絶縁状態であったので唐に関する情報入手が困難であるということでした。前者の問題点は日本なりの改変を加えて摂取することで解決し、後者の問題点は、とりあえず入手可能な情報で体制整備を進めておいて、追い追い修正していくということになりました。この結果、8世紀初頭に唐と国交回復した段階で日本において形成されていた律令国家体制はかなり唐とは異質なものとなり、8世紀前半のテーマはその違いを修正して律令制を確立していくことになったのです。

672年以降しばらくは主に壬申の乱の後始末に追われたようで、律令国家の建設が本格化するのは680年以降のこととなります。681年に天武天皇と持統皇后は諸臣に律令制定を指示し、682年には朝廷での衣服や礼法をシナ風に改めたりしましたが、これも行政法である令をシナのものに倣って制定していたことに伴った措置でしょう。682年には天武は大和の三輪山の西南方に新たにシナ風の本格的な都城である藤原京の造営を命じ、683年には初の貨幣である富本銭の鋳造も開始しましたが、これはそれほど広くは普及しなかったようです。そして684年には八色の姓を制定し、氏族の格付けを行い畿内の豪族の身分秩序を整備しましたが、これは壬申の乱の後始末の総仕上げのようなものであったのと同時に、律令制度の整備が進捗していたことに歩調を合わせた措置であったのでしょう。
しかし680年以前にも天武天皇も壬申の乱の後始末ばかりしていたというわけでもなく、それなりの独自の政治体制を築いていたと思われます。ただそれが制度化され整備されていくのが680年以降になるということです。即位の年の673年には天武は畿内出身者を対象とした官人登用法を定め、ポストを割り当てるに際して出自重視から才能重視への転換を行いましたが、こういうことが可能であったのも天武のカリスマや指導力が強かったことと、壬申の乱によって主要な中央豪族が弱体化していたからでしょう。
そういうわけですから、天武政権は当初から基本的に天武の独裁権力が強く、シナ皇帝のように全ての権限は天武に集中し、天武は大臣も設置しないで、たいがいのことは天武が自分で判断し決裁し、官人たちはそれを補佐する役割であったのでしょう。そういった天武政権の基本性格というものがまず前提としてあり、681年以降にシナの律令国家における政治制度を模倣して、そこに制度的な装飾を施していったということになります。

シナの律令国家の政治制度の特徴は、三省六部制といいまして、皇帝に全ての権限を集中させて中書省、門下省、尚書省の三省が皇帝に直属して皇帝を補佐するという形になっていました。中書省は皇帝の私的な家政機関から発展したもので皇帝の私設秘書室の役割を担っていました。門下省は審議機関で、臣下からの上奏文を審議して中書省に送り、中書省が皇帝にそれを取り次ぎ、皇帝の命令で中書省が詔勅を作成し、その詔勅を中書省が門下省に送って、門下省でその詔勅を審議して法律にするのです。そうして出来上がった法律に従って実際に行政を行うのが尚書省で、尚書省の下に実務を行う官庁として吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六部がありました。吏部は官僚の人事を司り、戸部は財政と地方行政を司り、礼部は儀礼、外交、祭祀、宗教、教育、科挙を司り、兵部は軍事を司り、刑部は司法警察を司り、工部は公共工事を司りました。
この皇帝の権限が非常に強い政治制度が天武政権の性格との相性もよく、681年以降、だいたいこのシナの制度を模倣する形で天武政権の政治制度が形成されたようです。すなわち、天皇の下に、天皇家の家政全般や天皇の秘書室機能を管轄する宮内官と、政策審議を行う大政官と、公的な行政事務を管轄する大弁官の三官を直属させ、大政官の下に法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、民官のような国政を支える個別の中央官司である六官が置かれていたという制度です。
法官は文官の人事や教育を管轄し、理官は氏族の戸籍管理や仏教管理、外交、儀礼を管轄し、大蔵は財政の特に出納関係を管轄し、兵政官は武官人事と軍事全般を管轄し、刑官は司法を管轄し、民官は民政や租税を管轄しました。法官はだいたいシナの吏部に相当し、理官はだいたいシナの礼部に相当し、大蔵はだいたいシナの戸部の出納部門に相当し、兵政官はだいたいシナの兵部に相当し、刑官はだいたいシナの刑部に相当し、民官はだいたいシナの戸部の租税と地方行政部分に相当しました。なおシナの工部に相当する中央官司は日本にはありませんでしたが、律令制導入当初の日本においては大規模公共工事を起こすというような発想も余裕も無かったからでしょう。
シナの戸部の機能が日本においては大蔵と民官に分化されているのは、シナと違って中央政府の支配が地方に深く及んでいなかった日本の天武政権の場合、租税の確保と歳出の節約は両方とも重要課題であり、それぞれを独立した官として機能強化を図ったのでしょう。また、シナの礼部が管轄していた祭祀については、天武政権においては天武個人のパーソナリティと分ち難く一体化しており、天皇の専権事項となっていたため、理官や他の政務官庁の管轄するところとはなっていませんでした。
宮内官はシナの中書省に相当し、大政官はシナの門下省に相当し、大弁官がシナの尚書省に相当したと思われますが、シナの場合と違い、合議機関である大政官の下に個別行政機関である六官が置かれていました。このため大政官の権限が相対的に大きくなり、一方、大弁官は存在意義が薄くなり、天武時代の途中から大政官が大弁官の機能を吸収して三官制が二官制に移行するようになりました。
天武天皇は大臣を置きませんでしたから天皇直属の政策審議機構である大政官には納言のみが置かれましたが、納言とは「言をいれる」という意味の役職で、大政官の合議に加わる役職という意味です。こうした本来は合議機関であるはずの大政官が六官のような実務的な個別の官司を管掌する機能も併せ持つようになったのは、やはり合議重視の日本の伝統によるものであろうかと思われます。

このような政治制度の整備を開始した頃から天武の健康状態は徐々に悪化するようになり、次第に病状は進行し、686年には天武天皇は死去し、律令国家の建設事業は持統皇后に引き継がれることになりました。ただ天武政権の政治制度は天武の特異な個性に負う部分がかなりあり、天武の死によってそのあたりは日本の政治制度としてより自然な形に修正されることとなりました。
まず天武天皇は大臣を置かずに独裁権力を振るっていましたが持統皇后は高市皇子を太政大臣とするなど、左大臣や右大臣などの大臣を置くようになりました。これらの大臣は大政官に置かれ、納言も大納言や中納言、少納言などに分化されて整備され、大政官は拡充されて太政官といわれるようになり、大臣らが納言らを統率して合議を運営して行政事務を管掌していくようになり、その権限は大きなものになりました。
それに伴って、天武時代は天皇に直属していた宮内官も太政官の管轄下に置かれるようになり、また天武時代には天皇の個性と一体化していた天皇の祭祀に関連する機能が天皇個人から切り離され制度化されるようになり、祭祀を司る官司として神祇官が設けられるようになり、諸官の中で最上位の官司とされて天皇直属機関となりました。つまりシナの場合とは違って、祭祀を所管する官庁が通常の政務官庁とは一線を画した存在と規定され、日本においては祭祀と政務が明確に分離されることになったのです。
ただ形式的にはそうであっても、実質的には神祇官も太政官による管理を受けるようになり、宮内官の太政官の管轄下への編入と相俟って天皇の天武時代には大きくなり過ぎていた権限が縮小されて、天皇と各行政機関の間に天皇の代理機能を果たす緩やかな合議体である太政官が置かれるようになりました。

このような天武没後の政治制度の変化は689年に飛鳥浄御原令という行政法として纏め上げられ、関係各所に頒布されることになりました。これには藤原京の造営スケジュールが大きく関係していました。天武の生前の段階で藤原京の京域、つまり街路部分はほとんど出来上がっていたのですが、天武の死の時点で宮殿部分がまだ手付かずの状態で残り、その後の政治制度の変化を受けて宮殿部分の造営に取り掛かれない状態であったのです。中央官庁の組織編制が定まらないと宮殿部分のレイアウトが決定できないのです。しかしいつまでも宮殿の造営を遅らせるわけにもいきませんから、だいたい政治制度が定まってきたと見なして、689年の段階でとりあえずの政治制度を決定し固定化してしまい、それを基にして宮殿のレイアウトを決定し、翌690年から宮殿部分、すなわち藤原宮の造営に取り掛かったのです。そしてそれに合わせて同年、持統は正式に即位して持統天皇となったのです。
このように飛鳥浄御原令はやや間に合わせ的に作られたものではありましたが、古代日本の行政制度の枠組みの基本形はここにおいてほぼ出来上がっているといえるでしょう。「日本」という国号や「天皇」という君主号もこの令によって正式に規定されたと思われます。
飛鳥浄御原令の上では天皇は令によって規定されない存在であり、国政の最高機関は貴族による合議体である太政官であるとも解釈できますが、天皇は令による制約を超越した超法規的存在であるとも解釈が可能で、その時々の状況次第で天皇と貴族のどちらにでも権力が傾き得るファジーな制度であったともいえます。天皇を権威とし、太政官を権力とする「権威と権力の二重構造」であるとも言え、これはそもそも天武時代には「天武=権力、持統=権威」という役割分担であったものを天武没後に天武の果たしていた役割を長男の高市皇子が引継ぎ「持統=天皇=権威、高市皇子=太政官=権力」として、それを制度化したものだともいえます。こうして日本独特の権威と権力の二重構造がここに制度化されることになったのです。

飛鳥浄御原令の成立を受けて藤原宮は690年から造営され、藤原宮を含んだ藤原京の完成を受けて694年に持統天皇は飛鳥宮から藤原京へ遷都しました。藤原京はシナの周の制度について記した「周礼」という書物にみえる都城の理念型である、正方形の縦横に道路の交差する都城の中央に宮室が位置するという形になっていて、その規模は後の平城京に匹敵するものであり、日本最初の条坊制という土地区画が施行された京域という街路部分を伴う本格的都城でした。
東西南北に碁盤目状に走る大路によって囲まれた区画を坊といい、東西に並ぶ坊の列を条といいます。藤原京は南北十条東西十坊の計百坊によって構成されており、うち中央の四坊分の区画が宮殿である藤原宮となります。
藤原宮のほぼ中央に天皇の占有的な執務空間である大極殿があり、北にある天皇家の家政空間である内裏と南にある官人の執務空間である太政官院を分離していました。太政官院の中心には儀式の際に官人が集まる朝庭の空間があり、朝庭の周りに上級官人の伺候空間である朝堂があり、太政官院はこの朝庭と朝堂によって構成されていました。この太政官院が後に平安時代以降は朝堂院と呼ばれるようになる空間です。
天皇は朝になると内裏から大極殿に出御してきて執務にあたり、大極殿から太政官院にいる官人に下命し、官人は太政官院から大極殿の天皇へ上申するという形で午前中は口頭による朝政が行われました。こうした「内裏?大極殿?太政官院」という南北に連なる朝政空間の東西には下級官人の執務空間である曹司が建ち並ぶ区画が広がっていました。午前中に朝政を終えた上級官人は午後にはそれぞれの所属する曹司に戻って、配下の下級官人を従えて文書による実務にあたりました。こういった宮殿部分の構造も藤原京全体の構造と同じくシナ古典の理念型に沿ったものでした。
このようなシナの古典にあるような理念型へのこだわりというのは、外国の文化を取り入れるに際して、本家である外国よりもより純粋にその理想形を追求しようとするという日本の特性という面もあるでしょうが、基本的には唐と国交断絶した中でのシナ律令制の模倣という時代的制約の中で、実見によるものではなく文書などからの想像によって不足情報を補っての律令国家建設作業を余儀なくされたことによるものだといえるでしょう。

飛鳥浄御原令によって古代日本の政治制度の枠組みは出来上がったといっても、それでも間に合わせ的な部分はあり、行政制度の整備をすべき部分はまだありました。また、行政法である令とセットになるべき刑法に相当する律も伴っておらず、律令法としては不完全なものでした。そこで690年代は新都である藤原京を真に支える本格的な律令、そして唐など諸外国に比べて遜色の無いような律令の編纂が持統天皇の下で行われることになりました。
その作業の中心的役割を果たしたのが藤原不比等でした。690年時点で不比等は31歳で、690年代の不比等は官人として最も脂の乗り切った時期でありました。そもそも藤原という姓は新都と同じ名前で、臣下の姓と同じ名前をわざわざ新都につけるとも思えないので、おそらくは694年の新都への遷都に際して中臣不比等に対して持統天皇から都と同じ「藤原」の姓を下賜されたのでしょう。一般には鎌足の没時に天智天皇から藤原姓を賜ったということになっていますが、実際に藤原姓を名乗っているのは不比等の子孫だけであり、藤原姓は不比等に始まると見たほうがいいでしょう。
新都と同じ名前を下賜されるということは、つまりそれだけ不比等が持統天皇にとってお気に入りであり、重要な側近であったということなのでしょうし、新都を運用していく上で非常に重要な役割を果たしていたということなのでしょう。それはつまり、律令編纂の責任者であったということなのです。
こうして頭角を現した不比等は権勢を拡大させていき、697年に持統が孫の軽皇子に譲位した際には、その軽皇子改め文武天皇の夫人として娘の藤原宮子を入内させることになったのです。夫人というのは天皇の妻の称号の1つで、妃の次に身分の高い称号でした。妃は皇族しか名乗れなかったので宮子は臣下出身では最高位の夫人であったわけで、しかも文武には皇族の妻である妃はいませんでしたから、実質的には宮子が正妻であり、不比等は天皇の義理の父ということになったのです。
そして701年に文武天皇と宮子の間に首皇子、後の聖武天皇が誕生し、同年に藤原不比等の娘で後に聖武天皇の皇后となる光明子も産まれたのですが、この年にとうとう律令が完成し、律令国家の骨格が整うことになりました。この年に「大宝」という年号が制定され、これ以降、年号の使用な正式なものとなり、現在まで絶え間なく年号使用が続けられることになりますが、この「大宝」の元年に完成施行された律令を一般に「大宝律令」といいます。

大宝律令では中央政府の行政制度として二官八省の制度が定められました。これは飛鳥浄御原令の行政制度と基本的にはほぼ同じもので、ただ各官司の名称が変わったというものでした。天皇の直属の二官は太政官と神祇官で、ただし神祇官は実質的には太政官によって管理されていました。そして太政官の下には個別の実務的な政務官庁として式部省、治部省、大蔵省、兵部省、刑部省、民部省、宮内省、中務省の八省が置かれました。式部省は飛鳥浄御原令における法官に相当し、治部省は同じく理官に相当し、大蔵省は同じく大蔵に相当し、兵部省は同じく兵政官に相当し、刑部省は同じく刑官に相当し、民部省は同じく民官に相当しました。また飛鳥浄御原令で太政官の下に置かれるようになった宮内官のうち大宝律令では天皇家の家政部門が宮内省になり、天皇の秘書室機能が中務省になりました。宮内官は太政官の管轄下でも未だ大きな権限を持っていたので2つの省に分化して太政官の優位を保つようにしたのでしょう。これらの官や省はその内部ではさらに多くの官司に細分化され、そのそれぞれの官司の責任者は長官・次官・第三等官、第四等官の四等官制をとりました。
このように701年には新しい律令国家文明のハードである藤原京と、それを運営していくソフトである大宝律令の両方が揃うこととなり、律令国家の体裁が整うことになりました。ここに至る7世紀最後の四半世紀は、まさに力強く新しい律令国家文明が浸透していった時代で、前の時代に生じた国家的危機はこの時代の終わりにはとうとう克服されたのでした。
ちょうどこの頃、唐から帝位を簒奪した周の武則天の専横による唐の辺境政策の弱体化、渤海国の建国に伴う唐と新羅の関係改善などの国際情勢の変化もあり、日本も30年以上も途絶えていた遣唐使を派遣することになったのです。それは藤原京と大宝律令という日本型律令国家を象徴するハードとソフトが揃ったことによる自信の表れであったと見てとれるのです。
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