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日本史についての雑文その313 租庸調
さて、一方この天武持統時代における地方統治はどのようになっていたのかですが、中央政府がかなりシナの制度を模倣したものになっていたのに対して、地方行政制度に関しては伝統的な在地豪族の支配体制に依存したものになっていました。
中央と地方においてそのような差異が生じた理由は、そもそも飛鳥の中央政府の起源となった大和王権は畿内の豪族の連合体で、天皇の起源となった大王も畿内の豪族連合の代表者であるに過ぎず、畿外の各地方はそれぞれの地方の在地の豪族が直接支配しており、大王はそれらの地方豪族と主従関係を結んで従属させることによって、それぞれの豪族の支配地に間接的な支配を及ぼしていたに過ぎないからです。

つまり大和王権の大王は畿内の大王家の直接支配地を除いては土地や人民に対して間接支配を及ぼしていたに過ぎないのであって、それは日本国が誕生して、大王が天皇に変わった後でも基本的にはそのままであったのです。
律令制というのは君主が土地や人民を直接支配して、その支配を維持するために官僚機構を駆使する体制ですから、その理念を忠実に実現していくためには豪族の在地支配を解体して全ての豪族を天皇の下に仕える官僚として組み込む必要があったのですが、そうした理念を完全に実現していくためには膨大な手間と時間が必要なのであり、早急に唐に対抗し得る律令国家を建設しなければいけないという制約を抱えた飛鳥政府としては、中央政府の制度整備において行ったように最初からシナ制度の模倣を行うような余裕は無く、むしろ地方においては従来からの支配原理をそのまま基礎として活用しつつ、それに律令制的な装飾を施して、言わば表面的に律令制のように見せかけたものを作っておいて、それを後から徐々に実質的なものにしていくという方針になったのでした。

672年の壬申の乱以前から存在していた地方行政単位には、大化の改新後に従来の国造の支配領域を分割して在地の中小豪族の支配地として作られた「評(こおり)」というものがあり、改新政府はこの「評」を支配する在地豪族を「評督」に任命してコントロールして、それぞれの「評」内の土地や人民を間接的に支配しようとしていました。
壬申の乱に勝利して飛鳥に都を置いた天武天皇は地方統治においてはこの従来からの地方豪族による在地支配を基礎として、これを更に強化して、なおかつ中央政府による統制を強めるために676年に複数の「評」を束ねた広域行政単位である「国」を設定し、その責任者である行政担当官として「国宰(くにみこともち)」を中央から現地に派遣して、それぞれの「国」の管轄下の「評」の「評督」たちを監督させることにしました。こうして、いきなり全ての土地や人民への直接支配を図ろうとするのではなく、むしろ間接支配体制を強化することによって中央による支配を強めようとしたのです。
ただ、当初はこの措置はほとんど形式的なものに止まったようで、「国宰」に任命された中央の官人は「国」の管轄下とされた「評」の中の最も有力な「評督」の居館に居候してそこをとりあえずの拠点としていたような状態で、実質的には従来と変わらずに「評督」である在地豪族たちが勝手に自分の領土内を支配していたような状況でしたし、その領域の境界も曖昧なままでした。
これが実質的に機能し始めるのは、683年に諸国の境界を定めて、行政領域としての「国」が正式に成立した頃以降であろうと思われます。同じ頃にそれぞれの「評」の間の境界線も確定したようです。

その後、天武天皇の死を挟んで689年に頒布された飛鳥浄御原令において、戸籍を6年に1回作成すること、「評」を約50戸ごとに細分化した賦課単位としての「里(さと)」の制度、班田収受に関する規定なども制定され、律令制の骨格が形成されたと思われます。
これを受けて、690年に持統天皇の命で二度目の戸籍である庚寅年籍の作成が行われ、この時に「里」の編成が全国規模で行われました。「里」は大化の改新後に定められた「五十戸」という地域社会の賦課単位から移行したもので、その「五十戸」という元の名称の通り、50の「戸」が集合して1つの「里」が構成されていました。1つの「里」からは1人の「里長(さとおさ)」が選ばれ、戸口掌握、農業督励、納税催促、治安維持の責任を負いました。「戸」の構成メンバーが「戸口」で、この「戸口」が戸籍に登戴されます。戸籍に記戴された「戸口」に関する情報、例えば年齢や性別を参照して、それぞれの「戸」に課税対象者が何人いるのかを把握し、その情報に沿って口分田が割り当てられたり、租税が課されたりするわけです。要するに「戸」や「里」というのは徴税を円滑に行うために便宜的かつ人工的に線引きされた賦課単位なのであって、実際の生活単位とは必ずしも一致していませんでした。「里」は実際の集落である「村」とは必ずしも一致していませんでしたし、「戸」は複数の家族によって構成されていることが多かったようです。だから「里」のリーダーである「里長」も便宜的に割り当てられた隣組の班長のようなもので、実際の「村」の伝統的指導者と一致しているというわけでもなかったようです。「戸」にも「戸主」というリーダーが決められていたようですが、これも実際の家長と一致していない場合もあったでしょう。
こうした「戸主」から「里長」にそれぞれの「戸」に関する情報が集められて「戸口」の状況が掌握されて戸籍に書き込まれ、その戸籍の情報を基にして徴税を請け負うのが「里」の集合体であり在地豪族の支配領域である「評」の責任者である「評督」、つまり在地の豪族であるというわけです。「里長」は「評督」の手足となってそれぞれの「戸」に納税を督促することになります。

この「評」が701年の大宝律令においては「郡」に移行することになり、その責任者も「評督」から「郡司」というように名称が変わり、中央政府の官司と同じように四等官制をとりますが、「評督」の場合と同じように在地豪族が「郡司」を務め、実質的な在地支配を継続していきます。「郡」の拠点となる役所は「郡家」というのですが、これも在地豪族の居館を中心として、周囲に諸施設を増設して営まれました。
この「郡」レベルでの支配が大宝律令によってまとめられた地方行政制度において最重要な要素であったのですが、この「郡」をいくつか束ねて設定されたのが「国」で、大宝律令施行時には日本全土に約60個ありました。「郡」が在地の実体を伴った行政単位だったのに対し、「国」は「郡」をいくつかまとめて人工的に線引きした行政単位で、在地の実体を伴ったものではありませんでした。よって、「国」の拠点となる役所である「国府」も、当初は独立したものとしては存在せず、その「国」の中にある有力な「郡家」の中に居候的に同居しているような感じでした。
その「国」の責任者である「国宰」は大宝律令においては「国司」と名称が変更され、その「国司」は中央から地方の赴任地へ派遣される官吏で、「郡司」と同じく四等官制でしたが、その任期は6年でした。実際は任期が6年と明記されているわけではないのですが、6年毎に勤務状況を評価されることになっており、大抵はその時点で他の官職に転出するので、実質的に任期が6年であったのです。
これに対して「郡司」は任期というものが無い終身官で、一度郡司になったら死ぬまで同じ郡の郡司で、実質的には世襲で郡司職を継いでいったのでした。但し、君臣関係の確認の意味合いもあり、在地豪族が郡司になる際には一度、都に上って試験を受けて、それに合格して任官を受けてからそれぞれの郡に戻ってくるということになります。
郡司は同じ土地でずっと郡司を務め、国司のほうは6年ごとに交代するということは、国司のほうが郡司よりも上役ではありますが、実際にその土地の統治を行うのは郡司のほうで、国司はお飾りのようなものだということが分かります。つまり日本における律令国家というものは当初は、在地首長層の支配力に依存する形ではじめて機能する国家であったといえます。8世紀になってから律令国家はこうした在地豪族を通じた地方支配の方式を脱却して国司による直接支配の確立を目指しますが、その実現にはまだまだ時間がかかることになるのです。
つまり、日本型律令国家においては郡司が租税の徴発を請け負うことになります。租税徴発の基となる台帳が戸籍ということになりますから、戸籍のデータは郡司によって管理されるということになります。戸籍は6年に1度しか改訂されませんから、毎年の細かな戸口の変動、例えば出産や結婚、死亡などによる戸口の増減や移動についてのデータも把握していなくてはいけませんから、大宝律令施行後は郡司によって毎年、戸の構成員の名簿である「歴名」という資料が作られるようになり、6年に1度の戸籍作成時に「歴名」のデータを戸籍に書き写すということになりました。
郡司はこうした戸籍や歴名によって各戸の課税対象者の数や種別を把握し、それらの課税対象者に口分田を支給して、租税を徴収したのです。課税対象者が死ぬと、その者に支給されていた口分田は国家に返納されることになります。これが「班田収受の制」です。

この「班田収受の制」というのはシナにおける「均田制」を真似たもので、国家が管理する公地を均等に分けて農民に貸し与えて耕作させて、収穫から一定の率で国家が租を徴収し、残った収穫で農民は生活し、農民が死ねば耕作地は国家に返還されて、また別の者に貸し与えられるという制度でした。これはシナ律令制の基本理念である「王土王民思想」を具現化した制度で、律令制の柱となるものでした。だから天武天皇や持統天皇によって建設された日本型律令制においてもこの「班田収受の制」は目玉的存在であったわけですが、これをあまりに重視し過ぎたために、「王土王民」の理念に忠実になり過ぎて、実際のシナの均田制とはかけ離れたものになってしまったのです。
つまり、シナにおける均田制は実際には国家から貸与され返納される「口分田」と世襲される「永業田」との二本立ての制度になっていたのであり、各個人の所有可能な耕作地の面積の上限が多めに設定されており、実際に支給される口分田はその上限よりかなり少なめであったので、各個人は自分の所有可能耕作地面積から口分田面積を差し引いた面積分の永業田を持つことが出来たのです。だからシナにおいては各自が自分の永業田を増やすために積極的に荒地を開墾して農地を広げていくことになったのです。そうやって人口が増えた分は新たな開墾地が増えて、トータルの農地が増えたのです。
そのようにして農地が増えていかなければ、人口が増加していった場合、それを養う農作物を生む耕作地が足りなくなっていくのです。しかし日本型の当初の班田収受の制の場合、唐との絶縁状態で書物による知識のみに頼って律令制を建設したため、「王土王民」の理念に教科書的に忠実であり過ぎたために、「各個人の所有可能な耕作地の面積=支給される口分田の面積」としてしまい、世襲可能な永業田の生じる余地を無くしてしまったのです。そうなると、農民は新たに農地を開墾しても自分のものにならないのですから新たな開墾地を増やすということがなくなってしまいます。いや、そもそも開墾自体が律令違反ということになるのですから、開墾などするはずがありません。しかしそれでも人口は増えていくわけで、そうなると耕作地が足りなくなっていきます。
しかも口分田は自分が死んだら返納しなければいけないわけですから、晩年は耕作意欲も無くなり、耕作地は荒れていくようになります。そうやって生じた荒地を開墾する意欲をこの日本型律令制は摘んでしまうわけですから、むしろ耕作地は代を追う毎に減っていくことになります。
このように、当初の日本型律令制における班田収受の制には大きな欠陥があり、これを修正改善して、シナで行われている実際的な制度に近づけていくことが8世紀の重要な政治課題となっていくことになるのです。

それはさておき、大宝律令の班田収受の制の規定によれば口分田は成人男性1人につき二段(約2400平方メートル)が支給されますが、一段につき二束二把の稲が「租」として納入が課されることになります。これは収穫量の約3%に相当するといわれます。この「租」というのは、シナ律令制における「租・庸・調」という租税体系を真似た日本律令制における租税体系の1つであり、シナにおける「租」は支給された田につき一定量の粟を納めるというもので、日本の場合は稲作国家でしたから粟が稲に変わったわけです。
この「租」で納められた稲は膨大な量でありましたから都に持っていくというようなものではなく、郡司が徴収した「租」の稲束はそれぞれの在地の「郡家」の中に設置された「正倉」という倉庫に「官稲」として保管され蓄積されていくことになりました。つまり「租」は中央には運ばれず、それぞれの徴収した郡に留め置かれたのです。そしてこの「官稲」は郡内の農民に種籾や食料として貸し付けられることになりました。これは貸付ですから利息が発生することになり、「官稲」を借りた農民は次の収穫時には5割の利息分の稲を上乗せして郡司に返済しなければいけませんでした。しかもこの貸付は実質的に強制的なものであり、一種の租税の一環となっていました。この官稲の強制貸付制度を「公出挙(くすいこ)」といいます。
つまり口分田を支給された農民は「租」を稲を郡司に納入しながら、同時に「公出挙」の稲の返済も郡司に対して行っていたのであり、郡司は「租」によって集めた「官稲」を「公出挙」の制度によって増やしていったということになります。そうして増やした「官稲」のうち、「公出挙」の元手の分や非常食用の分を除いた分は地方行政の財源となり、国府や郡家の官吏への俸禄となったり、各地に開かれた市場で物々交換で必要な品物に交換されたりしました。
この「租」と「公出挙」のシステムというのは、もともと在地豪族がその支配地において農民たちから収穫された稲のうち一定量を集めて農耕神への祭祀の際の供物とし、祭祀が終わった後はその稲を種籾や夏場の繋ぎの食料として農民に貸し付けていたという、古来から続いていた一種の社会保障制度を、律令制が施行されて在地豪族が郡司となって律令政府の地方官となったのに伴って、律令制の体裁をつけて租税システムとして制度化したものでした。
従来の在地豪族がそのまま郡司になり、従来のその地の農民たちがそのまま郡司の治める郡内の戸口となったわけで、同じように収穫稲の一部を同じ農民が同じ豪族に対して納めて、同じように豪族から農民に稲が貸し出されるわけですから、それぞれの郡内においては実質的には行われていることは律令制施行前と施行後とでそれほど大差は無かったということになります。ただ、律令制施行前には稲の貸し出しは強制ではなかったであろうし、その利率も5割のような高率ではなかったと思われ、農民への租税負担は増えたのであろうと思われます。

「租」として徴収された稲が地方行政機関、つまり国府や郡家の財源とされたのに対して、中央政府の財源として徴収されたのが「調」と「庸」でした。シナ律令制における「調」は繊維製品の物納で、「庸」は労役義務を免れるために繊維製品を物納することでしたが、日本型律令制においてもほぼ同じような内容のものでありました。
大宝律令に規定された「調」も「庸」も繊維製品の貢納で、成人男子に課されたものでしたが、その意味合いや用途はそれぞれ違っていました。「調」はもともとは在地豪族から大和朝廷に対して地域の特産物などを貢納していた風習に由来しており、それを豪族単位ではなく人民の個人単位の賦課として制度化したものです。もともと大和朝廷の財源となっていましたから、この「調」も中央政府の主な財源となり、中央政府の官人の給与などに充てられました。
古代においては絹など繊維製品は貨幣の代替物として使用されていましたから、これらの繊維製品は官人の給与の大小に応じて様々な幅に切り取られて支給されたのです。また、給与として支給されなかった繊維製品は大蔵省が保管し、都に設置された官市に放出されて中央政府にとって必要な品々に交換されたりしました。
「調」の賦課単位がもともとの豪族単位から個人単位に変わったとはいっても、その繊維製品の品目(絹や綿など)も郡単位で定められていましたし、そもそも個人が繊維の材料を調達するのは困難であったし、個人の家に繊維製品を製作する機械が設置されているわけではないので、実際には「調」を課されている人員が各郡ごとに郡司の指揮下で集まって郡家で共同作業を行って貢納する繊維製品をまとめて一括製作していたのです。また、「調」の貢納にはその製品を都まで運搬する手間や費用、食料まで含まれていたのですが、これも個人単位では不可能で、郡司の指揮の下で郡内の課税対象者から選抜されたメンバーでキャラバン隊を組んでその必要経費や食料を課税対象者で出し合って都まで貢納の旅に出たのです。つまり実質的には郡司を頂点とする在地共同体によって「調」は担われていたのであり、もともとの在地豪族による朝廷への貢納という形とほとんど変わっていなかったのです。ただ、賦課単位が人民レベルにまで拡大されたことによってその規模が大規模化し、よりシステマチックになっていたといえます。その理由は、律令国家の中央政府がかつての大和朝廷よりも何段階も大きなものであり、その必要とする財源も何倍にも膨れ上がっていたからでした。それは次の「庸」の場合も同じ事情であったということになります。

「庸」の場合は本来は都に上って年間10日の労役を課されるというもので、畿内においては実際にこの労役がそのまま課されていたのですが、畿外においてはその労役を免除してその代わりに布など繊維製品を都へ納入することが課されました。ただ年間10日の労役というのはあまりに短期間であり、実質的な意味はほとんど無く、最初から免除して代わりに繊維製品を貢納させることが前提となっていたと思われます。
中央政府が真に必要としていた労役は「庸」の短期間の労役ではなく、「雇役」という名の労役で、これは各国から国司が編成して都へ連れてくる労働派遣で、都における土木建設などに従事しました。一応はこれは無償の労役ではなく中央政府による雇用であり、給与や給食が支給され、上限は50日とされましたが、労役ではなくあくまで雇用ですから再雇用ということもあり、相当長期間に及ぶものもありました。
この都における「雇役」に従事する雇役民に中央政府が支給する給与や給食の財源となったのが、「庸」として畿外の各地から納入された繊維製品であったのです。もともと「庸」の起源は、かつて各地の豪族が大和朝廷に「伴」として労働力を提供した際に、その人員の食料をその「伴」の出身地の共同体が負担したという風習から発展したものであり、その伝統を受け継いで、地方から都へ上った労働者の給与の財源という位置づけになったのです。
「庸」も個人単位で賦課されていましたが、「調」と同様に実質的には郡司を頂点とする在地共同体によってその貢納品の製作から運搬まで担われていました。そして都へ運ばれて中央政府に納入された「庸」の繊維製品はそれぞれ所定の幅に切り取られて雇役民の給与として支払われたり、都の官市に放出されて食料品と交換されて雇役民の給食となったりしました。また、「庸」は雇役民の給与や給食に使われるだけではなく、衛士や釆女の給与や給食の財源としても使われました。
つまり、「雇役」で多くの人民を長期間雇用して都で多大な労働をさせたとしても、その支払う給与などの財源は、もともとそれらの人民から徴収した「庸」から賄われているわけで、中央政府としてはそれほど負担になるわけではないのです。だいたい「雇役」の給与など大して多いわけでもなく、そもそも雇用であるとはいっても人民には「雇役」を断る自由があるわけではなく、実質的には強制労働なのであり、人民の負担は大きかったといえるでしょう。後の平城京の造営や大仏建立なども多くはこうした「雇役」によるものであったのです。
更に人民には「雑徭」という年間60日を上限とした労役も課されており、これは「雇役」とは違い無償の正真正銘の労役であり、給与など貰えませんでした。「雇役」が国司によって組織されたのに対して、「雑徭」は郡司によって郡内の成人男性で組織され、これは都に上っての労働ではなく、それぞれの郡の属する国の領域内での労働に従事しました。その内容は、道路や水利施設や役所の造営などの土木工事、中央への貢進物の生産、行幸や国司の国内視察に対する奉仕などでした。
ただ畿内の人民の「雑徭」の場合は都での労働に従事する場合もあり、畿内の人民の場合は「庸」として都での年間10日の労役も課されますから、「雑徭」の分と「庸」の分とを合わせた日数の労役を課されるということになりました。

こうした労役の他、人民には兵役も課されていました。そもそも律令国家建設の最大の動機が、唐と対抗可能な強国を目指すことであったわけですから、軍事力の充実は律令国家建設において欠かすことの出来ない要素でした。
成人男子は1戸につき1人が兵士として徴発されて各国に配置された軍団に配属され、それぞれの兵士は交代制で勤務してトータルで年間30日ほどずつ各国内の治安維持や、訓練、軍事施設や兵器の保守管理、災害時の土木工事の人夫などを行います。勤務時の食料や武器などは兵士個人の自己負担になっており、もちろん無報酬ですから、人民にとってはこれも大きな負担となっていました。
各国に配置された軍団の編成は大和朝廷時代の在地有力豪族であった国造の軍の編成がベースとなっており、この律令制の各国の軍団の長官もそれぞれの国の在地の有力豪族が任命されていました。つまり実質的にはほとんど旧来の国造軍を引き継いだものであったのです。しかしそれは平時のことであって、中央政府が侵略や反乱に対処したり、外征の動員を発したりした非常時においては、各国の軍団は中央政府によって任命された大将軍や副将軍の指揮下に編入されて動かされることになります。
つまり平時においては旧来の在地豪族の軍団を引き継いだような感じで軍政の指揮系統下にあるのですが、非常時になると新しい律令国家独自の軍令の指揮系統下に組み込まれるというような、新旧2種類の指揮系統を使い分けるというのが律令制軍団の特徴であったといえます。そして平時においても在地の軍政的な指揮系統から脱却して非常時の軍令的な指揮系統下に置かれていた特殊な事例として、都へ派遣されて宮殿や京域を警備したり労働に従事したりする衛士や、九州に派遣されて日本の西辺の防備にあたる防人などのような兵役の形態があったというわけなのです。
このような新旧2種類の支配体制が並存する形というのは律令制を維持する上で重要とされた全国を結ぶ交通システムである「駅伝制」においても見られた特徴でした。「駅伝制」は「伝馬の制度」と「駅馬の制度」から成ります。律令制以前の在地豪族の拠点同士を結ぶ交通路を発展させて郡家ごとに配置された馬を交通手段として用いるものが「伝馬の制度」で、これは国司の赴任時や中央・諸国間の一般的連絡など、平時の連絡交通手段として使われました。一方、新たに設置した七道における駅家に駅馬を配置して、緊急連絡時にそれらの駅馬を乗り継いだのが「駅馬の制度」で、これは非常時の連絡交通手段として使われました。

こうして見てみると、大宝律令によってまとめられた7世紀末の地方支配体制というものは、地方の庶民にとっての日常的な部分で機能する「在地首長層と人民との間の旧来の支配関係」の上に、地方の庶民にとっては非日常的な部分で機能する「中央政府と在地首長層との間の新たな支配関係」を被せた、二重の支配体制によって構成されていたといえます。前者を動かしていた拠点が「国」や「郡」のような地方行政機関で、後者を動かしていたのが藤原京に存在した中央政府でした。
地方行政機関を支えていた賦課が「租」や「公出挙」、「雑徭」、「軍団における通常兵役」などであり、中央政府を支えていた賦課が「調」や「庸」、「雇役」、「衛士や防人など非常時的な兵士の運用」であったのです。前者は律令国家の建設以前から存在したシステムを基本的にそのまま援用したものであり、後者が律令国家建設時に従来存在したシステムを適用範囲を人民レベルに広げるなど大規模化して新たに解釈し直して成立したものであり、後者、すなわち中央政府を支えるシステムの構築こそが律令国家建設の核となる部分であり、その本来の目的であったといえます。
つまり律令国家というものは、それ以前は存在しなかった強大な中央政府という新たな行政機関を維持していくためのシステムということになるのですが、その財源となる「調」にしても「庸」にしても、郡司を中心とした在地共同体単位で調達され運搬されて初めて中央政府にもたらされるのであり、また中央政府を支える労働力を提供する「雇役」や「衛士」にしても、国司によって引率されて各地方からやって来るのですが在地においては郡司によって徴発されるのであるし、そもそもその財源も「庸」であるし、都や中央政府を守る軍事力も各地の「軍団」に兵力を依存するのであり、その「軍団」は在地豪族の長官によって管理されていたのであり、つまるところ7世紀末の律令国家というものは在地首長層、つまり郡司層が存在して初めて機能する国家体制であったということになります。そしてその郡司層を支えていたのが「在地首長層と人民との間の旧来の支配関係」であり、それを支えていたのが「租」や「公出挙」、「雑徭」、「軍団における通常兵役」などであったわけです。
つまりこの7世紀末の時代は律令国家文明の形成期後期であり、なおかつ王権国家文明の衰退期後期でもあり、王権国家文明の時代に培われた在地豪族と人民の間の支配関係という財産が新しい律令国家文明の建設において有効活用され、新しい文明の伝統的社会における普及力を高める作用を果たしていくことになるのです。
しかし同時に、これに続く8世紀という時代は、こうした在地社会と律令国家とがぶつかり合い鬩ぎ合っていく時代でもあり、律令国家においては、郡司層による支配を徐々に弱めていき国司による在地の直接支配の強化が目標として掲げられることになるのです。それはつまり国司を通じて中央政府による統制を強めていこうという方向性であったのです。そして、このような二重の支配体制を支えることになった人民にかかる負担は、以前に比べると飛躍的に過酷なものとなり、この後、人民が疲弊していくことになったのは当然であるといえるでしょう。
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この記事に対するコメント

指摘された二重構造は我国のいたるところにある。私の住む町は天領であった。明治の時は村で地形的には一つだが4つ村があった。その区分は何によるかわからないが、たぶん川だろう。昭和の始めに合併して一つの村になり、それが終戦後10年して同じようにして出来た隣接する村が合併して市になり、市会議員が出来た。
 (一生懸命市民と言う意識を持たせるべくするが、実際の行動となると、昭和の村意識や、江戸の村意識が当人はそう自覚していないが出てくる。)
そのとき江戸時代の村を管轄する区長という役職があり、無報酬で市の行政の一端を担っている。何か頼む時、区長に町内会長から頼む。市会議員からは、どのようか知らないがルートはあるみたいだが、我々は区長からである。
 このような現象は考えるといたるところにあり、それが複雑に絡み合っている世界が日本だと私は思っている。そこを間違えると人生棒に振る。用心すべし。

【2007/10/07 19:10】 URL | 繁敏 #OXEB0yUU [ 編集]



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