KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その314 日本語の成立
ところで、こうした在地の行政機関による統治と、中央政府による統治が二重に存在し、これらが密接に関与し合い、更に人民に対する統治が複雑かつシステマチックになっていったという政治体制の変化は、言語の変化ももたらすようになっていきました。何故なら、政治というものは言葉によって行われるものであり、政治の複雑化は言葉の複雑化、政治言語化に直結するからです。
律令国家建設以前は農民たちは自分の土地や豪族から借りた土地で黙々と農作業を行い、生まれた村から死ぬまで一歩も出ることもなく、村落の定期的な祝祭の場で素朴に神に祈りや感謝を捧げたり、飲食し談笑していれば事足りていたのであり、そうした素朴な日常生活を送るのに必要な素朴な大和言葉だけ話していればよかったのです。それゆえ、大和言葉は各地でバラバラな方言であり、語彙も少なく素朴な言い回しばかりで、文字化する必要も無かったのです。
ところが7世紀の終盤に律令国家が建設されて、地域共同体においては「戸籍」や「歴名」が作成されるようになり、それを基にして口分田が均等に支給されるようになり、くまなく「租」が徴収され、それが「公出挙」として郡司から貸し出され、それを農民が郡司に返済したりするようになり、それらの営みは律令国家の事業として遣り取りされ、記録に残され、地域共同体においてもこれらの事業について確認作業が反復され、議論が戦わされ、情報が遣り取りされるようになりました。
また「調」や「庸」の貢納物を製作したり運搬するためのチームが地域共同体で郡司の指揮のもとで編成され、その会合が行われたり、諸連絡、諸確認が行き交うようになりました。また、農民たちは「雑徭」や「雇役」「兵役」に駆り出されるようになり、農村共同体を離れて、農作業以外の未知の作業を律令国家から命じられて、それらを見知らぬ仲間と共に行うという機会も増えていきました。また、地域社会においても市場の普及によって様々な階層の人々との交流も増えていきました。つまり在地共同体の社会は律令国家建設によって一気に複雑化するようになり、分かりやすく言えば面倒事が飛躍的に増えることになったのです。
このような地域社会の人民たちを取り巻く環境の激変は、彼らのコミュニケーション空間を拡大し、そこには律令国家の官吏をはじめとした様々な種類の人間が加わるようになり、そのコミュニケーションの内容も、単純農作業に関する情報に限定されることはなく、組織的、社会的、政治的に複雑化していく情報の遣り取りが増えていったのです。そうしたコミュニケーションの量の増大と質における高度化は、彼らの使用する大和言葉の従来の素朴な語彙だけではコミュニケーションが追いつかなくなるという事態を招きました。
彼らの言語空間に新たに入り込んできた律令国家に関連する政治的語彙や社会的語彙はシナから輸入されたものですからシナ語であったのですが、中央政府以外の地方の在地共同体においてはシナ語など馴染の無いものでしたから、それらのシナ語の語彙を適当な大和言葉に翻訳したり、適当な照応する大和言葉が無ければ、似たようなニュアンスの大和言葉を変形させたり合成したりして新たな大和言葉の語彙を創造、造語して、大和言葉の語彙を増やして、律令国家に関連した政治的文意や社会的文意を大和言葉の文脈でなんとか表現できるようにしたのです。こうして素朴な大和言葉が飛躍的にその語彙を増やして発展して、律令国家の在地共同体におけるコミュニケーション用語としての「日本語」が誕生することになったのです。

もともと倭国の大和朝廷においてはシナ語の倭国方言、すなわち倭製シナ語が公用語として使われていました。その理由としては、シナ大陸や朝鮮半島の華僑との交易において便利であったということと、シナ語が東アジアで唯一の文字であった漢字で最も書き表しやすい言語であったからでした。
しかし、672年の壬申の乱以降、新たに誕生した日本国はシナ大陸とは絶縁することになり、シナ大陸との交易はそれほど重要ではなくなりました。実際は702年にはシナ大陸との交流は再開したのですが、7世紀終盤の時点では、シナとの絶縁状態はもっと長期化する可能性は十分あったのであり、日本国の人民は多くはその覚悟で生きていたのですから、倭製シナ語を公用語として使い続けることの意義は低くなっていたといえます。
それと対照的に、680年代になって律令国家の建設が急ピッチで進められるにつれて、郡司を頂点とした在地共同体が機能してこそ初めて正常に機能するという日本型律令国家の特性が明らかとなり、各地の在地共同体の重要性は増していきました。その在地共同体において律令国家化が進展するにつれてコミュニケーション用語として発展してきたのが「日本語」であったのです。
各地の在地共同体をまとめて統治することを命題とする中央政府においても、在地共同体との遣り取りには「日本語」を使用するようになり、在地共同体から都にやって来て中央政府に奉仕するようになった雇役民などとのコミュニケーションにも「日本語」を使うようになりました。また都に出てきた各地の雇役民や衛士などの間でのコミュニケーションの進展によって、各地の「日本語」の間の差異が解消されていって、都において話される一種の共通語としての「日本語」も成立するようになりました。こういった状況をふまえて、とうとう、7世紀終盤のいつしか中央政府においても「日本語」が公用語として使われるようになり、その都の「日本語」が今度は各地の在地共同体に拡散していったのでした。

ただ、「日本語」には文字がありませんでしたから、当初は中央政府内部の行政上の文書などは相変わらず漢文で書かれてシナ語で読まれていたようです。しかし中央政府と各地の在地共同体との間での遣り取りで、例えば貢納物につける荷札など、文字化した情報が必要な場合もあり、また在地共同体内部でも文字を書いて情報伝達を行う必要が生じることもあり、日本語を文字で表記する工夫も早くから行われていたようです。
そうはいってもこの当時は東アジアにおいては文字は漢字しか存在しないわけですから、日本語の表記もとりあえず漢字で行うしかないのであって、差し当たり最初に行われていたのは「音仮名」という手法で、例えば「イカ」という日本語を表記するのに「伊加」という漢字をあてるというような手法でした。これは漢字の「伊」がシナ語で読んだ場合「イ」と発音し、漢字の「加」がシナ語で読んだ場合「カ」と発音することから、「伊」「加」と続けてシナ語で発音した場合「イ」「カ」という音になり、それが足が10本あって墨を吐く魚介類を日本語で表現した「イカ」という音と偶然ほぼ同じになるので、日本語の「イカ」を文字表記する際に漢字の「伊」「加」を続けて書いて「伊加」と表記したというものです。
漢字というものは表意文字であり、それをどのような発音で読むのかに本質的な意味というものはなく、文字の形そのものに本質的な意味が込められているのです。例えば「伊」という漢字を「イ」という音で読むことにはほとんど意味というものはなく、「伊」の本質的な意味はその文字の形に込められているのです。そして「伊」という漢字にも「加」という漢字にも、足が10本あって墨を吐く魚介類を表す意味は全く含まれていないのであり、「伊加」という漢字を「イカ」という足が10本あって墨を吐く魚介類に結びつけるという発想は、それは単に「伊加」という漢字列をシナ語発音で読んだ場合の音声にのみ着目した、非常に特殊な漢字利用法であるといえるでしょう。このような特殊な漢字利用法を「音仮名」といいます。

これとは別に、漢字の持つ本質的な意味のほうに着目した応用法もありました。例えば「山」という漢字はシナ語で発音した場合「サン」という音になるのですが、そのような音そのものには大した意味というものはなく、「山」という漢字の本質的な意味は「平地よりも高く隆起した地形部分」というような意味であり、そもそも「山」という文字の形自体がそのような意味を表現した三角錐の平面図のような文字形になっているのです。
もちろん「山」という漢字の持つそうした本質的な意味は、その読み音と共に日本の知識人にも伝わっていたと思われます。ところが日本にももちろん「平地よりも高く隆起した地形部分」という事物は存在していたのであり、その事物は古来より「ヤマ」と呼ばれていました。そこで「サン」=「山」=「平地よりも高く隆起した地形部分」という等式関係と、「平地よりも高く隆起した地形部分」=「ヤマ」という2つの等式関係が成り立つのですが、この前者の等式はシナ語世界における等式関係であり、後者の等式は日本語世界における等式関係ですから、この2つの等式は本来はリンクすることはないのです。しかし7世紀終盤の日本におきてはこの2つの等式をリンクさせるという思想的な飛躍が行われ、「山」=「平地よりも高く隆起した地形部分」=「ヤマ」という等式が成立し、「山」=「ヤマ」となり、「山」を「ヤマ」とも読むようになったのです。これが「訓読み」の発生です。
ここで「山」という分かりやすい例を挙げましたが、この「訓読み」は古来から存在した大和言葉、例えば「ヤマ」「カワ」などの自然物、「ツル」「カモ」「ウメ」などの動植物、「タマ」「ナサケ」などのような精神や感情などを表現する大和言葉に、それぞれその同じ意味を持つ漢字、すなわち「山」「川」「鶴」「鴨」「梅」「魂」「情」などをあてて、それらの本来のシナ語発音とは別に、「山=ヤマ」「川=カワ」「鶴=ツル」「鴨=カモ」「梅=ウメ」「魂=タマ」「情=ナサケ」という読み方を施すことになったのです。そして「ヤマ」について表記する際に「山」という漢字を書くようになったわけです。
この「訓読み」は上記のような名詞だけでなく、大和言葉に多く存在した動詞や形容詞などにも応用され、例えば「対象物を視覚に捉える」という意味の大和言葉である「ミツ」の語幹部分である「ミ」と、同じ意味を持つ漢字である「見」の等式関係が成立し、「見」と書いて「ミ」と「訓読み」するようになったのです。

このように古来から存在する大和言葉を用いて漢字の「訓読み」を行うというだけでなく、7世紀終盤に律令国家建設に際して新たに造語された政治的、社会的な概念を表す日本語の語彙については、もともとその原語はシナ語であり、その同じような意味の大和言葉的な語彙を新たに作ったものなのですから、最初から照応するシナ語というものは存在していたのであり、そのシナ語は表記する漢字も伴っていたわけですから、新たに作られた日本語の語彙には照応する漢字というものは確実に存在し、その漢字の「訓読み」としてその新たな日本語の読みが使われ、その語彙を表記する際にはその漢字が使われたのでした。例えば新たに使われるようになった政治的用語としての「コオリ」を表記する際には「郡」という漢字があてられ、「サト」を表記する際には「里」という漢字があてられました。言い換えれば、「郡」という漢字の訓読みは「コオリ」であり、「里」という漢字の訓読みは「サト」であるということになります。
このように新しいシナ語が入ってくると、新たにそれと同じ意味を表す日本語の語彙を創り出し、そのシナ語を表記する漢字の訓読みにその新たな日本語をあてるという営為は、新しいシナ語の概念が入ってくるたびにこの後もずっと繰り返されることになり、そのたびに日本語の語彙を増やしていったのでした。特に8世紀に入ってからは遣唐使も再開されて多くのシナ語の語彙が入ってきましたから、それに照応する日本語の語彙も飛躍的に増えていったのでした。
また逆に、古来から存在する大和言葉の語彙の中には、照応するシナ語が存在しないものもあり、そういう日本語の語彙には照応する漢字が存在しないことになり、「訓読み」を使って意味を重視した表記が困難な状態になりました。その場合、また驚くべき発想の飛躍が行われ、新たに漢字を作ってしまうという手法がとられました。例えば「鰯」という漢字はシナには存在せず、日本にしか存在しない漢字です。だからこの「鰯」という漢字には「音読み」は無く、「訓読み」で「イワシ」としか読めないのです。これは、もともと日本に存在した大和言葉である「イワシ」と同じ意味を持つ漢字が存在しなかったので、「魚」ヘンに「弱」ツクリをつけて「鰯」という日本版の漢字を造語して、その「鰯」の訓読みを「イワシ」としたのです。

こうして7世紀終盤に「訓読み」が定着するようになると、今度はその応用として「訓仮名」という日本語表記手法が使われるようになっていきました。それは例えば「ミツルカモ(見つるかも)」という文節を表記するに際して「見鶴鴨」というように書くという手法です。「見」の訓読みは「ミ」であり、「鶴」の訓読みは「ツル」、「鴨」の訓読みは「カモ」であるので、その本質的意味は無視して、その訓読みの音声のみに着目して漢字を表音文字として使うというやり方で、「音仮名」の訓読みバージョンであるといえます。もうここまで来ると、シナ人が見ても全く意味不明の文となります。
このようにして7世紀末までには日本語は「音仮名」や「訓仮名」の手法を駆使して漢字から本質的な意味を剥ぎ取り、漢字を単なる音節記号として使用するという特殊な用法を用いて表記されるようになったのでした。この日本語表記方法が8世紀には日本全土で広く使われるようになり、そうした手法によって書き留められた和歌を後に9世紀初頭に編纂して世に出したものが「万葉集」であるというわけです。
まぁもちろん、この時代において文字を綴ることが出来たのは官人や知識人だけであり、一般庶民は日本語を喋ってはいましたが、それを文字にして表現することはほとんど無かったとは思われます。ただこの8世紀の時期、つまり律令国家文明の確立期と修正期において、「音仮名」や「訓仮名」のような日本語表記方法は知識人層によって広められ、定着していったのであり、その蓄積があったからこそ、9世紀前半、つまり律令国家文明の改革期であり同時に王朝国家文明の黎明期である時代に入ってから「音仮名」や「訓仮名」として表記された漢字がどんどん変形していき、そこから「平仮名」や「片仮名」が生まれていくことになるのです。
すなわち、「音仮名」や「訓仮名」として表記された単音節の漢字の草書体をさらにくずしていったものが「平仮名」で、例えば「安」の草書体が「あ」になったのであり、「以」の草書体が「い」になったのであり、「宇」の草書体が「う」になったのです。一方、「音仮名」や「訓仮名」として表記された単音節の漢字の部首などの一部分を取り出して作られたものが「片仮名」で、例えば「伊」から「イ」が生じ、「加」から「カ」が生じ、「多」から「タ」が生じたのです。しかしこの9世紀前半に定着した「平仮名」や「片仮名」は、最初からそれらだけで独立した文字体系として使われたわけではなく、漢文の補助的記号として使われていたのです。

8世紀になって日本語が本格的に公用語として定着し、同時に8世紀になってシナ大陸との交流が復活したことによって、漢文で書かれた文献が大量に日本に入ってくるようになり、それらに記してある知識体系を日本社会に早急に広めていくために漢文を日本語に翻訳する作業が必要となったのです。つまり漢文は8世紀以降の日本においてはシナ語で読むものではなく、日本語に読み下すべきものとして扱われたのであり、8世紀から9世紀にかけて漢文を日本語として読むための様々な工夫が施されるようになりました。
漢文はもともとシナ語の文を表記したものでしたから、日本語の文とは語順が違います。漢文は主語の後に述語がきて、それから目的語がくるのです。日本語の文は主語の後に目的語がきて、それから述語がきます。だから漢文をスムーズに日本語で読ませるために語順の違いを補正する記号を注釈的に漢文の文字列の横に記す習慣が8世紀に生まれるようになったのです。
ところで、そもそも漢文というのは1つ1つの漢字に非常に多くの意味を込めて綴られるものであり、それを日本語に読み下してしまった場合、漢字に多くの言葉を書き加えなければもともと込められていた意味の全てを表現することが出来なくなるのです。そこで漢文の文字列の横にその書き足しの文字列を更に注釈的に記していくようになりました。それはもちろん当初は「音仮名」や「訓仮名」の漢字で書かれていたのですが、それがあまりに煩雑であったので、9世紀に入ってから、少しでもスッキリさせるために崩したり文字の一部を省略したりするようになり、そうして「平仮名」や「片仮名」が生まれたのです。
つまり「平仮名」や「片仮名」というものは、漢文を日本語に読み下すための補助的記号の一種として9世紀初めに誕生したのであり、もともと独立した文字体系として創り出されたわけではないのです。そうして「平仮名」や「片仮名」は9世紀の漢文全盛時代を陰から支えたのであり、その漢文全盛時代の過ぎた後、10世紀前半、すなわち王朝国家文明の草創期において、漢文を日本語文として「読み下す」だけではなく、次には「書き下す」という発想の転換がなされるようになりました。
つまり、漢文を読み下しているその音のまま表記するということで、日本語の語順に漢字を並べ換えて、そのそれぞれの漢字に付属している「平仮名」や「片仮名」の補助的記号部分も含めて一連の日本語文として表記するようになったのです。
これによって「平仮名」「片仮名」は文字列の横の補助的記号から脱却し、漢字と同等の文字体系として漢字と同じ文字列内に含めて扱われるようになり、仮名文や漢字仮名混じり文、つまり現在の私達にも馴染のある日本語の文章が綴られるようになるわけです。そうした時代の始まりを告げた記念碑的書物が、905年の「古今和歌集」ということになります。

ここで重要なことは、「平仮名」や「片仮名」は漢字に代わる新たな文字体系として出現したのではなく、あくまで漢文を日本語として読み下すための補助的記号からスタートしているという点です。そうであるからこそ、「漢字仮名混じり文」という日本独特の文章形式が生まれることになったのです。
もし「平仮名」や「片仮名」が漢字や漢文とは無縁に、1つの独立した文字体系として出現していたなら、日本の文章はまるでアルファベット文やハングル文のように、全て「平仮名」あるいは「片仮名」で表記されて漢字は使用されなくなっていたか、あるいはかつての朝鮮半島のように支配層はシナ語を話しシナ語を漢文で書き、被支配層は土着語を話しハングル文を書くというような二極分化が進んだかもしれません。
日本においては、8世紀の段階から、漢文をシナ語から切り離して日本語で読み下すという言語学的に極めて稀な営みが行われるようになったために、補助的記号として「平仮名」「片仮名」を使用するという段階を経て、10世紀になって「漢字仮名混じり文」という日本語独特の定型的な文章スタイルを生み出すことになったのです。
これによって、日本においては支配層も被支配層も同じスタイルの文章を読み書きすることが可能になったのみならず、更に重要なことは、日本語が「漢字」という極めて優秀な表意文字の体系を捨てることなく、しかもそれを日本語の文字体系の一部として吸収することが可能になったということです。
つまり、「漢字仮名混じり文」という日本語の定型的スタイルが確立してしまった後は、いくらシナから漢字や漢文を輸入しても、それらは全て「漢字仮名混じり文」というスタイルの中に消化吸収されてしまうので、シナ語が日本語を駆逐するということが不可能になり、安心して大量の漢籍を日本の知識体系の中に取り入れることが出来るようになったのです。言い換えると、大量の漢字の熟語が日本語の中に入ってくるようになり、それが日本語の体系に何ら悪影響を与えることなく、漢字を大和言葉に変換することなく漢字熟語は漢字熟語のままで日本語の語彙に加えられていくことになり、日本語の語彙を豊かなものにしていったということになります。
そうした動きが盛んになってくるのは鎌倉時代あたりに宋学が入ってくるようになってからで、この頃から日本語の文章の中での漢字の占める割合が徐々に上がっていくようになり、江戸時代の儒学ブームの中でその流れは更に加速し、そして明治初期に西洋起源の外来語を日本語に翻訳する際に、それらに照応する日本語として新しい和製の漢字熟語を大量に造語したことによって更に飛躍的に漢字熟語の数が増えました。だいたい、このような芸当が出来るということ自体、漢字というものを日本語の要素の一部として完全に自分のものにしているということの証でありましょう。そうした変遷を経て、現在の日本語の文章における漢字の占める割合は約45%だといわれています。
こうした特殊な歴史を経て日本語は発展してきたのであり、その特殊な成り立ちゆえに日本語はシナ大陸から独立した日本の知識体系に中において、シナ大陸起源の知識体系を自らの中に詰め込んで日本独自の形で再構築し、シナとは別個でありながら質的にそれに匹敵し、遂には凌駕するような「知の体系」を作り上げることが可能になったのです。そうした日本語の営為の出発点となったのが、7世紀終盤の律令国家建設の時代であったのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

私は素人ですが、物の本で読んだ範囲から、万葉集の漢字表記は後に行くに従がって、一音一字となり、所謂万葉仮名が成立した。そのとき母音が8っあることを、江戸時代の契沖が発見し、その後、明治に成って、橋本進吉氏が再発見したと、私は福田恒存氏の確か私の国語教室で知った。その流れから行くと、その後ひらがなカタカナが発明されたと考えるのが妥当ではないか。
 日本語は自然発生言語と考えるよりも、自然発生後に人工語が加わっていると(この人工と言う考えは、うまく説明できない)考えるのが妥当と私は思っている。
 その原動力は明治の時西洋の言語に接して、漢語で対応して、戦後はカタカナ表記で対応したと私は思う。問題はその元になっている考えだが、よくわjから無い。
 コンプライアンスなんて判らない

【2007/10/07 12:09】 URL | 繁敏 #OXEB0yUU [ 編集]



この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック

保守大敗(4)福田康夫政権で一転,急激に高まる皇室典範改悪・女系天皇・小和田王朝の危機

お手数ですがフレームに対応していないブラウザをお使いの方はこちらへお願いします..
雅子皇太子妃殿下そして皇太子(東宮)御一家を憂う【jugem支局】【2007/10/07 19:24】






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。