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日本史についての雑文その315 大宝の遣唐使
702年に33年ぶりの遣唐使が日本から唐に向けて出発しました。大宝の遣唐使です。33年前といえば669年であり、壬申の乱より前の近江朝廷の時代です。つまり672年に始まる天武持統朝においてはシナ大陸との交流を断って、ひたすら内に篭って律令国家を建設していたのであり、それが694年の藤原京遷都と701年の大宝律令の完成によってひとまず形が整ったので、唐の辺境政策の軟化の機会をとらえて、日本独自の律令国家の成立を誇示して、念願のシナとの対等外交関係の樹立を実現することを最重要の使命として大宝の遣唐使が送られることになったのでした。
この大宝の遣唐使を送り出した後、ほどなくして702年の暮れには持統上皇が57歳にして亡くなりました。7世紀終盤の律令国家建設事業の常に中核にいた女帝は、その事業が一段落して、その集大成ともいえる大宝の遣唐使を送り出したことでその使命を終えたのでしょう。この持統の死をもって時代は変わり目を迎え、律令国家文明はその形成期から確立期へとステージを換えていきます。

厳密にはこの時点でのシナ大陸の王朝は唐ではなく「周」といいまして、690年に唐の三代皇帝の高宗の皇后であった武后が帝位を簒奪して武則天と名乗り開いた王朝でした。この周王朝が武則天が没する705年まで続き、武則天の死後、再び唐王朝の支配が復活するのですが、大宝の遣唐使がシナに派遣されたのが丁度この周王朝の末期ということになります。
いや、丁度というよりは、周王朝末期であったからこそ大宝の遣唐使が派遣されることになったともいえます。武則天は極端な独裁政治を行いましたが、その独裁を維持するために反対勢力の芽を摘むことに精力を集中し、もともと唐の政権基盤となっていた鮮卑人とシナ人の豪族勢力を徹底的に叩きました。そうすると豪族精力の軍事力に基盤を置いていた府兵制が弱体化し、辺境への押さえが効かなくなり、しかも周の内政も混乱したので地方で反乱が頻発し、高句麗を滅ぼして以降は唐の領土となっていた満州地方でも契丹が反乱を起こしたり渤海国が独立したりしました。
そうした満州地方の不穏な情勢に周は辺境軍事力不足のために独力で対処が困難になり、長年敵対していた新羅と699年に国交を回復して関係改善に努めるようになりました。辺境の反乱に対処するために新羅の軍事力を借りることを期待してのことで、これはつまり、周の対外姿勢が軟弱に転じたということです。新羅と同盟して唐(周)と対峙してきた日本の朝廷でも、そういう周の対外軟弱の空気を感じとって、そこに乗じて有利な形で国交回復をしてしまおうという計算が働いたものと思われます。結果としてその目論見は成功しました。

大宝の遣唐使は周の宮廷においてはすこぶる好評であったようで、日本という新興国家は好意的に受け入れられ、その律令国家化はそれなりに高い評価を得たようです。しかしそこは百戦錬磨のシナ外交ですから素直に受け取るべきではなく、あくまで不穏な満州の情勢を鑑みて新羅や日本は手なずけておきたいという周側の計算があっての歓待であったと考えるべきでしょう。中華主義の権化であるシナ帝国の官吏が本心から東夷の島国の文明化を評価などするはずがないのです。
大宝の遣唐使と周王朝との話し合いの結果、周は日本を冊封体制の外にある国として遇するということになりました。冊封体制というのはシナ帝国の皇帝を地上唯一の支配者として、周辺の国々の支配者はシナ皇帝から王に任じられるなど、官爵を授けられてその地域の支配を公認され、シナ皇帝の臣下となるというものでした。もちろんこれは形式的なものでしたが、とにかく形式的にはシナ皇帝が各国の真の支配者ということになりますから、国号もシナ皇帝が決めたものを名乗ることになりますし、年号もシナの年号をそのまま使います。
ところが日本の場合は天皇は「日本国王」という称号をシナ皇帝から賜るということはなく勝手に「天皇」と名乗っていたのであり、国号の「日本」も年号の「大宝」も自国で決めたものでした。そういう意味で日本はシナ帝国の臣下ではなく、冊封体制に組み込まれていないことになります。確かに遣唐使は朝貢使節であったのですが、朝貢というのは実態は単なる友好使節であり、シナ側が勝手に「臣下の礼を示しに来た」というふうに国内向けに宣伝しているだけのことであり、朝貢はしても官爵さえ受けなければ、冊封体制に組み込まれたことにはならず、シナ皇帝の臣下ということにはならないのです。
臣下でないということは対等な関係ということになります。日本側としてはそのように解釈しました。しかしシナ帝国は基本的に対等な外交関係というものを認めませんから、シナ帝国の支配も及ばないような絶域にある辺境の国として日本を扱いました。つまり、あくまでシナ皇帝のほうが上位ではあるのですが「あまりにも遠くの国なので出仕も大変であろう。だから臣下になるには及ばない」と温情をかけたということになります。

まぁこういう場合はお互いがそれぞれ自分の都合のいいように解釈できる余地を残したということで、玉虫色の決着というか、大人の解決というべきか、そういう決着法が良いか悪いかはともかくとして、日本が東アジアに存在するシナの周辺諸国の中ではかなり特異な扱いを受けることになったのは確かなことといえます。具体的には「朝貢はするが官爵は受けない」という例外的扱いであったということになります。周側の言い分にしても、あくまで格として周のほうを上位とはしていますが、とにかく「日本にはシナ帝国の支配権は及ばない」ということは公的に認めていることになります。
日本側としてはそうした例外的扱いを受けることになった理由は日本が一人前の立派な文明国であると認められたからだと解釈しました。つまり7世紀の終盤を費やした律令国家建設は大成功であったと、少なくとも公的には喜んだわけです。しかしシナ側が日本をそのような例外的扱いをした理由は、辺境軍事力が弱体化する中で東方の辺境で好んで揉め事を起こしたくなかったからであり、日本が朝貢はするが官爵を求めなかったり、国号や年号を押し付けられることを拒んだりするのなら、それはそれで別にいいではないかと、言わば日本のあまりの頑固さに対して周のほうが折れたというのが実態であったのではないでしょうか。それだけ周の辺境政策が軟弱化していたということなのでしょう。
ただ、それはシナ帝国の外交の基本原則を逸脱した例外的扱いであったので、他国への示しのためにも、あまりそういう例外的扱いが周知されるのは望ましいことではありません。だから周王朝は大宝の遣唐使に向かって「今後は20年に1度、使者を送ってくればよろしい」と申し渡したのです。これは表向きには「日本はあまりに遠い絶域の国なのであるし、別に皇帝の臣下というわけでもないので、律儀に毎年使者を送ってくるには及ばない」という温情的ニュアンスであったのですが、本音では「あくまで例外的存在の日本の者にはあまり大っぴらにシナ大陸でウロチョロして欲しくない」というところであったのでしょう。

しかし、こうした玉虫色の決着も、もし日本が完全なる対等外交を望んでいたとしたら、周側としてもなかなか簡単には応じられなかったのではないでしょうか。つまり日本側がシナ皇帝に対して日本の君主のことを「天皇」と呼ぶように求めていたとしたら、シナ皇帝のみを地上最高の君主であるとする周側としては、「皇帝」と同格の称号である「天皇」を絶域の島国が名乗ることは許容できず、交渉は決裂していた可能性が高いでしょう。
日本から周へ宛てられた国書では日本の君主のことは「天皇」ではなく「主明楽美御徳」と表記してありました。これは「すめらみこと」と読みます。いや、というより、「すめらみこと」という天武時代に新たに造語された特殊な宮廷語としての日本語の音仮名表記が「主明楽美御徳」であり、訓仮名表記が「天皇」であったのであり、「主明楽美御徳」と「天皇」は同じ「すめらみこと」を表す言葉(同音同義異表記語?)だったのです。
だから日本側としてはそれは表記法の違いに過ぎないわけですから、「天皇」と書こうが「主明楽美御徳」と書こうが、どちらにしても「すめらみこと(天皇)」を意味していると国内的には主張することが出来るのであり、シナ帝国相手には音仮名表記の「天皇」という文字が刺激が強いということは承知していますから、あえて訓仮名表記の「主明楽美御徳」のほうを使用して余計なトラブルを避けようとしたのです。一方、国内や新羅など相手には「天皇」と書いて「すめらみこと」と読ませています。
こうした一種の二枚舌を使って玉虫色の決着を図ることが出来るほど日本の外交手腕が成熟したのだと考えることも出来ますが、それにしてもシナ帝国と日本の間の外交というものはこうした玉虫色でしか決着することが出来ないほど、根本的に相容れないものがあると考えざるを得ません。その最大の原因となっているのは、シナ帝国がこだわる一種の差別主義的世界観である中華思想であるといえます。ただ、これは当時の東アジア世界においては一種の普遍的な秩序思想であり、これに取って代わる世界観というものも存在しなかった以上、各国にとっては抵抗なく受け入れられたスタンダードでもあったのであり、それを殊更に拒否する日本のほうが東アジアでは特異な存在であったのです。それはやはり、ここまで述べてきた日本列島の特殊な地理的条件や、それに起因する特殊な思想形成、歴史の展開によって、そうした日本の特異性は培われてきたといえるでしょう。

さて「20年に1度来ればいい」(本音は「あんまり来るな」)と言われた遣唐使ですが、実際はこの702年の大宝の遣唐使の後、717年、733年、752年というように、20年に1度という割合よりは頻繁に派遣されています。本当はもっと行きたかったのですが唐に迷惑がられてこういうペースになったのかもしれません。
そもそも日本がこれほど周王朝や唐王朝に煙たがられながらも国交回復をしたかった理由は、やはりシナ大陸の最新情報や文物が欲しかったからでしょう。唐との国交断絶期間中に書物の情報から色々と想像を働かせて律令国家を建設してきたわけですが、様々な疑問点も生じてきて、それを解決するためには何としても生のシナ大陸の情報が必要であったのです。
そこで大宝の遣唐使も現実の周(唐)の本場の律令国家としての姿を熱心に見聞したと思われます。すると、日本で建設した律令国家とは相違点がかなりありました。まず、唐の都であった長安城は(この時点では武則天によって簒奪されて周の都となっていたが)藤原京と同じように坊城制の京域(市街地)を備えた碁盤目状の都市であったのですが、藤原京と大きく違っていたのは、まずその規模が4倍ほど大きかったこと、周囲を高い城壁で囲まれていたこと、そして宮殿部分が長安城の北端中央に存在していたことが挙げられます。
規模が違うのは国力が違うのだから仕方ないのであり、城壁があるのもシナ大陸が物騒であるというだけのことで、別に日本が見習うべき部分ではありません。ただ、宮殿である藤原宮を京域の中央に配置する藤原京と宮城を北端中央に配置する長安城との違いは明白でした。藤原京が宮殿を中央としたのはシナの古典である「周礼」を参考にしたからなのですが、当のシナ大陸ではとっくにそんな考え方は時代遅れになっており、天の極北の中心点に位置する北極星になぞらえられた皇帝は北に位置して南に向かって正対するというのが正しい在り方であるとされ、それゆえ、長安城においては北端に皇帝の住む宮城があり、その南側に京域が存在すべきとされていたのです。
これは確かに思想としては筋が通っておりますし、本場のトレンドがそのようであるのならば後発の日本としてはそれに見習ったほうがいいということになります。ところがこれは藤原京を改造して宮殿を北端に移築して解決する問題ではありませんでした。何故なら、長安城の場合はもともと宮城を北端に持ってくることを前提に作られていたため、皇帝の在所たる宮城部分のほうが他の京域部分よりも高い位置に来るように都市設計が為されており、しかも皇帝が南へ向いた場合にその視線を遮る山地が無いように立地も計算されていたのでした。つまり長安城は北に山があり南に平地が広がる立地に作られ、皇帝が広く都を見下ろすように作られていたのでした。
それに比べて藤原京は奈良盆地の南端にあったため、もし北端部に宮殿を設けて天皇が南へ正対した場合、天皇の在所たる宮殿は他の京域から見下ろされる位置となり、しかも天皇の視線はすぐに奈良盆地南部の山々に遮られて窮屈極まりないものとなります。つまり藤原京の立地そのものがシナ大陸の最新の都城思想にはそぐわないのです。もし長安城を模した新しい都城を築くとしたならば、その立地から根本的に考え直さなければならないのです。

また律令法の運用についても、日本では大宝律令の完成によって律令法も完成したと考えられていたのですが、実際のシナ大陸での律令法の世界では、律令は律令法の理念を表す骨格に過ぎず、さらに補足法である「格」、施行細則である「式」も合わせて「律令格式」のセットで律令法というものは運用され、「格」と「式」の改変によって現実に合わせて細かに柔軟に対応するようになっていたのでした。それが日本の場合は理念先行で「律令」のほうのみに偏重していたため、現実的な問題への対処が困難になっていたのです。こうして大宝の遣唐使によって律令では対応し切れていない面に対応する律令規定外の規定を整備していく必要が認識されたのでした。
このように都城にしても律令法にしても、やはり唐との国交断絶による情報不足の弊害として、日本で建設された律令国家体制にはどうも机上の空論的で現実から遊離した部分も強く、それを強く認識させられたという意味で大宝の遣唐使の意義は大きく、この大宝の遣唐使が704年に帰国してそうした問題点について報告を行ったことによって、日本においては律令国家の完成に向けて新たなステップへと進むことになるのです。
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この記事に対するコメント

東アジアは文字として漢字を使用しているが、同じ文字で、異なる意味を持っている。之は明治の時李氏朝鮮との国交を結ぶ時、大きな問題となり、征韓論へと進む要因になった。之は小西行長が和平を結ぶ時も確か問題になったのではと記憶する。中共と外交交渉をするとき、之は大きな問題であるということを、我々は自覚しなければならない。
 前回の漢字かな混じり文は、国内ではよいが、対中共に対しては全文ひらがなにすることが、我国が史那に対して独立であることを史那に示すにはよいが、私の知る限りではそれを主張した外務省の人はいない。この点韓国はハングルを使用しているから良いが、判ってしているのではないからだめだろう。
 いずれにしても訓読みは史那には無い。そのことを史那がどのように見るかと言うことを我々は意識する必要がある
 この現象は我国のあらゆる所に見られると私は思っている。

【2007/10/12 20:13】 URL | 繁敏 #OXEB0yUU [ 編集]



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