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日本史についての雑文その316 平城京遷都
大宝の遣唐使が様々な課題を抱えて帰国してきた704年の日本において朝廷の太政官の実権を握っていたのは藤原不比等でした。不比等は若い頃から持統天皇の側近として重用され、697年の持統の孫の文武天皇の即位に力を尽くし、その夫人として娘の宮子を入内させ、文武の後見役として政治の表舞台に出てくるようになり、また701年に完成した大宝律令の編纂に功績を上げ、同年に大納言に昇進し、また同年に娘の宮子が文武天皇との間に首皇子を産み、不比等は次代の天皇の最有力候補の皇子の外祖父ともなり、702年に文武天皇と共治体制をとっていた持統上皇が没した後は、44歳となった不比等が文武天皇を補佐して国政の中心に立つことになったのでした。
そうしたところに704年、元号が「大宝」から変わり「慶雲」となった後、大宝の遣唐使が帰朝してきて大宝律令や藤原京などの日本型律令制の問題点について報告が行われ、それをふまえて不比等らを中心に律令国家の改造が行われていくことになります。

まずは705年ぐらいから大宝律令施行後に生じた不具合を是正するための細かな施策が実施されていき、それらと同時並行で706年ぐらいから藤原京からの遷都が構想されるようになります。藤原京は694年に飛鳥宮から遷都されたばかりで、しかもその造営には多大な経費と時間、手間を費やしたわけですから、当初は出来るだけ経費節減のために、かつて大化の改新時に使用されていた難波宮の施設を再利用する構想が有力であったようです。
ところが、707年に文武天皇が24歳の若さで急死してしまったことにより状況が変わってきます。この時点で文武の子の首皇子はまだ6歳で、元服もしておらず皇太子にもなっていませんでした。
そもそもこの時代の皇位の正統性は「天智天皇の血統を濃く継承していること」が第一条件で、なおかつ「天武天皇の政治的系譜を受け継ぐ者であること」が必要条件でありました。そういう意味で文武は、天智の娘である阿陪皇女を母とし、天武の息子である草壁皇子を父としており、しかも父である草壁皇子は天武と持統(天智の娘)の間に産まれた子であり、文武は天智の血を濃く受け継いでいたのであり、その天智の娘である持統が天武の政策を継承し、それを受け継ぐ者を孫の文武と定めて皇位を譲り後見したという点において、文武は皇位継承者として絶対的な正統性を有することになったのでした。
ところが首皇子の場合、父親は文武天皇でしたが母親が藤原氏の娘の宮子であり、文武が血統的かつ政治的な正統性をいくら有するといっても、それはあくまで文武個人のことであり、その子である首皇子となるとその正統性もいくらか薄れますし、母親の身分の低さはまだ摂関政治全盛時代ではないこの時代においてはかなりのマイナス材料でした。それでも文武が長生きして、成長して皇太子となった首皇子に皇位を譲るのであればそのマイナス面もカバー出来たのですが、文武が若死にしてしまったことによって幼い首皇子の正統性は弱くなってしまったのでした。

正統性という面では、天智の娘の御名部皇女を母として天武の息子の高市皇子を父とする長屋王のほうが首皇子よりもむしろ上であったことになります。高市皇子の母は身分の低い豪族であったので、持統を母とする草壁皇子よりは格下であり、つまり同じように天智の娘を母としながらも、高市皇子を父とする長屋王よりは草壁皇子を父とする文武のほうが正統性はわずかに上ということにはなります。しかし文武の子である首皇子よりは長屋王のほうが正統の源泉である天智や天武には近い位置にあるといえましょう。何より、首皇子には母が皇族でないという大きなハンデがありますから長屋王の優位は決定的です。しかも文武没時の年齢は首皇子が6歳であったのに比べ、長屋王は31歳という立派な大人であり、天皇として相応しいのは明白に長屋王のほうでした。
しかし首皇子の外祖父であった藤原不比等は首皇子の即位を悲願としていました。いや、まず何より文武天皇自身が我が子である首皇子への皇位継承を望んでいたし、文武の母である阿陪皇女も孫の即位を望んでいました。長屋王の母である御名部皇女は阿陪皇女の同母姉であり、しかも仲のよい姉妹であったので、御名部皇女やその子である長屋王も阿陪皇女や文武の意思を尊重しており、首皇子を差し置いて皇位を伺おうなどという考えは無く、首皇子誕生後の704年には長屋王は叙位を受けて官人としての道を歩みだすことになりました。つまり皇位継承候補からは外れたということです。不比等との関係も良好で、不比等の娘を側室にしていますから、全く険悪なものではなかったと思われます。
つまり長屋王のほうには全く皇位への野心などは無かったわけですが、しかし707年に文武が急死してしまったことによって、31歳の正統性豊かな長屋王を差し置いて、いきなり6歳の首皇子を即位させるというのは、たとえ長屋王自身が納得したとしても朝廷の官人たちや皇族たちを納得させるのは困難であったでしょう。そんなことをすれば不比等に反感を持つ官人たちが長屋王を担いで、長屋王自身の意思とは関係なく朝廷が二派に分かれて争う羽目になってしまいます。これは要するに文武や首皇子に対する反発ではなく台頭著しい藤原氏に対するやっかみということです。
そうした事態を避けつつ、それでいて将来の首皇子即位へと道筋をつけるために不比等は病床の文武やその母の阿陪皇女とも相談して、文武死後は阿陪皇女が即位して、首皇子が元服したら皇太子とすることとしたのです。阿陪皇女ならば天智天皇の娘ですから血統的に長屋王よりも正統性があり、近しい関係にある叔母である阿陪皇女を長屋王が臣下として支えるという構図ならば群臣も納得しやすかったからです。こうして文武死後に母の阿陪皇女が即位して元明天皇となりました。

元明天皇は即位時点で47歳で、藤原不比等は2歳上の49歳でした。この同年代の2人はおそらく若い頃から持統や草壁を通して親しい間柄であったのでしょうが、改めてこの文武死去の時点において、互いに孫にあたる首皇子への皇位継承を共通目的として堅い同志となったのでした。
天智や天武を正統性の淵源とする限りにおいては藤原氏を母に持つ首皇子の正統性はどうしても長屋王に劣ります。また長屋王は文武の治世中に文武の妹(つまり元明の娘)である吉備内親王と結婚しており、その夫婦間には首皇子と同世代の膳夫王が既に生まれていましたが、既に臣下としてのキャリアを歩み始めた長屋王とは違い、この膳夫王には皇位継承資格があり、しかも首皇子よりも血統的正統性が大きいのでした。
天智の正統性の根源は大化の改新であり、天武の正統性の根源は壬申の乱や藤原京の建設でした。首皇子が血統のハンデを乗り越えてスムーズに即位するためには、こうした天智や天武の正統性の呪縛からの解放が必要となります。そのためには、首皇子への譲位を望む元明天皇が天智や天武を超えたカリスマとなり、新たな正統性の淵源となればいいのです。そのためには元明が天智や天武を超える目に見える大事業を成し遂げればいいのです。それが平城京の造営であったわけです。
藤原京に変わる新しい都への遷都構想自体は文武時代から存在しましたが、それを天武の藤原京造営を超える大事業とするためには難波宮のリニューアル程度では駄目なのです。やはり一から新しい都を作り上げるのでなければ元明が天武や天智を超えるカリスマとはなれないのです。そのために奈良盆地北端の地に新たに都を築くことになったのです。ただ実際には元明には個人的には天武や天智のような強烈な指導力はありませんでしたから、それをカバーし補佐するのが藤原不比等の役割となりました。
こうして708年の2月には即位間もない元明天皇によって平城京への遷都の詔が出され、平城京の造営が開始されました。元明天皇の治世は平城京の造営に明け暮れることになります。それを支える藤原不比等の力が強まるのは当然の理であって、708年には右大臣に昇進した不比等はその後720年に死すまでその職にとどまり政策実行責任者としてその腕を振るうことになります。

平城京は奈良盆地の北端、平城山(ならやま)の南に造営されました。平城山という山の名が最初にあったわけではなく、平城京が作られてからその北にある山を平城山と呼ぶようになったのでしょう。平城京は「へいぜいきょう」と読むのが正しいようですが、当時は「ならのみやこ」と訓読みするのが通例であったようです。なぜ「平城」と書いて「なら」と読むのかというと、「なら」という日本語には「たいら」という意味があり、「平坦な地にある都城」という意味で「ならのみやこ」と呼び、それに「平城京」という漢字を充てたのでしょう。
実際、平城京は平坦な地にあり、北に山があり南に平地が広がっていました。これは大宝の遣唐使が報告した、京域の北端に宮殿部分を持ってきた場合における理想の立地条件でした。つまり平城京は大宝の遣唐使の報告に基づいて造営場所の選定が行われたわけです。そういうわけですから、天皇の在所である宮殿部、すなわち平城宮は京域や奈良盆地を遥かに南に見下ろすことの出来る北端部中央に設けられていました。
あるいは文武が長生きしてスムーズに首皇子への譲位が行われるような状況であれば、わざわざ平城京を一から作らずとも難波宮の跡地に出来ていた市街をベースにして新都を作れば事足りたかもしれません。しかし文武の急死によって首皇子の正統性が揺らぎ、それをカバーするために藤原京造営による民力疲弊の後遺症の残る中でまた新たに平城京を造営する羽目になったのでした。

その平城京の造営作業は主に畿内や畿外からの雇役による労働力によって進められました。雇役は実質的に強制労働であり、過重な労働負担に耐えかねて逃亡する者も多く、畿内には不穏な情勢が広がりました。そもそも少し前に多大な労働力を注ぎ込んで藤原京を造営したばかりであり、更に租庸調などの重い税負担がのしかかっていた民衆は不満を募らせました。その上、雇役民には給与を支給せねばならず、その財源は庸であったのですが、急ピッチで平城京を造営するために多くの雇役民を使ったために彼ら全員に行き渡るだけの支給用の繊維製品を畿外からの庸で賄いきれず、すぐに足りなくなってしまいました。給与が貰えなくなれば雇役民たちは生活していけませんから、みんな逃亡するか、あるいは暴動でも起きてしまいます。
そこで708年に朝廷は年号を「和銅」に改元すると和同開珎という銅銭通貨を発行し、平城京造営に携わる雇役民に対する給与の支払いは和同開珎で行うことにしたのです。これは唐を見習って貨幣を鋳造して流通させようとした政策の始まりで、これも大宝の遣唐使の建策に従ったものでありますが、現実には日本の経済はまだ流通貨幣を必要とするほど成熟しておらず、物々交換で十分に機能する段階でした。だから、この和同開珎以降、いわゆる皇朝十二銭といわれる一連の国産の銅銭貨幣が鋳造されていくのですが、畿内以外ではほとんど普及することはなく、しかも原料銅の不足や贋金の混入、貨幣政策の失敗などでこれら銅銭の信用は失墜していき、11世紀初頭には畿内でも使用されることはなくなり、物々交換経済に戻ったのでした。
ただ畿内では曲りなりにも貨幣経済が成立していたのは、この平城京造営時に奈良の地に連れてきた雇役民への給与支払いと、その支給された和同開珎を使って雇役民たちが生活資材を調達できるようにするために何としても平城京周辺だけでも貨幣経済を成立させておかなければいけなかったという必要に迫られてのことでした。そのためにかなり大量の和同開珎が市場に投入され、貨幣使用を習慣づけるために一定量蓄め込んだ貨幣と官位を交換するというような政策もとられたりしました。つまりは、和同開珎発行の最大の動機は、人工的に作られた平城京という都市を造営し維持していくためであったということになります。

そのようにして造営が進められた平城京への遷都は710年に行われたとされていますが、その時点では造営開始からまだ2年ですから、市街地にあたる京域部分はまだほとんど出来ておらず、先行して宮殿部分である平城宮、すなわち内裏や大極殿、太政官院、官舎部分などが出来上がっていた程度であったと思われます。
そのような未整備な都へ急いで遷都したというのは、元明天皇や藤原不比等はとにかく急いで新しい都で新しい体制を築いて、元明天皇から首皇子への皇位継承路線を既成事実化したかったのでしょう。
この平城京北端中央部に位置する平城宮の構造上の際立った特徴は、東辺に少々の張り出し部分があることでした。この張り出し部分に何があったのかというと、「東院」といわれる施設がありました。これが現在でいう「東宮」で、つまり皇太子の居館でした。日本の皇太子のことを「東宮」と呼ぶのは、この平城宮の東張り出し部分にあった居館に由来します。
この平城宮の東張り出し部分の東院に710年の遷都時に首皇子が入り、その東院から城壁を隔てたすぐ東の地に、つまり平城宮のすぐ東に接して藤原不比等の邸宅が構えられたのです。そして東院と不比等邸の間には行き来できる通路や扉も備えられていました。
この時点で東院が皇太子の居館という規定があったわけでもありませんし、そもそも首皇子は皇太子の位にまだ就いてもいませんでした。ただ、新たに出来上がった平城宮の中の意味深な張り出し部分に特別に作られた居館に首皇子が入ったということは、首皇子こそが皇位を継ぐべき者であるということを暗に宣言したようなものでした。そしてその東院に隣接した場所に不比等が邸宅を構えたということは、まだ9歳の首皇子の後見を外祖父の不比等が行うということも同時に宣言していたのであり、もちろんそれは元明天皇も了承の上であるということも示していたのでした。
平城宮がこの特異な構造で出現し、そこの東院に首皇子が入ったということをもって、平城宮はそもそも首皇子の皇位継承を前提として建てられたものであることが判明し、首皇子の皇位継承が決定事項であるということが既成事実化したのです。そうした既成事実化を急がせるために、元明天皇や藤原不比等はまず平城宮部分の造営を先行させて、710年に早々と遷都を行うことにしたのです。

こうした計画に合わせて不比等はいち早く平城京の地に藤原氏の勢力を根付かせるべく行動し、遷都の710年には藤原氏の氏神である春日神を平城宮の東方にある御笠山に祀り春日神社を創建しました。この春日神社の西の平地部分に現在は奈良市市街中心部が広がっているのですが、平城京が存在した時代にはこの部分に「外京」という区画が広がっていました。
つまり平城京というのは藤原京と同じように縦横に交差する大路が碁盤目状に通り、南北九条、東西八坊に区画された条坊制の京域を備えた都城なのですが、長安城や藤原京のように四角形ではなく特殊な構造をしており、一条から五条までの京域が更に東に三坊分だけ伸びており、この拡張部分を「外京」というのです。
この外京の西に藤原不比等の邸宅があり、その西に東院があります。また外京の東には藤原氏の氏神を祀る春日神社があり、平城京遷都後には外京の東端には藤原氏の氏寺の興福寺が移転してきており、後に外京の東北端に藤原氏出身の皇后光明子の建てた東大寺が存在することになります。また聖武天皇陵や光明皇后陵、元明天皇陵、元正天皇陵など、藤原氏と関係の深い奈良時代の主要な天皇の陵墓はこの外京の北側に集中しており、この外京という区画は平城京の中でも特別重要な区画であることが分かります。
おそらくは710年に平城宮部分のみ完成時点で遷都してきた際に、藤原不比等がいち早くこの外京にあたる地を開発し、そこを藤原氏の根拠地として、平城京本体部分の造営を陣頭指揮して進めていったのでしょう。そうして714年あたりには平城京の京域部分の造営もだいたい目途がついて、既に開発されていた外京部分も自然に平城京の区画に組み込まれていったのだと推測されます。そしてその後は寺院など主要な京域の施設が藤原京から順次移設されてくることになったようです。それが一段落するのがだいたい725年ぐらいということになります。つまり、平城京を造営するにあたって藤原氏の働きは欠かすべからざるものであったのであり、そうして完成した平城京では藤原氏の権勢が拡大していくのは当然のことであったといえます。
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