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日本史についての雑文その317 三世一身法
平城京の完成に目途がたった714年に13歳になって元服した首皇子は正式に皇太子となり、それを見届けた元明天皇は翌715年に55歳にして皇位を去りました。ところがこの時に元明から皇位を受け継いだのは14歳の皇太子である首皇子ではなく、その叔母にあたる36歳になっていた氷高内親王だったのです。首皇子の叔母ということは、つまり元明の娘であり、文武の同母姉であったということです。この氷高内親王が即位して元正天皇となります。
何故、首皇子ではなく氷高内親王へ皇位が受け継がれたのかというと、まず草壁と元明の娘である氷高のほうが天智や天武の血統をより濃く受け継いでおり、平城京造営の新たなカリスマである元明から見れば直接の娘であり、とにかく血統的正統性では首皇子はおろか長屋王をも凌駕して在世中の皇族の中では元明を除けば筆頭であったということが挙げられます。誰も文句のつけようのない血統であったのです。
また14歳の首皇子ではまだ皇位を継承するには若かったともいえます。首皇子の父の文武天皇は15歳で皇位を継ぎましたが、文武の場合は血統的な正統性の面で首皇子とは比べ物にならないくらい有利であったのであり、その文武でさえ後見役であった祖母の持統上皇の支援を受けて即位できたのです。首皇子の場合はただでさえ血統的なハンデがある上に、もし後見役の元明天皇が首皇子が若いうちに在位中に急死するようなことがあれば、首皇子の地位は不安定なものになってしまうでしょう。
首皇子の場合は血統的なハンデのある分、何処からも文句の出ないようにするためには少なくとも20歳は超えてからの即位が望ましく、その時点で元明天皇は60歳を超えているわけで、平均寿命の短い当時においてはその時点で元明の生きている確率は低く、ならばその時点で首皇子即位の後見人となり得る有力な血統を持った別の天皇からの譲位という形が望ましく、そういう意味で首皇子即位までの繋ぎとして氷高内親王が皇位に就いておくのが望ましいということになります。それなら文武死去の時点で氷高内親王に譲位しても良かったのではないかとも思われるかもしれませんが、文武没後の平城京遷都のような大事業を成し遂げるまでは元明の天智の娘としての権威やカリスマ、貫禄が必要であったのでしょう。

ただ、氷高内親王の場合、36歳で皇位に就くまで独身であったという点を念頭に入れると、どうやら首皇子との間に義理の親子関係があったと考えたほうがいいようです。というのは、首皇子の実母である藤原宮子は首皇子を産んだ後は体調が優れず、首皇子とも顔を合わすこともほとんど無かったのであり、しかも皇族の母ではないわけですから、首皇子は将来の皇位継承候補としては、皇族の母という存在が実生活的にも政治的にも必要であったのです。後の藤原摂関政治の全盛時代とは違い、この時代においてはまだ皇族の母から産まれていないということは大きなハンデとなっていた時代であり、たとえ義理の母でも、とにかく皇族の母というものが必要とされた時代なのです。
首皇子の場合、藤原氏出身の実母がほとんど母として機能しない状態であったわけですから、父である文武天皇の姉である氷高内親王が義母として育てたのでしょう。義母といっても皇族の母ですから「正母」といってもいい存在であり、本当の母として、本当の息子として接していたと思われます。そういう事情で氷高内親王は自分の子供を産むという道は放棄し、首皇子の母として生きることになったのでしょう。だから36歳で皇位に就くまで独身であったのであり、首皇子に皇位を引き継ぐ役目というのも、自分の息子に皇位を渡すという自然な感覚であったと思われます。
つまり氷高内親王は、元明の娘として、そして皇太子の首皇子の「母」として715年に即位して元正天皇となったのです。もちろん元明上皇も譲位後も健在であったので元正天皇との共治体制をとって後見を行い、右大臣の藤原不比等も補佐役として政策を実行していったと思われます。不比等は716年には娘の光明子を首皇子の妃として入内させて、718年にはこの夫婦の間に長女の阿倍内親王が産まれています。このあたりが不比等の全盛時代といっていいでしょう。

この元正即位後の不比等全盛時代においても細かな政治改革は進められていき、それらは唐風の政治制度に倣った官制改革であったり、地方における国司の権限を強くするような地方制度改革であったり、円滑な租税収入を図るために地方行政組織を更に細分化したりするようなものでありました。また、720年には天武時代から編纂されてきた「日本書紀」がとうとう完成しています。
また、この時期の不比等政権下においては度々、仏教統制令が出されています。朝廷は仏教を保護していましたが、それはあくまで国家統制下で国家のために鎮護を行うためであって、僧侶は朝廷の官僚の一種であり、国家の許可を得なければ勝手に出家することも許されず、勝手に布教活動を行うことも禁止されていました。そもそも布教すること自体が禁止なのであり、僧侶はひたすら国家のために国家の命令に従って祈りを捧げたり、そのための研究だけしていればいいというのがこの時代の朝廷のスタンスでした。つまりこの時代の仏教というものは、まだ民間には普及しておらず、それどころか民間へ布教すること自体が禁止されていたのです。そういう意味では、この時代の仏教は正確には宗教というよりは一種の学問であり政治的道具であったといえるでしょう。
しかし仏教というものは本来そういうものではなく、特に大乗仏教の場合、衆生の救済というものが大きな目標となりますから、仏教に真面目に取り組もうという者は朝廷の仏教統制策の枠内の活動には満足できなくなり、独自の布教活動や慈善活動などを行う者も徐々に出てきました。そういう動きに対して統制を強め抑圧していこうというのが不比等政権において行われた仏教統制政策の目的ということになり、この時弾圧された民間仏教指導者の1人が行基でありました。
唐風の官制改革のための大陸最新情報の収集に関連しては、717年に15年ぶりに遣唐使が派遣されました。これが養老の遣唐使ですが、この遣唐使が帰国してきたのは翌718年で、この遣唐使がもたらした唐の最新情報を基にして、同年から大宝律令の改訂版である養老律令の編纂が開始されます。養老律令の編纂は長期にわたり、結局は未完成のまま757年から施行されることになります。
なお、この養老の遣唐使には留学生として2人の重要人物が随行していました。それが玄と吉備真備で、この2人は唐に居残って様々な学識を学び、734年に天平の遣唐使と共に帰国してきますが、その後の日本政治史や文化史に大きな影響を与えることになります。

さて、そうこうしているうちに720年に藤原不比等が62歳にして亡くなり、また翌721年には元明上皇が61歳で亡くなりました。不比等に代わって721年に右大臣になったのは長屋王でありましたが、この時点で45歳になっていた長屋王の政治的キャリアが正当に評価された人事であり、不比等の息子たちも政権に参画していましたがまだ若く経験も浅かったので、元正天皇の下で長屋王を首班とした政権がスタートすることになったのです。
長屋王は不比等の娘婿でもありましたし、藤原氏との関係も良好であったので、この時点で特に波風が立つようなことはありませんでした。だいたい長屋王政権の政治は不比等政権の政治路線を受け継ぐものでありました。
それは一言で言えば、大宝の遣唐使や養老の遣唐使の持ち帰った大陸の最新情報に基づいて律令国家をよりいっそう安定させていき、次なる成長への準備段階に入っていこうというものでした。それはまさに律令国家文明の確立期前期の時代相であり、そうした時代の主役である新しい文明の申し子のような世代、つまり形成期に活躍した天智や天武のような世代が革命第一世代だとするなら、この8世紀最初の四半世紀の律令国家文明確立期前記の時代に活躍するのは革命第二世代ということになりますが、そうした新文明勢力の代表格が不比等を頂点とする藤原氏勢力であり、長屋王も基本的にはそうした政治的系譜に含まれる政治家であるといえます。

不比等が律令国家をある程度安定させたので、それを受け継いだ長屋王は次の成長へのステップを踏み出そうとします。その具体的な表れが722年の「百万町歩開墾計画」であり、723年の「三世一身法」でした。
律令国家の確立によって社会が安定し人口が増加傾向に入り、その人口増加分の食糧を賄うために新たな農地の開墾が必要とされたので、人民に新たな労役を課して農地を開墾させるようにしたのが「百万町歩開墾計画」であったのですが、労役を増やす代わりに調や庸を減らしたり公出挙の利率を下げたり、結構人民の不満を宥めるために気は遣ったようです。そうした善政を施した上で、農地が増えて食糧が増産されることは人民全体の利益になるわけですから、人民は喜んで開墾に勤しむはずであると長屋王は考えたのかもしれません。
しかしそれはあまりにも性善説的な考え方であり、人間というものは常に公益というものを考えてそれに突き動かされるわけではなく、もっと利己的な生き物なのです。いくら頑張って開墾した土地でもそれが自分のものになるわけではなく国家に収公されてしまうというのであれば人民は馬鹿らしくて真面目に開墾などしないものなのです。労役期間は一応言われたことには従いますが、やはり本気で開墾する気があるのと無いのとでは結果には大きな差が生じます。そういうわけで「百万町歩開墾計画」は思ったほど大した成果が上がらなかったのです。
この失敗によって、開墾した土地の所有を認めなければ人民の開墾へのモチベーションを維持することが出来ないということが判明し、723年の「三世一身法」が発布されることになるのです。これは新たに灌漑施設を新設して墾田を行った場合は三代後までのその土地の所有を許可し、既存の灌漑施設を利用して墾田を行った場合は本人の代だけのその土地の所有を許可するという法律でした。この法律を発布した上で、改めて開墾を奨励したのです。

そもそも大宝律令には土地の開墾に関する規定が無く、唐の律令などでは人民の耕作する土地の上限と実際に国家から支給される口分田の量との間にかなりの差を設けることで実質的に開墾を認めるという懐の深い実際的なものとなっており、口分田の規定しか無い大宝律令は人民の開墾意欲を引き出すことが出来ないという面では欠陥律令であったことは明白で、それを補うために「三世一身法」のような法律が必要となったのは当然のことなのです。
この「三世一身法」が律令制の根幹である「公地公民制」の崩壊の第一歩であったという歴史の見方がかつて主流であった時期もありましたが、律令制というものが私有地の所有を一切認めないものであるというようなことは歴史的事実ではなく、戦後歴史学会を占拠したマルクス主義史観を奉じる歴史学者が自分の思想的願望を投影して勝手に唱えていた説に過ぎず、それを前提とした歴史解釈でこの「三世一身法」を評価した見方に過ぎないのであって、実際はこの「三世一身法」は日本型律令制の欠点を補って、開墾に関する規定を追加することにより、むしろ律令制を完成に近づけるための施策の第一歩であったと解釈すべきでしょう。
ただ、いったん大宝律令で私有地に関する規定の無い状態での社会システムが動き出してしまっていた以上、完全なる開墾地の所有を認めるというような急激な変化は困難であり、それで当面は「三世一身法」のように限定的かつ漸進的な内容のものになったようです。当面の墾田計画の達成のためにはこれぐらいの法令で十分であろうと判断したのかもしれません。
確かに「三世一身法」によってその後一定の成果は上がり、開墾地は増えたようです。しかしその効果は一時的なものにしかなりませんでした。「三世一身法」とはいっても、実際の開墾はほとんど既存の灌漑施設を利用したものであったので本人の代限りの所有しか許されず、その子供は土地を国家に取り上げられてしまうわけで、そうなると代替わり前の時期になると怠けて土地は荒れてしまい、国家に収公される頃には元の荒地に戻ってしまうのです。人間というのはこういうものであり、「三世一身法」もまた性善説的な人間解釈に傾いた法令であったといえるでしょう。
こういう有様となったので、「三世一身法」の施行から20年ほど経つとその欠陥は露になり、律令制の完成のためには新たな法令が必要となり、743年の「墾田永年私財法」が作られることになるわけですが、それは長屋王政権の次の政権への宿題ということになります。

そのようにして長屋王政権が律令国家の完成に向けて施策を実行していく中、724年に23歳へと成長した首皇子がとうとう「母」である元正天皇からの譲位を受けて即位し、聖武天皇となりました。この聖武天皇の在位期間はこの後26年間にも及び、この期間が律令国家文明の確立期の後期にあたります。よってこの724年の聖武天皇の即位をもって時代は転換することになり、ここまでが律令国家文明確立期の前期ということになります。
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