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日本史についての雑文その318 長屋王の変
724年に満を持して即位した聖武天皇の時代はその後、約四半世紀続くことになりますが、この律令国家文明確立期の後期にあたる時代は、聖武天皇本人や平城京に住む人々の心情はそうではなかったかもしれませんが、客観的に見て、日本型律令国家にとっては順調な発展の時代でありました。
聖武天皇即位後間もなくの頃は、723年に施行された「三世一身法」の効果が現れ始めた時期で、私有地欲しさに多くの人民が荒地を開墾して墾田を増やし、もちろんそれらの新たな墾田からも租は徴収されましたから諸国の官稲が増えて財源は豊かになり、これら諸国の官稲に対する中央政府の統制も不比等政権時代から徐々に強化されており、中央政府への貢進物である調や庸も実質的にはこの諸国の財源によって賄われていましたから、必然的に「三世一身法」は中央政府を潤わせる作用も及ぼしたのでした。


このように順調そのものであるかに見える律令国家の中心において、聖武天皇は神経質に災異の発生を恐れて、自らの政治の至らなさに煩悶し、些細なことに一喜一憂を繰り返し、仏教への傾倒を強めていきました。何故そのようなことになったのかというと、おそらく聖武天皇の生い立ちに起因するのでしょう。
天武天皇が創始した律令国家においては、天皇は神であると定義されました。そうした考え方が制度化されて定着したのは天武の後を継いだ持統天皇の時代であり、だいたい7世紀末のことでした。つまり逆に言えば、7世紀末までは天皇は神ではなかったということになり、天武、持統はもちろんのこと、697年の即位時に15歳に達していた文武天皇もその人格形成時に「天皇は神」であるというような教育は受けておらず、その母の元明や姉の元正は文武より年長であるのですから、もちろん「天皇が神」だなどという観念を植え付けられてはいません。
つまり、701年に産まれた聖武天皇こそが「天皇は神である」という固定観念が定着した後に人格形成を行った最初の天皇であったのです。丁度、江戸幕府成立直後に産まれた家光が「生まれながらの将軍」であったのと同じように、聖武こそが「生まれながらの天皇=神」であったわけです。
しかも彼が手本とすべき父親の文武天皇は彼が物心ついてすぐの6歳の時に亡くなり、その後は彼の祖母や叔母(義母)が天皇であったのですが、それらはあくまで真の「天皇=神」である彼への皇位継承のための繋ぎ役であるという風に彼には説明されていたであろうと思われ、幼い頃からそうした祖母や義母、そして外祖父である右大臣の藤原不比等らの期待を一身に背負って、未だ現実には見たことの無い「天皇=神」という絶対的存在のイメージのみを肥大させて、自分こそがその真打ちなのだという強烈な自意識を抱きつつ、まさに満を持して、実質的な意味で最初の「天皇=神」として聖武天皇は即位したのです。
しかもこの神はただの神ではなく、天界の最高神「天照大神」であるのです。最高神が直接政治を行うわけですから、円満に治まるはずなのです。いや、円満に治まらなくてはおかしいわけで、治まらなければ逆にマズいわけです。少なくとも聖武の深層意識としてはそういう強迫観念というものはあるわけです。
しかし、人間は神ではないわけで、天皇もまた万能の神ではないのですから、瑕疵の無い治世などというものは有り得ないのです。それでも聖武の治世はそれ以前の天皇の治世に比べればよほど円満に治まっていたはずなのですが、聖武の中で「最高神による治世」としてイメージされていた理想状態から比べれば全く不本意なものであったのでしょう。
そういうわけで聖武は円満な治世を求めて煩悶することになったのです。それまでの大王や天皇であればそういう場合は神頼みをしたのですが、聖武は「最高神」なのですから、神頼みするわけにはいきません。神頼みをするということは言い換えれば、最終的には神様に責任転嫁してしまえるわけですから、神頼みすら出来ないということは全て責任を自分で背負い込んでしまうということで、大変苦しい精神状態となります。そういう苦しさの中で、日本古来の神とは別種の存在で、古来の神よりも強い呪力を持っているといわれる異国神である「仏」に対して聖武が傾倒していったのは止むを得ないことであったのかもしれません。

そうした悩める天皇である聖武に正妃の光明子との間に727年に待望の皇子が誕生しました。これは聖武にとって大きな喜びであったらしく、生後間もない赤子を皇太子にするという前代未聞の扱いをしています。こんな能天気なことが可能になっているのも、それだけ律令国家が安定して聖武の権力が磐石であったからなのであって、聖武はもっと自信を持ってもいいはずなのです。
ところがこの皇太子が翌728年に夭折してしまうのです。聖武と光明子が共に15歳で結婚してから11年目にしてやっと授かった男子が生後1年も経たずに亡くなってしまったわけで、聖武の嘆きは大変なものでした。個人的な悲しみも勿論大きかったでしょうけれど、それ以上に天皇として世継ぎが確立しないのは政治的に大きな憂いになっていました。「神である自分が政治を行えば丸く治まるはずであるのに、どうしてこのような不幸ばかり起こるのか」と聖武は悩んだことでしょう。あるいは神の力を遮るような何らかの外力が作用しているのかもしれないという疑念が生じた可能性は大いにあります。つまり、何らかの呪詛や祟りの類が聖武や天皇家に向けられているのではないかということです。現代ではそのようなことを真剣に憂う人は少ないでしょうけれど、この時代においてはこのように考えるのはむしろ普通であり、これほどの国家の一大事ですから、あらゆる可能性が検討されて然るべきであり、呪詛や祟りの可能性が吟味されたのは当然であったでしょう。

そうした疑心暗鬼の状態で迎えた729年の2月、左大臣に昇進していた長屋王が聖武天皇を呪詛していたという下級官人からの密告があり、これに関する詮議を受けた長屋王が自邸で妻子ともども自ら生命を絶つという大事件が起きました。これが長屋王の変で、長屋王はこの時54歳でした。
しかし長屋王は政府の首班であり、聖武天皇との間も良好であり、聖武を呪詛するなどという愚かな行動をとる理由が無く、この密告は根も葉もない讒言であったようです。密告が讒言であったことについては後に朝廷も認めています。だから長屋王は無罪です。
問題は、密告が讒言であったということは、つまり長屋王を陥れるための何らかの陰謀が存在したということになります。しかも相当根深い陰謀であるということになります。何故なら、単なる勘違いや行き違いであるならば長屋王ほどの人が真摯に天皇に申し開きをすれば下級官人の讒言など退けて助かった可能性が高く、少なくとも天皇に直訴してみる価値はあったはずなのに、しかし長屋王はそうした努力を全くしようともせずに疑惑をかけられた次の日にさっさと自殺してしまっているからです。こういう場合、よほど後ろ暗いことがあるのか、あるいは言い訳しても無駄だと見切ったのかのどちらかなのですが、後に長屋王は無罪と判明しているので前者は有り得ず、つまり言い訳してもどうせ無駄だろうとさっさと見切りをつけて自殺してしまったということになります。
言い訳をしても無駄だと悟る場合というのはどういう場合かというと、どうせ公平な裁きは期待できないと悟る場合です。つまり長屋王が申し開きをしようとしている相手が讒言者と一味である場合です。長屋王が申し開きをする相手とは聖武天皇しかありませんから、聖武が長屋王を陥れる陰謀の首謀者であるならば、長屋王は申し開きは無駄だと悟って自殺を選ぶというのも不自然なことではありません。
もし聖武が陰謀の首謀者に騙されたり乗せられているだけであれば、逆に長屋王は必死に聖武の説得を試みたはずで、それが叶わなかったとしても、少なくとも何とか聖武との接触を図ろうとしたはずです。また長屋王はとにかく臣下では最高位にいる人物であり、もし陰謀の首謀者が藤原四兄弟など他の官人であるのならば、長屋王と天皇との間の話でそうした陰謀をひっくり返すことは十分に可能なのであり、長屋王の立場ならばそうした努力はして然るべきなのです。しかしそうした努力の形跡が全く無いということは、少なくとも長屋王から見て聖武が陰謀の中枢に近い位置にいるように見えたということなのでしょう。少なくとも長屋王には藤原四兄弟が首謀者で聖武はそれに乗せられただけというようには見えなかったということになります。
いや、もし聖武が長屋王を陥れる陰謀の中枢にいたとするなら、もっとストレートに最初の詮議の段階で聖武から長屋王に対しての「申し開きは無用である」という厳しい拒絶の意思が伝えられた可能性もあります。それはその罪状の重さも合わせて考えれば、有無を言わさず自死を命じるに等しい、死刑宣告であり、長屋王はその意を受けて観念して自殺したのではないかとも考えられるのです。

そうなると長屋王は聖武によって葬り去られたともいえるのですが、どうして聖武がそこまで長屋王を憎む必要があるのか謎ではあります。前年の皇太子の死を長屋王の呪詛と関連づけて解釈して本気で怒っていたという可能性もありますが、長屋王が死に際して自ら道連れに殺した子以外の長屋王一族に対してお咎めが無かった点や、後に聖武が長屋王の怨霊に対して異常なまでの怯えを見せることから、どうやら聖武は長屋王が本当は呪詛など行っていなかったということは最初から承知していた可能性が濃厚であるといえます。それなのに聖武は長屋王を葬り去ったわけです。
聖武には長屋王を特に憎む理由はありませんでした。ただ、皇太子の死などの朝廷を覆う不吉な影の元凶としての何らかのスケープゴートは必要であったとはいえます。ただそれがどうしても長屋王でなければいけないという理由は聖武には無かったといえます。長屋王がその不幸なスケープゴートに祭り上げられてしまった理由は、むしろ聖武の妃の光明子やその一族である藤原氏のほうに起因するといえます。
前年の皇太子の死によって聖武と光明子の間には跡継ぎの男子がいなくなってしまい、ただ阿倍内親王がいるだけになってしまいました。もともと聖武自体が血統的には長屋王やその子の膳夫王よりも正統性には欠けていたものを元明や元正の強い後押しで即位したような側面があったのに、その聖武が更に藤原氏の娘である光明子との間に作った子、しかも女子となれば、既に老齢の長屋王本人はともかく、長屋王が文武天皇の同母妹である吉備内親王(つまり草壁と元明の間の娘)との間に作った膳夫王をはじめとした3人の男子(つまり聖武の従兄弟にあたる)のほうが遥かに血統的には皇位継承者として相応しいということになります。
そもそも血統的には、仮に皇太子が夭折していなくても、皇太子よりも長屋王の3人の男子のほうが正統性はあったといえます。しかし男子であれば天皇である父の聖武の権威でもって強引に皇太子に据えてしまい、皇位継承者として既成事実化してしまうことは可能であったのです。しかし女子となると話は違ってきます。何しろ内親王を皇太子にするというのは全く前例の無いことで、こればかりはたとえ天皇の意思といえども、他に皇位継承資格のある男子が存在するというのにそれを差し置いて強引に女子を皇太子にするというわけにはいかなかったのです。しかし聖武にもいつ何が起こるか分かりませんから、皇太子は決めておく必要が生じてきます。そうなると現状では長屋王の息子たちの誰かが選ばれる可能性が濃厚となります。

それを阻止するために、長屋王の3人の息子の皇位継承の目を潰すために、嘘の密告をでっち上げたのが藤原不比等の遺児である藤原四兄弟であると言われています。確かに長屋王と共に死んだのは吉備内親王とその子供たちだけであり、長屋王本人というよりは、むしろ吉備内親王との間に作った息子たち、つまり藤原四兄弟にとっては姪にあたる阿倍内親王の皇位継承の強力なライバルをターゲットにしたのが長屋王の変の陰謀であったといえるでしょう。
ただ、その陰謀の主犯が藤原四兄弟、すなわち、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人であるとするのは無理があるといえるでしょう。彼らは長屋王とは良好な関係を築いていましたし、長屋王もまた彼ら藤原兄弟の妹を側室としていましたから縁戚関係は結んでいました。もともとそうした良好な関係があるのですから、もし膳夫王らが皇太子になるのであればその妃に彼ら藤原兄弟の娘を送り込めばいいだけの話です。
もちろん聖武のほうが藤原氏により近い血筋であり、その聖武と四兄弟の妹である光明子との間に男子が出来れば、その男子が皇位を継ぐことこそが四兄弟にとってはベストであり、その男子にまた四兄弟の娘を娶わせることによって藤原氏はより磐石なものになっていくのですが、そうではなく阿倍内親王が皇位を継いだ場合は四兄弟は娘を入内させることが出来ないわけで、皇室との繋がりを深めていくという意味においては逆に困ったことになってしまいます。それならばいっそ長屋王の息子たちが皇位を継いだほうが藤原四兄弟にとってはやりやすいということになります。
だから長屋王一族を陥れてまで阿倍内親王の皇位継承を有利にするよう陰謀を巡らせるようなことは藤原四兄弟が積極的に発案して推進するとは思えないのです。ただ事態の推移を見る限り、彼ら藤原四兄弟がこの陰謀に関与していることも間違いないことで、おそらく主犯に協力する従犯的な共犯であったと思われます。
そうなると、長屋王の息子たちが皇位を継ぐことで全くメリットを受けず、阿倍内親王が皇位を継ぐことで大いにメリットを受ける人物で、しかも藤原四兄弟の協力も取り付けることの出来る人物が主犯ということになりますが、それに適合する人は聖武の正妃で藤原四兄弟の妹である光明子ぐらいしか見当たらないわけで、おそらく長屋王が聖武を呪詛しているというデマも光明子周辺から出たものなのでしょう。そして夫である聖武もまた従兄弟よりも娘に皇位を継がせたいという気持ちはあり、さらに朝廷に関わる災異の原因を長屋王の呪詛に責任転嫁できるという動機に動かされて自覚的に共同正犯となり、藤原四兄弟は聖武と光明子に協力を命じられて共犯となったのでしょう。こうして長屋王は葬り去られたのです。

この長屋王の変の後、藤原武智麻呂を首班として藤原四兄弟を含む新たな政権、つまり藤原四子政権がスタートすることになりますが、これは別に藤原四兄弟によるクーデターというわけではなく、もともと長屋王政権に加わっていた四兄弟が単に長屋王亡き後に政治的空白を埋めるために順当に繰り上がって政権を担うようになったというだけのことで、実際、藤原四子政権の政策は長屋王政権の政策を引き継いだものでした。
むしろ、長屋王の変を境にして前代未聞の出世を遂げ、立場が激変するようになったのは光明子のほうで、長屋王の変の半年後の729年の8月、光明子は皇族以外の出身として初めて皇后となりました。厳密には5世紀前半のオオサザキ大王の正妻のイワノヒメが葛城氏出身で皇后であったと言われていますが、このような300年前の時点で「皇后」的な観念が本当に成立していたのか甚だ疑問で、「王族の女性が務めて、大王の急死時などには代理で大王も務め得るもの」としての「皇后」的存在の始まりはおそらく6世紀初頭にオオド大王がオケ大王の娘であるタシラカ王女と結婚することによって大王家を継承した際のタシラカ王女の扱いに起源を発すると思われますから、やはり光明子は初めての臣下出身の皇后であり、しかもその存在は本来の皇后のコンセプトとは全く矛盾する前代未聞のものであることは明白でしたし、だいいち「皇后は内親王に限る」とした律令の規定にも明確に違反していました。
この光明子の皇后就任を強引に押し進めたのは夫である聖武天皇であり、その裏にはもちろん光明子本人の希望もあったわけですが、群臣の中にはさすがにこれに不審感を抱く人が多かったようです。いくら長屋王が聖武に忠実であり藤原氏と協調的であったといっても、律令重視論者の長屋王が存命であればこの明白な律令違反に対して異議を唱えたであろうと思われ、そうなれば群臣の多くは長屋王に同調したと思われますから、そうした事態を防ぐためにあらかじめ長屋王を排除しておいて、聖武や光明子のイエスマンである藤原四子政権を発足させておいて光明子を皇后にしようというのが長屋王の変が仕組まれた最大の理由であるという意見もあります。
これはある意味では正しい意見ではあると思いますが、そもそも光明子を皇后にするということ自体が阿倍内親王を皇太子とするための布石であったわけで、究極的な目的はあくまで阿倍内親王への皇位継承であるわけで、光明子の立后もそのための計画の一環として理解すべきでしょう。単に光明子が皇后になることだけが目的ならばそれによって利益を受けるのは光明子一人であり、聖武や藤原兄弟が積極的に協力する意味は無いのであり、阿倍内親王への皇位継承という大目的が共有されているからこそ聖武や藤原兄弟も積極的推進者となったわけです。

ただ、こうして光明子が皇后になったことによって、光明皇后の権力が大きなものとなり、この後760年に亡くなるまで31年間、光明皇后は実質的に政界の頂点に君臨することになります。その皇后権力の実務機関となった律令の規定には無い特別な機関である皇后宮職が730年に設置され、これが後に光明皇后の甥である藤原仲麻呂によって紫微中台と改称されて律令規定外の巨大権力機構となっていくのです。
また、ここで重要なことは、「皇后」という、本来は皇族のみが務めるべき、この時代においては皇位継承資格すらある役職に藤原氏出身である光明子が就いたということは、ある意味では光明子に皇位継承資格を認めたともいうことであり、藤原氏も皇位を継承できるという解釈も可能であり、一線を超えたものであるといえます。藤原氏でも「皇后」になれるということは、「天皇」にだってなることは不可能ではないということになります。さすがに「天皇」と「皇后」では重みは違いますが、この時代においては「皇后」の神聖性や不可侵性は後世の比ではなく、そこが突破されたというのは非常に大きな価値観の変化を促すものであったし、そもそも天皇制度自体がまだ生まれたばかりでまだ流動的な時代でありました。光明皇后自身は自分で皇位を継ぐつもりなどは無かったでしょうけれども、強引に女性である阿倍内親王に皇位を継承させた後の展望については無責任であったとも思われ、天皇制度についてあまり厳密に重視していたとは言い難いと思われます。そうした風潮が後に光明の甥の藤原仲麻呂に受け継がれ増幅されていくことになるのです。
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