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日本史についての雑文その319 怨霊の発生
ただ、729年の長屋王の変の後しばらくは、藤原四子政権が長屋王政権の路線を受け継いで実務的な政策をこなしていくことになります。長屋王の変は差し当たり実際政治上はあまり大きな影響は及ぼさなかったといえます。まずこの時代の目だった出来事は外交関係の変化が挙げられます。
シナ大陸では705年に武則天が死去して周は一代限りで終わり、唐王朝が復興しました。ただ周時代に府兵制が骨抜きにされたために辺境を押さえる軍事力が不足するようになり、満州平原では渤海が興隆し、唐と渤海の間が緊張し、渤海への牽制のために唐は新羅との対立関係を緩和するようになっていました。日本が702年に遣唐使を復活させ、717年にも遣唐使を送るようになったのも、そうした唐の対外関係の緩和策に乗っかったものでした。

この間、日本と新羅の関係は良好な同盟関係であったのですが、日本側はあくまで大和朝廷時代からの伝統に則って、形式的には新羅を服属国として扱っていました。つまり新羅が日本に朝貢しているという形式をとっていたのです。これはあくまで形式的なものであり、新羅も唐と対峙するために日本と組むことに実利を見出していたので、こうした日本側のこだわりに調子を合わせて、特にそうした関係性に異議を唱えることもありませんでした。
唐では復興後のしばらくの混乱期を経て712年に玄宗皇帝が即位し、最も安定した時代を迎えることになります。この玄宗の治世の前半期、750年ぐらいまでは唐の絶頂期で、李白や杜甫のような詩人が活躍した時代でもあります。この時代の唐は対外的にも劣勢を挽回した時代で、それは節度使という辺境駐留軍の将軍に行政権を与えて権限を強大化させるという制度を施行したことによるものでした。簡単に言えば辺境の将軍に私設の傭兵軍を編成することを許可したわけです。この節度使の制度によって辺境軍事力を回復した唐はその勢威を中央アジアにまで及ぼし、中東から北アフリカにかけて大帝国を築いていたイスラム帝国と境を接するようになりました。ただ、この節度使が後に唐に大きな混乱をもたらすことになります。
このように唐が辺境で攻勢に転じたことで満州平原では渤海が圧迫を受け、渤海は唐と対抗するために日本との国交を求めて727年に初めて日本に外交使節を派遣してきました。日本側は新たな朝貢国が増えたという感覚で渤海の使節を手厚くもてなし、日本から渤海への使節を伴って渤海へ送り届けました。ここに日本と渤海の国交が成立したのです。
一方、新羅は唐と渤海の対立が激しくなるにつれて唐との結びつきを強めていき、日本と同盟している意義が薄れていきました。そういう状態のところに新羅と敵対している渤海が日本に接近し、日本も渤海に好意的に接したわけですから、新羅内では日本にへりくだって朝貢関係など続ける必要は無いという意見が大きくなり、日本と距離を置いて唐との結びつきをより強くしていこうとするようになり、唐も渤海に対抗するために新羅を利用しようとして、唐は新羅の後ろ盾となり、新羅は唐の朝貢国としての性格を強めていくようになりました。

こうした東アジア情勢の大きな変化は、渤海へ出向いた日本使節団によって把握され、その使節団が730年に帰国した際に朝廷に報告されました。前年の長屋王の変によって政権担当者は長屋王から藤原四兄弟に替わっていましたが、政策の基本コンセプトには変化は無かったので朝廷はこの事態に素早く対応することになりました。7世紀末の天武持統政権、不比等政権、長屋王政権、そして藤原四子政権を通じて一貫した基本コンセプトとは、日本型律令国家の建設というものであり、この藤原四子政権の頃になるとその完成は間近となってきていました。律令国家というものはそもそもシナ南北朝時代の兵営国家を起源としているもので、危機対応に優れた傾向がありますから、完成間近の日本型律令国家もこうした事態への対応は優れており、そしてまた、こうした危機を得てその完成を早めることになったのでした。
その具体的な施策として、まずは731年に山陽道、山陰道、南海道、西海道に令制国を超えた広域行政単位における治安維持を任務とする鎮撫使を置いて、非常時に備えて兵の徴発系統を整えました。さらに732年に新羅へ朝貢を催促する使節を遣わし、その使節が帰国して、新羅の朝鮮半島支配を唐が公認して実質的に唐と新羅の同盟関係が成立したことが判明しました。シナ大陸国家が朝鮮半島にまでその勢力を及ぼして日本に敵対してくることこそ日本にとって最も恐るべきことであり、そうした最悪の事態に対応するためにこそ日本は律令国家体制を導入したのでした。
この危機に対応するために律令国家は機敏に機能しました。732年8月、新羅からの使節団の帰国のわずか6日後に遣唐使の派遣と節度使の設置が同時決定されたのでした。この天平の遣唐使は733年に出発しましたが、その主な任務は唐との良好な関係を維持することでした。そして節度使は東海道、東山道、山陰道、西海道において臨戦体制を想定して軍事動員体制を整備しておくことを任務としていました。つまり非常時対応の広域軍政体制が敷かれたということです。要するに、遣唐使で唐に対して友好姿勢を示しつつ、節度使設置によっていざとなれば一戦も辞さないという姿勢も示すという、硬軟織り交ぜた外交戦略であったわけです。
軍事動員体制を機能させるためにはその裏づけとなる財力を中央政府が握っていなければなりません。この節度使による強権的な広域軍政を背景にして、734年1月には諸国の郡家の正倉に蓄積された官稲に対する在地豪族の支配権が解消され、官稲は全て「正税」という名で諸国の財源として一本化されるようになり、各地の稲は全て律令国家の稲として囲い込まれることとなったのです。こうして諸国の財源が「正税」によって確立したことによって、736年にはそれまで班田を実施して余った公田を貸し出して得られる「地子」を地方財源に回していたのを、中央の太政官の経費に充てることにもなりました。これらの施策によって律令国家の財政は確立したのでした。但し、このように中央の強権によって在地豪族の既得権を剥奪していったことによって、各地で律令政府への不満は潜在するようになりました。

733年に出発した天平の遣唐使は唐王朝に対して硬軟織り交ぜた外交を展開した後、734年11月に帰国してきました。この天平の遣唐使と一緒に帰国してきたのが養老の遣唐使で唐へ渡り17年間も留学していた玄と吉備真備でした。彼らは玄宗時代の最盛期の唐文化を学び日本へ持ち帰ってきました。玄は仏教が隆盛を迎えていた唐で作成された最新のものも含む仏典の収集に努め、五千以上もの経典や仏像、密教系の呪術までも日本にもたらして、日本仏教に大きな影響を及ぼしました。また吉備真備は儒教思想の体系を日本にもたらし、その他諸々の最盛期の唐の自然科学系や人文科学系の文物も日本にもたらしました。それらは暦学や音楽、漢詩、陰陽道など多岐にわたりました。彼らは朝廷で重用されることになります。
また外交面では734年12月に新羅から使節が派遣されてきて朝貢外交を廃して対等外交を求めてきましたが、朝廷はこれを九州の大宰府に留め置いて退去させました。これで日本と新羅の国家間の関係は冷却するようになっていきましたが、大宰府や九州各地における民間交易はそういう事情はあまり関係なく盛んに行われていたようです。
こうした遣唐使や新羅使のような外交使節なのか、あるいは新羅との間の民間の商人たちの行き来によるものなのか判然とはしませんが、この時期の大陸方面との盛んな行き来の中で有意義なものばかりが日本に入ってくるとは限らないわけで、時には招かれざるもの、予期しない災いももたらされることもあります。この時もたらされた災いは疫病であり、735年から天然痘が西日本を中心に大流行することになりました。

天然痘は天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、世界各地で定期的に大流行して、その極めて高い死亡率によって古来から世界中で不治の病として恐れられてきましたが、1798年にイギリスの医学者であるエドワード・ジェンナーによって天然痘ワクチンが開発されて以降は急速に流行が消失していき、1977年以降は患者の報告がなされておらず、現在は人類が根絶した唯一の感染症とされています。
現代の医学知見ではそのような定義となっていますが、もちろん古代においてはウイルス感染症というその正体は不明であり、とにかく飛沫感染や接触感染で伝染性が高く急速に伝染していくことと、罹患者は多くがごく短期間で非常に苦しんで死ぬことと、その際全身に不気味な膿疱が広がり、運よく助かっても膿疱は瘢痕化して痘痕として残り醜い容貌となったり失明などの後遺症を残したりするので、悪魔や悪霊の仕業、あるいは何らかの天罰のようなものとして恐れられていました。
この天然痘が735年から737年にかけて平城京をも含む西日本を中心に猛威を振るったのですが、これは聖武天皇や律令国家にとって未曾有の災厄でした。まさに神であるはずの天皇の治める国にとってあるまじき災いであり、かといって実際は神ならぬ身である聖武にとっては人知の及ぶことではなく、追い詰められた聖武や光明はますます仏教への救いを求めていくようになったのでした。
そして737年の4月から6月にかけて天然痘は律令国家の政権中枢部を直撃し、藤原四兄弟を含む有力な貴族が相次いで死亡し、藤原四子政権はあっけなく崩壊してしまったのです。そしてそれをきっかけに天然痘の流行は収束し始め、9月には収まっていき、僅かに残った上級貴族をかき集めて太政官人事が行われ、橘諸兄を首班とする政権が発足することになったのでした。

橘諸兄を首班とする新政権は基本的には藤原四子政権の政策を継承しつつ疫病禍によって疲弊した民政宥和のための政策を実施していたのですが、新政権発足直後の737年の10月には、奇妙なことに8年前に自死した長屋王の生き残った子供たちの異例の昇進人事を行いました。また翌738年には長屋王の聖武への呪詛に関する密告が根拠の無い讒言であり、長屋王事件が冤罪であったことを公表しています。これはあくまで密告者が嘘をついたことを認めたものであって、聖武や光明、藤原氏などが関わった陰謀を認めたものではありませんでしたが、それでも朝廷が自らの裁きの間違いをまだ関係者が多数存命している時期に認めるなどということは極めて異例のことで、長屋王に対する特別な贖罪意識がこの時期になって急に表面化してきているのが分かります。
これはつまり、長屋王の変の際に長屋王を陥れた藤原四兄弟が疫病、つまり悪霊の仕業で惨たらしく死んだという事実(?)を見て、その悪霊の正体とは「長屋王の怨霊」なのではないかと「残された共犯者たち」が恐れおののいた結果であると思われます。共犯者たちとは聖武天皇や光明皇后であり、そして彼らに代表される律令国家そのものが長屋王の怨霊の祟りの対象となっているということになります。
一応、聖武天皇の名誉のために申し添えておきますと、天皇もさすがに我が身可愛さのみで恐れおののいたわけではなく、疫病の流行に見られるように長屋王の怨みが国家や人民全体をも対象とするほどエスカレートしていることに為政者として痛切な責任感と悔悟の念を感じたのであろうと思います。
そして更に重要なことは、このような国家的危機に際して長屋王の無実をわざわざ公表して国家レベルで反省贖罪の意を暗に示すということは、律令国家が今回の疫病の災いの原因を長屋王の怨霊の仕業であると半ば認めたようなものであり、つまり神である天皇の治める国でも怨霊による災いは避けることが出来ないということ、言い換えれば神よりも怨霊のほうが場合によっては力が上であると認めたことになるということです。
神よりも怨霊のほうが力が上ということになれば、神たる天皇よりも怨霊のほうが権威が上ということにもなり、天皇の命令よりも怨霊の命令のほうが大義名分があるということになります。怨霊のもたらす災厄とは疫病に限らず、謀反や兵乱もまた災厄であり、怨霊に命じられた謀反というものが天皇よりも求心力を持つということも有り得るわけです。つまり怨霊という権威が不満分子の求心力となる可能性があるということです。これこそ律令国家において最も恐るべき災厄といえるでしょう。だからこうなると怨霊は速やかに鎮めなければいけません。実際、後に反乱に際してこの手法を使った者もいるのです。それが平将門なのです。

シナ帝国の場合は儒教の徳治主義というものがありますから、皇帝の徳が上がれば災厄は去り、徳が下がれば災厄を招きます。究極的には徳の無くなった皇帝は倒して新たに徳のある者が皇帝になれば災厄の無い平和な治世が実現されます。これが易姓革命の思想です。しかし日本の場合は天皇は神ですから既に完璧な存在であり、それ以上悪くもなりませんが良くもなりません。神である天皇の治世において災厄が起きても徳を上げて解決するということも出来ませんし、天皇を交代させることも出来ません。神の力が低下したから災厄が起きたのではなく、単に神の力を遮る外力が発生したということであり、その解決法は神の力を上昇させることではなく、その外力そのものを弱めることになるのです。
その外力が怨霊であるというのが日本の神道における考え方であり、外力たる怨霊を弱める方法論が鎮魂や慰霊ということになります。これはそれほど非科学的な考え方というわけではありません。「神」というものが「神霊エネルギー」そのものであるとするならば、神道というのはつまるところ「自然界に存在する神霊エネルギーを駆使する技術および作法、心得」ということになります。つまり「茶道」や「剣道」と同じようなもので、「道」なのです。というより、「神道」が「茶道」や「剣道」などの日本独特の「道」というものの起源なのだといえるでしょう。
「術」の場合は単に技術のみですが、「道」となると技術だけでなく心技一体となって初めて対象を自在に操れるものだと理解してもらえればいいでしょう。つまり「神道」の場合も神霊エネルギーを操るための技術だけではなく、その前提となる心理的状態を維持することが神霊エネルギー操作の条件となるのです。その神道における理想的な心理状態とは、「明く、浄く、直く、正しく」といわれる状態であり、一言で言うと極めてポジティブな心理状態が神霊エネルギー、すなわち「神の力」を発揮し操る前提条件になっているということです。
では逆に「神の力」を遮るためにはどうすれば良いかというと、「暗く、穢れて、曲がった、邪悪な」極めてネガティブな心理状態を発現させるか、あるいはそうしたネガティブなパワーをぶつけてやればいいわけです。このネガティブなパワーが「怨霊」というわけです。
これは別に非科学的な考え方ではないでしょう。ポジティブな心理状態は幸運を自然に招き寄せ、ネガティブな心理状態は知らず知らずのうちに不運を招くといわれます。「病は気から」とも言って、くよくよしたり暗いことばかり考えたりしていたら病気になるものです。重篤な状態の場合は仕方ないとしても、ちょっとした病気ならば毎日大笑いしているうちに快方に向かったりするものです。それはポジティブな心理状態が自らや周囲の人の発する神霊エネルギーを受け入れやすくしているからでしょう。逆にネガティブな人はそうした神霊エネルギーを拒絶してしまっているのです。
神道というのは基本的にはそうした生きていく知恵であったのであり、自然界に溢れる精神エネルギー、生命エネルギーをいかに感受性豊かに取り込むかという「道」であったのです。そのエネルギーが「霊」というものなのですが、生者だけでなく死者にもそうした「霊」が存在するというのは現代科学でも証明されない一種の仮説であり、死者にも「霊」が存在すると考えるのが神道のスタンスです。そしてそのうちでも神霊の作用を阻害するネガティブなものを「怨霊」と呼んだのです。

ただ、この「怨霊」を無理に死者の霊であるという考えにこだわる必要もなく、例えば子孫に祭祀されずに発生した怨霊というものは、散り散りバラバラにされてまとまって先祖祭祀も出来ないような状態にされて惨めに生きている子孫たちの怨みや憎悪のネガティブな感情がまとまって「亡き先祖の怨霊」という形になって投影されたものと考えることも出来るし、権力による陰謀で非業の死を遂げた者の怨霊というものは、同じように権力によって犠牲にされ虐げられて呻いている者たちの不満渦巻くネガティブな感情が共感されて、「ある非業の死を遂げた人物の怨霊」という形に投影されて共同幻想として作り出されたものと考えることも出来るのです。
実はこういった生きている人間の心の中にある「怨霊」こそが為政者にとっては最も恐るべきものではないでしょうか。こういった「怨霊」は恐るべきものであると同時に、人々の不満の一種のガス抜きのようなものでもありますから、圧殺してしまっては逆効果なのであって、大いに祭り上げて慰めて鎮めるべきものなのです。そうやって「怨霊」のネガティブなパワーを「明く、浄く、直く、正しく」なポジティブなパワーに転換して、有益に活用していくために神道の祭祀というものは存在するわけです。

神道というものは氏族社会の中で発展成立してきたものであったので、先述の怨霊の類型でいえば前者のほう、すなわち「子孫に祭祀されずに発生した怨霊」に対しては散り散りバラバラになった子孫を集めて祭祀を出来る待遇を与えてやるというような対処法が確立されてきました。例えばミマキイリヒコ時代にオオモノヌシが祟った時の対処などがそれに当たります。しかし、後者の類型の怨霊、すなわち「権力による陰謀で非業の死を遂げた者の怨霊」に対する対処法は、これは律令国家のような複雑な政治機構が形成されるようになってから発生した「新種の怨霊」なのであって、従来の神道的方法論の中には、このような怨霊への対処法は存在しなかったのです。
このような新種の「政治的怨霊」というものの発生は律令国家成立以降、潜在的可能性としては存在したのですが、それがこの天然痘の大流行、そして藤原四兄弟の無残な死と、その8年前の長屋王謀殺の陰謀とが絡み合って、「長屋王の怨霊」という形で姿を現すことになり、「権力による陰謀で非業の死を遂げた者は怨霊となる」という新たな怨霊発生の公式が生まれたのですが、これは天然痘の流行というきっかけはあったものの、律令国家の強権的政治に対する人々の鬱積していた不満やネガティブな気持ちが無意識的に集まって作り上げた公式でもあったのです。
つまり、日本型律令国家の形成と、政治的敗者や弱者のネガティブな感情の集積としての怨霊の発生は、表裏一体、合わせ鏡のような関係なのであり、それはまさに神たる天皇と怨霊とが表裏一体、光と影の関係であると喩えることも出来るでしょう。そういうわけで、この天然痘事件以降、日本型律令国家にとってこの新種の政治的怨霊の鎮魂慰霊は避けて通れない大きなテーマとなり、まずはそれを慰めて鎮めて有益に活用していく適切な方法論が模索されていくことになります。
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