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日本史についての雑文その320 大仏造立
737年に天然痘の流行によって藤原四子政権が崩壊した後に成立した橘諸兄政権は藤原四子政権の政策を継承して律令体制の完成を目指し、財政政策の整備を行っていきました。また基本的には諸兄は聖武天皇や光明皇后に対してはイエスマンであったので彼らの望む仏教重視政策を進め、唐から多数の経典を持って帰ってきた玄を抜擢して、玄を頂点とした仏教統制体制を敷いて全国の僧侶や官寺を国家の下に管理して、国家鎮護のために法会を行わせました。
また橘諸兄政権下では738年には、かねての光明や聖武の望み通り、阿倍内親王が皇太子となりました。初の女性の皇太子でありました。この皇太子の教育係となったのが唐から帰国してきた吉備真備でした。真備はシナから儒教思想に則った政治制度を多く学んで帰ってきたので、朝廷の制度に律令の本場シナのように儒教思想を導入していくための指導者として抜擢されていましたが、彼が皇太子の教育係となったことで、阿倍内親王や光明皇后周辺の官人たちに儒教思想が特に濃く浸透していくことになります。これは次の時代に影響が生じてくる部分です。

さて天然痘で死んだ藤原四兄弟の一人である宇合の長男であった藤原広嗣は素行が悪かったためか、玄や吉備真備によって738年に中央政府を追われて大宰府に左遷されてしまいました。そのことを恨んだ広嗣は740年の9月に聖武天皇に「災害が続くのは政治が悪いからであり、それは玄と吉備真備の重用が原因なので二人を排斥すべきである」という趣旨の上表文を送り、豊前国の諸郡の郡司たちを糾合して挙兵しました。
これに対して朝廷は的確迅速に対応し、素早く鎮圧軍を召集組織して西国へ送り、10月には鎮圧軍は九州に入り、数では勝っていた広嗣軍は鎮圧軍の素早い行動に慌ててほとんど戦わずして敗れ、広嗣は11月には捕らえられて処刑され、藤原広嗣の乱といわれるこの反乱はあっけなく終わりました。
この反乱の鎮圧において朝廷が極めて素早い軍事的行動をとって反乱を鎮めたことは、本来軍事国家体制である律令国家が見事に機能したことを実地で示すものであり、律令国家以前の時代を代表する勢力である在地の郡司層が広嗣を担いで起こした反乱を律令国家の軍隊が完封した形になったわけですから、この時点で律令国家体制はほぼ完成しつつあったのだといえます。
ただ、同時にこの反乱は律令国家が形成されて以来、初めての大規模な在地勢力による反乱であったのであり、広嗣の上表文にあった「災害が続くのは政治が悪いから」という部分が先だっての天然痘の災いと長屋王の怨霊が連想され、さらに引き続いてこのようにとうとう不満分子の蜂起まで起こり、全国の不満分子と怨霊が結びつけば、それこそ更なる大きな災いをもたらしかねないのでした。
聖武天皇はそのようにこの反乱に大きな衝撃を受け、いっそう長屋王の怨霊を恐れるようになり、まだ広嗣が捕らわれず反乱が終息していない740年の10月に突然、平城京を出て伊勢国に行幸に出てしまいました。そしてその後も平城京には戻らず伊勢国、美濃国を巡り、そのまま美濃国の不破において平城京から新たに山城国南部の恭仁京へ遷都することを唐突に発表し、すぐに恭仁京の造営が開始されたのでした。そして聖武はそのまま恭仁京に入り、741年の元日朝賀の儀式もまだ未完成の恭仁宮で行われました。
つまり聖武は740年10月以降、平城京を見捨ててしまったのです。長屋王が無念の死を遂げたのは平城京の自邸であり、その邸宅は平城宮のすぐ南にあり、その敷地は光明子が皇后になって以降は皇后宮として使用されており、聖武は平城京を都としている限り日常的にそこへ通わなければいけない立場であったわけで、広嗣の乱で長屋王の怨霊の恐ろしさを改めて強く意識した聖武は、長屋王の怨霊の本拠地ともいえる平城京に嫌気がさしたのであり、長屋王の怨霊がウロウロしていそうな皇后宮に通う生活から逃れたかったのでしょう。そうして新しい都で長屋王の怨霊から離れて気分一新で新しい政治を行いたかったというのが聖武のこれらの不可解な行動の動機であったといえるでしょう。

といっても、逃げてばかりいても怨霊は鎮められないわけで、そこで聖武や光明が目をつけたのが仏教の鎮護国家思想でした。この「長屋王の怨霊」という従来の神道祭祀では鎮めることの出来ない新種の怨霊でありましたから、この怨霊から国家を守護するためには仏教の力に頼るしかないというふうに、もともと仏教への信仰心が篤い聖武や光明が考えるのは自然なことでした。
740年6月には既に令制国ごとに新たに僧寺と尼寺を建立する方針が打ち出され、僧寺には「金光明王最勝王経」、尼寺には「法華経」の書経が命じられていました。こうした動きの延長線上に741年2月に聖武天皇の命令によって全国の国分寺と国分尼寺の建立の詔が発されました。
国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」といい、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」といいます。つまり国分寺は「金光明王最勝王経」、国分尼寺は「法華経」の思想に基づいて作られた寺なのだといえます。「金光明王最勝王経」も「法華経」も鎮護国家思想に深く関係した経典ですが、特に「金光明王最勝王経」は国を護る経典として特別な意味をもったもので、鎮護国家思想において最重要の経典でした。すなわち、この経の説くところによれば、この経を信じる国王のもとには仏教の守護神たる四天王が現れて国家を護ってくれるというのです。ちなみに四天王とは持国天、増長天、広目天、多聞天のことで、本来はインド神話に登場する神であったものが仏教に取り入れられて仏教の守護神となったものです。
国分寺の「金光明四天王護国之寺」という名称は、まさにこの「金光明王最勝王経」の思想を体現した名称であり、聖武天皇は日本全国の隅々にまで国分寺を建てて、釈迦像や「金光明王最勝王経」を安置することによって、四天王の加護を得て怨霊から国家を護り、災いを無くして国家の安定を図ろうとしたのだといえます。

しかし聖武はこうした従来の鎮護国家思想を更に超越して新たな道をも模索しようとしました。740年に平城京の外京の東にある金鐘寺の僧である良弁が新羅僧の審詳を招いて「華厳経」の講説を始めると、聖武はこの新しく入ってきた経典に傾倒するようになり、良弁が勢力を有していた近江南部の紫香楽の地に華厳経の教説に基づいた理想の都を作ろうと構想するようになっていきました。
華厳経の思想は極めて難解で深遠であって、的確に説明するのは容易ではありませんが、ごく簡単に言えば時間や空間を超越した絶対的存在たる仏について述べた大乗経典であり、この経典を最高究極の経典として重視するのが華厳宗という宗派で、この華厳宗の第三祖といわれる唐の法蔵という僧の弟子の一人が審詳であったのです。
この華厳経の中で説かれる時空を超越した仏の住む理想的世界が「蓮華蔵世界」といいまして、この「蓮華蔵世界」における教主たる仏は釈迦ではなく、「盧舎那仏」という名の観念上の仏です。743年に聖武天皇は紫香楽の地に「盧舎那仏」の金銅像を造立することを突如宣言しました。いわゆる「大仏造立の詔」です。聖武天皇は巨大かつ壮麗な「盧舎那仏」を紫香楽の地に安置することによって、その地に華厳経に説かれる「蓮華蔵世界」を体現した理想の都を現出させ、日本の国土を仏教の理想的世界として、究極の仏である「盧舎那仏」の霊的パワーで怨霊を撃退しようとしたのです。
このように聖武が思いつきで紫香楽への遷都構想に傾いたために、遷都計画は迷走することになります。既に建設中であった新都である恭仁京の造営計画は743年の暮れには中止が決定され、かといって聖武としては怨霊の巣食う平城京に戻るというわけにはいかず、差し当たり副都として機能していた難波宮が新都候補として浮上し、744年2月には難波宮を首都とするという勅命が出されることになりました。ところがこの時既に聖武は紫香楽に移って大仏造立計画に夢中になっており、744年の11月には紫香楽で大仏の造立が開始され、745年1月には紫香楽宮が正式に新京とされるようになりました。

このような迷走する遷都計画および大仏造立計画はハッキリ言って壮大なる国富の無駄遣いであり、三世一身法の影響で上向いていた律令国家の租税収入を無意味に食い潰していきました。その三世一身法も723年の施行から20年ほど経ってきて、多くの開墾者が墾田を国家に返納しなければいけない時期に差し掛かり耕作をやめてせっかくの墾田が荒地に戻り、三世一身法の効力が切れる時期が到来していました。しかし大仏造立などでまだまだ財源が必要であったので、租税収入確保のために墾田の増加を策するための法律を整備する必要がありました。
それが743年に発布された「墾田永年私財法」でした。これは三世一身法のあったような三世代や一世代というような墾田私有期間の制限を撤廃して墾田の私有を永久的に認め、その代わり、身分や位階に応じて墾田面積の制限規定を設けたものでした。これで日本においてもシナ律令制における口分田と永業田の二本立ての土地制度と実質的に同じ制度が実施されることとなり、開墾地を含む全国の土地を掌握し、それらの土地から確実に租税を徴収するシステムが完成したのでした。

こうして開墾が進むようになり、租税収入は増えました。その国富を注ぎ込んで遷都計画や大仏造立計画が進められていったわけですが、そもそも聖武が目指していた大仏造立計画というのはそういうものではなかったはずなのです。743年の「大仏造立の詔」において聖武は「世の人々が自発的な協力者となって大仏を作ることによって仏教の力で世界が豊かになる。民に助力を強制してはいけない。民の苦労が増えるばかりでは仏の教えが感得されることはなく、かえって悪い心が芽生えて罪に落ちるものが出る」という趣旨のことを述べているのですが、しかしこんなことは仏教理想主義者の聖武の身勝手な言い分に過ぎないのです。
そもそも民を租税を納入させるために田地に縛り付けるために出家も許さず、仏教の布教も禁じてきたのは聖武を頂点とした律令国家であり、そのような状態で世の人々が華厳経や盧舎那仏の有難さなど理解できるはずもなく、大仏造立の「自発的な協力者」になどなり得るわけがないのです。そうした矛盾を隠すために、それまで弾圧してきた行基の率いる仏教信者集団などを掌を返して優遇して新都や大仏の造立の労働力として取り立てて、「自発的な協力者」の象徴として祭り上げたりしましたが、現実には民から搾り上げた租税を注ぎ込んで新都や大仏は作られていたのであり、それは実質的に「民に助力を強制」し、「民の苦労が増えるばかり」であったのです。そのようなことでは「仏の教えが感得されることはなく、かえって悪い心が芽生えて罪に落ちる」のであるから、仏教的理想世界の構築など為されるはずもなく、怨霊から国家を守護することなど不可能ということになります。
そういう状況ですから、おそらく聖武のような人から見れば「仏の教えが感得」されていない者達が「悪い心が芽生えて」ということになるのかもしれませんが、世の人々の多くはこの遷都騒動や大仏騒動に不満を噴出させて、745年の5月には官人のほとんどが平城京へ首都を戻すことを要請し、完全に孤立した聖武はやむなく新都計画も紫香楽での大仏造立計画も全て放棄して、大仏造立を平城京で行うことを条件に平城京へ戻ることになります。この時点で聖武は44歳になっており、これ以降は聖武は政治への意欲を喪失し、ひたすら仏教信仰と大仏造立に没頭していくのみとなります。長屋王の怨霊を抑えるためには大仏造立だけは成し遂げなければいけないと聖武は堅く信じていたのでした。

こうした聖武のエキセントリックな行動をひたすらフォローしてきたのが政権首班の橘諸兄でありましたが、さすがに諸兄も内心呆れたのか、フォローし切れなくなったのか、官人による平城京への還都要請は諸兄が主導して行っています。諸兄の後ろ盾は聖武の義母であった元正上皇であり、こうした諸兄の動きは元正の了承も得たものであったのでしょう。諸兄や義母の元正までも離れていったことが聖武を平城還都へ踏み切らせ、そして政治への意欲を失わせた理由であったのかもしれません。
諸兄の息子の橘奈良麻呂に至っては、父親よりももっとあからさまに馬鹿馬鹿しい遷都騒動への不満を述べ、聖武の平城還都の際には、どさくさ紛れに長屋王の子の黄文王を皇太子に立てようというクーデターを計画し、未遂に終わっています。奈良麻呂はこの後も何度かクーデターを計画する常習犯ですが、このような事件がこの時に公に処罰されることも無かったのは、奈良麻呂の不満が正当なものであり、多くの官人や貴族豪族から土民に至るまでがそうした不満を共有していたという不穏な情勢が背景にあったと思われます。国家の平安を願って聖武が企図した遷都や大仏造立などの試みが、逆に全国に不穏な情勢を作り出してしまったという皮肉な事態を招いたのです。
しかし完成局面にあった律令国家は、この時点ではこうした不穏な情勢をなんとか抑え込んで、良きにつけ悪しきにつけ日本型律令国家完成のモニュメントとなる大仏を完成させてしまえるだけの底力を有していたことも紛れも無い事実ではあります。745年には全国の国司への懐柔策として「公廨稲制度」の導入が行われ、その上で746年には全国に鎮撫使が派遣され地方への締め付けが強化され、天然痘の流行以来停止されていた兵役を復活させて治安維持のための軍事力を強化し、こうした硬軟取り混ぜた地方統制策で不穏な情勢を鎮めていったのです。
ちなみに「公廨稲制度」というのは各国の地方財源である「正税」から国司の給与の財源として「公廨稲」という稲を分離して積み立てておき、これを原資として出挙、つまり稲の貸付を行って「公廨稲」を増やし、中央へ送る年貢の不足時の補填財源とするという制度ですが、これは言い換えれば中央へ所定量の年貢さえ納めておけば、出挙で増資した分も含めて残りの「公廨稲」は国司の自由裁量で懐に入れることが可能という制度で、「正税」における「公廨稲」の占める割合が大きかったため、後に地方財源を国司が懐に入れることを公認して地方行政が立ち行かなくなり、また国司が自らの収入増加のために出挙を乱発するようにもなる等の様々な弊害が生じるきっかけとなったのでした。

745年8月から平城京に場所を変えて大仏造営計画は再開されることとなりました。造営場所は良弁が僧正を務める金鐘寺が選ばれ、その名を東大寺と改めることとなりました。つまり現在、奈良の東大寺にある「奈良の大仏」というのがこれにあたります。「奈良の大仏」は正式には「東大寺盧舎那仏像」といいまして、釈迦如来ではなく盧舎那仏の仏像なのです。但し厳密にはこの奈良時代に作られた大仏はその後の自然災害や戦火でほぼ失われており、東大寺に現存している大仏は後世にほぼ全面的に補修されたもので、ほぼ別物といっていいでしょう。
746年には大仏本体のブロンズ像を鋳造するための鋳型が完成し、747年から段階的に鋳造が行われ、749年に大仏本体の鋳造が完了しました。この間、748年には元正上皇が68歳で死去し、橘諸兄は後ろ盾を失って政治力を失っていきました。代わって発言力を増してきたのは天然痘で死んだ藤原武智麻呂の子である藤原仲麻呂で、仲麻呂の後ろ盾となっていたのは叔母にあたる光明皇后でした。
光明皇后と元正上皇は皇嗣に関して意見の対立があったようです。光明皇后は我が子であり藤原系である阿倍内親王の即位を望んでいたのですが、元正上皇は中継ぎ役でない女性天皇の即位に反対して阿倍内親王の即位に歯止めをかけていたのです。聖武天皇は745年以降はとっくに政務に意欲を失っていましたから、元正上皇の反対が無ければとっくに阿倍内親王への譲位が行われていたと思われます。
光明皇后の腹心であった藤原仲麻呂は当然、阿倍内親王を推していたのであり、元正上皇の腹心であった橘諸兄は、その息子である奈良麻呂が長屋王の息子の黄文王擁立のクーデターを企図していたくらいですから、内心では諸兄本人も、あるいは元正上皇も黄文王を推していたのかもしれません。
そうした状況において元正上皇が死去したということは、阿倍内親王の即位がほぼ確定的になったということを意味し、それは必然的に橘諸兄の影響力を低下させ、藤原仲麻呂の発言力の上昇に繋がるのでした。また元正上皇の死は聖武天皇の退位を妨げるものが無くなったということも意味し、749年1月に聖武は出家しました。天皇の出家は初めてのことであり、「神」である天皇が「仏」の弟子となるというのは画期的なことでした。
聖武は「三宝の奴」、つまり「仏にお仕え申し上げる卑しい身分」と自ら名乗るようになり、事実上の天皇不在の状況となり、7月には阿倍内親王が即位し孝謙天皇となりました。同時に仲麻呂は大納言に昇進し、8月には光明皇后が皇太后になるにあたって皇后宮職が改組発展されて「紫微中台」という機構が新たに創設されて太政官に準ずる権限を持つことになりますが、この長官も仲麻呂は兼ねることになり、仲麻呂の権力掌握はほぼ完了することになったのです。
ちなみに橘奈良麻呂はこの孝謙即位時にも黄文王擁立のクーデターを企図し未遂に終わっていますが、この時も処罰を受けていないのは、お飾り的になったとはいえ左大臣となっていた父の諸兄の存在もあったからでありましょうし、また孝謙即位時にはまだ孝謙の即位に異議を唱える勢力が朝廷内にも相当数存在したからであろうと思われ、また仲麻呂に対する抵抗勢力もまだかなり存在したからなのでしょう。

大仏のほうは749年から表面に金メッキを塗っていく作業に入っていきますが、その際、皇室の祖霊である八幡大神が入京して、鋳造用の土砂を撤去して姿を現した大仏を拝して、大仏造立に協力を惜しまないという託宣を下し、東大寺の近くに新たに造られた神宮に宿り、東大寺の守り神となるというセレモニーが行われました。これは聖武の出家と同じように、神が仏の下になって仏のために奉仕するという思想を象徴的に表すものでした。
それはこの律令国家文明の確立期の末期において、確立期を通して建設されてきた「仏」に象徴される律令国家文明が、「神」に象徴される旧文明である王権国家文明の要素や勢力のこの時期になって激しくなった抵抗をも抑え込んで、とうとう律令国家文明を完成させたということを示すものでした。その記念碑的なセレモニーが聖武の出家であり、八幡大神の入京であったのですが、そのクライマックスとなったのが752年の大仏開眼供養でした。
これは聖武上皇の体調不良によって予定が早められて行われたもので、この時点ではまだ大仏は完成しておらず、出来上がっていたのは頭部だけであったと言われていますが、それでもかつてない壮大なイベントとなり、この後も大仏造立は756年あたりまで続けられますが、事実上はここで大仏というモニュメントは成ったのであり、ここが大きな時代の節目となり、ここから律令国家文明は修正期に入っていくことになるのです。

8世紀のおよそ二番目の四半世紀にあたる聖武天皇の治世は律令国家文明の確立期後期に相当し、藤原氏を中心とした新文明勢力によって律令国家が力強く建設され、それが安定し初めて本格的な収穫が享受できる時代となりますが、その後半には律令国家を完成させようというパワーがやや過剰となり、それが大仏造立騒動という逸脱となって現われ、その急激かつ過激な動きへの反作用として旧文明である王権国家文明の担い手達、それは非藤原系皇族層であったり在地豪族層であったり神道的理念であったり、あるいは虐げられた人民であったりするわけですが、そういう諸々の不満が「怨霊」という形で現われて、社会が一種不安定な状態になった時代であるといえます。
ただ、律令国家文明の担い手達はそうした不満を抑え込んで律令国家をひとまず完成させることには成功します。その到達点が大仏開眼ということになりますが、その完成というのは旧文明勢力の不満を調和的に取り込んでいくことで達成されるのであり、過剰かつ過激な抑圧方針は改まり、逸脱は修正されていきます。そういう意味で大仏開眼は律令国家の到達点であると同時に転換点でもあり、ここから安定成長路線へシフトしていくのです。そしてこの時代は王権国家文明の解消期の後期にも相当するわけで、一見、律令国家文明の原理の下に組み込まれたかに見える王権国家文明のエッセンスは底流となって次の時代に流れ込んでいき、密かに律令国家文明と化学反応を起こしていくのです。
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