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日本史についての雑文その321 孝謙後嗣問題
749年に聖武天皇は48歳にして退位して、その娘で31歳になっていた阿倍内親王が即位して孝謙天皇となりました。既に聖武上皇は政務に意欲を失っており、政治的実権は藤原氏出身の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂が握るようになりました。仲麻呂はこの時43歳でありました。既に玄は亡く、吉備真備は左遷され、橘諸兄政権の基盤は弱められていきました。
聖武によって進められてきた東大寺大仏造立は752年の開眼供養会で大きな節目を迎えましたが、その後も大仏表面の金メッキの塗りつけや仕上げ、大仏殿の建設などが進められました。だいたい大仏本体が756年に完成し、大仏殿の完成が757年となります。この大仏造立は国費を浪費し財政事情を悪化させ、農民層に負担が激増して逃亡して戸籍から離れて浪人になる者なども増えて、平城京内では浮浪者や餓死者も増えて、聖武の国家安泰を願った思惑とは全く逆の結果となってしまいました。
その聖武は754年頃から体調が悪化し、それにつれてますます光明と仲麻呂の支配体制は強固なものとなっていき、755年に左大臣の橘諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、それを恥じた諸兄は756年2月に職を辞して引退し、翌年73歳で死亡しました。そして聖武は756年5月に55歳で死去しました。
この時代は同時に複数の上皇が存在するということは想定されておらず、上皇が存命中は天皇は退位できないことになっていました。言い換えると上皇が死去してしまえば天皇はいつでも退位できることになるのです。ただ天皇が退位するためには皇太子を定めておかねばなりませんが、孝謙女帝は独身のまま天皇になっていましたので子供がいませんでした。そこで聖武の死に際して他の皇族の中から皇太子を選んでおかねばならなくなりました。
このように独身で子供もいない女帝が後先のことも決まっていないまま即位してしまったり、どうもこの奈良時代の皇位継承というのは歪な形になっています。それが何故なのかもう一度よく考えてみます。

本家男系皇族の天智系の女系の血統と傍系女系皇族の天武系の男系の血統の掛け合わせの末裔に皇統を限定しようというコンセプトが既に天武天皇の時から生じており、更に持統天皇の時代に草壁皇子の末裔が皇族本流と限定され、その血筋の男子が草壁皇子、文武天皇と二代続いてひ弱で子供をあまり作らず早死にしてしまうという偶然が重なったために、皇族本流の男子は聖武天皇一人となり、とにかくこの聖武即位に繋げるために四苦八苦していたのが8世紀最初の四半世紀ということになります。
ただ、皇族本流の男子がもう少し多く、かつ健康であったとしても、それほど皇位継承の選択肢が増えたかどうかは疑問です。この時代の規定では天皇の配偶者の人数や身分についての制限が厳しく、皇后1人、妃2人、夫人3人、嬪4人が上限とされ、例えば平安時代のように多数の女御や更衣を抱えるということは出来ず、しかも皇后と妃は皇族でなければいけないとされていたので、出産の危険性が高く乳児死亡率も高かったこの時代においては決してこの配偶者の数は確実に男子の継承者を確保するには十分な数とはいえなかったでしょう。
皇族本流の血統を限定したり、配偶者のバリエーションを殊更に制限しようというこれらの施策や規定の意味するところは、天皇の純血性を極めて重視していたということでしょう。なぜ天皇が純血でなければいけなかったのかというと、この律令国家が建設されていく時代においては天皇は「神」でなければいけなかったからです。
唐の律令制を模して律令国家を作り上げるにあたって、唐の「皇帝」に相当する存在として「天皇」という君主が必要とされ、「天命」という概念の無い日本において「皇帝」と同じような正統性や求心力を「天皇」に付与するためには、「天神の子孫」であるという形が不可欠であったのであり、その「神の子孫」としての純血性を確保するために実権者としての天武と神孫としての正統である天智の娘である持統との間の血統に皇統を限定し、配偶者も出来るだけ皇族優先とするような規定が必要となったのです。
つまり、この律令国家建設期、つまり天皇制度の創設期においては、皇統を末永く伝えていくことが第一義とされていたのではなく、まず第一義とされていたのは律令国家を建設することであり、そのために「天皇」という君主の求心力が必要であったのであり、天皇の求心力を確保するためには、日本において古くから続く王族である大王家の正統の血筋を「神の子孫」と規定して、その純血性を守って「天皇=神」という定義を強調することが必要であったのでした。
要するに、大王家も、その血筋の純血性も、とにかく律令国家建設という大目標のために利用されていたわけで、皇位継承に少々支障が生じたとしても、律令国家建設のためには純血性のほうを重視していたという時代であったのです。だから、一見したところ皇統や皇室の純血などを重視しているように見えて、本当に大事なのは律令国家建設と「天皇」の求心力であって、極論を言えば、天皇家以外の家系で「天皇」という君主の求心力を維持出来て律令国家の建設が滞りなく進むのであれば、それはそれで構わないということになります。
そういうわけですから、律令国家の建設が一段落して安定期に入れば、殊更に天皇の純血性にこだわる必要も無くなり、天皇が純血でなくても、また、天皇家以外の家系が「天皇」になっても、それでも律令国家は運営可能なのではないかという考えも生じてきます。もともと天皇家とその純血性は「天皇」という律令国家の機関を円滑に機能させるための手段に過ぎないわけで、他の手段でも「天皇」という機関が円滑に動くという状況になったのならば、それはそれでいいということになります。
実際、草壁皇子の血筋を皇統本流としていくという持統天皇の思惑を実現するための協力者である藤原不比等が、その協力の見返りに草壁系の男子に藤原氏の娘を娶わせて、藤原氏の血を引いた天皇を実現させていくということ、つまり天皇の純血性にそれほどこだわらなくなったのも、律令国家が不比等らの活躍によって次第に安定していったから可能になっていったことなのです。その帰結として藤原氏を母に持つ聖武天皇の即位があったのであり、この聖武即位以降、律令国家は安定期に入るのです。安定期に入ったからこそ聖武が即位できたともいえます。

この聖武即位こそは持統の望んだ草壁系皇統の結実であり、満を持して即位した聖武を新たな始祖として皇統が連綿と繋がっていくはずだと、後世の人間である私などは思ってしまいますが、実際はそうはならないのです。ここで今度は、「藤原氏の血を引かなければ天皇になれない」という新たな縛りが生じて、阿倍内親王、つまり孝謙の即位へと繋がっていくのです。
この藤原氏の血統優先の縛りは、確かに平安時代にも存在はするものですが、平安期にはあくまで皇統維持が優先されており、藤原氏の血を引く適当な男子がいなければ藤原氏もそれはそれで諦めて、非藤原系の皇子を即位させてその天皇にまた一族の娘を娶わせるという柔軟性を持っていました。
ところが孝謙には配偶者も子供もおらず、せっかく繋いできた草壁系皇統は孝謙で途絶えることになるのは目に見えていました。聖武天皇に男子がいなかったというのなら仕方ないことかもしれませんが、実際は聖武には安積親王という皇子がいたのです。これは727年に光明子から産まれて翌年に夭折した基親王という最初の皇太子ではなく、その1歳下で、728年に県犬養広刀自という女性から産まれた第二皇子で、母親は藤原氏ではないけれども、れっきとした聖武の唯一の皇子であったのです。
この安積親王は744年に16歳で亡くなりますが、異母姉の阿倍内親王が皇太子になるのは738年のことで、安積親王がまだ存命中のことです。阿倍内親王では皇統が途絶えることは分かりきっているのに、それでも草壁系皇統を繋ぐ可能性の高かった安積親王を差し置いて藤原氏の血を引く阿倍内親王を皇太子としたわけですから、こうなると皇統よりも藤原氏の血のほうが大事ということになります。安積親王は結果的には16歳で死んでしまったから皇統は繋げなかったわけですが、それはあくまで結果論であって、安積親王は病弱ではなくむしろ元気であったようで、早死にするとは738年時点では誰も予想していなかったわけですから、阿倍内親王の皇太子就任は藤原氏や光明皇后の強い意思の働いたものであるのは明らかでした。いや、元気だった安積親王が744年に急死したのも藤原仲麻呂に暗殺されたのだという説もあるくらいです。

そもそも聖武天皇は独身の娘が皇位を継ぐということをどのように思っていたのでしょうか。聖武はさすがに自分の祖母や叔母が四苦八苦して自分へと繋いでくれた草壁系の皇統の重さを理解していたでしょうから、それが途絶えるということは避けたいと思っていたはずです。しかしそうはいっても光明皇后や藤原仲麻呂らによる阿倍内親王即位を望む声を拒むことは出来そうにありません。ただ阿倍内親王では世継ぎがいないことも自明のことでした。
しかし未婚の女性皇族で即位した前例はあります。聖武の叔母の元正天皇がそれで、元正天皇は未婚で即位して自分の甥にあたる聖武の義母となり、聖武に皇位を受け渡したのです。阿倍内親王、つまり孝謙も元正と同じ扱いとすればいいのです。孝謙が即位してその皇太子に安積親王の息子を据えて、孝謙はその自分の甥の義母となればいいのです。本当は孝謙の同母弟の息子のほうがいいのでしょうが、それが夭折しているのですから仕方ありません。少なくとも孝謙では草壁系の皇統が途絶えてしまうのですから、異母弟の子でもまぁ仕方ないと考えなければいけません。そもそも同母弟が生きていれば孝謙の即位は無いわけですから本末転倒な話です。藤原氏の血筋という意味では安積親王に藤原氏の娘を娶わせて、その子が孝謙の養子になれば解決です。
聖武の立場としてはそのように考えていたのではないかと思います。ところが安積親王は16歳で死んでしまいました。これで聖武の血を引く子供は終わりかというと、そういうわけではなく、安積親王には同じ母から産まれた姉が二人いました。これが井上内親王と不破内親王で、不破内親王は739年に天武天皇の孫である塩焼王と結婚しており、これはこの二人の間の子も孝謙の養子として皇位継承候補とすることも有り得るという聖武の思惑があったものと思われます。あくまで安積親王の血統が第一候補で、それに次ぐ次善の候補という位置づけであったとは思われますが、塩焼王は遷都騒動で聖武に批判的であったので742年に難癖をつけられて伊豆に流されてしまいます。しかし744年の安積親王の早死にを受けて745年には塩焼王とその一家は許されて都に戻り政界に復帰しました。
一方、不破内親王の同母姉にあたる井上内親王は幼い頃から伊勢神宮の斎王となっていたのですが、744年の安積親王の死をうけて斎王の任を解かれ都に戻され、天智天皇の孫にあたる白壁王と結婚することになりました。これもその夫婦の間に産まれた子を孝謙の養子とするということを視野に入れた措置であったと思われます。
ただ、塩焼王がその父の新田部親王の代から聖武天皇の補佐役として重きをなしていた家系であったのに対して、白壁王やその父の志貴皇子は政治的に全く無力であったので、あくまで井上内親王のほうは保険であり、安積の死後は聖武にとっては孝謙の次の皇位の本命は塩焼王と不破内親王の血統であったと思われます。

ただ、塩焼王と聖武の間には遷都騒動の際の確執があったので、聖武の口から塩焼王やその子の皇太子就任を命じるわけにはいかなかったようです。それで聖武上皇は756年のその死に際して塩焼王の弟である道祖王を孝謙の皇太子とするように遺詔したのでした。おそらく聖武の死後に時を置かず道祖王が自ら皇太子を降りて兄である塩焼王に皇太子を譲ることになるように話がついていたのではないかと思われます。それは聖武と孝謙、道祖王、そして右大臣である藤原豊成とで了承していたことであったのでしょう。豊成は仲麻呂の兄であったのですが、穏健な官人で仲麻呂や光明皇太后とは距離を置いて、聖武上皇と同じく草壁系皇統の継承に重きを置いていたようです。
聖武の死の日、道祖王が遺詔に従って皇太子となりますが、ほどなく「自分は皇太子の器ではない」などと言うようになり、翌757年3月に孝謙は道祖王の廃太子を決定します。このいささか性急な決定に豊成も全く異論を挟んでいません。おそらくここまでは台本通りの筋書きであったのでしょう。その台本の続きは塩焼王の皇太子擁立であったはずであり、更にその続きは塩焼王と不破内親王の間の男子を孝謙の養子として次の皇太子とするという約束であったはずです。
ところが翌月の皇太子選定会議において豊成とその従兄弟の藤原永手が塩焼王を推すと、豊成の弟で大納言の仲麻呂が「天皇の意思を尊重すべき」と言い出し孝謙の発言を促したところ、孝謙が塩焼王ではなく大炊王を推すという意外な展開となり、結局、大炊王が皇太子になってしまったのです。これはあらかじめ孝謙と仲麻呂によって仕組まれていた展開で、豊成はまんまと騙されたことになります。そしてこの動きの黒幕は光明皇太后であったと思われます。
大炊王は天武天皇の孫にあたり、この時24歳でした。父は聖武天皇の補佐をして重きをなした舎人親王でしたが、大炊王は七男で3歳の時に父を亡くしており、母の身分も低かったため、官位も受けていませんでした。この大炊王は藤原仲麻呂の息子の未亡人を妻としており、仲麻呂の私邸に住まわせてもらっており、言わば仲麻呂に養ってもらっている立場の皇子でした。草壁系の皇統とも何の繋がりも無く、完全に仲麻呂の傀儡に過ぎませんでした。普通に考えれば44歳で政界でのキャリアも申し分なく聖武の娘を妻としていた塩焼王との格の違いは明らかであり、塩焼王ではなく大炊王を皇太子にするという決定は驚天動地のものであったと思われます。
この皇太子交替劇を受けて、橘諸兄の子で、かねてから孝謙や仲麻呂に批判的であった橘奈良麻呂が757年7月にクーデター未遂事件を起こしました。それは、仲麻呂を殺害して大炊王を皇太子から降ろし、豊成を首班とした政権を樹立して、孝謙を退位させて塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王の中から新しい天皇を選ぶというものでしたが、本命はもちろん塩焼王であったでしょう。
このクーデターの発覚によって首謀者の奈良麻呂をはじめ道祖王などの関係皇族も多く獄死や拷問死し、関係者四百人以上が処分され、クーデターに関与はしていなかったもののそれを見過ごしたとして豊成も左遷され、さすがに聖武の娘を妻とする塩焼王だけは罪を免れたが翌年に臣籍降下させられて氷川真人という名に改めさせられ、つまり皇位継承資格を剥奪されました。このクーデター未遂事件によって仲麻呂独裁体制が出来上がったといえるでしょう。

そして758年8月、孝謙天皇は大炊王に譲位し、即位した大炊王は淳仁天皇となりました。これで皇統本流である草壁系とは全く無関係の天皇が誕生したことになります。もちろんこれも仲麻呂、そしてその後ろ盾である光明皇太后の意思でした。しかし草壁系の血統を重視するというのが天武持統以来の律令国家の大原則であり、藤原氏も不比等以来それに協力するということを存在意義としてきたはずなのです。それなのに不比等の孫の仲麻呂のこの行動はどうしたことでしょうか。また、当の草壁系皇族である孝謙までその片棒を担いでいるというのはどうしたことでしょうか。
そもそも、草壁系の血統と藤原氏の血統を両方大事に思うのならば、その両方の血を引く唯一の皇族である孝謙を不破内親王や井上内親王と同様に、阿倍内親王時代に適当な天武系皇族と結婚させて子を設けさせておくという選択肢もあったはずです。それが為されていないということは、最初から孝謙は安積親王や不破内親王の子を養子にして草壁系皇統の繋ぎ役となるための要員として、つまり元正天皇と同じような独身女性皇族の役割を担っていたのか、あるいは母である光明があえて孝謙を独身のままでいさせたのであり、孝謙自身もそれで良しとしていたのか、この2つのどちらかでしょう。
もし前者であったとするなら、757年4月時点で塩焼王の立太子を拒否していることをもって藤原仲麻呂も孝謙も光明もその役割を放棄していることになり、後者であったとするならそもそも光明も孝謙も草壁系皇統の護持には熱心でないということになります。つまりどちらにしても、藤原仲麻呂や光明皇太后、孝謙天皇は、あれほど持統や元明、元正、そして不比等らが必死になって聖武にまで繋いだ草壁系皇統の継承には大して興味を持っていないということになります。
つまりこれは時代が変わったということで、律令国家が安定して、もう「神の正統の血筋」である草壁系の血統に強くこだわらなくても「天皇」の求心力は維持できる時代になったのであり、そもそもそこまで強い求心力ももう必要としないようになったということです。実際にそうなったかどうかはともかく、少なくとも仲麻呂や孝謙、光明らはそのように感じていたということです。いや、それだけでなく、彼らは更に一歩踏み込んで、天皇家の血統自体にこだわる必要も無いと考えていたのではないかと思います。
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