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日本史についての雑文その322 恵美押勝と道鏡
聖武天皇は長屋王の怨霊におびえて仏教の法力で災いを取り除いて国家を安泰にしようとして大仏を造立したりしたのです。ところがその結果は惨憺たるもので、国家財政は破綻し、人民は疲弊し、逆に災いが増えてしまったのです。つまり仏教では国家を安泰にする力は足りないという認識となったわけで、何か別の国家原理が必要になってきます。そこでクローズアップされてきたのが儒教でした。
儒教思想が日本律令国家によって本格的に受容されたのは734年に吉備真備が唐から儒教の経典を大量に持ち帰ってからで、それ以降は朝廷では儒教的な儀式や制度などが行われるようになりました。しかも真備は孝謙の皇太子時代の教育係であったわけで、孝謙やその側近の藤原仲麻呂が儒教思想の影響を強く受けたのは当然の成り行きでありました。
そもそも律令制というものはシナで生まれたもので、シナ文明と不可分の関係にあります。異文明社会が律令制を取り入れた場合、シナ文明の要素も漏れなくくっついてくることになりますが、もともと異文明社会ですから最初の頃は自己流にアレンジしたものになりがちです。しかし年月が経ってきて律令制が定着し、更にシナとの交渉が続いた場合、シナ文明を抵抗なく受け入れるようになり、その社会はシナ化していくようになります。
これは別に日本だけの特異な現象なのではなく、750年あたりから東アジアの各地で同時に起こったことで、玄宗時代の最盛期の唐の影響を受けて生じたものです。朝鮮半島の新羅でもそれは顕著に起こり、文化的宗主国よりも更に純度の高い模倣をすることを特徴とする朝鮮半島国家である新羅では、日本よりもより極端にシナ化が進むことになり、姓名までシナ式に変えてしまうのですが、そこまで極端でないにしても日本でもこの時期はシナの模倣が顕著になり、それはこの後9世紀に入っても続くのでした。但し、その後の展開が日本と朝鮮ではだいぶ違ってくることになるのですが。
とにかく極論を言えば、律令制の受容の行き着くところは日本がシナ帝国の完全なコピーになることでありました。それを目指すべきだという考え方もこの時期には生まれてきたということです。そのシナ帝国の国家原理は儒教で、それは徳治主義でした。簡単に言えば「徳」のある人物が政治を行えば世の中は丸く治まるという考え方です。だから王朝に「徳」が無くなれば世の中は乱れ、より良い世の中にしたければ、より「徳」の高い人物に王位を譲るほうが良いという「易姓革命」の思想が生じるのです。

仲麻呂や孝謙はこのシナ趣味や儒教思想にかぶれていたのです。いや、かぶれていたというのは本人達にとっては心外でありましょう。仏教のみでは国家を安泰たらしめることが出来ないということを痛感した彼らは本心から儒教思想こそが天下安泰のための切り札であると大真面目に信じていたのだと思います。だから彼らは草壁系皇統への強いこだわりというものは持っていなかったのです。彼らにとって大事であったのは「血統」よりも「徳」であったのです。
光明はおそらくそこまで儒教思想に傾倒しているということはなく、塩焼王の立太子を阻止した動機は単純に聖武の側室であった広刀自の血筋に皇位が移ることへの不快感と、甥である仲麻呂への同じ藤原氏としてのシンパシーであったのでしょう。最も主導的であったのはおそらく仲麻呂で、自らを始祖とする新たな王朝を起こすことまで視野に入れていたと思われます。孝謙は仲麻呂と思想的には同志ではあったと思いますが、むしろ光明や仲麻呂に操られる立場であり、仲麻呂による易姓革命を積極的に強く支持していたというわけではなく、引きずられるような形で共犯関係にあったのだと思われます。
このように仲麻呂や孝謙に代表されるような、儒教思想に傾倒して「天皇」をシナの皇帝のような易姓革命によって有徳の君主を選び得るようなものと捉える「革新派」と、あくまで血統を優先して天武持統期以来の草壁系皇統維持を原則とする「保守派」とが、王権の在り方に関して路線闘争を繰り広げたのが、阿倍内親王の立太子から淳仁天皇即位にまで至る時代の実相であったといえます。そもそも保守派の重鎮は元正上皇で、その死後は橘諸兄や息子の奈良麻呂、藤原豊成、永手らが保守派を形成していたのでしょう。それに対して革新派は藤原仲麻呂、孝謙天皇が代表格で、内ゲバで左遷されましたが吉備真備も革新派の長老格ということになり、光明皇太后は思想的には革新派というわけではありませんが常に仲麻呂の庇護者であり、聖武上皇は基本的には保守派なのですが優柔不断という感じでしょうか。
この保守派と革新派の路線闘争が、聖武死後の皇太子選定を巡って革新派が勝利を収め、それに不満を持った保守派が宮廷クーデターを起こそうとしたのですが失敗し、それによって保守派が一掃されて革新派の独裁体制が出来上がって、その結果、淳仁天皇の即位に至ったということになります。

仲麻呂が皇位を奪おうとしていたというと、あまりに大それたことなのでそんなことはあり得ないと思いがちですが、結果的に皇室が連綿と二千年以上続いた(ということになっている)現代の感覚で当時の仲麻呂らの心情を計ってはいけません。淳仁天皇即位時点では、まだ「日本」という国家が出来たり「天皇」という君主が現れてから百年弱しか経っていないのです。もちろん皇室の血統はもっと昔にまで遡ることは出来ますが、それはあくまで古代世界で有力であった名族の血筋であるというだけのことで、律令制を導入してシナ帝国のミニ版として中央集権統一国家として作られた「日本」という新興国家の「天皇」という君主に古代の名族である大王家を推戴したのが仲麻呂の時代から見て「たった百年前」であるというだけのことなのです。
百年間はとりあえず草壁系皇族で「天皇」を担当してきたが、それよりも「徳」のある氏族が出てくれば、そちらの氏族のほうがうまく「日本」という国家を運営していけるのならば、その氏族が新たに「天皇」の位を引き継いでいってもいいのではないか、というふうに割と気軽に考えられる時期ではなかったかと思えるのです。百年間の歴史というのはその程度の重みしか無かったのではないでしょうか。
草壁系皇族というのは絶対的存在なのではなく、単に「天皇」を務めるのに最も適役であると認められたから「天皇」であったのであり、もっと適役の氏族が出てくれば交替可能な存在であったのではないでしょうか。もちろんそうは思わない人もいたでしょうけれども、少なくとも仲麻呂らはそう思ったのであり、それはこの時代においてはまだそれほど奇異な考え方ではなかったのではないでしょうか。

その適役の氏族というのが藤原氏であるという考え方も、全く根拠の無いことではありませんでした。既に藤原氏は光明によって皇后職を得ており、この時代の皇后というのは皇位継承資格もあったのですから、藤原氏にも皇位継承資格があるという解釈も可能です。また草壁系皇族の聖武は遷都騒動や大仏造立などの失政で「徳」を失っていました。そして聖武引退後に仲麻呂が政務を担当するようになったら財政状況などが好転したのです。つまり藤原氏の仲麻呂のほうが「徳」があるということになります。これは実は当たり前の話で、もともと墾田永年私財法の効果で租税収入が上がっていたのを大仏が食い潰していたのですが、大仏が出来上がったら税収の増加分がそのまま残るようになって財政状況が好転しただけのことなのです。
しかし仲麻呂はそうは考えず、草壁系皇族よりも藤原氏のほうが「徳」が高く、自分が天皇になったほうが国家は安泰なのではないかと考えるようになったのです。それで聖武死後の皇太子選定時に草壁系皇族と繋がりのある塩焼王ではなく、自分の庇護下にある大炊王を推すことにしたのです。
この時代の草壁系皇族の権威の真の源泉は天武の血ではなく、天智から持統を通じて伝わった血ですから、持統の血を引かない天武系皇族である大炊王は、仲麻呂から見れば同僚のような存在で、君主ではありませんでした。まして大炊王は政治的キャリアもありませんでしたから、仲麻呂は大炊王を完全に下に見ていたことでしょう。実際、後に仲麻呂は自分の身が危うくなった時、最後に頼った相手はかつて自分が排斥した塩焼王であり、大炊王ではありませんでした。このことから見ても、仲麻呂は大炊王など全く問題にしていなかったことが分かります。
そのような能力も権威も無い人物を天皇に据えた狙いは、自分がそれに取って替わるつもりであったからでしょう。単に傀儡として利用するつもりであったならば、能力が無くて権威だけある人物を据えるはずで、この大炊王のように権威も欠けている人物を据えるというのは皇位の禅譲を狙っていたのではないかとも思われます。

仲麻呂は大炊王を淳仁天皇として即位させると、孝謙を上皇ではなく「皇帝」として、役所名や官職名をシナ風の名称に変更し、自分は「恵美押勝」という新たな名を名乗り、貨幣鋳造権と租税徴収権の行使を許可され、恵美家の印鑑で政府の決裁を行うことも許されるようになりました。これらの権利は本来は君主にしか許されないもので、この段階で実質的に押勝(以後はこの名で呼ぶ)は天皇に取って代わったのです。「恵美押勝」という新しい名を名乗ったのも、臣下であった藤原氏の枠を超えて新たな君主となるための準備であったと思われます。
孝謙を「皇帝」として、役所名をシナ風に改めたのも、単なるシナ趣味というわけではなく、日本の国体をシナ帝国と同じものに変えてしまって、易姓革命で皇帝の交替が可能な状況を作り上げることが目的であったのかもしれません。「天皇」や「上皇」では易姓革命での交替はなじみませんが、「皇帝」であるならば易姓革命での交替も不自然ではありません。孝謙を「皇帝」とした時点で、押勝にとっては実はもう「天皇」など意味をなさないものでどうでもよくて、押勝が取って代わるべき本当の対象は「孝謙皇帝」であったのではないかと思います。つまり押勝は「天皇」になろうとしたのではなく、「皇帝」になろうとしたのです。

新しい王朝の「皇帝」になるためには、更に大きな「徳」を示さなければいけません。シナ帝国においては王朝創始期の皇帝は外征の成功で「徳」を示すことを常としていました。押勝も外征を成功させて異国の朝貢を新たに受けることで天下に新皇帝にふさわしい「徳」を示したいと考え、東北の蝦夷に対して積極攻勢に出たりしていましたが、758年に渤海からの情報で唐における「安禄山の乱」の勃発を知ったのでした。
唐の玄宗皇帝は唐の最盛期を演出した名君であったのですが、745年に楊貴妃を妃として以降は政治を顧みることが無くなり、楊貴妃の一族であった楊国忠などが政治を壟断するようになっていました。安禄山は北方の辺境地域の3つの節度使を兼ねていた異民族出身の軍閥だったのですが、楊国忠と対立して、身に危険が迫ったため755年に挙兵し、あっとういう間に長安を落とし、玄宗は蜀地方に逃れたのでした。
この唐の大混乱を押勝は758年に知ったのですが、この時点では実は反乱軍の内部分裂で安禄山は殺害され、北方遊牧民のウイグルの援軍を得た唐軍が反乱軍を破り長安を奪回していて、反乱は一時収束していたのですが、日本にいた押勝はそこまでは知らず、唐が混乱状態で外征どころではないということだけ把握し、唐の援軍が参戦しないことを見越して新羅征討計画を立てることにしたのでした。つまり新羅を征服することで大きな「徳」を示して、新たに皇帝となるステップにしようとしたのです。
新羅征討計画の準備を進めつつ、押勝は759年には琵琶湖の南、現在の大津市のあたりに保良宮という新都の造営を開始し、760年1月には押勝は当時は皇族以外は就任しないことになっていた太政大臣(当時の官名は「大師」)に就任し、その権勢は絶頂に達し、いよいよ皇帝に手が届こうかというところ、760年6月に光明皇太后が死去したことによって大きく運命が変わることになるのです。

結局、押勝の権勢を支えていたのは彼自身の力や「徳」ではなく、叔母である光明の後ろ盾があってこその彼の権勢であったのであり、光明の死をきっかけに反押勝勢力が活発に動き始め、761年には強引に保良宮への遷都を行いましたが工事が滞り、結局762年には平城京へ還都となり、762年に開始される予定だった新羅征討計画も実施されず、またこの頃から孝謙は母である光明に遠慮する必要が無くなり、押勝の意思とは別の独自の動きをするようになり、またこの頃、孝謙は道鏡という僧と出会い、その導きによって出家し尼となりましたが、道鏡をブレーンとして寵愛するようになりました。
こうして押勝派と孝謙派が睨み合う状態が続き、とうとう764年9月、押勝は孝謙を廃位させるための軍事クーデターを準備し、その動きを察知した孝謙方が先手を打ち、「恵美押勝の乱」といわれる軍事衝突が始まったのです。孝謙方の参謀は孝謙によって左遷先から呼び戻されていた吉備真備で、この真備の作戦にまんまと嵌った押勝は乱発生後わずか3日目で近江で敗死したのでした。
この時に押勝が孝謙に対抗するために天皇として擁立したのがかつて自分が皇太子就任を妨害した塩焼王であり、結局、孝謙の求心力である草壁系皇族であるという面に対抗するためには草壁系皇族を妻とする塩焼王を担ぐしかないということであり、最期の局面になって押勝は「徳」よりも「血統」が勝るという現実を身をもって示すことになってしまったのでした。塩焼王も押勝と共に琵琶湖畔で処刑されました。
押勝の敗死後、孝謙は天皇に復位し、称徳天皇となり、道鏡を大臣禅師に任命しました。称徳は46歳で、道鏡は64歳といわれています。シナ風になっていた官名や役名は元に戻され、淳仁天皇は廃位されて翌765年に処刑されました。

押勝と戦って勝った称徳でしたが、その称徳も押勝と同じく王権思想においては「革新派」であり、草壁系皇統にこだわらず「徳」のある人物が皇位につくべきであるという考えを持っていました。ただ単に称徳は押勝に「徳」があるとは思えなくなっただけのことなのです。称徳女帝が皇位を譲るに値する「徳」があるとして見込んだ人物は道鏡で、765年に称徳は道鏡を太政大臣禅師に任命し、翌766年には道鏡を「法王」としました。「法王」は天皇に匹敵する地位とされ、「法王」の下に独自の家政機関や政策審議機構も設けられ、こうして称徳天皇と道鏡法王の二頭体制が確立することとなったのです。
道鏡は後世においてすっかり悪人扱いされており、称徳女帝も道鏡との男女関係も取り沙汰されて評判は散々ですが、出会った年齢からして男女関係というのはあり得ず、当時の僧は厳しい戒律を守っていたので道鏡が女帝と関係があったということはなく、真面目な僧であったと思われます。
称徳にしても至って大真面目に天下泰平のために高徳の僧である道鏡に皇位を譲ろうとしていたのであり、その政治も特に悪政というようなものではなく、むしろ生真面目すぎるくらいであったと思われます。

765年には墾田私有を禁止する命令を発していますが、これは743年に発布された墾田永年私財法の欠陥によって生じた弊害に対処するためのものでした。墾田永年私財法は墾田の私有を許可した法ですが、それには「既存の水利施設を利用しない場合に限る」という制限があり、新たに水利施設を設けることが出来るのは貴族や寺社など、それなりの勢力を有した者に限られていたため、墾田が一部の有力者に集中し、一般農民は有力者の開墾作業に駆り出されたり、逃亡した農民がそうした私有地で働くようになったりして、通常の班田に支障をきたすようなケースも増えてきていたのです。
この有力者の私有地は後世の荘園とは違い課税はされましたから、開墾地が増えれば増えるほど税収も増え、国家財政も潤っていました。それにそうした有力者というのは朝廷を構成する貴族も多かったので、この班田制の根幹を揺るがしかねない問題に対して、朝廷は見て見ぬふりを通してきました。それに正面から取り組んで、墾田の加熱を戒めて墾田私有を禁ずる措置をとったのが称徳・道鏡政権であったのです。
これは律令制の原則から言えば正しい措置であったのかもしれませんが、経済成長を止めるものでありましたし、自らも熱心な開墾者であった有力貴族たちにとっては歓迎出来ない措置でありました。だから非常に評判は悪かったようです。称徳や道鏡のような「革新派」というのは、「あるべき律令制」というものを目指す生真面目な理想主義者で、逆に「保守派」の人達というのは、私有地を開墾する有力貴族のような現状追認主義者が多く、こういう人達から見れば称徳や道鏡のような理想主義者というのは、墾田の件にしても皇位の件にしても、あまりに生真面目で堅苦しく感じられたことでしょう。

ただ、皇位継承の件に関しては、称徳は恵美押勝のように儒教原理主義的にゴリ押しするような手法はとらず、自然に道鏡に皇位を譲るべきだというコンセンサスを形成していこうという地道な努力をして説得工作を重ねていったようです。それは天皇制度の権威の源泉である「神」を仏教の守護神として再編成し、神と仏の信仰体系の融合を図り、そうした新しい神と仏による国家鎮護の体系を、例えば伊勢神宮や宇佐八幡宮などで神宮寺を作るなどして示し、その上に神である称徳と仏である道鏡の二頭体制を据えて、この二頭を融合して道鏡の下に一本化して、神仏融合の国家鎮護体制のトップに道鏡が君臨するという形を神道界にも仏教界にも納得させようとして様々な懐柔や説得が行われたのではないかと思われます。
そうした称徳側からの何らかの働きかけが宇佐八幡宮に対して行われ、道鏡を皇位につければ天下安泰であるというような託宣を望むような工作があり、それを宇佐八幡宮側が拒絶して「皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」という保守派の意見を託宣という形で返答し、その上、道鏡排除まで託宣し、それを生真面目な武官であった和気清麻呂がそのまま取り次いだため称徳女帝が激怒して清麻呂を処罰したというのが、769年の宇佐八幡宮神託事件の実相なのでしょう。似たような事例は他にもあったのではないかと思われますが、託宣を伝えた使者が生真面目な性格であったため処分までされたという珍しい事例なので、この事件だけが有名になったのでしょう。
実際、この事件も称徳と道鏡にとっては大したダメージにはならず、この事件の後も道鏡のために河内に作った都である由義宮に行幸して、そこを西京としており、道鏡への譲位に向けた動きは着々と進めていました。ところが770年3月に称徳は急に病に倒れ、朝廷の軍事権が藤原永手と吉備真備に握られて道鏡は失脚したのでした。そして8月に称徳は死去し、後継の天皇の人選が議政官組織のメンバーによって行われ、ここで吉備真備は天武系皇族の大市王や智努王を推したのですが、藤原永手は称徳の偽の遺詔を持ち出して白壁王を推し、これによって白壁王の即位が決まり、道鏡は左遷され、真備は議政官を辞職しました。白壁王は10月に即位して光仁天皇となりました。
これは手際が良すぎるので、称徳は病気ではなく毒殺されたのではないかと思われ、保守派による道鏡即位を阻止するためのクーデターではないかと思われます。本来は革新派であるはずの真備がそれに加わっているのは不自然ですが、真備は道鏡が皇位を継ぐほどの有徳者とは思えなかったのでしょう。それで保守派に協力したら偽の遺詔など出されて騙されたので観念して引退したというところでしょう。
結局、朝廷自体が日本書紀などで皇室が天照大神の子孫であることを正統性の根拠としているのですから、皇族以外の人間への皇位継承はさすがに朝廷内でコンセンサスを得ることは困難であったのであり、天皇自身が革新派であったとしても最終的には保守派が押し切ることになったということでしょう。

白壁王は天智天皇の孫であり当時61歳で、この当時は完全に傍系皇族でしたが、聖武の娘である井上内親王を妻としており、二人の間に20歳になる他戸親王も産まれており、つまり白壁王から他戸親王に皇位継承することで草壁系の血統は繋がるのであり、保守派としては望ましい後継者であったといえます。
そういうわけで白壁王、すなわち光仁天皇はあくまで中継ぎ役で、早期に皇太子の他戸親王へ皇位を譲る約束になっていたはずなのですが、即位翌年の771年に保守派の重鎮であった藤原永手が死ぬと、その従兄弟にあたる藤原百川と良継兄弟が草壁系皇統に見切りをつけて保守派を裏切り、光仁の長子で百済からの帰化系豪族出身の高野新笠を母に持つ当時34歳になっていた山部親王を擁立するために動き出し、772年に井上内親王は光仁を呪詛したとして皇后を廃され、他戸親王は皇太子の地位を追われ、替わって773年1月に山部親王が皇太子になります。その年の10月に井上・他戸の母子は幽閉され、775年に二人同じ日に死にました。おそらく殺されたのでしょう。
結局、こうして皇統は草壁皇子の血統から離れて、全く別系統の山部親王、つまり後の桓武天皇に移っていったのです。これはこれで一種の易姓革命のようなもので、実際、桓武天皇はこれを易姓革命であると認識していたようです。桓武天皇も天智天皇の直系の血筋であるので正確には血統が全く変わったというわけではないのですが、とにかく草壁系の血統に縛られていた奈良時代の皇統から離れて、この桓武天皇から新たな天皇制度が展開されていくことになるのは事実です。
平安期においては光仁を天皇家の始祖として捉える観念が主流であり、それに先立つ草壁系の皇統、特にその末期の易姓革命騒動は私達がイメージする日本史上のいわゆる天皇家のイメージとは異質なものであり、別個の存在だと考えたほうがいいのではないかと思います。
藤原百川や良継がどうして保守派を裏切って草壁系皇統に見切りをつけたのかはよく分かりませんが、純血性にこだわる余りに皇位継承者が常に不足がちになり、最終的には禅譲騒ぎに明け暮れることになった草壁系とは縁を切って、草壁系とはしがらみの無い山部親王と共に新しい天皇制度を作っていきたくなったのかもしれません。781年に山部親王は即位して桓武天皇になり、その時には既に百川も良継も死んでいましたが、その娘たちは桓武天皇の妃となって次代の天皇たちを産んでいくのでした。

このように、750年から775年ぐらいまでの時代というのは天武天皇と持統天皇を始祖とする草壁系皇統を取り巻く保守派と革新派の路線闘争が繰り広げられて、易姓革命騒動が繰り返されて最終的には草壁系皇統から皇位が離れて、光仁・桓武を始祖とする新たな王朝が始まるところまでの時代であるといえます。
こう書くと何やら動乱の時代のようにも思えますが、これらは所詮はコップの中の嵐のようなもので、宮廷闘争の域を出るものではありません。このような騒動にかまけていられるくらいに暢気な時代であったともいえます。この時代は律令国家文明の修正期前期に相当し、墾田永年私財法の影響で墾田が増え、それに伴って税収も増えて国家財政も潤っていた安定成長時代であったといえます。

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