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日本史についての雑文その323 日本三大悪人
ちなみに道鏡は戦前において平将門、足利尊氏と共に日本三大悪人の1人に数えられた人物で、現在においてもあまり評判の良い人物とはいえません。現在においてまでも評判が悪いのは称徳女帝との間に男女関係があったという俗説によるものなのですが、当時の僧侶の戒律は厳しくて、そのような俗説はまず事実ではないでしょう。
そういう俗説が唱えられるようになったのは僧侶の戒律が有名無実化した時代のことで、割と最近のことです。どうせ「悪人」だから戒律など守っていなかったのだろうという先入観による俗説であろうと思われます。尊氏や将門にはこうした下世話な俗説が無く、また戦後にイメージアップが図られたために、現在ではそんな悪いイメージは無いのですが、道鏡については相変わらずイメージは悪いようです。

そもそも道鏡、将門、尊氏の3人が「悪人」であるとされるようになったのは江戸時代末期の尊皇攘夷思想が定着するようになってからのことで、天皇家に害をなしたのが彼らが「悪人」とされた理由になります。特にその中でも道鏡は「皇位を簒奪しようとした」ということで、最も「悪」の度合いが大きいように思えます。将門の場合は「新皇」を名乗って「もう1人の天皇になろうとした」ので、それに次ぐ「悪」ということになり、尊氏の場合は後醍醐天皇に逆らって別の天皇を立てて「皇統を分裂させた」ということで、自身が天皇になろうとしたわけではないので3人の中では最下位の「悪」ということになりましょうか。
単に天皇に逆らったり、天皇の首を挿げ替えたり傀儡にして操ったという程度の者ならば他にも沢山おり、天皇を島流しにしたり殺したりした者も少数ですが他にも存在します。そういった者達を押しのけて「三大悪人」に選ばれている道鏡、将門、尊氏の3人に共通している特徴は「皇統を混乱させた」という点です。それが江戸時代末期の尊皇攘夷思想においては「許されざる悪」であったわけです。

ちなみに道鏡の皇位簒奪を阻止したとされる和気清麻呂が楠木正成らと並ぶ大忠臣とされて、京都御所の隣に護王神社の祭神として祀られるようになったのも幕末の孝明天皇の時代のことです。清麻呂は宇佐八幡宮神託事件の後、称徳天皇の怒りを買って流刑となりますが称徳の死後許されて都へ戻り、後に桓武天皇に重用されて高官に登りつめ平安京造営などに腕を振るいますが、幕末の尊皇攘夷思想の定着までは「皇統を守った忠臣」として崇拝されていたわけではないのです。つまり、道鏡も平安時代から江戸時代末期までは「皇位を簒奪しようとした悪人」とはされていなかったということになります。
ただ道鏡が皇位を窺っていたのは確かであり、それでも江戸時代末期までは道鏡が悪人とは見なされていなかったということがポイントとなります。かといって平安時代以降の人達が「皇統などどうなっても構わない」と考えていたというわけではなく、逆に皇統を天皇家が継ぐということが絶対的な既定事項となり、それが簒奪されるという事態に対する危機感というものがそもそも想定外となっていたのが実情なのでしょう。
いや、幕末の尊皇攘夷思想においても「皇位を天皇家が継ぐこと」は絶対的既定事項であったはずです。それなのに皇統を守ろうという意識は過剰なまでに強いのです。それ以前と一体何が違うのかと思われるかもしれませんが、それが大違いなのです。尊皇攘夷思想において求められる天皇とは「神にして帝王」としての天皇なのであり、一方、平安時代以降に確立して幕末まで続く天皇というものは単に「神」としての天皇なのです。「帝王」は人間であり現実世界の権力なのでシナの皇帝と同じく易姓革命の対象となり、皇統簒奪の危険性を潜在的に持っているのです。一方、人外なる「神」であれば、たとえどんな権力者であっても現世の人間である限り取って代わることは出来ないのであるし、だいたい神になったら人間でなくなってしまうわけですから、取って代わりたいとも思わないでしょう。
そういう単なる「神」としての天皇に馴染んできた人達にとっては、「皇位簒奪者=悪人」という公式自体が馴染みの無いものなので道鏡や将門、尊氏などは特に悪人とは見なされなかったのであり、一方、天皇に「帝王」としての側面も求めようとした幕末の尊皇攘夷思想においては同時に皇位簒奪への危機感も芽生え、歴史上の皇位簒奪未遂者を悪人と見なすという発想が生じたのです。

では道鏡の時代はどうであったかというと、奈良時代においては天皇は「神にして帝王」であったのであり、皇位というものは簒奪可能なものであったのだといえます。つまり平安時代以降の人から見れば奈良時代の天皇というものは平安時代以降の天皇とは異質の存在であり、それに対する簒奪未遂者である道鏡や恵美押勝らは自分たちにとっては関係の薄いものであると見なしていたとも言えます。奈良時代の天皇についての関心が復活するのは江戸時代末期の尊皇攘夷思想の影響下のことであって、それは尊皇攘夷思想の求める天皇像というものが奈良時代と同じく「神にして帝王」であったからであり、それゆえ、同時にそうした天皇像に対抗する「悪」の象徴としての道鏡、そしてその対抗者としての和気清麻呂への関心も江戸時代末期に復活したのでした。
道鏡や押勝の時代というのは「皇位を簒奪すること」というのは決して善い事ではありませんでしたが、まだ「絶対的な許されざる悪、あってはいけない事」というわけではなかった時代なのです。一般的には「悪」ではあったとは思います。ただ、皇位を天皇家が継ぐということが絶対的既定事項とまでなるのは平安時代以降のことであり、そうした伝統を受けた上で幕末の尊皇攘夷思想の影響下で形成された「皇統の絶対性」というものは、この奈良時代にはまだ存在していないのです。
もちろん日本書紀に「天壌無窮の神勅」というものが載っており、「皇位は天皇家の者のみが継ぐ」とは規定されていますが、それが武力でもって皇位を継承した天武天皇が「書かせた」ものであることは奈良時代の人なら認識していたはずです。つまり武力で皇位を簒奪した者がまた新たに別の「天壌無窮の神勅」をでっち上げることも可能であることは知っていたはずです。現世権力である「帝王」や「皇帝」というものはそういうものなのであり、簒奪の余地は十分に存在していたはずです。それが奈良時代という時代なのであり、その時代の出来事を幕末以降の価値観で断罪するのはあまり適当なこととはいえません。

押勝や道鏡は皇位を簒奪して日本を滅茶苦茶にしようとしたり私腹を肥やしまくろうとしていたわけではありません。彼らは彼らなりに善い政治を行おうという意欲はあったのでしょう。実際、彼らが実権を握っていた時代に目立った悪政が行われたというわけではありません。経済的社会的には安定成長の時代であったようです。むしろ彼らの前後の時代のほうが悪政といえるかもしれません。彼らに先立つ聖武天皇の時代は大仏造立や遷都騒動で民は疲弊しました。彼らの後の桓武天皇の時代も度重なる遷都と蝦夷征討で民は苦しめられました。
しかも彼らの時代において皇統の本流である草壁系皇族は先細りで消え去ろうとしていました。その草壁系皇族である称徳女帝も易姓革命に大きな抵抗感は無かったようなのです。押勝や道鏡には十分に易姓革命を起こす大義名分はあったといえます。とにかくこの時代はまだ「天皇家が皇位を継承する」という原則が真に絶対的には確立してはいなかったのです。それが確立するのはこの時代の少し後、平安時代になってから、天皇が「帝王」ではなくなり、人間ではなくなり「神」になってしまって以降のことなのです。そしてそうした「神」である新しい天皇像を作っていくのは、押勝や道鏡の失敗後に草壁系皇族から一種の易姓革命で皇位を簒奪した桓武天皇の血統においてのことなのです。
あるいは、桓武以降の皇統を戴く平安期以降の人達にとっては、桓武が簒奪した草壁系皇統を桓武の前に簒奪失敗しただけの道鏡や押勝などは大して興味を引くような存在ではなかったのかもしれません。
奈良時代においては草壁系の血統こそが皇統の本流なのであり、それは簡単に言えば、「帝王」である天武の血統と「神」である天智の血統を両方継承した血統なのであり、「天から地上の統治を委任されたシナ皇帝」に対抗し得る「神にして帝王」たる天皇を務めるにはこの血統しか考えられないのです。ところが桓武は天智の血は引いていますが天武の血は引いておらず、つまり「神」ではあるが「帝王」ではないということになります。そこで桓武は新たに「帝王」の資格を得ようとして易姓革命の形を模した施策を行いますが、やがて日本がシナ帝国に対抗する必要自体が薄らぐ中でそうした努力は不要になり、それ以降、天皇は徐々に単なる「神」になっていきます。そして「帝王」でなくなった天皇には易姓革命の必然性が無くなっていき、また「神」に祭り上げられてしまった天皇に取って代わりたいという現世権力も現れなくなり、結果的に天皇家が皇位を継承していくという絶対的原則が確立していくことになるのです。

平安時代前期に平将門が反乱を起こして「新皇」を名乗るのは、この絶対的原則が形成される途上の出来事であり、まだ武力で皇統を得ることが出来るという思想が残っており、特に将門という人はそういう思想傾向の強い人であったという点は留意しておいたほうがいいでしょう。しかしそれにしても将門は既存の天皇を廃そうとしているわけではなく、自分も「新皇」になって関東を支配したいと思っているだけであり、しかも彼は桓武天皇の五代孫であるということを根拠にして自分にもその資格があるはずだと主張しているのです。
つまりは将門は天皇家の「神」としての血統を十分に尊重しており、その係累として自分を「新皇」としているに過ぎないのです。天皇家以外の氏族が皇位を簒奪するというような事象ではないわけです。ただ将門のなろうとしている「新皇」は明らかに「神にして帝王」であるので、平安期以降に確立された天皇像とは異質なものです。これは過渡期であったゆえなのでしょうけれども、「帝王」を求めた将門は結局、武力で「放伐」されてしまうことになります。

また、三大悪人の残る一人である足利尊氏の鎌倉時代末期から南北朝時代は「神」である天皇家が皇位を継承していくという絶対的原則が既に確立している時代ですから、尊氏自身は皇位を簒奪したり天皇を名乗ろうなどという発想は全く持っていません。むしろ尊氏の行動を見ると天皇に逆らうことについて大変な葛藤を抱えて苦悩しているのが見て取れて、気の毒になるくらいです。
それでも尊氏が天皇に逆らわざるを得なくなったのは、むしろ後醍醐天皇のほうに問題があるのであって、後醍醐がシナの朱子学の影響を受けて「帝王」になろうとしたために、せっかく「神」たる天皇と現世権力である「幕府」が権威と権力を分担して上手くやっていた体制が混乱してしまい、その混乱を収拾するために尊氏は単に「神」のみの役割に専念してくれる北朝という王朝を新たに立てなければいけなくなったのです。そしてあくまで「帝王」にこだわる後醍醐は吉野へ逃れて南朝を開き、皇統は分裂してしまったのです。つまり平安時代以降に確立されてきた秩序を変な外来思想にかぶれて乱したのは後醍醐のほうであり、尊氏のほうが平安期以降の本来のあるべき皇室の姿を回復した「忠臣」ということになるのではないでしょうか。
むしろ問題のあるのは尊氏の孫の義満のほうで、義満は皇位簒奪の疑惑があります。少なくともそう疑われるだけの怪しい状況が生じたのは確かで、これは確かに「悪人」的な行動であるとはいえますが、これにしても、「帝王」的側面を60年間ほど維持した南朝が北朝と合流して一つの皇統に戻った時に皇室に一時的に異常が生じて、その影響で易姓革命が生じやすい状況が一時的に生まれたとも考えられます。
ちなみに明治政府がこの南朝を正統としたのは、こうした南朝の「帝王」的側面が、天皇に「帝王」としての側面をも求めた幕末尊皇攘夷思想によって支持されたからでありましょう。とにかく平安時代以降、「帝王」を志向した天皇はこの南北朝時代の後醍醐を始めとする南朝の天皇達しか存在しないわけですから、尊皇攘夷思想の歴史的裏づけを求めるとしたなら、古代以外はこの南朝しか無く、それゆえ南朝が正統とされたのです。

このように、三大悪人のうち、尊氏の場合は天皇家が皇位を継承することが絶対的原則となった後であり、将門の場合はそうした絶対的原則が形成されている途上でありました。しかし道鏡の場合だけは、そうした絶対的原則はまだ全く存在しておらず、それどころか「天皇」という地位の位置づけさえ平安期以降とは異なっている時代であったのです。
言ってみれば、尊氏や将門の場合は、「皇統を混乱させること」ということが「悪事」と見なされるであろうということは自覚していながら、やむにやまれぬ事情や何らかの言い訳や正当化する言辞は持っていたとしても、とにかく「悪事」と知りながらそれを行ったという意味では、「悪人」と言われても仕方ないといえます。少なくとも本人も「悪人」と謗られることも幾らか覚悟していたとは言えます。
しかし道鏡や、また押勝の場合は、易姓革命が完全に否定されていない時代の人間であるわけですから、私利私欲のためではなく国家国民のためという自負がある限りにおいては、皇位を窺うことについては全く罪悪感は持っていなかったのではないかと思います。もちろん草壁系皇統にこだわるべきだと考える保守派をはじめ多くの反対勢力が存在していることは認識していたでありましょうし、そうした反対勢力のほうが官民の支持を得て自分が敗れる可能性もあることも分かっていたでしょう。結局、道鏡は「神」としても「帝王」としても不適格であるという理由で皇位には就けなかったのです。しかしそうなった場合も自分は単なる政治的敗者として扱われるのであろうと考えていたのであり、まさか後世において絶対的な「悪人」として謗られることになろうとは思っていなかったのではないでしょうか。
そういう意味で、「日本三大悪人」の定義そのものが日本の皇室の本来の在り方から考えて不自然さは感じているのですが、特にその中でも道鏡についてはなんとなく気の毒な気がするのです。世間一般ではむしろ尊氏や将門のほうが名誉回復は進んでおり、道鏡が未だに最も不評ではあるのですが、私はこうした事情で道鏡に一番同情してしまうのです。
もちろん道鏡による易姓革命が成功すれば良かったなどという考えを持っているわけではなく、道鏡ではなく、桓武という天智を通して古の大王の血統に連なる者によって皇統が引き継がれたことによって、平安時代において日本独自の文明の展開を見ることが出来て、良かったとは思っています。また、実際、「帝王」としてはともかく、「神」としての天皇はやはり古の大王の血統、すなわち天智の血統を引く者でなければコンセンサスは得られない状況ではあったのだと思われます。
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