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日本史についての雑文その324 万葉集
奈良時代というのは文化面でもシナ文明の模倣が進んだ時代でありました。その象徴といえるのが漢詩の流行でした。漢詩というのはその原型は歌謡で、歌ったり演奏したり踊ったりするものだったのですが、後漢時代の末期から三国時代初期に、魏の創始者である曹操とその子らによって、この歌謡から詩のみが分化して朗読されるようになり、その朗読用の詩文として文人たちが五言詩を書き連ね始めました。五言詩というのは漢字五文字でもって一句となし、それを何句も書き連ね読み連ねていくもので、この頃は何句連ねても自由でした。他に四言詩、六言詩、七言詩などがありましたが、五言詩が主体でした。その後、三国時代から南北朝時代にかけて漢詩は宮廷芸術として確立されました。
曹操以前の歌謡というものは音楽に分類されるもので、曹操以後に文学としての漢詩が生まれたといえます。曹操によって確立された漢詩は、当初は従軍文学といえるもので、戦乱の時代において武人が軍営の中でその勇壮な志を述べるものでありましたが、南北朝時代になると貴族文化の中で洗練され、華麗な字句や典雅な言い回しを多用して細やかな感情を詠むようになっていきました。
その後、隋がシナを統一し、唐の時代に入ると漢詩は宮廷や軍営を離れて広く詠まれるようになり、一句が五文字の五言詩と一句が七文字の七言詩が主体となり、四句を連ねる絶句、八句を連ねる律詩、十二句以上が連なる排律という分類がなされ、平仄や韻律などに厳格なルールが適用されるようになりましたが、このような唐詩の形式が確立されたのは8世紀前半の玄宗の治世における唐の最盛期で、その頃に活躍したのが李白や杜甫、王維らでした。
倭国に漢詩が初めて伝わったのは4世紀終盤あたりにシナ系の帰化人で王権のブレーンとなったような文人によってもたらされたものと推測されますが、この頃はまだ帰化人の集団の中で細々と伝えられていたと思われ、倭人の間には広まらなかったようです。7世紀になって遣隋使や遣唐使が派遣されるようになってシナ文明を積極的に受容しようという気運が生じるようになってから大和朝廷の貴族や官人の間に漢詩が広まるようになったようです。特に7世紀後半になって大化の改新後、飛鳥宮や大津宮の時代ぐらいから日本の皇族や貴族たちも自作の漢詩を作るようになっていきました。
ただ、この律令国家文明の形成期において作られた日本製の漢詩はシナ南北朝時代から初唐時代の影響を受けたものであり、まだ唐詩の形式が整っておらず、五言詩が主体であったようです。唐の玄宗時代に形式の整えられた李白、杜甫、王維らに代表される唐詩が日本にもたらされたのは、735年に帰国した天平の遣唐使および、754年に帰国した天平勝宝の遣唐使によってのことでしょう。その後、律令国家文明の修正期以降に日本において作られる漢詩の主流は唐詩の影響を受けた作風の七言詩が主流となっていき、それが平安時代初期の漢詩全盛時代に繋がっていきます。
ちなみに漢詩はその後も日本の知識人階級の主要な教養として19世紀までは常にその中心に位置し、その最盛期は江戸時代でした。近代以前の日本において「詩」といえば漢詩のことを指していたのであり、知識人階級においては和歌や俳句などに対して対等以上の地位を保っていたのでした。

一方、古代日本においても古くから大和言葉の歌謡が存在し、祭祀や儀式、労働の場などで集団で歌ったり踊ったり演奏したりしていました。歌の内容は素朴な掛け声や囃子歌、また呪術的な祝詞のようなものが殆どで、独特の節をつけて歌うものでした。
古代日本人は言葉には霊力が備わっていると考え、それを「言霊信仰」といいますが、言霊はその言葉の意味そのものに付随しているのではなく、元来はその音に付随する「音霊」なのではないかと思います。各国各民族の言語にはそれぞれ独特のリズムや音感というものがあり、話している内容は聞き取れなくても音の感じだけで外国語というものは分かるものです。だからその音そのものに人の精神に働きかける何らかの力があるのではないかと思うのです。いや、言葉の原初においてはその音と言葉の意味とが不可分の関係であったのでしょうし、言葉とはそもそも音であったのです。現代日本語だってイントネーションが違えば同じ表記の単語でも違った意味になりますし、英語などでもイントネーションは単語の重要要素であり、シナ語にも四声というものがあります。
また、考えてみれば口や舌や喉の形や動きを工夫すれば実に様々な音を発することが出来るにもかかわらず、各言語における単語を構成する音というのはわざわざ限定されており、そこには何らかの意味があると考えるべきでしょう。特に日本語は使用できる音がかなり絞り込まれており、その絞込みにはよほどの意味があるということになります。実際は意味など無いのかもしれませんが、他の音が発声出来るにもかかわらず、あえて発声しないというこだわりによって日本語独自の音感を生み出していることは確かです。
つまり大和言葉の言霊というものはその独特の音感と節回しの中に宿っているもので、それぞれの単語にはそれぞれの音霊があり、本来は歌ったり唱和したりして空気を震動させることによってその呪力を発揮するものであったと思われるのです。例えば現在のポップミュージックの歌詞だって、歌詞カードを黙読しているよりも実際に節をつけて歌ったほうが自分や他人の心を動かすことが出来ますし、合唱したり演奏がつけば尚更その効果は増幅します。空気の震動量が増えれば増えるほど人の心を動かす力が増すのです。人の心を動かすことが出来るのならば神の心も動かすことも出来ると古代人は考えたのであり、神を動かすことによって世界を動かすことも出来るということになるのです。これが言霊信仰の本質なのでしょう。

そういうわけですから、大和言葉だけでなく元来は世界中のどの言語でも言霊信仰というものはあったと思われます。仏教における読経やマントラなんていうのも言霊信仰の名残でしょう。ただ日本は言霊信仰が特に強く、かなり後世まで濃厚に生きていたのだといえます。現代でも生き残っているともいえます。
シナにおける漢詩も、曹操以前は歌って踊る言霊的要素が強い歌謡だったのですが、曹操以降にその作詞部分が歌謡から抽出されて芸術として昇華されて、余分な部分が削ぎ落とされて詩作の技巧が磨かれ、主題も細やかな個人的感情を表現出来るものになってきたものだといえます。ただそれでも「朗読する」という原則がある点において言霊的要素は残していたのだともいえます。
その漢詩が倭国に入ってきた4世紀終盤の頃、古代日本歌謡は節をつけて歌われていた状態だったわけですが、漢詩をたしなむ帰化人の中で、シナ歌謡から漢詩を生み出したのと同じように、古代日本歌謡から一定のルールを嵌めた詩歌を創作してみようと試みた人がいたようです。漢詩の一句の字数が五文字や七文字であるという点を援用して、八音から成る1つの律動(リズム)において発声される音節を五音ないしは七音として、その律動を一定のパターンで何個も連ねて朗読していくというルールを設けたのです。つまりこれが和歌の始まりです。
ただこれは言霊信仰の強い古代日本のことであったので、歌謡の要素が色濃く残ったもので、つまり「詩」よりも「歌」の要素のほうが強く、だからこそ「和詩」ではなく「和歌」なのですが、音節数の縛りよりも節の流れのほうが優先されており、節にちゃんと乗って、つまり1つの律動が8音節以内で収まっていれば五音や七音ではなくてもいいということになっていました。
すなわち、8音節から成る1つの律動、つまり1リズムが2小節で構成されているのですが、そうなるとテンポの遅い四分の四拍子が8つ連なって1律動となるのが和歌の節回しということになり、五音のパターンの律動は5つの四分音符と3つの四分休符とで構成され、七音のパターンの律動は7つの四分音符と1つの四分休符とで構成されるのが原則ということになりますが、これはあくまで原則で、例えば五音律動が6つの四分音符と2つの四分休符で構成されるということもあり、この場合は表記すると所謂「字余り」というやつになるのですが、節に乗せて詠唱する分には「余っている」という印象にはならないのです。
この極端にテンポの遅い「謡」にこそ言霊が宿りやすいのだと古代人は考えたのだと思われ、それゆえそこから派生した和歌はもちろん、能や歌舞伎の科白や謡なども不自然なほどに遅いテンポで展開されるのです。それはそれらが言霊を乗せることを目的としたものだからです。

とにかくこのように漢詩に倣って、原則ルールとしての「五音律動」「七音律動」というべきリズムのブロックを作り、漢詩において句を連ねていくように、この律動を連ねて詠唱していくようになったのでしょう。その連ね方のパターンとしては、当初はおそらく漢詩のように「五五五五・・・」や「七七七七・・・」というものであったのであろうと思われますが、おそらく日本語の語感の場合、五音律動と七音律動を交互に繰り返したほうがしっくりきたのでしょう。それで「五七」の組み合わせを複数回繰り返して最後に締めとして「七」をもう一度加える「五七五七五七・・・五七五七七」という形式が主流となったのです。これが所謂「長歌」といわれる形式です。
また、この「長歌」の最後の「五七七」だけを取り出して、「五七七」を二人で交互に掛け合いのように「五七七、五七七・・・」と詠唱していくのを「旋頭歌」といい、その「五七七」の単一のものを「片歌」と呼びました。
そして、「長歌」の主題をまとめたり補足したりするために「長歌」に「反歌」が添えられて詠唱されるようになったのですが、それは「長歌」の最後の「五七五七七」のパターンをもう一度繰り返して添えるようになり、この「反歌」が「短歌」になるのです。現在、和歌というとこの「短歌」のことを指すのですが、最初は「長歌」が主流で、「長歌」から「短歌」が派生したのであるといえます。平安時代になると「長歌」は作られなくなり「短歌」が主体になっていきますが、初期においては「長歌」が主で「短歌」が従であるといえるでしょう。

10世紀初頭に紀貫之によって書かれた「古今和歌集」の仮名序において、和歌の創始者は4世紀終盤のホムタ大王の治世に倭国に帰化した華僑である王仁であるとされ、仮名序には王仁の作とされている短歌が掲載されています。これは10世紀当時においても既に伝説であったと思われ、その真偽は定かではないでしょうが、「万葉集」に収録されている最古の和歌はホムタの息子であるオオサザキの后の作った歌ですから、だいたいこのあたりの時代に和歌が誕生したのは事実でありましょう。ちなみに古事記や日本書紀においては最初の和歌としてスサノヲの「八雲立つ」の歌が載っていますが、これはさすがに潤色であろうと思われ、おそらくは有名な古代歌謡のフレーズをスサノヲの作歌として掲載したものでしょう。
ただ、この4世紀終盤以降の主に古墳時代に相当する初期の頃の和歌というのはまだ歌謡の1つのバリエーションとして分類されるべきもので、まだ漢詩のように詩作そのものに文学的、芸術的意義を見出すようなレベルではなかったと思われます。漢詩自体がまだ一部の帰化人愛好家のマニアックな趣味のレベルであったので、その漢詩の影響を受けて生まれた和歌もごく限られた愛好家の占有物でしかなかったと思われ、それゆえ文学的深化はまだ見られなかったと思われます。
和歌が文学的に深化していくのは、7世紀後半になって日本の皇族や貴族、官人たちによって漢詩が作られるようになり、また7世紀終盤になって日本語が形成されるようになって音仮名や訓仮名を駆使して漢詩を日本語に読み下したり書き下したりして、漢詩において表現されている豊かで細やかな詩情を日本語で理解することが出来るようになって以降のことです。
ここに至って和歌においてもシナ南北朝時代の漢詩のように技巧をこらして細やかな個人的心情を詠んだ歌も作られるようになり、歌謡からは独立して文学、芸術として朗読される「和歌」というジャンルが確立されることになったのです。但し、歌謡の伝統を引いた独特の節回しはそのままであり、言霊信仰に基づいた芸術であったといえるでしょう。
こうして7世紀後半以降、日本の皇族、貴族、官人たちによって漢詩と共に和歌も盛んに作られるようになっていき、8世紀にかけて柿本人麻呂や山部赤人、山上憶良、大伴家持などの著名な歌人も輩出するようになりました。ただ、このシナ文明重視の時代においては、やはり時代の中心芸術は漢詩のほうであり、和歌は脇役であったことは否めないと思います。それでも、漢詩は上流階級の教養人しか理解出来なかったのに対して、和歌は日本語を理解出来る者なら誰でも理解出来たので裾野は広がっていきました。
文明の流れとして言うなら、律令国家文明形成期にあたる7世紀後半は王権国家文明の衰退期にもあたり、律令国家文明を象徴する芸術である「漢詩」は8世紀前半の律令国家文明確立期、そして8世紀後半の修正期にかけて普及していき、時代の芸術の主役となっていき、一方、王権国家文明を象徴する伝統的芸術である「歌謡」は8世紀前半の王権国家文明解消期、そして8世紀後半の残滓期にかけて、そのエッセンスを外来芸術である「漢詩」のエッセンスと合体させて化学反応を起こし、「和歌」という新たな芸術を生み出し水面下で拡散させていったのであるといえます。そして、この「和歌」こそが次の王朝国家文明の時代における中心芸術となっていくのです。

この7世紀後半から8世紀後半にかけての時期は、いやそれ以降の時代もそうなのですが、朝廷で使用される公文書などは全部、漢文であり、しかも補助記号無しのいわゆる白文というやつで、朝廷においては白文で漢文をすらすら読んだり書いたり、頭の中で日本語に読み下したりすることが出来るのが必須スキルで、そういう能力があることが一流の教養人であるというステータスになっていたのでした。そして、ややスキルの足りない人達向けに、漢文を日本語で読み下しやすくするために本文の横の余白部分に音仮名や訓仮名で補助記号を振った漢文が使われ、更に、それですら漢文を読めないような下々の者が使う文として音仮名や訓仮名のみの文というものがあったのでした。
そういう時代における一流教養人たちのたしなむ趣味といえば、やはり白文で書く漢詩ということになります。一方、和歌というと日本語で朗読するわけですから音仮名や訓仮名で表記するしかなくなってきます。別に単に詠唱するだけで表記しなくてもいいのですが、書き残しておかなくては即興の歌謡とあまり変わりない感じになってしまいます。やはり文学や芸術として高めていくためには表記していったほうがいいのです。しかし和歌を表記すると、最もステータスの低い音仮名訓仮名文になってしまいますから、どうしても漢詩に比べると格下の扱いになってしまうのです。そのかわり、和歌は誰でも作れますから作り手は増え、作歌も多くなっていきました。一方、漢詩は高度な教養人でないと作れないので作り手も作品も少なめでしたが、扱いはとても高いものでした。
また、この時代の、いや江戸時代後期より前の時代の庶民というものはそもそも文字など読めませんから、文字が読めなければ作詩作業が不可能な漢詩は絶対に作れません。しかし和歌は文字が読めなくても作れますし、耳で覚えて詠唱することも出来ます。そうやって作った和歌を文字を書ける者が記録すれば表記して残すことも出来ます。そしてそうして表記した和歌を朗読して聞かせれば文字を読めない者も理解できるのです。なんだか当たり前のことを言っているようですが、日本語で読み書き出来る文学というものは「語り」の文学になり得るのだということで、「語り」文学こそは庶民に文学が普及していく大きな契機になるものなのであり、和歌はその起源にあたるものであったのです。また、こうして和歌を作る人間が増えていくことによって、日本語自体の表現力が研ぎ澄まされていくことにもなったのでした。
だいたい漢詩は公的な場で詠まれ、和歌は私的な場で詠まれたようです。喩えてみると、漢詩は論壇誌で、和歌は漫画雑誌のようなものなのかもしれません。漫画雑誌のほうが一般には圧倒的に多く売れているのですが、官公庁などが経費で買って常設しておくのは論壇誌のほうで、決して漫画雑誌など買わないし、漫画雑誌に載っているような言説が社会のオピニオンとなることは決して無いということです。まぁ最近はそうでもないようですが。
公的な場で詠まれた漢詩は朝廷によって記録されていったと思われますが、和歌のほうは私的な覚え書きのような感じで書きとめられていったと思われ、書き留められずに消えていった歌も多いと思われます。歌人の中には、そうして私的に書きとめていった自分や親しい仲間の和歌をまとめて個人的な歌集を編む者も出てきました。しかし日本における歌集というものの特性は「詞華集」、つまり多彩な歌人の名歌を集めたアンソロジーの量の膨大さになります。こうした詞華集は個人的歌集とは全く異質な発想によって生まれたものであり、その漢詩における最初のものが「懐風藻」であり、和歌における最初のものが「万葉集」なのです。そしてこの詞華集において和歌は大きな発展を遂げることになります。そうした詞華集作成のきっかけになったのが737年の天然痘の大流行でした。

737年の天然痘の流行と藤原四兄弟の死によって聖武天皇をはじめとした為政者たちは長屋王の怨霊の存在を認識し、遷都を繰り返し大仏を造立したりしていくようになるのですが、こうした聖武の施策は日本古来の怨霊対策とは一線を画したものでした。つまり従来の怨霊の発生した場合の対策は怨霊を祀り上げて慰めて無害化するというものであったのですが、聖武の行った方法論は仏教の法力で怨霊を力ずくで押さえ込もうとするものでした。
それは、長屋王の怨霊が従来の怨霊とは異質な新種の怨霊であったからというのもありますが、まず何よりも、聖武が自らの長屋王に対する仕打ちを公式に認めたくないために、公式に長屋王の怨霊の存在を認めようとはしなかったことが最大の原因でしょう。つまり長屋王に対しての明確な慰霊など行えば自分の長屋王への仕打ちの間違いを認めねばいけなくなるので、それを避けるために「国家平安のため」などと綺麗事を言って大仏を作って怨霊を押さえ込んでしまい、自らの悪事を「無かったこと」にしてしまいたいわけです。
それは、聖武天皇や光明皇后自身が長屋王を陥れた張本人であったから、そして無謬でなければいけない天皇や皇后という立場であったから、そのように思ったわけであり、そうでない立場の人なら聖武や光明のようには思わないわけです。もっと自然に「慰霊鎮魂」の方向で、まぁ新種の怨霊ですから従来の方法論では難しいとしても、原則的に霊を慰める方向で考えるはずなのです。
だいたい、そもそも聖武や光明が729年に長屋王を陥れるような羽目になったのは、その前年に1歳の皇太子を亡くしたからであり、既にその時点で災いが生じていることになります。この最初の災いは長屋王の怨霊は無関係であり、しかし災いは怨霊の働きによるものですから、長屋王以外の過去の怨霊も存在するということになります。
考えてみれば日本という国の建国過程においては政争や陰謀によって罪無くして生命を落とした無念の魂は数多く存在するのであって、長屋王が怨霊化するというのなら、他にも怨霊化してもおかしくない人はゴロゴロ存在するのです。例えばヨロズトヨヒ大王の息子で中大兄皇子に謀殺された有馬皇子や、天武天皇の息子で持統天皇に謀殺されたと思われる大津皇子などであり、もともとこれらが怨霊化して草壁系皇統や国家に災いをもたらしていたとも考えられるのです。また、彼ら以外にも律令国家日本によって虐げられた者達の無念の思いや怒りが怨霊化しているということもあり得るわけです。
ならば彼らの霊を慰め、国家との間に「和」を結ぶようにするという方法もあっていいはずです。もちろん聖武や光明は仏教での鎮魂にこだわっていますから、こうした慰霊という方法は国家事業としては行えませんが、朝廷の関係者で私的にそうした慰霊事業を行おうという者は出てきたと思われます。おそらくそうした事業の中心となったのは、737年の天然痘の流行の後に政権を担当した橘諸兄であったと思われます。

そうした慰霊を行うためには、まずそれぞれの怨霊の居場所が分からなければいけません。従来ならば怨霊の本体は氏族共同体に在りました。しかしこの新種の怨霊は氏族共同体による慰霊でも無害化されないのであり、氏族共同体から遊離して漂っているのです。いや、そもそもこの時代は実は氏族共同体が弱体化しており、それゆえにこのようなタイプの怨霊が発生したのかもしれません。とにかく新しい慰霊の方法が求められていたのでした。
既に死んでしまった彼らの霊がこの世にその痕跡を残している場所がありました。それが詩や歌であったのです。詩や歌は言霊であり、作者の霊力が込められています。それらの詩や歌を朗読する時、作者の霊力が発揮されるのです。つまり詩や歌はその作った人間の霊そのものなのです。だからこそ「辞世の句」というものが作られて、人は死に際してこの世に何らかの働きかけをしていくのです。少なくとも言霊信仰の国である日本ではそのような考え方は成り立つのです。現在でもミュージシャンが亡くなったら「彼の魂はこの曲と共に永遠に生き続けるのです」と言います。これと同じことです。
漢詩や和歌が作者の霊そのものであるのなら、死後に怨霊化したと思われる人達の作った詩や歌を集めて、それらの詩や歌を称えて顕彰することで彼らの霊を慰霊することになるのではないでしょうか。また、彼らの霊たる詩歌と、彼らの敵であった人達や彼らの祟る対象となった人達の霊たる詩歌を並べて記述し、一緒に朗読することで、彼らや彼らの敵達との間に「和」が生じて、恨みが消えていくのではないかとも期待されたと思われます。こうして、政治的な敵味方関係なく、貴人も罪人も関係なく、身分の差も関係なく、日本という国家に関わった人達の作った名詩や名歌を選んで、詞華集を編纂していくという作業が開始されたのです。

これらの作業は単なる機械的な名歌選び作業なのではなく、一種の慰霊事業が本質なのですから、詩や歌の選定は慎重に行われ、選んだ後は単に記述してお仕舞いというわけではなく、詠唱や朗読も含めたそれなりの慰霊に相当する作業もこなしていったのではないかと思われ、なかなか手間暇をかけた作業であったと思われます。
それでも公的な場で詠まれることの多く、作品数もそれほど多くなかった漢詩のほうが収集作業が楽であったろうと推測され、その成果は「懐風藻」という形で結実することになりました。「懐風藻」は現存する日本最古の漢詩集で、7世紀後半から8世紀前半までの天皇や皇族、諸臣、僧侶など64人による116首の漢詩が収められた詞華集で、序文の書かれた日付によると751年に完成したと思われます。作風は全体的にシナ南北朝時代の作風の影響が大きく、まだ唐詩の影響は少ない時代の作品が多いようで、五言詩がほとんどです。あるいは「懐風藻」以前にも何らかの漢詩の詞華集が存在した可能性はありますが、とにかく「懐風藻」も含めてそれらは朝廷の命令で公式に編纂された勅撰集ではなく、私的に編まれたものであったことは間違いないことです。
「懐風藻」の撰者は大友皇子の曾孫である淡海三船であるとされ、大友皇子というと天武天皇に滅ぼされた人ですから怨霊化している可能性が高く、その子孫が撰者というだけでも慰霊的意味合いが強い漢詩集であるといえます。収録された漢詩の作者には大友皇子や大津皇子など、天武草壁王朝に恨みを残して死んだような人も含まれています。751年といえば橘諸兄の政権の時代であり、756年に諸兄が失脚すると三船も左遷されていますから、諸兄と三船は近しい関係にあったのでしょう。おそらく「懐風藻」の編纂に諸兄も深く関与していると考えていいでしょう。
しかし慰霊という意味では、むしろ本命は和歌のほうであったのではないでしょうか。何故なら漢詩はあくまで文学として日本人は受容したのですが、和歌は古来からの言霊信仰に立脚したものであったからです。作者の霊が強く宿っているのは和歌のほうであると当時の日本人には感じられたことでしょう。この和歌の詞華集の編纂作業が後に「万葉集」として結実することになるのです。

「万葉集」は日本に現存する最古の和歌集で、全20巻で4500首以上もの和歌が収録されています。最も古い歌は5世紀初め頃と思われるオオサザキの后の歌で、最も新しい歌は759年に詠まれた大伴家持の歌です。「万葉集」も勅撰集ではなく私的に編まれたものですが、かなり長期間にわたって編纂作業が行われたようで、古い歌に関しては更に古い歌集や覚え書きのようなものから細かく抽出されたようです。第1巻の冒頭の句がオオハツセノワカタケ大王の歌であるのは、日本書紀も当初はこの大王の条を冒頭にして書き始められたと推測されるように、飛鳥時代から奈良時代においてはオオハツセノワカタケ大王が時代の画期という扱いを受けていたからであろうと思われます。
おそらく編纂作業の中心にいたのは橘諸兄で、編纂に協力したのは山部赤人、山上憶良、大伴旅人らの官人歌人達であったのでしょう。そうして16巻まで出来たところで756年に諸兄が失脚し、翌年には諸兄が死去し、息子の奈良麻呂がクーデターに失敗して反逆者の汚名を着て死に、諸兄が中心となって編纂していたこの詞華集は表に出せなくなってしまい、編纂作業は水面下で大伴旅人の息子である大伴家持に引き継がれました。
家持も諸兄失脚後の藤原仲麻呂政権や道鏡政権の下では冷遇され、地方官を転々としますが、その間にも主に大伴一族の歌を加えて編纂作業を進め、770年に称徳天皇が死去して道鏡が失脚すると中央政界に復帰して光仁天皇に重用されますが、その子の桓武天皇とは反りが合わなかったようで、むしろ桓武の弟の早良親王に近く、785年に家持は死にますが、その死の直後に長岡京建設現場における藤原種継暗殺事件が起こり、その首謀者として死後ながら罪人とされ、官位を剥奪され大伴一族は没落し、早良親王も罪に問われて憤死し、この早良も怨霊と化すことになるのです。
諸兄から引き継いだ詞華集の編纂は、家持によって785年のその死以前には完成して20巻の「万葉集」として結実していたと思われますが、諸兄失脚後の仲麻呂、道鏡、そして桓武の政権においては儒教に基づいた徳治思想が重視され、つまり徳によって災いを退けるという思想が主流であったため、言霊思想に基づく慰霊の和歌集を世に出せるような状況ではなく、また政権のシナ趣味が強くなり漢詩が和歌を圧倒し、和歌は日陰者の地位に追い遣られていましたので、家持も公表はとりあえず見送っていたのでしょう。そうしたところに家持自身が死後に罪人になってしまったものですから、「万葉集」は世に出すことが出来ず埋もれてしまうことになったのです。
この天武草壁系王朝に災いをもたらすと信じられた怨霊の慰霊のために編まれたアンソロジーが世に出るには、早良親王という新たに光仁桓武王朝に祟るようになったと信じられた怨霊の出現がその契機となるのでした。そして早良と共に罰された「万葉集」の編纂者である大伴家持もまた怨霊化したと信じられたのであり、皮肉にもその彼自身の慰霊のために後に名誉回復が図られたことが「万葉集」が世に出るきっかけとなるのでした。
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