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日本史についての雑文その325 南都六宗
奈良時代は仏教が盛んな時代というイメージがありますが、それは律令政府が仏教を保護したからで、庶民にとっては仏教はあまり馴染みの深いものではありませんでした。奈良時代の仏教はいわゆる南都六宗といわれますが、この呼び名は平安時代になってから京都の平安京を拠点にした平安二宗(天台宗・真言宗)に対比して、奈良の旧平城京を拠点としていた6つの宗派を総称して呼んだものです。つまりこの6つの宗派は都が平安京に遷った後も平城京に取り残されたのであり、それは桓武天皇がこの6つの宗派に平安京に拠点を築くことを禁じたからでした。
その南都六宗には三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つの宗派があります。しかしこの6つの宗派(そして平安二宗の2つの宗派も)というのは、キリスト教やイスラム教、そして後の浄土真宗や日蓮宗のように多数の信者を抱えて教団を組織する通常の宗教団体的な宗派ではなく、むしろ「学派」というべきものでした。
奈良時代の日本の仏教の宗派というのは、「鎮護国家」を目的として仏教理論について研究する国立研究所のようなもので、国家が運営している国立仏教研究所が6つあり、それぞれの研究所には国費で養われる国家公務員の研究員が決められた定員分の人数いて、それぞれの研究所のテーマに沿った仏教研究に勤しんでいるということになります。その研究員が僧侶なのであって、この6つの研究所で働く僧侶以外の僧侶というのは原則として法律違反なのであって、存在してはいけないのです。国家によって公認された定員の僧侶というのは、労働や租税を免除されて国費によって生活の面倒を見てもらうという特権を得る引き換えに、僧侶としての戒律を守り仏教研究に励み、鎮護国家のために成果を上げていかなければいけないのです。
つまり当時の日本の僧侶のやるべきことは「鎮護国家」に絞られているのであって、大乗仏教の大きな目的である「民衆の救済」、そしてそのための「布教活動」は打ち捨てられているのであり、また仏教そのものの究極的な目的である「自身の解脱」すらもどうでもいいこととされているのです。「鎮護国家」のために働く、そうしたごく限られた国家に有益な数少ない特権的エリートだけが国の統制下で僧侶になれるのであって、「民衆の救済」や「布教活動」「自身の解脱」のために勝手に出家して僧侶になる者がいれば、原則として労働や租税の義務を放棄した犯罪者として扱われるのでした。

しかし、この「鎮護国家」の思想というものはどういうものなのかというと、簡単に言えば仏教によって国家を平安たらしめようという考え方です。なぜ仏教によって国家が平安になるのかというと、大乗仏教においてはあらゆる衆生を救うために善行を積むことが悟りに至る道であると定義されたため、国家規模で善行を行うことで国家全体が仏陀の領域に近づいて苦痛や不幸から解放されるとされ、その善行というものは単に周囲の人に親切にするというだけではなく、仏教の教えを広めたり、仏陀を敬って祈りを捧げたりすることも含まれるとされたからです。
つまり、国民に広く仏教の教えを広め、多くの者が仏に祈りを捧げ、そして多くの者が悟りに近づくことによって国土が「仏国土」となり、平安になるというのが仏教における「鎮護国家思想」の本質なのです。ならば「鎮護国家」の実現のためにはむしろ積極的に「民衆の救済」「布教活動」を行い、「自身の解脱」をも目指す多くの僧侶や仏教信者を増やして教団を大規模に組織化していくべきなのです。しかし奈良時代の朝廷の行った仏教政策はその正反対のものばかりでした。
何故そういうことになるのかというと、形式主義に流れてしまったからです。広く仏教の教えを広めるためには何をすべきなのかというと、その手段として寺院を建て、仏像を作り、優秀な僧侶を育成し、経典を多く写経し読み上げることであり、そして何よりまず正しい仏の教えとは何なのか選別することでした。何故なら仏教の経典や理論書はあまりにも膨大で多岐にわたりすぎており、何が正しい教えであるのかについてまず研究しなければならないからでした。ただ、これらは仏教を広めるための単なる手段であり1つ1つのステップに過ぎないのであって、これらを行っても最終的に仏教が広まらなければ意味は無いはずなのです。しかし朝廷はこの手段を目的化してしまい、単に寺院を建て仏像を作り僧侶を育成し、写経事業を行い大規模な法会を行って彼らに読経をさせ、寺院に篭って仏典の研究をさせることによって、あとは自然に仏教が広まり、自然に日本が仏国土になり平安になるとしたのです。
何故そのような形式主義に流れたのかというと、そもそも朝廷には仏教信者を増やそうという考えは無かったからです。律令国家のシステムの中で仏教信者のような非生産的存在は不要であり害悪にしかならないという事実を認識していたからです。だから寺院建立や写経などは積極的に行っても、肝心の仏教布教のための政策は立てず、むしろそれを阻害するような政策をとったのです。もちろん朝廷だって単に寺や仏像を建てて写経したり部屋に篭って僧が経典の研究をしているだけで勝手に仏教が広まるなど、そんな御伽噺のようなことを信じていたわけではありません。最初から仏教を広めるつもりなど無いのです。仏教を広めることが目的なのではなく、最初から朝廷の目的は寺を建てたり写経をしたり僧侶を育成することのほうだったのです。それは何のためなのかというと、そうした僧侶や寺や経典などを使って別の事をさせるためだったのです。つまり「鎮護国家」は仏教関係者を騙す方便で、朝廷にとって都合の良い「全く別の鎮護国家」を行うために仏教関係者は奉仕させられることになったのです。

その「別の鎮護国家」とは、仏教の法力や呪力を使って災いを除き直接的に国家を平安にし朝廷を安泰たらしめることだったのです。民衆を救済したり仏教を布教したりすることはどうでもよく、僧侶たちはひたすら国家安泰のための呪法を行っていればよい、というのが朝廷の求める「鎮護国家」なるものの本音であったのです。そのために僧侶たちは国家に飼われる存在であったわけです。これは結局、朝廷にとっては仏教とは解脱を求めたり仏国土を実現するための真の仏教精神を追求するためのものではなく、その伝来当初に「仏神」と呼んだ時のメンタリティーそのままに、単に神道の首長霊に替わる新たな強力な「守り神」を求めたものであり、神道的な思考形式の範疇から出るものではなかったということです。
そうした朝廷の求める「鎮護国家」を行うためには、呪法を行うための僧侶が必要であり、寺も仏像も経典も必要であり、最も効果的な呪法を見つけるための仏典の研究も必要であったのです。それらの環境は国家が用意しました。それは真の「鎮護国家」を行うためという名目で仏教関係者たちをその気にさせて協力させて環境整備をしたのです。例えば遣唐使船に同乗した留学僧たちは真の「鎮護国家」を行うために仏教の奥義を日本へもたらそうという崇高な使命感をもって生命がけで海に乗り出したのであり、単に悪霊祓いの呪法を求めて海を越えたわけではないのです。
そのあたりの、呪法および形式的な仏教事業のみを求める朝廷側と、本質的な仏法を求める仏教界の意識のズレというものはこの奈良時代には常に存在し、そうしたズレは認識しつつも権力の庇護から離れられずに妥協と迎合を重ねつつ面従腹背で仏法の追求も行っていく仏教界というものもあり、それらが奈良仏教を巡るチグハグな状況となって現れていきます。

日本に仏教が公伝したのは538年で、その後、仏教は蘇我氏や厩戸王子らの庇護を受けることとなりましたが、この時代の仏教は、寺を建てて仏像を置き、その前でお経を唱えれば仏神の加護を得ることが出来るというような信仰であり、これはご神体の前で祝詞を唱えれば神の加護を得るという神道の儀式をそのまま移し変えたものであり、本来の仏教理論とはかけ離れたものでした。ただ、これが結局は後の日本仏教の基本的姿勢となっていくことになるのですが。
とにかく、日本に初めて本格的な体系化された仏教理論がもたらされたのは厩戸王子の死後まもなくの625年の三論宗の伝来時ということになります。三論宗というのは大乗仏教の宗派の一つで、インドで2世紀頃に大乗仏教理論を大成したナーガールジュナの著作「中論」「十二門論」、その弟子の著作「百論」という3つの仏教論を経典とする宗派で、これらの仏教論は5世紀初めにシナにもたらされ漢訳され、7世紀初めの隋代に吉蔵という僧によってこれら三論の教学が大成され、この三論教学を突き詰める宗派として三論宗が成立しました。この吉蔵の弟子であった高句麗僧の慧灌が625年に来日して日本に三論宗を伝えたのです。この三論教学の基礎的部分をカバーする宗派が成実宗で、これもほどなく日本に伝わりました。
この三論教学というのはどういうものなのかというと、「空」についての理論なのです。仏教というのは自我というものが実体ではないということを悟ることによって苦から解放され解脱するという教えで、ナーガールジュナはあらゆる現象はそれぞれの因果関係によって現れているのであって、それ自体で自立して存在する実体というものは存在しないのであって、もちろん自我という実体も存在しないのであり、そういう状態を「空」といい、それゆえこの世の全てのものは「空」であるとしたのです。「空」というのはインド人の発明した数字の「0(ゼロ)」に通じたような概念で、全ての存在の始点は何も存在しない状態であるというようなニュアンスです。この「空」を煩悩と業を捨て去ることによって五感で体得することを大乗仏教では最終目標とし、解脱はその手段に過ぎないとしたのです。まぁ大体、こういう「空」の理論の研究を行うのが三論宗および成実宗であるということです。
この三論宗と成実宗を大王家や蘇我氏を中心とした大和朝廷は受容したのですが、それは特に彼らが「空」について興味を持っていたというわけではなく、単にこれらの宗派が当時のシナにおいて最新流行の宗派であったからであって、朝廷の為政者にとっては「そんなに人気のある宗派なのであれば、さぞかしその御利益はすごいのであろう」というような単純な期待によるものであったと思われます。三論宗についても為政者の受け止め方としてはそんなものでありましたが、僧侶たちは結構真面目に「空」について研究したのであろうとは思われます。

ところが政権の求める肝心の法力の面ではこれらの宗派はあまり成果は上がらず、それどころか蘇我氏政権は行き詰まり、とうとう645年には乙巳のクーデターという混乱まで生じて政権は崩壊してしまいました。そこで新たに成立した改新政権は仏教を国家統制下に置いて寺院や仏像を造営し写経事業を進め法会を行ったりして、本格的に「(あくまで彼らなりの)鎮護国家」政策を進めることとして、653年に遣唐使を派遣するにあたり、最先端の仏教を受容してくるように命じたのでした。
その頃の唐は3代皇帝の高宗の治世初期の頃でしたが、629年に国禁を犯して出国してインドへ赴き645年に膨大な仏教経典を唐に持ち帰ってきた玄奘三蔵によって伝えられた「唯識」を突き詰める宗派である法相宗、「唯識」の基礎的な部分である「倶舎論」をカバーする宗派である倶舎宗あたりが最先端の教えでした。
「唯識」というのはインドで4世紀に出現した大乗仏教の思想体系で、ヴァスバンドゥによって集大成されました。「唯識」は、全ての存在は実体の無い「空」であるとする「空」論を補完する理論で、全ての存在は実体の無いものであるはずなのに、それを人間はどうして実体であるもののように感じてしまうのかについて突き詰めて考え、悟りへ至る行程を探ったものです。「唯識」思想においては、人間の心というものだけは仮に存在するとして、その心は8つの階層に分かれており、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚に相当する5つの前五識の下に自覚的意識があり、更にその下に未那識という常に自我に執着し続ける無意識が存在し、更にまたその下に阿頼耶識という他人と共通の記憶を含む集合無意識のような領域があり、この阿頼耶識が前五識や意識、未那識を生み出し、自己をとりまく全ての存在というものは阿頼耶識が生み出した現象でしかなく、実体は無く「空」であるとしたのですが、この心の働き自体も一瞬のうちに生滅を繰り返す現象に過ぎず実体の無い「空」であるということになっています。そのようにこの世の存在は「ただ識別のみ」であるということを自覚することによって悟りに至るのですが、その方法論としての瞑想の実践法について考察しており、悟りに至るまでには5つの段階を経た膨大な時間の修行が必要であるとして、しかも「五性各別」といって、人間が成仏出来るか否かはその人のあらかじめ決まった素質によるとして、誰もが悟りに至ることが出来るわけではないとしました。
実際は「唯識」というのはおそろしく難解な思想体系で、極めて大雑把に説明するとこんな感じなのですが、とにかく653年の遣唐使が唐へ赴いた時にシナ仏教界の最先端の流行はこの教えだったのであり、留学僧の道昭は玄奘から直々に「唯識」を学び、661年に日本へ戻った道昭によって法相宗と倶舎宗が伝えられたのでした。

その後、壬申の乱を経て律令国家が建設されることになりますが、その都である藤原京や平城京においては、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗という4つの宗派、いや学派といったほうが適当だと思いますが、それら4つの国立仏教研究所が設けられるようになり、そこで国家公務員である学僧たちがそれぞれの学派の教説について研究に励むようになりました。彼ら学僧たちはその研究は「真の仏法を日本に広めるため」、つまり真の意味での「鎮護国家」を実現するための1つのステップとして行っているつもりでいたのですが、彼らの雇用主である律令政府のほうは、彼らに寺や仏像を作らせ、写経をさせ法会を行わせ呪法を行わせることによって、国家安泰の御利益を受けようとしていたのが本音であり、庶民への布教は禁じていました。呪法や法会はともかく寺や仏像を建てて写経をするようなことで御利益が得られると本気で考えていたかどうかですが、そういう建前になっている以上、それを本気で信じてしまう者も朝廷内には多くいたのではないかと思います。人間というのは案外そんなものです。
この4つの学派の中では法相宗が最も勢いがあったようですが、その指導者である道昭などは晩年には結構真面目に民間への慈善事業や土木事業などを行い、布教にも取り組もうとしたのですが、律令政府には歓迎されず、700年の道昭の死後にそうした事業を引き継いだ弟子の行基は政府から弾圧されることになりました。

こうした4学派体制に新たに加わることになったのが華厳宗でした。華厳宗は、他の4学派のようにインドで教学が確立された宗派ではなく、インドから伝わっていた華厳経という経典をもとにして7世紀初めにシナで独自に打ち立てられた教説であり、8世紀初め、周の時代に武則天の庇護を受けて法蔵によって大成した宗派でした。その法蔵の弟子の審詳を736年に金鐘寺の僧の良弁が日本に招き、華厳宗は伝来したのでした。
三論宗や法相宗が「存在の認識」について考察する宗派であったのに対して、華厳宗は「宇宙の構造」について考察する宗派でした。存在というものが互いの因果関係によって現れているとするなら、この世界はあらゆる事物が相互に関係し合い重なり合っているということになり、そうした宇宙の中心に時間も空間も超越した絶対的存在である仏がいるという、そうした宇宙の構造について述べた宗派です。全ての事物は繋がっているわけですから全ての人間も仏に繋がっており、もともと円満な仏性を備えているとされます。華厳宗で述べている教説の内容は「空」や「唯識」の教説と同一内容のものを、「空」や「唯識」においては人間の側からアプローチしていった教説であるのに対して、華厳宗においては仏の側から見た世界を説明したものとされています。
それゆえ、この華厳宗の教えというのは、真面目に理解しようとすれば唯識などよりも更に難解なものとなっているのですが、単に絢爛豪華な仏の世界を堪能し、それを有難がって御利益を願うというようなスタンスであるならば、地味な認識論ばかりの法相宗などよりもかなりとっつきやすいものであるといえます。
735年から737年の天然痘の大流行によって長屋王の怨霊の存在を強く意識し、そうした怨霊に対して既存の仏教の4学派の法力がさして役に立たなかったと失望した聖武天皇や光明皇后は、この新来の、絢爛豪華な有難い仏の世界を説いた最高の教えとされる華厳宗こそ、怨霊を退散させる法力を備えた最後の切り札であると考えたのです。そうして743年に華厳宗の仏である盧舎那仏を象った大仏の造立が宣言され、華厳宗は平城京の5つの仏教学派の中で有利な地位を占めることとなったのです。

南都六宗の中で最後に日本に伝わったのは律宗ですが、これが伝わったのは東大寺大仏の開眼供養が行われた翌年の753年のことでした。律宗とは戒律の研究と実践を行う宗派です。戒律というのは仏教において守らなければいけない道徳規範や規則のことで、「戒」が内面的道徳規範で、男性で250個、女性で350個の小乗戒があり、「律」は教団の集団規則です。シナでは戒律を修めなければ僧侶になれなかったので隋代から律宗がありましたが、日本においては早くから不完全な形で戒律は伝えられていたのですが軽視され、僧侶に戒律を授ける授戒の儀式も行われず、授戒を行うための戒壇も設けられていませんでした。そこで天平の遣唐使で唐に渡った栄叡と普照という僧が742年にシナの律宗の継承者であった鑑真に日本へ授戒の出来る僧の招聘を依頼したところ、鑑真自らが渡日すると申し出、その後5回の渡海失敗を経て、753年にようやく6回目にして渡日に成功し、鑑真は754年に東大寺に国立の戒壇を設けて聖武上皇や孝謙天皇など400名の僧侶に戒律を授け、日本に律宗を伝えたのでした。
しかし、この日本における元々の戒律軽視は、そもそも律令政府が僧侶を戒律で律するよりも単に国家権力によって統制して政府の命じるままの仏教儀式を行わせるための最低限の人員さえいればよいと思っていたことの表れであり、鑑真来日後にしても戒壇は国家管理下の国立戒壇が全国に3箇所設けられただけであり、そもそも戒律というものは教団が自主的に授戒などを行い僧侶が自主的に守っていくものであるのに、それを国家統制下に置こうというのは、あくまで僧侶は国家公務員であるという律令政府の意識の表れであったといえるでしょう。
なお、この鑑真の伝えた戒律は小乗戒であり、非常に厳格な内容のものであり、この753年の鑑真来日から、後に9世紀初めに最澄や空海がより緩和された大乗戒を主張するまでの間の時期というのは、日本の仏教界は極めて戒律が厳格であった時期にあたり、道鏡が活躍した時期というのはこの時期に含まれ、それゆえ道鏡と称徳女帝とのスキャンダルなどあり得ない話だということになるのです。仮に百歩譲って道鏡という人間が規格外にいい加減な人間であったとしても、そのような人物が仏教界の頂点に立つということは、この時代においてはさすがに許容され得ることではなかったのです。

さて、このような南都六宗の学僧たちは、彼ら自身は当初は純粋に日本に真の仏法を広めようという志を持っていたのですが、彼らの雇い主である律令政府は彼らに形式的な仏教儀式と国家安泰の法力のみを期待し、布教活動や救済活動などをほとんど許しませんでした。律令体制のもとでは国家の庇護なくして学僧たちの生活も活動も成り立たないのであって、政府の意向に逆らうことも出来ず、政府の求める活動に従いながら、その傍ら、教説の研究に勤しむというのがこれら6つの宗派の主な活動となっていきました。
こうした南都六宗の活動というものは、活発な布教活動を行い多くの信者を獲得し時代を動かす原動力ともなっていった後世の鎌倉新仏教などと比べると、あまりに歴史において果たした役割が小さい印象を受けますが、こうした仏教理論の研究自体はこれはこれで重要なのであり、後世の仏教に大きな影響を与えているのであり、これら六宗の中でも法相宗、華厳宗、律宗などは律令国家が崩壊した後も後世まで生き残り、活発な活動を継続することになるのです。
これらの宗派が律令国家体制崩壊後も生き残ることが出来たのは、国家から自立してやっていけるだけの経済基盤を得ることが出来ていたからなのですが、それは743年の墾田永年私財法の発布以降、活発にこれら宗派の拠点としていた寺院が私有地を増やしていったからでした。それは、彼らが真に望む自由な仏教活動を行うためには政府の庇護下から少しでも自由になることが必要であったからです。そのために南都六宗の寺院は私有地を開墾して増やし、政府に対して発言力を徐々に強めていくようになりました。ただ、こうした経済活動を行うことや、その結果、庶民との接触を深めていくことも、実は鑑真の伝えた小乗戒とは矛盾する活動となっていくのでした。
しかし、このように六宗が発言力を増していくことは律令政府にとってはあまり歓迎すべきことではありませんでした。ハッキリ言って大仏を作っても何の御利益も得られませんでしたから、これら六宗は政府の求める「鎮護国家」にとっては役立たずだったのであり、役立たずのくせに勝手な主張ばかりする鬱陶しい連中というような認識になっていきます。特に大仏を作った聖武天皇とは血縁関係のほとんど無い781年に即位した桓武天皇はそういう気持ちを強く抱くようになり、南都六宗を毛嫌いし、もっとストレートに彼の求める「鎮護国家」に有用な加持祈祷に特化した山岳仏教や密教を優遇するようになっていくのです。
それによって9世紀に入ると南都六宗は影響力を削がれていき、最澄の天台宗や空海の真言宗という「平安二宗」が律令国家の庇護を受けて仏教界の主役となっていくことになるのですが、これらの八宗は結局は10世紀に律令国家体制が崩壊した後は私有地を有して自立してやっていかねばならなくなります。しかし、そうして律令政府による軛が外れた後こそ、日本仏教は真の意味での「鎮護国家」を追求することが可能になっていくのです。そこから生まれていくことになる鎌倉新仏教の目指していたものこそ、国民に広く仏教の教えを広め、多くの者が仏に祈りを捧げ、そして多くの者が悟りに近づくことによって国土が「仏国土」となり、平安になるという、真の「鎮護国家」思想そのものであったのです。
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