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日本史についての雑文その326 神仏混淆
このように律令政府が奈良仏教に求めたものはその教説ではなく、呪法であったわけです。そもそも仏教というものは本来はそうした呪法や法力で御利益をもたらすようなものではなかったのですが、日本の為政者がそういうものだと誤解していた面はあり、また仏教側ももともとインドやシナにおける布教のためにそういった要素も取り入れていたのも事実でありましたので、そうした誤解や期待を受けることになったのも仕方ないことでもありました。
そうした呪法に特化した仏教が密教です。インドにおいて紀元前後から興った大乗仏教は一般への布教を行うようになり、その際に徐々に布教の手段として民間宗教の呪術的要素を取り入れるようになっていきました。そのために病気の治癒や雨乞いなどの現世利益に関する効用ごとに決まった呪文を唱えるという単純な経典も多く書かれるようになり、これが初期密教の経典で、特に体系化されたものではなく、「雑密」というものです。
その後、この雑密の諸経典はシナに輸入され、4世紀終わりから5世紀初めにかけて漢訳され、5世紀後半には効能ごとに単に呪文を唱えるだけではなく、それぞれの効能ごとに御利益のある本尊が決められて、それらの本尊に対して祈りを捧げるようになり、さらに炎の神力によって祈願を行うために護摩を焚いたり印を結んだりする作法も整えられるようになりました。
護摩を使った法要の本尊は炎を司る「明王」が据えられることが多く、明王というのは古代インド神話に登場する悪鬼神が仏教に包括されて善の神となったもので、民衆を仏教に帰依させる働きを持つと同時に、仏界を脅かす煩悩や悪に対する護法の役割を担うとされています。主な明王には不動明王や孔雀明王などがあります。

日本にも仏教伝来後、この雑密も伝わるようになり、7世紀後半に修験道を開いた役小角という修行者は若い頃に飛鳥の元興寺で修行していた時に朝鮮半島から来た僧から孔雀明王経法を授けられたといいます。孔雀明王は災厄や苦痛を取り除く功徳があるとされ、また人間の煩悩を喰らって仏道に成就せしめる功徳があるともされました。その後、小角は葛城山や吉野金峯山などで山岳修行を行い呪術をよく行い、山岳信仰や神道、仏教を融合した日本独自の宗教である修験道の開祖となりました。
また、天平の遣唐使で734年に帰国した玄も唐で雑密の呪法を修め、帰国後にその呪法でもって聖武天皇の生母である藤原宮子の病気を治癒し、それがきっかけとなって取り立てられることとなりました。また、8世紀後半の称徳天皇の治世に活躍した道鏡も、元々は山岳修行者出身で、雑密の呪法を修めていたようです。
律令政府が仏教者に求めていたのは本当はこういう雑密的な呪法であったのですが、これらは全く体系的でなく断片的なもので、正統派の仏教者から見ればハッキリ言って怪しげなものでありましたから、国家によって選ばれた南都六宗のエリート学僧たちはこういう雑密にはあまり興味を示しませんでした。こういう雑密に興味を示したのは、むしろ国家に管理された南都六宗に飽き足らず、民衆との接触を求めるために国家資格を得ずに勝手に出家したような私度僧といわれるような者達のほうでありました。しかしそういう者達というのは律令政府から見れば法律違反者であり取り締まり対象であったのであり、なかなか、そういう者達を優遇するというわけにもいかないのでした。

一方、インドにおいては、仏教より古く紀元前13世紀から存在する古代インドの民族宗教であったバラモン教とその他の民間宗教が融合することによって4世紀頃にヒンドゥー教が成立し、それが隆盛になるにつれて仏教が圧迫されるようになり、そこで仏教側はヒンドゥー教に対抗するために、6世紀頃からヒンドゥー教や民間宗教の要素を更に大きく取り込んで、それらを仏教の教理のもとで理論体系化するようになりました。それが中期密教といわれるもので、多くの密教経典が編纂されるようになりました。
中期密教の経典は釈迦の説法した内容ではなく、「大日如来」という釈迦とは別の時空を超越した仏陀が説法した内容ということになっています。これは大乗仏教においては歴史上、また時間や空間も超越して複数の仏陀(如来)が存在するということになっているから、大日如来もそうした仏陀の1つということになるのですが、もともとはイランのゾロアスター教の善の最高神であるアフラ・マズダが仏教に習合したものであろうと言われます。イランにおいてはアフラ・マズダは善神なのですが、インドのヒンドゥー教においてはアフラ・マズダはアスラ(阿修羅)と呼ばれて善神デーヴァやインドラ(帝釈天)の敵対者である悪鬼とされるようになったので、ヒンドゥー教への対抗上、中期密教においてはアフラ・マズダの習合した大日如来を教主とするようになったのかもしれません。
このように釈迦とは全く関係のない仏陀を教主とすることで、釈迦の唱えた教えとは全く関係なく新たな教説を立てることが出来るわけです。まぁそもそも大乗仏教においては釈迦を教主としている経典においても、それはあくまで「釈迦如来」という名の仏陀の説法した内容なのであって、歴史上実在の「釈迦」の説いた内容とはあくまで違うのであるから、密教の場合と大同小異ではあるのですが、とにかく中期密教においては極めて神秘主義的、象徴主義的な教義の中で、真言や陀羅尼のような呪文を伴って多様な仏尊の功徳や御利益が説かれ、7世紀頃にはそれらの仏尊を大日如来を中心に体系化、階層化した胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅の両部曼荼羅によって大日如来の悟りの内容が述べられた密教の根本経典である「大日経」「金剛頂経」の内容が象徴的に示されるようになりました。となると、初期密教における明王たちも元は悪鬼神で、大日如来もヒンドゥー世界では悪鬼であるアフラ・マズダであるとするならば、その大日如来の下に系列化された明王たちも、もともとはゾロアスター教における善の神アフラ・マズダの眷属たちであったのかもしれません。
とにかく密教の教説は極めて難解で、広く一般に説いて広めるようなものではなく、教団内部で師匠から弟子へ一子相伝のように伝えられるものであるとされているように、私がその教説について的確に説明出来るはずもなく、まぁ大雑把に言うとこんな感じですが、要するに、雑密のようにバラバラな状態ではなく、密教の呪法がこの中期密教において初めて壮大な世界観のもとに体系化されたわけであり、それが他の大乗仏教の宗派を押さえて、インド仏教の代表的存在となったということなのです。
この中期密教が8世紀前半にシナにもたらされ、8世紀後半に不空金剛によって大成され、密教はシナ仏教の最新の流行となったのでした。それを聞きつけた日本の為政者が怪しげな雑密ではなく、そして理屈っぽい南都六宗ではなく、今やシナ仏教の代表となろうとしている密教を日本にも輸入して、その呪法を「鎮護国家」のために大いに役に立てたいと思うようになるのは当然の流れであるといえるでしょう。そもそも律令政府が仏教に求めていたものとは、こうした密教の姿そのものなのです。特にそうした呪法を強く求めたのが桓武天皇で、それはそうした呪法に頼らざるを得なくなる事情があったからでもあるのです。
ちなみに、インドにおいては中期密教は複雑化しすぎたためにあまり受け入れられず、仏教はヒンドゥー教に押され続けることとなり、そうしたインド仏教の再興を賭けて後期密教というものが成立しましたが、これはシナに伝来せず、日本仏教にも何ら影響を与えませんでした。インド仏教はその後、ヒンドゥー教やイスラム教に押されて消滅していくことになり、後期密教は最後のインド仏教となり、その信仰体系はチベット仏教に引き継がれることとなります。この後期密教の信仰体系を悪用した邪教がオウム真理教ということになります。

この密教というものは、そもそも純粋な仏教ではなく、インドやシナの伝統的宗教と習合したものでありますから、日本においても日本の伝統的宗教と習合しやすい性格を持っていたといえます。日本の伝統的宗教といえば神道ですが、神道というのは元々は縄文時代以来の自然精霊信仰に古代シナ由来の農耕神信仰と祖霊信仰が融合したハイブリッド宗教であったわけで、地域社会における氏族共同体によって祭祀が運営されていました。
ところが、7世紀末に律令国家が建設されて全国に中央集権体制が敷かれるようになってから、徐々に地域の氏族共同体が弱体化していきました。律令国家の地方統治体制は郡司層、つまり在地首長層による旧来の支配体制を温存して、それを基本単位にして運営されていくことから始まりました。この在地首長層というのが氏族共同体の長ですから、その支配体制こそ氏族共同体であり、当初は律令制下でも氏族共同体は温存されていました。
しかし本来は律令制というのは全ての人民と土地が中間共同体を省いて直接に中央政府から派遣された官僚に従属する体制としてシナで作られた制度ですから、このような日本古来の氏族共同体と相容れるものではないのです。だから8世紀前半の律令国家文明の確立期において何度かの律令制の改革の度に、少しずつ郡司の裁量権や既得権が剥奪されていき、代わりに中央から派遣された国司の権限が大きくなっていきました。そうして地域社会において郡司、つまり旧来の在地首長層の影が薄くなっていき、また、律令政府による過酷な徴税や労役を嫌って住んでいた地から逃亡する者も少なからずおり、そうやって氏族共同体が弱体化していくようになっていったのです。そうなると、それまで氏族共同体によって担われてきた神道の祭祀を行うことが次第に困難になっていったのです。
そうしたところにもってきて、8世紀後半の律令国家文明の修正期に入ると、地域社会が変容し始めました。それは743年に発布された墾田永年私財法によって既存の農地の周囲に新たな開墾地が作られるようになり、しかもこの法は新たに灌漑路などを引いた開墾地しか私有地と認めなかったため、貴族や豪族、寺社などのような有力者しか私有地を増やすことが出来ませんでしたから、既存の地域社会に隣接して、もともとその土地に土着していない余所者が経営する新たな農地が出現し、そこに余所から逃亡してきた農民が雇われて耕作をし、新たな村落が生まれるようになっていきました。こうして氏族共同体を基本単位としていた地域社会は変容していき、従来の氏族共同体の論理だけでは地域社会はやっていけなくなっていきました。
墾田永年私財法によってトータルとしての農地は増え、律令政府に入る税収は増えていったのですが、その一方で地域社会の変容と氏族共同体の弱体化という新たな問題が生じてくるようになったのです。しかしどのように地域社会が変容していこうとも、そこは農村共同体であるという点では変わりないわけで、毎年の豊作を祈願する農耕祭祀は不可欠なものでした。そしてそれは長年続けられてきた神道による祭祀でなければいけないのですが、その神道祭祀は氏族共同体によって運営されてきましたから、氏族共同体の弱体化によって農耕祭祀を続けていくことが困難になってきました。
また、新たに私有地に形成されるようになった農村共同体は先祖伝来の土着の共同体ではありませんから、受け継いできた神道祭祀のための基盤がありません。しかしそうはいっても彼らも元来は神道祭祀で農耕祭祀を行ってきた農民達でありましたから、新たに移り住んできたその農村共同体においても農耕祭祀を行っていくことを望みました。しかし、伝統的な基盤を持たない彼らにも神道的な農耕祭祀を行うことは困難でした。

かつてシナにおいてもこのように地域共同体が弱体化した時に受容されたのが仏教でした。漢末期の大乗仏教の受容がそれでした。よって、この8世紀後半の日本における地域社会の危機においても仏教が受容されることになりました。そして、漢末期の場合も仏教は単に受容されただけではなく、シナ古来の老荘思想と習合して道教を形成したのであり、この日本の場合も神道と習合していくこととなります。
そもそも何故、共同体の危機に際して仏教が受容されやすくなるのかですが、それはかつて大和朝廷が仏教を受容した理由である「仏教は氏族共同体などの伝統的共同体の制約を受けない支配力を発揮する」ということにも通じます。支配を成り立たせるのは、その支配を正当化する論理が存在することですが、支配を正当化するには、共同体内の富の集約と再分配が円滑に行われる必要があります。伝統的な氏族共同体においてはそれが家族的に自然に円滑に行われているのであり、余所者がそこに入り込むのはなかなか困難です。だからこそ、律令国家もまずは氏族共同体を温存して、それを活用する形で支配体制を組み上げるしかなかったのです。
しかし仏教、その中でも大乗仏教には富の集約と再分配を自然に行い得る論理が存在するのです。それが大乗仏教を元々の南伝仏教から分かつ大きな特徴である「利他行」、つまり衆生救済のための善行を積むことによって悟りに近づくという成仏を目指す者の行うべき行為のうちの1つである「布施」なのです。そもそも仏教では現世での財産に執着することは罪悪視されますが、恵まれない者に施しをしたり公共のために投資したり、特に寺に財産を寄進したりすることでその罪が浄化されるという発想も「布施」には含まれています。
この「布施」の発想ならば、私有地の所有者はその土地の農民達の労働によって築き上げた財産の一部をその土地の農民達の福祉のために再分配することによって罪が浄化され悟りに近づくと同時に、その土地における支配の正当性を得ることにもなり、農民達も利益を得ることが出来るわけです。これならば伝統的にその土地に土着していない余所者でも住民との間で相互扶助の関係を築き支配関係を正当化する大義名分が立つのです。こういう力が仏教にあるゆえに、畿外においては余所者に過ぎなかった大和朝廷は全国支配を目指した時に仏教の力を借りようとしたわけです。そうした仏教の特性を、今度は私有地の所有者である貴族や豪族などの余所者の有力者が駆使することになったのです。また、私有地以外の公地においても、氏族共同体が弱体化したことによって生じた隙間を埋めるために律令国家の官僚達もこの仏教の特性を活用することになります。

「布施」によって地域社会にもたらされる福祉の中には灌漑施設を整備したり農道を整備したりも含まれていたでしょうが、農耕祭祀を行うというのも大きな要素であったでしょう。但し、農耕祭祀は神道でしか行えず、神道は神社で行うもので、神社というものは氏族共同体のものですからいくら実力者や官僚であっても余所者が介入することは難しいので、寺を通じて祭祀支援を行うことになります。つまり寺に寄進した財産が寺を経由して神社にもたらされて農耕祭祀に使用されるようなシステムが作られればいいわけで、そのためには寺と神社が一体化してしまえばいいわけです。
幸い寺ならば、741年の国分寺と国分尼寺の建立の詔以降、全国に官寺が作られるようになっていましたし、それに呼応して地方の豪族たちも独自に寺を建てるようになっていました。各地の私有地の所有者達も上記のように支配の正当性の担保のために財産を寄進して寺を建てるようにもなっていました。そうした寺にそれぞれ、近くの地域社会の氏族の神や、その他関係のある神を勧請して寺の内部あるいは近傍に祠を設けて、その寺の守護神、鎮守とするようになったのです。また逆に、もともと存在する地域の神社の傍らに寺が建てられ神宮寺と呼ばれるようになり、神前で読経なども行われるようにもなったのです。
8世紀前半から国家レベルの神社において神宮寺が建立されるケースはあったのですが、8世紀後半になると地方豪族の関与する神社などでも神宮司建立のケースが明らかに増えてきました。それは、それらの神社の氏神が「仏道修行をしたい」と託宣するケースが生じてきたからです。氏神様が仏道に帰依したいと自ら仰っておられるのだから神社の横に寺を建ててさしあげようという大義名分が立つわけです。また、そうして仏道に帰依した神様ならば寺や仏道の守護神になるのも当然であり、それゆえ寺の傍らにその鎮守として神社を建てることも正当化されるのでした。その走りとなったのが8世紀前半の興福寺の鎮守としての春日大社でしたが、749年に東大寺大仏殿の鎮守として勧請された八幡神を祀る手向山八幡宮が画期となって寺は守護神を祀る神社を併設するようになりました。

しかし、神様が仏教に帰依したいというのは何やら異様な感じがしないでもありませんが、749年には最高神の化身であるはずの聖武天皇が出家して仏教に帰依しており、それをきっかけに神が仏教に帰依するということはそんなに異様なことではないと捉えられるようになっていました。そもそも仏教においては神もまた「天部」といって、人間や動物などと同じく輪廻を巡る迷える衆生の1つに過ぎないのであって、悟りを開き仏陀と成ることを求めることは何ら不自然なことではありませんでした。もちろんその「天部」はもともとインド神話の神々を指していたのであり、日本の神道における神々とは別個の存在なのですが、この8世紀後半の地域社会において、仏教の神々と神道の神々を同一視することによって、仏教と神道の融合が図られて、それによって地域社会における神道祭祀の保全が図られたのです。
この仏教の神々、つまりインド神話の神々というのは主に密教において本尊として信仰されていましたから、8世紀後半において神宮寺の建立においては雑密を修めた修行僧が多く関与したようです。つまりインド神話の神々と日本の神々とを一体化させるに際して、雑密がその触媒の役目を果たしたのだといえます。雑密はその呪術的な修行や世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神道と折衷しやすかったのだといえます。
雑密の本尊のインド由来の神々は自然精霊的性格を持ったものが多く、これは神道の神々のうち縄文以来の自然精霊由来の神々と習合しやすかったといえるでしょう。それゆえ日本においては雑密の修行は自然神祭祀を行う神社の近く、つまり自然豊かな山岳地域や海の近くなどで行われることが多く、そこから神仏調和を唱えた山岳宗教である修験道が、雑密を修めた修行僧である役小角によって開かれるということにもなったのです。この修験道もこうした雑密を触媒にした神仏混淆の一形態だといえるでしょう。
このように、自然神祭祀と雑密が結びついたケースの神宮寺は、山岳地域や海の近くの断崖絶壁など、里から離れた奥深い地に作られることが多く、呪法に長けた仏教修行者は平城京の南都六宗の寺院から離れて、そういう山岳寺院などに集まるようになっていきました。そういう山岳仏教を優遇するようになったのが桓武天皇であり、そうした山岳仏教の修行僧たちの中に最澄や空海がいたのです。

さて、しかし神道とは自然神祭祀だけの宗教なのではなく、祖霊祭祀もまた神道における重要な要素となっています。この祖霊、つまり氏神への祭祀と仏教とを融合させる際の触媒となったのが阿弥陀信仰でした。
阿弥陀信仰とは阿弥陀如来という仏陀への信仰です。阿弥陀如来というのは大乗仏教における如来の1つで、大乗仏教においては仏陀(如来)は釈迦だけではなく複数存在しますから、そのうちの1つということになります。阿弥陀如来は西方にある極楽浄土という仏国土を主宰する如来で、あらゆる如来の中でも衆生の救済において飛びぬけた力を持つとされ、人間は死後に極楽浄土に生まれ変わって阿弥陀如来のもとで仏道修行することによって確実に悟りを開いて成仏できるとされ、極楽浄土への転生(往生)は阿弥陀如来を礼拝することによって可能になるとされました。これが阿弥陀信仰です。後世の阿弥陀浄土信仰や念仏信仰とは別で、単に阿弥陀如来を礼拝する民間信仰でありました。
この阿弥陀信仰は2世紀頃にインドで始まりました。もともとはこの阿弥陀如来もゾロアスター教の光明の最高神アフラ・マズダが仏教に取り入れられたものだといわれています。その阿弥陀信仰がシナに伝わり、そして8世紀前半に日本に伝わり、8世紀後半に神道と習合して先祖敬仰儀礼となっていったのです。
氏神とは祖霊のことであり、つまりご先祖様の霊です。ご先祖様が死んで神様となって現世の私達、つまり子孫達を見守ってくれているというのが神道の考え方ですが、これと阿弥陀信仰が融合して、神様となったご先祖様も成仏を願うはずであり、阿弥陀如来のいる極楽浄土へ行きたいはずであると考え、ご先祖様の極楽往生を願って、ご先祖様に代わって私達現世の子孫が阿弥陀如来への礼拝を捧げようという考え方が生じたのです。これがつまり先祖供養であり、これによって子孫はいつも見守ってくれているご先祖様に恩返しをし、祖霊は供養をしてくれる子孫を守護神として見守って守護することで善行を積み成仏へ近づいていくということです。これは現在の私達にも常識として備わっている日本的な宗教観そのものであるといえます。そうした日本的宗教観が生まれたのがこの時代で、これによって、元来は先祖祭祀とは無縁なものであった仏教が、日本においては先祖祭祀と密接な繋がりを持ったものになったのでした。元来は純粋に神道のみで行われていた先祖祭祀が、仏教的な文脈でも行われるようになったのです。こうして、阿弥陀信仰を触媒として神道の中の祖霊祭祀の部分と仏教が融合して、祖霊を祀る神社の隣に神宮寺が作られたりするようになっていったのです。これはこれで典型的な神仏混淆であるといえます。

この阿弥陀信仰と混交して広まった信仰に弥勒上生信仰というものもありました。弥勒とは弥勒菩薩のことで、菩薩というのは仏陀になるために修行している段階の者を言うのですが、弥勒菩薩は遠い未来において悟りを開くことが決定している仏陀で、現在においてはまだ仏陀になっておらず兜率天という天界で修行しているとされています。それゆえ弥勒「菩薩」と呼ぶわけです。この弥勒菩薩の居る兜率天に生まれ変わって弥勒と共に修行して成仏しようというのが弥勒上生信仰といいまして、シナから朝鮮半島を経て日本にも伝わり、阿弥陀信仰と似通っているため、これも阿弥陀信仰と同じように神道と習合して先祖敬仰儀礼となり、弥勒上生信仰を触媒とした神仏混淆も進んでいきました。
この弥勒上生信仰に対して、日本には入ってこなかったのですがシナにおいて流行したのが弥勒下生信仰で、これは近未来において弥勒菩薩が如来となってこの世に出現するので、それに合わせて現世を改革しなければいけないという一種の終末論、歴史法則主義で、後に反体制の革命思想となって過激化しました。元を倒して明を建てたカルト宗教結社である白蓮教はこの弥勒下生信仰を信奉する教団でした。
弥勒菩薩は古代アーリア神話に出てくるミスラという神が仏教に取り入れられたものですが、もともとはゾロアスター教において太陽神にして救世主であったミトラという神がその正体です。阿弥陀如来にしても密教の大日如来にしても、その正体はゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダでした。つまり仏教の中のゾロアスター教の要素が日本へ伝わってきて神道と融合したということになります。そしてそれがシナにおいては過激な革命思想ともなったということにもなります。
ゾロアスター教というのは拝火教ともいわれ、紀元前7世紀頃にザウスシュトラによって始められた古代イランの宗教ですが、善悪二元論と救済思想、すなわち歴史法則主義を大きな特徴としており、善の勝利が予言され約束されている点で一神教的であり、世界最古の一神教ともいわれ、後世のキリスト教、イスラム教、そして初期仏教や密教に大きな影響を与えたといわれていますが、その源流は古代オリエントにおけるグノーシス主義でした。グノーシス主義は現世を悪と看做す善悪二元論、霊的なものによる救済を説く救済思想を特徴とし、世界各地の救済宗教の起源であり、古代ギリシャのプラトン哲学を経てヘーゲル思想やマルクス思想に繋がり、全体主義思想の源流ともいえるものです。つまり、このグノーシス主義に起源を有する宗教や思想は、極めて大きな変革エネルギーを秘めているのですが、同時に危険な暴力的要素も秘めているのだといえます。
そうしたグノーシス主義の流れを受けたシナの弥勒信仰が歴史法則主義的な終末論を発現させて過激化し革命思想になり、時に暴走した一方で、日本に伝わったグノーシス起源の信仰や思想があまり過激化しなかったのは、神道という二元論や救済思想とは対極的な宗教と融合することによって、その変革力を適度に制御しながら暴力的傾向を抑制していくことに成功したからでしょう。

こうして8世紀後半の律令国家文明の修正期において、神道の中の自然神祭祀の部分と雑密が融合し、祖霊祭祀の部分と阿弥陀信仰や弥勒信仰が融合し、神社と寺院が相互に乗り入れて神仏混淆が進行していったのです。これは表面的には仏教が神道を媒介にして広まっていったように見えていましたが、実際は水面下では、氏族共同体の弱体化と私的大土地所有者の出現という新事態を受けて、仏教の要素を取り入れて神道をリニューアルして農耕祭祀を継続していける新しい宗教態勢を整えただけのことであり、仏教信者が増えたわけではなく、あくまで神道と仏教は別の存在であり、神道がいくらか仏教化しただけで、多くの人は相変わらず神道の信者のままでした。つまり完全に神仏が一体となった「神仏習合」の段階にはまだこの時期は至っていないのであり、この段階を「神仏混淆」というのです。
仏教信者というのは自らが成仏を目指す人達ということになりますが、この時代においては多くの人々は農耕祭祀を継続するためにそれと一体化した祖霊や自然神への祭祀も継続する必要性から、祖霊祭祀を継続していくために仏教の極楽往生の論理を導入したり、自然神祭祀を継続していくために雑密の明王という仏教世界の神への信仰も重ねて行うようになっただけのことであり、仏教の教義そのものに帰依して自ら成仏を目指すようになったというわけではなかったのです。神と仏は同一の信仰体系の中に存在するようにはなりましたが、神と仏はあくまで別の存在であり、同一の存在とは看做されていません。そして多くの人は神を信仰していました。神道と仏教とはその信仰形態において互いに補い合い、共存していくようになったのです。こうした段階を「神仏混淆」というのです。いや、現在においても日本人のかなりの部分はそういう感じなのかもしれませんが。
日本人が本当に仏教に帰依していくようになるのは、後に「神仏混淆」の段階から更に一歩進んで、神と仏が平安密教のもとで系列化され、神は悟った仏が衆生救済のためにわざわざ現世に仮の姿で菩薩となって現れたもの(権現)であるという、神と仏が実は同一の存在であるという考え方が現れて、神道と仏教が完全に一体化する「神仏習合」の段階に入って以降のことになります。

「神仏混淆」の時代は表面的には仏教が優位なように見えても、多くの人々は神道信者なのであり、神道的価値観の中で生きているのです。だから祖霊信仰は強固であり、祖霊の中の祖霊といえる天照大神が最も敬われ、その子孫とされる天皇家が皇位を継いで政治を行うべきであるという考え方は強固なものがありました。それは一般庶民もそうでありましたし、神道関係者ももちろんのこと、保守的な多くの貴族や豪族もそのように考えていました。
そのあたりを称徳天皇と道鏡は読み違えたのだといえるでしょう。彼らは自らや周囲の家族や取り巻き達が熱心な仏教徒であったために、この時期の「神仏混淆」の状態を「仏教が神道の上に立った」という状況であると捉えたのでしょう。そうした思い込みが、雑密の修行僧出身の道鏡が神仏混淆体制の頂点に立って「法王」として天皇に代わって即位することが可能であり当然許容されることであるという考え違いに繋がったのでしょう。しかし「神仏混淆」の段階ではまだ内実は「神道が主で仏教は従」という状況であったのであり、それに気づかなかった称徳と道鏡は失敗するべくして失敗したといえます。また、神道関係者はグノーシス的要素の強い仏教のほうが優位に立つことには警戒感がありましたし、仮に仏教のほうが優位であることが許容されたとしても、それは仏教に帰依した聖武や称徳のような天皇の存在が許容されるレベルなのであって、道鏡即位のような完全な易姓革命というのは日本においてはやはり許容されるのは難しかったともいえます。

このように神道が強い状況においては社会を安定させる方向性が強まる一方で変革がなかなか生じなくなる傾向もありますが、これが後に「神仏習合」の段階になると、仏教と神道が一体化することによって仏教が神道と同等の影響力を持つようになり、仏教のグノーシス由来の変革力が発揮されるようになり、そこに更に「末法思想」という名の一種の終末論、歴史法則主義が発現し、ますます変革のパワーが発揮されるようになっていき、新興勢力である武士や民衆が歴史を動かし始めることになるのです。
「神仏習合」の段階になると、天照大神も大日如来の仮の姿とされるようになり、天皇は薬師如来の仮の姿とされるようになります。それはそれで非常に権威のあることではあり、これらの如来は現世においてはほとんど絶対的な権威を持っていますので、天照大神や天皇の権威が低下することはなく、その支配が引っくり返るような易姓革命はほとんど不可能にはなりますが、しかしその権威は血統的権威の意味合いは薄れ、霊的権威といえるものとなったので絶対的なものではなくなります。つまり大日如来や薬師如来以外にも如来や菩薩、天部や明王など、仏尊は多数存在し、それらの権現として世に現れた者や、それらの守護を受けた者にもそれなりの権威というものは生じ、また大日如来や薬師如来の権現といっても天照大神や天皇だけに限らないのであって、他にも権現となって現れることもあるのであり、それらは易姓革命は起こせなくても、それなりの世の中の大変革は起こせるようになったのです。例えば平将門は八幡大菩薩を旗印として乱を起こし新皇を名乗りましたし、源氏も八幡大菩薩を鎮守としました。また阿弥陀如来への信仰は大きな民衆のエネルギーに育っていきました。そして江戸幕府を開いた徳川家康は薬師如来の権現とされて、東照大権現という名で祀られるようになりましたが、これは明らかに東の天照大神となろうという意思の現われであり、その目論見自体は完全に成功はしませんでしたが、この新たな薬師如来の権現の出現によって末法思想によって引き起こされていた長年の混乱が収束されていったという意味では画期的なことであったといえるでしょう。
これらの変革のエネルギーが暴走することなく一定の抑制が常に働いていたのは、神仏が常に一体化していたことによって神道による血統的権威重視や清浄性重視という意味の抑制が作用していたからであるといえます。そしてそうした神仏融合の第一歩が踏み出されたのがこの8世紀後半の「神仏混淆」であり、ここから日本的な変革スタイルというものが作られていったのでした。

この8世紀後半の律令国家文明の修正期の時代というのは、王権国家文明の残滓期にもあたるわけで、例えば芸術的には王権国家文明の芸術的象徴である歌謡が律令国家文明の芸術における象徴ともいえる漢詩にそのエッセンスを与えて融合していき、そこから水面下で和歌という新たな次の王朝国家文明を象徴する芸術を生み出す化学反応を起こしていった時代であるのと同様のことが宗教の世界でも繰り広げられていたといえます。
すなわち、王権国家文明の象徴ともいえる宗教である神道が律令国家文明の象徴といえる宗教である仏教に対して、そのエッセンスを与えて融合していき、水面下で神仏混淆という化学反応を起こして、一見、仏教に神道が呑み込まれたように見えて、その実は神道が仏教の要素を加えてリニューアルを図り、次の王朝国家文明の時代の日本的宗教を生み出していくための準備を行った時代なのだといえるでしょう。
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