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日本史についての雑文その327 長岡京遷都
770年に称徳天皇の突然の死を受けて61歳で即位した光仁天皇は天智天皇の孫でありましたが、天武天皇と持統天皇の血筋を受けてはいませんでした。日本という律令制中央集権国家の元首としての「天皇」の実質的始祖は天武で、皇位は天武と持統の子である草壁皇子の子孫が継承していくという原則が存在した中で光仁が即位出来たのは、光仁が草壁系皇族の末裔である井上内親王を妻としており、夫婦間に他戸親王という草壁系の血を引く20歳の後継者がいたからでした。だから光仁即位とほぼ同時に井上内親王は皇后とされ、他戸親王は皇太子となったのです。つまり光仁は他戸即位への繋ぎ役として草壁系皇統を重視する保守派貴族たちに担ぎ出された存在であったというわけです。
ところが772年に光仁天皇を呪詛したとして井上皇后を廃され、他戸親王も皇太子の地位を追われ、替わって773年1月に光仁天皇の36歳の長子である山部親王が皇太子になります。山部親王は他戸親王の異母兄ということになり、光仁の若き不遇時代の頃の子で、母親は百済系帰化氏族の娘の高野新笠であり、草壁系の血統とも全く無縁で母親の身分も低く、本来なら皇位継承者となることなどあり得ない立場でありました。若い頃は生活にも窮していたようで、本人もまさか皇太子になろうとは想像もしていなかったでしょう。
その山部親王が井上皇后と他戸親王の失脚によって皇太子になり、その年の10月には井上と他戸の母子は光仁の姉の難波内親王を呪詛したとして幽閉され、775年4月には二人揃って殺害されてしまいました。ここに草壁系の皇統は途絶えたことになります。
他戸が皇太子として次の皇位を約束された状況で井上皇后が夫である光仁やその姉を呪詛する必然性など無く、これらは冤罪であろうと思われます。処罰の最終判断を下したのは天皇である光仁であったのでしょうが、光仁としても長年連れ添った妻や息子にここまで冷酷な仕打ちをする理由も無く、積極的にこの母子を陥れるために動いたということはないでしょう。おそらく母子を陥れるために動いたのは山部親王とそれを取り巻く藤原百川や良継らであったのでしょう。光仁天皇自身は保守派勢力と協調的なスタンスであったようですが、山部親王は明確に草壁系皇統から皇位を簒奪することを意図しており、保守派とは違った方向を向いていました。

その山部親王が781年に病気となった光仁天皇から譲位を受けて44歳で即位して桓武天皇となりましたが、即位当初は光仁上皇の意向を受けて、桓武の同母弟の早良親王を皇太子とし、藤原魚名を左大臣としていました。早良は桓武と同じく草壁系皇統ではありませんでしたが、もともとは出家して東大寺の良弁のもとで修行しており、その後継者になっていたほどで、平城京の南都六宗の仏教勢力と繋がりが強く、つまり保守派と協調的な人物でした。また藤原魚名は保守派と協調的な光仁天皇の一番の忠臣で、いわば桓武につけられたお目付け役のようなものでした。
光仁が桓武を廃して早良を天皇にしようとしていたというようなことは無かったでしょうけど、光仁という人は若い頃から皇族内の政争や粛清に巻き込まれないように実に巧妙に、悪く言えば臆病なほど用心深く世渡りをしてきた根っからの調整型、バランスの人ですから、光仁から見れば桓武のあまりに急進的な改革路線が危なっかしく見えて、保守派にも良い顔をしておく意味で、保守派に受けの良い早良を皇太子にしたり魚名を左大臣にしたりしたのでしょう。言わば桓武の治世の安定を願っての親心でもあったわけです。
ところが781年の暮れに光仁上皇が72歳で病で亡くなると、782年閏1月には先の恵美押勝の乱の際に朝廷に背き戦死した塩焼王と聖武天皇の皇女の不破内親王の間の子である氷上川継が反乱を企てたとして捕らえられ、川継とその母の不破内親王が流罪になるという事件が発生し、これによって草壁系皇族は完全に皇位継承から外されることになったわけですが、その際にこの事件に連座して朝廷内の保守派貴族たちが多く左遷され、6月には魚名も左大臣を罷免されてしまいます。
どうもこの事件も桓武が仕組んだようで、草壁系皇族と保守派をまとめてパージしてしまおうという意図が働いていたようです。仮に川継が反乱を企てていたのが事実としても、それは桓武からの圧迫が原因としてあり、光仁の死が引き金になった可能性が高いですし、その後の保守派パージに関してはまず桓武の謀略であった可能性が高いでしょう。
また、翌783年には桓武は妃の藤原乙牟漏を皇后としましたが、これは乙牟漏が既に安殿親王を産んでおり、その安殿が10歳になったことを受けての皇后宣旨であったわけで、皇后の産んだ子が皇太子になるというのが慣習であったのであり、これは桓武が息子の安殿を皇太子にするための布石とも言え、暗に弟の早良親王を皇太子から引き摺り下ろそうという意図とも取れました。桓武にとっては光仁の親心は有難迷惑であったようで、彼は父親とは違って調整より独断を好み、リーダーシップを発揮して強引に物事を進める性格であったようです。

こうして保守派を政権中枢からパージした桓武の目指していたのは保守派と絶縁して全く新しい王朝を創始することであり、そのために保守派の勢力が強く草壁系皇統の遺産の多く残る平城京を離れた新しい都となる新天地を探していた桓武は、784年6月に山城国の乙訓郡の長岡の地に新たに都を造営することを決定し、側近の藤原種継を造営長官に任命してさっそく長岡京の造営に取り掛かり、11月にはまだ工事途中の長岡京にさっさと遷都してしまいました。
藤原不比等の天然痘で死んだ四人の子のうち、長男の武智麻呂を始祖とする家系を藤原南家、次男の房前を始祖とする家系を藤原北家、三男の宇合を始祖とする家系を藤原式家、四男の麻呂を始祖とする家系を藤原京家といいますが、このうち南家は武智麻呂の子の仲麻呂が恵美押勝の乱を起こし没落し、京家は氷上川継の反乱に連座させられて没落しました。北家の永手や魚名らは式家の百川や良継らと共に光仁天皇を擁立しましたが、光仁天皇はどちらかというと保守派寄りの北家のほうを重用し、式家のほうは山部親王の急進路線のほうに与するようになっていきました。そして山部親王が桓武天皇として即位した後、氷上川継の乱に連座させられて北家は一時的に没落することとなり、藤原式家が桓武天皇の側近として力を持つようになったのです。種継は百川の兄の清成の長男で、百川亡き後の式家の後継者であり、桓武の皇后の乙牟漏にとって種継は従兄弟でした。その最側近といえる藤原種継を長官として長岡京の造営を進めたわけで、桓武がこの遷都に相当入れ込んでいたことが分かります。
平城京を捨てて長岡京へ遷都した理由としては、平城京の造都や大仏や寺などを多数作るために奈良盆地で乱伐が進み大和川に多量の土砂が流れ込み河内潟に接した難波津が使用困難になり、平城京と大和川水路で繋がっていた副都の難波宮が機能不全となり、それによって平城京も瀬戸内海航路との繋がりが悪くなり不便になったという事情もあります。そこで難波津を経由せずに瀬戸内海と直接繋がる水路となると淀川ということになり、淀川水系の水運の要の地、桂川と宇治川と木津川が合流して淀川となって流れ出す「古椋の池」の西に接する丘陵地である長岡は新都として便利な地でありました。
また、墾田永年私財法の発布以降、有力貴族や寺院などは私有地を増やしていましたが、特に平城京周辺の地にはそれら貴族や寺院の私有地が多く、彼らの多くは桓武の急進的改革路線を歓迎しない保守派であったので、桓武としてもそうした保守派の地盤である平城京では彼の望む新王朝創始事業もやりづらく、彼らの勢力を削ぐ意味でも遷都は有効な手段でした。その点、長岡の地は桓武側近の藤原式家と縁戚関係を持つ帰化系氏族の秦氏の地盤で、また桓武の母方の家系の繋がりも深い土地であったので、桓武やその側近たちにとっては都合の良い土地であったのです。

そして桓武は長岡京造営にあたって、長岡京内に新しく寺院を建立することも禁じました。これは保守派の勢力を削ぐ政策の一環でもありましたが、特に寺院勢力に対して冷たくあたったのは、桓武が南都の寺院勢力を毛嫌いし軽蔑していたからでした。そもそも桓武から見れば平城京は忌むべき都でした。平城京は草壁系皇族の都であり、草壁系皇族といえば天武から始まり称徳に至るまで皇位や権力を巡って政争や謀略が絶えず、多くの犠牲者を出し怨霊を発生させてきました。それらの怨霊を鎮めるために南都の寺院は大仏を作ったり法会を行ったりしてきましたが、結局、草壁系の皇統は政争と粛清を繰り返した挙句、断絶してしまったのです。つまり南都六宗など、桓武から見れば役立たずでしかないのです。役立たずのくせに政治に口出ししてくる鬱陶しい存在でしかなかったといえるでしょう。
いや、しかしよく考えてみれば、草壁系皇統が断絶したのは、他戸親王や氷上川継、いやそもそも称徳天皇の死だって謀殺の可能性は高いのであって、それらは桓武やその側近の謀略によるところも大きいわけで、桓武が南都六宗を責めるのは何だかおかしな話なのですが、しかし桓武にしてみればそうした自分の汚れた手を自覚しているからこそ、自分の断絶させた草壁系皇族が今度は怨霊となって自分に祟ってくることを心配しなければいけない立場なのであり、その怨霊鎮魂に全く役に立たない南都六宗などに頼るわけにもいかず、桓武にとっては南都六宗など邪魔者でしかなく、草壁系皇族の怨霊のウヨウヨする平城京からとにかく逃げ出すしか選択肢は無かったといえます。
その上で新たに造営した長岡京からは南都六宗を排除することにしたのですが、これは役立たずは不要という判断もあったでしょうし、平城京に関わりの濃いものを拒絶したいという気分的なものもあったでしょう。しかし一方で、南都六宗の利益代表者のような立場になっていた弟の早良皇太子とその周辺の保守派勢力を挑発する意味合いもあったのではないでしょうか。南都六宗への露骨な排斥政策に憤慨した保守派勢力の恨みは、長岡京に関することを一任されている藤原種継に向かうことになり、長岡京造営開始から1年3ヶ月後の785年9月に長岡京の造営現場にて種継が闇討ちに遭って殺害されるという大事件が起きます。
さっそく桓武の主導で捜査が開始され、早良の侍従長であった大伴家持が首謀者で、早良も了承の上でのことであるということが判明しました。しかしこれは捕らえられた家持の子の大伴継人らの自白によるもので、この時代の自白は拷問によって強要することも可能で、継人は処刑され、家持は事件の1ヶ月前に病死しており、真相はどうも闇の中で、保守派の中心であった大伴一族と早良を狙った謀略である可能性も高いといえます。ただ実際に種継は殺されており、種継と保守派が一触即発の状況であったのは事実ですから、保守派勢力の誰かが暴発したのは確かでありましょう。それを桓武がフレームアップして大伴一族や早良にまで処分を及ぼすようにしたのかもしれませんし、あるいは本当に家持が主犯であったのかもしれません。ただ、桓武の死後に家持らの名誉回復が為されている(ちなみに氷上川継の乱で連座して左遷させられた者達の名誉回復も同時にされている)ところから考えても、フレームアップであった可能性が高いのではないかと思われます。
この種継暗殺事件への関与を疑われた早良は皇太子の地位を剥奪され、幽閉された早良は潔白を主張して抗議の断食の結果、憤死したと言われますが、実際は飲食物を与えられず衰弱死させられたとも言われ、いずれにせよ桓武が殺したようなものであり、実の弟に対してあまりに冷酷な仕打ちといえます。

実の弟を殺してまで保守派を一掃して桓武が目指したものの象徴がその2ヶ月後の785年11月10日に挙行された「郊祀祭天の儀」でした。「郊祀祭天の儀」というのはシナの皇帝が冬至の日に都の南郊外に設けた天壇で天帝および王朝の始祖を祀るという、シナ帝国特有の儀式で、日本ではそれまで一度も行われたことはありませんでした。当時のシナ帝国はトルコ系遊牧民王朝の唐でしたから、唐においてはこの儀式は遊牧民テイストで行われており、「燔祭」つまり家畜を焼いて生贄として天帝に捧げるという様式で行われていました。これを桓武はそのまま「大願成就の御礼」として長岡京の南の柏原の地で挙行したわけですが、日本人から見ればさぞかし新奇な異様な祭儀に見えたことでしょう。
まぁいくら異様に見えようとも、当時は朝廷には「シナかぶれ」が多かったし、桓武自身そうであったのでしょうから、これをやること自体は別にそれほど不自然でもなく悪いことでもなかったでしょう。ただ問題は、ここで祀られる「王朝の始祖」というのが光仁天皇であったということです。つまり草壁系皇族は全部切り捨てられ、光仁をもって易姓革命が起きて新しい王朝が始まったという史観を桓武が呈示し固定させようという意図がここにはあるのです。
「大願成就の御礼」とは、おそらく長岡京という新しい都で新しい王朝を実質的にスタートさせることが出来たということを感謝する意味であったのでしょう。桓武は784年11月に長岡京に移っていますが、その時はバタバタしていたのであろうから、翌785年の冬至が長岡京で迎える実質的な最初の冬至ですから、このスケジュールで挙行されたものと思われます。ということは、この11月10日挙行というスケジュールはおそらく1年前ぐらいから決定されていたのであり、すると9月の種継暗殺事件というのも、単なる怨恨ではなく、この「郊祀祭天の儀」の挙行を阻止しようとする保守派の妨害工作であった可能性もあります。あるいは「郊祀祭天の儀」の当初の実行責任者は種継であったのではないでしょうか。少なくとも、あらかじめ漏れ伝わってきた「郊祀祭天の儀」の内容が大いに保守派を刺激してその暴発を促した可能性は高いと思われます。

「実際には桓武は押勝や道鏡のように全くの非皇族ではなく、天智天皇の曾孫であり、血統を辿っていくとミマキイリヒコやイワレヒコにまで遡るわけですから、易姓革命などは起こっておらず皇室の万世一系は保たれている」という意見もあるでしょう。いや私自身そう思っています。ただそれはあくまで「結果としてそうなっている」というだけのことであり、この785年時点での桓武自身は「王朝の始祖」は光仁としているのであり、天武や持統の名が出てこないのは当然としても、そこには天智すら登場しないわけで、明確に光仁をもって歴史が断絶したという意識を持っており、あくまで易姓革命に拘っていることが分かります。実質的な初代天皇は天武であり、その後は草壁系皇族が皇位を継承することが原則であった時代に育ち、押勝や道鏡による易姓革命騒ぎを間近に見てきた桓武という人間の持つようになったそうした意識自体も歴史的事実であることは認めざるを得ないでしょう。
長岡京への遷都構想も、色々な理由はありますが、根本的には易姓革命によって新王朝を開くからには、新しい都に移る必要があるという桓武の強いこだわりがあるように思えます。もちろんシナの歴史では易姓革命が起きても遷都しない例もありますが、シナの場合はだいたいは武力で旧王朝の勢力を駆逐してから都へ入城しますからそのままそこを新都とすることも出来るのですが、桓武は平城京に巣食う保守派勢力を滅ぼしたわけではないので、逆に平城京から離れて新都に移り、保守派を旧都に置き去りにする方法が良いということになります。

どうして桓武が保守派の反発も覚悟してそこまで易姓革命にこだわるようになったのかというと、そもそも草壁系皇族がどうして天皇として正統と見なされたのかという問題と関連してきます。「天皇」という君主像はシナの「皇帝」という君主像を日本に輸入したものですが、日本とシナでは文化が違いますからそっくりそのままというわけにはいきません。シナにおいては唯一神である「天帝」からその高徳を認められて地上の支配を委任される地上唯一の帝王的存在が「皇帝」ということになるのですが、日本においてはこの「天帝」や「徳」という概念が馴染みが薄く、「天帝」は「天神」である「天照大神」となり、支配の正統性は「徳」ではなく「血統」になり、「帝王」の血統を引きながら同時に「天照大神」の血統も引く者が「天皇」として日本を支配するということになったのです。
つまり「天皇」とは、「帝王」と「神」の血を引いた者ということになります。シナにおいては支配権を授ける「天帝」と支配権を授かる「皇帝」とが別存在であったのが、日本においては「天皇」という1人の人間(?)が支配権を授ける「神」と支配権を授かる「帝王」の二役を一人でこなすという変則的スタイルとなったわけです。
日本における実質的な初代の「帝王」は武力で古代世界を統一し中央集権国家を築いた天武天皇でした。そして「神」とは天照大神のことであり、その正統の血筋を引いていたのは天智天皇でありました。だから天武と天智の血を掛け合わせた血統、特にその中でも天智の正統後継者を自認していた持統の血を引いた草壁皇子の系統が「天皇」の正統な血統とされたのです。
それを前提にして見ると、草壁系の血統を完全に排除した桓武は、自身は「神」である天智の血は引いていますが、「帝王」たる天武の血を引いていないということになり、「天皇」としての正統性が半分欠けた状態になるわけです。そこで桓武は天武とは別に独自に「帝王」の資格を得なければならなくなり、まさかわざと内乱を起こすわけにもいきませんから、シナ皇帝と同じように「天帝」から「徳」の高さを認めてもらい地上の支配権を与えてもらい易姓革命の正当性を得ようとしたのです。そのために儒教論理に則って高徳のシナ皇帝の真似事をすることにしたのです。それで遷都したり「郊祀祭天の儀」を執り行ったりしたのです。桓武自身、多分に「シナかぶれ」ではあったとは思いますが、儒教論理によって正統性を得るしかない事情もあったというわけです。
こうなると桓武も、シナ風の易姓革命思想にかぶれて遷都を画策したり王朝交替を目指したりした恵美押勝や道鏡らと同じ類型の為政者ということになります。彼らが目指したシナ風の王朝始祖というのは高徳の証明のために外征を行うことを常としており、実際、押勝などは新羅征討計画まで立てていたわけですが、桓武も同じように外征によっても徳の高さをアピールしてシナ皇帝のような「帝王」としての正統性を得ようとしていました。それが蝦夷征討でした。
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