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日本史についての雑文その328 平安京遷都
東北地方の蝦夷は、律令国家建設当初は日本がシナに対して「日本もシナ帝国のように朝貢国を幾つか従えた小帝国である」と自己主張するために、朝廷に対して貢物を献上する服属国という位置づけでありました。日本は唐に対しては新羅も渤海も蝦夷も隼人も日本の服属国であるという建前を通していたのです。これは唐と対等な立場で渡り合おうという日本の基本的スタンスでした。
そういうわけで8世紀中頃には横手盆地と北上盆地より北にあった蝦夷居住区も日本に従ってはいましたが、あくまで日本の一部ではなく外国という扱いであり、日本は蝦夷に対して常に軍事的優位に立ち圧迫を加えながらも、基本的には蝦夷の自治に介入することはなく、あまり積極的に進出せず、交易を盛んに行い、その交易品を貢物ということにして、遣唐使などには蝦夷の使者や貢物などを同行させて、日本の「小帝国」ぶりの演出に使っていました。
ところが760年代ぐらいから、恵美押勝政権のもとで蝦夷居住区への日本側の進出が盛んになります。これは易姓革命を目論む押勝が自らの徳の高さをアピールするために蝦夷の「王民化」、つまり日本人への同化を進めようとしたからです。要するに「押勝の徳を慕って蝦夷のような野蛮人も多く帰化してきた」という実績を作って易姓革命を正当化しようというわけで、新羅征討計画と同じ動機に基づくものでした。そのためにまずは蝦夷の自治に介入するために蝦夷居住区内に日本側の拠点を築いて日本人の入植を図っていったのです。
しかし押勝が764年に滅んだため、この蝦夷居住区の状況はこのまま中途半端で放置され、蝦夷側と日本人側のトラブルが頻発するようになり、また律令制支配から逃れて蝦夷居住区に逃げ込んで逆に蝦夷に同化する日本人が出てきて、私貿易や犯罪などもはびこるようになりました。そうした状況が続いたために朝廷の蝦夷方面担当者はいっそ蝦夷居住区を直接支配して蝦夷はみんな同化させてしまったほうがいいのではないかと考えるようになっていきました。
また、唐において755年に勃発した安禄山の乱は首謀者の安禄山が757年に仲間割れで殺された後もその部下の史思明やその子に引き継がれて763年まで続き、これを鎮圧するために唐王朝が北方遊牧民のウイグルの援軍を得たので外交的にウイグルに従属することになり、対ウイグル貿易が大赤字になって唐の財政を圧迫するようになり、また反乱軍の内部分裂を誘うために各地の反乱軍勢力を節度使に任命しまくったため、各地に軍閥が割拠することとなり、これ以降、唐は衰退していくことになりました。それゆえ、日本にとって唐はかつてのような脅威ではなくなり、唐に対して肩肘張って「小帝国」を気取る必要性も薄らいできました。つまり蝦夷をわざわざ「服属国」扱いする必要性はあまり無くなり、いっそ同化してしまったほうが面倒が無いという状況になってきたのです。

そうした中、草壁系の他戸親王を廃して山部親王が皇太子となった翌年の774年に朝廷は蝦夷征討軍を東北に送り、ここに対蝦夷38年戦争が勃発することとなったのです。これはつまり、草壁系を切ることで「天皇」の正統性のうちの「帝王」的部分が欠けることになった光仁桓武王朝が「徳をもって多くの蝦夷を同化させる」という実績を挙げることによって新たにシナ儒教的文脈での「帝王」の資格を得ることを図ったものと見ていいでしょう。そして、それはそうした易姓革命路線に積極的であった山部皇太子、つまり後の桓武天皇によって主導された動きであったと推測されます。
その後、781年に桓武が即位し、784年11月には長岡京へ遷都を行い、785年9月には藤原種継暗殺事件に連座して早良親王を皇太子の地位から追い憤死させて、11月10日には「郊祀祭天の儀」を挙行して易姓革命を宣言し、11月25日には桓武の長子の安殿親王が皇太子に就き、786年には長岡宮の朝堂院が完成し朝政が開始され、翌787年11月には再び「郊祀祭天の儀」を挙行し、桓武の求める新たな「帝王」としての正統性は着々と整備されていき、新王朝も順風満帆の船出となっていったのですが、その間も朝廷軍と蝦夷との戦いは続き、788年には陸奥国の多賀城に大軍を集結させて大攻勢に出ますが、翌789年に蝦夷の総大将アテルイに敗れて撤退することになり、態勢を立て直した朝廷軍は791年には征東大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂を任命して再び本格攻勢を準備してゆくことになります。

このように、まさに「帝王」の徳が遠く蝦夷の地にまで及ぼうとしている頃、その「帝王」の足元がどうにも怪しげな状況になってきていたのです。まず788年には桓武の側室で藤原百川の娘の藤原旅子が死去し、続いて789年には桓武の母の高野新笠、790年には皇后の藤原乙牟漏も死去します。新笠はともかく、乙牟漏は30歳、旅子に至ってはまだ23歳でした。しかも長岡京造営工事は遅々として進まず、792年には18歳になった皇太子の安殿親王が病に倒れてしまい、陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊の仕業という結果が出たのです。
陰陽師とは陰陽道に携わる専門家のことをいいまして、陰陽道とはシナ由来の陰陽思想(万物は陰と陽の二気から生ずる)と五行思想(万物は木火土金水の五行から成る)という自然観察の学問、つまり一種の自然科学思想を組み合わせた上で、それに神道的な呪術の体系を融合させて、自然界の陰陽五行の変化を観察して人間界の吉凶を占い、自然界に働きかけることによって吉凶をコントロールするための実用的技術として日本独自の発展をしたもので、これも一種の神道と外来文化の習合といえます。
この陰陽道が8世紀になると国家管理下に置かれていたわけですが、南都六宗を講釈ばかり垂れて役に立たないものとして軽蔑していた桓武は、実用的な呪術としてはよほどこの陰陽道のほうが優れていると思っていたようで、陰陽師を重用していました。実際、陰陽道はベースがシナの自然科学思想であったので、当時としては最先端の「科学」なのであり、非常に洗練された実用的技術と見なされていたのでした。
しかし同時に神道的要素も含んでいますから、南都六宗のような既存仏教では決して公式的には認めなかった「怨霊」というものの存在を公式に口にすることが出来るわけで、しかも伝統的神道とは異質なものでありましたので、「政治的敗死者の霊が怨霊になる」という従来の神道では認められなかった解釈の壁も簡単に乗り越えることが出来たのでした。こうして初めて792年において「政治的怨霊」というものが公式的存在として認められ、その正体が「早良親王の霊」であるという固有名詞まで明言され、しかもそれが最先端科学のお墨付きまで得てしまったのでした。天皇のお抱えの陰陽師が認めたということは、現在でいえばノーベル物理学賞をとった学者が幽霊の存在を立証したというようなものであり、その信頼性は絶大なものといえるでしょう。

早良親王の死については桓武天皇も後ろ暗い部分があり、さっそく早良親王の霊を祀らせました。いや、後ろ暗い部分が無ければ、いくら陰陽師が早良の怨霊の仕業と言っても、最高権力者がそんなすぐに反応することはないはずです。しかし、この後も桓武は長年にわたり早良の怨霊を恐れ続けるわけですから、早良の死に関して後ろ暗い部分があるのは確かだといえるでしょう。
ところが、タイミングの悪いことに、早良の霊を祀った直後に長岡京一帯に洪水が起こり、遅れていた造営工事がますます遅れてしまいました。そして追い討ちをかけるように2ヶ月後にも再度洪水が起こりました。こうなってくると桓武としては「タイミングが悪い」などとは考えられなくなってくるのであり、そもそも生前の早良は長岡京遷都に反対していたのですから、洪水も早良の怨霊の仕業ではないかと考えるようになってくるのです。すると相次ぐ桓武周辺の身内の死去も早良の怨霊の仕業だったのではないか、あるいはまた蝦夷征討軍がアテルイに敗れたのも早良の祟りなのではないかと考えていくと、せっかく立ち上げた新王朝そのものが早良の怨霊によって崩壊してしまうような危機感まで覚えることになるのでした。
しかも、早良の霊を祀った後に長岡京に洪水が起きたということは、普通に神道祭祀で祀るだけでは早良の怨霊は、つまり政治的怨霊は鎮められないという意味であり、長岡京は既に早良の怨霊に汚染されてしまっているということになります。そこで陰陽師に相談してみたところ、長岡京を捨てて霊的エネルギーの高い土地に新都を遷せば怨霊を防ぐことが出来るということでした。

霊的エネルギーの高い土地とは、陰陽道で言うと「四神相応の地」といいまして、北に高山、西に街道、南に湖沼、東に流水のある地となります。しかし既に10年近く長岡京の工事を続けているので、新たに都を作るとなると一定の支援が期待できる有力者の関係深い土地に限られますし、水運の便が悪くても話になりません。そうなると自然に候補地は絞り込まれてきて、京都盆地北端の山城国葛野郡宇太村のあたりならば、北に船岡山、西に山陰道、南に古椋の池、東に鴨川が流れ、長岡京と同じく桓武に近い有力帰化系氏族の秦氏の根拠地であり、東を流れる鴨川と西を流れる桂川が古椋の池を経て淀川に流れ込み瀬戸内海航路に通じており、水運も便利でした。
長岡京に二度目の洪水が起きた792年10月にはすぐに候補地探しが始まり、年内には宇太村に候補地を絞り込み、793年1月早々に現地に視察団を送り込み、その報告を15日に受けた6日後の21日には長岡宮の内裏の解体が開始されていますから、この時点で造営半ばの長岡京を放棄しての宇太村への遷都は実質的に決定されていたということになります。まさに一刻も早く長岡京から逃げ出したいという桓武の心情が見てとれます。
その後、すぐに新都の宮城部分の工事が開始され、これで桓武も少し安心したのか、794年1月には大伴弟麻呂を征夷大将軍として征夷軍を進発させて、6月には副将軍の坂上田村麻呂の軍がアテルイ率いる蝦夷軍を撃破します。そして794年10月22日、内裏部分の完成を受けて桓武天皇が新都に移り、遷都が宣言されました。まだ大極殿すら完成しておらず朝政の政務も執れない状態でありましたから、桓武はとにかく早く長岡京から離れたかったのでしょう。この新しい都を人々は「平安京」と呼びましたが、これは、結局は災い続きであった長岡京時代を振り返って、「今度こそは平安な都であってほしい」という桓武以下の当局者の願いであったのでした。
よく戦後的文脈では平安京を指して「平和の都」などと言いますが、別に桓武が絶対平和主義者であるとかいうわけではなく、その証拠に例えば蝦夷征討戦争はますます泥沼化して続いていくのでした。また、実際、日本史上においてこの都ほど戦争の多かった都も無いと言っていいでしょう。

794年の平安京遷都時点で桓武天皇は57歳になっていました。この後の治世を桓武は造都と征夷の事業に費やしていきますが、それらは決して順調には進みませんでした。平安京は平城京や長岡京と同じような坊条制のシナ式の都城で、大きさは東西4.5km.で南北5.2km.の長方形で北端部中央に大内裏という宮城部分があり、大内裏の南端中央の朱雀門から平安京南端中央の羅城門まで南北に貫く朱雀大路によって平安京は東側の左京と西側の右京に分けられます。地図で見ると東が右で西が左と考えがちですが、天皇が大内裏の中の大極殿で南を向いて座った時に天皇から見て左が東で右が西になるので、東側が左京で西側が右京になるのです。
左京も右京も北から順に一条大路、土御門大路、近衛大路、中御門大路、大炊御門大路、二条大路、三条大路、四条大路、五条大路、六条大路、七条大路、八条大路、九条大路という東西に貫く大路があり、左京を南北に貫く大路は西から順に朱雀大路、壬生大路、大宮大路、西洞院大路、東洞院大路、東京極大路といわれ、右京を南北に貫く大路は東から順に朱雀大路、皇嘉門大路、西大宮大路、道祖大路、木辻大路、西京極大路といわれます。平安京はこうした南北に走る大路によって碁盤の目状の構造になっており、一条大路、二条大路、大宮大路、西大宮大路によって囲まれた北端中央部のブロックが大内裏という宮城部分にあたります。
現在の京都盆地の北端中央部にある船岡山という標高100m.ほどの小高い山の山頂から真っ直ぐ南へ走るラインが大内裏の中央線および朱雀大路のラインで、現在の千本通りにほぼ近接しています。そこから東のエリアが左京で西のエリアが右京となります。左京の東北端は現在の京都御所のあたりで、左京の東南端は現在のJR京都駅の南東付近になり、右京の西北端は現在の妙心寺あたりで、右京の西南端は現在の桂離宮と桂川を挟んで向かい合う辺りとなります。
このように見てみると右京の特に中南部は現在の京都市の中心部からは外れています。それはこの辺りは桂川の形成する湿地帯にあたり平安京造営の際にも宅地化が進まなかったからで、結局その後10世紀には荒廃してしまい放棄され、平安京のエリアとは無関係に左京および左京の更に東側に偏した中世の京都市街地が形成されることになったのです。それゆえ天皇の在所である京都御所も大内裏ではなく左京の東端にあった里内裏に移転して明治維新に至るわけです。
そのように、平安京というのは最初の計画時点から、四神相応の原則に忠実に作るため船岡山の山頂ラインを正中線とすることに拘ったために都市計画に合理性を欠き、右京部分の完成が大幅に遅れるという欠陥を内包していたのです。いや、そもそもこの四神相応の宇太村の狭い地に長岡京クラスの都城を造都すれば湿地帯にかかってくることは予想できたはずなのですが、とにかく急いで新都に遷ることを優先したために、この建設困難な地への遷都を強行したため、右京の工事の難航という結果となったのでした。

また蝦夷征討のほうは、797年に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂の活躍などもあって蝦夷に対して軍事的勝利を収めるようにはなっていきましたが、当初の目的であった蝦夷の公民化となるとまだまだ先の見えない話でした。そもそも公民化となると戸籍で管理して班田収受などを行うということを意味するのですが、実はこの頃には蝦夷居住区以外の全国規模でそういった公地公民政策は行き詰まりを見せ始めていたのであり、通常地区で困難になっているようなことが蝦夷居住区で簡単に行えるはずもなく、蝦夷公民化計画そのものが非現実的な空論と化しつつあったのでした。それでも田村麻呂はなんとか公民化計画推進のために蝦夷への懐柔政策をとるようになり802年には蝦夷の指導者のアテルイを帰服させることにも成功したのですが、田村麻呂の助命嘆願を無視して朝廷がアテルイを処刑してしまったため、ますます蝦夷との戦いは泥沼化していったのでした。
結局、805年12月に桓武が主催した天下徳政争論の場で藤原百川の遺児である参議の藤原緒嗣の「いま天下の苦しむところは軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)となり。この両事を停めば百姓安んぜん」という意見が桓武によって採用され、その3日後に平安京造営工事は中途で取りやめとなりました。大内裏や左京部分はだいたい出来上がっていたので政務上は支障は無かったのですが、右京部分は未完成で放置されることになったのでした。
また蝦夷征討のほうは相手のあることなので即時中止とはいきませんでしたが、これも順次縮小され810年代ぐらいには戦いも収まり、結局は蝦夷居住区の完全公民化計画は放棄され、蝦夷の族長が陸奥や出羽の国司の臣下となるという間接統治方式でお茶を濁すこととなります。また、降伏して捕虜とした蝦夷は「俘囚」として全国各地に分散して移住させられて、一般住民とは隔離されて管理されることになりますが、これは彼らを次第に懐柔して公民化していこうという計画であり、要するに、蝦夷居住区完全公民化に失敗した代償に、「俘囚」を公民化していくことで少しでも天皇の徳を示そうという、まぁこれも一種のお茶濁しでありました。

桓武は天下徳政争論の場で造都と征夷の中止を決定した4ヶ月後の806年3月に69歳で没しました。在位が25年間という長期間であったにもかかわらず結局死ぬまで譲位せず天皇であり続けたというのは当時としては珍しく、それだけ指導力が強かったとも確かに言えますが、最晩年まで課題を積み残した騒動多き治世であったとも言えます。またそうした課題多き治世を病弱がちだった皇太子の安殿親王に託しきる決断がどうしても出来なかったとも言え、その裏には皇太子の虚弱体質の原因に早良親王の怨霊の影を見て、安殿に皇位を譲ることで王朝が崩壊するのではないかという恐れと不安を拭い去ることが出来ない弱い心と、出来れば自分の生きている間に自分の責任で何とか怨霊の不安を払拭しておきたいという強い意思の両方を感じ取ることが出来ます。
実際、平安京遷都後も造都や征夷は順調には進まず、皇太子は相変わらず病弱であったわけで、桓武にとっては早良の怨霊の不安は相変わらず払拭出来なかったと思われます。つまり陰陽道で設計した都でも完全に怨霊の侵入を防ぐことは出来ないということです。陰陽道によれば艮の方角、すなわち東北方向が怨霊の侵入してくるルートであるといいます。ならば都の東北に強力な魔除けを施しておくのが良いということになります。しかし陰陽道だけでは不完全であるとなると、別の強力な呪力が必要となります。そこで桓武が目をつけたのが雑密の呪法を修めた山岳仏教の修行者たちでした。南都六宗は役立たずでしたが、同じ仏教でも彼らは呪法に長けていますから役に立ちそうです。聞けば、まさに平安京の東北の方角にある比叡山の山寺に篭って修行に励み学識も豊かな若い僧がいるとのことで、桓武はその僧を重用するようになります。それが最澄で、桓武と出会った頃はまだ20歳代後半であったようです。
最澄は確かに南都六宗とは距離を置いて山寺に篭っておりましたし雑密の呪法も修めていましたが、あくまで彼は教説重視の僧であり、ただ南都六宗の教説上で飽き足らない部分があったので距離を置いて山寺に篭って修行し勉学に励んでいたに過ぎないのでした。しかし桓武は南都六宗と距離を置いている点や雑密の呪法に長けている点、そして最澄の誠実な人柄も高く評価して厚遇し、その代償に彼に比叡山寺(後の延暦寺)において護国の呪法を行わせたのでした。

しかしそれでも不安の拭えない桓武は800年には早良親王に「崇道天皇」という諱号を追贈し、更に25年前に死んだ井上内親王にも皇后の位を贈りました。これは神道的な怨霊を丁重に扱って祭り上げて慰霊するという手法で、こういう手法だけでは効果が薄いことは長岡京洪水の時に実証済みだったのですが、彼らも皇族であり桓武も皇族、つまり同族であるのですからこのような神道祭祀を行う責任はありましたし、位を追贈するというのは天皇の立場ならではの新しい手法でもありました。それにしても、とうとう怨霊が「天皇」にまでなってしまったわけで、これで怨霊の力は天皇の力と同等、あるいは上回ってしまったわけです。「天皇」の正統性にあそこまで拘っていた桓武の当初の方針は何処かへ行ってしまったようです。とにかく桓武からは仏教や神道、陰陽道などのありとあらゆる手法を組み合わせて怨霊を鎮魂しようという執念を感じるのみです。
その執念に従って桓武は801年には最澄に遣唐使への参加を命じ、唐に渡って最先端の呪法、つまり8世紀後半になって大成された中期密教を学んでくるように命令しました。37歳になった最澄を乗せた遣唐使船は804年に唐へ向けて出発しますが、この千載一遇の機会に最澄はかねてから学びたいと願っていた天台教学の摂取を重視し、密教の摂取は二の次となり傍流の教えを少し齧った程度にとどまり、翌805年に早々に帰国した最澄は日本においての天台宗の開祖となり、桓武は桓武で最澄の密教に大いに期待します。しかし桓武が望んでいた最先端のシナ密教の正統を真に日本に持ち帰ってきたのは最澄ではなく、最澄と共に遣唐使に参加した30歳の一介の無名の私度僧であった空海でした。しかし空海が正統密教を携えて日本へ帰国してきたのは806年8月のことで、桓武の没後5ヶ月のことでありましたので、桓武がそのことを知ることはなかったのでした。
結局、桓武はその死の瞬間まで早良親王の怨霊のことを気にかけていたとされ、かなり複雑な性格の天皇ではありましたが、彼は彼なりに情が厚く責任感の強い為政者であったのだと思われます。そして、怨霊に怯えて遷都を繰り返したという点では似ているといえる聖武天皇が最後には単なる「三宝の奴」になってしまい政務を投げ出してしまったのに比べれば、最後の最後まで天皇として為政者として怨霊と格闘して足掻いた桓武は、やはりある意味で強い人であったのだと思います。
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