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日本史についての雑文その329 「神」と「帝王」
それにしても、784年の長岡京遷都の際にはあれほど「帝王」としての儒教的正統性に拘っていた桓武が、805年に平安京の造営を中止してしまう段階では、ずいぶん変節してしまったように見えます。いったいその背景にはどういう事情があるのでしょうか。
そこで再度、日本の「天皇」という地位について振り返ってみます。「天皇」という語はもともとはシナにおける神様の名前で「天帝」に匹敵する神格を表すものでした。シナ皇帝に対抗する意味でこの「天皇」という呼称が最初に外交文書で使われたのはカシキヤヒメ大王の時代の608年のことであったようで、その後、君主号として「天皇」が正式に使われたのは668年の天智天皇の時が最初であったのですが、これもシナ皇帝への対抗上のことで、それほど深い意味合いがあったというわけではなく、通常の場では「大王(オオキミ)」と呼ばれていたと思われます。

この場合の「天皇」というのはあくまで漢字の文字列なのであって、これに対応する大和言葉の読みというものは無く、漢文の文字列の中にのみ存在する概念なのであり、大和言葉の会話の中で登場する概念ではなかったということになります。
こうした状況が根本的に変わるのが壬申の乱を制して673年に即位した天武天皇の時代で、ここで大和言葉の「オオキミ」に変わる君主号として、新たに作られた日本語の「スメラミコト」という概念が登場し、天智時代から使われていた「天皇」という文書上の君主号の文字列に対応する訓として「スメラミコト」が充てられるようになったのです。ここで「天皇」は単なる文字列ではなく「天皇(スメラミコト)」という日本語の概念になったのでした。
それに伴って天武天皇からそれに続く持統天皇の時代には「天皇」の概念が整理されていきます。「天皇」という概念がシナ皇帝に対抗するために発生したという点では以前と同様なのですが、それがより日本独自の概念として整理されることになるのです。すなわち、シナ皇帝の場合は、天を支配する「神」である「天帝」が地上の最有力の実力者、つまり有徳の「帝王」に地上の支配権を与えて「皇帝」とするという図式になっているのですが、それが日本の場合は「徳」ではなく「血統」が重視され、天の「神」である「天照大神」の血統を引く天智天皇の娘の持統皇后(後に天皇)が、古代世界を統一した最有力の実力者、つまり「帝王」である天武天皇と婚姻することによって日本の支配権を承認し、この天武と持統の間に産まれた草壁皇子の血統を「天皇」とするという図式になっているのです。
つまり、シナでは「神」が「帝王」に支配権を与えて「皇帝」とするのであり、「皇帝」の資格は「徳」の有無を「神」が判断することによって決定されるのに対し、日本では「神」と「帝王」の間の子孫が「天皇」になるのであり、「天皇」の資格は一応即位時に「神」の承認は必要としますが、基本的にはその「血統」によって決定されます。これが天武と持統の時代に確立された「天皇」というものの概念でした。

天武が「帝王」であることは自明のことでありましたが、では日本における「神」とは何なのかとなると、それはここでは「天照大神」ということになります。「天照大神」の子孫が天智天皇ということになるのです。
天智天皇の先祖を父系で遡っていくと大王家という畿内の豪族連合の盟主の家柄となり、この家柄が豪族連合の盟主的存在になったのは3世紀初頭のミマキイリヒコという王の時のことでした。このミマキイリヒコの先祖は奈良盆地に勢力を有していた家系で、この家系を更に父系で遡っていくと紀元前1世紀の終盤にカンヌナカワミミという人物が奈良盆地南部の一角に最初に支配権を確立したようで、そのカンヌナカワミミの父親がイワレヒコといって瀬戸内海で活躍した海洋民氏族の族長でした。この海洋民氏族はもともと九州南部方面から移ってきたようで、そのルーツはおそらくミクロネシア由来の南洋系の旧モンゴロイド部族であったのでしょう。
もともと日本列島における「神」というものは太古においては自然神であったのですが、紀元前3世紀ぐらいから祖霊信仰が行われるようになり、紀元前1世紀に奈良盆地で勢力を張るようになったカンヌナカワミミの一族においても既に祖霊を「神」として祀っていたと思われます。ところが3世紀初頭のミマキイリヒコの時代には祖霊や農耕霊や自然霊などを総合した守護神としての「首長霊」という概念が生まれ、それが王と一体化することによって強力な王権が生じ、それによって大王家が豪族連合の盟主となることが出来たのです。つまり、この時以降、「首長霊」という概念の中で祖霊も自然霊も一体化することになったのです。そして大王家はもともと海洋民であったので自然神としては太陽神を祭祀しており、それが3世紀においては伊勢地方の太陽神と習合して「アマテラス(海照)」という神格が形成され、その太陽神「アマテラス」と祖霊とが一体化したことによって、大王家の先祖は太陽神「アマテラス」と同体であるとされるようになっていったのでした。但し、この「アマテラス」はあくまで海洋民の祀る素朴な太陽神であり、天の支配者などという大それた概念ではなく、一種の部族のトーテムのようなものであったと考えればいいでしょう。
この時代の日本列島というのは祖霊信仰が盛んで、祖霊は「神」でしたから、つまりどこの氏族でも先祖はみんな「神」なのであり、大王家に限らず、どこの氏族も「神の子孫」であったわけです。その中で大王家の場合は王権の守護神としての「首長霊」と一体化しており、その「首長霊」の概念の中で祖霊と太陽神アマテラスとが一体化していたので、「太陽神アマテラスの子孫」ということになっていただけのことで、それが他氏族の「神」と比べて特に偉いとか尊いということではなかったのです。このあたりは、祖霊信仰が既に廃れていたシナにおいて「神」が「天帝」という概念に一極集中していたのとはだいぶ様相を異にしていたといえます。

このような状況のまま時代は下り、大王家は天智の代となり、その天智の没後におそらくはその異父兄にあたる有力者の天武が壬申の乱に勝利して実力で支配権を勝ち得たのです。つまり「帝王」になったわけです。天武は女系皇族であったわけですが、その父系の家はさほど身分が高い家柄ではなかったと思われ、血統重視社会であった当時の日本においては天智の娘である持統の婿であるということが天武の支配権を正統化するためのかなり大きな要素であったようです。とにかく天智の祖先である大王家といえば、天武の時代から見ても500年近く前から畿内豪族の盟主的存在であり続けており、しかも更に先祖を遡れば天武の時代の700年前から奈良盆地における活動が認められる日本列島屈指の名族であったからです。
だから天武は畿内豪族の支持を磐石のものとするために持統との共治体制をとり、持統との間の子の草壁皇子を後継者としたのです。そしてこの天武の王権が成立した背景には唐帝国の脅威というものがあったので、唐に対抗して対等に渡り合っていくためには、この新しい日本の君主像はシナ帝国の皇帝と対等のものでなければならないのであって、シナ皇帝からの支配権の承認を受けるという従来の華夷秩序の枠内の君主像ではシナ皇帝と対等には立てないのであり、シナ皇帝と対等の立場になるためにはシナ皇帝と同じく「天」の「神」から支配権を承認された「帝王」でなければならないのでした。
そこで日本の場合は、古の名族である大王家の祖先神である太陽神「海照(アマテラス)」を新たに創造した「天」の最高神である「天照大神」という概念に定義変更してシナにおける「天帝」と同一の存在と見なし、「帝王」である天武の血統が「天」の「神」である天照大神の子孫たる大王家の後継者である天智の娘の持統の血統を加えることによって日本の支配権を承認されて、この「帝王」と「神」の2つの血統を共に受け継ぐ草壁皇子の血統が「天皇(スメラミコト)」を継承する正統の血筋とされたのです。
こうした新たな天照大神を中心とした王権神話が天武天皇と持統天皇の時代に作られたのです。そのために編まれたのが古事記や日本書紀の原型となった王権神話であり、その中では天武も天智の同父同母の弟で大王家の正統の血筋であるかのような潤色もなされていますが、それが明白な潤色であることは7?8世紀の朝廷の人々には了解事項であったことでしょう。

このまま8世紀は、「帝王」と「神」の2つの血統を受け継ぐ草壁系皇統が「天皇」となるという体制でやっていったのですが、この体制には根本的な欠陥がありました。まず、この2つの血統は、そもそも「帝王」である天武自体が女系皇族であり、その上、「神」のほうの天智の血統も持統を経由することで女系皇族となっており、女系と女系の組み合わせでありました。
男性というものは近代以前においては複数の妻を同時に持つことは常態であったのですが、女性が複数の夫を持つというのは基本的にはありませんでした。この違いは人間の男性と女性の身体構造の違いに由来する性行動の差異から生ずるもので、まぁ仕方ないことでありました。
自然界ではメスを中心にして集団を形成するパターンが多く、その最たるものが女王蜂や女王蟻のようなものですが、これらはとにかく1匹のメスが膨大な卵を産むわけで、通常は1回の出産で1人しか産めない人間のメスと比べてその生殖能力の次元が段違いに高いのであります。一方、例えばカマキリのオスなどは一度性交したらメスに食べられてしまうのであり、一生涯に一度しか性交が出来ません。発情期も関係なく年中何度も繰り返し性交可能な人間のオスに比べて段違いに生殖能力が低いといえるでしょう。
メスの生殖能力が高くオスの生殖能力が低い生物の社会が子孫繁栄のために女系社会になるのは自然の摂理であるといえるでしょう。その点、人間の場合は、生殖能力において男女の優劣をつけるのは容易でないにしても、少なくともそうした典型的女系社会生物に比べてメスの生殖能力は格段に低くなっており、オスの生殖能力は格段に高くなっているわけですから、女系社会が有利であるという「自然の摂理」に必ずしも縛られるとは限らないといえるでしょう。
それでも人間と同じようにメスが1回の出産で原則として1匹しか産まない一部の哺乳類などでも群れはメス親を中心に形成されることが多く、「自然の摂理」の拘束力はそれなりに強いものだといえるでしょう。但し、発情期と非発情期の区別が無く、年中が発情期である動物は人間のみであり、そういう意味では既に「自然の摂理」に逆らっているのかもしれません。それでも人間も原初においては「自然の摂理」に従って女系社会を形成していたのであろうと思われます。
個々のメスの生殖能力が低い哺乳類でも女系社会という「自然の摂理」に従って平気であったのは、彼らは本能で「種」全体の維持のみに拘っていたのであり、個々の「群れ」や「血統」の保持には興味が無かったからでした。女系社会のままで「群れ」としての出産数が少なくて個々の「群れ」は途絶えたとしても結局はトータルでの「種」を維持することには支障を生じるほどではなかったからでした。彼ら哺乳類は個々の「群れ」や「血統」が途絶えることに悲しみを感じるということがないのです。

人間だけがそうしたことに悲しみを感じます。それを「エゴ」と言うのでしょう。おそらく人間だって女系社会のままでも「種」を維持していくのに支障は無いはずです。実際、人類誕生以降かなりの期間はそうやって生活をしてきたのです。しかし人間は本能的に「種」全体のことを考えるよりも、自分自身や自分の周りの血族や仲間の「エゴ」を考えるようになり、「自然の摂理」に逆らってその「エゴ」を通す工夫をするようになります。それが「文明」というものなのでしょう。「群れ」を作って単に生きていくだけではなく、複雑な「共同体」を作って組織的な活動をするようになりますと「共同体」を維持しその秩序を守っていくためには、その求心力となる血族集団が必要となってくるようになり、その特定の血族を維持していくためには「自然の摂理」にのみ従って女系家族を作るだけでは、人間の女性の弱い生殖能力にのみ依存することになり、その血族が絶えてしまうリスクが増大し、ひいては共同体の存続が危うくなります。
そこで人間の男性の豊富な生殖能力を有効活用して、その血族の1人の男性が共同体内の複数の女性と同時並行的に性交して、その血族内における生殖行為を複数パターン用意することによって人間の女性の個々の生殖能力の弱さをカバーして、その血族トータルの生殖能力を高めて、その血族の血統を維持して共同体を維持していくようになりました。これがつまり一夫多妻制であり、男性を中心に置いた社会、男系社会、男系継承というものでした。
この男系社会というものは人間の「エゴ」を押し通して「文明」を維持していくために「自然の摂理」に反して考え出された工夫であって、この制度自体が1種の「文明」でありました。「自然の摂理」に反しているから悪であり、「自然の摂理」に従うのが善であるから、だから男系継承は間違っていて女系継承こそが本来の自然な人間の在り方である、とは必ずしも思いません。そもそも人間の本来の自然な在り方とは、ある面では「自然の摂理」に逆らい「文明」を築くことなのではないでしょうか。石油を掘り尽くしてそれを燃やし尽くして二酸化炭素を撒き散らすような行為まで推奨するつもりはありませんが、完全に「自然の摂理」に従うとしたならばそもそも病気を治すような行為も認められませんし、稲を育てることだって立派に自然の摂理に反しています。何事もほどほどならば良いのであって、そうしたささやかな文明の在り方まで否定する必要は無いでしょう。そもそも猛烈な速度で石油を二酸化炭素に還元していくような行為すら巨大な「自然の摂理」の掌の上で踊っているようなものでしかないのかもしれず、人間の文明とは大きな「自然の摂理」に対するささやかなる抵抗に過ぎないのであり、そうしたささやかな抵抗を行うことが人間の本分であり、人間の「あるべき様」であるのかもしれません。その先に何が待っているのかは分かりませんが。
一夫多妻制と、それと密接に結びついた男系継承制度というものも、共同体における中核的血族維持を目的とする意味においては、そうした人間の文明の「あるべき様」の1つであると思います。逆に、全ての婚姻を一夫一妻制とする動きというものは、男系と女系の両方の継承制度を認めつつ、行き着くところは血族の解体を通して共同体の破壊に至り、一見して非常に平等な制度で民主主義的でありながら、いや、そうであるからこそ、全ての人間が共同体の保護を失って剥き出しの権力の前に平等に対峙することになる全体主義の世界を招来する危険が大きいといえます。

このように、日本という共同体の核心的血族である天皇家を維持していくためには、本来は文明の「あるべき様」である男系継承が望ましいのです。しかし「天皇」という存在はその「あるべき様」に反して女系皇族同士の掛け合わせによる女系継承によって始まってしまいました。まぁそれは偶然そうなってしまったのですが、それが草壁系皇統であったのであり、女系継承の場合は男系継承に比べて人間の女性の弱い生殖能力への依存度が上がるために後継者の数がどうしても乏しくなりがちになります。
基本的にそうした傾向があるところに、更に不幸なことにこの皇統の初期の頃の男性継承者が草壁皇子、文武天皇と続けざまに病弱短命であったために、この皇統を男系継承に切り替えることに失敗し、皇統内における女性の重要性が更に高まり、必然的に後継者不足の傾向が更に高まりました。
しかし、何といっても決定的であったのは「帝王」と「神」の2つの血統の掛け合わせという純血性に拘らざるを得なかったため、ただでさえ女系継承によって生殖能力が不足していた上に、「帝王」と「神」以外の血統の混入を防ぐために婚姻のパターンが更に限定されたことであり、これにより正統な後継者の不足は決定的となったのでした。純血性という点では聖武の代で既に怪しく、孝謙(称徳)の時点で決定的に不足していました。淳仁に至っては論外といっていいでしょう。
そういう中で8世紀後半になるとシナ文明の模倣が強まり、儒教論理の影響で易姓革命騒ぎが続くことになりました。ただこれは真に儒教論理が根付いたからではなく、「帝王」と「神」の両方の血統を引いた正統な「天皇」の継承者がいなくなっていく中で、既に8世紀後半の時点で天武と持統が作った「天皇」の概念が通用しなくなっていき、新たな君主像が模索されるようになっていった結果、儒教論理的なシナ皇帝の模倣のような「帝王」の色合いが濃い君主像が適当なのではないかという、一種の試行錯誤の過程であったのだと思われます。
そういう意味合いで儒教論理はひとまず受容されていたのであり、本当に儒教論理が根付いたわけではないのです。8世紀後半の恵美押勝や道鏡の一連の易姓革命騒ぎは儒教論理の浸透が真の原因なのではなく、一部の「シナかぶれ」が騒いでいただけのことで、その真の原因は、「帝王」と「神」の血統を引いた正統継承者の不足なのであり、更に突き詰めると、そもそも天武や持統の作り上げた「天皇」の定義ではあまりにも制約が多すぎてどうしても先細りしていく運命であったといえます。

そうした易姓革命騒ぎのトリを務めたのが桓武天皇で、桓武は、本来草壁系の他戸親王への繋ぎ役で即位した父親の光仁の長子という立場を上手く使って、既に先細っていた草壁系皇統にとどめを刺して、易姓革命を遣り遂げてしまったのです。桓武は天智の曾孫でしたから古来の名族である大王家の末裔ではありますが、天武が作り上げた「帝王」と「神」の血を引く君主である「天皇」の血統とは無縁でありましたから、桓武から見れば、いや当時の誰が見ても、本来は「天皇」になれないはずの血統の人間が「天皇」になったわけですから、これは立派な易姓革命でありました。
易姓革命を遣り遂げた桓武は新王朝を作らねばならない立場でしたから「天皇」としての正統性を求めました。彼は「神」、つまり天照大神の子孫である天智の血は引いていましたが、「帝王」である天武の血は引いていませんでしたから、「天皇」の資格を構成する要件である「神」と「帝王」のうち「帝王」を欠く状態にありました。
その代わり、桓武は草壁系皇統のように「神」と「帝王」の2つの血統の純血性にがんじがらめになって皇統を先細らせていくという陥穽からは抜け出すことが出来ました。彼は「神」の子孫である天智の血統を男系で受け継ぐ立場であり、「帝王」の血筋には縛られることはありませんでしたから、自分自身の「神」の血統を男系で残していきつつ、血統によらない手段で「帝王」としての正統性を自ら身につけていけばいいのでした。「帝王」の血筋に縛られないということは、それに頼ることが出来ないということでもあり、血筋以外の方法での「帝王」としての正統性獲得しか道が無くなるということです。
「神」の血統、つまり桓武自身の血統については男系で残していけばいいわけで、他の血筋の制約を受けずに男系継承が可能になるということは一夫多妻制の利を最大限に使うことが出来るようになるということであり、桓武の時代には天皇の妃の人数制限が取り払われ、新たに定員超過分の妃の呼称として「女御」という身分呼称が生まれて、桓武は多数の女御を抱えるようになり、総勢27人の妃を持つようになり、これで「天皇」における生殖能力の不足という問題は解決しました。皇統の男系継承は草壁系皇統の失敗を教訓とした皇統護持のための本来の正道であり、それは一夫多妻制と不可分のものとして確立したのであるということは覚えておく必要があります。

さて、これであと問題は「帝王」としての正統性確保のほうということになります。なぜ天武は「帝王」になることが出来たのかというと、武力で天下を握ったからです。シナの王朝の始祖たちも同様でした。まず武力を示す必要があり、正統性は後からついて来るのでした。しかし桓武は武力で天下を取ったわけではなく、草壁系皇統が殆ど自滅した結果、宮廷クーデターで王権を簒奪したに過ぎないのです。だから「帝王」としての正統性というものが無く、それは儒教的論理によって「帝王」としての「徳」を示して補っていくしかなくなってくるのです。それで桓武は774年から蝦夷を徳化しようとして征討を開始したり、784年に長岡京に遷都したり、785年に「郊祀祭天の儀」を挙行して天帝を祀り、また父親の光仁を王朝の始祖として祀ったりしたわけです。
しかし日本においてはそうした儒教的論理は根付いておらず、「天帝」だの「徳」だの言ってもあまりに馴染みの薄いものでした。儒教的論理によって皇統が替わったのではなく、皇統が絶えそうな現状に対応するために儒教的論理が流行していたに過ぎないのです。新たに皇統が立った以上、儒教的論理とは別の正統性が必要とされるのでした。だいたい儒教的論理のみによって王朝の正統性が確保されるなどと考えること自体が、シナ文明というものを真に理解していないということです。実際のシナにおいては「天帝」だの「徳」だのは所詮は後付けの理屈であって、王朝の交替を正統化するのは武力による放伐が大前提なのです。それを理解せずに「天帝」だの「徳」だの唱えること自体が既に空論に陥っているわけです。
それゆえ、蝦夷征討は泥沼化し、長岡京の工事は滞り、「郊祀祭天の儀」も785年と787年に行われただけで恒例化せずに立ち消えとなり、791年には王朝の始祖が光仁であったはずが天智に引き上げられ、易姓革命という実績よりも神に連なる名族という血統への依存が強まってくるようになり、そしてとうとう792年には早良親王の怨霊が登場します。
そもそも儒教においては「怪力乱神を語らず」といって、あまり怨霊などは恐れません。唯一神である天帝が地上の支配権を与えた高徳の唯一君主が皇帝で、その皇帝が治めている限り、怨霊など恐れる必要が無いはずだからです。桓武が目指していた「帝王」もそういった儒教論理に則ったシナ皇帝のような存在であったはずですから、その「帝王」の「徳」によって怨霊など抑えることが出来るはずなのです。ところがここで「帝王」の力で抑えることの出来ない怨霊が出現してしまったのです。これはつまり日本においては儒教論理などは根付いておらず、桓武の目指す儒教的「帝王」などは紛い物であったということが露見したということであり、それゆえ怨霊などが現れ、怨霊などで大騒ぎすることになったのでした。

このように儒教論理の限界が明らかになり、「帝王」の正統性の確保の先行きが不透明になっていく中で、それでも桓武はなんとか踏ん張って「帝王」であろうとはしていきますが、儒教で怨霊を抑えられないことから迷走し始め、陰陽道に頼るようになり794年には長岡京を捨てて平安京へ遷都を行います。また「帝王」としての正統性を確保できない中で「天皇」の中の「神」の側面、つまり古代の大王家へ連なる血統への依存度が高まるようになり、799年には紀元前1世紀のイワレヒコ以降の大王家の血統を男系で示し、そこから枝分かれしていった各氏族の貴賎を、大王家への血統の遠近で序列化することを目的とした「新撰姓氏録」の編纂が開始されることになりました。こうなってくると、即位当初の易姓革命気分とは全く相反する方向性であるといえます。
そして800年には早良親王の怨霊がとうとう「天皇」にまで上り詰め、怨霊は「帝王」と同等の存在となり、儒教論理の怨霊に対する無力は明らかとなり、怨霊を抑えていくための新たな方法論が求められるようになります。それこそが君主に求められるものとなり、それを成し遂げることによってこそ、君主は正統性を得るのだといえます。そこに新しい「天皇」像のヒントがあるのだといえるでしょう。
しかし桓武の段階、つまり律令国家文明の修正期末期の段階ではそれはまだ暗中模索の中にあり、その解答は9世紀、律令国家文明の改革期において、桓武の後継者たちによって試行錯誤されていくことになるのです。桓武は最晩年まで「帝王」としての正統性への拘りを持ち続け「造都」と「征夷」を継続したという意味で、彼の後継者である平安時代の為政者たちよりも、むしろ天武や聖武、恵美押勝のような奈良時代の為政者の類型に属し、彼らの系統の最終走者であったのであり、8世紀後半の律令国家文明修正期の最後の政治家であったと見るべきでしょう。
その桓武も最晩年の805年の暮れには「造都」と「征夷」の中止を決定し、「帝王」の正統性への拘りを捨てます。そして桓武の頭に残ったのは怨霊への対処法のことのみであったのであり、それは桓武没後の9世紀以降への宿題となりました。そしてそれが「天皇」の在り方と密接に関係してくるようになり、日本の国体の在り方も定義していくようになるのです。
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