KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その330 軍団兵士制
このように8世紀終盤の桓武天皇の時代に「天皇」の「神」と「帝王」の側面のうち、「帝王」の側面の正統性が確立できなくなっていたのですが、「帝王」というのは天武天皇のような日本を統一しシナ帝国に対抗していくような中央集権国家を維持していく力の象徴であったはずで、その正統性を桓武天皇がいつまでもグズグズ確立できていないというのは実は一大事であり、桓武にそれが出来ないのであれば、別の実力者が日本の統一を維持するために「帝王」として立たねばならないはずなのです。中央集権制の統一国家を維持するためには「帝王」的な求心力は必要なのですから、桓武が不甲斐ないのであれば取って代わる者が現れて当然であるしそれが自然の流れというものなのです。そういうものがいわゆる「天命」というやつであり、そうして易姓革命というものは起きるものなのでしょう。
桓武も実はそうした、真の意味での「帝王」が現れて、真の意味での易姓革命が起きることを最も恐れていたからこそ、必死になって「帝王」としての正統性を確保しようとしていたのだと言えます。ところが、桓武がグズグズして、しかも結局は「帝王」の正統性の追求を放棄してしまったにもかかわらず、誰も代わりの「帝王」は現れず、易姓革命も起きませんでした。これはどういうことかというと、要するに、実はこの8世紀末から9世紀初めにかけての時代には日本においては「帝王」のような存在はいつしか不要なものになっており、日本が「帝国」である必然性も無くなっていたのではないかとも考えられるのです。いや、そういう状況が8世紀終盤において水面下で進行していたからこそ、いつしか日本社会自体が「帝王」や「帝国」的なものを欲していない状況になっており、それゆえ桓武がいくら頑張っても全てが空回りになったのではないでしょうか。

そもそも日本において「帝王」や「帝国」のようなものが必要になったのは国防のためでした。19世紀に蒸気船が出現するまでは敵の軍船の大船団が日本沿岸の何処にでも自由に出現出来るという状況は想定出来ませんでしたから、それ以前の日本列島は海という防壁によって守られており、単純に日本列島を守るためだけならば、さほどの大規模兵力は必要ありませんでした。
19世紀以降はさすがにそんなに呑気な状況でもなくなりましたが、それでも現在に至るまで、いかに海軍や空軍、ミサイルなどが最新鋭装備を施そうとも、結局は戦争の究極的な勝利は陸軍の大兵力による制圧であるという真理は不変である限り、大規模陸軍兵力を日本列島へ侵攻させる場合には必ず広大な海か空を通らねばならず、日本側が強力な海軍と空軍を列島周辺に配備している限り、その時が敵方にとって最もリスクが高いのであり、日本の海軍や空軍が海という地勢を利用しているという意味では、現在でも日本は海によって守られている部分は大きいといえます。
「大東亜戦争の終結時にはアメリカ軍の進駐をあえなく許したではないか」とも言われそうですが、あの時は列島を守るべき海軍と空軍が南方海域で勝手に自滅して既に存在していなかったし、その状況下においてもアメリカ軍は上陸作戦にリスクを感じて日本政府と交渉し、結局は無血占領という形に落ち着いたのであり、もしこれが地続きであったなら、交渉など行われることはなくドイツのように戦闘行為によって国土を蹂躙されて日本政府は消滅していたことでしょう。まぁ実際はアメリカが日本と交渉するようになった理由は他の要因も含めた複合的なものであったと思われますが、そういう意味ではこの時ですらも海はやはり日本を守る防壁としていくらかは役に立っていたといえます。
ましてや世界中の何処にもまともな海軍も空軍も存在しない19世紀以前は海は日本列島を守る絶対的な防壁であったのです。しかしそれは古代の渡海技術では大規模兵力の輸送が困難であるという意味で防壁となっているのであり、もし古代の渡海技術でも大規模兵力の輸送が可能であるとするならば防壁としては用を足さないということになります。それはつまり渡海に要する距離が短い場合、つまり海という防壁が薄い場合であり、日本列島周辺は2箇所を除いては海という防壁が分厚いので防壁として鉄壁なのですが、2箇所だけ防壁の薄い部分があります。1箇所は大陸から樺太を経由して宗谷海峡の部分ですが、古代においてはこの部分は無視していいでしょう。残る1箇所が対馬海峡で、ここだけは古代の渡海技術でもそれなりの大規模兵力の輸送が可能で、防壁の薄い部分ということになります。つまり対馬海峡の南にある北九州沿岸地域は外敵の侵入を受ける危険のある唯一の地域ということになります。

つまり、19世紀以前における日本列島防衛の要諦は、いかにして北九州を防衛するかということになります。そしてその北九州へ侵入してくる敵というのは必ず朝鮮半島南部を拠点としてやって来るのですから、朝鮮半島の勢力の動向に目を光らせておくことが重要となります。しかし朝鮮半島の勢力は古代から常に日本列島の勢力に比べて弱体であったので、日本に侵攻してくるということはあり得ませんでした。問題なのは、朝鮮半島の南部まで強大なシナ大陸国家の支配下に入った場合でした。
紀元前1世紀の漢の武帝の時に一時期そういう状態になり、それまでは日本列島は小さな部族国家や部族共同体がめいめい勝手にやっていたのですが、これが刺激となって北九州の部族国家群もシナ帝国の勢力下に入るようになり、また瀬戸内以東でも部族共同体の統合が始まり、この部族国家連合が次第に畿内においては大和王権となってまとまっていくようになり、4世紀初頭に第一次シナ帝国が崩壊した後、この大和王権の勢力は北九州の勢力も加えて各地の部族国家連合による連合軍を組織して対馬海峡を渡って朝鮮半島へ進出して半島南部を軍事的影響下に置くようになりました。
これは、大和王権というものが紀元前1世紀のシナ帝国による朝鮮半島南部接収という脅威から生まれたものであることから考えて当然の帰結であったといえるでしょう。紀元前1世紀時点で日本列島が国家未形成段階であったため、このような帰結に至るまでに400年ほどの時間を要してしまったのですが、大陸勢力による日本列島侵攻の拠点となる朝鮮半島南部は対馬海峡が兵船の渡海可能ということで逆に日本側からも兵員を送れるということでもあり、兵員を送って半島南部を逆に日本側が押さえてしまうことによって、日本列島を囲む防壁に開いた唯一の穴を塞ぐことが日本防衛を完璧なものにする解答であったのです。この軍事的真理は近代においても真理であり続け、それゆえに日清戦争や日露戦争は戦われることとなったわけですが、4世紀の大和王権の為政者にも既にその真理は本能的に認識されていたのでした。
そして朝鮮半島南部を押さえた大和王権は次第に独自の天下観を持つようになり、日本列島および朝鮮半島南部を自己のテリトリーと見なすようになっていき、朝鮮半島南部は日本列島防衛のための緩衝地帯として不可欠のものと認識されるようになっていきました。そして6世紀になって畿内の大和王権の諸勢力は血統的氏族集団を形成するようになり、それらの氏族集団が中央豪族となり、王権の長たる大王との間に世襲的支配従属関係を築くようになり、またそれらの中央豪族がそれぞれ各地の部族国家の首長らと世襲的な利害関係や主従関係を持つようになり、畿内の豪族連合の盟主である大王が全国を間接的に支配する大和朝廷という枠組みが成立するようになりました。この時点でのシナ大陸は南北朝の分裂状態で朝鮮半島には関与しておらず、朝鮮半島の勢力も弱体であったので、こうした大和朝廷の豪族連合軍でも朝鮮半島南部までの軍事覇権を維持出来たのでした。

ところが6世紀になってからシナの北朝において中央集権的な軍国体制である律令制が成立し、6世紀末に北朝から出た隋帝国が律令制の力でシナを統一し第二次シナ帝国を打ち立て、隋の後を継いだ唐が7世紀後半には新羅と結んで朝鮮半島へ進出して大和朝廷の勢力を脅かすようになったので、それを阻止するために大和朝廷は豪族連合軍を半島南部に送りますが、これが唐の律令制の軍団兵士制の軍によって白村江で大敗を喫し、朝鮮半島から日本側の勢力は駆逐されてしまいました。これによって朝鮮半島南部まで唐の勢力が及ぶようになり、今度は逆に対馬海峡を渡海して唐軍が日本へ侵攻可能な危機的状況となったのでした。
この7世紀終盤の唐による脅威がきっかけとなって日本において律令国家が形成されていくことになります。まず白村江で大敗した天智天皇は唐軍の来襲に備えて日本列島内の防衛網の構築に集中し、その上で唐と講和する外交を展開しましたが、その方針に異を唱えた天武天皇が天智の死後に壬申の乱に勝利して武力で古代世界を統一して本格的な中央集権律令国家である日本国を建設していくことになります。
その天武天皇の外交政策とは、新羅の朝貢を受けて同盟して、日本と新羅の力を合わせて唐の勢力を朝鮮半島から追い出そうというもので、天智の政策が防御的であったのに比べて、天武の政策はより攻撃的であったといえるでしょう。天智の想定していた戦場はあくまで日本列島であったのですが、天武の想定していた主戦場は朝鮮半島ということになります。とりあえずは唐軍との対峙は新羅に任せておいて、日本は再び半島に出兵して唐軍と戦って今度こそは打ち勝てるような軍隊を早急に整備することにしたのです。そのためには従来の寄せ集めの豪族連合軍では駄目で、マスゲームのように統一した部隊行動をとる歩兵集団戦術を身につけた軍団兵士制を敷く必要がありました。仮想敵となる唐軍がそうした大兵による歩兵集団戦術を大平原において展開することを常とし、しかもそれが朝鮮半島や大陸においては有効な戦術であったわけですから、日本側としても朝鮮半島や大陸で唐軍と戦うという想定になっている以上は、それに付き合う必要がありました。
この時代のシナ大陸における戦闘には1回の大会戦に数十万もの大軍が動員されるのが普通でしたから、日本もそれに匹敵する動員体制を組むことになりました。律令制下での日本の軍団兵士制ではだいたい20万人ぐらいの兵士を動員できる体制となっていたようです。この20万人の兵士に集団歩兵戦術の部隊行動をみっちり仕込むことが出来れば、確かにシナ大陸でも十分戦える巨大戦力となるでしょう。

ここで注目すべきは、いや実際は特に注目すべきことですらないのかもしれませんが現代日本のような異常な時代だからこそ注目してしまうことになるのですが、この7世紀の古代日本人ですら、ちゃんと抑止力というものを理解しているということです。この律令国家日本の軍団兵士制は戦争の専門家ではない農民達を集めて、大陸において大軍で戦うための歩兵集団戦術の訓練、つまり号令に合わせて突進したり反転したりする訓練ばかり繰り返しているわけで、しかもこのような大規模兵力で戦う戦場は日本国内にはほとんど無く、完全に国外で戦うことが前提となっています。
もし防御用の軍隊であるならば、当時ならば北九州に一定規模の軍を集結させておけば効率は良いのです。しかしこの軍団兵士制は日本全土に満遍なく配置されており、それぞれの地で大陸戦のための訓練を繰り返していたのですから、全土から満遍なく大軍を徴発して大陸へ攻め込むための兵力であったことは明白です。このように全土に満遍なく兵力が分散しているというのは実は国内治安的には危険なことで、方面軍が反乱軍に転じてしまうというリスクがあるのですが、それを承知でこのようなシステムにしていたということは、それだけ大陸戦用の大兵力の必要性のほうが勝っていたということでしょう。またこの軍隊を国内治安維持のために使うにしても、国内での治安維持のためにはもっと小回りの利く武装集団が必要であり、マスゲームのような訓練ばかりしている軍隊ではほとんど役には立たなかったはずです。だからやはりこの軍隊は国外で戦うことを専門としたものであったはずです。
かといって律令国家日本が海外に対して領土欲を持っていたということはなく、この軍団兵士制の20万人の軍隊はあくまで日本列島防衛のための兵力であったのです。つまりこの軍団兵士制というのは、国外において敵を叩き得る兵力を持っているということが敵に脅威を与え、敵による攻撃を抑止する力となり得るという軍事思想に基づいたものであったのです。こうした古代人でも理解していた真っ当な抑止力思想を忘れて「専守防衛」などという自国領土を戦場として自国民を危険に追いやることを前提とした狂気の思想に耽っているのが20世紀後半以降の日本なのです。

しかしこの20万人の軍隊ですが、当時の日本の人口はだいたい700万人でしたから、これを現代の日本人口1億2千万人に置き換えると、約350万人の軍隊を保有しているということになります。これは大東亜戦争時の動員兵力と比べても遜色ない兵数であり、実際に戦闘は無かったので消耗は無かったとはいえ、こんな臨戦態勢を7世紀末から8世紀末までの100年間も継続するのは並大抵のことではなく、民力への負担は甚だしいものであったことでしょう。
この極端な軍事体制を維持するために律令制が必要とされたのです。まず軍団兵士を徴発するためには公民を戸籍で詳細に管理出来ていなければいけませんし、その兵士役は公民の義務でしたからもちろん無給でしたが、それでも軍団を運営したり兵士の持つ武器や食料など必要経費もかかりましたし、日常的に繰り返される訓練も膨大な経費を食いましたし、いざ大陸に攻めていくための蓄えも普段からしておかなければいけません。そのために全国の富を効率的に中央政府に集中させる体制や税制が必要となり、そうした中央集権体制を機能させるための全国的な巨大な官僚機構が必要となり、それを維持するための経費もまた必要となるわけです。また官僚機構を動かすための法令としての律令法、官僚の仕事場であり生活空間でもあり全国物資の集積分配基地でもある都城も必要となり、それを建設維持する経費も膨大なものとなります。そしてそうした膨大な経費を賄うためには国家全体の生産性を上げなければならず、公民に口分田を給付して一律に生産活動を管理する体制も必要となりました。こうして律令制シナ帝国を模倣した「東夷の小帝国」たる日本が生まれたのであり、その中心にシナ皇帝と同質の「帝王」が座ることになったのです。
こうした軍国体制維持のために律令制が便利であったので天武天皇は律令国家を建設したのです。まず軍事ありきなのであり、別に天武天皇は民政を充実させようとか思っていたわけでもなく、文明国になって唐に褒めてもらいたかったわけでもないのです。そういう呑気な状況ではなかったのです。よく「日本も律令制を導入して文明国であることを示そうとした」というような表現がされますが、これは確かにある意味正解ですが、別に唐に褒めてもらおうとしたわけではなく、むしろ逆で、恐れられようとしたといえます。つまり律令制が完備されていればいるほど、強力な軍隊が整備されているということですから侮れない相手ということになります。だからこそ対等外交が出来るのであって、文明国として遇してもらえるのです。要するに、律令制の世界では「文明国=軍事大国」なのです。いや、明治の「文明開化」というものもイコール「軍事大国化」であったのだし、「文明国=軍事大国」という公式は現在に至るまで世界の真理でしょう。軍事を非文明的なものであるかのように捉えるのは日本的偏見であり、そうした偏見は実は平安時代以降に形成されていくのです。

このように「律令制の導入=軍事大国化」も唐に対する威嚇のカードであったのであり、だからこそ律令制導入のバロメーターである「律令法の施行」と「都城の建設」が揃った段階で日本政府は8世紀初頭に大宝の遣唐使を派遣して国交交渉に入ったのでした。そして冊封はせずに朝貢をするという特殊な外交関係を持つことになり、日本側はこれを対等な関係と見なしました。ただ、これで唐と円満な関係になったというわけではなく、相変わらず唐は仮想敵国でした。
更に730年代ぐらいから新羅が唐に接近するようになり、日本への朝貢を止めて対等な関係を求めてくるようになりました。しかし、このように新羅が日本から離れて唐への帰属度を増していくことは、大陸勢力が朝鮮半島南部まで勢力を及ぼすという日本にとっての最悪のパターンに陥る危険が大きいことでしたので、日本は何としても新羅に日本への朝貢を継続させようとしました。そのために20万人の軍団兵士を新羅に対する威嚇にも使うようになりました。当初は新羅と共に唐と戦うための軍団兵士制であったのですが、このように8世紀の途中からは新羅を威嚇して繋ぎとめるための軍事力として使われるようになったのです。もちろん威嚇だけではなく、いざとなれば懲罰のために新羅へ攻め込むことも想定していましたし、新羅の背後にいる唐とも戦うことも想定内にしていました。
これにしてもやはり国外で戦うことが前提となっており、律令制下の軍団兵士制というのは朝鮮半島かシナ大陸で戦うために存在していたのでした。実際、755年に唐で起きた安禄山の乱のどさくさに恵美押勝はこの軍団兵士制でもって新羅を征討して朝貢させる計画を立てましたが、押勝の勢力の失墜によって762年には征討計画は中止となり、逆に764年に押勝が反乱を起こした際にこれを討ち取るために軍団兵士制は幾分機能し、またそれ以前にも740年の藤原広嗣の乱の際にも軍団兵士制を動かして乱を鎮圧しました。だいたい軍団兵士制が実際に役に立ったのはこれぐらいで、これらは軍団兵士制の本来の使い方ではなく、とうとう本来の任務である国外の戦場には投入されなかったのでした。
軍団兵士制における兵士達は大陸の平原での大会戦のための歩兵集団戦術の訓練ばかりを受けており、こうした謀反鎮圧のような国内治安維持のための訓練を受けていませんから、国内治安維持のためにはあまり使えませんでした。そこで律令制下では国内治安維持のためには軍団兵士制とは別のシステムが用意されていました。
まず軽犯罪の犯人逮捕や逃亡農民への対処などはそれぞれの国司の権限で非武装の人夫を動員して逮捕にあたるということになっており、逃亡犯が他国に逃げた場合は国司が太政官に報告して「追捕官符」という命令書を出してもらってから人夫を動員することになっていました。また一方、殺人などの重犯罪や謀反の場合は国司から天皇へ緊急報告が行われ、天皇が「発兵勅符」を出せば国司が武装した兵を動員できるのですが、この場合の兵というのは軍団兵士ではなく緊急治安維持要員として武芸に秀でた公民が登録されて準備されていました。「準備されていた」というのは、つまり8世紀においてはこの武装した緊急治安維持要員が出動しなければいけないような事態はほとんど発生しなかったからでした。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。