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日本史についての雑文その331 律令制の行詰まり
こういう状態で時代は8世紀最後の四半世紀、だいたい桓武天皇がまだ山部親王という名で皇太子になった773年頃以降の時代に入っていきますが、この時期は律令国家文明の修正期の後期にあたり、743年の墾田永年私財法の施行以後、律令政府の税収も増え続け、この時代の初めのほうはその安定成長路線の延長線上の時代であり、そうであるからこそ、桓武天皇による長岡京や平安京への相次ぐ遷都、そして蝦夷征討戦争などの出費も可能になったのでした。
つまり基本的には律令国家の成長の時代であったわけですが、上記のように律令国家というのは軍国体制構築のために建設されたものであって、もともと日本人は律令国家を特に強く望んでいたというわけではありません。国家安全保障のために「やむをえず」重い負担を我慢していたに過ぎないのです。それに、もともとシナ発祥の律令制というものは日本の風土文化には合致していない部分が多く、最初は日本の風土文化に合わせてなんとか凌いでいきましたが、律令国家が成長していくにつれて次第に歪みが溜まっていくようになりました。その歪みが表面化しつつあったのがこの律令国家文明の修正期後期ということになります。
また、律令国家が対外的な脅威への対応として半ば強制的に建設されたということは、それによって表舞台から引き摺り下ろされた前代の文明、すなわち王権国家文明の要素も別にそれ自体が賞味期限が切れたわけではなく、単に国際情勢に合致しなくなったので水面下に潜っただけのことで、この律令制という外来文明を性急に取り込んで頂点に達して制度疲労を起こして生じた歪みを解消するために、水面下では王権国家文明のエッセンスが形を変えて密かに復活し始めることになるのもこの時代です。これがゆくゆくは律令国家文明と合体して次代の王朝国家文明を生み出していくのですが、まだそれもこの時代においては本格的な動きというわけでもありません。

まず戸籍を使って個々の人民の管理を行って班田収受を実施したり、租庸調のような人頭税の徴収を実施したりすることは、日本とシナとでは状況が違っていたので、実は非常に無理のある事でした。それでも当初は日本の伝統的な在地首長の支配体制や貢物の系譜を引く租税体系を有効活用してなんとか形を整えたのでした。しかし律令国家が成長していくにつれて、本来の律令制の論理を貫徹して、日本の伝統的部分を薄めていこうという方向性が自然に生じるようになっていきました。例えば租として徴収された正税稲の管理が在地首長である郡司層から次第に国司管理に移っていったようなことです。
しかしそれは支配する側の論理であり、支配される側は本音では律令制など望んでおらず、それが伝統的支配体制を温存したものであったからであり、また対外的脅威に対応するためという大義名分があったからでありました。だから、律令制の進展が伝統的支配体制を骨抜きにして掘り崩していくにつれて、逆に律令制の足元を掘り崩していくことになり、様々な軋みが生じてくるようになりました。
例えば律令制というものは君主のみに権力を集中して、官僚というものは君主への奉仕の才能に応じてポストに任じられるべきものでありますが、このような能力主義を王権まで突き詰めると易姓革命思想にまでなります。シナ律令制においてはここで「皇帝は徳によって天帝に選ばれている」という論理でなんとか皇帝の世襲を正当化しようとはしますが、日本の場合は天神に通じる血統によって天皇の世襲を正当化しようという伝統的な思想が底流にあり易姓革命を阻止して政体を安定化していました。血統主義というものは本来は律令制には馴染まないもののはずなのですが、こうした伝統的思想を包含することで日本型律令制は成り立っていました。
こうした王権の血統主義というものを掘り崩そうとしたのが恵美押勝や道鏡、そして桓武らの易姓革命騒ぎであり、これは律令制の本来の論理の貫徹であったのですが、それが日本においては逆に律令制の基盤を弱めることに作用してしまい、様々な反発を受けて失敗し、あまり芳しい結果を残さずに、律令制の軋みを生み出し、その軋みを解消するために、今まで律令制の水面下に潜っていた伝統的価値観が表面化してくることになるのです。すなわち、天皇の地位が血統優先であるのなら、他の職掌もまた血統優先であっていいのであり、こうした本来は律令制とは相容れないはずの大和朝廷時代さながらの世襲的な支配・従属関係が形を変えて甦ってくることになるのです。

また、律令制の進展によって地域の伝統的氏族共同体の在地首長制が弱体化するにつれて、伝統的な貢物の系譜を引く人頭税である租庸調の徴収が上手くいかなくなっていきました。まず調や庸の滞納や遅れが多くなっていき、その穴埋めのために租として各地の郡家に集積されていた稲が中央政府によって流用されていくようになり、その上、各郡においても共同体の権威の失墜によって租の稲が勝手に流用される事態も多発しました。
こうして租庸調の徴収率が悪くなっていくと、中央政府の財源は不足します。しかし中央政府では8世紀後半以降は官人の数がどんどん増えて人件費の出費が膨らみ、それに見合った財源を帳簿上で帳尻を合わせるために官僚の悪弊として戸籍の虚偽記載も多くなり、そうして戸籍がおかしくなってくると、班田もまともに出来なくなってきました。また財源として745年に設定された公廨稲の制度が多用されるようになり、国司やその周辺の有力者の収入を確保するために公出挙が農民に対して強制的に頻繁に課されるようになっていきました。
そのようにして税を督促された人々は首が回らなくなって逃亡してしまったり、墾田を貴族や寺院などに売り払ってその代価で納税したりするようになり、貴族や寺院などが次第に大規模土地所有者となっていきました。こうした大土地所有者がまた新たな土地を開墾していくことによって税収は増えますから、政府としても目先の財源不足を解消するために大土地所有を奨励していきました。そして実際これによって税収は増えて財政は潤ったのですが、しかしここに逃亡した農民、こういう戸籍を離れた者を「浪人」と言ったのですが、浪人が大土地所有者の下に吸収されていったので、これは律令制の根幹となる戸籍制度を掘り崩すものであり、道鏡政権では一旦これを禁じたのですが、道鏡失脚後は再びこれを奨励するようになり、いつしか班田制を維持するのも困難な状況になっていったのです。
このような各地における大土地所有者の出現は、もともと大和朝廷時代に中央豪族が地方勢力と個別の利害関係を築いて私有地や私有民を有していた体制、いわゆる「部民制」といわれていたシステムを対外脅威に対応するための軍国体制維持のために水面下に封印していたものが、水面下で息づいていて、その担い手を新たにして、新たな私有地や新たな私有民を得て底流で復活しつつある姿であったといえます。
このように安定成長の頂点で律令制が行き詰まりを見せ始めた頃、対外情勢に大きな変化が現れることになるのです。

752年に天平勝宝の遣唐使を送り、その帰りの便に乗って754年に鑑真が来日して以降、しばらくの間、日本と唐の間の交渉は途絶えました。それは755年に勃発した安禄山の乱によって唐の国内が混乱し、日本側からは何度か使節を送ろうとしたのですが、ことごとくその目的を果たせなかったのでした。
その間に日本では恵美押勝が新羅征討計画を立てましたが762年に中止となり、翌763年に安禄山の乱も終結しましたが唐の国内の混乱はしばらく続き、またちょうどその頃から今度は日本国内で政変が打ち続くようになり、764年に押勝が失脚し、それに替わった道鏡が今度は770年に失脚し、称徳天皇に替わって即位した光仁天皇の治世下で草壁系の他戸親王らの勢力が葬られたのが775年で、だいたいこのぐらいになってやっと政治状況が落ち着きましたが、このあたりまでは遣唐使を送る余裕はありませんでした。
また同じ頃、実は隣国、日本とは外交関係の中断していた朝鮮半島の新羅においても政情不安定になっており、765年に即位した36代の恵恭王の時代には王宮においては、唐に倣って律令制の基づいた中央集権官僚制をいっそう推進していこうという律令推進派と、律令制の徹底を嫌い伝統的貴族の既得権を守っていこうという貴族連合派の対立による内紛が頻発するようになっていました。日本においても同時期に同じように、律令国家文明の流れと王権国家文明の流れというような2つの方向性の相対する状況はあったのですが、日本の場合、これが水面下で融合することが多かったわけですが、朝鮮半島においては決定的な対立となって表面化する傾向が強いようです。

さて政治状況の落ち着いた日本のほうでは777年にようやく遣唐使を派遣することにしました。これが宝亀の遣唐使ですが、この時の唐は安禄山の乱の末期に即位した代宗の治世で、国政は宦官に壟断され、安禄山の乱の鎮圧のために反乱軍の頭目たちに裏切りの代償に節度使の地位を濫発したため、地方は軍閥化した節度使によって支配されるようになってしまい、また安禄山の乱を鎮圧する際に北方遊牧民のウイグルの力を借りたために唐はウイグルに貢物をしなければいけなくなり世界帝国としての権威を失墜し、その貢物の過重なために財政は逼迫し、ウイグルや、チベットの吐藩などにも押されるようになってしまい、すっかりかつての世界帝国の面影は無くなっていました。
そもそも日本が苦労して対等外交の形を作ってまで遣唐使の派遣を続けていたのは、唐から律令制を学ぶためであり、なぜ律令制を学ぶのかというと、律令制で唐に負けない強国となって唐からの脅威を撥ね返すためでした。しかし、この宝亀の遣唐使の見た唐からは、既に学ぶようなものは見受けられませんでした。それは日本が一通り、律令制に関して学び尽くしてしまったということも理由ではあると思いますが、既に唐がお手本としての魅力も実力も喪失していたことが最大の理由でしょう。いや、お手本でないだけでなく、この時の唐は日本にとって脅威ですらなくなっていたのでした。唐という脅威が無いのならば、そんなに必死になって律令制を学ぶメリット自体が無いのです。
メリットが無いどころか、この宝亀の遣唐使は日本にとって唐との外交のデメリットまで感じさせるものでした。この遣唐使が778年に日本へ帰国する際に、唐から日本への使者が同行することになったのです。これはかつて無いことで、おそらく世界帝国としての自信を喪失気味であった唐王朝としては、むしろ日本に対して丁寧な対応を心がけたつもりであったのでしょうが、日本にとっては有難迷惑な話でした。対等外交といっても日本側が勝手にそう解釈しているだけのことで、唐側としてはあくまでシナ皇帝こそが地上唯一の支配者であるのですから、唐の使者を迎える時は天皇は玉座から下りることを要請されます。それを断ると唐の使者との間でトラブルとなりますし、かといってそれを受けてしまうと天皇の国内的権威に疵がつきます。
結局、光仁天皇はこの時は玉座から下りて唐の使者と対等の位置で面会したようですが、こんなことが恒例化するのは日本側としても歓迎すべからざることで、こんな面倒事がついてくるのならば、別に無理して遣唐使など送る必要は無いのではないかという考え方が出てきました。そもそも遣唐使船の往復においては難破漂流が非常に多く、だいたい乗船していたのは国家の宝ともいうべきエリートばかりでしたから、国家的損失は結構大きかったのです。そんな犠牲を払ってまで続ける意味は遣唐使には薄くなってきました。
この時に皇太子であった山部親王、つまり後の桓武天皇もそのように考えたのではないでしょうか。桓武天皇の781年からの治世においては最晩年の804年の延暦の遣唐使まで、ずっと遣唐使の派遣は行われていません。延暦の遣唐使にしても、これは律令制の摂取が目的であったというよりは、早良親王の怨霊を恐れた桓武が密教の導入を最澄に期待したというのが主な動機であり、かつての遣唐使派遣とは意味合いがだいぶ異なっています。おそらく密教導入という目的が生じなければ桓武は遣唐使を派遣するつもりは無かったのではないでしょうか。

一方、日本に唐使がやって来た778年の翌年779年には新羅の使者が久しぶりにやって来て日本への朝貢外交を復活させました。これは、内紛続きで政情不安が続く新羅政府が、ただでさえ内憂が絶えないのにその上に日本との敵対関係を続ければ日本が内紛に介入してくるのではないかという不安を抱き、日本を懐柔する意味で行ったことでした。
結局この新羅の内紛は翌780年に恵恭王が母方の従兄弟にあたる金良相によって殺害され、金良相が王位に就いて37代の宣徳王となるという展開を迎えました。金良相は4世紀後半の17代目の新羅王の傍系の9世孫の貴族が33代の聖徳王の王女と結婚して生まれた子であり、本来は王位を継承できるような血筋ではありませんでした。この36代の恵恭王の殺害によって、6世紀終盤に朝鮮半島を統一した29代の武烈王(金春秋)の子孫の王統が絶えることとなり、王統が傍系に移ったことになります。何やらほぼ同時期の日本と同じようなことが起きていたわけですが、その後の展開は日本の場合とはだいぶ違い、宣徳王は正統性を認められず求心力を失い、その後は王位継承争いが激化して反乱が頻発する時代となり、そうした王位争いに敗れた王族や官僚らが地方に逃れて地方勢力を結んで新興豪族となり、反乱を頻繁に起こすようになりました。9世紀の新羅はこうした地方豪族の反乱が頻発する無政府状態の時代となり、それらの地方豪族の中の有力なものが後百済と後高句麗を立てて新羅から独立し10世紀初頭から後三国時代となり、918年に後高句麗の武将の王建が高麗を建国し、936年にその高麗が他の三国を倒して朝鮮半島を再統一することになるのです。
それはさておき、779年に新羅からの朝貢再開を受けた日本政府は、これで新羅を屈服させることに成功したと解釈し、更に調子に乗って明確な形での臣従をも求めましたが、これにはさすがに新羅も反発し、また新羅国内の混乱のせいもあり、新羅との国交は停滞することになりました。しかし新羅国内の混迷が進み、無政府状態になるにつれて新羅との外交自体が無意味なものになっていきました。新羅との民間交易は継続されていきましたが、とにかく新羅が日本にとっての大きな脅威となるという事態は想定できなくなりました。その上、唐も日本侵攻はおろか朝鮮半島へ勢力を伸ばすことすら不可能な状態であると判断されたので、これで強大な大陸勢力が朝鮮半島を支配下にして日本列島へ脅威を及ぼすという事態を心配する必要がほとんど無くなりました。そうなると、わざわざ斜陽になった唐に遣唐使を派遣する必要性も薄くなってくるのであり、こうして日本は東アジアの国際社会から徐々に距離を置くようになっていったのです。

このようにシナ大陸や朝鮮半島方面からやって来る軍事的脅威というものを考えなくても済むようになれば、わざわざシナ大陸や朝鮮半島へ出かけていって戦うための軍団兵士制の20万もの大軍団を維持していく必要性は低くなります。なんといってもこの大軍隊の維持費は馬鹿になりませんし、民の負担も大きく、この軍団を減らせば民の生産性も上がり税収も増え、余計な支出も減りますから国家財政は潤うと予想もされました。また、このような大部隊が全国各地に存在するということは、それが反乱軍に転化する危険も同時に抱えていることになり、政府にとっては危険なことでした。そうした危険を抱えながら軍隊を維持していたのは外征の日に備えてのことであったわけですが、その外征の必要性が無くなった以上、そんな危険な軍団はさっさと廃止してしまったほうが得策ということになります。
そこで朝廷は780年に畿内から逃れた反逆者が東国の兵力のもとへ走るのを阻止するための愛発関、不破関、鈴鹿関の三関の守備兵力と辺境地域以外の軍団兵士制の縮小措置を講じました。すると人々は徐々に軍団兵士制を施行した当初に存在した対外的脅威が消滅したことを悟るようになり、誰もわざわざ必要も無いのに重い負担を負って兵士役を果たそうとはしなくなり、軍団兵士制への廃止圧力は全国的に強くなっていきました。
そして桓武天皇の時代になり長岡京造営工事が行き詰まりを見せる中、789年には三関が廃止され、792年には蝦夷と対峙する陸奥国と出羽国、そして対馬海峡の防備を担当する大宰府管内の軍団を除いた軍団兵士制が廃止されました。蝦夷征討はまだ続いていましたから陸奥や出羽の管内の軍団はまだ必要であると判断され、また、まだ新羅情勢が不透明でもあったので大宰府管内の軍団も残しておいたわけですが、それらへの対処に全国の軍団の兵士を集結させて20万人もの兵力の動員をかけるような事態はもうあり得ないと判断されたのでした。また、東国に軍団が存在しなくなるとしたならもう三関の存在意義も無くなるというわけです。
そして805年に蝦夷征討の中止が決定され、それを受けて811年にはようやく蝦夷との大規模戦闘も終わりを迎え、その後は陸奥国と出羽国の軍団も廃止され、813年には「中外無事」が宣言されて太宰府管内の軍団兵士を半減し、826年にはそれも全廃し、ここに至ってとうとう律令制下の軍団兵士制は完全廃止されることになったのでした。

もちろん、こうして全廃されたのはあくまで国外戦闘用の軍団兵士のほうであり、国内治安維持のためのシステムまで放棄したわけではありませんでした。792年の陸奥出羽大宰府以外の全国の軍団兵士制廃止の際に同時に「健児の制」が定められましたが、これは富豪で弓馬の術に秀でた者を徴発して治安維持にあたらせるというもので、要するにこれは、律令制下で緊急治安維持要員として武芸に秀でた公民が登録されて準備されていたという状態を再確認して制度化したものでした。
朝廷としてはこの制度で8世紀は治安維持が出来ていたのですから、引き続きこのシステムで通用すると考えたのでしょう。しかし、中央集権体制がほぼ安定して機能していた8世紀においては実際はこのシステムが発動するような事態そのものがほとんど起きていなかったのであり、だからこそ通用しているように見えたのでしょうけれど、これら「健児」たちはあくまで片手間で治安維持にあたるボランティアであり、武芸訓練などを専門的に受けるシステムも時間的余裕も無かったのです。真に彼らの実力が必要とされるような事態が発生してみないとこの治安維持制度が通用するか否か不明であるというのが実情であったのです。そして、9世紀には彼らの実力が試されるような事態が8世紀には想像も出来なかったほど頻発するようになり、結果的にはこのシステムでは治安維持は不可能であるということが露呈してしまうのでした。そこから「武士」という身分が生まれていくプロセスが始まることになるのです。

では、なぜ9世紀にはそのように8世紀には通用していた治安維持制度が破綻してしまうほどのトラブルが頻発するようになったのかというと、それはこの軍団兵士制の廃止が原因なのです。つまり、そもそも律令国家というものは軍団兵士制を維持するために建設されたのであり、日本人は本当は律令制による細々とした締め付けや負担は歓迎していなかったのですが、海外の脅威に対応するための軍団兵士制を維持するためということで仕方なく律令制を受け入れていたのであり、既にこの8世紀終盤の時点では律令制には上記したように様々な行き詰まりが生じてきており、ただ一点、対外脅威への対応のためという意味においてのみ持ち堪えていたようなものだったのです。
そういう状態のところに792年に軍団兵士制が廃止されたものですから、これまで何とか堪えてきた一線を越えてしまい、律令制の細かなルールをいちいち守らなくてもいいという風潮が広がるようになっていったのです。軍団兵士制が廃止されるのならばその運営のための膨大な経費は不要ということになり、全国の富を中央に集める中央集権的な行政制度も不要ということになり、それを動かす官僚機構も律令法も都城も不要ということになります。それらを支える人頭税的な租税システムである租庸調は既に形骸化が始まっていましたが、これによってますます形骸化が進み、徴税の未進や遅れが当たり前のようになっていきます。
また、この律令国家を支えていくために戸籍で人民を管理して班田収受を行って生産性を高めていくことになっていたのですが、軍団兵士制を廃止するのなら、別にそこまでして生産性を高める必要を人々は感じなくなっていきました。「豊かになったほうが人民だって幸せだろう」というのは為政者側の言い分であって、人民はそれほど豊かでなくても、そこそこ食っていけて、煩わしい租税や労役などが少なくて気儘に呑気に暮らしていけるのであれば、いっそ口分田など支給してもらうよりも何処かの有力者の小作人になってしまったほうが楽だと考えるものなのです。
要するに、それまでは対外脅威を合言葉にしてみんながそれぞれの個人的欲望は我慢して軍国体制を維持して平等に貧乏に耐えていたのですが、軍国体制を維持する必要が無くなったことをきっかけにして、一気にタガが外れてしまい、みんなが自分の欲望を追求し始めてしまい、自由競争が公認されるようになり人民の中で貧富の格差が広がるようになっていったわけです。
もちろん軍団兵士制の廃止によって経費削減につながる事は政府も予測していたでしょうから、租税の徴収が滞った状況が続いたとしても、むしろ経費削減の分のほうが上回り、租税未納分を吸収してしまい国家財政的には余裕が生じると予想していたのでしょう。それは人民個々の欲望と律令制への潜在的違和感を過小評価した甘い見通しであったと言ってよいでしょう。実際には軍団廃止による経費削減分を一気に食い潰してしまうほどの租税収入の激減を引き起こし、一気に律令政府は慢性的財源不足状態に陥り、律令国家は機能不全に陥ったのでした。

792年の軍団兵士制の廃止後、租税や労役を逃れるために本籍地を離れて戸籍の支配を脱した「浪人」と呼ばれる人々が激増するようになり、また同様に戸籍の支配を逃れて口分田の班給を必要とせず、自らの資産を活用してこうした「浪人」たちを雇い入れて広大な墾田を経営する人々も現れてきました。こうした人達を「富豪浪人」といいまして、もともとは私有地を開墾していた大土地所有者であった貴族の子弟たちなどだったのですが、単に土地を所有するだけではなく、自らも本籍地を離れて自分の所有地に土着するようになった人達でした。本来はそうした人達を取り締まらねばならない立場の国司の子弟の中にも、「富豪浪人」と癒着して任期終了後にはそのままその土地に留まり自らも「富豪浪人」の仲間入りをする者も多くなりました。
このような「浪人」や「富豪浪人」が増えてくると戸籍制度は有名無実と化してきて、租庸調のような人頭税の徴収は困難になってきます。そこで財源として期待されるのが正税として集めた稲を貸し付ける公出挙制度ですが、公出挙は本来は強制ではないのが建前で、それが事実上の強制貸し付け制度として機能していたのは国家権力を背景としていたからであり、そもそも国家権力から自立的な存在である「浪人」や「富豪浪人」には公出挙を強制貸し付けすることが困難です。
そこで795年には郡の役所に一括保存していた公出挙の原資となる正税稲を各郷に郷倉を作ってそこに分散移管する方針が定められました。この郷倉を管理していたのは国の役人ではなく各郷の有力農民、つまり「富豪浪人」たちであったので、要するに官の事業であった公出挙事業を民間の「富豪浪人」たちに移管したということで、一種の「官から民へ」という流れであり、政府事業のアウトソーシングであるといえます。
このようにして正税稲が有力農民である「富豪浪人」の手元に預けられるようになり、それを原資とした公出挙の規定の利子分だけ国司が回収することにして後は富豪浪人たちの自由裁量に任せるということにすれば、富豪浪人たちはその正税稲に自分の私的な稲を合わせて原資として、公出挙よりも更に高利な「私出挙」を営んで自分の支配下の小作人や周辺の農民らに稲を貸し付けることで利益を得ることが出来るようになります。
浪人が増えすぎて、このようにでもして富豪浪人を抱きこんでいかなければ出挙事業は実施不可能になっていたのであり、これによって国司は出挙の利子分は確保でき、富豪浪人は財産を増やすことができ、小作人となっていた浪人たちも租庸調や労役のような人頭税の負担から逃れることが出来るのならばやや高利の私出挙の負担に耐えることの方が得だと感じていたのでした。しかしこの措置は国家による高利貸しの容認であり、本来は福祉事業であったはずの出挙制度のこうした変質はハッキリ言って窮乏農民の切捨て政策であり、農村における貧富格差の拡大を大きく助長するものでした。
しかし、それにしてもこの出挙の原資となる正税稲というのはもともと租で集められたもので、富豪浪人をはじめとする農民たちから徴収されたもののはずです。それが富豪浪人の手元に常に預けられた状態とされるということは、租で集められた稲は事実上、民から官の手へ移動していないということになり、移動しているのは出挙の利子分のみということになります。これは事実上の租という税制の破綻であり、出挙制度の根本的な変質でもあるといえるでしょう。ここから税制の大転換が始まっていくのです。

こうした律令税制の大きな環境変化を受けて、律令政府は「浪人」の存在を公認することにし、「富豪浪人」の存在も黙認されるようになります。それまでは建前上それらは存在してはいけないものとされて取り締まられるかあるいは無視されていたのですが、これらは存在が公認されるようになったのです。それは言い換えると、これら「浪人」や「富豪浪人」を公民に戻すのではなく、彼らを「浪人」や「富豪浪人」の立場のまま本格的に課税対象として扱っていくということであり、公民も浪人も区別なく課税していくようにしなければ財政が立ち行かないという現実に屈して、とうとう政府が戸籍制度の維持を半ば諦め、律令制の根本的変更を決断したということでした。
戸籍制度がこうして半ば破産したことによって班田制も維持できなくなり、800年に全国一斉班田が行われたのを最後にして、これ以降は全国一斉の班田は行われなくなり、班田は国司に一任されるようになりました。やがて国司による班田も行われなくなり、富豪浪人たちは高利の私出挙による債務の取立てで窮乏農民からの田地集積を進めるようになり、そうして支配下に組み込んでいった小作人たちと私的隷属関係を形成するようになり、9世紀には大規模な私営田経営を展開する「富豪層」に育っていくことになります。
こうした富豪たちは自分の配下の小作人たちと円満にやっていくため、またより多くの小作人や田地を得るために他の富豪たちと競合していかねばならないわけで、そのためには私出挙の利率を下げるなどの優遇措置を小作人に示す必要があり、そのためには国司に納める公出挙の利子相当分やその他の国司の要求してくる様々な租税の負担を出来るだけ減らす努力をしていく、つまり脱税闘争に血道を上げるようになっていくのです。そのためには各地の富豪たちは朝廷で力を有する有力貴族などと結託して、例えば免税特権のある役職の猟官運動を行うなどして、あらゆる手を使って国司や郡司の徴税活動を妨害するようになっていくのです。
そうした徴税妨害のための富豪による「あらゆる手」の中には9世紀に入ると武力を行使した暴力的活動も含まれ、頻発するようになっていき、それを取り締まるために国司は「健児の制」に基づいて緊急治安維持要員を出動させますが、この「健児」たちもまたその実体は富豪たちなのです。つまり、都の有力貴族を後ろ盾にした富豪たちが脱税闘争を起こし、それを国司を後ろ盾にした富豪たちが取り締まるという構図になっているわけで、同じような実力を有した富豪同士が抗争を繰り返し、しかも彼ら同士は大抵は知り合い同士で、裏では複雑な利害関係を持ち、極端に言えば、ある一件では取り締まる側にいた富豪が別の一件では取り締まられる側にいたりとかするわけで、これでは9世紀においてたちまち「健児の制」が機能不全に陥ったのも当然というものでしょう。この後、律令政府の政治課題はいかにして富豪層から租税を徴収していくのか、この一点に収斂されていきます。

こういう状況が裏で進行していたわけですから律令政府は財源不足が慢性化することになり、8世紀末から9世紀初めにかけて平安京造営や蝦夷征討の事業が行き詰っていったのです。しかしこのような「造都」や「征夷」のような事業は、まさに「帝国」を「帝国」たらしめる根本的な事業のはずで、それが行き詰まり放棄されるというのは、つまり日本という国が「帝国」であることを放棄したということになります。
それもそのはずで、そもそも大陸や半島からの脅威が消滅した時点で日本は無理して「帝国」であり続ける必要は無くなったのであり、そしてそれを受けて792年に軍団兵士制を廃止した時点で日本政府は「帝国」であることを放棄したのであり、その後の律令制への一連の反抗活動を通して日本の人民たちも「帝国」的な価値観への拒否の意思を表明していたのです。
そうした中で桓武天皇だけが頑張ってシナ帝国の皇帝のような「帝王」の正統性を追求していても仕方ないわけで、既に「帝王」などは日本においては不要になっていたのです。そんな「帝王」ですから簡単に怨霊にも負けてしまうのは当然で、桓武以後の天皇たちはそもそも日本オリジナルの「帝王」である天武天皇の血統を引いていないわけですが、これで無理に新たな「帝王」の正統性を追求するという努力をする必要も無くなり、逆にまた、「帝王」という正統性を放棄した上で、「天皇」という地位にそれに代わる新たな正統性を付与していく試行錯誤を開始していくことになるのです。
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ハンズオンとは、投資ファンド等が企業に投資するにあたり、実際に経営に参画することを意味する http://adhibit.ellingtonrecords.com/

【2008/12/14 14:04】 URL | ハンズオンで中高年の転職 #- [ 編集]



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