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日本史についての雑文その332 薬子の変
だいたい800年ぐらいから825年ぐらいまでが律令国家文明の改革期の前期にあたり、8世紀末の律令国家文明の修正期後期において行き詰った律令国家文明を再生させるための試行錯誤が繰り返される時代ということになります。まずこの時代の前半は、8世紀末に引き起こされた混乱を引きずって、その収拾に追われることになります。
前の時代から引き継いできた混乱の当面の最たるものは平安京の造営と蝦夷征討戦争でした。これについては805年に桓武天皇が中止を決定し、平安京造営は即時中止、蝦夷征討に関しては811年あたりまでに順次収束させていき、813年には嵯峨天皇によって「中外無事」が宣言されて太宰府管内以外の全国の軍団兵士制が廃止されるまでになります。だいたいこのあたりまでがこの改革期前期の前半に相当します。

しかし、前の時代から引き継いだ混乱は、そうした表面的事象だけではなく、草壁系皇統の時代から引き継いだ、政情不安定を生み出す制度的欠陥も克服せねばいけない根本的な問題点でした。こういう問題点を克服して天皇の地位をとりあえず安定化させるためにも、この時代は費やされることになります。まだまだこの時代の最初のほうは政治的動揺が続くことになります。

806年3月の桓武天皇の死去を受けて、直ちに皇太子が即位して平城天皇となりました。平城天皇は藤原式家の良継の娘の藤原乙牟漏と桓武天皇の間に生まれた長男で、早良親王の怨霊の祟りを受けて(?)病弱で桓武天皇を心配させた安殿親王の成長した姿です。即位時は32歳でした。
この平城天皇、すなわち安殿親王は早良の怨霊のせいというわけでもないでしょうが、病弱なだけでなく性格的にもやや神経質な部分もあり、どうやら皇太子時代から父親である桓武とは反りが合わなかったようで、桓武にとってはそういう部分での心配のほうが大きかったようです。まぁ桓武という人も生来の陰謀家であり、やっていることも度重なる新都造営や蝦夷征討など無茶なものも多く、とにかくアクの強い人でしたから息子の安殿の目から見ても反発したくなる要素も多かったことでしょう。こういう父子間の不和もあって桓武が死ぬまで譲位出来なかったという事情もあったようです。
その桓武は皇太子の安殿のために最初は藤原式家の藤原百川の娘の帯子を妃としてあてがいました。百川は桓武天皇の皇位簒奪時の功臣であり、その娘で帯子の姉にあたる旅子は桓武の妃で大伴親王(後の淳和天皇)を産んでいましたし、また百川の兄の良継の娘が安殿の生母の乙牟漏でありましたから、この桓武を中心としたロイヤルファミリーの一員である帯子に安殿の跡継ぎを産ませたかったのが桓武の本音であったのでしょう。
しかし安殿はこの帯子とあまり睦まず、身分の低い妃のほうを寵愛し、葛井藤子という妃との間に阿保親王、伊勢継子という妃との間に高岳親王を設けていました。ちなみにこの阿保親王の息子が「日本第一の美男」といわれた六歌仙の一人、そして「伊勢物語」の主人公でもある在原業平です。
そのようにして帯子に子供が産まれないまま、794年には帯子が亡くなってしまい、業を煮やした桓武はその後、藤原式家の更に若い娘を安殿にあてがおうとして百川の甥の藤原縄主の長女を安殿の妃にしました。ところが安殿はこの娘と共に後宮に高級女官として入ってきた娘の母親、つまり縄主の妻と不倫関係になってしまったのです。この縄主の妻の名は藤原薬子といいまして、785年に暗殺された長岡京造営長官の藤原種継の娘でした。
種継は縄主の従兄弟で同じ藤原式家で、暗殺されるまでは式家の棟梁のような立場であったのですが、785年の種継暗殺時にその跡継ぎの仲成はまだ幼少であり、その後桓武は長岡京への愛着を無くしていくにつれて種継の家系も何となく疎んじて使い捨てにしたような形となっていました。その種継の娘で仲成の妹の薬子が縄主の妻になっていたのですが、その薬子が安殿と不倫関係になったのは、同じように桓武の陰謀のとばっちりを受けて早良親王の怨霊の恨みを受ける羽目になった被害者同士の共感する部分があったのかもしれません。安殿にとっては義理の母親にあたる薬子ですが、兄の仲成が安殿と同い年ですから、薬子は安殿より少し年下であったようで、二人は男女の仲になってしまったようです。
これを知った桓武天皇は激怒して薬子を東宮から追放したのですが、ほどなく806年に桓武が死去して安殿が即位して平城天皇となると、平城は薬子を呼び戻して「尚侍」という、常に天皇の傍に仕えて諸臣との取次ぎを行う女官頭の地位に就けました。つまり諸臣は薬子を通さねば天皇と話をすることも出来ず、薬子は天皇の勅令を自由に出すことの出来る絶大な権力を持つことになったのです。そして平城は即位すると、既に亡くなっていた藤原帯子に皇后位を追贈し、生きている妃の中から皇后を選びませんでしたが、これはつまり、実質的な皇后、後宮のナンバーワンは薬子であるということでした。この不倫関係を継続するために平城は薬子の夫の縄主を大宰府に左遷してしまい、薬子の兄の仲成を重用しました。

このような有様でしたから平城にはしっかりした後ろ盾となる外戚を持った跡継ぎの皇子がおらず、仕方なく即位と同時に同母弟の神野親王を皇太子としました。神野親王は桓武天皇と藤原乙牟漏の間に生まれた第二子で、この時20歳で、兄の平城とは12歳離れた兄弟でした。薬子や仲成から見ても平城と同じく藤原式家の血を引く神野は身内のようなもので安心できました。
桓武天皇は27人も妃を持っていましたが、そのうちやはり有力であったのは藤原式家の出身の乙牟漏と旅子で、乙牟漏は平城天皇と神野親王を産み、旅子は大伴親王を産んでいました。しかしこの乙牟漏と旅子は早良親王の祟りなのかどうか分かりませんが788年から790年にかけて相次いで亡くなっており、藤原式家にはその時点で適当な若い女性がいなかったので、その後、桓武の寵愛は藤原南家の出身の藤原吉子に移っていきました。
藤原吉子の父親の藤原是公は恵美押勝こと藤原仲麻呂の弟であった乙麻呂の息子で、押勝の乱で藤原南家が没落した後も乙麻呂の家系は許され、是公は有能な官人であったので桓武に重用されており、後宮に娘の吉子を入れていたのですが、この吉子が783年に伊予親王を産み、是公は789年に没しますが、同時期に式家の乙牟漏や旅子が亡くなって桓武の寵愛が吉子に集まるようになると再び藤原南家が権勢を回復するようになり、式家と競合するようになってきていました。桓武がその晩年に最も愛した皇子はこの吉子に産ませた伊予親王であり、伊予親王自身が神野親王より3歳年長で、しかもなかなか英明な資質の持ち主であったので、薬子や仲成から見れば、真に警戒すべきは神野ではなく伊予親王およびその背後の藤原南家でありました。
そこで薬子と仲成は平城天皇の即位の翌年の807年に裏で画策して伊予親王に謀反の冤罪を被せて告発させました。これを受けて平城天皇は異母弟にあたる伊予親王とその母の吉子を幽閉し飲食を止めて殺そうとし、飲食を止められて死を覚悟した伊予と吉子の母子は毒を仰いで自殺したのでした。これによって藤原南家は完全に没落することになりました。もちろん、この一件には平城天皇は深く関与しており、さすがに寝覚めが悪かったのか、この後、平城は伊予親王の怨霊に怯えるようになり、自身が病気になったことをきっかけに809年に皇位を皇太子の神野に譲って平安京を退去して平城京跡地の平城宮に移ってしまいました。

兄である平城から皇位を譲り受けた神野親王は即位して嵯峨天皇となりましたが、この時点で23歳で、まだ有力な後見の見込める跡継ぎが産まれていなかったので、平城上皇が伊勢継子との間に設けた高岳親王を皇太子としました。一方、薬子や仲成と共に平城宮に移った平城上皇は勝手に勅命を出して平城宮の改築を行ったりして、平城京へ還都した上での復位を画策するようになりました。奈良時代から上皇というのは天皇と同等の権力を保持しており、勝手に勅命を出すことが出来たのであり、また復位も孝謙と称徳の場合のような前例もありました。平城上皇としては伊予親王の怨霊の発生した平安京には未練は無く、そもそも折り合いの悪かった父の桓武の執心していた平安京は平城にとっては嫌悪の対象であったのかもしれません。薬子や仲成にしても桓武に対しては良い感情は持っていなかったであろうし、平安京は亡き父の種継が命がけで造営した長岡京を捨て去って作られた忌むべき都でありました。
平城上皇にとっては平城京は幼い頃の母との思い出が多い懐かしい場所であったのでしょうし、長岡京にしても平安京にしても早良の祟りを引き起こして自分や母を不幸にした不吉な場所と思えたのかもしれません。平城から見れば平安京などは父の桓武が妄執で作ろうとして中途で放り出してしまったような都であり、それを自分が元の平城京へ還都して何が悪いのかという気持ちだったのでしょう。まぁ結局、桓武の強引な施策の反動がその子の平城によって発現することになったということでしょう。こういう因果応報的な展開を見ると本当に早良親王の怨霊が安殿親王に祟っていたようにも思えてしまいます。
一方、平城の弟で長岡京遷都の後に生まれた嵯峨天皇は平城京にも幼き頃に死んだ母にもそれほどの思い入れは無く、父の桓武についても晩年の苦悩する姿ばかり見てきたことによってそれほど悪感情は抱いておらず、現実的に考えて財政難の折に遷都など考えられず、平安京でやっていくしかないと考えていました。平城上皇が復位まで考えるようになったのは、嵯峨天皇にはこのように平安京から遷都する意思が無いと判断したからで、平城は自ら復位して平城京への還都を実現しようという気になったのでしょう。
こうした平城の勝手に勅命を濫発する態度を憂慮した嵯峨は810年には藤原北家の藤原冬嗣を蔵人頭に任じて、天皇から太政官への勅命の下達ルートを確保しようとしました。藤原北家は不比等の次男の房前を祖とする家系で光仁天皇の擁立に功が大きかったのですが、房前の子の永手や魚名が他戸親王や早良親王に近かったために桓武によって遠ざけられて冷や飯を食うことになっていました。冬嗣は永手の弟の真楯の孫で、嵯峨天皇は平城側の薬子や仲成に対抗するためにこの藤原北家の35歳の有能な実務官僚を抜擢して腹心として使うことにしたのでした。

蔵人頭というのはこの時に嵯峨天皇によって新たに設置された役職で、律令に規定されていない、いわゆる「令外官」というやつでした。律令には規定されていないけれども、現実には必要であるので現実に対応して新たに設ける官職です。
天皇の居住空間である内裏という場所はもともとは天皇以外の男子禁制の場で、江戸時代の大奥のような場所であったと考えればいいでしょう。ですから律令の規定においては内裏の中で天皇の身の周りの世話をするのは女官たちであり、その女官たちのリーダーが尚侍で、常に天皇に近侍して臣下と天皇の間の取次ぎを行い勅命の下達を行うという職務を独占していました。藤原薬子はこの尚侍であったのですが、本来は天皇に近侍していなければいけないはずの彼女が天皇を平安京に残して上皇と一緒に平城宮に行ったきりというのでは、天皇は臣下との遣り取りも出来ず非常に不便です。また、もし薬子の代理の女官が嵯峨天皇と臣下の間の取次ぎを受け持つことになったとしても、それはあくまで薬子の権限下での職務遂行ということになりますから、嵯峨と太政官との遣り取りは全て薬子に筒抜けということになり、それはイコール平城上皇にも筒抜けということになります。
嵯峨としては復位や還都を画策する平城への対応策を打っていかねばいけないわけですから、それがいちいち平城に筒抜けになっているのでは困るのです。そこで嵯峨は内裏の男子禁制の原則を破棄して、令外官である蔵人とそのリーダーである蔵人頭を新設して、その男性官僚である蔵人の官人たちが女官たちに代わって天皇に近侍するようになり、蔵人頭が尚侍に代わって天皇と臣下の取次ぎが出来るようにしたのです。つまり天皇と臣下の間に薬子に干渉されない第二の伝達経路を確保したわけで、これによって嵯峨は平城に悟られることなく密かに謀議を進めることが出来るようになったのです。
但し、これは蔵人頭を務める者が秘密を絶対に漏らさないということが前提でありますから、蔵人頭はよほど嵯峨の信任が厚い側近でなければ務まらないことになります。つまり藤原冬嗣という男はよほど嵯峨天皇に信頼されたということであり、この冬嗣から藤原北家の隆盛の基礎が築かれることになり、後にこの冬嗣の家系が摂関政治の担い手となり、栄華を欲しい侭にする藤原道長もこの冬嗣の家系から生まれてくることになるのです。

さて810年の9月6日には平城上皇はとうとう正式に平城京への還都命令を発し、これを認められない嵯峨天皇側は対抗措置としてすぐに藤原薬子の尚侍の官職を剥奪し、その兄の藤原仲成を逮捕し処刑しました。こうして兄である上皇と弟である天皇の実の兄弟同士の対決が露わになりましたが、東国へ入って兵を挙げようとした平城と薬子の行く手を先手を打った嵯峨の命で先回りした坂上田村麻呂の軍勢が遮り、観念した平城は出家し、薬子は毒を仰いで自殺し、還都命令から6日後の9月12日にはあっけなくこの事件は終息しました。
これを一般には「薬子の変」といいますが、実際には事件を主導したのは平城上皇であり、出家した上皇はその後は大人しく平城宮で暮らし、嵯峨天皇も上皇としてそれなりの待遇で接したようで、824年に50歳で没した際には「平城宮を好んだ」ということから「平城天皇」という追号を贈られることになりました。
嵯峨天皇はこの薬子の変を収めることによって朝廷の分裂状態を払拭し、平城京還都論を葬り去り、また高岳親王の皇太子を廃して平城上皇の影響力を完全に無力化し、新たに同い年の異母弟、つまり藤原旅子と桓武の子である大伴親王を皇太子に据えました。ここに政治的動揺はひとまず収束し、平安京を都とする時代が確定し、王権も嵯峨天皇のもとにとりあえず一本化されることになったのでした。ここまでが律令国家文明の改革期前期のうちの前半部分で、ここから24歳の嵯峨天皇の指導下で律令国家文明の再生のための試行錯誤が開始されていくのです。
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大使館とは、国際法上、本国の領地と同一とみなされ、国が選んだ特命全権大使が、駐在国で公務を行なう施設のことをいう http://farm.sentesag.com/

【2008/12/12 02:41】 URL | 57 #- [ 編集]



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