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日本史についての雑文その333 嵯峨朝の宮廷改革
つまるところ、律令制に代表される8世紀前半に確立された古代日本の統治システムは、シナ大陸から輸入したものを日本で実施していくために、幾分やっつけ仕事で微修正を施して、多少の不具合には目を瞑って強引に日本という国に押し付けてきたようなもので、元来日本の文化や伝統に合致したものではありませんから、8世紀後半になってその統治システムが本格的に軌道に乗ってくるにつれて、日本という国の現状に合致しない部分で軋みが生じるようになってきて、それが上は天皇の在り方から、下は租税の未納問題まで、様々な分野でのトラブルとなって表面化してくることになったのです。理念優先でやってきた国作りを現状に沿ったものに改める時期に差し掛かってきたといえます。
そうした諸問題への対処の試みは桓武天皇の時代から開始されており、桓武時代や続く平城時代にはその試みは現状に合致しない無駄な官司などを統廃合していく官制改革が主に行われました。これによって官僚機構の仕事の流れ自体は効率化はされましたが、統合された個々の官司はむしろ充実することになったので、官僚の総数は増え、人件費の出費は増えて、それを賄う財源が根本的に不足するという慢性的状況は積み残しということになりました。
本格的に統治システムの改革に手をつけることになるのは嵯峨天皇の治世になってからになります。それは810年の薬子の変を教訓として、天皇のリーダーシップの確立から手をつけられました。薬子の変のような事態が生じた原因としては、まず退位した天皇である上皇が天皇と同等の権力を保有していたことと、天皇と臣下との遣り取りを尚侍という高級女官が独占していたことでした。嵯峨天皇はまずはこの問題点への対処を行わねばなりませんでした。

もともと倭国の大王時代は大王というのは終身職でしたから大王は死ぬまで大王であり、「退位した大王」という上皇的存在というものはありませんでした。それが645年の乙巳のクーデターの後、イカシタラシヒメ大王が史上初めての譲位を行い上皇的存在が生まれることになったのです。これは倭国が中央集権国家へと脱皮していく動きの開始とシンクロしているのであり、つまり中央集権国家の統治者として王権を確固たるものとするために上皇的存在が必要になってきたということです。
何故そうなるのかというと、倭国の大王というのは首長霊を代々継承していく依り代的な側面を持っていたためであろうと思われますが、代替わりの際にかなり長期間に渉って仰々しい儀式を行うことになっており、その間、権力の空白が生じるようになっていたからです。大王が畿内の豪族連合の盟主的存在であった時代はそのような権力の空白もそれほど大きな問題も生じることはありませんでしたが、中央集権的な全国政権を志向するとなるとそういうわけにもいきません。そこで権力の空白を生じないようにするために、大王が生前に退位して前大王が存命中に新大王への継承儀式を終えてしまうようにしたのです。これなら新大王がまだ完全に大王になっていない間は前大王によって王権は保証されるわけで、権力の空白は生まれません。
こうした王権の在り方が天武天皇による古代天皇制度確立の際にそのまま受け継がれて天皇の王権をカバーする存在として「上皇」という存在が生まれたのです。また、この時、天皇が新天皇に譲位する前に急死してしまった場合の王権の空白発生防止のために天皇の正妻が通常から天皇と共治体制をとり、不慮の場合は天皇の代行を行えるというようにもしたのです。こうして「皇后」という存在も生まれ、それゆえ皇后は皇族に限るという原則も立てられたのです。

天武天皇以降の奈良時代の天皇というのは、こうした「上皇」や「皇后」に支えられて王権を空白を生じさせず維持してきたのでした。天武天皇は持統皇后と共治体制をとり、天武が譲位せずに死んだ後は持統皇后がそのまま天皇になり、持統天皇は孫の文武天皇に譲位して上皇となって文武を後見し、持統上皇の死後に文武天皇が譲位せずに没した時は王権の危機でしたが、文武の父で「幻の天皇」というべき草壁皇子の事実上の皇后であった阿陪皇女(つまり文武の母)が元明天皇として即位し、その元明天皇は娘の元正天皇に譲位して上皇となり元正を後見し、元正天皇も同様に甥の聖武天皇に譲位して上皇となり聖武を後見し、聖武天皇も晩年に娘の孝謙天皇に譲位し上皇となりました。孝謙も淳仁天皇に譲位して上皇となり、その後、淳仁を廃位して自ら天皇に復位して称徳天皇となり、そのまま譲位せず後継者も決めずに急死したのでした。その後、皇統が変わり、光仁天皇が即位し、光仁も生前に桓武に譲位しましたが桓武は譲位せずに亡くなり、その後即位した平城は嵯峨に譲位しましたが薬子の変を引き起こすに至ったのでした。
このように見てみると、奈良時代の前半は「上皇」や「皇后」は王権の継承において有意義な役割を果たしているだけでなく、天皇の後見人としての役割をも果たしていたことが分かります。ただ「皇后」に関しては聖武天皇の時代に非皇族の藤原光明子が皇后になったことによって本来の意義が喪失されるようになり、光仁天皇の皇后となった井上皇后は本来の意味の皇后に近い存在でしたが、これが謀略によって排斥され、天皇の共治者としての「皇后」の存在意義は失われました。
「上皇」については本来の意義は空白無き王権継承のためであり、天皇の後見人というのは奈良時代前期の政情不安定な時期はそれなりに意義はあったのですが本来は余分なもので、奈良時代後期以降は逆に天皇と上皇の二重権力状態を生み出し政局を混乱させる要素となってしまいました。孝謙上皇と淳仁天皇の関係、平城上皇と嵯峨天皇の関係は、まさにそうした悪い面が出たものでした。

また、光仁以降は明らかに譲位についての考え方が変化しており、光仁の譲位は体力気力の衰えによるものであるし、桓武は譲位はせずに没し、平城の譲位も怨霊を恐れて平安京から退去するためのものであったのであり、空白無く王権を継承するためであるとか、天皇の後見をするためであるとかいう意識はほとんど無くなっています。
これはどういうことかというと、草壁系皇統の断絶という教訓を得て光仁以降の天皇は即位とほぼ同時に皇太子を決めるようにしたからでした。逆に言えば、草壁系皇統においては皇太子が設置されない期間が多かったということになります。それは上皇や皇后の存在によって王権の継承がスムーズに行われるシステムが出来上がっていたために、草壁系の純血性に拘りが強かったことにより、あえて急いで皇太子を設置しないという風潮が蔓延し、そのために後継者争いが起きやすい環境を作ってしまい、政争でさらに後継者候補を減らしてしまい、結局は後継者不足によって草壁系皇統は断絶してしまったのでした。
それを教訓とした光仁や桓武は、即位と同時に後継者である皇太子を決めてしまい、政争の起こる余地を減らすことが得策であると考えたのです。もちろんそれでも政争は起きる時は起きるのであり、時にはせっかく立てた皇太子を廃するようなこともありますが、それでも最初から皇太子を立てないよりは立てておいたほうが次代の王権の軸が早いうちから出来て、余計な政争は減らすことが出来るのです。
皇太子を設置するためのハードルを下げるためには、まずは純血性への拘りを捨てることです。これは光仁の皇太子に最初は草壁系の他戸親王が就いていたのを非草壁系の山部親王に挿げ替え、その山部が桓武天皇として即位したことで達成されました。もともと光仁や桓武が天智の「神」の血は引いていても天武の「帝王」の血は引いていないということもあり、これにより草壁系皇統の縛りを脱して、天皇の血統は「神」たる天智以前の大王の血統に父系で連なっていればよいのであり、母系の血統は特にそれほどは拘らないという原則が出来たのです。
これによって以前に比べれば皇太子をかなり自由に選べるようになったのですが、このように母系の血統への拘りが減れば、妃も身分にそれほど拘らずに多く持てることになります。実際、妃が多ければ多いほど、皇子が生まれる可能性も高くなり、後継者の心配をしなくて済むようになります。そういうわけで桓武天皇などは妃を27人も持つようになったのです。
律令の規定では皇后1人、妃2人、夫人3人、嬪4人の合計10人が定員であり、しかも皇后と妃は皇族でないといけなかったので、明らかに桓武の場合は定員オーバーであり、そこで定員からはみ出た分は「女御」という身分呼称で呼ばれるようになりました。しかし天皇の母系の血統が特に皇族でなくてもいいとなると、こうした律令の妃内の身分設定自体が無意味なものとなります。実際、桓武は井上内親王と光仁の間に生まれた娘、つまり桓武にとっては異母妹にあたる酒人内親王というれっきとした皇族を妃としていながら、非皇族の藤原乙牟漏を皇后としています。また、この酒人内親王と桓武との間に生まれた朝原内親王も異母兄の平城天皇の妃となったれっきとした皇族でしたが、平城天皇は先述のように藤原帯子に皇后位を贈りました。この頃には皇族出身者が務めて天皇と共治体制をとるという「皇后」の姿は遠い昔話となりつつありました。

こうして多くの妃たちを抱えて多くの皇子に恵まれれば、確実に即位と同時に皇太子を設置することが出来るようになります。このように天皇の治世中において常に後継者としての皇太子が準備されている状況となれば、皇位継承の際の権力の空白が生じる余地も少なくなりますし、皇太子が即位して次の天皇となった後の前天皇の後見の必要性も少なくなります。しかも、桓武天皇の頃になると、律令制の浸透とシナ文化の影響力増加によって倭国時代の伝統を受けた王権継承儀式を含む宮中の儀式がかなり簡略化されるようになったため、皇位継承の際にそんなに長々と継承儀式を執り行わなくても済むようになり、先帝の死去あるいは譲位を受けてすぐに三種の神器が皇太子に移譲される践祚の儀によって王権継承が完了するようになっていました。
こうなると、皇位継承の際の権力の空白を埋めるために作り出された「上皇」という存在はほぼ不要なものとなり、ただ単に天皇と二重権力状況を作り出す厄介な存在となってくるのでした。そういった時に薬子の変は起きたのであり、まさにそうした「上皇」のマイナス面がもろに出たものだといえます。そこで薬子の変を収めた嵯峨天皇は上皇を政務処理の場から制度的に排除していくことにして、また、退位した天皇が上皇になるためには新天皇による太上天皇号の奉上が必要ということを規定し、仕上げとして823年の自らの譲位の際に「嵯峨上皇」は内裏から退去して嵯峨院に隠棲して「上皇は政務に関与しない」という姿勢の範を示すことにしたのでした。

また嵯峨天皇は父の桓武天皇以上の多数の妃を有しましたが、妃の制度も整備し、妃の中の身分を律令にある妃・夫人・嬪の下に正式に女御を加えた形で規定し、更にその女御を2つに分けて、相対的に高い階層出身の「女御」と相対的に低い階層出身の「更衣」を設けました。妃と夫人と嬪で計9人ですから、そこに収まりきらない者はみんな「女御」と「更衣」に分類されることになります。
さすがに出身階層の低いほうの女御から生まれた皇子は皇位継承は難しく、そういった皇子まで親王にして終生国費で養うのは財政的に負担が大きいので、出身階層の低い女性は「更衣」として分類して、「更衣」から産まれた子は皇族とはせずに臣籍降下して「源」の姓を与えて、臣下として天皇を補佐するようにしたのです。そして出身階層の高い女性は「女御」となり、その産んだ男の子は親王となり、女の子は内親王として、皇族として遇することにしたのです。
まぁ本来は「更衣」になるような階層の低い女性に手を出す必要性は無く、子供の養育費だけでも国費の無駄遣いであったわけですが、天皇も生身の男性であるのでこういうこともあるわけで、そのあたりを上手く処理して、これを逆利用して皇親氏族としての「源氏」というものを創設して、藤原氏に対抗し得る天皇寄りの宮廷勢力として育て、藤原氏と源氏を相競わせてバランスをとっていこうという天皇のリーダーシップ確立のために役立てようとしたのが嵯峨天皇の目論見であったといえます。
814年に源信ら男女八人の源氏が臣籍降下されたのが源氏の初例であり、この頃には実質的に「女御」と「更衣」の分離が行われていたと思われますが、正式に妃・夫人・嬪・女御・更衣という身分規定がなされたのは820年の「弘仁式」においてのこととなります。この後は実質的に天皇の妃は「女御」と「更衣」に分類されることになり、「女御」の産んだ親王の中から皇太子が選ばれ、皇太子を産んだ女御が「皇后」と呼ばれるようになるというだけのことになり、天皇の王権をカバーするための「皇后」という役割は消え去り、単なる形式的な役職になったのでした。

このように「上皇」や「皇后」という天皇の王権をカバーする役割で本来作られながらその本来の役割を果たさなくなってきて、むしろ政治的混乱の元になっていた権力を縮小して、唯一至高の権力主体としての「天皇」のリーダーシップを制度的に確立したのが嵯峨朝の成果であったといえます。
こうして810年の薬子の変を契機にして天皇のもとに権力を一本化して統治機構をシンプルにしていったわけですが、薬子の変の過程において設置された蔵人も、天皇が太政官に対して勅命の下達する権限を独占するために設けたものでした。しかし尚侍が勅命下達権を独占したために権力を壟断したように、蔵人頭も同様に権力を壟断する危険性はありました。ところが実際にはそういうことは起きなかったのは、蔵人以外の公卿が天皇の居住空間である内裏に伺候することが日常化したからでした。つまり天皇は蔵人を使って権力の独占を図ることは出来たのですが、蔵人が天皇を使って権力を独占することは出来なかったということで、あくまで主導権は天皇が握っていたことになります。
律令国家建設時においては天皇は大内裏の中央にある大極殿に出御して政務を執り、大極殿の南にある朝堂院に官僚たちが集まり天皇に意見を奏上し、天皇はそれに応えて勅命を下すという「朝政」が行われることになっていました。実際、最初はそのような執務が行われていたのでしょう。しかしおそらく聖武朝の頃にはある程度の政務や儀式は天皇の私的空間であるはずの内裏の中で行われるようになって、朝政は日常的に行われていたわけではないようです。
つまりそれだけ内裏に天皇がいることが多くなり、それに比例して内裏内で天皇に近侍して勅命を伝達する尚侍の権限が大きくなっていったわけですが、これが桓武朝以降、平安京に遷都して以降は朝政がほとんど行われなくなり、天皇がほとんど内裏内の紫宸殿で政務を執るようになりますと、公卿は内裏へ伺候することが許されるようになり、これが平城朝には制限されるようになり、それがために藤原薬子が権力を壟断したのですが、これが嵯峨朝には再び許され、これ以降は公卿の内裏伺候は日常化します。もちろん内裏に入ることが出来たからといって天皇に直接意見を申し上げられるわけではなく、取次ぎは蔵人が行うわけですが、天皇が公卿から隔離されているわけではないのですから蔵人が勝手に政治を壟断することは限度があり、結局、蔵人は天皇にとって使い勝手のいい側近という扱いになっていったのでした。
そのように公卿の内裏伺候が日常化すると、嵯峨朝の822年には内裏のすぐ東にある太政官候庁という建物で「外記政」という名で日常的な太政官の政務処理がなされるようになりました。このように政務処理の行われる空間や要員がコンパクトにまとまることによって、天皇は日常的に高官との間の遣り取りで高度な政務を効率的に処理し、高官を通じて官僚機構を統御できるようになり、政務処理の場においても強いリーダーシップを確立するようになったといえます。

嵯峨朝における天皇のリーダーシップの確立は、言い換えると天皇制度のシナ皇帝制度への接近でした。例えば「上皇」や「皇后」というような存在はもともとは日本独特のもので、それらを排して「天皇」が唯一至高の権力主体となるというのは、むしろシナ皇帝の制度に近づいているといえます。また政務処理をコンパクトにして官僚機構を高官を通じて掌握するというのも唐の皇帝と似た手法でした。
嵯峨朝においては宮中儀式の整備にも力が入れられ、「内裏儀式」が編纂され、更にそれに改訂を加えて821年にはこの年に右大臣に昇進した藤原冬嗣に「内裏式」を編纂撰上させましたが、その儀式の内容は唐風化されたものが多く、また宮中の諸門や殿舎に唐風の名称がつけられ、814年には日本初の勅撰漢詩文集である「凌雲集」、818年にはそれに次ぐ勅撰漢詩文集「文華秀麗集」が編纂されるなど、唐風文化が隆盛を迎えました。
このように見ると、嵯峨朝というのはシナ化の進んだ時代であるかのようにも見えますが、シナ帝国風の国家原理というものは日本型律令国家においては8世紀末に破綻したのであり、この9世紀の序盤という時代はそれに代わる王権正統化論理が模索されるべき時代であり、このシナ化はあくまで表面的なもので、王権を装飾したり洗練化し、コンパクトにするために有用であるという点において、前の時代の安定成長の遺産として活用されているのであって、このシナ化は王権正統化の根幹をなすものではありませんでした。
この表面的なシナ化の推進、つまり律令国家文明のいっそうの進展の陰で、むしろ始まっていたのは王権国家文明のエッセンスによる律令国家文明の日本化であり、具体的に言い換えれば、唐風文化の装飾を施した統治システムを正統化する根拠として伝統的王権の在り方がクローズアップされ、首長霊祭祀への回帰がなされるようになったということになります。そうして嵯峨朝の終わり、つまり律令国家文明改革期前期の終わりに、律令国家創業時の精神に立ち返り、新たな形でもう一度、律令国家を再生させようという試みが始まることになるのです。
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赤十字救急法救急員とは、日本赤十字社が実施する救急法救急員養成講習を受講した人に与えられる資格 http://garbo5.stepuptechnologies.com/

【2008/12/11 04:10】 URL | 57 #- [ 編集]



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