KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その334 顕幽相生体制
もともと天武天皇が作り上げた「天皇」という君主像は「神」たる天智の血統と「帝王」たる天武の血統を引くことによって正統性を保つ存在でありました。それが桓武天皇の代になって血統的には「神」たる天智の血統だけを引くようになり、「帝王」たる天武の血統は継承しなくなりました。そこで桓武は新たに「帝王」たる資格を得るために儒教的な君主像への接近を図りましたが、ちょうど8世紀末の日本は「東夷の小帝国」を維持する必要性を失おうとしていたために、そもそも「天皇」には「帝王」的な要素は不要になり、儒教的君主像や「帝王」的要素では「天皇」の正統性の根拠にはならなくなったのでした。それでも儒教的君主像、つまりシナ皇帝のような君主の在り方の導入そのものは桓武天皇のつけた道筋に沿って継続されて、それが嵯峨朝においては先述の「表面的なシナ化」という形になってきていたのです。
では「天皇」の正統性の根拠については、「帝王」的要素が不要なのであれば、残るは「神」の子孫たる天智の血統のみが「天皇」としての正統性ということになります。そこで桓武の晩年ぐらいから儒教的正統性よりもイワレヒコ以来の大王の血統に依拠する正統性のほうが重視されるようになってきます。その1つの現れが799年に各氏族に系図等を提出させて編纂を開始した「新撰姓氏録」で、これが嵯峨朝の815年に完成します。この「新撰姓氏録」では、天皇家の系譜はイワレヒコ以降、男系で繋げられて、その天皇家の系図のどこから分枝したかによって各氏族を序列化しています。
このような血統優先の考え方によって「天皇」の正統性が根拠づけられるようになり、そしてその皇統が男系継承で繋げられるというように規定されるようになったのは、桓武以降に皇統維持の必要性によってのことでありました。しかし、その男系継承の原則に基づいて一夫多妻制が押し進められ、嵯峨朝になって妃が女御や更衣によって構成されるようになり、奈良時代とは違い、妃の身分階層はそれほど拘るようなものではなくなってくると、天皇の純血性というものはだいぶ弱くなってきました。いや、もともと純血性というものに拘り過ぎたために草壁系皇統は絶えたのであり、桓武以降の皇統は、あえて純血性というものを軽視することを原則としていました。
しかし「天皇」の正統性が血統によって保障されるのだとして、それでいて天皇が代を重ねるたびにその純血性を弱めていくというのでは、「天皇」の正統性は代々薄らいでいくということになってしまいます。それを防ぐためには、やはり「神」の子孫であるという正統性だけでは足りず、さらにプラスアルファの要素が必要になってきます。かつての「帝王」の要素で補っていた分をカバーするぐらいの要素が必要になってくるのですが、それは血統的に補えないのであれば、やはり形式的なもので補うしかないでしょう。かといって儒教論理では日本の風土文化には合わないわけで、日本におけるそれは、やはり神道的なものが馴染むということになります。

かつての天武の作った「天皇」モデルは、「神」の子孫であり尚且つ「帝王」の子孫でもあるというものでした。そして桓武の目指して挫折した「天皇」モデルは、「神」の子孫であり尚且つ「帝王」の形式をも備えたものでした。そして、新たに平城朝や嵯峨朝になって立ち現れてきた「天皇」モデルは、「神」の子孫であり尚且つ「神」の形式をも備えたものであったのです。
それはつまりどういうものであるかというと、天皇は「神」の子孫であるというだけではなく、天皇個人が「神」そのものでもあるということです。その「神」とは記紀にあるような天神である「天照大神」ではなく、地上において活動して霊的活動を指導し、霊的能力を発揮する「生き神」的存在であるといえるでしょう。それでいて天照大神、つまり祖霊の子孫でもあるわけで、これはまさに、首長霊の依り代としての古代首長霊信仰の祭主たる大王像への回帰でもあるといえるでしょう。
但し、そこで大和朝廷の「大王」と比べて、平安京における「天皇」が違う点は、それに依り憑く神霊は古来の単なる代々受け継がれる首長霊ではなく、その9世紀初頭の時代において真に求められる神霊的能力を備えた「神」でなければならなかったという点でした。そして、その時代に求められていた「神」の能力とは、怨霊を鎮めることでした。
そして、この時代において怨霊鎮魂のための最先端の科学であったものは陰陽道であり、更に最先端の呪法は密教でした。密教については後述するとして、陰陽道は8世紀にシナの陰陽五行思想と日本の神道が習合したものでした。つまりこの時期、神道と陰陽道は非常に近い関係にあったわけで、神道も陰陽道からの影響を受けるようになりました。すなわち陰陽道の陰と陽の二極分化思想の影響を受けて、この9世紀初頭になると神道もまた変質して、もともと清浄性を尊ぶ傾向はあったのですが、事物を「清浄」と「不浄」の二極に分類して捉えるようになったのでした。

「不浄」なものというのは穢れたものや罪深いもの、死や病などの災いに関するものであり、悪霊、怨霊や魑魅魍魎の仕業とされ、これと対極にあるのが「清浄」なものであるので、善なる霊はこの「清浄」側に属するのであり、つまり「神」は「清浄」なものであることになります。そして「清浄」と「不浄」は相克する概念同士だから、「清浄」なる「神」は「不浄」なる怨霊を浄化し鎮める作用を持つことになり、逆に「清浄」なる「神」は「不浄」なものに触れることでその神聖性や霊力を損なうことにもなるのです。
つまり「神」は常日頃から不用意に「不浄」な物に触れないようにしてその「清浄」性を保つようにしておいて、いざ深刻な怨霊の災いが生じた場合にはその「清浄」性をもって怨霊のもたらす「不浄」を浄化し鎮めて中和する態勢を整えておかねばならないということになります。
天皇はそうした「神」となって、怨霊を鎮魂する能力が求められたのでした。そして、そのためには天皇はひたすら「清浄」であることを求められたのでした。そうした他人と隔絶した「清浄」性を持つことによって「天皇」は地上における「生き神」そのものとなり、それに「天神」の子孫であるという権威も加えて、この日本における「天皇」としての正統性を獲得することになったのでした。それは、まさに「天皇」としての正統性であって、もはや「王」や「君主」「帝王」としての正統性ですらありませんでした。「天皇」というのはもともとシナにおける神の呼称であって、「天神」の子孫であり「生き神」そのものである存在はもはや「神」そのものであり、人間界の為政者の1つ上の次元に立つ存在でした。つまり、この「天皇」に比定すべき存在はシナにおいての「皇帝」ではなく、むしろその「皇帝」に地上の支配権を与える天界の神である「天帝」のほうなのであり、「天皇」は地上にありながら地上の権力ではなく、地上の俗なる権力を超越し、俗なる地上の権力の支配権を正当化する「神」なのだということになります。
また、このように天皇の正統性に「生き神」的側面が加わることによって、血統が軽視されるということにはなりません。何故なら「生き神」的側面はあくまでプラスアルファなのであって、「生き神」であれば誰でも天皇になれるというわけではないのです。天皇の正統性は「神の子孫」でありながら「生き神」的能力も備えているという、両方揃っていなければならないわけで、そういう意味でイワレヒコの子孫であるというのは天皇の絶対条件であったのでした。それに、誰でもが清浄でありさえすれば「生き神」にまでなれるわけでもないのです。イワレヒコを通して天照大神にまで遡る「神の子孫」であり、大嘗祭を通じてその首長霊を代々継承している者にして初めて「生き神」となり得る素質を得ることが出来るのです。そうした天皇が更に清浄性を保つことによって、やっと「生き神」になれるのであって、他の血統の者ではその資格すら得ることは出来ないということになります。だからやはり天照大神の直径の子孫であるということは天皇の絶対条件ということになり、むしろその血統重視の傾向は男系に限定はされてはいますが、強化されたとも言えます。

このように清浄性を獲得することによって天皇は「神」となり、以前にも増した究極の権威となり、究極の正統性を得ることになったのです。いや、嵯峨朝においてはそうした理想状態へ向けての歩みが始まったのであり、まだまだ完全な清浄性を獲得するには至っていないのですが、そうした方向性は明確となる時代だといえます。大嘗祭の前に賀茂川で天皇が禊を行うようになるのは平城朝からであり、9世紀以降は鎮魂祭や仏教の加持祈祷の儀式においては国家鎮護ではなく天皇個人の魂の安定化を求めるようになり、これもつまりは天皇こそが「神」なのであり、天皇の魂さえ清浄な状態に保っておけば国家安泰に通じるという思想が底にあるのです。
また嵯峨朝においては薬子の変における藤原仲成の処刑以降、天皇の命令による死刑というものは行われなくなり、そうした死刑廃止方針は820年の弘仁格式で確認されます。これも天皇を「死」という穢れに関与させないようにしてその清浄性を保つための方策といえます。そして死刑の代わりに最高刑となったのが流刑ですが、流刑はその流刑地は畿内より外の地となります。その流刑地が畿内から遠くなればなるほど刑罰が重いということになり、罪が重いということはそれだけ不浄であるということですから、畿内より遠い地は不浄な者が流されるに相応しい穢れた地であるということになります。つまり畿内から遠く離れれば離れるほど穢れていくということになり、畿内の中心である平安京の更に真ん中に内裏があり、そこに天皇がいますから、究極の清浄である天皇を中心にして周辺にいけばいくほど不浄さを増していく同心円の上に国土が乗っているような世界観が成立することになります。
この同心円状の国土思想は、中心は清浄で周辺にいくほど不浄になるという点で中華思想と似通っています。しかしこの両者は決定的に違っています。中華思想の場合は、遠くの不浄な蛮族が従うことで皇帝の求心力が強まり、それは遠ければ遠いほど、不浄であれば不浄であるほど良いのですが、逆に、この同心円状の国土思想の場合は、遠くの不浄なものと触れることによって天皇の清浄性は損なわれて求心力が落ちていくことになります。つまり中華思想の場合は外へ外へ拡大していこうという傾向があり、侵略性が強いといえますが、一方、日本的な同心円状国土思想の場合は内へ内へ求心してくる傾向が強く、侵略性は無く、むしろ防衛的であるといえます。また、悪く言えば閉鎖的であり、外へ拡大していくための軍事力の効用があまり重視されないため、世界の現実とはかけ離れたおかしげな平和主義などが罷り通るような弊害はあるといえますが、島国ならではの事情で、こういう世界観が生まれたのだと思われます。

こうした国土観、世界観が成立したのが嵯峨朝ということになります。「天皇が神だ」などと御伽噺みたいなことを言っていると笑われるかもしれませんが、こうした世界観がこの後に世界でも独特の日本の国体観を生み出していくことになるのですから、そう馬鹿にしたものでもありません。
つまり、「神」として究極の清浄性を保たねばいけない天皇は、時代が下ってその清浄性が増せば増すほど、この同心円の中心たる内裏から動けなくなっていきます。嵯峨朝において天皇の政務空間が内裏を中心にしてコンパクトになっていくのはその初期的段階でもあるといえます。また死刑などの汚れ仕事が付き物の現実政治に関与できなくなっていき、そのために天皇に代わって現実政治を行う仕組みが天皇の周辺に形成されるようになります。それが摂関政治であるのですが、天皇に関わるそうした周辺権力もまた、天皇に関与することによって清浄性を求められるようになり、そうして時代が下るにつれて中心部の「清」の領域がどんどん拡大していき、とうとう周辺権力も現実政治に上手くコミット出来なくなってくるのです。
そうすると同心円の更に周辺の「穢」の領域から現実政治を担う勢力が勃興してきて、これが武家政権を形成することになるのです。そしてこの武家政権もそのうちに天皇との関わりが増えていくと「清」なる存在とならざるを得なくなり、それに比例して現実政治への対応力を失い、それに取って代わって新たに現実政治を担うべく勃興してきた勢力に実権を譲っていくということを繰り返していくのです。
そして、こうした数多の現実政治を担う俗世権力は、その権勢がいかに大きくなり天皇の勢力を凌ぐことになろうとも、決して同心円の中心部の天皇の座に就こうとはしません。何故なら、そこに就いたら現実政治を行う能力を失い、身動きすら出来なくなることを知っているからです。そのような過酷な職責に耐え得るのは天照大神の子孫として天神の加護を受けた天皇家のみであるというのが後の日本の常識となっていき、どのような氏族でも家門でも天皇家に取って代わるということはあり得ないようになったのです。そして天皇家は常にその同心円の中心において、その時代時代の俗世権力にその支配の正統性を付与する「神」のごとき存在として機能していくことになったのです。これが日本の国体ということになります。
言わば顕界の権力と幽界の権力の分離が日本の特徴であるといえます。もちろん、この嵯峨朝の当初においては天皇が顕界と幽界の両方の権力者を兼ねていたのですが、上記のような経緯で天皇は幽界のみの権力者として特化していくことになりました。この幽界の権力者は怨霊鎮魂を重要な仕事としていましたから、そのために必要な国家的な儀式を統括していくことになります。現代人の目から見て不可解に見える天皇の宮中祭儀などは幽界の王として極めて重大な意味のある行為なのです。
また、万葉集の部分で触れたように、また後で古今集の部分でも触れるように、和歌も鎮魂儀礼として重要なものであったので、それで天皇の命令によって編纂される勅撰和歌集が世界に類例を見ないほど膨大な量も編まれることになったのであり、貴族たちはその命令に素直に従ったのは、幽界の範疇に属する事柄については天皇の命令は絶対であったからでした。

こうして「神」としての究極の正統性を獲得した天皇のリーダーシップのもと、新たに律令国家を再生するための入り口に辿り着いたのがこの律令国家文明改革期前期、おおむね嵯峨朝時代の終わりであったといえます。
ただ律令国家の再生といっても、その入り口たる嵯峨朝において形成された同心円状の世界観における天皇のリーダーシップは、同心円の中心部である宮廷においてはコンパクトにまとまって強力なものにはなりましたが、同心円の周辺部の俗世にまで強く及ぶものではありませんでした。また、死刑を廃止したりして治安維持は大丈夫なのかというように、現実政治への関与という面でも不安を抱かせるものでありました。しかし、これは現代的な国家感覚に捉われた見方であって、日本の伝統的な国体観はそれとは異質なものとなります。
例えば嵯峨朝において死刑が廃止になったといっても、それは律令法の運用における天皇が命令する死刑が無くなったというだけのことであり、それぞれの地域社会ではやはり人を殺せば自分の死をもって罪を贖うという慣習法は生きていたはずであり、そうでなければ地域社会の秩序そのものが崩壊してしまうことは必至でした。
そういった刑罰執行も含めた治安維持も、たとえ律令制の軍隊が廃止されたとしても地域社会で自律的に行われていたはずです。例えば現代ならば確かに軍隊がある日突然廃止されたら民間人がそれを肩代わりすることは困難でしょう。現代の軍隊は装備も訓練も高度になされているし、それにひきかえ民間人は武器はおろか格闘術すら馴染みがなく、軍人と民間人の能力に開きがありすぎるからです。
しかし8世紀末に律令制軍隊が廃止された際はそうではありませんでした。そもそも律令制軍隊が作られる前は各地域には国造が編成する民兵組織のようなものがあり、農民が武器を持って戦いを行っていました。それらの農兵組織を活用して律令制軍隊は作られたのであり、元来、日本の農民は戦士でもありました。そして律令制軍隊においても兵士は農民であり、1戸につき1人の兵士が徴発されていましたから農村内の兵士経験者率はかなり高かったといえます。
しかも律令制軍隊においては武器や甲冑は自弁、つまり農民が自前で持ち込むべきものであり、私物でした。つまり農民達は武器を所有していたのです。それも国家の軍隊で装備として使うものですから、後世の百姓一揆の竹槍のようなチンケなものではありません。最新鋭の武器で武装していたといっていいでしょう。そしてその武器を使った戦闘術の訓練は軍隊で施されるわけで、もちろん軍隊では集団戦術の訓練が主になりますが、それでも基本的な武術は身につくわけで、兵役期間が終わればそうした武術訓練を終えた農民達が自分の武器を持ってまた農村に帰ってくるわけですから、農村には武芸者が常にたくさん存在したということになります。
また当時は現代のように警察組織が発達してはいませんから、当然農村内の秩序維持のために村の男達による自警団のような組織が作られて活動していたと思われ、そこにそうした軍隊帰りのような連中がゴロゴロしていたのであり、そうした屈強で武器を巧みに使えて戦闘経験のある男達が組織的な警備や捕物のような活動の経験をも日常的に積んでいたということになります。
一方、治安を乱す側である犯罪者グループのほうは、現代においては一般人を圧倒する武装などもしていますが、当時においてはそれほど恵まれた武装をしていたというわけではありません。せいぜい律令制軍隊や村の自警団と対等な武装が出来ていれば上出来というところでしょう。あとは練度や度胸や人数で自警団に勝っていればいいわけですが、おそらく屈強な自警団相手にこれらの要素でも優勢を占めることは困難であったでしょう。
このように、792年に律令制軍隊が廃止された時点では、地域社会の治安維持は住民達によって自律的に行われることが可能な態勢になっていたと思われます。その武芸に長けた農民達というのが792年に定められた「健児の制」における地域社会の治安維持要員である「健児」として登録されることにもなったのです。
つまり平安時代初期の地域社会の治安維持は武装農民のボランティア組織によって担われていたのであり、彼らは時には「健児」として政府の命令を受けて律令法に基づいた治安維持活動も行っていましたが、日常的には律令法の支配から外れて彼ら独自の慣習法に基づいた治安維持活動を行っていたと思われます。そしてそれにはもちろん死刑も含む刑罰執行活動も含まれていたであろうし、捕物や討伐活動の中で賊を死に至らしめることもしばしばあったことでしょう。

要するに、奈良時代からずっと、地域社会においては律令法とは別に慣習法の世界が存在しており、律令法のほうは大まかな領域をカバーし、細かな実際生活上のことは慣習法によって処理されていたのが実態で、律令法と慣習法とはそれぞれ全く別個に交わることなく棲み分けがなされていたのです。
それが平安時代になって軍隊を廃止したり死刑を廃止したり、天皇が関わる律令法の世界が現実政治への対応力を低下させていくにつれて、国家機関が律令法ではなく慣習法の世界を積極的に有効活用していこうとするようになりました。その一例が「健児の制」でもあったわけです。一方、地域社会のほうでも新興の富豪層などが現れるようになり、これらの中で地域社会の秩序を乱す強力な者も現れ、こうした新しい脅威に対抗するために地域社会の慣習法の世界のほうでも国家機関の後ろ盾を必要とするようにもなっていきました。こうして地域社会において慣習法の世界と国家機関とが接近し、手を結ぶようになっていったのです。
ただ、この慣習法の世界というのは例の「清浄」「不浄」の二元論でいえば明らかに「不浄」に属するものであるので、「清浄」なる天皇に直属する律令政府が直接に慣習法を駆使するわけにはいきません。つまり慣習法の世界の住人たちを直接に律令政府の官人とするわけにはいかないのです。政府はあくまで建前としては律令法をもって官僚たちを統制して統治を行いながら、それら官僚たちを通して間接的に慣習法の世界の担い手たちに関与していくことにしたのです。
つまり、日本全体は基本的にはそれぞれの地域社会ごとの慣習法の世界が寄せ集まって構成されているのであり、統一国家とはいえない状況なのですが、そこに重ね合わせるように都を中心にして全国に広がった同心円状の律令法の1枚の網を上から緩やかに被せて、その網を通して慣習法の世界と律令法の世界との間で遣り取りを行い、都の天皇による中央集権支配をそれぞれの地域社会に間接的に及ぼすことにしたのです。
この上に被さった同心円状の網においては、中心の都に近くなるほど律令法の支配が強くなり、周辺部にいくほど律令法の支配が弱くなりますから元来の慣習法の支配が強くなり、律令法は「清浄」なるものであり慣習法は「不浄」なるものとなりますから、国土の都付近は「清浄」で、辺境に行くほど「不浄」になるという同心円状世界観が成立するのです。

このように慣習法の世界の上に重なるように律令法の世界が被さるという重層的国家が嵯峨朝以降に確立されるようになった日本の国体の特徴ということになります。この慣習法の世界というのはこの時点においてはまだ統一国家の形を成していませんでしたが、この慣習法の世界のほうが日本という国の本来の姿であり、そうした国家形成以前の段階の上に人工的国家機構である律令法の世界を被せていたのです。
そもそも律令国家というものはこの人工的な律令法の世界のみで、伝統的な慣習法の世界を押さえつけて無理矢理に専制君主の支配する統一国家を作ろうとするものであり、6世紀にシナにおいてこの律令国家が成立してから、東アジア全体がこうした専制支配体制を導入せざるを得ない流れになっていたのですが、本来はまだ日本や朝鮮などのシナ周辺国は統一国家形成段階に達していなかったのに無理矢理に専制統一国家を維持することは非常に無理のあることであり、ここで日本はこうした流れから離脱して、律令法によって全体を支配するのではなく、律令法による支配を緩やかに全体に被せるようにして、統一国家を解体したそれぞれの地域社会における慣習法の世界を尊重し、それらを律令法の支配体制によって間接的に活用して、擬似統一国家としての律令国家は維持しつつ、その下で真の意味での慣習法による統一国家形成に向けての準備段階を歩むことにしたのでした。
慣習法による国家とは言い換えると、「法による支配」の国家ということになります。それは「不浄」なるものでありますから、現実的、世俗的な国家ということになり、顕界の国家ということになります。つまり、顕界における慣習法による支配、つまり「法による支配」の確立した統一国家を作っていこうという道のりを日本は歩んでいくことになったのです。そしてそれが完成するまでは長い時間を要することになるので、それまでの間、幽界の権力である天皇の支配する律令法の世界で緩やかに同心円状の支配体制を全国的に及ぼし、擬似的な統一国家を形成し、その保護下で顕界の「法による支配」の統一国家を育てていき、また逆に顕界の「法による支配」の要素を律令法の擬似的統一国家維持のためにも活用するという、言わば顕界と幽界の権力の相互補完関係、相生関係が成り立つことになったのです。
この幽界権力の保護下で進められた顕界の「法による支配」の統一国家形成の道のりは、結局、17世紀に江戸幕府による幕藩体制という形で結実しますが、それまでの長い年月の「顕幽相生体制」がいつしか日本の国体そのものとなり、幕藩体制成立以降もそうした国体の伝統はそのまま維持されることになります。この「顕幽相生体制」、すなわち、顕界のものと幽界のものが同時に別々に存在し、互いに補完し相生関係にあるという国家体制によって、日本は専制支配体制ではない、伝統的な慣習法による支配の保守主義的な国家形成に成功することになり、これがシナや朝鮮とは大きく異なった歴史を歩むポイントとなったのでした。

この顕界と幽界の二元論の元になったのは「清浄」と「不浄」の二元論であり、これは元々は陰陽道の二元論の影響を受けたものですが、陰陽道の二元論はその源流はやはりグノーシス主義の二元論となります。しかしグノーシス主義の二元論における相反する要素は相克関係にあるのに比べ、日本において成立したこの顕と幽の二元論は相生関係へと脱皮しており、全く異質なものになっています。これも神道の「作り変える力」によるものであるのかもしれませんが、とにかくこうして日本においてはグノーシス主義の毒性が中和されて、平安時代以降もグノーシス主義の系譜を引いた事象が幾らか日本に入ってきますが、それらは大きな毒性は発揮せず、中和されて程好い変革エネルギーとなり、変革を繰り返しつつ破綻に至らない日本の国体を作っていくことになったのでした。
ちなみに近代日本の大きな失敗は、幽界の権力者である天皇を顕界の権力者としてしまった上で、更に幽界そのものを否定することによって、日本の国体である「顕幽相生体制」を崩してしまったことでした。これによって日本においてグノーシス主義の害毒が蔓延していくことになったのです。その弊害は現代において頂点に達しているといえるでしょう。
シナの場合は中心の「華」が周辺の「夷」に接近したがる、というか侵略したがる傾向が強いのですが、日本の場合は中心の「幽」と周辺の「顕」が離れたがる傾向が強いといえます。いや、正確に言えば、「顕」と「幽」が近づけば相克し、遠ざかれば相生するというのが日本の特徴で、だから安定を求めるならば「顕」と「幽」は離れることが望ましいということです。
「顕」なる世俗権力は「幽」なる天皇に近づくことによって呪術化して現実政治への対応力を失い、「幽」なる天皇は「顕」なる世俗権力に近づくことによってその神秘性を失い正統性を低下させます。これはまさに近代日本、特に憲法9条などという非現実的な呪文に囚われ続けている現代日本そのものでしょう。特に戦後日本は「幽」なる世界を無いものとしてしまったため、「幽」なる天皇が全く世俗的なものになってしまい、「顕」と「幽」がほとんど一体化してしまっています。日本史においてこのように「顕」と「幽」が近づいた時代というのは、だいたいあまり上手くいっていません。
何やら面倒臭いので「幽」なる天皇という存在そのものを無くしてしまおうという考えも出てくるかもしれませんが、それはそれで非常に困るのです。日本という国は中心に「幽」なる存在がどうしても必要なので、もし天皇が無くなれば世俗権力がその「幽」の位置に引っ張り込まれて現実政治への対応力を失ってしまうからです。つまり日本においては天皇が呪術的部分、霊的部分を引き受けてくれていることによって、現実世界の政治勢力が現実政治への対応力を維持することが出来るわけなのです。
「なんて面倒なんだろう。力のある者が日本を支配すればいいだろう」と思われる人もいるでしょう。おそらく足利義満や信長、秀吉、家康らもそんな風に思ったこともあったでしょう。トルーマンもマッカーサーもそんな風に思ったことでしょう。しかし、そういう国柄なのだから仕方ないのです。あえて説明的に言えば、神道という独自の信仰のためにとことんまで敵を滅ぼさず「和」していく伝統を持つために細かな共同体が常に生きている日本においては力による支配ではなく、多数が納得しコンセンサスを得ることの出来る支配者が必要であり、そのために古代の首長霊の祭主である大王の伝統を引くタイプの支配者が必要になるのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

遺産相続を考えると律令体制と慣習法は今も在る。私の住む町から15キロ離れたところともう遺産の相続は異なり、学校教育を受けた都市の嫁が来ると、もめている。勿論私が住む町にも都市の嫁が来るともめる。しかし相続の仕方(慣習法)が15キロ離れてても異なる。
 この律令体制を現在国会で作られる法律と置き換えると、同じ構造が成立する。慣習法(民間)の世界は男女平等賃金ではないが、その上がり(税金)で運営されている役所は平等である。之では経済は崩壊する。
 之と同じ構造を持つ現象はあちこちにあり、この構造故の問題と、現にある問題とを区別しないととんでもないことが起きる。

【2007/12/01 20:25】 URL | 繁敏 #- [ 編集]


保険証の検索サイト。健康保険証、紛失、種類、国民健康保険証、介護など保険証に関する各種情報をお届けしています。 http://hadj3.stuartmembery.com/

【2008/12/10 07:21】 URL | 57 #- [ 編集]



この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。