KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その335 反経制宜
とにかく、こうして嵯峨朝において「顕幽相生体制」の第一歩が踏み出され、慣習法世界の上に律令法世界が重なるように被さる重層的国家が形成されるようになったということは、現実的な地域社会にまで天皇のリーダーシップが強く及ばなくてもそれはそれでいいのであり、地域社会においては伝統的な「法による支配」が活用された統治方法のほうが優先されていくのです。そのように政府が律令法の支配を弱めて、むしろ地域社会の慣習法世界を活用した統治をしていくための根拠や目安にしたのが単発の官符や詔勅の類であり、これらを整理した法典を「格式」といいました。
「格」というのは律令が現実に合わなくなってきた場合に補足的に付け足していく法を集めた法典で、「式」は律令を実際に運用していく際の施行細則のようなもので、この2つは別々に作られるものですが、同時期に編纂されることも多く、合わせて「格式」と呼ばれます。シナにおいても律令よりもこの格式のほうが実際には重視されており、事実上、律令を現実社会の動向に合わせて改正する効力を持つもので、格式があって初めて律令国家が正常に機能するともいえますが、格式によって律令の本文そのものは骨抜きになり無効化されることもしばしばでした。
日本においてこの「格式」の編纂が最初に試みられたのは桓武天皇の時代で、この時には国司の交替に関する手続きを定めた「延暦交替式」のみが完成し、本格的な「格式」の編纂にまでは至りませんでした。その後、平城朝においても新たな詔勅や官符は大いに出され、結局、嵯峨朝に入って格式の編纂は藤原冬嗣の指揮下で本格化し、820年に「弘仁格式」としてまとめられました。
このように格式の編纂が進められたのは、それだけ従来の律令法では現実社会の動向に対応出来なくなってきたからであり、特にそれは地域社会において顕著であり、それらの地方統治の現場からの問題提起を受けて、それらに対応して出された官符類によって紆余曲折を経て律令法とは異なる慣習法の考え方、つまり「法による支配」に基づく新たな支配方式が合法化されていき、それを確認し集成する過程が格式の編纂作業なのであり、そうして作られたものが格式であったのです。
「弘仁格式」はそうした地域社会の変動を受けての新たな支配方式の合法化の過程の最初の集成なのであり、ここから「法による支配」を打ち立てる改革が本格的に始まることになるのです。しかし「弘仁格式」完成後もますますそうした変動とそれへの対応の動きは加速していったため、「弘仁格式」は完成後も何度も改訂されることになり、結局、後に869年に「貞観格式」が新たに編纂されることになるのです。

この「弘仁格式」の時代に進行していた地域社会の変動というのは、792年の軍団兵士制の廃止後の、本籍地を離れて戸籍の支配を脱した「浪人」や、貴族や国司の子弟でありながら同様に戸籍の支配を逃れて「浪人」たちを雇い入れて広大な墾田を経営する「富豪浪人」の増加と、それによる戸籍制度の有名無実化、租庸調の徴収困難に端を発します。
こうした環境変化を受けて、嵯峨朝ぐらいから律令政府は「浪人」や「富豪浪人」の存在を公認することにし、彼らを本格的に課税対象として扱い、公民も浪人も区別なく課税していくという方針転換を行うようになりました。それは国司や郡司が公出挙で農民に貸し出す稲を、それまでのように戸籍のデータに沿って一律に貸し出すのではなく、実際の耕作地の面積に応じて強制的に貸し出すという方針転換でした。公出挙で稲を貸し出してそれを利子をつけて返却させることは実質的には租税の一種で、しかも租庸調の徴収が困難になっていた時世でしたから、この公出挙が主要な租税品目となっていたのでした。つまり、これは律令政府が戸籍制度とそれに基づく班田収受制を維持することよりも、実際に確実に租税を徴収出来るような体制を優先し、その方向へ大きく踏み出したということを意味していました。こうして班田もなかなか行われなくなっていきました。
しかし「上に政策あれば下に対策あり」というもので、富豪浪人たちも大人しく租税を徴収されることを潔しとはしませんでした。軍国体制の維持という大義名分が失われた後、私有財産を守りぬく欲望は制御困難なものとなっていたのです。そもそも、こうした政府の新しい公出挙の方針は律令制の根本原則から逸脱した、かなり恣意的なものであったので、大義名分というものがありません。公出挙制度というのは班田収受制とセットになっていた制度で、班田で農民に給付された口分田から徴収された租で集積された稲を元本にして口分田を耕す農民に稲を貸し出すという制度がその本質でした。つまり班田を受けずに私営田を経営する富豪浪人たちには本来関係ないものでした。それゆえ富豪浪人たちにしてみれば「そのような稲は必要無いので借りません」と拒否することも出来るわけです。実際、公出挙の班給を受けることを拒否する富豪浪人たちが続出しました。

しかし、それでは租税収入が確保出来ず、国司や郡司は困ってしまいます。そこで、そうした事態を受けて、国司はそうした富豪浪人たちに実際には稲を貸し出さずに、建前としては稲を貸し出しておいて元本分の稲は預けたままにしておいて利子分だけ返却させるという形にしたのです。でも実際には稲は貸し出されていないわけですから、これは単なる帳簿上のトリックで、公出挙をちゃんと行ったという実績を作るための誤魔化し、糊塗策の類でしかなく、実際は富豪浪人は公出挙は拒否しており、預けられたままの稲というのは最初から最後まで富豪浪人の手元から動いていない私稲に過ぎず、稲は利子分を除いては後は富豪浪人から国司のもとへは一粒たりとも動いていないのであり、富豪浪人は租すら納めていないのです。つまり富豪浪人が納めている税は実際は行われていない公出挙の利子相当分の稲だけということになります。
では何故、富豪浪人は実際には行われていない公出挙の利子分だけ払うことを承諾したのかというと、それはその建前上預けられたままになった稲を原資にして他の小作人などの農民への公出挙の代行を行うことを許可されたからです。その代行許可を貰う見返りに富豪浪人は公出挙利子相当分の稲だけは国司に納入することを約束したのです。公出挙の代行といっても、その内容な富豪浪人の自由裁量に任されていましたから、実質的には国司公認の私的な高利貸し、つまり「私出挙」であり、政府は目先の租税収入確保のために農村の窮乏農民を切り捨てたといえます。これによって農村における貧富格差は拡大していき、やがて富豪浪人たちは高利の私出挙による債務の取立てで窮乏農民から田地集積を進めるようになり、小作人たちと私的隷属関係を形成し、大規模な私営田経営を展開する「富豪層」に育っていくことになり、この富豪たちからどのように租税を徴収していくのかが国司や郡司の地方政治の大きなテーマとなっていきます。

それにしても、上記のような建前上の公出挙は実体は存在していないのであり、実際は稲は貸し出されておらず、富豪たちは単にそういう建前に則って土地面積に応じた利子相当分の稲を納めているだけのことなのです。これは既に律令制的な人頭税からは逸脱したものであり、実質的には一種の地税と化しているといえます。しかも実際には稲を借りていないのに利子分を払っているわけで、建前としての公出挙をかなぐり捨てれば、誰からこの利子相当分の稲を取り立ててもいいわけです。また逆に言えば、誰でもがこの利子相当分の納付を拒否することも出来るわけです。
つまり一応は富豪たちは私出挙を公認してもらうことのお返しに国司に公出挙の利子相当分の稲は納入していましたが、こうした契約関係もあくまで恒久的なものではなく、いざとなれば富豪たちのほうから何とかして破棄することもあり得るし、それに対して国司側も強引に納入させることもあり得るという、なんとも不安定なものであったのです。結局、律令法の規定に実際的な強制力は無く、当事者間の取り決めで決着していき、その判例の積み重ねが慣習法となっていく世界となるわけです。
実際、富豪たちはなんとか租庸調やこの公出挙利子相当分の課税を逃れようとして、都の有力貴族などと結託するなどして、あらゆる手段を使って国司や郡司の行う徴税活動に対抗、妨害、つまり脱税闘争に血道を上げるようになっていったのでした。例えば、どこの世界でもそうですが、国家にとって利益をもたらしたり必要な義務を負うような役職にある者には一定の免税特権を与えるということはこの日本律令国家においても行われており、富豪たちは都の有力貴族などに取り入って名目だけでもそうした免税特権のある役職を得るための猟官運動をしたり、あるいは免税特権を得ている有力貴族に土地を寄進して自分の土地の名義上の所有者になってもらったりして、とにかく少しでも免税特権を得れば、後は名目の肩書きやバックの有力者の名前の威光を嵩に着て国司や郡司に対してゴネまくって、免税が指定されていない租税品目でも何でも一緒くたにして、強引に免税特権をゴリ押しするようなことが横行するようになりました。

問題は、このような富豪層からの租庸調や公出挙利子相当分なども全部ちゃんと徴収出来ているという建前になっていたということで、しかし実際は国司の手元には納入されていない分、つまり未進分が相当あるのであり、実際の税収はかなり予定より少ないものとなります。しかし調庸をはじめとした各国からの貢納物を財政基盤としている中央政府としてはそういうことでは困るわけで、その納入責任について国司の責任を厳しく問うことになります。それは具体的には、本来中央政府に納入すべき貢納分の不足分を国司自身に補填させようというものでした。
国司というのは守・介・掾・目という四等級で1セットの四等官制になっており、元来、何か過失によって損害が生じた場合、連帯責任を負うというようになっていました。そこでこの調庸未進問題についても、それが深刻化するにつれて責任の所在を明確にして解決を図る必要に迫られ、桓武天皇時代の803年に編纂された「延暦交替式」において、納入不足分の補填は国司たちが行い、その負担比率は彼らが公出挙の利子から得る公廨稲の取り分の配分比率に応じるということにしたのでした。つまり、国司の中で最も多く公廨稲を得ているのは官長である守ですから、調庸未進分の補填においても守が最も多く負担しなければいけなくなるというわけです。また平城天皇時代の807年には調庸未進が生じた場合の処罰についても、守を主犯とする連座制として、責任の重さの度合いに応じて国司たちが処罰を受けることが定められました。
しかし、このような処罰は形式的なものであり、このような処罰法を定めたところで調庸の徴収の困難は変わらず、調庸未進は増え続けました。そういうわけで中央政府のほうでもいちいち国司を処罰していても仕方ないということで、処罰はあまり行われなくなっていきました。
また補填に関しては、この「延暦交替式」の補填法がこの後も踏襲されていくのですが、この補填法には大きな問題点があり、この補填法の基本精神として、調庸の未進というのはあくまで法人としての「国」の未進であって、個人としての「国司」の未進ではないという認識がありました。この基本認識自体は正論ではありましたが、しかしこれでは責任の所在が曖昧になってしまいます。つまり、それぞれの国司には任期がありますから任期が過ぎれば任国を去るのですが、任国を去ってしまえばその国司の調庸未進分の補填割り当て分はその任国に残った同僚の国司たちや、彼と交替で赴任してくる後任国司とが一緒になって負担することになるのです。
しかしこれでは、任期中にああだこうだ言って補填分を払わないで済ませたほうが得ということになり、新たに交替してくる国司もみんなそういうことを考えるようになりますから、未進分は一向に減らず、累積して天文学的に膨らんでいくことになります。

こうなってくると、国司の処罰や補填だけでは中央政府の財源不足は根本的には解決しないということが政府首脳たちにも判明してきます。やはり租税の徴収をしっかり行える体制を各国において整備していくことが遠回りなようで最も近道なのです。しかしそれは簡単なことではありませんでした。それには律令法の枠にとらわれることなく、国司を頂点とした各国における行政機能を強化していくことでありました。
そのためには、まずは国司のリーダーシップを強化する必要がありました。従来の四等官が責任の押し付け合いをしてばかりいるような体制を改めて、次第に官長である守あるいは介がリーダーシップを発揮していくようになりました。それは言い換えれば官長以外の佐官級の国司(任用国司)の権限低下ということであり、実際、彼らは租税徴収という最大重要案件において能力を発揮出来なかったのですから、その権限を剥奪して、より有能な者にその権限を移管するのは当然のことでした。
その有能な者とは地域の有力者層であった郡司たちでした。地域の内情に通じ、地域社会に顔の利く郡司層に対して国司官長が指導力を発揮して束ねていく体制を組むことが租税徴収体制復活への第一歩となります。これはある意味、律令制の原点回帰でもありました。律令制はその導入当初、地域共同体の首長であった郡司層の支配力とうまく結びつくことで日本全土へ浸透していったのです。そうした原点、創業精神に立ち返っての政策転換ということになります。
郡司というものは本来、大領・少領・主政・主帳という四等官で、国司によって推挙された地域の有力者が都へ上って面接や試験などを受けてから任命されていましたが、812年には国司の郡司推挙権が強化されて、国司が推挙すれば中央での面接等は不要とされ、国司と郡司の間の結びつきが強固になり、郡司は国司官長への帰属度が高まりました。
さらに822年には国司は郡司候補者を定員を超えていくらでも仮採用できるようになりました。仮採用といっても建前上のことで、実質的には本採用です。この仮採用された多数の郡司を「擬任郡司」といって、これももちろん地域の有力者層であったのですが、この擬任郡司が任用国司に代わって国司官長の手足となって各国の行政機能を担うことになり、彼らは税目別に郡務を分掌して、調庸物の徴収や都への輸送を行い、その未進時の弁済責任も負うことになったのです。
また、国司の人材の質の向上を図るために、政府は824年に令外官として勘解由使を設置しました。「解由」というのは国司の交替時に前任者が国衙の財産管理上で落ち度が無かったことを後任者が精査して証明する文書のことで、後任者が前任者の落ち度を見つけたら「解由」を出せないと言うことになるのですが、もちろん前任者は抗弁しますから前任者と後任者の間でトラブルとなります。このトラブルを仲裁して審査するのが勘解由使の役目です。この勘解由使によって国司の行政能力が審査されるということになり、この勘解由使の審査による国司の管理責任問題は天皇に直接奏上される体制となっていました。これにより政府は行政能力の高い国司の守や介を精選して任国に送り込むことが出来るようになったのです。

このように財政再建へ向けての方向性の焦点が定まってきたところで、823年に嵯峨天皇の治世も終わり、時代は律令国家文明の改革期後期へと移っていきます。その方向性を象徴する言葉として、824年に49歳の右大臣である藤原冬嗣が即位間もない淳和天皇に奏上した「反経制宜」が挙げられます。
その内容は「国司たちが法律に拘束されて治績をあげられない状況であるので今後は特に精選した守や介を任命して成績が上がれば褒美も出すことにしよう。たとえ本来の原則に反して都合のいい手段をとったとしてもそれが自分の利益を図ったものでなければ大目に見るほうがよく、こういう場合に既成の法律にかかずらうべきでない」というもので、これを冬嗣は「経に反して宜を制す」という言葉で結んでおり、これが「反経制宜」というわけです。
ここには、国司の人材を精選して税収アップを図ろうという治世方針が明確に込められており、国司たちの仕事をやりやすくするためには律令法の原則すら曲げても構わないという精神が強調されています。これはそれだけ徴税現場の状況がシビアであるということであり、国司や郡司たちはここから更に過酷な仕事に立ち向かっていくことになるのです。そしてそれを現場の声を吸い上げて冬嗣はよく理解しているのであり、だからこそ彼は国家の根本法典である律令法よりも、むしろ現場における慣習法の精神を重視して柔軟に対応していこうとしているわけで、また、そういう彼によって「弘仁格式」の編纂が主導されたのも当然の流れであったともいえます。
藤原冬嗣はこの2年後、826年に51歳で亡くなりますが、この後の律令国家文明の改革期後期における徴税体制の立て直しも、この「反経制宜」が時代精神となって推し進められていくことになるのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

コラーゲンの検索サイト。効果、ヒアルロン酸、ドリンク、コラーゲン10000、コラーゲン鍋などコラーゲンに関する各種情報をお届けしています。 http://business.atmormortgage.com/

【2008/12/09 06:19】 URL | 57 #- [ 編集]



この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。