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日本史についての雑文その336 承和の変
809年に23歳で即位した嵯峨天皇は、実兄である平城上皇と争って翌810年の薬子の変でこれを排斥し、皇太子としていた平城の子の高岳親王を廃太子して、代わりに自分と同い年の異母弟である大伴親王を皇太子としました。ところがその年のうちに嵯峨天皇に皇子が二人産まれました。第一皇子は広井氏の娘から産まれ、この子は母親の身分が更衣クラスであり皇位継承候補にはなり得なかったので、4歳の時に臣籍に降下されて源氏の姓を賜いました。この子が嵯峨源氏の始祖で後に初代の源氏長者となる源信(みなもとのまこと)でした。
ところがその後すぐ産まれた第二皇子のほうは夫人である橘嘉智子から産まれました。橘嘉智子は橘諸兄の曾孫であり、橘諸兄は臣籍降下する前は皇族であったわけですから、嘉智子の産んだ子には十分に皇位継承資格がありました。これが正良親王でした。また嘉智子の妹が嵯峨天皇の腹心の藤原冬嗣の妻の弟に嫁いでいたという縁もあって、冬嗣の後押しもあって嵯峨天皇は815年には嘉智子を皇后とし、嘉智子は檀林皇后となりました。
こうなると皇后の子である正良親王を皇太子とするのが自然な流れということになり、実際、嵯峨天皇も本音ではそれを望んでいたでしょう。しかしそれでは皇太子の大伴親王の立場がありませんし、もともと大伴親王は臣籍降下を願っていたのを嵯峨天皇が頼み込んで皇太子になってもらった経緯もあり、それを天皇に皇子が出来たからといってさっさと首を挿げ替えるようなことをしては、天下万民のための統治を行うべき天皇として、また「神」のごとき清浄性を持つべき天皇の行為としてはあまりにも身勝手というものでした。
嵯峨天皇はそのように身勝手な天皇とは思われたくなかったでしょうし、政治的謀略に明け暮れてその結果、怨霊に怯えて不幸な晩年を送った父親の桓武の姿を見ていましたし、自分自身も実の兄の平城と争い謀臣の藤原仲成や薬子を死に至らしめ、また桓武の殺した叔父の早良親王や平城が殺した異母兄の伊予親王の怨霊の祟りも嵯峨にも及んでいたのであり、嵯峨はもう争い事には飽いており、そこに更に加えて異母弟の大伴と争うような事態は避けたいとも思っていました。
嵯峨はそういう争い事は極力避けて円満な解決策を目指すようになり、大伴親王をそのまま皇太子として据え置き、823年に37歳になった時、大伴親王に譲位して自らは上皇となり、政務からは手を引きました。そして同じく37歳の大伴親王は即位して淳和天皇となり、その皇太子に13歳になった正良親王を据えたのです。

この時点で淳和天皇には18歳になる恒世親王という皇子がいたのですが、それを差し置いて嵯峨上皇の子である正良親王を皇太子としたというのは、嵯峨上皇から皇位を譲ってもらったお返しに次の皇位は嵯峨の子の正良に譲るという約束が同い年の異母兄弟である嵯峨と淳和の間で結ばれたということでしょう。そしておそらく正良が皇位を継いだ暁にはその皇太子には淳和の子の恒世親王の息子を皇太子に据えるという約束にもなっていたのでしょう。
つまり嵯峨の系統と淳和の系統の二系統で皇位を交互に回していこうというもので、後年、鎌倉時代後期に皇統が大覚寺統と持明院統の二系統に分裂して、それが更に後には南朝と北朝となっていくのと同じような皇統の分裂が、この平安時代初期の一時期に生じていたのでした。これは嵯峨と淳和が皇統を争って妥協の産物としてこうした継承に落ち着いたというわけではなく、どうやら嵯峨上皇の意向が大きかったようです。淳和のほうではこうした変則的な皇位継承にはむしろ反対で、どちらか1つの系統を正統とすべきだと思っていたようです。一方、嵯峨は自分と淳和の系統で交互に皇位を継承していくことで両方の陣営に属する貴族ともに満足して丸く収まると考えたようです。
結局、嵯峨の意見のほうが強かったので嵯峨の意向によってこの継承方法が採用されたようです。嵯峨は譲位後は政務関係からは確かに完全に手を引いて淳和に任せましたが、皇室の家父長としての立場は保持していましたので、皇位継承に関しては決定権を持っていたのです。しかし、こんな変則的な皇位継承で円満に収まると考えていたのは嵯峨だけであり、実際は一見平穏な淳和天皇の治世下において水面下では嵯峨系と淳和系それぞれの派閥に分かれた貴族たちの対立が深化していきました。
826年には恒世親王が21歳の若さで跡継ぎを作らずに没してしまいましたが、その前年の825年に淳和天皇と正子内親王との間に恒貞親王が生まれており、淳和系を推す貴族たちは恒世親王亡き後はこの恒貞親王を次の皇太子となるべき人として推しましたし、嵯峨上皇もその意向でありました。恒貞親王の生母の正子内親王は嵯峨上皇と檀林皇后の間の娘で、皇太子の正良親王とは双子の兄妹でありました。嵯峨から見れば恒貞は甥であると同時に孫でもあり、また次代の天皇となる正良親王から見て恒貞は甥ということにもなります。だから恒貞が正良親王即位後の皇太子になることに何ら問題は無いと嵯峨上皇は考えたのでした。
しかし827年には正良親王の妃で藤原冬嗣の娘である藤原順子が道康親王を産み、この皇子が成長するにつれて、嵯峨系を推す貴族たちは正良親王即位後の皇太子には実子の道康親王を据えるべきだと考えるようになっていきました。そうした道康親王派の貴族たちの筆頭格であったのが親王の生母である順子の兄であった藤原良房でした。

821年に右大臣に昇進した藤原冬嗣は同年に藤原氏の子弟の教育機関として勧学院を創設し、彼自身も熱心に推進していた当時の朝廷の喫緊の課題であった立法事務や行政事務に通じた官僚を養成していく場を設けたのでした。また、鎌足や不比等以来培ってきた藤原氏独特の政治謀略術、一種のマキアベリズムも教えられたと思われます。これによりその後の藤原氏一族からは有能な官人が多く輩出することになるのですが、勧学院創設時に19歳であった冬嗣の長男の長良や17歳であった次男の良房らもここの一期生として学ぶことになったと思われます。
この長良と良房の兄弟の妹であったのが順子で、この時点で12歳でしたが、おそらく正良親王のもとに嫁いだのは823年に正良が皇太子になった時でしょうから、14歳で入内したことになります。この時点で夫となった正良は13歳でした。そして入内して4年後の827年に18歳の順子が道康親王を産んだことになりますが、たいへん美しい女性であったといわれています。
この藤原冬嗣の家系の娘が天皇の妃として入内して子供を設けることがこの後多いわけですが、それはどうしてなのかというと、藤原冬嗣が天皇家の信任が厚かったというのも大きな理由ですが、それに加えてこの家系は「美形」の家系であったことも大きな理由であったようです。やはり政略だけでは男女の睦み事というのは成り立たないものであって、子供を多く作るほど睦み合うためには異性を惹きつける魅力というのは有利な要素でした。
しかしこの「美形」の家系というのも偶然の要素なのではなく、そもそも女性というものは強い男が好きなのであり、つまり権力者を好みます。例えば冬嗣は権力者ですから多くの女性が言い寄ってくるわけです。その中から美形の女性を選んで(冬嗣も美女は嫌いではないでしょう)子供を産ませれば美形の男や女が産まれる確率は高くなります。美形の娘は天皇のもとに入内させればいいし、美形の息子にはまた美形の嫁を迎えれば(息子は美男で権力者なわけですから女性に不自由はしないでしょう)また更に美形の男女が産まれる確率は高まっていきます。こういう感じで、権力者の家系は往々にして美形の家系になるものなのです。実際、冬嗣の子孫の女性達は美形が多かったと伝えられていますし、子孫の藤原道長も若い頃は美男で評判であったようです。

一方、順子の5歳上の兄である良房も823年に19歳で妻を迎えることになりますが、この妻が嵯峨天皇の皇女で、当麻氏という低い身分の貴族の娘であった更衣の産んだ子であったため源氏姓を与えられて臣籍降下された後に良房に嫁いだ形を取りましたが、これが日本史上初めて臣下に嫁いだ皇女である源潔姫で、当時13歳でした。このような前例の無い婚姻を行ってまで嵯峨天皇は藤原氏との縁を深めようとしたのであり、腹心である冬嗣への信頼の厚さを窺わせるだけでなく、良房という若者が将来を嘱望されるだけの逸材であると見なされていたことも想像されます。
藤原冬嗣は825年に左大臣に昇進した後、翌826年に51歳で没しますが、この翌年に娘の順子が道康親王を産むわけです。この冬嗣死亡時点で24歳の長良や22歳の良房など、冬嗣の息子たちがこの後、朝廷内でのキャリアを積んでいくことになり、特に嵯峨上皇の娘婿でもある良房は嵯峨上皇や檀林皇太后の信任が厚く、正良親王、そして道康親王の側近として頭角を現していくことになりました。
しかし長良にしても良房にしてもいかんせんまだ若輩であったので官位はまだ低く、冬嗣亡き後の朝廷内における藤原氏の第一の実力者は冬嗣の異母弟の藤原愛発で、淳和天皇の蔵人頭を務め、その後、順当に出世コースを歩み、淳和の皇子である恒貞親王の側近グループの長となっていきました。

こうした中、皇太子の正良親王も23歳と成長したので、833年に47歳となった淳和天皇は正良親王に譲位して上皇となり、正良は即位して仁明天皇となりました。その際に淳和上皇や恒貞親王本人(まぁ8歳であったので本人の意思ではないだろうが)も恒貞親王の皇太子就任を再三辞退したのですが、嵯峨上皇はあくまで変則的な皇位継承にこだわり、予定通りに恒貞親王の立太子を強行したのでした。
皇室の家父長としての嵯峨上皇の発言力は絶対的であったので表面上は貴族たちは全員、この嵯峨裁定に異論は唱えず、皇太子就任後も恒貞親王がたびたび廃太子を願い出ても、仁明天皇はそれを許さず、恒貞を皇太子にするという父の嵯峨上皇の方針に従い続けました。しかしそれらは嵯峨上皇という重しがあっての表面上の平穏であり、水面下では、恒貞親王を推すグループと、恒貞親王を廃して道康親王を皇太子に推すグループとがせめぎ合うことになりました。特に大納言に昇進した藤原愛発が娘を恒貞親王のもとに入内させるようになると、叔父である愛発と甥である良房との間の藤原氏内の主導権争いも絡み、ますます対立は激しくなりました。
それぞれのトップである嵯峨上皇と淳和上皇とが不仲であったわけではありません。淳和上皇と仁明天皇も個人として決していがみ合ったりしていませんでした。恒貞親王と仁明天皇も、恒貞親王と道康親王も本人同士が対立していたわけではありません。藤原良房とて叔父の愛発と特に不仲というわけではありませんでした。しかし一旦こうして派閥が出来れば、権力に群がる人間の思惑はトップに立つ人間の思惑など押し流して自動的に増殖し暴走していき、それぞれの組下の貴族たち官僚たち同士の争い合いはヒートアップしていくものなのであり、そうした派閥力学は嵯峨上皇や淳和上皇でさえ止めることは出来ないのでした。結局、こうした変則的な二系統による皇位継承などというものはこうした非情な派閥力学の前では嵯峨上皇ひとりの夢想に基づいた自己満足に過ぎなかったのだといえます。

こうした中で840年に恒貞親王の父親である淳和上皇が54歳で没し、15歳の恒貞親王は大きな後ろ盾を失い、まだ最大の実力者で恒貞親王を推す、というより変則的皇位継承にこだわる嵯峨上皇は存命でしたが、仁明天皇は本音では実子の道康親王に跡を継がせたいのであり、また皇室内における嵯峨に次ぐ実力者であった檀林皇太后から見れば恒貞は娘である正子内親王の子で、道康は息子である仁明天皇の子であり、二人とも同じように孫にあたるのですが、父系相続の時代ですから、道康の父は檀林の子である仁明であるのに比較して、恒貞の父は檀林とは血の繋がらない淳和であるということで、やはり檀林から見て道康のほうが大事ということになり、しかも檀林の信任が厚い藤原良房も道康を推しているわけで、檀林もいつしか自然と道康派に与するようになっていきました。
こうなると恒貞派は圧倒的不利な状況で、嵯峨上皇の存在によって何とか持ち堪えている状況になってきます。こういう状況下で842年7月15日に嵯峨上皇が56歳で没したのですから事態は一気に急変することになります。
嵯峨上皇の死後2日の7月17日に恒貞親王周辺の「謀反」が発覚しました。恒貞派の公卿である伴健岑と橘逸勢の2人が恒貞親王を奉じて東国で挙兵して仁明天皇を廃そうという計画に誘われた阿保親王(平城天皇の第一子)がそれを檀林皇太后に密告し、檀林がそれを藤原良房に知らせ、良房が仁明天皇に報告して事件が表面化し、逮捕された健岑と逸勢は容疑を否定しましたが、早々に事件は恒貞派による大掛かりな謀反と断定され、事件発覚6日後の7月23日には恒貞親王は廃太子され、健岑と逸勢は流罪、藤原愛発は大納言を罷免され京外追放となるなど、恒貞派の公卿は軒並み左遷され、7月25日には愛発に替わって藤原良房が大納言に昇進し、8月4日には道康親王が新たに皇太子に任じられたのでした。

この政変を「承和の変」というのですが、皇太子の恒貞が仁明天皇を廃する謀反を企てるとは考え難く、この事件で流罪となり配流途中で病で亡くなった橘逸勢(この人は嵯峨天皇と空海と並んで書道の名人「三筆」として有名)が後に罪を赦されて早良親王、伊予親王、菅原道真らと共に怨霊として祀られていることから、また後に仁明の曾孫の陽成天皇が退位した後の皇位継承を良房の子である藤原基経がこの恒貞親王に打診し、しかも恒貞はこれを断っているということからも、恒貞や逸勢らによる謀反というのは実体は無く、これは冤罪事件であると考えられます。
どうやら嵯峨上皇の死去を受けて恒貞親王の身辺の危険を案じた健岑や逸勢らが恒貞を東国へ避難させようという計画を立てて、それを皇族中で檀林皇太后に次ぐ長老格の阿保親王に相談したところ、阿保親王がそれを檀林皇太后に報告し、その後それが檀林と仁明と良房のラインで「恒貞派による謀反」という筋書きに摩り替えられたようです。
仁明天皇は当然自分の息子の道康親王の立太子を望んでいましたし、檀林にとっても自分の息子である仁明の子である道康親王の立太子は望ましいことでした。そしてなんといっても嵯峨上皇の自己満足のせいで2つに分裂してしまっていた皇統を一本化することを望んでいたのです。また藤原良房は自分の甥にあたる道康親王の立太子を実現すると共に、叔父の愛発を追放して藤原氏の長者の地位を得ることを望んでいました。こうして三者の利害が一致して、一気に皇統および廷臣たちの分裂状態を解消しようとして「承和の変」が仕組まれたのだと思われます。
この事件で主犯とされて断罪されたのが伴健岑や橘逸勢であるので、この事件を「藤原氏による他氏排斥事件」の1つと見ることが多いようですが、このように実際は皇統の仁明系への一本化を図ったものであり、それに藤原氏内の主導権争いが絡んだ事件というのがその実態といえるでしょう。

伴健岑や橘逸勢らはそうした大きな流れの中で生贄として捧げられた哀れな犠牲者であったといえるでしょう。ただ仁明天皇らは橘逸勢が配流の途中で死んでしまうとまでは予想していなかったと思われ、慌てて死後に罪を赦し怨霊として鎮魂することになってしまいました。あるいは逸勢は恨み言を遺して抗議の憤死を遂げたのかもしれません。このことによってこの後、仁明天皇は逸勢の怨霊に悩まされることになります。
また、この事件の「密告者」ということにされた阿保親王ですが、追放した側でも追放された側でもない立場で唯一、事件の真相を証言し得る立場にいたのだと思われますが、この事件の3ヵ月後に急死しています。阿保親王はこの時点で50歳でしたからおそらくは病死であったのだと思われますが、釈然としないものを心に抱えての死であったとは思われ、あるいはこの事件の影響で死期を早めたのかもしれません。この阿保親王の第五子が在原業平で、この時17歳でしたが、この後すぐ官人としてのキャリアを歩みだすことになりますが、父の死の事情について何らか知る立場にあったのかもしれません。彼はこの後の政界の主流派となっていく道康親王や藤原氏のグループからは一定の距離を置くスタンスをとることになります。

ともあれ、こうして皇統は仁明天皇の系統にようやく一本化され、朝廷の分裂状態も収拾されて仁明天皇のもとで治世も安定したのでした。この842年の承和の変の時点の関係者の年齢は、檀林皇太后が56歳、仁明天皇が32歳、そして皇太子となった道康親王が15歳ということになります。承和の変の直後に藤原愛発に替わって大納言となった藤原良房は38歳で、嵯峨天皇の皇女であった源潔子との間に娘を一人設けており、この娘が明子といいまして、この時13歳でしたが、たいそう美しい娘であり、この2年後の844年に良房は甥である道康親王のもとにこの明子を入内させ、そして848年には右大臣に昇進し、良房は仁明天皇の信任が極めて厚く、実質的に太政官の政務を取り仕切るようになりました。
そして850年に仁明天皇が40歳で、檀林皇太后が64歳で亡くなり、23歳の道康親王が即位して文徳天皇となりますが、女御となった明子はこの年に待望の皇子である惟仁親王を産むことになります。惟仁親王は文徳天皇にとっては第四子であったのですが、右大臣であり天皇の46歳の外叔父でもあった藤原良房は兄皇子たちを差し置いてこの生まれたばかりの乳児である惟仁親王を強く皇太子に推し、文徳天皇はこれを受け入れて、惟仁親王を皇太子としました。このあたりから藤原良房の権力が非常に大きくなっていき、相対的に天皇の権力に陰りが見えてくるようになり、摂関政治の時代が幕を開けていくことになるのです。
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【2008/12/08 00:47】 URL | 57 #- [ 編集]



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