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日本史についての雑文その337 漢詩と和歌
9世紀前半の時代というのは基本的に天皇親政の時代であり、天皇が指導力を発揮して政治が行われ、藤原氏をはじめとした貴族たちは天皇の政治を補佐する立場でありました。8世紀末に日本は「東夷の小帝国」であることをやめて、天皇はシナ皇帝のような「帝王」的な存在であることをやめていくのですが、その変化は急激なものではなかったので9世紀前半ぐらいまでは天皇の「帝王」的側面の名残はまだ残っていたのでしょう。
それに加えて、薬子の変の教訓を受けて嵯峨天皇の時代に朝廷内における権力関係が整理されて天皇の権限が強化され、更に天皇の清浄性を強調することで天皇の神格化の傾向が強まり始めたので、嵯峨、淳和、仁明のあたりの時代は総合的な意味で「天皇」という存在の権力は最高点に達していたのではないかと思います。

また、この淳和天皇から仁明天皇にかけての律令国家文明の改革期後期の時代は、それに先立つ嵯峨天皇の時代に朝廷内での天皇の権力がしっかり確立されていたため、承和の変という多少の乱れはありましたが、少なくとも朝廷内においては政治的に平穏そのものであり、地方統治においても嵯峨時代に方向性の定まった税収回復のための地道な努力が少しずつ成果をあげ、その地道な努力を継続する官僚や貴族たちにも恵まれ、またそれらの頂点に立つ嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇がそれぞれなかなか優秀な人物であったというのも、安定した天皇親政時代を維持できた理由であったと思われます。
嵯峨天皇は風格ある大政治家という感じでありましたし、惇和天皇はやや凡庸ではありましたが極めて実直かつ堅実な守成型の君主、そして仁明天皇は幾分エキセントリックではありましたが多芸多才な天才型君主であり、三者三様の持ち味はありますが、歴代天皇の中でも政治家としてのレベルはかなり高い部類に属すると思われます。この時代はそんなに華々しい黄金時代のような印象はありませんが、実は律令国家の建て直しを実施していく非常に舵取りの難しい時代であり、そうした時代をこれだけ地味に平穏にまとめたというだけでも、実は大した政治的手腕であったと捉えるべきでしょう。
しかし続く9世紀後半になっていくと、天皇の「帝王」的側面の名残はフェードアウトしていき、逆に天皇の神格化が強まっていくために清浄性が強調されるようになり、汚れ仕事である現実的政務へ天皇がタッチする機会が減っていき、天皇は不浄を避けて内裏から動かなくなり、幽界の王としての機能を強めていくようになります。
天皇個人のパーソナリティも9世紀後半には病弱な文徳、幼くして即位した清和、性格に難のあった陽成、老齢の光孝など、9世紀前半の天皇に比べれば指導力という点で見劣りする人物が続いたというのも天皇の権力低下の1つの原因ではありましたが、あくまでそれは主たる原因ではなく、天皇が清浄性を増していくと同時に帝王としての側面を弱めていくという嵯峨天皇の時代に始まった大きな歴史的な流れがこの9世紀後半の時代になってとうとう顕著になったことが主たる原因であります。これにより天皇は幽界の権力者となり、嵯峨時代から仁明時代に天皇が顕界で振るっていた諸権力(汚れ仕事)を肩代わりするための天皇の分身的存在が9世紀後半になると機能し始めることになります。そのうちの代表的なものの1つが摂政関白というわけです。

天皇の清浄性が増していくというのは王権国家文明の時代の首長霊祭祀のリバイバルなのですが、それはそのままの復活ではなく律令国家文明時代に生じた陰陽道などの新たな要素も加えた形になっています。一方で天皇の「帝王」的要素は減少してはいきますが、シナ風に洗練された宮廷儀式はそのまま定着していきます。こういう部分では律令国家文明の要素は順調に発展していき、そこに更に密教などの新たな要素が加わってくるのですが、要するにこの時代は王権国家文明の要素と律令国家文明の要素が交じり合い、そこに新たな要素が加わって、新しい文明が生まれてくる時代でもあるといえます。
それは文化面でも同じことが言えるのであって、律令国家文明の要素としてはこの淳和・仁明朝の時代もまさに漢文学全盛時代で、827年には勅撰漢詩文集「経国集」が撰上され、これで「凌雲集」「文華秀麗集」と合わせて三大勅撰漢詩文集が揃ったことになります。大体この時代の官僚や貴族たちは殆どが漢詩をたしなむ文人でもあったわけですが、この三大勅撰漢詩文集の編纂に全て関わった文人官僚群の中核的存在であったのが菅原清公で、この人は最澄や空海と共に34歳の時に804年の延暦の遣唐使に参加して唐へ渡り、帰国後は朝廷における儀式関係や法典関係の実務を取り仕切る一方、文人・法律家として多数の門弟を抱える権威となり、818年には清公の建議によって朝廷の儀式や風俗が唐風に整備簡略化されるようになりました。
この菅原清公は桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明の5代の天皇に仕え、承和の変のあった842年に72歳の高齢で亡くなるまでの間、三大勅撰漢詩文集の編纂や、833年に淳和天皇の勅命による編纂された大宝令と養老令の解説書である「令義解」の編纂の中心となるなど、9世紀前半の文運の盛時の立役者となり、おそらくは「弘仁格式」の編纂や改訂にも関与していたと考えていいでしょう。この清公の築いた文人官僚群の中核という菅原氏の伝統はその子である菅原是善、そして孫の菅原道真に受け継がれていくことになります。

このように淳和・仁明朝は漢文学全盛時代であったわけですが、その陰で王権国家文明時代から受け継がれてきた和歌が復活して静かなブームとなっていった時代でもあります。和歌復活のきっかけは806年の桓武天皇の死去によって785年の藤原種継暗殺事件に連座して、同年に病死していながら罪人とされてきた大伴家持の罪が赦され名誉回復が行われ、それに伴い家持が編纂していた和歌集「万葉集」が世に出たことでした。
大伴家持は生前は早良親王の最側近であったのですが、早良親王が800年に「崇道天皇」として名誉回復された後も家持は桓武天皇の存命中は罪人のままとされていたのでした。桓武天皇にしてみれば自分の下した判決の誤りを認めるのは忸怩たる想いはあったでしょうから本当は早良の名誉回復だってしたくはなかったのでしょうけれども、早良の怨霊の猛威が凄まじかったため仕方なく早良の名誉回復だけはしたのです。それでも家持をはじめ他の者達の免罪は意地でもしなかったわけですが、桓武が死ねばそのような桓武の意地にこだわる必要は無く、ましてや後を継いだ平城天皇は父の桓武の方針の逆をやることが大好きな人でしたから、既に早良同様に怨霊化していたと見なされていた大伴家持の罪は赦され、名誉回復が行われ、彼が生前に編纂し完成させていた「万葉集」は顕彰され、名歌集として推奨されることになったのです。
この「万葉集」は5世紀から8世紀にかけて数多くの人々によって詠まれた和歌の名歌を4500首以上も集めて編纂された詞華集、アンソロジーであり、この9世紀初頭の時点においては、まさに日本における和歌の集大成的な存在でした。この「万葉集」が桓武の死後に世に出て、平城、嵯峨の時代に朝廷において多くの人々に読まれるようになっていきました。「万葉集」は音仮名、訓仮名を駆使して書かれており、漢文を読むのに比べれば簡単であったので、普段は漢文を読まないような人達にも多く読まれるようになりました。つまり女性たちにも読まれる機会が多かったということです。
この場合、家持の書いた原本を回し読みしたわけでもないでしょうから、平城・嵯峨時代に幾らか写本が作られたのであろうと思います。しかし20巻もあるわけですからそうそう多くの写本は作られなかったでしょう。ただ、和歌の場合は別に漢詩のように必ず文字化しなければいけないというわけではなく、気に入った歌だけ詠み伝えていったり、適当に短冊にでもメモしておくという形で広まっていくことが出来ますから、そのようにして広まっていったのでしょう。

このように広まっていった「万葉集」の和歌は、やがて宮廷の人々の間で和歌を詠むブームを起こしていきました。当初、主にそのブームの担い手になっていったのは女性達でした。桓武朝以来、天皇の妃の人数が飛躍的に増えて後宮が充実し、妃たちに仕える女官たちも増え、宮廷における女性の占める割合が大きくなりました。女性たちは小難しい漢詩や漢文など大体は読みませんし、そもそも漢詩や漢文の扱うテーマはいわゆる「大文字の文学」というものが多く、天下国家を論じるような堅いテーマが多く、女性にはとっつき難いものでした。
その点、「万葉集」に収録されているような和歌は女性にも読み易く、その主題も私的な感情を詠んだものが多く、その多くは恋愛感情であったので、何時の時代でも女性は恋愛ものが好きですから愛読、というか愛唱、愛詠したことでしょう。そして、とにかくお手本は4500首以上もあるわけですから、「万葉集」の和歌を真似て自分でも恋の歌なんかも作ってみたりしたことでしょうし、作れば他人に聞かせたり見せたくなるもので、仲の良い女性同士や妃とその女官たち主従などの集まりの場で詠唱し合ったり、短冊に書いた歌を見せ合ったりしたことでしょう。それは「万葉集」に多くある「五七五、五七五、五七五・・・」が長く続く「長歌」ではなく、その返歌として添えられた「五七五七七」の「短歌」のスタイルが最も好まれました。
とにかく妃たちは恋愛沙汰が仕事のようなもので、いかに天皇の寵愛を他の妃よりも自分に向けるかということに自分自身だけでなく周囲の女官たちも一蓮托生、一族全体の浮沈がかかっていたりするのですから、たかが恋愛の歌などといって馬鹿にしたものではありません。なにせ「万葉集」には言霊思想が中心思想として存在しており、和歌には言霊が乗るわけですから、和歌で歌い願ったことは現実化するのです。天皇を恋い慕う歌を歌い、その歌の言霊が優れていればその恋は成就するはずなのです。他愛ないと思われるかもしれませんが、現代でも若い女性たちは恋占いや恋まじないなどに夢中になるものであり、ましてや当時は言霊思想というものが本気で信じられていた時代なのですから、妃や女官たちが和歌に夢中になるのも当然という環境でした。

このようにして嵯峨朝の時代において宮廷の妃や女官たちの間で和歌を詠む習慣が広まっていくと、続く淳和・仁明朝の時代にはその習慣は宮廷の男性社会にも拡大していくようになりました。妃の中にはせっかく作った恋の歌を直接天皇や親王に見せたり聞かせたりする者も現れ、そうなると天皇や親王としてもそれに対して和歌で返事をしたくもなるわけで、まぁ漢詩で返事をしても妃には読めませんし、和歌で遣り取りをするようになります。また、皇族以外の貴族や官人の男たちも妃に仕える女官たちや内親王、他の貴族の娘たちにアプローチする際に、彼女たちの好む和歌を使ってアプローチするようになり、こうして宮廷やその周辺において和歌を贈答し合う文化が生まれることになったのです。
こうした和歌は公式な場で作られることの多かった漢詩とは違い、私的な内容の遣り取りに終始したものが多く、その分気楽で、秘かに多くの愛好家を増やしていきましたが、まだこの時点ではあまり胸を張って「和歌をよく詠んでます」などと大の男が言うようなものではなかったと思われます。和歌の地位が大きく上昇するのは10世紀初頭の「古今和歌集」の成立以降のことでしょう。
もともと女性の間で広まった和歌文化ですから、そこに男性が加わったからといってそれは女性の和歌世界に合わせたものとなるのであり、自然と和歌の歌風は繊細優美で女性的なものとなっていきました。ただ男性が歌い手に加わることによって漢詩世界の影響をより受けるようになっていき、歌の主題に四季折々の花鳥風月を織り込んだ叙景歌や叙情歌が歌われるようになり、作品世界が大きく広がりました。また漢詩の技巧の影響を受けて掛詞や縁語などの技巧も駆使されるようになり、徐々に和歌は芸術としての側面も持つようになっていき、技巧的に優れた歌人も輩出するようになっていきました。ただ、和歌の本質が言霊にあるという点は「万葉集」以来の伝統として受け継がれ、それは後に「古今和歌集」の序文において改めて再確認されることとなります。

また、この嵯峨朝から淳和・仁明朝にかけての時代は漢文や漢詩を読んだり書いたりする人が増えた時代でもありました。それは朝廷における法典類の作成熱が盛り上がった時代であったということもありますが、白居易の漢詩が好評を博した時代であったという点も大きな要素でした。
白居易は唐の詩人で、日本では白楽天という名のほうが有名です。若い頃から詩作をしていたようで、だいたい8世紀末から9世紀半ばまで詩作活動を継続しました。彼の詩風は彼自身が生涯を官僚生活を送ったためか、安禄山の乱以降の唐の政治や社会の実相を批判したり賞賛したりする、どちらかというと時事評論のような堅い内容の詩が高い評価を受けていたのですが、その傍らで繊細で優美な表現を駆使して感傷的な内容を詠じた詩も多く作っていました。
この白居易の漢詩が嵯峨朝以降に随時、日本にも伝わってくるようになりましたが、日本においては感傷的な詩のほうが好まれたようで、その中でも特に代表的なものが「長恨歌」という長編詩で、玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋のエピソードを詠ったものでした。これが日本の貴族たちに大人気となり、後の平安文学に大きな影響を与えることになります。まず漢詩の世界では白居易の作風を真似たものが多く作られるようになり、例えば後の菅原道真の漢詩なども白居易の作風の影響は大きいとされていますし、また、白居易の感傷詩の世界観は和歌の繊細優美な作風の形成にも大きな影響を与えました。そして、「長恨歌」のような優美な恋愛物語風の作品は日本には存在しなかったジャンルのものであり、これが広く親しまれたという下地から、後に日本独自の物語文学というジャンルが生まれてくることになるのです。

それに先立って、この淳和・仁明朝において「長恨歌」をはじめとする白居易の漢詩が広く親しまれるなどして漢詩や漢文を読む人が増えるようになると、漢文を白文で読めないような人でも漢詩漢文を読みたがる人が増えてくるようになり、また読まねばならないという局面も増えてきました。
日本人は漢文をシナ語で読まず、漢文の漢字の並んだ文字列を見ながら脳内で日本語に変換して理解するという読み方をしていました。漢詩をやる人というのはこの上に更に漢字の音の韻律なども把握した上で作詩作業をしていたのであり、なかなか高度な頭脳の必要な作業であったのであり、だからこそ漢詩をやる人は一流の知識人であると見なされたのですが、全ての人がここまで高度なことをこなせるわけではありません。
そこで、この時代になって漢文に触れる人が増えてきたことを受けて、漢文を脳内で日本語に変換する際の補助記号を漢文の漢字文字列の横に添えることが頻繁になってくるようになり、その補助記号というのは大体は音仮名や訓仮名で書かれていたのですが、これは漢字を使用しているので一文字一文字を書くのが面倒で、こうした補助記号の使用頻度がこの時代になって頻繁になったため、次第に補助記号の音仮名や訓仮名の漢字が簡略化されていくようになり、平仮名や片仮名が成立するようになってきたのです。
こうして漢文初心者の読解用の補助記号の使用文字として平仮名や片仮名が成立したのですが、この平仮名や片仮名は表音文字ですから、和歌を書く時に使用していた音仮名や訓仮名の代用としても使えるわけで、平仮名や片仮名のほうが実際、特に女性にとっては書くのも読むのも簡単なのですから、たちまち和歌は主に宮廷の女性たちによって平仮名で書かれるようになっていきました。
そのようにして和歌を詠み書き留めるという作業を通じて、宮廷の女性たちによって仮名文字を使用する習慣が定着していき、これが更に9世紀後半には宮廷女性たちの身の回りの雑事のメモ書きにも使われるようになっていき、散文でも使われるようになっていき、10世紀以降に日本文学、女流文学が開花する基礎を形成することになっていくのです。
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414ぷっくり膨れた豆を写メらせてもらったYOwwwなんか最近クリ写メココで流行ってるみたいw詳細きぼんぬww
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【2007/12/07 18:48】 URL | 347由紀子LOVE #JalddpaA [ 編集]


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【2008/12/07 07:46】 URL | 57 #- [ 編集]



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