KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その338 天台法華円宗
さて、この律令国家文明の改革期の時代、言い換えると王朝国家文明の黎明期の時代に加わってきた新たな要素の代表格といえるのが平安二宗、つまり仏教における天台宗と真言宗でしょう。日本における天台宗の開祖は最澄、真言宗の開祖は空海で、共に804年に出発した延暦の遣唐使に加わって唐に渡り、新しい仏教思想を日本にもたらしたのでした。ここで少し時代は遡りますが、804年の最澄と空海による入唐体験から平安二宗の日本における受容の経過を書いていってみます。そして、インドやシナにおける密教の歴史については既に簡単に説明しましたので、ここではまずは古代インドにおける法華経の成立から振り返っていかねばならないことになります。

天台宗は大乗仏教の宗派の1つで、大乗仏典の1つである「妙法蓮華経」という経典を根本経典とする宗派です。「妙法蓮華経」は略して「法華経」ともいわれます。法華経の成立は紀元前1世紀ぐらいのことで、大乗仏教の成立期に書かれた経典のようです。当然その約五百年前に存在していた釈迦が直接説いた教えが書かれているわけではなく、初期の部派仏教の出家者優越主義に対するアンチテーゼとして興った大乗仏教運動の文脈で、在家信者を中心とした大乗教団によって書かれた経典でありましょう。
ただ、他の大乗仏典の多くが「声聞」と「縁覚」という彼らの言う出家者への批判姿勢が根底にあるのに対し、法華経ではこれらに融和的であり、これらをも包括した覚りの境地を目指しています。本来は「声聞」とは師匠の教えによって覚りを開いた者を意味し、「縁覚」とは独力で覚りを開いた者を指しますが、大乗仏教においてはこれらは自己の解脱のみに執着して利他行を忘れた現実逃避的、自己中心的存在とされ、これらを「小乗」または「二乗」と蔑み、成仏することは出来ない存在としました。
この「二乗」に対置する存在が「菩薩」であり、成仏のための修行をしながら利他行を行い、衆生と共に歩み、教え導く存在で、大乗仏教ではこの「菩薩」こそが成仏できると見なされました。利他行こそが大乗仏教の根本理念であるのですから、それを行う「菩薩」を尊び、それを行わない「二乗」を蔑むという性格を大乗仏教が持つというのは自然の成り行きであったといえるでしょう。このように、同じ修行者でも「声聞」「縁覚」「菩薩」という三種類があり、それぞれ成仏出来る者もあれば出来ない者もあるという考え方が初期大乗仏教に生じて、これを「三乗思想」といいます。
ところが法華経においては徹底した平等主義が提唱され、「菩薩」はもちろんのこと、「声聞」「縁覚」でも、またこの頃は成仏不可能であるとされていた女性も、そして人間以外の生き物でさえも、とにかく一切の衆生が成仏可能であると説いたのです。これを「三乗思想」に対して「一乗思想」といいます。「小乗」を自己中心的であると批判して「大乗」が生じた以上、その「小乗」を排斥しているうちは、それは真の「大乗」ではないというのが「一乗思想」の理念でした。法華経こそが真の「大乗」の教えであるというわけです。
大乗仏教における釈迦如来というのは歴史上の実在の釈迦ではなく、「久遠実成の釈迦」といいまして、久遠の昔から存在し覚りを開いていた存在であり、永遠の寿命を持ってこの世に常住しているのであり、歴史上の釈迦は初歩の教えを説くためにこの世に現れた仮の姿であるとしました。法華経においてもこの「久遠実成の釈迦」を本尊とするのですが、この仏の本質を法華経では、法華経に縁を結んだ生命が流転苦難を経ながら信の道へ入り無限の可能性を開いていく生の在り方そのものであるとしました。つまりこの世は永遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続ける場所なのであり、それゆえ一切の衆生がこの世においていつかは成仏可能ということになるのです。また法華経によってこの奥義を知った者はそれだけで大きな功徳を得るとも説きました。
このように法華経においては仏というものがまるでキリスト教における絶対神のような超越的存在になっており、このような超越的存在であるから衆生を救済する能力があるということになるのです。これはかなりラディカルな経典であり、緻密な理論性にもいまひとつ欠けるともいえます。それゆえ論難されることも多く、それゆえなのか、法華経の中において「この教えを信じ広める行者は必ず世間から迫害される」という予言までしてあり、これは後に日蓮が盛んに喧伝するところとなりました。

しかしこの法華経に説かれている教えが魅力的であったことも事実で、法華経はまずインドにおいて広く流布し、次いでユーラシア大陸東部において広範な地域で流布したようです。そしてシナにも4世紀に伝わり、6世紀終盤の隋時代にこの法華経を根本経典として、止観によって仏になることを説いた天台教学が確立し、天台宗が成立したのでした。この宗派の本拠地が浙江州の天台山という山に築かれたので天台宗というのです。
「止観」というのは「禅定」とほぼ同義で、要するに坐禅をするということです。姿勢を正して座った状態で精神統一をするという修行法で、あるがままの自分と世界を体感して無の境地に至ることを目的とします。もともと釈迦が最終的に覚りを開いたのもこの禅定によってであり、仏教における基本的修行法であったのですが、シナにおいては当初はこの禅定のちゃんとしたやり方が伝わっていませんでした。それが6世紀前半にインドからボーディダルマという修行者がやって来て禅を伝え、これを天台教学では成仏に至る修行法として取り入れたのです。
このように教学的にも実践的にも画期的な教えであった天台宗は、大衆に受け入れられやすい教えであったために教団を形成して勢力を拡大しました。しかし大衆受けはしたものの、やや理論性を欠いていたために権力者にはあまり好まれず、国教的な地位としては少し遅れて成立した三論宗に押されて、国家中枢には食い込めませんでした。そういうわけで、6世紀に仏教が伝来した日本においては最初から経典としての法華経は伝わっていましたが、天台教学は伝わらず、やがて7世紀になると三論宗が伝わったため、日本では三論宗が主流となり、天台宗の存在は知られることはありませんでした。

シナ仏教においてこの隋唐時代に存在した「宗派」というものは殆どは日本で言う「南都六宗」のような、むしろ「学派」というべきもので、教団を形成していたのは天台宗と禅宗、浄土教ぐらいでした。天台宗が一番早く成立し、6世紀終盤に法華経を根本経典とする天台教学を大成して止観による成仏を説きましたが、その後は三論宗や法相宗などの学派仏教に押されて一時期勢いが衰えましたが、8世紀後半に再び勢力を盛り返しました。また、ボーディダルマの教えを継承して7世紀前半に確立したのが禅宗で、これは禅定による覚りを特に重視した実践的な教団でしたが、8世紀後半に入って知識と瞑想によって覚りを目指す従来の仏教を否定して、禅定による修行をも排して「頓悟」という師匠から弟子に受け継がれていく非言語的な覚りを目標とするようになってから大きく発展するようになっていきました。そして浄土教というのは阿弥陀如来の極楽浄土への往生を目指す浄土信仰のことで、これは7世紀後半に大成されました。
これらの教団型の仏教宗派はシナにおいてはどちらかといえば大衆に基盤を置いていて国家権力との結びつきが弱く、国家権力に食い込んでいたのは三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗などのような学派的な宗派のほうでした。それゆえ国家権力によって仏教を統制する政策をとっていた奈良時代の日本はこれら学派仏教のほうが相性が良かったのでありましょう。これらを7世紀前半から8世紀中頃まで順次導入していったのでした。これらが「南都六宗」といわれるものであったということについては既に述べました。
一方、教団型の宗派のほうは、そもそも日本においては教団というものは作ってはいけないわけですから、眼中に無かったということなのでしょう。それでも浄土思想に関しては8世紀に入って日本にも伝わり、日本古来の祖霊信仰との相性が良かったので、それと習合して先祖敬仰信仰を形成していったということも、これも既に述べました。
日本における律令国家の為政者たちは仏教の法力でもって怨霊鎮魂を行おうとしたのですが、8世紀中頃までに導入した南都六宗は結局、悉くこうした期待を裏切る結果になりました。そうしているうちに8世紀前半にインドからシナに中期密教が伝わり、8世紀後半には密教がシナにおいて大成されるようになりました。これに先立って雑密といわれるあまり体系化されていない密教の断片のようなものが7世紀後半ぐらいから日本にも入っていて、それが日本古来の自然信仰と習合して山岳修行者の集団などを形成していたのですが、この呪法に長けた密教というものに日本の為政者、特に8世紀末の桓武天皇は注目するようになりました。それは792年に早良親王の怨霊が出現したことによるものでありました。

早良親王の怨霊の祟りから逃れるために桓武天皇は794年に平安京へ遷都を行いますが、それでも怨霊の祟りは収まらず、陰陽道で言う都の「鬼門」の方角、つまり東北の方角に呪術的な結界を設ける必要が生じ、桓武天皇は平安京の東北にある比叡山という山に篭って仏道修行に励む最澄という27歳の僧侶と出会うことになります。
最澄は雑密の呪法も修めていたので桓武は彼に平安京の鬼門の結界を任せるようになり、重用するようになりました。そして桓武の興味はシナにおいて8世紀後半になってから最新流行の宗派となった、雑密などとは違いしっかりと体系化された本場の密教に向けられるようになっていきました。しかし最澄にとっては実は雑密や密教の呪法はさほど重要なことではなく、彼が南都六宗から距離を置いて比叡山に篭って最も熱心に研究していたのは天台教学であったのです。
どのようにして日本に天台教学が伝わったのかというと、それは南都六宗のうちで最も遅く日本に伝わった律宗の伝来と同時のことでした。753年に日本に渡来して律宗を伝えた鑑真は実は天台宗も兼学しており、日本渡来時に天台教学の典籍も持参してきていたのです。それで日本にも天台教学は紹介されていたのですが、あまり注目はされていませんでした。
そういうところに、おそらく780年代ぐらいだと思いますが、長岡京遷都によって南都六宗が時代に取り残され始めていった頃、既存の南都六宗には飽き足らず、「真の鎮護国家思想」の実現のために新たな仏教を模索していた若き学僧であった最澄は天台教学と出会ったのでしょう。最澄は天台教学の「一乗思想」に魅せられました。一切の衆生が成仏可能であるということは、日本の人民全てが成仏可能ということでもあり、もし全ての民が悟りを開けばそれは「仏国土」の実現であり、日本に最高の功徳が得られるはずです。それこそ「真の鎮護国家」の実現だといえるでしょう。「真の鎮護国家」の実現のためには天台教学の「一乗思想」に賭けるしかないと最澄は考えるようになりました。
そこで更に最澄が天台教学について調べてみたところ、最澄から見れば、そもそも天台教学を奉じる天台宗は日本で主流となっている南都六宗よりも先行して成立した教えであったにもかかわらず日本では忘れ去られていた教えで、南都六宗の「三乗思想」は大乗仏教としては不徹底な教えであり、「一乗思想」を奉ずる天台宗こそが真の大乗の教えなのであり、真の大乗たる天台宗を容れずに不徹底な大乗に過ぎない南都六宗を容れたことが日本において「真の鎮護国家」が実現しない原因なのであるということになるのでした。現にシナ大陸ではこの頃、再び天台宗の教勢が回復してきており、これにより多くのシナ人が真の大乗の教えに目覚め、まさにシナが真の仏国土になろうとしつつあるというように最澄には見えました。だから最澄は日本の仏教も天台宗を中心に据えて再編成して「真の鎮護国家」を目指さなければいけないと思うようになったのです。
そのように考えて比叡山寺に篭って天台教学の研究に励んでいた最澄の評判が次第に高まり、桓武天皇の知己を得ることになったのでした。高徳の僧であるのだから、さぞその法力も強いのであろうと桓武は期待し、平安京の鬼門の結界を任せようとしたのです。もちろん最澄も当時の修行僧の通例として雑密の呪法は一通り修めていたので桓武の期待にさしあたり応えることは出来ました。
しかし最澄が最も渇望していたのは天台教学を究めることであり、その想いが昂じて、とうとう最澄は桓武天皇に自分の弟子をシナの天台宗の総本山である天台山に派遣して天台教学の真髄を学ばせることの許可を願い出たのでした。その願い出を受けた桓武天皇は天台教学のみならずシナの最新密教を学んでくることを命じ、最澄自身が遣唐使に参加して密教の奥義を学んでくるように命じたのでした。桓武天皇としては平安京遷都後も相変わらず早良親王の怨霊の祟りは収まらず、800年には早良に「崇道天皇」の追号まで贈ったばかりの頃でしたから、とにかく怨霊鎮魂のための最新密教の呪法の摂取に最も期待するところが大きかったのです。

こうして804年7月に37歳の最澄は延暦の遣唐使に参加して唐へ出発したのですが、既に日本において高い地位にあった最澄は長期間滞在型の留学生や留学僧とは違い外交使節団と同じ扱いで参加したので、所定の帰国船で日本へ帰ってこなければいけませんでした。つまり滞在期間が非常に短く限られていたのであり、それゆえ9月に唐に到着するなり最澄とその弟子たちの一行は他の使節団随員たちとは別行動をとってすぐに浙江州の天台山に向かい、そこで天台教学を学び、必要な経典類を書き写したり修行法を会得したりしました。
それが一通り終わった後、最澄は帰国までの時間を使って更にシナにおける最新の戒律と禅と密教を学ぶことにしました。これはつまり、最澄はシナの天台宗を単にそのまま日本に導入しようとしたのではなく、天台教学を中心に据えて戒律や禅や密教をも網羅した新しい総合仏教を日本において構築しようとしていたのであり、そのために最新の戒律・禅・密教についても学んでおこうとしたのです。当初から最澄はそのつもりでありましたから、桓武天皇の「密教を学んでくるように」という命令も違和感なく受け取っていたのでした。しかしあくまで最澄にとっては天台教学こそが最重要でありましたから、どうしてもその他の戒律・禅・密教に関しては二の次、後回しになってしまったのであり、その奥義まで徹底して受容するまでには至らなかったのでした。とにかく最澄一行には時間が無く、805年2月には長安に移り帰路につき、6月には日本へ帰国したのでした。滞在は正味5ヶ月というところでした。
日本へ帰国してきた最澄は805年8月には桓武天皇によって内裏に召され、翌月には内裏でさっそく桓武は最澄にシナから仕入れてきた密教の呪法を行わせたりしており、桓武が大いに最澄の密教に期待していたことが分かります。そうした桓武の期待に応えつつ最澄は桓武に天台宗の公認を願い出て、806年1月に南都六宗に準じる立場で天台宗が公認されることとなり、比叡山寺を本拠地として日本における天台宗が最澄を開祖として開宗されることとなったのでした。
この最澄の開いた日本における天台宗は正式名称を「天台法華円宗」といいまして、法華経を「円のような完璧な教え」として最高のものとしながら、更に戒律と禅と密教も網羅し、「円・戒・禅・密の四宗を相承した」総合仏教でありました。しかしこの天台宗の船出は前途多難なものとなりました。最澄の最大の庇護者であった桓武天皇が806年3月に病で亡くなってしまい、そういう時期に今度は南都六宗との間に戒律問題での対立が持ち上がったのでした。

日本における仏教各宗派は国立仏教研究所のようなもので、そこに所属する僧侶は国家公務員のようなものであったので定員が決まっていました。その定員枠を確保したことによって天台宗は公認されたのですが、僧侶になるためには更に国立戒壇で戒律を授かる必要がありました。この国立戒壇が全国に3箇所しかなく、畿内においては奈良の東大寺、つまり南都六宗のテリトリーにあったのですが、ここで僧侶に授けられていた戒律は鑑真が日本に伝えた、いわゆる「小乗戒」といわれるものでした。
この「小乗戒」という戒律は極めて厳しい内容のものであり、一言で言えば、紀元前5世紀に古代インドで釈迦が悟りを開いた頃に守られていた戒律の伝統をそのまま受け継いだものでした。その頃の仏教というのは大乗仏教はまだ存在しておらず、一般に対する布教も救済活動もせず、利他行もせず、ひたすら自己の解脱のために全ての財産も現世のしがらみも捨てて修行三昧の日々を送る修行者のみによって構成されていました。だから極めて厳しい戒律でも不都合は無かったのですが、その後、紀元前後に生じた大乗仏教において出家者以外の在家信者が増えてくると、従来の小乗戒では在家信者が現世の生活を送りながら守っていくのは不可能であったので、そういった在家信者のための戒律も必要になってきました。そこで在家信者用により緩やかな戒律が作られるようになり、それが「大乗戒」といわれるようになりました。
ところで大乗仏教においては実際、僧侶もまた利他行を実践して、自己の解脱も求めつつ衆生の救済もやっていこうとして一般社会と関係してやっていこうとするものなのですが、その場合には「小乗戒」では何かと非現実的な戒律も多く、不都合も生じてきていました。そこで最澄は806年に天台宗を開いた後、日本の仏教は天台宗も含めてみんな大乗仏教なのだから、僧侶に授ける戒律も大乗仏教以前の「小乗戒」ではなく、より大乗仏教の活動に見合った「大乗戒」にすべきであると主張したのです。
しかし、これを聞いた南都六宗の僧侶たちは猛反発しました。最澄の言い分を認めてしまっては、自分たちが今まで一生懸命守っていた戒律が古臭い無意味なものであったと認めるようなものであり、南都六宗の存在そのものを否定するようなものであったので、到底承服できるものではなかったのでしょう。
また、彼ら南都六宗の僧侶たちの中には、日本の仏教の僧侶たちの法力は厳しい戒律を守って自己を律しているからこそ維持されているのであり、戒律を緩いものにしてしまえば法力も弱くなってしまい、鎮護国家の呪法も行えなくなってしまうと主張する者もいました。これは確かに一理あるといえば一理あり、朝廷としても鎮護国家の呪法が行えなくなってしまっては困りますから、南都六宗側の言い分に同調する者も多く、それでも桓武天皇が健在であれば最澄の意見が通ったのでありましょうが、桓武天皇は既に亡く、とにかく国立戒壇は南都六宗の影響下にあるわけですから、最澄は厳しい立場に立たされました。
そうなると最澄としては桓武亡き後の朝廷に食い込んでいくしかないのですが、そのためには朝廷の最も求める密教の呪法が切り札ということになります。幸い最澄は唐で最新密教を学んできていましたから、その点では南都六宗よりも優位に立っていました。しかし、この最澄の密教の優位を覆す事態が809年に生じます。正統密教の奥義を携えて空海が平安京に乗り込んできたのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。