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日本史についての雑文その340 群盗海賊
822年6月に55歳で最澄が死去した7日後に比叡山に大乗戒壇の設立を許可する勅許が嵯峨天皇から下されましたが、その勅許の宣下に尽力したのが47歳の右大臣の藤原冬嗣でした。最澄の大乗戒壇設立のコンセプトは「小乗戒」という既存の仏教界の権威に抗ってでも「国の宝」とも言うべき仏教指導者の育成を図るということにあったのであり、この2年後の824年に、たとえ既存の根本法である律令に反してでも国司の人材を精選して地方税収のアップを図ろうというコンセプトの「反経制宜」の意見書を奏上した藤原冬嗣には、律令国家文明修正期末期と改革期初期という行き詰まりの時代に共に青壮年期を送った同士として「人材育成」という部分で何らか最澄と気持ちの通じる部分があったのかもしれません。
日本という国はまったく人材が最大の財産であり「人材育成」こそ国家の要諦なのですが、成長の時代には目先の利のほうに目がいき、どうしてもそれがおろそかになりがちです。行き詰まりの時代になってその打破のために人材育成の重要性がより強く意識されます。それが初めて強く意識されたのはこの時代からであったのかもしれません。

冬嗣は826年に亡くなりますが、その後、空海が宮中で国家護持の修法を執り行っていた時代において、現実的に国家を護持していくための税収確保のために各地方で奮闘していったのは、冬嗣の「反経制宜」の精神で育成された地方官僚、つまり国司や郡司たちであったのでした。それは具体的には822年の擬任郡司制の充実と824年の勘解由使の設置による国司官長の責任の重責化、つまりそれによる人材精選および権限集中化によって地方行政拠点としての国衙や郡衙における行政能力の向上を図る方向性でした。
この方向性は9世紀中葉において地道に成果を上げていくようになり、守や介(親王が守を拝命する親王任国では次官である介が実質的官長となる)などの国司官長は地域社会に精通した郡司たちを直接支配下に置いて、郡司たちに税目別に郡務を分掌させて租税の徴収および都への貢納物の運搬納入に責任を負わせて、その責任を果たせない郡司にはその損失分を補填させる体制を整備していきました。
これによって徐々に租税収入は安定していくようにはなっていきましたが、それでも中央政府の赤字はなかなか解消されませんでした。それはそもそも官僚の数が多く中央政府の出費が無駄に多過ぎるからであり、中央政府の職務を分担して俸給を受ける諸官司や諸氏族の勝手に要望する額面通りの貢納物を大真面目に納めていては、各国においていくら租税を徴収して中央へ貢納しようとも全然足りなくなるのは当然であり、そのようなことをしていては郡司は結局は納入責任を果たせなくなり国司に未進分の補填を迫られることとなり、それも払いきれない場合がほとんどですから結局は国司が累積赤字を抱え込むことになります。
この頃は諸司や諸家は彼らの求める量の全ての調庸が納入されるまでは受領証を郡司に渡しませんでした。受領証が貰えなければその分の調庸は未進ということになり郡司は責任を問われてしまいますから、どうしても郡司は諸司や諸家の要求に従わざるを得ませんでしたが、そうなると諸司や諸家は自らの抱える過剰な数の官人の俸禄を得るために調子に乗って法外な量の調庸を郡司たちに求めていくようになり、あちこちの諸司・諸家がそのような強欲なことをやり出したら郡司たちの持参した調庸物では足りなくなり、結局は各国からの調庸未進分が膨らんでいくことになりました。
そういった悪循環を断って地方行政組織を保護するために、826年には各国から都へ調庸の納入にやって来た郡司たちは大蔵省の主計寮に所定の調庸を一括納入し、主計寮から諸司・諸家には所定量の調庸物が分配され、諸司・諸家はそうした調庸の納入を受けるたびに受領証を出さねばならなくなりました。つまり諸司や諸家は受領証の発行と引き換えにして郡司たちに法外な量の調庸物の納入を直接要求することが出来なくなってしまったのです。納入の督促は主計寮のほうで一括で行うようになりましたから、不正が入り込む余地は無くなりました。
つまり政府としては諸司や諸家に対しては「税収はこれだけしか無いのだから、あとは各部署で上手く遣り繰りしろ」と言っているわけで、これはこれでなかなか乱暴な話で、律令法の規定には無い措置であり、これもまた典型的な「反経制宜」的な措置であるといえます。ともかくこれで各国の国司や郡司に中央から過重な租税督促の負担がかかることは少なくなり、一応は地方の行政機構の状況は安定しました。こうしてここから始まる律令国家文明改革期の後期は全体としては律令国家の建て直しが順調に進んでいくことになります。

しかし、それでも各国の国衙の苦労が無くなったわけではありませんでした。そもそも国司官長の下に多数の擬任郡司を抱え込まなくてはいけなくなったのは、それだけ国内で租税を徴収するのが困難な状況であったからでした。国内の有力土地所有者である富豪たちはなんとかして租税を取られまいとして抵抗し、国司官長から租税徴収の担当を命じられた郡司たちは四苦八苦していました。とにかく租税徴収が目標量に達さなかった場合は今度はその担当郡司が国司から損失分の補填を迫られて追い込みをかけられることになるのですから、郡司にとって真に恐るべきは富豪たちではなく、むしろ上役である国司のほうでした。
国司は国司で租税徴収の成績が悪いと中央から叱責されますから郡司の業務に過重な要求をするようになり、そうなると郡司は富豪たちから必死で租税を取り立てるようになり、それで租税収入が増えて上手くいく場合も多々ありましたが、一方では富豪層の抵抗によって租税収入が増えず郡司が逆に国司に責任を問われて窮地に陥る場合もありました。また、租税収入が増えた場合でも多くの税を取られた富豪層には国司や郡司の過酷な仕打ちを恨み反発の感情を強くする者も増えました。こうなると郡司層は国司と富豪層の板挟みにあって辛い立場となってきます。
そうしたところに郡司層を更に窮地に追い込むことになったのが中央の諸司や諸家が派遣してくるようになった徴物使という私的使者たちでした。これは、先述の措置によって地方から来る郡司たちに直接に租税の督促を出来なくなった諸司・諸家のうち、自らの努力で経費節減をしようとせずに、あくまで地方から法外な取り分をぶん取ることに固執した連中が、地方から調庸を運搬してくる郡司の一行を都に入る前の道中でつかまえて強引に自分たちの取り分をぶん取ってしまおうというものでした。もちろんこれは違法行為でしたが、諸司・諸家のほうでも違法行為ということは承知で「私的」な使者、つまり言い換えればそこらの盗賊と大差ないような荒くれ者を送り込んできて、あくまで自分たちが直接関与しない態勢をとっているのですから性質が悪く、しかもそれでいてこの徴物使たちはバックの権力を匂わせて乱暴狼藉を行い、官憲のほうでもついつい及び腰になってしまい、しかも逃げ足が早く足取りが掴みにくいのが厄介でした。
この徴物使たちは平安京周辺の道中で調庸運搬の郡司一行を待ち伏せすることが多かったのですが、中には各国の農村地域にまで乗り込んできて、直接富豪たちから取り分を徴収しようとする徴物使まで現れるようになりました。すると強欲な富豪たちの中にはこの徴物使と結託して自分たちの財物を徴物使のバックにいる諸司・諸家に預けて郡司による徴税を逃れようとする者も現れてきて、そういう場合はますます郡司の仕事は困難になってきました。

また道中で郡司一行を待ち伏せする徴物使に現地の性質の悪い富豪たちが加勢する場合もあり、こうなるともう一種の盗賊団のようなもので、こういう調庸運搬の郡司一行を狙う盗賊団は830年代ぐらいから現れるようになり、「群盗海賊」と呼ばれるようになりました。この群盗海賊の被害に遭って調庸物を奪われた場合、都の大蔵寮に納めるはずであった調庸物は未進ということになり、通常ならば運搬担当の郡司は国司からその補填を迫られることになるのですが、これは不可抗力ですから、運搬にあたっていた郡司は被害届を出してその上で事件現場を管轄する郡司の被害証明書があれば、弁償義務を免除されました。
もちろんこれは当然の処置なのですが、しかし慣れてくるとこういう寛大な処置というものは必ず不心得者によって悪用されるケースというものも出てくるもので、運搬郡司の中には実際はありもしない群盗海賊の被害をでっち上げて調庸物を着服してしまう者も現れるようになりました。もちろん現地管轄の郡司にも着服した調庸物の一部を賄賂として渡して偽の被害証明書を書かせたことは言うまでもありません。
なぜ郡司たちの中にこのような悪事を働くようになった者が出てきたのかというと、それはもちろんもともと性根が悪い者であった場合もあるでしょうが、別の一因としては国司官長の郡司に対する締め付けがあまりに厳しく、そのノルマに耐えかねて暴発したということもいえるでしょう。そもそも富豪層が徴物使などと結託して徴税妨害を繰り返し、郡司たちはなかなか徴税ノルマをクリア出来なくなってきており、そうなると郡司は国司から補填を迫られることになりますが、補填する財産などありません。そこで進退窮まった郡司が偽の群盗海賊被害をでっち上げて調庸物を着服して、それを徴税不足分の補填に充てようとしたわけです。いや、中には自らが実際に群盗海賊行為を行って他の調庸運搬の一行を襲って物資を奪い、それを自分の徴税不足分の補填に充てようとする郡司も出てくるようになりました。
そうなると今度は更にエスカレートするケースも生じてきて、各国における各郡司の担当する地域における徴税不足そのものも群盗海賊による被害をでっち上げて弁済義務を免れようとする郡司も現れるようになりました。そして中には現地の富豪層や徴物使たちと結託して実際に群盗海賊の一味となるような郡司すら現れてくるようにもなりました。これらは結局、国司官長による郡司に対する過度の締め付けが生んだ事態だといえるでしょう。国司官長による郡司の締め付けはこの律令国家文明改革期の後期において全体的には地方行政を安定化させる効果を生み出しましたが、その一方で一部でこうした郡司層や富豪層、諸司や諸家の徴物使たちの結託した群盗海賊という副産物も生み出すことになったのでした。

しかしこのような悪質な事案に対して国司官長の側も唯々諾々と従うはずもなく、偽の被害届や偽の被害証明書など認めず、運搬担当郡司や徴税担当郡司の弁済責任を追及する姿勢を示すようになっていきました。すると郡司たちは群盗海賊被害をでっち上げて着服した(あるいは自分が群盗海賊化して奪った)調庸物を都の有力な貴族や寺社に寄進して、つまり賄賂のようなものですが、それと引き換えに自分をその貴族の家人ということにしてもらい、自分の財産もその有力貴族に寄進してしまい、それによって国司による差し押さえを逃れようとしたのでした。
こうなるともうその郡司は国司の下で働くわけにはいかなくなり、もはや郡司でもなんでもなく、国司の支配下から離脱して、単なる富豪の仲間入りをして、ほぼ群盗海賊の仲間になってしまうこととなり、そうした元郡司なども含んだ群盗海賊というものは、都の有力貴族とも裏で繋がった反国司闘争の様相も帯びてくるようになったのでした。もちろん真面目な郡司も従順な富豪層も沢山いたのであり、みんながみんな過激な群盗海賊化していたというわけではないのですが、それでも基本的には郡司層や富豪層には国司官長の過酷な徴税姿勢は嫌われており、そうした漠然とした反国司感情がこうした群盗海賊行為を下支えしていたという側面はありました。
そうした群盗海賊の一味となった郡司を国司が更に厳しく追い込もうとしたり、更に郡司層や富豪層をきつく締め付けようとした場合などは、これらの群盗海賊の一党が国司と厳しく対立することになり、時にはその対立が先鋭化して群盗海賊が国衙を襲撃して国司を殺害するようなケースも生じてきました。こうなるともう立派な反乱であり、深刻な事態となってきます。
このような深刻なケースが生じてくるようになったのが850年代ぐらいになってからのことで、このような事態を放置していくと悪徳富豪層はますますのさばり、徴税に深刻な障害が生じてきます。また、郡司層の国司離れが加速して、郡司を介しての任国支配体制が崩壊していく恐れもありました。そして何といっても狼藉者の集団から国司自身が自分の身を守る必要も生じてきました。こうなると今までとは様相が違ってくるわけで、国司官長は群盗海賊に対してまずは軍事的に、そして行政的にも何らかの断固とした対応策を講じていかなくてはならなくなります。これがこの後の時代の社会構造の大きな変化の始まりとなるのであり、このあたりから時代は律令国家文明の変質期へと移行していきます。ちょうど中央政界では仁明天皇が亡くなって文徳天皇が即位し、藤原良房が実権を握っていき、天皇親政時代から摂関政治開始へ至る移行期に相当します。
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ボランタリーチェーンとは、大手流通企業が運営するチェーンストアとは異なり、独立した事業者が、互いに連携を組み共同購買などを行なうことで、大手企業同様の購買力(バイイング・パワー)を発揮し、仕入れ単価の引き下げや業務の効率化を図る制度のことをいう http://earthen4.rcrane4law.com/

【2008/12/03 08:22】 URL | 57 #- [ 編集]



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