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日本史についての雑文その341 文徳天皇と六歌仙
823年の嵯峨天皇の譲位以降、嵯峨系と淳和系に分裂していた皇統を842年の承和の変で一本化したのは嵯峨天皇の息子であった仁明天皇でした。仁明天皇はその治世において強いリーダーシップを発揮しましたが、850年3月に40歳で亡くなり、同じ年に仁明の母で皇室の最長老であった檀林皇太后も亡くなり、23歳で即位した皇太子の道康親王、すなわち仁明の子の文徳天皇が朝廷を率いていく時代となりました。
しかしこの文徳天皇は生来病弱であり、天皇が内裏において執務を行う正殿である紫宸殿に出御してくることもなく、内裏内の天皇の私的空間である清涼殿に篭りがちになりました。そうなると公卿たちの政務処理の場もそれを追いかけるように内裏内にまで入っていき、紫宸殿の東の「陣座」という空間に公卿たちの詰め所が置かれるようになり、この場で太政官たちによる政務の決裁が行われるようになり、天皇に最終決裁を仰ぐ場合には太政官の代表として左大臣ないしは右大臣が清涼殿に出向いて天皇に伺いを立てるという「官奏」という儀式が行われるようになっていきました。
これは嵯峨朝以来進んできた天皇の執務空間のコンパクト化の極限とも言え、天皇のリーダーシップの更なる強化とも解釈出来ます。確かにそういう側面もありましたし、何より文徳天皇自身も病弱ではありましたが政務には非常に積極的な意識を持っていた方であったので、文徳天皇としてはリーダーシップの強化のつもりであったのでしょう。実際、天皇の権力には制度的には何らの陰りは見えておらず、天皇は間違いなく最高権力者でありました。天皇親政は揺るぎなく、むしろこの時代においては安定し成熟していったといえます。

しかし、陣座における公卿会議を主導して清涼殿の文徳天皇のもとへ官奏に伺ってくるのは大抵は右大臣であった藤原良房であったのですが、良房は文徳の生母である順子の兄、つまり文徳の叔父であり、しかも文徳の妻の明子は良房と源潔姫(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた娘であり、つまり良房は文徳の舅でもあったのでした。23歳で文徳が即位した時にこの叔父でもあり舅でもある良房は46歳で、ちょうど倍の人生を生きてきたわけで、しかも良房の人生は、父である藤原冬嗣の英才教育を受け、嵯峨天皇から初めて皇女の臣下への降嫁を許されるほどの期待を受けた俊才で、その上で更に20年以上も政界の中枢部の波に揉まれ、特に842年の承和の変以降は実質的に太政官の政務を取り仕切ってきたという、まさに酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨の経政家であり、文徳も決して暗愚であったわけではなく、むしろ頭脳明晰であったようですが、いかんせんまだまだ若輩でもあり良房とでは全く役者が違い、官奏の場もどうしても実力差がそのまま表れて実質的には良房主導で進められることになりました。
といっても、良房もこの年若い甥であり娘婿でもある天皇を決して軽んじていたわけではなく、おかしな野心を持っていたわけでもなく、自己の権勢を嵩に着て無道なことをゴリ押しするというわけでもなく、むしろ文徳に対しては臣下として忠節を尽くし、立派な君主に育て上げようとしていたと思われます。文徳のほうも決して良房を嫌っていたわけでもなく、そもそも政務においては良房の奏上する政策に対して文徳が異議を差し挟むような余地も無かったであろうし、実際、政策上の対立などは無かったと思われます。
ただ、文徳と良房との間で意見が対立することになったのは後継問題でした。文徳が即位した850年に良房の娘の明子は初めて文徳の皇子を産みましたが、これが文徳の第四皇子の惟仁親王でした。つまり文徳は皇太子時代に既に他の妃に3人の皇子を産ませていたということであり、このうち第一皇子がこの年に6歳になった惟喬親王で、母親は紀氏の娘で静子といいました。
この頃には天皇の即位とほぼ同時に皇太子を決めておくのが慣例になっていましたから、文徳の即位に際してもその皇子の中から皇太子を決めねばいけませんでした。最も年長の惟喬親王でも6歳ですから、誰を選んでも幼児ということになるのですが、文徳としては自分の健康状態に自信を持てず、そうそう長生き出来ないであろうと見越していましたから、自分が若死にすることを想定して、その時点で出来るだけ年長である皇子を皇太子にしておきたかったようです。つまりは最年長の惟喬親王を皇太子にしたかったようです。しかし良房は自分の外孫である産まれたばかりの惟仁親王を強硬に推し、文徳もこれに押し切られてまだ0歳児の惟仁親王を皇太子とすることになったのです。しかし赤ん坊を皇太子にするなどということは聖武天皇の時の一例を除き極めて異例のことであったので、これを不満に思う人も多く、文徳も不満に思ったようです。

なぜ良房が赤ん坊の惟仁親王の立太子にこだわったのかというと、それはもちろん自分の娘の産んだ自分の孫を天皇にしたいという気持ちも大きかったでありましょうが、それ以上に政治の安定を望んでのことであったのでしょう。すなわち、赤ん坊ながら惟仁ならば良房自身を筆頭に藤原一門のバックアップが期待できるのに比べ、年長とはいえ惟喬の場合は外戚の紀氏は古代から日前宮の宮司を務める名族とはいえ藤原氏に比べてあまりにも弱体で、しかも惟喬の外祖父、つまり生母である静子の父の紀名虎は3年前の847年に亡くなっており、惟喬の権力基盤はあまりに脆弱なものでした。
もし良房個人が文徳の気持ちを汲んで惟喬の立太子を認めたとしても、良房や文徳がこの世からいなくなった後は必ず藤原一門は不満を抱き惟仁を担いで惟喬を廃そうとするのは必定であり、こうした派閥論理の暴走というものは良房にも止めようはないのであり、ならばいっそ最初から赤ん坊の惟仁を皇太子にしておいて藤原一門で守り立てていくのが余計な揉め事を起こさない最善の策ということになります。
それでも自分の死後に幼君が即位することを不安視する文徳は、最初に年長の惟喬が即位し、惟仁が成人したら惟喬から惟仁に譲位するという計画を提案しますが、それでも良房は反対します。何故なら、それこそかつての嵯峨天皇が犯した過ちである皇統分裂に繋がる道だからでした。嵯峨系と淳和系に分裂した皇統と公卿たちがせっかく仁明天皇の下で一本化されたというのに、それがまた惟喬系と惟仁系に分かれるようなことは避けなければなりませんでした。2つに分かれた皇統は必ず派閥論理が暴走して朝廷の公卿たちの分裂を招きます。良房は若き日に自ら嵯峨系の側に身を置いてそうした政争の不毛を身をもって痛感しており、そうした分裂状態を収拾するために承和の変という後味の悪い結末を必要とし、自分自身さして憎くもない叔父を追放する羽目になっているのです。そのような事態を招いたのは嵯峨天皇の人間的な甘さでありました。大政治家であった嵯峨にしてその甘さがあり、皇統の分裂を防ぐことが出来なかったのです。しかしまた、嵯峨ほどの政治家であったからこそ朝廷の分裂をあそこまでに止めることが出来たのかもしれません。
その嵯峨や、そしてその分裂状態を克服した仁明などの歴代の名君たちに比べて、若く経験も浅い文徳が優っているというふうには、嵯峨や仁明を傍で見続けてきて承和の変もくぐりぬけてきた良房の目には見えなかったのでしょう。むしろそのような「惟喬→惟仁」のような変則的皇位継承を言い出す文徳の甘さを叔父として舅として歯がゆく思ったことでしょう。嵯峨のような大政治家でも一片の甘さであのような事態を招いたのです。若く経験の浅い文徳ならば尚更一切の甘さを排して政治を行うべきであると良房は思い、それゆえ惟喬親王を徹底的に排して、「文徳→惟仁」という皇統の一本化を強く主張したのでした。

しかしこうした良房の論理は文徳を十分に納得させることは出来ず、文徳は惟喬親王の立太子の望みを持ち続けていたようですが、結局それは果たせないまま858年に病のために31歳の若さで亡くなってしまいました。この時点で惟喬親王は14歳、皇太子の惟仁親王は8歳でした。文徳が危惧していた通り、自分の死亡時に後継の皇太子はまだ幼少という事態になったのでした。一方、惟喬親王のほうは14歳ですから当時で言えば元服する年齢、つまり大人の仲間入りをしており、皇位を継ぐのに違和感の無い年齢ではありました。
しかし54歳になり太政大臣に昇進していた藤原良房はあっさりと既定路線の通りに皇太子の惟仁親王の即位を挙行しました。これが清和天皇で、8歳という史上初の幼帝の出現ということになったのです。天皇が亡くなれば皇太子が後を継ぐのは当たり前のことであり、文徳が惟仁を皇太子としていたのですから、それはあくまで文徳の意思なのであり、その意思の通りに惟仁が即位したのですから何ら問題は無いのですが、しかしそれにしても8歳の幼帝というのは前代未聞の出来事であり、それを平然と強行した良房と藤原氏に対して朝廷内に批判的な空気が渦巻くことになったのでした。
そしてそうした反藤原感情の中心は惟喬親王やその周辺の人々であったのですが、同時に朝廷内の反藤原感情は裏返しに惟喬親王サイドへの同情と共感をも引き起こしたのです。とにかく、いくら正式な皇太子であるといってもまだ惟仁は8歳で、そのような幼君が即位するなどということは今まで無かったことですから、やはり惟喬こそが正当な皇位継承者であったという見解を持つ者もこの時は多く、それなのに即位出来なかった惟喬は同情され、また文徳天皇も惟喬の即位を望んでいたのに良房に邪魔をされたと信じられ(これは事実そうであった)、果ては文徳は惟仁即位を望む良房に毒殺された(これはいくらなんでも無い)という説まで流れるようになり、そうした惟喬同情論は惟喬の周辺にいた人々への同情論にも繋がっていきました。

まず文徳天皇即位時の惟仁親王立太子で大きなダメージを受けたのは惟喬の外戚であった紀氏一族でした。惟喬の周辺には常に紀氏一族がおり、後に出家して小野に隠棲した惟喬と深く交流したのは紀有常で、これは紀名虎の息子で惟喬にとっては叔父にあたります。この紀有常の娘を妻としていたのが在原業平で、つまり惟喬にとっては義理の従兄弟にあたるわけですが、この在原業平は承和の変の直後に変の真相を知りながら急死した阿保親王の息子で、常に反藤原的立場に立っていたアウトロー的な公卿で、やはり隠棲後の惟喬とも親しくしていたようです。
在原業平といえば絶世の美男子とされ、藤原良房の養女の高子と恋愛関係となり、高子の清和天皇への入内を妨害するというスキャンダルを起こしたことで有名ですが、和歌の達人でもあり、古今和歌集における六歌仙の1人に数えられています。その六歌仙の1人である喜撰法師という隠遁者は実は紀名虎の子であると伝えられており、そうなると喜撰法師は紀氏一族で惟喬の叔父ということになります。また、六歌仙の1人である僧正遍照はもともとは惟喬の幼少時に傍に仕えていた側近で、惟仁親王の立太子の際に身の危険を感じて出家したといいますから、藤原氏との政争に敗れて宮廷を去ったと見ていいでしょう。そして同じ時期に理由不明の左遷を受けている文屋康秀も六歌仙の1人に数えられており、この惟喬と惟仁の政争に関係している可能性は高く、左遷されているということは惟喬派であった可能性が高いといえます。この文屋康秀と親しかったといわれるのが絶世の美女といわれた六歌仙の1人である小野小町で、小野氏の出身のようですが、惟喬の隠棲地も小野であり、惟喬と小野氏とは縁があるようで、小野小町も惟喬と何らかの関係があったのかもしれません。
あと六歌仙の残りの1人である大伴黒主というのは正体不明で惟喬との関係は不明ですが、このように六歌仙というのは惟喬親王に近しい関係にある者や、あったと推定される者が極めて多いのであり、そもそも905年編纂の古今和歌集の序文で六歌仙を選んでいる紀貫之も紀氏一族で、紀名虎の弟の曾孫にあたるのであり、おそらく858年の清和天皇即位後の朝廷内の反藤原氏感情が惟喬親王に近しい存在であった彼らへの同情や共感を引き起こし、彼らを例えば江戸時代における赤穂浪士や鼠小僧のような一種のアンチヒーローとして祭り上げる風潮が生じて、特に藤原氏への反発心の強かった後宮の下級貴族出身の女御や更衣たちの周辺の女官たちの間で、良房、基経と藤原氏の権勢が続く中で彼らアンチヒーローたちの和歌が人気を呼ぶようになり、それで「六歌仙」などと持て囃されるようになっていったのでしょう。
それを後に同じく反藤原派であった紀貫之が古今和歌集を編纂する際にこの「六歌仙」たちの和歌を多く採録し、序文で「六歌仙」として紹介したのでした。それは何故なのか、そもそも何故、古今和歌集が編纂されたのかについてはまた改めて述べることにしますが、簡単に言えばこの「六歌仙」たちは政争に敗れて恨みを残して死んでいったのであり、その鎮魂が必要とされたということです。
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知事・市区町村長は、地方公共団体の長として、地域の活性化に貢献する http://gaiter3.catvtestchips.com/

【2008/12/02 06:03】 URL | #- [ 編集]



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