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日本史についての雑文その342 摂関制度の起源
このように多くの恨みや反発を招いてまでも藤原良房が0歳児の惟仁親王の立太子を行い、そして8歳の幼帝である清和天皇を即位させたのは、それは確固とした信念、国家観というものがあったからでしょう。そもそも文徳と良房の後継問題に関する意見の相違というのはこの国家観の相違に起因しているのであり、根深いものであったゆえに最後まで意見の一致を見ることが無かったのでありましょう。またこの時代においては良房の抱いたであろう国家観は極めて先進的なものであり、まだ文徳の抱いていた国家観のほうが保守的な朝廷においては共感する人が多かったのであり、それゆえ良房は朝廷の多くの人々から反発を受けることになったのでした。

もともと日本列島は多くの氏族共同体が乱立する分権体制がその本態であったのですが、7世紀後半に唐の膨張によって対外危機が切迫したためにそれに対応するために中央集権官僚機構を備えた律令国家体制が建設されたのです。しかし8世紀末になって唐が衰えて対外危機が消滅してしまい、律令国家体制はその存在の大義名分を失いました。ならば律令国家は解体して中央集権官僚機構も解散してしまえばいいようなものですが、一度出来上がった権力組織がそんな簡単に解散などしないもので、官僚機構はしぶとく生き残ろうとします。
それまでは対外危機に備えるために官僚機構が必要で、官僚機構を支える経費は租税で賄うのですが、人民たちにすれば租税は国防費として支払っているという側面もあったので、自分たちの払った租税を官僚が使って国防に役立てている分には不満はありませんでした。しかし国防費がそんなに要らないとなると、人民たちはどうして官僚機構に対して租税を払わなければいけないのか疑問に思うようになりました。官僚機構は自己を存在させ肥大化させることが目的化し、そのために租税を使い込んでいるだけなのではないのかという疑義を差し挟むようになったのです。そうした疑義を人民が抱くようになったから、地域社会においては富豪たちは脱税闘争に血道を上げるようになり、群盗海賊が横行するようになったのです。
良房は地方行政の実態に通じていましたから、そうした律令国家の深刻なアイデンティティ・クライシスの到来を認識していました。ならばどうするのかというと、あくまで律令国家を継続して官僚機構を存続させるというのなら、それを支える租税を人民が支払う新たな納得できる大義名分を作るしかないのです。つまり租税を使って官僚の食い扶持にするだけではなく、租税の有効な使い道を人民に対して提示して、「こういうことに使うので租税を集めます」と言えるようになればいいのです。こういう場合は現代ならば福祉を充実させるということになるのですが、この良房の時代には現代的意味での大した福祉など出来ませんから、この当時なりの福祉を充実させることになりますが、それが国家祭祀の充実ということになります。

また祭祀かと思われるかもしれませんが、この頃は祭祀を適正に執行することによって怨霊、すなわち災厄を退けることが出来ると信じられていたのですから、災厄を無くして生活を安定させることは立派な福祉ということになります。この時代においては祭祀を行うことこそが最大の福祉政策であったともいえます。つまり良房の構想では、対外危機の無い時代に律令国家を存続させていくためには祭祀を充実させていくしかないということになります。いや、外国の脅威が無くなった後、新たな脅威として怨霊が出現し(あるいは必要とされ)、その怨霊という脅威を鎮めるために国防力ではなく祭祀力が必要となったともいえます。だから天皇も国防軍を率いる「帝王」ではなく、祭祀を司る「祭祀王」「生き神」となる必要があったのだといえます。
これは別に良房のオリジナルの発想なのではなく、9世紀初頭の桓武天皇の治世末期において「帝国」路線を放棄することで既にそうした方針転換は行われており、嵯峨天皇の治世において天皇の「神」としての側面が強調されるようになったのも、そうした祭祀国家における祭主としての役割を天皇が果たすためでした。
しかし嵯峨朝の途中から天皇はそうした祭祀の場においてそれほど大きな役割を果たす必要が無くなっていました。それは絶大な法力を持つ空海が出現したからでした。空海がいる間は祭祀はとりあえず空海に任せていれば怨霊も鎮まって災厄も起きないのであり、その間は天皇もあまり「生き神」としての役割を果たす必要はありませんでした。だから嵯峨天皇や淳和天皇の時代は比較的平穏であり、天皇も比較的普通に政務を行っていたのです。
しかし833年に仁明天皇が即位し、そして空海が835年に没すると、徐々に世の中が騒がしくなってき始めました。地方では群盗海賊が発生するようになり、承和の遣唐使は難破を繰り返し、そして842年には承和の変が起きて、その過程で橘逸勢の怨霊が発生し、仁明天皇がそれを気に病んで病気がちになり、850年に40歳という当時としても比較的短命で亡くなってしまったのです。
空海が健在であった頃は怨霊など発生しませんでしたし、怨霊が発生するような政争自体が発生しませんでした。いや本当に空海にそこまでの絶対的法力があったのかどうかは私には分かりませんが、とにかく結果論的には空海が祭祀を行っていた時期は極めて平穏であったのですから、当時の人々は空海の法力を絶対的なものだと崇めたことでしょう。そしてその裏返しに、実際は空海没後に災厄が起きるようになったのも偶然に過ぎなかったのかもしれませんが、当時の人々は「やっぱり空海がいなくなったから災厄が起きるようになった」と失望したのであろうと思います。

空海没時に31歳であった藤原良房もそのように実感していくようになったのであろうと思われます。空海が作った祭祀マニュアルに則って弟子たちが密教祭祀は引き継いでいるはずなのに、どうして空海がいなくなったら災厄が起きるのか。それはやはり空海は別格の天才であり、本来人間の力では限界があるところを空海だからこそ限界を超えて祭祀の効果を発揮することが出来ていたのであり、空海がいなくなった以上は、人間の力だけでは空海と同じような結果を得ることは出来ないのであり、「神」の力をプラスしなければいけなくなる時代になったのです。そのように良房は考えたのではないでしょうか。
さらに良房は、自分が陥れた橘逸勢が怨霊化するに及んで、それを鎮める力の不在を痛感し、さして祭祀に熱心ではなかった仁明天皇が怨霊に対して為す術が無く亡くなったこと、そして続いて即位した文徳天皇も病気がちであったこと、その後853年には疫病が流行し、855年には地震が起きて東大寺の大仏の頭部が落ち、858年には平安京に洪水が発生した後、文徳天皇も31歳の若さで亡くなってしまったこと等をふまえて、「神」の力を加えた国家祭祀を充実させる必要を感じ、そしてまたそうした祭祀の充実を図らねば人民に律令国家体制の存在意義を感じさせることは出来ず、もしそれが出来なければ租税を集めることもますます困難になるだろうと考えるようになったのです。国家祭祀の充実とは、つまり天皇が「生き神」としての側面を強化していかねばならないということでした。言い換えれば、租税徴収が困難になればなるほど、それに正比例して天皇の「神」化が進行していかざるを得ないとも言えます。

天皇が「神」として認められる正統性の源はその父系の血統と、そして清浄性にあります。父系の血統にこだわり、そしてその上で承和の変のような事態を二度と起こさないために皇統の分裂を起こさないようにするには兄弟相続より親子相続が望ましいということになれば、必然的に幼帝の出現は宿命的なものとなります。幼帝というものは遅かれ早かれいずれは出現することは覚悟しておかねばならなくなります。
幼帝は政務を行う能力はありません。政務というものは経験が必要なものだからです。しかし祭祀ならば血統と清浄性さえ確保すれば経験不足でも務まります。幼帝の場合、血統は申し分ないわけですし、清浄性も穢れに触れない環境を整えれば保つことは出来ます。そしてこの祭祀こそが最大の福祉として新たな律令国家維持において最も必要とされている物なのです。ならば、幼帝の出現が宿命的なものになるのであれば、いっそ天皇は父系の血統の権威と清浄性を活かして祭祀を主に行い、政務については母系の外戚の一族がサポートしていく体制のほうがいいということになります。もちろん良房が考えるその「外戚」とは藤原氏であるべきだということになるわけですが。
実際、天皇に清浄性が求められる以上、現実的な政務というものは汚れ仕事の要素が強いものですから、それに関わると穢れに触れることにもなるわけで、清浄性維持のためにも天皇はなるべく一般政務に直接タッチしないほうが望ましいということになり、政務を代行する存在が必要になってきます。そうした天皇の清浄性維持という意味でも母系の外戚の一族の政務面でのサポートというのは必要ということになります。天皇の父系の一族である天皇家のほうは「神」としての正統性をその血統において保つために清浄性が求められますから現実政務にはあまりタッチ出来ませんから、母系の外戚一族のほうが政務面でのサポートを担当するしかないわけです。このように、天皇および天皇の父系一族(天皇家)が祭祀、天皇の母系一族(外戚=藤原氏)が政務をそれぞれ担当するという祭政分業体制こそが、幼帝の出現にも対応し得る新しい律令国家のあるべき新体制であるというのが良房の考える新しい国家観であったのです。

一方、文徳天皇をはじめとする朝廷の多数派の考える国家観というものは、嵯峨天皇や淳和天皇、仁明天皇の治世のイメージを引きずったもので、天皇が政務を直接行わねばならないというものでした。文徳天皇個人は856年には桓武天皇の治世初期に行われて以来絶えて久しかった「郊祀祭天の儀」を挙行したりしたぐらいですから、むしろ天皇の「帝王」的側面を強めようという意識が強かったようです。そうであるからこそ文徳は自分の後継天皇にはなるべく政務処理能力の高い年齢に達した皇子を就けるべきであると考え、それで年長の惟喬親王の即位に固執したのです。
しかしこうしたシナ帝国的な国家観そのものが良房から見れば「古い」のであって、良房に言わせれば、これからの天皇は租税を徴収して食い潰すだけの官僚機構のトップに立つ俗権力になるのではなく、むしろ人民のために「祭祀」という最高の福祉を提供して租税徴収の大義名分を作り出すことに特化した聖なる存在となるべきなのであり、そうした流れは桓武天皇の治世末期から既に始まっていた必然の流れであり、それが空海という1人の天才の出現によって一時的に忘れられていただけに過ぎず、文徳の抱いている国家観は所詮は空海存世中のみ通用した幻想に過ぎず、空海亡き今はそうした本来の流れに戻るべきであるということになります。だから良房から見れば幼帝となる惟仁親王の即位も外戚の藤原氏のサポートがある以上は何ら問題は無く、むしろ有力な外戚のいない惟喬親王の即位のほうが危うい選択ということになるのでした。

歴史の結果だけ見れば良房の国家観のほうが正しかったということになります。いや、正しいとか間違っているという判断は簡単にすべきではないのですが、少なくとも良房の考えるような祭政分業体制が実際にこの後の歴史で定番となり、祭祀の担当は常に天皇家で、政務の担当のほうは当初は藤原氏、そして武家政権に移っていったのですが、おおむねこの体制で上手く治まったのです。つまり少なくとも良房の国家観はそれほど間違ったものではなかったということになります。むしろ、このように現実政務を担当する実力者が清浄さを求められる祭祀にタッチすることが出来ず、祭祀担当として天皇家が固定する体制がこの後日本において9世紀末から10世紀初めにかけて定着し始めた頃にちょうど東アジア一帯で律令国家体制の連鎖的崩壊が起きて、シナや朝鮮では王朝の交替が発生したのですが、日本の天皇家の王朝は倒れることはなかったのは、この祭政分業体制が生まれていたからであろうとも考えられるのです。
しかし、この9世紀半ばの時点では実際の地方の徴税現場では古いシナ帝国的論理は通用しなくなっており、まさに「反経制宜」の精神で律令にとらわれない臨機応変な対応が行われており、この良房のような国家観はそうした「反経制宜」の精神を国家レベルにまで拡大した斬新なものであったのですが、いかんせんまだ斬新すぎて、良房のような意見は朝廷においてはまだまだ少数派でした。つまり朝廷の大部分の公卿から見れば、良房の意見こそ「新しすぎた」のであり、いや、新しすぎて単に奇異な意見にしか思えなかった人のほうが多かったことでしょう。
朝廷の大部分は嵯峨朝から仁明朝の頃のイメージにとらわれて、相変わらず唐のようなシナ帝国的国家を理想とするような「帝国主義者」であったのです。文徳天皇自身がそうでありましたし、惟喬親王の周辺にいた六歌仙のような人達もそうであり、とにかく朝廷においては良房の「脱帝国主義」の意見に賛同する者も増えてきてはいましたが、まだまだ多くの皇族や公卿や官女たち、特に地位が高い人に限って地方の徴税現場の実態を知らず、変にシナにかぶれた「帝国主義者」であったのであり、このような頭の固い人達は、わざわざ遣唐使を派遣してまで日本が唐から学ぶものはもう多くはないということは認識していましたが、しかしまだまだ唐帝国は磐石であり、唐帝国のような統治形態がある種の理想であるという幻想を抱き続けていたのでした。彼らは現実の唐の斜陽した状況を見ようとはせず、白居易の感傷詩にあるような御伽噺のような唐しか見ていなかったのです。結局、10世紀初めに唐が滅ぶまでこの類の人達の目は完全には覚めなかったのでした。

もちろん良房は朝廷随一の実力者でしたから、こうした石頭の「帝国主義者」たちを押し切って858年の文徳天皇の死去後は幼帝の清和天皇を即位させ、この8歳で即位した外孫の幼帝が元服するまでは代わって自分が政務を代行することにしたのです。これが藤原氏による「摂政」の最初の例であるとされていますが、これは後世、10世紀半ば以降に摂関制度が確立された際にこの良房やその養子の基経の事跡が先例とされたことから、この858年に良房が「摂政」に就任したという歴史が後から付け加えられた可能性もあり、どうも本当はこの時点で実際に良房が「摂政」という職に任じられたかどうかはよく分かりません。少なくとも後に摂関体制が確立した以降における「摂政」という職の持つ意味とは同じではなかったでしょう。ただ肩書きはどうあれ実質的に幼い清和天皇の代わりに良房が政務を取り仕切ったのは確かなようです。
しかし、このように皇族以外の者が天皇の代行を務めるということが前例の無いことであったので、良房はこれを自らの斬新な「脱帝国主義」の国家観に基づいて確信的に行っていたのですが、そういう国家観自体に違和感を持つ「帝国主義者」たちは反発を強め、結局、良房は864年に清和天皇が14歳で元服すると政界から引退を余儀なくされることになったのでした。この時点で良房は60歳でしたから、当時としては引退するのも違和感の無い年齢ではありましたが、やはり当時としては少し突っ走りすぎた部分もあり、反発も相当強かったのであろうと思われます。
摂関制度が真に確立するのは良房の養子の基経の子の藤原忠平の代ですが、良房・基経の構想していたものと忠平以降に確立したものとの間には本質的に大きな違いは無く、ほぼ同じもので、忠平の確立した摂関制度は良房や基経の構想の延長線上のものであるといえます。それが忠平以降は実現したのに、良房・基経の時代には不徹底になったのは、やはり良房・基経の時代にはそれに反発する「帝国主義」勢力、すなわち天皇がシナ皇帝のように政務を直接行うべきであると考える勢力がまだ強かったからであろうと思われ、そうした勢力がまだ力を保つことが出来た背景には、まだこの時代にはそうした勢力がお手本とする唐帝国が曲りなりにも健在であったからでしょう。

ともかく良房は太政大臣の職位は維持したままではありましたが清和天皇の元服と同時に政界から実質的に引退し、自宅に引きこもるようになりました。太政大臣という職位は律令制における最高職でありながら実質は単なる名誉職であり、常設されていたわけではなく、皇族以外では過去に恵美押勝と道鏡が就いたことがあるだけの職ですが、天皇の外祖父に贈ることが慣例となっていた職位であったので良房にも贈られていただけのことで、過去の天皇の外祖父はみんな故人であったのですが清和天皇が史上初の幼帝であったのでその外祖父の良房の場合は存命中にその職位を受けることになっていたというだけのことで、この職位には具体的職掌は無く、実質的には意味の無いもので、864年の清和の元服によって「摂政」的役割を辞めて単なる太政大臣となった良房は実質的に政界を引退した形になり、太政官をまとめて清和天皇を補佐する役割は良房の弟で右大臣の藤原良相が負うことになりました。
しかし良房を追い出した朝廷の公卿たちはたちまち権力闘争の内輪揉めを起こし、その混乱が極まったのが866年に起こった「応天門の変」でした。これは866年3月10日に平安京大内裏の朝堂院の正門である応天門が炎上し、この門が伴氏の造営した門であることから伴氏の長である大納言の伴善男がこれをかねてから善男と不仲の左大臣の源信による放火であると告発し、この告発を受けた右大臣の藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出して源信の邸宅を取り囲む騒動に発展しました。
こうした事態を養子で参議の藤原基経から聞いた自邸に引き篭もっていた太政大臣の藤原良房は久しぶりに出仕して清和天皇に奏上して源信の無罪を主張しました。実は伴善男は864年にも源信の謀反を言い立てたりしており、以前からある事無い事を言い立てて源信を追い落とすことを画策していたのであり、そのような画策に右大臣の良相までが乗せられて兵まで繰り出す混乱を引き起こしたことを憂えて、事態収拾のために良房が出てきたのでした。結局、良房の処置が功を奏して源信の無罪が認められて、その邸宅を取り囲んでいた兵は引き上げ、良相は面目を失うことになりました。
その後、良房は再び自邸に戻り、応天門の出火は原因不明とされていましたが、8月になって今度は3月の応天門炎上事件は実は伴善男の放火によるものだという密告があり、善男の詮議が行われることになりましたが、この太政官の中枢部を直撃した一大スキャンダルの収拾にあたって、太政官の主要メンバーのうち、大納言の伴善男は被疑者当人であり、事件の当事者の1人である左大臣の源信は3月の事件以来ショックで自邸に引き篭もってしまっており、右大臣の藤原良相は3月の事件で面目を失ってしまっておりこの事件の捜査に関わる資格が欠けており、そういうわけで清和天皇は太政大臣の藤原良房を召し出して事件の解明にあたらせると共に、再び政務全般を執行するように命じたのでした。
事件のほうは伴善男は無実を主張しましたが、良房は善男の犯行と断定し流罪に処しました。これは実際のところ真相はよく分かりません。善男の犯行であると密告した男は善男を恨んでいた者のようで、善男を陥れるための虚言の可能性もあり、あるいはただの火事なのかもしれません。しかし3月の火災が源信の放火でなかったことはおそらく確かであり、たとえ善男の狂言放火でなかったとしても、善男が火災を利用して源信を陥れようとしたことも確かで、その善男が彼を恨む男から火災を利用して陥れられるのもまた自業自得、因果応報であるといえます。とにかく善男は出世のために手段を選ばない男であり、多くの人間を陥れてのし上がってきたのであり、多くの人間から恨みを買っていました。その結果がこのような形で表れたのであり、良房はこの機会に朝廷内のトラブルメーカーである善男を葬り去ることにしたのではないかと思います。

そしてこの事件をきっかけに良房が再び政務を統括するようになったということは、清和天皇をはじめ朝廷の面々が、やはり良房がいなければ公卿衆がうまくまとまらないと実感し、朝廷内のまとめ役としての良房の必要性を認めざるを得なかったということであったと思います。こうして2年ぶりに政界に復帰した良房は、この事件後ほどなくして左大臣の源信、右大臣の藤原良相が相次いで没したために、結局872年に彼自身が没するまで6年間、太政大臣の立場で政務全般を総覧することになったのでした。
太政大臣というものはもともと律令ではその職掌が規定されておらず、実体を伴わない名誉職であったはずです。清和天皇は元服して大人になっていますから良房は「摂政」という立場でもないはずです。摂政でもない単なる太政大臣でありながら、それでも政務を総覧するという良房のこの晩年の6年間の姿というものは律令規定上、説明のつかないものでした。すると、そうした6年間のうちに太政大臣の職掌の定義が変質していくことになったのです。すなわち、太政大臣に具体的な職掌が規定されていないということは、これ以前は「何も出来ない」と解釈されてきていたのですが、良房が実際に太政大臣でありながらあらゆることを総覧していたわけですから、具体的職掌が規定されていないということは天皇の補佐について「何でも出来る」という意味であると解釈されるほうが自然であるということになっていったのです。この太政大臣の新しい定義から次の基経の時代に「関白」という役職が派生してくることになるのです。
また、このように良房が政界に復帰して政務を総覧するようになったことによって、良房とは国家観が相容れない「帝国主義」派の公卿たちも良房の政務能力は認めざるを得ず、そうこうしているうちに次第に良房の考える新しい「脱帝国主義」の国家観の賛同者も増えていき、朝廷内に浸透していくようになっていきました。そして、良房が872年に68歳で没した後、良房の政治路線はこの年に36歳にして右大臣に昇進していた養子の基経に受け継がれることになりますが、その翌873年、唐において塩の密売商人の王仙芝が反乱を起こし、これに同じく塩の密売商人である黄巣が参加し、これに貧農たちも参加して、またたく間に唐全土に反乱が波及して、唐は大混乱に陥りました。これが大唐帝国に実質的に引導を渡すことになる「黄巣の乱」の開始でしたが、これを受けて日本の朝廷内におけるシナかぶれの「帝国主義」派の公卿たちは度肝を抜かれ、意気消沈して、これにより基経は養父の良房から受け継いだ国家理念を強く推進するようになり、876年に清和天皇は26歳の若さで譲位し、息子で皇太子の貞明親王が即位して陽成天皇となりました。

陽成天皇は即位時にまだ7歳の幼帝であり、この幼帝の母は藤原良房の養女で基経の実の妹である藤原高子でありました。良房は嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁され、臣下として皇女を賜るという名誉を受けた身であり、それゆえ非常にこの潔姫を大事にし、側室を一切持たなかったというこの時代の高官としては珍しい男であったのですが、この潔姫が産んだのが文徳天皇の妃となって清和天皇を産んだ明子だけで、男の子を生まなかったので、良房は自分の跡継ぎとして兄の長良の三男であった基経を養子に貰い受け、また一緒にその妹である高子も養女として引き取っていたのでした。
その高子を良房は清和天皇のもとに入内させて(在原業平の邪魔などもあったが)、869年には貞明親王が産まれていたのでした。その貞明親王が7歳で即位して陽成天皇となったことによって、この時40歳の右大臣であった藤原基経は幼帝の叔父ということになったのでした。そこで基経は養父の良房の例に倣い、幼帝の代行として政務を執行する「摂政」の地位に就くことになったのでした。
清和天皇が26歳の若さで譲位しなければ幼帝の即位もなく、基経の摂政就任も無かったのであるから、これは唐における黄巣の乱の混乱を受けて、良房の掲げた「脱帝国主義」の国家観を持ったグループの勢いが増し、良房がやったように幼帝を外戚一族が政務を代行して支えるという政治形態を再び実現するために、清和天皇に譲位を迫った結果であったと思われます。同じ幼帝でも、清和天皇の場合は父の文徳天皇の急死によって半ばやむを得ずという面がありましたし、その際に摂政となった良房の地位も磐石というわけではなく多くの批判に晒されることになりました。しかし陽成天皇の場合は父の清和天皇は健在であるにも関わらず、あえて幼帝を即位させたという形になっており、摂政となった基経にも良房の時ほど多くの批判があったわけでもありませんでした。この間の約20年の間に着実に良房の国家観は浸透してきていたのです。
しかしこの新天皇である陽成天皇は人格的に非常に問題のある人物であったため、結局はその即位を強く進めた基経に批判が集まることになるのでした。それは、つまりまだまだ潜在的に基経の新しい国家観の路線に対する批判勢力もまた健在であったということでもあるのです。
このように、だいたい875年あたり、陽成天皇の即位あたりが良房の時代と基経の時代の時代の変わり目にあたるようであり、850年から875年あたりにかけての、だいたい文徳天皇から清和天皇にかけての時代は藤原良房の活躍した時代であり、この時期が律令国家文明の変質期前期に相当し、そして875年あたり以降の陽成天皇から後の時代は良房の養子である藤原基経の活躍する時代であり、律令国家文明の変質期後期に相当します。この変質期後期における基経の事跡についてはまた後で触れることにして、ここでは続いて、まずは変質期前期における中央政界の政治の流れ以外の部分を見ていきたいと思います。
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この記事に対するコメント

史学を勉強している大学生です。
この記事は大変興味深く感銘いたしました。
よろしければ、この記事の参考文献・参考論文などありましたら、ぜひ教えてください。

【2008/02/20 11:54】 URL | 大藪 健太 #- [ 編集]


>大薮さん
申し訳ないですが、この回の記事に関しては
史実関係については講談社の「日本の歴史」シリーズと手持ちの年表、それからネットでの検索で調べたぐらいで、論考部分はほぼ私個人の独創であります。しいて言えば怨霊史観の部分では基本的には井沢元彦の影響を受けているといえるでしょう。だからあまり学術論文に使用するには適していないのではないかと思います。

【2008/02/21 00:34】 URL | KN #AMZ1M8Og [ 編集]


コメントありがとうございます。
わかりました!どうもありがとうございました。
今後も頑張ってください。応援しています!

【2008/02/21 08:22】 URL | 大藪 健太 #- [ 編集]


防犯関連グッズ http://tubal.archiunite.net/

【2008/12/01 08:45】 URL | 57 #- [ 編集]



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