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日本史についての雑文その343 御霊信仰
このように藤原良房などは天皇が国家鎮護の祭祀を行う「生き神」として機能する国家を志向したのですが、この時代において最も重要な国家鎮護の祭祀とは怨霊鎮魂のことでした。これを835年までは空海がその圧倒的な密教祭儀と法力でこなしていたわけですが、それはあくまで空海が稀にしか存在しない個人的天才であったからであり、空海という存在は孤立した存在で、その祭儀マニュアルを引き継ぐことは出来てもその天才性まで受け継ぐことは出来ないので、空海の天才性を補う新たな論理体系が必要ということになります。
9世紀前半に陰陽道の影響で神道が変質して、清浄と不浄という二極分化論が神道において重要視されるようになっていました。これはつまり神霊も含めたこの世のあらゆる事物には清浄なものや不浄なものがあるということで、このうち特に不浄な穢れた神霊が怨霊ということになり、これがこの世の災厄の元ということになります。空海がこれを抑えることが出来ていたのは特に清浄な存在であったからです。清浄なものは不浄なものの穢れを浄化して無害化する作用があるのです。なぜ空海がそんなに清浄であったのかというと、それは彼が天才的修行者であったからでした。
その空海がいなくなった後で、その役割を担うべきはこの世で最も清浄な存在である天皇であるべきでした。いや、もともと空海の行っていた国家鎮護の祭儀も天皇の命令下で行われていたのですから、空海がいようがいなかろうが、それを行う責任は天皇にあるのです。だから怨霊鎮魂に責任を持つべき天皇は清浄な存在でなければいけないのです。そうした事実が空海の活躍によって目立たなくなっていただけのことで、空海がいなくなってそうした現実に向き合うことになったのです。
天皇が空海と同じくらい天才的であれば問題は無いのですが、なかなかそういうわけにはいきません。例えば850年に即位した文徳天皇は病弱でありましたし、858年に即位した清和天皇は幼帝でした。こういう天皇たちに個人的に空海と同じ資質を求めるのは無理というものでしょう。代々の天皇に永続的に清浄性を維持していくためには、それなりの清浄性維持のシステムが必要となります。
天皇の清浄性を維持するためには、まずは天皇を日常的に穢れから遠ざけることが必要となります。そのために穢れ仕事の最たるものといえる通常政務から天皇を遠ざける傾向が強くなっていき、政務の代行者として摂政関白が生まれてくることになります。しかしそれだけでは十分ではありません。怨霊を鎮魂することによって定期的に天皇は穢れに触れることになるからです。

つまり神道における清浄と不浄の二元論というものはいわゆる救済宗教における善悪二元論のように絶対的なものではなく、また優劣が明らかなものでもなく、清浄なものが不浄に変わることもあれば不浄なものが清浄に転ずることもあり、また必ず清浄が不浄に勝つというわけではなく、不浄が清浄に勝る場合もあるのです。清浄や不浄というのは価値観なのではなく物質の持つ陰性や陽性のような性質のようなもので、清浄が不浄を打ち負かすのではなく、清浄なものが不浄なものに触れることによって不浄なものの持つ穢れを中和して無害化するのであり、同時に清浄なものも穢れに触れることで中和されて清浄性を損なっていき、それが嵩じれば清浄なものが不浄なものに転化してしまうこともあり得るのです。
どうしてそういうことになるのかというと、神道はもともと自然神信仰と祖霊信仰が習合した日本独自の宗教で、特にその自然神信仰が原始的な精霊信仰を保持していたため、そもそも神道の神には善悪の別というものが無く、祀り方次第で善になったり悪になったり清浄になったり不浄になったりするからです。神に善悪の別すら無く、しかも人間によって神の性格まで操作可能というのは世界でも極めて珍しい宗教で、これもやはり精霊信仰の要素を濃く残しているからでしょう。
日本においては神は状況次第で清浄になったり不浄になったりしてしまうわけで、天皇も一種の神ですから穢れに触れれば清浄性が失われて不浄な神、つまり怨霊の1つになってしまうのです。だからこそ天皇は日常的に穢れに触れないようにして清浄性を保つようにしなければいけないのですが、怨霊鎮魂のためには天皇は怨霊に触れなければならず、清浄な天皇が怨霊に触れることによって怨霊の穢れは浄化されて無害化されるのですが、その引き換えに天皇は怨霊の穢れによって清浄性を減らすことになります。そういう状況を放置して怨霊鎮魂の祭祀を繰り返せば、天皇の清浄性は失われて怨霊鎮魂の効果が上がらなくなるだけでなく、最終的には天皇自身が怨霊化してしまいます。
しかし例えば空海は何度も繰り返し怨霊鎮魂を行ってもその力が衰えることは無かったわけで、それはつまり怨霊の穢れに触れても清浄性を保つことが出来たということを意味し、いくら空海が天才であったとしても、この世において永遠に清浄性を保ち続けるということは神様でも不可能なのですから空海もそんな特異体質であったわけはなく、何らかの方法で清浄性を保っていたということになります。そこで空海の修めていた密教の修法の中に清浄性を保つ効果があるのだと朝廷の人々は考えるようになり、怨霊鎮魂で穢れに触れた天皇の清浄性を回復し維持するために密教の加持祈祷が使われるようになったのです。
つまり密教は鎮護の対象を国家全体から次第に天皇個人にスライドさせるようになっていったのです。もちろん空海の確立した密教祭儀のマニュアルは存在しますから天皇の行う祭祀にもその要素も取り入れられていきましたが、基本的に天皇の行う祭祀は神道的なもので、結局、神道的な要素に密教的要素もプラスされたものとなっていき、またそのような祭祀を行う天皇の清浄性を保つための密教祭儀にも神道的要素が入り込んでいくようになっていきました。もともと神仏混淆のところでも見たように、密教と神道は共に現世利益を求めて加持祈祷を行うという側面を持つため習合しやすいものであったからです。
このような思想に基づいて清和天皇の治世下、863年に平安京の神泉苑で最初の天皇による怨霊鎮魂儀式である「御霊会」が開かれました。この時に鎮魂対象となった怨霊は、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田麻呂の6人で、清浄なる天皇の霊力によってこれらの怨霊の穢れを祓い平安京より遠くへ追いやり無害化するという儀式でありました。これら6人は全員、当時において怨霊化していたと噂されていた人物たちであり、みんな高貴な身分であったので「怨霊」ではなく「御霊」と呼ばれたのでしょう。
こうした「御霊会」という怨霊鎮魂儀式を天皇のみが行うという祭祀制度がこの863年に確立し、藤原良房の国家祭祀構想は現実化したのでした。しかし、事態はここで終わらず、良房の意図を超えた展開を見せていくことになります。

863年の時点で「御霊会」は天皇のみが行うこととされ、865年には天皇以外の行う「御霊会」を禁止するという命令も出されています。しかし、わざわざそんな命令が改めて出されているということは、天皇以外による「御霊会」が頻繁に行われていたということであります。
天皇以外の者にしてみれば、そんなに「御霊会」というものの効果が素晴らしいというのならば、なんとか自分自身でも「御霊会」を行ってみたいと思うのが人情というものです。何故なら、国家や天皇が考える災厄と自分自身に降りかかってきている災厄とは必ずしも同一というわけではないからです。天皇の行う「御霊会」だけでは自分に降りかかってきている災厄が全部取り除かれるわけではないのですから、それは自分の手で自分のために「御霊会」を催して、自分に害をなすと思われる怨霊を鎮魂しなければいけないということになります。
そのためには自分が「御霊会」を行えるぐらいの清浄性を保っていなければいけないわけで、そのためにはまずは天皇と同じように自分の穢れを祓うための密教の加持祈祷を受けることが流行するようになりました。既に密教の加持祈祷は天皇個人を鎮護対象とするように変容していましたから、天皇以外の個人を鎮護対象とするのも同じことであり、貴族たちの間で自分個人あてに密教や神道の加持祈祷を受けることが流行しました。もちろんそれは私的な「御霊会」を行って私的な怨霊鎮魂を行うためでした。
こうした私的な「御霊会」の横行に朝廷な当初は禁令をもって対応したのですが、その朝廷を構成する貴族たちがその禁令を守るつもりがほとんど無いわけですから、自然と禁令は有名無実化していきました。もちろん血統的にも地位的にも天皇が最も清浄な存在であるという事実は揺らぐことは無かったので、天皇の行う公的な「御霊会」が最も権威あるものとされたので、良房の構想が頓挫することはなく、天皇が「生き神」として中心に立つという国家観は確立することにはなったのですが、良房の思惑を超えて思わぬ「御霊会」の流行を引き起こしたことになります。

そしてそれは貴族層だけにとどまらず、民衆にも波及することになったのです。9世紀後半には民衆による「御霊会」が頻繁に行われるようになり、それは特に平安京の民衆によって多く行われました。しかしこの民衆の行う「御霊会」というものは天皇や貴族の行う「御霊会」とは異質なものでした。天皇や貴族の行う「御霊会」は怨霊の穢れを浄化して遠くへ祓うものでしたが、民衆の「御霊会」は古来の神道祭祀のような形式のもので、怨霊を信仰対象とするようなものでした。
古来の神道祭祀では、神には善悪の別は無いわけですから、善い守護神でも悪い祟り神でも同様に祀りました。いや、悪い祟り神でもちゃんと祀り上げて神にご機嫌になってもらえば、その祟り神は守護神に転化するというのが神道的な考え方でした。つまり怨霊でも祀り上げて慰めれば浄化されて清浄な守護神となり、古来の神道における守護神のように信仰対象にもなるということになります。
そうした古来の神道祭祀というものは地域の氏族共同体で行われていたのですが、8世紀後半から進んでいた神仏混淆によって氏族共同体を離れても神道祭祀を行うことに抵抗感が少なくなっていきました。それが9世紀に入ってから真言宗や天台宗などの体系的な大乗密教が成立し、もともと雑密と繋がりの深かった各地の神社と一体化した神宮寺が大乗密教によって系列化されるようになり、中央の大寺院と繋がるようになったため、神道祭祀もますます仏教に近づき、地域の縛りがますます薄くなっていきました。
そもそも民衆たちは天皇や貴族たちのように手の込んだ密教の加持祈祷を受けて清浄性を保つなどということは出来ませんでしたし、彼ら民衆の生活自体が穢れと一体化したものでしたから、天皇や貴族が行うような「御霊会」を行うことは出来ませんでした。ならば小難しい密教の儀式など行わずとも、昔ながらの神道祭祀のやり方を応用して、怨霊を祀り上げて喜ばせて、気分良くさせれば浄化して守護神に転化することが出来るのではないかと民衆は考えるようになってきたのです。

大乗密教による系列化によって神仏混淆が更に進んだ段階において、民衆は神道祭祀の方法論で自分たちなりの「御霊会」を行おうと考える段階まで来ていたのでした。特に平安京の民衆はみんな他の土地から移り住んできた者達であったので土地の守護神というものを持っておらず、祟り神でも怨霊でも何でもいいので、とにかく信仰する神を欲していました。そこで疫病が流行を機会に疫病神を信仰するようになりました。疫病というのはこの時代の主要な災厄でしたから疫病神というのは災厄をもたらす神で、一種の怨霊ということになります。
平安京の民衆はこの疫病神を古来の神道祭祀のように祀り上げて喜ばせて慰撫して、そうすることによって穢れを浄化して逆に平安京の守護神としたのです。どのようなことをすればこうした疫病神が喜ぶのかというと、これは古来の神道の神ですから、つまりは縄文にまで遡る精霊信仰の根っこが濃厚に残った神で、善悪の別も無く変に道徳的な部分も無く、かなり猥雑で賑やかなこと、面白いことが大好きな、例えば天岩戸の前で宴会を開いて裸踊りに興じるような神様たちですから、平安京の民衆たちは派手で賑やかな面白おかしい、ある種下品ともいえる祭りを行うことで疫病神を喜ばせたのでした。この疫病神の名前が祇園神で、この信仰が祇園信仰、そしてこの疫病神を慰撫する祭りが祇園祭ということになります。
この祇園祭が平安京の民衆による「御霊会」に発展し、祇園信仰は一種の怨霊信仰であったので、この祇園信仰のような古来の神道祭祀的な方法論で民衆によって国家公認の早良親王らの怨霊たち(つまり御霊たち)への鎮魂慰霊が行われるようになって、これらの怨霊たちを祀り上げて浄化して逆に国家や平安京の守護神に転化してしまうという信仰が生まれたのでした。これが「怨霊=御霊」への信仰ということで「御霊信仰」の誕生ということになります。

9世紀後半になって天皇による国家祭祀としての「御霊会」の執行をきっかけとして、それとは全く異質の性格を持った民衆による「御霊信仰」というものが発生し、いつしかその勢いは本家の「御霊会」のほうを呑み込んでしまい、天皇による国家祭祀の「御霊会」のほうの性格も、元来の怨霊を祓うものから、怨霊を祀り上げて浄化して守護神とするような性格のものに変えてしまったのでした。こうして「御霊信仰」はこの後の日本における中心的な信仰となり、またこうした「悪を浄化して善として活用する」という発想はこの後の日本社会に大きな影響を与えることにもなるのです。
この9世紀後半に現れた「御霊」という新しい神様は、古来の土地の神や氏神とは性格の異なった、地域に限定されない全国規模の守護神でありました。そうした全国的な神様としては、しいて言えば記紀における天照大神などがありましたが、実際に民衆によって全国的な守護神として信仰された神としてはこの「御霊」が実質的には初めての存在であり、その守備範囲は仏教の如来や菩薩に重なるものがありました。ここまで来れば神仏習合の段階まであと一歩というところです。
このように神道が大きく作り変えられていった時代が9世紀後半の律令国家文明の変質期という時代であり、まさに「変質」の時代であったわけです。また同時にこの9世紀後半は王朝国家文明の胎動期でもあり、新しい潮流が順調に育っていく時代でもあるのです。しかしそれが決定的段階を迎えるには、まだこの段階では至っていないのであり、例えばこの「御霊信仰」にしても、ただ祀り上げるだけでは怨霊の浄化が完全には行えず災厄が消えないのが現実であり、更に完全なる怨霊浄化の方法が模索され、それが神仏習合の段階に繋がっていくことになるのですが、そのように更に一歩状況が進むのは、この9世紀終盤に唐帝国の実質的滅亡によって日本を取り巻く情勢が決定的に大きく変化して以降のことになります。

そのあたりのことは後でまた触れることにして、ここで問題なのは、こうした文明の変質期における「作り変える力」というものが、社会の上層部や外来の高尚な思想などから生じてきているのではなく、むしろ民衆などの社会の土着的な基層部から生じてきており、あまり高度とはいえない、猥雑で粗野な、ある意味リアルで不真面目ともいえるような、日本古来の伝統的な原始的部分に由来しているということです。「御霊信仰」の発生から神仏習合への流れなどはまさに典型的にそういうものでした。
有体に言えば、上流知識階級の上滑りする舶来のご高説を笑い飛ばすような庶民のシンプルかつ根源的な生活感覚が文明をリニューアルしていく力になるのが日本史の常ということで、9世紀後半の変質期においてそうした日本伝統的な要素によって例えば律令や仏教などの律令国家文明の要素が作り変えられていくサイクルに入ったということで、それが次の10世紀前半の爛熟期に入ると、そうした変化によって生じた律令国家文明の成果が現れてくることになるようです。それは律令国家文明の形成期や確立期において構想されていたような成果とは全く違った成果なのですが、それがれっきとした律令国家文明の成果なのです。そしてそれが次の王朝国家文明を形成していく糧となるのです。そしてそうして成立した新しい文明に対しても確立期や修正期の段階から早くも日本的な生活感覚による懐疑と茶化しが向けられていくことになるのです。そうして外来文化は常に日本的な不真面目さによって懐疑の目を向けられ、原理主義の陥穽に陥ることが回避されていったのです。日本史はいつもそういうサイクルを繰り返すようです。
例えば幕藩国家文明における読本や洒落本、滑稽本、黄表紙など、また歌舞伎や浄瑠璃、落語、俳諧などの庶民文化もそうしたものであるし、官学である朱子学に対抗して起こった古学や陽明学、国学、心学などの社会思想、百姓一揆に関連して発展していった農村自治などもそうでありました。その前の公武国家文明においては宋学に対抗して生じたバサラの風潮やそこから更に発展した下克上などの戦国的気風、惣村の発達などがあり、その前の王朝国家文明においては浄土信仰やそこから発展した新仏教の動き、そして武士階級の進出がありました。
そうした日本史における下からの作り変えるエネルギーの繰り返されるパターンの律令国家文明における現出が「御霊信仰」や、あるいはまた富豪層や群盗海賊の発生、それに対応するための慣習法に則った「反経制宜」の精神やその成果としての格式などの法典の整備ということになるようです。

そうした変質期における猥雑でリアルな、剥き出しの日本伝統的な要素の1つで、文化面での現出として、「御霊信仰」から派生したものとして和歌による鎮魂が挙げられます。和歌というと現在は何だか高尚なものであるかのような印象もありますが、もともとは庶民が歌っていた素朴な古代歌謡の形式を使ってシナ由来の漢詩で詠まれる主題を表現しようとした一種の言葉遊びで、言ってみれば漢詩のパロディのようなものでした。そしてこの時代においては宮廷内における男女間の私的遣り取りのためのツールであり、かなり軽薄で猥雑、不謹慎なものであり、それを書き表す仮名文字なども所詮は女性の私的な雑事を書き留めるための文字で、社会的身分の高い知識階級の男が使うことが推奨されるようなものではありませんでした。
しかし日本はこうした軽薄で猥雑な庶民文化が何故か知識階級によって忌避されず、中には毛嫌いする人もいたでありましょうが、むしろ積極的に手を染めて、それを深めたり高めたりするという、およそ社会的に意味があるのか不明なことを知識人が大真面目に嬉々として進めるという不思議な国でありまして、これが不思議で珍しいことであるということは日本に住んでいると理解出来ないことでありましょうが、外国においては知識人というのはそういうことはまずしないものなのです。
日本文化というのは、そうした「軽さ」が特徴であり、そうした「軽い」文化が権威化して重くなるとその周辺に新たな「軽い」展開が新たに生じてきてそちらが主流になっていくのです。例えば和歌から今様や連歌が生じたりするのがそれで、そうして文化の幅が広がり新たな展開が次々に生じていくのです。決して主流のものが中心的存在にはならず、周辺的存在であり続けるのが特徴といえますが、更に際立った特徴は、そうした周辺的な、つまり下賤でマイナーな存在であるはずの文化に庶民だけでなく知識人層が積極的に参画するということです。
例えば和歌が漢詩に取って代わって文化の中心的存在になったというのであれば知識人がそれに手を染めるというのも理解可能でありましょうが、そういうわけではなく、和歌の隆盛後も和歌が高尚なものと認められたわけではなく、相変わらず知識人の取り組むべき高尚な文芸の中心は漢詩であったのであり、天下国家の壮大なテーマは漢詩によって詠まれたのであり、和歌はずっと男女間の私的な営みを主に詠む下世話なものであり続けました。しかしそれでも知識人たちは積極的におおっぴらに和歌に関わり続け、実に905年の古今和歌集から1439年の新続古今和歌集までの534年間で21もの勅撰和歌集まで編纂し続けたのでした。
いや、日本におけるこうした知識人による軽薄文化愛好癖そのものが、この長期間にわたる勅撰和歌集の編纂事業の継続によって定着したのではないでしょうか。よくぞそこまでしつこく勅撰和歌集を作り続けたものだと感心しますが、ここで注目すべきはその始まりにあたる905年の古今和歌集の成立に先行する和歌の興隆時期である9世紀後半においてどうして当時の知識人層であった貴族たちは和歌に没頭していったのかです。

それはやはり和歌を使って異性を口説いたりすることも好きであったのでしょうけれども、それだけのことで勅撰和歌集の編纂までは行き着くわけでもなく、プラスアルファの要素があったと思われます。それはやはり「御霊信仰」の、神霊を祀り上げて気分よくさせるような祭祀のやり方の1つのバリエーションとして和歌による鎮魂が有効とされたからでしょう。
それは万葉集以来の言霊信仰の伝統を引き継いだものでありましたが、更にそれを発展させて「御霊信仰」の中でもあらゆる種類の精霊を祀り上げる手段として和歌がクローズアップされるようになりました。紀貫之が書いた、あまりにも有名な「古今和歌集」の仮名序にはこうあります。「和歌は人の心を種として万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事、業しげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠むまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり」
ここに述べられているのは言霊信仰ではありますが、その和歌の言霊は天地にあまねく存在する精霊たちや鬼神たちを感じ入らせ喜ばせ、それによって世の中を動かす力となるのと同時に、男女の仲を取り持ったりするものでもあり、つまり精霊たちが喜ぶようなものというのはそんなに高尚なものなのではなく、むしろ人間にとって身近で親しみやすい、猥雑で賑やかで楽しげなもので、鶯や蛙の声のような平凡な自然界の事物をありのままに感じて歌に表現することによって、自然界のあらゆる事物に宿る精霊は慰撫されて浄化され、有益な働きをするようになるという、言霊を使って万物の精霊を祀り上げるタイプの「御霊信仰」が述べられているのです。
これが905年の段階の古今和歌集の序文で述べられているわけで、紀貫之ともあろう人が勅撰集の序文で自分だけの思いつきを歌論として書き残すはずもなく、905年の段階では既に和歌とはこのようなものであるということが世間の共通認識として成り立っていたと考えて差し支えないでしょう。ならばそうした考え方が成立したのは9世紀後半あたりということになります。

もともと和歌は漢詩のパロディのようなものであり、パロディというものはオリジナルと同じ主題を扱ってもオリジナルとはまた違った視点を提供しなければパロディとしての面白味というものがありません。そこで和歌においては事物をありのままに見て「ああ」と感じたことをそのまま素直に表現するようになりました。これがオリジナルである漢詩といかに違っているかというと、漢詩をはじめとしたシナにおける文芸というものは観念上の想像物をいかにリアルに表現するのかが重要なのであって、対象の実在は重要な要素ではありません。つまり虚構を構築するのがシナおよびその影響を強く受けた朝鮮における芸術なのです。それに比べて日本においては、この和歌を通じて、実在する事物を素直に写実することに重きが置かれるようになりました。つまり漢詩などのシナ文化は創造的で、和歌などの日本文化は写実的であるということになります。
シナ文化の創造性にはそれはそれなりの魅力があり、日本文化の写実性にも魅力はあります。それぞれ持ち味があるのです。ただ一言すれば、シナや朝鮮においては事実認定というのは大して重要ではなく、それよりも「こうあるべき」という観念論のほうが優先されがちになりますから、例えば従軍慰安婦問題や南京虐殺問題などで到底あり得ないような出鱈目な論が罷り通ったりしてしまい、それを受け取る日本人の側は事実関係を写実的に受け止めることを重視しますから、シナや朝鮮側の言い分をほとんど狂人の戯言としか理解出来なくなるのです。これは文化がそもそも根本的に違っていることから来る摩擦なのです。
しかしこのようなシナと日本の文化の違いは、この漢詩と和歌の段階で生じたわけではなく、もっと根源的なものでしょう。芸術というものは人間精神の高貴性を表現するというのは近代になって神の不在が論じられるようになってから作られた謬説であり、古代においては芸術は神の世界を表現するためのものでした。シナにおいては神は「天帝」であり「天」という観念上の場所に存在する観念上の存在なのであり、日本においては神は森羅万象の「事物(もの)」に宿る実在の存在であり、それゆえシナにおいては芸術は観念的になり、日本においては芸術は写実的になったのです。
こうした日本における「事物に神が宿る」という精神性は太古から続くものであり、神道が自然神信仰と祖霊信仰が習合して成立する更に以前の自然神信仰の要素にまで遡るものなのです。それがこの9世紀後半になって和歌の中に復活してきて、事物(もの)をありのままに見て「ああ(あはれ)」と感じたことを素直に表現することが、事物に宿る霊(もの)を喜ばせることになるという精神を生んだのです。これが「もののあはれ」の精神で、この写実的精神は9世紀後半の和歌において形成され、11世紀初頭の「源氏物語」でその極地に達して完成することになります。これによって日本文化は日常的なものを題材としていくようになり、また現実の有様に立脚した写実的精神はこの後、外来の観念論をクールに分析して茶化し、そして作り変えていくパロディ文化を形成していくことにもなるのです。

こうして、「もののあはれ」精神という日常のささやかな事物に宿る精霊までカバーする「御霊信仰」を盛り込んで、和歌は貴族層の間で流行していくようになりましたが、これは体制側から規定された儀式ではなく、むしろ社会の基底部、下層部から生じてきた流行ですから、貴族は貴族でも当初は反体制派、反主流派の貴族たち、例えば藤原氏に排斥された紀氏や在原氏などのような貴族たちによって担われてきたのであり、それゆえ六歌仙のような反主流派のアンチヒーローの歌人達の歌がもてはやされるようになったのでした。
それが次第に支持者を増やしていき、9世紀終盤の光孝天皇の頃には宮中で歌合わせなども公式行事として行われるまでになっていきました。歌合わせというのはおそらく元々は一種の合コンのようなものであったのでしょうが、そんなものが天皇の公認の下で公式行事として行われるまでになったのですから、この頃になると和歌の流行も大したものであったのでしょうけれど、社会のあり方や時代そのものが大きな変化を開始しつつあったということでもあるのでしょう。その大きな変化とは、やはり唐の滅亡に対応しての新しい文明形態の勃興ということになりますが、それはまた少し後で考察します。
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この記事に対するコメント

カニの検索サイト。カニ料理、イラスト、北海道、食べ放題、かに 道楽などカニに関する各種情報をお届けしています。 http://hadj4.hartmerrell.com/

【2008/11/30 11:18】 URL | 57 #- [ 編集]


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【2012/04/20 16:08】 | # [ 編集]



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