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日本史についての雑文その344 俘囚問題
9世紀後半の律令国家文明の変質期の時代というものが社会の土着的な基層部からの猥雑で粗野なエネルギーによる文明の作り変えの始まりの時期なのだとしたら、そのエネルギーの宗教面や文化面の表れが「御霊信仰」や「もののあはれ」精神なのであり、そして地域社会におけるそうしたエネルギーの発現が富豪層による脱税闘争の激化や群盗海賊の横行であったのでしょう。
もちろんこれらは道徳的に正しい行為とは言い難いわけですが、律令国家を成り立たせている道徳観の範疇外にある野放図なエネルギーであるからこそ、文明を作り変えていくパワーになり得るのだといえます。しかし、だからといって野放しにしておいて良いというわけでもなく、これらは実態は反国司闘争であり、れっきとした反体制的行為なのですから取り締まらなければなりませんでした。

いや、日本においてはこうした反体制的な下からの野放図なエネルギーを野放しにして革命にまで至るのではなく、そうした反体制的な動きを収拾していくための試行錯誤の中にこそ新たな変革のエネルギーの源が生じてくるのが通常パターンとなります。そしてそうした事態収拾のための試行錯誤においては、反体制的な勢力を取り込み、その力を活用して事態収拾を図っていくのが日本における通常のパターンともなっていきます。そうした傾向が明確な形で現れてくるのがこの9世紀後半の時代ということになります。
そうした発想というのは、精神世界における反体制的存在である「怨霊」を祀り上げて浄化して社会に有益な存在である「御霊」に転化してしまう発想と共通したもので、現実世界における「御霊信仰」の1つの類型であるという解釈も可能です。この時代になって「御霊信仰」という、元来敵対的な存在を味方にして活用するという発想が確立したことによって、それが現実社会における施策にも応用されるようになったものでしょうが、要するにもともと日本においては神にも本質的な善悪の別は無く、ならば人間もまた善悪の二項に明確に区別することは出来ず、悪を為した者でも悔い改めたり罰を受けて罪を償うことによって味方として活用することは可能という、日本的宗教観に根ざした考え方ということになります。
不浄なものが浄化されて清浄なものになれば有用なものになるという融通無碍な発想は日本独自の宗教観によるものといえます。こうした本来敵である要素を統治機構の中に取り込んでいくという発想が日本における「中世」の始まる要素となるのですが、その起源は御霊信仰。そしてそのまた起源は古来の神道的考え方、その淵源には太古の精霊信仰があるというわけです。こういう傾向があるからこそ、日本という国は群盗海賊や戦国の下克上のような勝手放題のカオスが本態でありながらも、とことんカオスの極限まで行って革命に至るということが無いわけです。

つまり具体的には、脱税闘争や群盗海賊の主体となっている富豪層に働きかけて、富豪層を駆使して脱税闘争や群盗海賊を取り締まろうという方法が、この9世紀後半になって国司によって取られるようになってきたのでした。富豪をして富豪を取り締まらせようという発想です。
富豪というのは民間の存在ですから、本来は「官」が行うべき犯罪取締り業務を「民」に行わせようということで、どうして「官」がそれを行わないのか不可解に思われるかもしれません。近代的感覚で言えば本来は軍隊や警察の機関を拡充すべきなのでしょうが、そもそも税収不足でそれは無理でした。それにしても郡司のような地方官吏がその役目は担うべきではないかとも思われますが、郡司の置かれた立場は9世紀後半に入ってますます厳しいものとなってきていました。
9世紀中頃には国司官長が中央政府に対して貢納物の完納と未進物の補填の責任を集中して負うようになっていき、国司官長は配下の郡司への締め付けを強めて、各郡司の担当郡を決めて収税を担当させて、未進物が出れば郡司の私物で補填させるようになりました。しかし主な徴税対象である富豪層は免税特権のある役職を得たり有力貴族と結託して脱税を図るようになっていき、私物を名目だけ都の免税特権を持つ有力貴族に寄進して、あらゆる私物にその有力貴族の所有物である旨のラベルをベタベタ貼り付け、「これは○○家の財産だから納税しなくてもいいはずだ」と嘯いて、自分はそれを預かっているだけだと言いつつ、実際は私用に供するようになっていきました。
郡司としてはそのような富豪の脱税行為を放置していては自分の補填分が増えるだけになりますが、かといって富豪達の倉庫にしまい込んでいる名目が有力貴族の所有物となってしまっている財物を無理矢理持ち出すことも困難で、そこで仕方なく、9世紀後半になると、とんでもない誤魔化しを考え付くようになりました。それは、富豪の私宅の倉庫を名目だけ「郡の倉庫」であると見なして、つまりそこにある富豪の私物は本当は郡の所有物で、既に徴税し終わって納入された物品であり、但しそれは倉庫ごと富豪に管理を委託しているだけだとしたのです。
こうした倉庫のことを「里(さと)にある倉庫」ということで「里倉」というようになりましたが、要するに郡司と富豪との談合で「里倉」というものをでっち上げて、名目上「里倉」を持つということになった富豪は実質的には今までと変わらず私物を倉庫に隠匿しておきつつ郡司からの納税催促を免れることになり、郡司は帳簿上ではあくまで納税は完了しているわけですから国司に対して補填義務を負わなくて済むようになり万々歳というわけです。
しかし全然万々歳ではないわけで、これは実際には郡司による脱税黙認であり、実際は国司の手元には貢納物は届いていないのであり、国司から「里倉」にしまってあるという財物を実際に使用するよう命じられた郡司は適当なことを言い繕って誤魔化すしかありませんでした。結局これは単なる上辺だけの誤魔化しに過ぎず、財政状況は全く好転しておらず、こうして問題を先送りして、そのうちに税収不足分の弁済責任の所在は曖昧になっていくのです。
こうなってくると郡司はもうほとんど収税担当者としては機能していないのであり、国司官長がそうした郡司の弁済責任を更に厳しく追及していくと、郡司は没落していくか、あるいは国司官長と郡司が対立するようになり、郡司が富豪層と結託して反国司闘争である群盗海賊の一味となるようなこともありました。これでは郡司はもう郡司ですらなく、単なる土地経営者である富豪の1人に過ぎない状態となり、旧来の氏族共同体の長としての役割は果たせなくなり、9世紀後半はこのように氏族共同体の崩壊が進行していった時代であったのです。

つまり、「反経制宜」の精神に則った臨機応変な収税方針によって、ある程度の税収の回復には成功したものの、それが地域社会の変質も加速させていくことにもなったということです。その変質とは、氏族共同体の崩壊の進行と、それに代わる富豪層などの大土地経営者を中心とした地域社会の誕生でした。
あたかも幕藩国家文明の改革期の享保の改革に対応して変質期に多発するようになった百姓一揆が新しい農村自治に繋がりそれが次の国民国家文明における民主政治の萌芽に繋がったように、律令国家文明改革期における「反経制宜」の改革に対応して変質期に起こった群盗海賊のような反国司闘争から次の王朝国家文明の時代における体制が生まれてくることになるわけです。それは「負名体制」や「受領体制」とでも呼ぶべきものでありましょう。
こうした9世紀後半の地域社会の変質を受けて、律令法はもちろんのこと、820年に編纂施行された弘仁格式でも現状には適応不可能になり、新しい状況に対応した新しい法令が多数発布されるようになっていきました。それらをまとめたものとして太政大臣の藤原良房の指導の下、菅原清公の息子の菅原是善らが中心となって869年に貞観格が編纂・施行され、871年には貞観式が奏上・施行されました。しかしこの後、875年以降の変質期の後期においても社会の変質はますます加速していき、それに対応して新たな法令も増えていき、またこの貞観式は弘仁式の補足部分のみの編纂であったので法典として使用する場合に弘仁式と貞観式の両方を参照しないといけないという不備もあったため、結局、後に927年に延喜格式が編纂完成されることになり、それをもって平安前期の法典作成事業は完遂することになります。

とにかく、そのような地域社会の変容の中では、群盗海賊を構成するのは富豪だけではなく富豪化した郡司でもあったわけですから、その取締りに動員するのが富豪であっても郡司であっても同じことであり、むしろ官位や役職を与えるという恩賞で釣る分には既に役職を得ている郡司よりも無位無官の富豪たちのほうがモチベーションが高く、いい働きを期待出来ました。
富豪といっても元々は皇族や貴族の庶子の子孫たちが多く、本音では官位や役職が欲しいのですがそれが適わないので仕方なく地方で土地経営などをしている者が多く、群盗海賊の検挙に手柄を挙げれば官位や役職を与えるという餌で釣れば、勇躍して参加するような者が多かったのでした。まぁ分かりやすく言えば、群盗海賊は賞金首のようなもので、その取締りに参加する富豪たちは賞金稼ぎのようなものでした。中には自分の居住地でのない地での群盗捕縛のために呼ばれもしないのにやって来る者もおりました。
それにしても、そんな怪しげな連中の手を借りなくても、やはりちゃんとした捕縛担当の官吏を養成すればいいのではないかとも思われますが、それがなかなかそうもいかなかったのです。それは、この9世紀後半になると天皇の清浄性の維持のために天皇を穢れ仕事から遠ざけなければならなくなったため、天皇を頂点とした律令官制の正式な役職としてそのような、犯罪者相手とはいえ傷つけたり殺したりするようなことを専門とするような「穢れ」に触れるような官吏を置くわけにいかなかったのです。それはあくまで民間の有志をその都度雇い入れるという形で行うべきとされたのでした。
さすがに天皇のお膝元である平安京の治安維持のためには検非違使という官吏を置かざるを得ませんでしたけど、これも正式な律令官制から離れた令外官であり、858年以降は法律の専門家も加えるようになり、平安京における武力装置と裁判機能を一手に引き受けるようになり、むしろ律令官制から検非違使という令外官に穢れ仕事を隔離したといえます。本来の律令制においてはこうした穢れ仕事も天皇(皇帝)の担うべき権能なのですが、9世紀後半以降の日本型律令制においては、天皇がその本来の権能のうち穢れ仕事の部分を自分の分身にやらせるようになっていったとも解釈できます。
平安京でさえこんな有様ですから、地方行政の局面では穢れ仕事はもっと忌避され、群盗海賊の討伐のための動員に際しても、中央政府はいちいち関与することを避けるようになっていきました。

律令制における治安維持システムとしては、もともと、軽犯罪や農民逃亡に対処するための非武装の人夫動員の場合と、殺人などの重犯罪や謀反に対処するための武装した要員の動員の場合とでは、その人員動員の手続きが違っており、前者の場合は国司権限で動員可能ですが、後者の場合は国司が天皇に報告した上で天皇の勅符が必要でした。もちろん群盗海賊は後者に相当していましたから、国司たちは当初は討伐のための人員を動員する際にいちいち天皇に報告をして勅符を請うていました。
しかし中央政府ではこうした習慣を9世紀後半になると嫌うようになり、「いちいちそんな穢れ仕事の件を天皇に報告しないで国司の権限で人員を集めて処理するように」とお達しするようになっていきました。これも天皇を穢れから遠ざけようという考えから来るものでした。しかしそもそも律令制における国司の権限で動員できるのは非武装の人夫のみのはずで、非武装の人夫で群盗海賊の討伐の役に立つはずもないので、結局、国司の権限で武装した人員の動員をするようになっていきました。これは明らかに律令規定に違反しているのですが、これも一種の「反経制宜」ということになるでしょう。
こうして天皇は武装した人員の動員という権能も自分の分身としての国司官長に譲り渡していくようになっていき、国司官長はそれぞれ自由に群盗海賊討伐のために武装した富豪たちを動員出来るようになりました。しかし当初、実際に富豪有志たちに群盗海賊を討伐させてみると、まぁ結構健闘はするのですが、それほどパッとした成果は上がりませんでした。なんというか、富豪有志たちと群盗海賊たちの力はほぼ互角であったのです。それもそのはずで、群盗海賊を構成しているのは富豪たちであったのですから、その戦闘能力や戦術も同じようなものであったのです。
これがスポーツやゲームであったのなら、さぞ面白い勝負であったでしょうが、事は治安維持ですから面白くても仕方ないのであって、鎮圧側が圧倒的に優位でなければ意味が無いのです。そこで国司官長は自由に武装勢力を動員出来るようになったこともあり、富豪有志たちに加えて全く異色の強力な武装勢力を鎮圧側に動員することにしたのです。それが俘囚勢力でした。

俘囚というのは8世紀終盤から9世紀初頭にかけての対蝦夷戦争で朝廷が捕虜とした蝦夷たちを日本の各国に満遍なく分住させていたもので、要するに強制連行されて各国内の特定の居住区に集団で住まわせられていた蝦夷集団のことでした。
蝦夷は日本が倭国と称していた時代から倭国にとっても異世界であり、日本国が成立した後も蝦夷は農耕化されず狩猟を主に行う異民族であり、桓武天皇による同化を目指した征討も結局は中途半端に終わったので、この9世紀後半時点でも東北北部の蝦夷居住区は相変わらず日本から見て異文化地帯のままでした。
そもそも捕虜とした蝦夷を俘囚として日本各地に分散居住させるようになった理由は、この中途半端に終わってしまった蝦夷征討戦争の大義であった「天皇の徳による蝦夷の王民化」を部分的にせよ達成するためでした。つまり野蛮な蝦夷たちも日本の各地で暮らしていくうちに天皇の徳を感じて次第に善良かつ忠実な王民となっていくということを実証して、天皇の徳を示すために俘囚たちは強制連行されてきたのでした。
これは典型的なシナ帝国的な華夷秩序的世界観であり、既にこの俘囚たちが連行されてきた9世紀初頭にはそういう世界観には限界が露呈してきていたのですが、そうした時代の変化が各国の出先機関にまで浸透するまでにはまだ時間が必要でした。それで各国での当初の俘囚への対応は、バリバリの華夷秩序思想に基づいたものとなりました。
といっても酷い扱いを受けたわけではありません。むしろその逆で、各国の俘囚管理を任された国司たちは「天皇の徳によって蝦夷が改心する」という徳化思想を額面通り信じていたため、まず俘囚たちに対して天皇の徳を示す必要があると考え、極めて寛大な処置をとることにしたのです。国司たちは、寛大な扱いをすれば俘囚たちは感謝して自然に同化してくるはずだと考え、決して強制的に同化させるようなことがあってはいけないと考えました。強制的に同化させても天皇の徳を示したことにはならないからです。あくまで俘囚たちの好むようにすることが大事でした。いや、俘囚たちが本当に望んでいたことは故郷へ帰ることだったのですが、それだけは許されませんでした。つまり俘囚たちは「天皇の徳」というものを証明するためのモルモットのような存在であったわけです。
そういうわけだったので、俘囚たちは他の日本人とは隔離されて集団で居住させられ、俘囚集団内の管理は俘囚のリーダーによって自治が許され、生活は東北地方に住んでいた時と同じように狩猟生活が許され、農耕が強制されることもなく、もちろん租税も免除され、衣食住の面倒は国司が見てくれました。つまり他の日本人に比べれば極めて恵まれた特権的待遇を受けていたわけで、この溢れるような「天皇の徳」を受けた俘囚たちが何時感謝感激して天皇の忠良な僕となるのか、国司たちは今か今かと待ち構えて観察していたのでした。まさに実験動物です。

しかし当然のことですが、俘囚たちに大きな変化は現れませんでした。もちろん中には日本人に同化していった者もおりましたが、それはその人なりの何らかの事情があったからであり、決して「天皇の徳」などというものに感じ入って自然に同化したというわけではなかったでしょう。普通の俘囚たちにとっては、隔離されている息苦しささえ我慢すれば働かなくても何不自由なく故郷と同じような生活が続けられて租税も免除されるというのに、何を好き好んで重い租税を課されて労働に追い立てられる日本人になりたいはずがないのです。
そうしているうちに俘囚たちは国司の庇護を受けなければ生活出来なくなるまでに堕落してしまいました。こんな特権的待遇を長年続けていれば自然にそうなります。その一方、その間ずっと一般日本人たちは重い税負担に耐えてきていたのであり、その彼ら日本人の血税を浪費して俘囚たちはぬくぬくと暮らしていたということになります。日本人側から見てそれが面白かろうはずがなく、俘囚たちは日本人社会から冷たい批判の目で見られるようになっていき、国司などの地方官吏の中でも俘囚の堕落ぶりに批判の目を向ける者も出てきました。
まぁそもそも俘囚たちも好き好んでそんな生活を送っているわけではなく、変な徳化思想にかぶれた国司たちが諸悪の根源なのであり、俘囚たちには同情すべき点もあったのですが、とにかくそうした非難の目に晒されることになった俘囚たちは、生活保護の引き換えに何かして働かなければいけないという圧力を受けるようになり、そうした時に9世紀後半に入って群盗海賊の討伐に協力するよう国司から要請を受け、そもそも俘囚たちは国司の庇護無くして生きていけないのですから、その要請を断るという選択肢がありようもなく、群盗海賊の討伐要員として動員されることになったのでした。

なぜ国司たちは俘囚たちに群盗海賊の討伐に協力するよう要請するようになったのかというと、それは戦術的な相性を考えてのことでした。群盗海賊というのは正規の軍隊のように特定地域を制圧するための組織的な軍隊行動をとるわけではなく、例えば街道を行くキャラバン隊を急襲してその荷物を奪い、荷物を奪ったらさっと逃げて身を隠すという、言ってみればヒットアンドアウェーのゲリラ戦をもっぱらとする存在であり、その身上は機動力ということになります。
だからだいたい群盗海賊は小回りの利く少人数部隊で行動し、だいたいみんな馬に乗っており、重い鎧など身に着けず素早く動き、逃げた後は一般人に紛れてしまいます。こういう輩を捕まえるのには鈍重な正規軍というものは不向きでした。しかし群盗海賊の討伐に参加していた富豪有志たちが元々受けていたり知っていたりした軍事訓練というものは律令制軍隊の集団歩兵戦術のそれであり、それは正規軍を相手にして敵の領地を面として捉えてじわじわ押さえていくような軍隊行動に適したものではありますが、機動力重視のゲリラ戦への対応力は低いものでした。もちろん群盗海賊を構成する富豪たちも同じ程度の軍事的経験しか持ち合わせていなかったでしょうし、そうした状況で攻撃側も防御側も手探りで不慣れな機動戦を展開していったのですが、そのようにお互いの力が互角の場合、奇襲をかけた方が有利なのであり、そうなると攻撃側の群盗海賊側が常に有利で、捕縛側は常に不利ということになります。

その点、俘囚はずっと狩猟生活を送っていましたので、まず乗馬が日本人よりも巧みでした。つまりスピードにおいて群盗側を上回るので追撃に有利ということになります。そして群盗は奇襲によって獲物を奪った後は戦わずにひたすら逃げようとしますから、逃げる敵を攻撃するには剣や矛よりもロングレンジ兵器である弓矢が重要であり、それも敵陣に向けて漠然と発射する軍隊式射撃ではなく、動き回る少数の敵に命中させられる正確な射撃精度が要求され、しかもそれを乗馬姿勢のままこなさなければならないのですが、俘囚は馬に乗って動き回る獲物を追いかけて弓矢で射る訓練を常に積んでおり、いわゆる「弓馬の術」の達人でありました。
ただ弓矢は、それでも動き回る敵に当てるのはそう簡単なことではなく、また当たったとしても急所に当てない限り完全に仕留めることは出来ず、群盗側が急所は防御している可能性も高く、そういう場合は致命傷を与えられず取り逃がすことになりますし、また弓矢は遠すぎては威力が低減し、またあまりに近距離においては発射までに時間のかかる弓矢は射出準備中は逆に敵の攻撃を受ける隙が大きくて危険であるので、やはり敵に止めを刺すため、あるいは近距離戦闘用には弓矢に加えて剣も不可欠となります。
しかしこの対群盗戦闘においては、自分も敵も馬に乗っており、猛スピードの中で擦れ違い様、あるいは追い抜き様の斬り合いということになります。つまり斬り合いの時に剣の本体やそれを持つ掌や腕に加わる圧力は並大抵のものではなく、それによって剣が折れてしまったり身体を痛めてしまったり、またせっかくのスピードを殺してしまうことも多くなります。特に律令制軍隊で正式採用されていたような日本古来の直っすぐな刀身の直剣の場合は主に「突き」を多用するため、スピードによる負荷をもろに受けることになり、あまり馬上戦闘向きとはいえませんでした。
この点でも俘囚の持つ刀は、もともと東北地方において馬上から動き回る獲物に斬りつけるために発達したものであったからでありましょうが、片刃で柄が外側に反っており、突くのではなく弧を描くように斬りつけるようになっており、その場合に柄の反りは斬撃時の衝撃を吸収する効果を発揮しました。特に擦れ違い様の斬撃時には突くよりも弧を描くように斬るほうが衝撃も少なく、剣術のバリエーションも豊富でした。また俘囚の刀は刀身と柄の地金が一体型であり斬撃時の衝撃で刀身が根から折れないように工夫がしてあり、これも馬上で使うことを前提とした工夫でありましょう。ちなみにこの刀は捕らえた動物の解体や調理用の包丁も兼ねていたのであろうと思われ、そんなに刀身が長いものではありませんでした。
このように機動ゲリラ戦において俘囚は群盗海賊に対して有利な条件を揃えていたのです。考えてみれば蝦夷こそは機動ゲリラ戦の名手であったのです。桓武天皇による蝦夷征討戦争の折も、大軍勢で圧倒する日本軍に対して蝦夷は果敢に何度も機動ゲリラ戦を仕掛けてきて、それが非常に効果的であったので戦線は膠着状態となり、結局、日本軍は蝦夷の完全征服は断念せざるを得なくなったのでした。それほど蝦夷が機動ゲリラ戦が得意であったのは、狩猟生活によって培われた要素があったからこそであったのです。
そうした機動ゲリラ戦の名手である蝦夷、つまり俘囚は、群盗海賊に対して圧倒的有利な立場にありました。それゆえ9世紀後半になって国司たちは俘囚に群盗海賊の討伐への協力を要請したのです。俘囚たちは国司に生活の全てを依存する立場でしたから否も応もなく引き受けるしかなく、群盗海賊の討伐に大いに功績を挙げることになりました。そしてその過程で更に戦闘の中で創意工夫して武器の改良も行い、刀の柄のグリップ力を上げるために柄に透かしを入れたり、斬撃時の衝撃吸収度を更に上げるために刀身にも反りを入れるようになっていきました。

こうした俘囚たちと共に戦った富豪有志たちは、自分も手柄を挙げるために俘囚戦法を学んでいきました。ただ俘囚と違い免税特権も狩猟特権も無い富豪たちは武芸訓練に専念する時間もなかなか取れませんでしたので、それほど飛躍的に武芸が上達していったわけではありませんでしたが、それでも少しずつ俘囚の戦い方を模倣していきました。この群盗海賊討伐における俘囚の戦い方というのはつまり、個人騎馬戦、騎乗しての弓射、騎乗しての反りの入った片刃刀による斬撃ということになりますが、これは後世の鎌倉武士の戦闘スタイルの基本的要素と同一です。この俘囚戦法が更に発展して武士の戦法になったのです。
つまりこの9世紀後半の俘囚と共に戦った富豪有志たちこそが武士の起源ということになります。それゆえ、後世の武士は騎馬を好み、弓矢の術に長じていたのです。そしてそうした武士同士が戦うようになったために、弓矢はより遠くまで届くほうが有利なのでどんどん弓は大型化し長弓が生まれ、騎馬接近戦時の斬撃戦ではより刀が長いほうが有利であるので刀身はどんどん長くなり太刀となり、すらりと伸びた反りの入った片刃刀、すなわち日本刀が生まれるようになるのです。また、そういった長弓や日本刀による攻撃から身を護るために鎧兜は大型化し、それでいて騎馬時のスピードを殺さないように軽量素材が好まれたため、分厚い皮革製のものが好まれるようになり大鎧が生まれるようになるのです。
また、後世の武士が朝廷のお墨付きによって追討側に立つことを好み、追討される側に立つことを極度に嫌う傾向を見せるのも、武士がその起源において群盗の追討要員であったということにアイデンティティを見出していたからでありましょう。また、やたらと恩賞にこだわるのも、敵の首を取ることを好むのも、戦場で名乗りを上げたり舞を舞ったり和歌を詠んだり、また一騎打ちをやたら望んだり、とにかく戦場で派手な振舞いをして目立とうとするのも、その起源が賞金首を狙う賞金稼ぎであったからでしょう。
そして、本来は天皇の役目であるはずの治安維持の役割を代行し、天皇の身代わりに穢れ仕事をあえて引き受けているという自負心、天皇の分身としての自尊心がやたらと強いために、卑怯な振る舞いを嫌い、勇猛を尊び、その武力を私欲のために使うことを厳しく自制する傾向が生じました。そしてその一方で、その自尊心の強さゆえに面目を失うことを極度に嫌い、自分の面目を汚されたと判断すれば、面目を回復するために武力を行使することを躊躇わないようにもなったのです。

しかしこの富豪有志たちはこの9世紀後半の時点では、まだ武士そのものではありません。彼らはまだ武芸訓練に専念出来る特権は与えられていないからです。彼らが武士に成長していくのは、そうした特権を既に与えられている俘囚たちが10世紀初頭にいなくなった後、その不在を埋めるために新たに彼ら富豪有志の一部に武芸訓練特権が認められて以降のことになります。では何故、俘囚たちはいなくなったのか。それは俘囚たちが国司の下で治安維持要員として働くようになったことによって俘囚たちの存在の矛盾が一気に表面化したからでした。
俘囚たちが討伐した群盗海賊というのは治安を乱す乱暴者でありましたが、その一方で反国司闘争という側面も持っていました。つまり国司の過酷な収奪に反抗するアンチヒーローの側面があったのです。俘囚はそれをコテンパンにやっつけてしまうわけで、しかも国司に衣食住の面倒を見てもらう見返りに武力を振るう、言わば「国司の飼い犬」で、その俘囚を養う元手は一般日本人から収奪された租税なのです。その上、俘囚たちは免税特権まで与えられているのですから、一般日本人から見れば、その異様な習俗なども合わせて、憎悪や妬みや軽蔑も入り混じった差別的感情を持つようになったのも仕方ないことでありました。
実際、現在でも独裁国家においては自国民を弾圧するための武力集団として国内少数民族のみで編成された部隊などを独裁者が飼い犬のように手なずけて駆使することは普通にあることで、少数民族部隊から見ればその国の多数派の国民に対して同胞としての同情心などは一切無いわけですから、躊躇なく飼い主の命令に忠実に国民を殺傷することが出来るのです。そうした少数民族部隊が国民からどれほど憎悪されるか、容易に想像がつくことでしょう。
9世紀後半の日本においても、国司たちは俘囚の武力を使って民衆に対する過酷な収奪を行ったであろうし、俘囚たちも自らの意思ではないにせよ、一般日本人に対して無慈悲な振る舞いに及ぶことに大した抵抗心が無かったことも事実でしょう。彼らは一般日本人とは隔離されて暮らしていたのですから、同情心など生じようがないのです。
何やら、現在の日本の在日朝鮮人問題と似ているような、似ていないような問題のように思えて興味深いものです。特権があったり権力と近しい関係にあり、それゆえ日本人に嫌悪されるという点で在日朝鮮人と共通していますが、在日朝鮮人が言う「強制連行」は出鱈目である一方、俘囚は本当に強制連行されてきたので、そういう部分はだいぶ違うようです。

さて、こうして一般日本人と俘囚との間の対立感情が激しくなっていくと同時に、俘囚と国司との関係も微妙なものになってきました。そもそも俘囚をこのように傭兵のように使うということ自体が、元々の俘囚の存在意義である「天皇の徳による王民化」という原則に反したことでした。いや、この9世紀後半になるとそろそろそのような「王民化」などという考え方が時代遅れであるということが地方官吏のレベルにまで浸透してきたのであり、それゆえ大事なモルモットである俘囚を傭兵のようにして酷使するようなことが可能になったのだといえるでしょう。
つまり、この「俘囚の傭兵化」ということ自体も一種の「反経制宜」、すなわち、律令制の原則に反してでも収税の効率を上げていくという施策の一環であったのです。しかし「反経制宜」とはつまりは「律令制の縛りを取っ払って物事をあるがままの慣習法的世界に任せる」という意味で、俘囚というものはそもそも律令制という前提があって初めて存在しているもので、あるがままに任せるならば俘囚は存在せず、東北地方で蝦夷として暮らしているはずのものということになります。だから「俘囚の傭兵化」という施策そのものが俘囚の存在と矛盾しているのです。
それゆえ、俘囚を傭兵化した国司たち自身が、どうして俘囚をわざわざ税収を注ぎ込んで養っていく必要があるのだろうかと疑問に思うようになっていきました。それでも俘囚が実際に国内の支配に役に立っているのならばそれはそれで良いのですが、現実には国内の一般民衆の俘囚への憎悪反発は強まる一方であり、むしろ不安定要因と化しつつありました。一般民衆を宥めるためには俘囚への生活支援を減らしたり免税措置を取りやめたりすればいいのですが、そうした特権剥奪は俘囚の猛反発を招きました。
俘囚たちにしてみれば、群盗海賊との戦いで犠牲者も増えていた上に、一般住民からの差別的待遇も受けるようになったというように、新たに多くのリスクを抱え込んでまでも国司の要望に応えているわけですから、むしろ更に待遇を良くしてもらって然るべきであると思っていました。そうした待遇アップの要求を出しても無視され、それどころか特権剥奪まで求められるに及んで不満が爆発し、自分たちが本来貰って然るべき分として国内の財物を襲って略奪するようなケースも出てきました。つまり俘囚が群盗海賊化したのです。そうなると国司は俘囚の反乱を別の俘囚を雇って鎮圧したりするようになり、こういうケースが9世紀終盤に多発してくるようになると、もう俘囚の存在意義自体が何が何やら訳が分からない状態になってきました。

そこで朝廷は897年に陸奥国の行政当局に働きかけて、朝廷に向けて「陸奥国で経営基盤となる土地を与えて租税免除の特典を与えた上で辺境防衛と荒田の再開発にあたらせる要員を大々的に求めているので、全国に逃亡した陸奥国人を陸奥国に連れ戻していただきたい」という申請書を出させ、それを朝廷が了承し、申請に従って、全国に散らばる逃亡陸奥国人を陸奥国に送還したのでした。
これは一見、俘囚とは何の関係も無いように見えますが、「全国に逃亡した陸奥国人」などというものの実体は無く、これは俘囚のことを指します。俘囚は陸奥国から逃亡したのではなく、実際はその逆で無理矢理連れてこられたのですが、それを逃亡した者という建前で陸奥国に強制送還する大義名分としたという官僚的作文に過ぎません。とにかく最初に俘囚を日本側に連れてきた時には「天皇の徳を慕って蝦夷がやって来た」という建前であったのですから、それを今更「強制連行してきましたので帰します」とは言えないのであり、この官僚的作文は苦肉の策であったと思われます。
俘囚側から見れば、この建前論に従って逃亡陸奥国人のフリをしていれば合法的に父祖の故郷に帰ることが出来る上に、今までと変わらず生活支援や免税特権も一定程度は受けることも出来るわけで、しかも一般日本人からの憎悪と非難の目に晒されることもなく大手を振って生きていけるのですから、文面上は陸奥国への強制送還となっていますが、おそらく実際にはほとんどの俘囚が喜んで陸奥国へと移住していったと思われます。もちろん辺境防衛や荒田再開発などというのは建前に過ぎず、実際は彼らは元の蝦夷の生活に戻ったのでしょう。そして陸奥国はこの後、ゆっくりと日本の農耕文化が浸透していくことになるのです。次に陸奥国の蝦夷たちが歴史に登場してくるのは11世紀中頃になってからのことで、帰還した俘囚の族長である安倍頼良(頼時)が反乱を起こす時のことです。
とにかくこうして897年に朝廷は俘囚問題に決着をつける施策を実行し、これを受けて10世紀初頭には全国に散らばって集団居住していた俘囚たちはほとんど陸奥国へ帰還したのでした。要するに朝廷は俘囚を厄介払いしたのです。こうして俘囚はいなくなったのですが、ちょうどその頃、全国各地は蜂の巣を突いたような騒ぎに陥っており、俘囚に代わる新たな強力な治安維持要員が求められるようになったのです。ここにおいて武士が登場してくることになるのですが、その前にまず、どうしてそのような状態に陥ったのか、そこに至る経緯を9世紀最後の四半世紀の動きから見ていきたいと思います。
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