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日本史についての雑文その345 阿衡の紛議
872年、若き清和天皇の下で政務を取り仕切っていた太政大臣の藤原良房が没し、その年に右大臣に昇進していた養子の藤原基経にその政治的地位は引き継がれました。基経は36歳で太政官の実権を握ったことになります。
藤原基経の養父の良房の築いた政治的地位とは、天皇が祭祀を主に行い、その外戚一族である藤原氏が政務を代行するという祭政分業体制のもとで、幼帝のもとで摂政を務め、また太政大臣にオールマイティーな政務統括職としての重みを持たせたことでした。その養子の基経はその政治路線を忠実にトレースして、その路線を固めていこうとすることになりますが、同時に良房の路線への反発が大きかったこともずっと見て知っていたので、慎重にその路線を進めていくことになりました。

そうした流れの中、876年に清和天皇は26歳の若さで譲位し、その息子で皇太子の貞明親王が7歳で即位して陽成天皇となりました。陽成天皇の生母は基経の妹の藤原高子で、基経は幼帝の外叔父となり、養父の良房が8歳で即位した清和天皇の外祖父として摂政に就任したのと同じように、陽成天皇の政務を代行する摂政に任じられました。そして880年に陽成が11歳となった時点で基経は太政大臣に昇進し、養父の築いた政治的地位を完全に引き継いだことになりました。
しかし陽成天皇は成長するにつれて荒々しい性格を露わにするようになり、881年に父親の清和上皇が出家して無理な断食行をしたのがたたって病死して以降はますます乱暴な振る舞いが頻繁となり、自分の乳兄弟を殴り殺したりすることもありました。これは現代的感覚で見れば、年齢的にもちょっと若さゆえの反抗期の重度の表れ程度のもので、要するに単なる青少年期の非行のようなものですが、当時としては祭祀王たる天皇としてはあってはならない穢れた行為であり、基経の路線の求める清浄なる天皇像とはかけ離れたものであったので、これは由々しきことであると基経は陽成を強く諌めたのでありましょう。それに若い陽成が反発し、母親の高子も息子の味方をして兄の基経に逆らったりしたので、陽成と高子の母子と基経の間は険悪な関係になってしまったのでした。
これでは基経も娘を陽成のもとに入内させることも出来ず、困ってしまいました。また、そもそも清和天皇から陽成天皇への譲位自体が基経の強い薦めで行われたことであったので、その後の清和上皇の急な死や、陽成天皇の非行少年ぶりなどに関連して、基経を非難する声も高まってきました。養父の良房が朝廷内での非難の声に悩まされていたことを傍で見てきた基経はその二の舞を避けようとして事態の収拾を図るために884年に陽成天皇に退位を勧め、陽成天皇も天皇位にあることが重荷であったのだと思われ、退位を了承しました。

陽成天皇は15歳で退位したことになります。その若さでは退位時点でまだ皇子がいませんでしたので、他の親王たちの中から次の天皇を選ぶことになりました。その選任には太政大臣の藤原基経の発言権は当然大きかったわけですが、そもそも陽成天皇の退位に至る遠因は基経が皇位継承に自分の意見を強く主張しすぎたということがありました。その養父の良房の代からのそういった強引なやり方に反発を覚える公卿たちも多く、ここは基経もあまり自分の意向を強く主張することは出来ず、それよりも多くの公卿の賛同を得られるような人選に努めることになりました。
そこで白羽の矢が立ったのが仁明天皇の第三皇子で文徳天皇の異母弟であった時康親王でした。退位した陽成天皇が文徳天皇の孫なのですから、一気に二世代分も戻ることになり、時康親王はこの時点で54歳に達していました。太政大臣の基経が48歳でしたから、それより年長ということになります。
時康親王は仁明天皇と藤原沢子という女御との間に生まれた親王で、沢子の父親は藤原総継という貴族でした。総継の祖父は藤原北家の祖である藤原房前の五男の藤原魚名で、魚名の兄で房前の三男の藤原真楯の孫の冬嗣が北家の興隆の礎を築いたので真楯の子孫が藤原北家の本流となり、魚名の子孫は北家の傍流となっていました。本流の冬嗣の孫が基経で、傍流の総継の孫が時康親王ということになります。時康親王は傍流とはいえ藤原北家を外戚とする親王で、藤原北家の総帥である基経としても申し分ない人選といえました。
ただこの時の人選のポイントはそこではなく、時康親王は若い頃から非常に聡明で温厚な人物として人望が厚く、宮中行事や諸芸に通じた優れた文化人で、政務経験も豊富で、陽成退位時点には全ての親王の中で最年長であったので親王グループの筆頭の地位にあり、誰も文句のつけようのない人選であったことにあると思われます。年齢経験的にもパーソナリティ的にも、まさに陽成天皇とは対極にあり、天皇に祭祀王を求める人達から見ても、天皇に高徳の君主像を求める人達から見ても、どちらから見ても天皇として相応しい人格の親王であったといえます。陽成天皇の失敗の後だっただけに、基経はこうした時康親王を推すことによって挙党一致体制をとることにしたのです。

こうして884年に時康親王が即位して光孝天皇となりました。この54歳で即位した天皇を48歳の太政大臣の藤原基経が補佐することになりましたが、年長で老人の天皇を補佐する立場で「摂政」というわけにもいきませんから、基経は単に太政大臣という立場で天皇を補佐しようとしました。この太政大臣という本来は名誉職である立場を実質的職務として天皇の職務の実質的代行を行うというのは、清和天皇や陽成天皇の代に藤原北家との間で言わばナアナアで既成事実化していたことであったのですが、光孝天皇は政務経験が豊富であったこともあってか、律儀な性格であったようで、当時において文章博士であった菅原道真らに太政大臣の職掌に関して諮問しました。
文章博士というのは官僚養成機関である大学寮の文学部門と歴史部門の教授のようなもので、文学というのはこの時代の大学寮においては漢詩やシナの古典を指し、歴史とはシナ史を指し、日本の律令官制はシナ官制に対応したものでしたから、シナの故実に照らして日本の政治事象の正当性を判定する際には文章博士に諮問しました。菅原氏は道真の祖父の清公、父の是善というように代々この文章博士を歴任した学者の家系で、道真もこの時39歳にして当代一流の学者でした。道真は学問に極めて忠実な人であったようで、「太政大臣には具体的な職掌はありません」と答申したのでした。これは文章博士の職分として当然のことをしたまでのことだったのですが、基経にとってはあまり有難いことではなかったでしょう。もう少し空気を読んでほしいと思ったことでしょうが、道真はそういうことの出来る性格ではなかったようです。また道真は880年に没した反藤原貴族の代表格であった在原業平とも親しかったこともあり、結局、道真は藤原北家に疎まれて886年に文章博士を解任されて讃岐守に任じられて地方に飛ばされることになりますが、これはこれで道真にとっては地方行政の現場を肌で知る良い機会となったようです。
ただ別に光孝は基経を排斥しようとしていたわけではなく、光孝は基経の政務統括能力を高く評価しており、また光孝はまさか天皇位に就くとは想定していなかったので特に政権構想があるわけでもなく、自分を天皇に推挙してくれた基経に感謝もしていましたから、以前と変わらず基経に政務を任せようと思っていました。ただ光孝としては以前までのような「なし崩し」ではなく基経の政治的地位にちゃんとした根拠を与えたほうが政局の安定化に繋がると考えたのであり、それでまずは太政大臣の職掌について整理しておこうとして道真に諮問をしたのです。その結果、太政大臣のまま政務を統括することは律令法的には無理があるとの答申を得たので、884年に特別に「基経は万政を掌り、天皇を輔弼し、百官を指揮するようにせよ。奏上や下命はまず基経に諮問せよ」という詔を下しました。これによって基経は年長の光孝天皇のもとでも政務を代行するお墨付きを得たことになります。むしろ光孝は基経に助け舟を出したといえるでしょう。

そうして光孝の治世においても基経は政務を代行していきましたが、光孝天皇即位にあたって皇太子は定められませんでした。この頃は天皇即位と同時に皇太子を定めることが慣例化していたので、これは異例のことでした。これは老齢の光孝から次の天皇への代替わりが近いであろうことを見越して、光孝と基経が手を組んで一芝居打ったのであろうと思われます。
基経は清和や陽成の退位の経緯なども鑑みて、あまり皇位継承に表立って口を出すのは他の公卿の反発を招き、政局の安定上好ましくないのです。しかし次の天皇が実力者の基経と不仲ではこれもまた政局の不安定の原因となってしまいます。
とにかく光孝天皇は即位時点で既に54歳という年齢でしたから基経の娘を入内させるというわけにもいかず、その治世も3年間という短さであったために、その間に光孝の皇子たちと縁戚関係を結んだりしている余裕も無く、つまり目ぼしい親王の中で藤原北家の血統を濃く引いた皇子はどうせいなかったわけですから、基経としては誰を選んでも良かったという事情がありました。
そこで光孝天皇自身の意中の親王を秘かに選んでおき、それを皇太子とせずに目立たない立場に置いておいて、基経との関係を深くしておいて、いざ皇位継承の直前になって光孝天皇自身の意思としてその人物を皇位継承者に指名することにしたのでした。光孝天皇は大変人望の厚い方であったので、その意思ならば多くの人の納得を得ることが出来ると考えたからでした。
その光孝天皇の意中の人は第七皇子の定省親王で、光孝天皇の即位後すぐにカムフラージュのために臣籍降下して源姓を与えて源定省とし、基経の妹である藤原淑子の猷子としておきました。定省は光孝天皇と斑子女王の間の子で、これは皇族同士の夫婦であったので藤原氏の血は全く引いていない皇子であったのですが、基経の妹の猷子となったことで基経と縁が出来ることになりました。光孝天皇が他の皇子を差し置いてその定省を後継者に選んだ理由は、おそらくその聡明さを評価してのことであったのでしょう。
そして887年に光孝天皇の死期が迫った時に天皇が源定省への皇位継承の意思を表明し、基経が天皇の意思を尊重するという形で他の公卿や皇族の賛同を取り付け、すぐさま源定省は親王に復され皇太子に立てられ、その日のうちに光孝天皇が亡くなったので、すぐさま即位して宇多天皇となりました。20歳の青年天皇の誕生でした。

この宇多天皇も父親の光孝同様、義母の兄で51歳の太政大臣である藤原基経との関係を大事にし、その手腕を高く評価していたので、変わらず政務の代行をお願いするつもりでありました。そこで宇多天皇は即位直後に「基経は万機巨細にわたって百官を指揮し、案件はみんな基経に関り白し(あずかりもうし)て後に奏上したり下命するように、従来の通りにせよ」という詔を下したのでした。この詔は884年の光孝天皇即位後の詔とほぼ同じ内容が述べられており、つまりこの887年の詔にある「従来の通りにせよ」というのは「884年の詔の通りにせよ」という意味であります。
この887年の詔にある「関り白す」というのは、意味としては「関与し申し上げる」という感じで、ここの文意としては、あらゆる案件の奏上や下命について天皇より先に目を通して関与して意見を述べるという職務を基経が負うということで、いわゆる後世における「内覧」の職務と重なるのですが、この「関り白す」が「関白」の文書上の初見となります。つまり「関白」とは、天皇の代わりにあらゆる案件に関与して意見を述べる役職で、それは律令の規定によってではなく天皇の詔によって任じられる役職で、それを藤原基経は884年の光孝天皇即位時に実質的に任命されていたということになり、これが「関白」の最初ということになります。
この「関白」のここで定義されている職掌は極めてオールマイティーなもので、これは藤原良房がかつて応天門の変の後に太政大臣の職のままでオールマイティーな権限を振るったことを受けて、養子の藤原基経もそのままなし崩しで同じく太政大臣をオールマイティーな職掌の地位としていたところ、光孝天皇即位時にそのあたりの整理がなされて、太政大臣は名誉職で具体的職掌が無いということが確認された代わりに、実質的に基経が行使していたオールマイティーな政務代行権限の受け皿として「関白」という役職が作られたからなのです。
この「関白」という役職は律令に規定されている官職ではないので、その根拠は天皇の詔になります。天皇が崩御すればその天皇の下した詔の効力は失われますので、天皇の代替わりには改めて新天皇によって「関白」に任じる詔が下されねばなりません。つまり、そうした原則に則って宇多天皇は887年の即位直後に基経に対して「引き続き関白を続けるように」と詔したわけなのです。宇多天皇はもう20歳でしたから、幼帝の政務代行としての「摂政」に任ずるというわけにはいきませんので、やはりここは「関白」ということになります。

こうした任官命令というものはこの当時は三度辞退して後に引き受けるのが礼にかなっていると考えられたので、基経はこの関白就任要請をまずは「恐れ多いことです」と辞退しました。もちろん、この後、同様の就任要請が更に二度あって、それを二度断った後、その次の就任要請で「そこまで仰るのならば」と引き受ける予定調和は見越してのことでありました。
ところが、この一度辞退した後に来た再度の就任要請において「関白」への就任要請のはずが「阿衡」という役職への就任要請に変わっていたのでした。「阿衡」というのはシナ古代の殷の時代の名宰相であった伊尹という人が任じられたと伝えられる官職で、具体的な職掌の無い名誉職のようなものであったようですが、ハッキリ言ってこんなマイナーなエピソードを知っている人は殆どおらず、シナの古典に通じた学者しか知らないような役職名でした。
この要請文は宇多の側近であった橘広相が起草したもので、橘広相は文人貴族として名高い存在であったのでこのような迂遠な役職名についても知っていたのでしょう。シナ学に通じた橘広相や宇多天皇にしてみれば、「関白」などという新しく作った役職名などよりも「阿衡」のほうが由緒正しくブランドイメージの高い役職名という印象があり、「阿衡」に任じたほうが基経も喜ぶのではないかと気軽に考えたのでしょう。
しかし「関白」は亡き光孝天皇と基経とで苦心して考えた実質的意味を持った役職名であり、それに比べて「阿衡」のほうは確かに由緒正しく見栄えのする役職名ではありましたが名誉職に過ぎず、ここで「阿衡」などという名誉職を持ち出してくるあたり、橘広相や宇多天皇が基経の実質的な政治的地位にお墨付きを与えて政局の安定化を図ろうとした先代の光孝天皇や基経の苦心の本質を今ひとつ理解出来ていなかったことの証といえます。そのあたりは基経の癇に障るところでありました。
また悪意をもって解釈すれば、これは基経を名誉職に祭り上げてしまってその政治的地位を実質的に剥奪してしまおうという陰謀とも受け取れました。もちろんその後の経緯などを見る限り宇多天皇に基経の政治的地位を剥奪して名誉職に祭り上げてしまおうなどという悪意があったわけではないのは明白なので、基経に「関白」としての権限を与えることは既に決定事項なのですが、それならば素直に「関白」に任じていればいいのです。変に気を回して「阿衡」などという名誉をちらつかせることによって、逆に基経から見れば「俺はそんなに個人の名誉や栄達を求めているように見られているのか」と不愉快な感情を持つことにもなりました。

聡明な宇多天皇ではありましたが、まだこの時点では20歳と若く、基経から見ればそのように至らない部分は多々あり、この事件によって基経はヘソを曲げることになりました。「私を具体的職掌の無い名誉職に祭り上げるつもりならばどうぞご勝手に。私はもう何もしませんよ」と、全ての政務を放棄してしまったのです。宇多天皇にそういう考えがあったのならばこの時点でこれ幸いと親政を開始したはずですが、そんなつもりではありませんから天皇は慌てて、橘広相に「いや、阿衡に任じたというのはそういうつもりではなく、阿衡には具体的職掌が無いなどということはない」と弁解させたのでした。
しかし阿衡に具体的職掌が無いことは明白な事実で、この弁解は無理がありました。基経はますます怒りを露わにして自分の持ち馬を京都市中に放って大騒ぎまで起こしました。ここまでくると基経も大人げ無いと言わざるを得ませんが、実際は基経は結構冷静で、こうして事態を紛糾させて騒ぎを大きくすることで、そもそも今回の騒動の元凶となった文書上のミスを行った橘広相の立場を悪くすることが目的であったのです。広相が「阿衡」などという文言を持ち出さなければこんな騒ぎにはならなかったのだから、広相が責任を取ることでこの問題を落着させるという流れにするために、基経は広相のミスに付け込んでわざと事態を紛糾させたのです。つまり橘広相追い落としの陰謀ということです。
なぜ基経が橘広相を追い落とそうとしていたのかというと、広相の娘が宇多天皇の即位前からの妻で既に2人の皇子を産んでおり、その他に宇多天皇には基経の従兄弟の藤原高藤の娘の胤子が妻となっており長子の維城親王を産んでいたので藤原北家との縁戚関係はありましたが基経自身はまだ娘を入内出来ておらず、しかも宇多天皇自身は藤原氏の血を引いていませんでしたから、場合によっては橘広相の娘の産んだ皇子が即位して、広相が外戚の地位に就く可能性も十分にあったのです。
基経は外戚の地位は藤原氏でなければいけないという確固たる信念を持っていましたから、藤原氏以外に外戚になり得そうな勢力が徹底的に排除する方針でした。橘広相はその逆鱗に触れてしまっていたのです。そういう危うい立場でありながらこのようなミスを犯してしまったのが広相の致命傷でありました。

結局、宇多天皇は例の「阿衡」云々の詔を撤回して広相を罷免しましたが、更に基経は広相を流刑に処すように強く求め、自分の舅を流刑にするのは忍びない天皇は窮することになりました。これはいくら何でも基経も調子に乗りすぎといえるでしょう。事ここに至って讃岐国から菅原道真が上京してきて仲裁に乗り出すことになりました。もともと橘広相も道真の父の是善の門人であり、言わば菅原家の弟子といえます。弟子の不始末を師匠筋にあたる道真が収拾するという形を取ることになったのです。道真としても広相のミスは明白であることは認めつつも、これ以上学問上の論争が政争の具にされるのは見ていて忍びないものがあったことでしょう。
道真は「阿衡」に具体的な職掌は無く名誉職に過ぎないことは認め、基経の政治的地位は光孝天皇の定めた「関白」とすべきこととして、広相のミスを認めつつも、基経に対してはこれ以上の広相への追及は藤原氏の為にもならないと諫言し、また宇多天皇のもとに基経の娘の温子を入内させるという懐柔策もあって、基経は怒りを解いてこの騒動は収まることになりました。この騒動を「阿衡の紛議」といいます。
この騒動によって天皇の政務を代行してあらゆる事案について天皇の前に諮問を受ける「関白」という役職が名誉職的なものではなく実質的な役職として確立することになりました。この「関白」という役職は律令の規定によってではなく天皇の詔によって根拠を与えられる役職で、律令を超えた存在だといえます。そういうわけで、これもまたポスト律令時代の到来を告げる政治的動きの1つであったといえるでしょう。
これによって藤原氏は律令に規定された太政官の役職位階に無関係に天皇を代行して政務全般を取り仕切ることが可能になっていくのですが、それはもう少し後のことになります。この「阿衡の紛議」の時点で確認されたのは、あくまで藤原基経という1人の実力ある政治家に与えるべき政治的地位としての「関白」の定義であって、この時点では「関白」の地位を常設して藤原北家の当主が代々継いでいくなどという原則が確立されたわけではありません。それが確立されるのは基経の子の忠平の時代のことであります。

むしろ、この「阿衡の紛議」において基経が少しやり過ぎたために宇多天皇が屈辱を感じてしまい、またその即位の経緯もあって他の皇族の反発も少なからずあったため、宇多天皇は藤原氏や皇族に頼らずに次第に天皇に権力を集中させて親政を行おうとする傾向を強めるようになりました。まぁ宇多天皇自身がそれを可能にするだけの聡明さを有していたということもありますが。
そして891年に55歳で関白太政大臣の藤原基経が亡くなると、24歳となった宇多天皇は関白を置かずに本格的に天皇親政を開始しました。基経には時平、仲平、忠平など複数の男子がいましたが、そのうち長男の藤原時平が後継者となりましたが、その時平でもまだ20歳と若く、政治的実力でも宇多天皇のほうが勝っていたのです。そもそも宇多はあくまで自分を天皇に推挙してくれた基経に感謝し、またその実力に敬意を表して関白としていたのであり、その子で自分より年下の時平を関白にするなど考慮外のことであったでしょうし、時平もこの時点であえてそれを強く望むこともなかったでしょう。だから親政への移行はスムーズであったと思われます。
親政を開始した宇多天皇は891年に讃岐国から46歳となっていた菅原道真を呼び戻し蔵人頭に抜擢して片腕として使うようになりました。「阿衡の紛議」の際に見せた道真の学識と経験、そして藤原氏に対して言うべきことを言える筋の通った態度が印象に残り、藤原氏に対する牽制勢力となることを期待したのでした。また宇多天皇のもとに入内した基経の娘の温子は皇子を生まなかったので宇多天皇は893年には藤原高藤の娘の胤子の産んだ敦仁親王(維城親王が改名)を皇太子とし、これにより時平は外戚となる道も断たれ、宇多天皇はその時平を皇太子の側近とし、また同じ年に菅原道真も参議に抜擢して皇太子の側近とし、時平と道真が次代の天皇を支える体制を構築していきました。

このような宇多天皇による天皇が直接政務に関与する天皇親政の方向性というのは、藤原良房や基経の親子が進めてきた政治路線には逆行するものでした。もともと律令国家体制が行き詰まり、それに対応していくために良房や基経の政治路線が生じてきたのであり、その甲斐もあって律令国家が持ち直して安定期に入ったのですが、その安定を基盤として再び本来の律令国家のあるべき姿に立ち返ろうという、一種の反動的政治がこの宇多天皇の開始した天皇親政路線、すなわち「寛平の治」だといえるでしょう。
このシナ風の律令国家の本来の路線へと回帰していこうとする反動的路線は、宇多天皇やそれに続く醍醐天皇が聡明で巧みな政治刷新を行ったために宮廷レベルではある程度は上手くいき、後世からも高い評価を受けることとなりましたが、地方行政も含めた総体的なものとしては律令国家の本来の姿への回帰というのは完全に時代に逆行した政策となり、逆にこの時代は律令国家体制の崩壊が加速する時代となりました。この反動的路線の挫折の中から新たな時代の文明が立ち現れてくることになるのです。
どうしてそのようなことになったのかというと、ちょうど陽成天皇が即位して藤原基経が摂政となった頃からシナ大陸のほうでは唐帝国に大変動が起こり始め、陽成、光孝の治世、そして阿衡の紛議などを経ている間も唐帝国は大混乱の渦中にあり、そして宇多天皇が本来の律令国家への回帰を志向して親政を開始した頃には、皮肉なことに律令の本場のシナ大陸では元祖律令国家の唐帝国は実質的に崩壊してしまっており、お手本とすべき律令国家というものは消滅し、過去の遺物と化してしまっていたからでした。ここから日本も律令国家ではない別の統治システムを持った国家への脱皮を模索していくことになり、シナ大陸とは全く違った文明スタイルが構築されていくことになるのです。
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オリーブ油とは、地中海沿岸地方に原産するモクセイ科常緑小喬木でありその果実をつぶして作られています http://aoiyumenoonna.victoriaclippermagazine.com/

【2008/11/27 09:00】 URL | #- [ 編集]



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