KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その346 古代世界史概説
唐帝国の滅亡は世界史レベルで見て、古代世界から中世世界への移行という大きな転換の一部をなす重大事件であり、それが日本における独自文明の勃興とも関係してくるのであり、そこでここではまず唐帝国の滅亡について触れる前に、それに至る古代世界全体の大まかな流れを、出来るだけシナ世界や中央アジア世界に比重を置いて概観していきたいと思います。
まずシナ帝国というものをおさらいしてみると、それは黄河と揚子江の流域周辺に新旧モンゴロイドや一部コーカソイドの諸族が集まって作り上げたシナ世界の商業ネットワークを統一して直轄支配するために紀元前3世紀に秦の始皇帝が作り上げたシステムで、皇帝専制体制と中央集権官僚制をその特色としていました。その皇帝支配を正当化するためには商業ネットワークの支持を得る必要があり、商人頭としての皇帝は商業ネットワークを拡大していくことで商業ネットワークの支持を得てその支配を正当化しました。つまりシナ世界から更に外に、東西南北に伸びる交易路を押さえることによってシナ世界の商業ネットワークを拡大していくことによって皇帝はその支配を正当化してシナ帝国は安定していったのです。
特にシナ帝国にとって重要視されたのがシナ世界から見て西方の中央アジア方面の交易路でした。その交易路の更に西には文明発祥の地であり文明の先進地帯であった中近東世界があったのです。文明というものは遊牧民と農耕民の接触によって生じたもので、当初は主に農耕民によって担われ、遊牧民によって伝播されました。つまり文明発祥の地である中近東からシナ世界へ文明が伝播してきたということは、中近東とシナ世界の間には遊牧民による交通路が確保されていたということで、この交通路を押さえれば中近東の文明地帯との交易を活性化させてほぼ確実にシナ世界の商業ネットワークを潤わすことが出来るのです。それは他の東や北や南の交易路の開拓に比べて確実性が極めて高い事業であったので、シナ皇帝は常に西方の交易路の確保に興味を持つようになったのでした。

中近東世界の農耕民による文明地帯というのはチグリス河とユーフラテス河の流域のメソポタミア地方とナイル河流域のエジプト地方を中心にして、メソポタミアとエジプトの中間にあるシリア地方、シリアの北にあるアナトリア半島、メソポタミアの東にあるイラン高原一帯を含んだエリアを指すのであり、東方のインド地方は中近東世界とは異質の熱帯性農業エリアで、南方はアラビア半島の砂漠地帯、西方は地中海とサハラ砂漠、北方はアーリア系遊牧民の活動する草原地帯というように外界から区別された農耕民文明の領域を形成していました。
この中近東世界で文明を営んでいたのはコーカソイドの農耕民であったのですが、彼らによって紀元前3000年ぐらいから王朝が作られるようになり、これに押し出された北方のコーカソイドのアーリア系遊牧民がイラン高原やインド方面へ進入して農耕化するようになり、最終的にはこの末裔でイラン高原東部に興ったペルシア人によって中近東世界一帯は紀元前6世紀末には統一され、ペルシア帝国が成立しました。
このペルシア帝国の北東端にあったのがパミール高原で、この「世界の屋根」と異名をとる標高5000m.を超える高原を東に越えてコーカソイドの農耕帝国が広がっていくことはなく、古代の中近東の世界帝国は常にこのパミール高原の西にとどまることになったのでした。つまり、おおまかに言えばユーラシア大陸の中央に位置するパミール高原の西がコーカソイドの居住地域、東がモンゴロイドの居住地域ということになります。
パミール高原の北側の通路を通って東側に抜けることが出来ますが、そのすぐ東には世界最大の盆地であるタリム盆地が広がり、この盆地の北には天山山脈、南には崑崙山脈がそれぞれ弓状に連なり、それらに囲まれた東西に広がった楕円形のタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠であり、遊牧民の居住エリアでした。このタリム盆地から更に東に進むと北にモンゴル高原、南にチベット高原に挟まれた狭い河西回廊を通って黄河上流域のオルドス地方に出て、シナ世界に連結することが出来ます。この頃のシナはまだ春秋時代で分裂状態であったので西方に目を向ける余裕はありませんでしたが、諸侯の中で最も西に位置した秦は西方の遊牧民との交易は行っていたと思われ、おそらくはその遊牧民は河西回廊からタリム盆地に至る地域で活動していた月氏というモンゴロイド遊牧民であったと思われます。また、この月氏の活動エリアの北方、パミール高原の北にはサカというアーリア系遊牧民のスキタイ人の一派の部族が活動していました。

その後、シナは戦国時代に入り、中近東では紀元前330年にアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼして中近東世界を統一して地中海東部沿岸も包括した世界帝国を築きますが、この大帝国もパミール高原より東には広がることはありませんでした。大王の死後、紀元前301年にこの大帝国はマケドニア、エジプト、トラキア、シリアに分割され、これらの諸王国でやがて紀元前3世紀中頃にはヘレニズム文化という地中海文化と中近東文化の融合文化が花開きます。つまりはそれだけこれらの諸王国領域内での人と物の移動、つまり通商が盛んであったということです。
この中近東のヘレニズム世界における通商の発達がシリア王国の東部にも及んだことによって、カスピ海の東にパルチア、パミール高原の西にバクトリアの両王国が紀元前250年にシリアから自立し、またバクトリアの東方のタリム盆地方面を根拠地として交易を行っていた遊牧民部族の月氏がバクトリアやパルチアとの交易量の増大によって強大化し、その東方のシナ世界の西端に位置する秦は月氏を介してヘレニズム世界との交易を行うようになり国力を充実させ、紀元前246年には政王、つまり後の始皇帝が即位して東方諸国に対する征服戦争が本格化されるようになりました。
そうしてシナは紀元前221年に秦によって統一され、政王は始皇帝と名乗りシナ帝国を創設し、シナ世界の商業ネットワークを西方のヘレニズム世界の通商網と結ぶ河西回廊とタリム盆地の中央アジア交易路を皇帝が独占することで出来上がったばかりの秦帝国を磐石のものとしようとしました。その際、北方のモンゴル高原を根拠地としていたモンゴル系の匈奴という遊牧民が中央アジア交易にも参加していたのですが、秦帝国はこの匈奴との間にトラブルを起こし、始皇帝は匈奴を討ちました。おそらく始皇帝は月氏も討って交易利権の独占を図ろうと考えていたのでしょうけれど、始皇帝の死後に秦帝国は農民や諸王国の遺臣たちによる反乱で短期間で紀元前206年に滅亡したため、その構想は未完に終わりました。一方、秦に敗れた匈奴は単于という君主の下にまとまって強大化するようになり一大遊牧帝国を作り上げ、南西方の中央アジア交易路に進出してタリム盆地の月氏を圧迫するようになりました。
秦を滅ぼした諸勢力は内紛を起こし、その漢楚の戦いの後に紀元前202年にシナ世界の盟主となった漢帝国の劉邦は始皇帝と同じく中央アジア交易路に進出しましたが強大化した新興の匈奴帝国に敗れたために中央アジア交易路を確保することが出来ず、そのため当初は漢帝国は弱体となり、シナ世界は漢帝国の皇帝以外に諸王国の王が半独立的に乱立する状況となりました。
一方、匈奴帝国は漢帝国に臣従の礼をとらせて中央アジア交易路の利権を押さえ、紀元前176年には月氏をタリム盆地から西方のイリ地方に追いました。またサカ族も匈奴に押されて紀元前160年に南へ移動を開始し、紀元前150年にはインドに入りインダス河流域で農耕化しました。そして紀元前140年には匈奴の一派である烏孫が月氏をイリ地方から追放し、月氏はパミール高原の西側へ移動してバクトリアを滅ぼして大月氏国を建国し、農耕化して定住するようになりました。

こうしてパミール高原の東側の交易路は匈奴の支配するところとなったのですが、この時期にサカや月氏などの遊牧民が農耕化しているというのは、別の見方をすればそれまで寒冷化していた地球気候が温暖化に転じて農耕文明に有利な環境が整いつつあったということを表しており、同時期にパルチアはイラン高原とメソポタミアを統一した大帝国を形成し、地中海世界ではローマがカルタゴやマケドニアなどを滅ぼして環地中海の大版図を築き始め、各地において農耕帝国が拡大しました。
シナ世界においても同時期、農耕帝国である漢帝国の国力が増大して、紀元前141年に即位した武帝による商業ネットワークの拡大が進み、半分裂状態であったシナ世界を統一して再びシナ帝国を確立することになりました。ここにおいて武帝な儒教を国教としてシナ帝国のシステムを完成させることになりました。そこで武帝は中央アジア交易路を押さえるために匈奴を滅ぼそうと計画し、紀元前133年から紀元前117年まで匈奴を断続的に攻撃して優勢に戦いを進め、結局は匈奴を滅ぼすことは出来ませんでしたが、匈奴の内紛などもあって匈奴の勢力は衰えて、紀元前1世紀中頃には中央アジア交易路は漢帝国の支配下に入りました。
ちょうどこの頃ローマではカエサルが出現し、彼は志半ばで暗殺されますが、その遺志を継いだアウグスツスによって紀元前27年にローマ帝政が開始され、ガリア、シリア、エジプトをも版図に加えたローマ帝国は地中海世界の覇者となり、メソポタミアとイラン高原を支配するパルチア王国と直接に境を接するようになりました。この後、紀元後1世紀を通してローマ帝国はゲルマニアやブリタニアに勢力を拡大させていき、順調に発展していくことになります。
シナ世界の覇者である漢帝国も紀元前後を挟んで最盛期を迎えますが、紀元後8年に王莽による簒奪で漢王朝が倒れ、しばらく混乱が続きますが37年に劉秀によって統一されて後漢帝国が成立します。内乱によって国力を減退させた後漢帝国は辺境の統治は現地部族に委任する体制をとったので、中央アジア方面においても48年に匈奴は親後漢派の南匈奴と反後漢派の北匈奴に分裂して、華北の西部から河西回廊に居住して農耕化していった南匈奴は後漢と協力して中央アジア交易路を管理し、それに抵抗して遊牧生活を送る北匈奴を攻撃し、敗れた北匈奴は91年にはモンゴル高原北方のキルギス方面へ移動していきました。その年、後漢は班超を西域都護に任命し、中央アジア交易路を使った西方との交易を大いに行うようになりました。
タリム盆地にある後漢帝国支配化の西域諸国の西においては紀元前20年ぐらいから大月氏国の諸侯の中の最有力であったクシャーナ候の統一事業が開始され、45年には大月氏国を滅ぼしてクシャーナ朝を興しました。このクシャーナ朝が強大化して1世紀末にはパミール高原を挟んで後漢帝国と境を接し、また西北インドに進出してパルチア王国とも境を接することとなり、後漢帝国からクシャーナ朝、パルチア王国、ローマ帝国という4つの農耕民の大帝国が東西に連なって境を接することになったため、東西交易は盛んに行われるようになったのです。

このあたりまでが最も地球気候が温暖化していた頃で、この後も2世紀前半において、ローマ帝国では五賢帝時代という最盛期を迎え、また後漢帝国、パルチア王国、クシャーナ朝ともに最盛期を迎えますが、次第に気候は寒冷化し始め、その影響はまずは北方から現れることになります。1世紀末にモンゴル高原北方に追いやられた遊牧民の中からトルコ系の鮮卑が興り、寒冷化の開始の影響による食料や飼料の欠乏を補うために周辺部族をまとめて大きな勢力となっていくようになり、2世紀前半には後漢帝国の北部国境で頻繁に衝突を起こすようになりました。
またキルギスに逃れていた遊牧民の北匈奴も鮮卑に押されて南ロシアの草原地帯を西方に移動し始め、カスピ海北方でフン族となり、黒海北方に居住する狩猟牧畜民であったゲルマン諸族を圧迫するようになりました。これによってゲルマン諸族が西へ居住地を移すようになり、2世紀後半にはローマ帝国の東北国境においてゲルマン諸族との紛争が頻発するようになり、五賢帝の最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスは晩年はゲルマン諸族との国境紛争に忙殺されることになりますが、この頃には地球寒冷化の傾向は顕著となっており、180年の彼の死後の2世紀末以降はゲルマン人のローマ帝国内の居住が始まり、軍人出身者が皇帝位を奪い合いローマ帝国の内政は大いに乱れていき、内乱が頻発するようになります。
このローマの軍人皇帝たちが武勲を誇示するためにパルチア王国との戦争を盛んに引き起こしたため、パルチア王国も衰退し、この危機的状況に対処するためにイラン高原西部から世界最古の一神教といわれるゾロアスター教を国教とするササン朝ペルシアが興り、226年にはパルチアを滅ぼしてその故地に大帝国を築きました。この新興のササン朝ペルシアは一神教的価値観を基礎にして皇帝に権限を集中させて中央集権官僚制を整備したシナ帝国型の国家で、拡大政策をとり、ローマ軍をたびたび破ったのでローマは更に衰退し、その後ローマ帝国もササン朝を見習って4世紀には皇帝の専制君主化と中央集権化を進めていくことになります。また東方のクシャーナ朝もササン朝ペルシアに隷従させられるようになり衰退していきました。

しかしクシャーナ朝の衰退の原因の1つは中央アジア交易路を通じた後漢との交易の減少にもあるでしょう。2世紀中頃にモンゴル高原を統一した鮮卑は後漢の北方における大きな脅威にはなりましたが、その侵入は主に華北方面であったので直接の西域交易路の脅威であったわけではありません。むしろ2世紀後半になってから後漢の内政の腐敗が頂点に達し、その結果、184年に勃発した黄巾の乱をきっかけに始まったシナ全土の戦乱状態の中で後漢帝国は事実上滅亡し、シナ世界の人口が10分の1にまで激減してしまった結果、東西交易そのものが崩壊してしまったからでした。
諸豪族による群雄割拠の状況となったシナ世界は3世紀に入ってから魏・呉・蜀の三国の鼎立する状態となっていきましたが、三国ともに人口不足が著しく、国家を維持していくのもままならない状況であり、そのため三国とも周辺異民族を自国領域内に移住させて国力の伸張を図るようになりました。特に華北を支配した魏はそうした移民政策を顕著に行い、それゆえ三国中で最も優勢となっていったのですが、その結果、華北は鮮卑をはじめとする五胡と呼ばれる北方遊牧民諸族が農耕化した部族が多数居住する地域となりました。
このように、地球寒冷化の影響で農耕帝国に対しての遊牧民族の圧迫が強まり、農耕帝国の領域外に住む民族が帝国内に移住してきて農耕化し、住民の部族構成が変質するという現象がほぼ同時期にシナ世界と地中海世界において進行していたわけですが、そうした不安定な時勢の中で、シナ世界においては仏教、地中海世界においてはキリスト教という、後の世界宗教が流行していったのもこの時代における共通した傾向でありました。

古代世界において仏教の流行していった脈絡についてはここまで断片的に触れてきましたが、キリスト教の流行の脈絡についても大雑把に触れておきますと、まずキリスト教の最大の特徴ですが、これは仏教にも共通した特徴なのですが、その大きな特徴は強烈な現世否定思想があります。
中近東世界においてはもともと古くから善悪二元論の世界観が存在し、これがペルシアにおけるゾロアスター教やミトラス教、ユダヤにおけるユダヤ教のような一神教の教義、ギリシャにおけるプラトン哲学などにも大きな影響を与えていたのですが、紀元前3世紀のアレクサンドロス帝国におけるヘレニズム文化の中でグノーシス主義という名の神秘思想として大成され、ヘレニズム世界や、次いでローマ帝国の領域に拡散するようになりました。グノーシス主義の世界観は「反宇宙的二元論」といいまして、現世である物質世界は悪であり、霊的なものによって構成される世界こそが善なる世界であり真の世界であるとするもので、霊的なものの優位を説く神秘思想として受け入れられていったようです。
そうした中、紀元20年頃からユダヤ教の中の禁欲的な修道に重きを置く宗派を開いたイエスというユダヤ教の宗教家が30年にユダヤ教主流派によって刑死させられ、その弟子たちがユダヤ教主流派の迫害を受けてユダヤの地を追われてローマ帝国内の各地に離散させられ、イエスの教えを伝える教団の維持のためにユダヤ人以外の信者も獲得していかねばならなくなり、当時ローマ帝国内で流行していた様々な信仰や思想を取り入れていったのですが、その中でこのグノーシス主義の「反宇宙的二元論」も取り入れられ、悪にまみれた現世はいずれ滅びるが、救世主であるイエスの教えを信じる者の霊だけは真の世界である神の王国において復活し救済されるという教義が形成され、その証としてイエスは刑死した後に死を超越して復活して神の王国へ行ったとされ、イエスはそうした奇跡を示すためにこの世に現れた絶対神の子であったという信仰が生まれました。
もちろん激しい迫害の中でイエスの教えを命懸けで広めようとした弟子たちの宗教的熱情を支えたものが単なる観念論だけであるはずもなく、おそらく彼らは生前のイエスが示したとされる様々な奇跡や、死後にイエスが復活したという奇跡も、そしてそれを何故かイエスがあらかじめ知って予言していたことも、実際に目撃していたのでしょう。それらの奇跡がどういう原理や脈絡で生じたものであるかは実際のところは不明です。復活といってもよくある霊的現象なのかもしれません。しかしとにかく彼らはそれを見たのでしょう。だからこそ彼らは故郷を追われ異邦人への布教を行ってまでもイエスの教えを広めなければいけないという確信を得たのでしょう。そして彼らなりに当時のローマ帝国内に流布していた神秘思想の知識などから類推して、その死と復活、そしてイエスそのものの存在をグノーシス主義の「反宇宙的二元論」で解釈したというのが真相に近いのではないでしょうか。
こうした教義は当初はあくまでユダヤ教の一派として自覚されていたのですが、1世紀後半にユダヤ教主流派によって正式に非公認とされ、ユダヤ人以外の信者のほうが大部分になっていくにつれて独自宗教としてのキリスト教となっていったと思われます。
ローマ帝国は多神教国家であったので、イエスの父である絶対神以外を認めないキリスト教は奇異な目で見られ、また東方属州の君主信仰の影響で生じていたローマ皇帝に対する信仰もキリスト教徒は頑なに拒否したために当局の受けも悪く、何度か弾圧を受けましたが、その弾圧はそれほど徹底的なものではなく、グノーシス主義的な神秘思想の1つとして受容されたようで、2世紀末までにはローマ帝国内の各地に教団組織はそれなりに広まっていたと思われます。
この現世否定色の濃いキリスト教という宗教が2世紀末以降の戦乱の時代においてローマ帝国において急速に教勢を拡大していくのは、まさに同時代のシナにおいて184年の黄巾の乱以降の三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代において仏教という現世否定色の濃い宗教が流行していったのと軌を一にした現象といえるでしょう。現世がどうしようもなく絶望的になった時、現世にあくまで希望を持ち続けるよりも、現世を「悪」だと斬り捨てて、来世における救済や現世の根本的変革を唱える教えのほうが、現代においては想像もつかないくらいに当時においては甘美な魅力があったのでしょう。

さて三国鼎立のシナ世界を再び280年に統一したのは魏から出た晋でしたが、すぐに300年の八王の乱で分裂し、304年以降は華北に居住していた五胡の諸部族が相次いで独立王国を作り鮮卑などの五胡が華北に侵入して晋王朝は滅び、317年に帝室の生き残りは江南に移り東晋を建国し、シナ世界は東晋王朝の江南と、五胡の諸国の華北というように、南北に分裂することになり、秦、漢、後漢と続き、三国時代まで辛うじて維持されてきた、春秋戦国時代からシナ世界に居住する原シナ人によって構成される第一次シナ帝国という枠組みはここにおいて崩壊することになったのでした。この後は五胡諸国と東晋王朝とがそれぞれ複雑に相戦う戦乱の時代となり、そうした戦乱状態を経て439年の北魏による華北統一以降は南北朝時代に移行していくことになります。また華北に移住して農耕化した鮮卑の代わりにモンゴル高原では柔然というモンゴル系遊牧民が大勢力を形成するようになりました。
秦の始皇帝が作り上げた第一次シナ帝国というシステムは、戦国時代の諸王国の王侯たちを皇帝専制権力で押さえ込んで中央集権官僚制による支配を貫徹することを理想としたものでしたが、それが完全に実現出来たのはごく一時期のことに過ぎず、諸侯に相当する豪族勢力は常に潜在的に存在し、中央集権を貫徹しようとする官僚勢力と常に競合関係にありました。中央集権が極度に行き過ぎた時には必ず豪族勢力による揺り戻しがあり、例えば始皇帝の強権政治の後の秦の滅亡、王莽の儒教原理主義政治の後の内乱などがありました。そして後漢末の宦官勢力の専横の後の黄巾の乱に乗じた諸豪族の蜂起という最大級の揺り戻しによって三国志の戦乱の時代となり、第一次シナ帝国は自壊していったのでした。
そうして第一次シナ帝国が自壊して戦乱の結果生じた華北のほぼ無人の荒野に北方から五胡といわれる遊牧民部族が移住してきて農耕化して幾つも王国を作るようになり、それらが鮮卑系の北魏によって統一されて北朝の王朝を作るのですが、これは第一次シナ帝国とは全く無関係の鮮卑の部族の支配者階級の統治システムから発展したものですから、武人集団としての貴族の勢力が強く、貴族集団の上に皇帝を戴くという支配階級の在り方となっていました。この北朝の貴族制が戦乱の果てに南朝を併合してシナ帝国の儒教的なシステムを取り入れて第二次シナ帝国のシステムに発展していくことになるのです。

一方、ローマ帝国は4世紀に入っても相変わらず内乱と東部国境でのゲルマン人との抗争を続けていました。ローマ帝国という国家はもともと帝政移行前はローマ市民による共和政であり、それが版図の拡大によって多様な人々がローマ市民となったため、多様な人々の意見をまとめて政策化するために強力なリーダーシップが求められるようになり「ローマ皇帝」という存在が生まれたのですが、これは同じ皇帝でもシナ皇帝とは全く性格の違うもので、ローマ市民の支持を得て独裁権力の行使を許された代表者のようなもので、あくまで多様な市民たちによって統治権を承認される存在でした。
一方、シナ皇帝は「天」によって統治権を承認される存在で、「天」は唯一のもので多様性は認められませんでした。つまり一神教世界における皇帝の類型がシナ皇帝であり、ローマのような多神教世界における統治者は多様な神々を信じる市民たちのコンセンサスによって選ばれるローマ皇帝のような存在になるのでした。
しかしこの差異は、ローマ皇帝が平和の中から生まれてきたのと、シナ皇帝が戦乱の中から生まれてきたという歴史的経緯の違いによるものでもありました。シナにおいてももともとは多神教世界であったのですが、打ち続く戦乱の中で個別の神を奉ずる共同体は破壊され、また多神教の神々というのはだいたいは分かりやすい現世利益を謳い文句にするものですが、戦乱によって理不尽な不幸に晒され続けた人々は多神教の神々に失望し、抽象的な救済原理を掲げる絶対的支配者や唯一神に惹きつけられるようになり、そうしてシナ皇帝というものは生まれてきたのです。
ローマ皇帝はそのような戦乱の歴史を経験していなかったために多様な価値観の上に乗っかった寛容な君主であったわけですが、2世紀末以降、百年以上も続いた内乱と異民族の流入によって、さすがにローマ帝国の社会もシナのように変質してくるようになったのでした。この2世紀末以降の戦乱と不安定の時代に現世を否定し来世における救済を説くキリスト教は急速に信徒を増やし、何度か弾圧を受けましたが結局313年には公認されることとなり、それに伴ってローマ皇帝は唯一神であるキリスト教の神によって統治権を承認された絶対的な専制君主であるというように定義変更がなされるようになりました。言い換えればローマ皇帝が自身の権力の絶対化のためにキリスト教を政治利用したのです。そしてローマ帝国では専制君主化したローマ皇帝を支える中央集権官僚機構が整備されるようになり、シナ帝国に類似した形にすっかり統治機構も変質し、330年には首都もローマからコンスタンチノープルに移しました。ここにおいてローマ帝国はそれまでのローマ帝国とは異質な国家に変化したと言っていいでしょう。
この頃には黒海北方まで進出してきていたフン族は更なる寒冷化の進展に伴ってとうとうヴォルガ河の西に進出し、それに押されてゲルマン民族の諸部族が375年以降ローマ帝国の領内に相次いで大挙して侵入し、そうした混乱の中で392年にローマ帝国はキリスト教を国教とし、395年にローマ帝国は東西に分裂しました。その後、首都コンスタンチノープルを擁する帝国の東側はゲルマン民族をなんとか撃退してドナウ河以南のギリシア半島、小アジア、シリア、エジプトを版図として帝国を存続させ、これが東ローマ帝国となり、中央集権官僚制と皇帝専制体制、国家に従属した古代キリスト教をその特色とする停滞した国家となっていきます。一方、帝国の西側はゲルマン民族諸部族に加えてフン族の侵入も受け、476年にローマを首都とする西ローマ帝国が滅ぶ頃にはすっかりゲルマン諸部族の国家が乱立する状況となってしまいました。

フン族はヨーロッパ侵入と同時期の5世紀中頃には南方のササン朝ペルシアにも侵入しましたが、ササン朝はこれを撃退しました。また同時期にパミール高原の西に勃興したアーリア系遊牧民のエフタルがクシャーナ朝を滅ぼしてバクトリア地方を中心に一大遊牧帝国を形成して6世紀初めまで盛んにササン朝ペルシアを攻撃しましたが、ササン朝はこれも耐え抜きました。その後、ササン朝ペルシアは東ローマ帝国と戦争したり交易したりしてやっていくことになります。一方、エフタルは5世紀末にはパミール高原を東に越えて勢力を拡大し、タリム盆地を支配下に置いていた柔然と境を接して、柔然とタリム盆地を東西に二分して支配するまでになりました。
このタリム盆地の中央アジア交易路に5世紀中頃から進出するようになったのが五胡の諸部族の乱立する諸国家を統一した華北の北魏以降の歴代の鮮卑系の北朝王朝でした。諸国乱立状態から華北だけとはいえ統一国家を形成したので、その商業ネットワークを潤わせるために中央アジア交易を求めたのです。しかしタリム盆地は柔然が押さえており、北魏は柔然を軍事力で凌駕する必要がありました。しかしこの頃は地球寒冷化の極致に達しつつあった時代で、農耕帝国であった北魏が通常の方法で遊牧民の柔然に勝ることは困難であり、そのため北魏は持てる国力の全てを効率良く軍事力に転用していく国家総動員軍国体制をとるようになっていきました。これが律令制の始まりです。
これによって軍事力を強化した北魏は柔然を破り、5世紀後半には柔然は北魏に従属するようになり、北魏は中央アジア交易の利を得るようになり強大化していきますが、柔然は弱体化し、それによりエフタルがタリム盆地に勢力を伸ばすことになり、また6世紀に入ると柔然に支配されていたアルタイ山脈のトルコ系遊牧民の高車や突厥が反乱を起こし自立するようにもなっていきました。この頃、北魏よりも東方に位置する満州平原、朝鮮半島や日本列島では高句麗、新羅、百済、そして大和王朝などの王権が独自の領域国家を形成していっていました。

6世紀の北魏以降の北朝王朝においては有力貴族による王権の簒奪や分裂が相次ぎましたが、その戦乱の中で律令制は完成されていき、581年に隋によって北朝は統一され、589年には隋は南朝も滅ぼしてシナ世界を統一し、農耕化した鮮卑系貴族階級によって支えられたシナ皇帝が律令制による中央集権的な統治を行う第二次シナ帝国を打ち立てました。
一方、アルタイ山脈で自立したトルコ系遊牧民の突厥は555年に柔然を滅ぼしてモンゴル高原を支配下に置き、567年にはササン朝ペルシアと結んでエフタルを挟撃して滅ぼし、タリム盆地を支配下に加え、広大な領域を支配する大遊牧帝国を形成し、シナ北朝の各王朝は突厥帝国に臣下の礼を取るまでになっていましたが、急激に成長しすぎたため583年には突厥帝国はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥に分裂しました。しかしシナを統一した隋帝国も東突厥を刺激しない政策を取り、また西突厥は588年以降はササン朝ペルシアに攻め込み、バクトリア地方やアラル海南方のコラズム地方も支配するようになりました。
こうして7世紀初めには隋帝国から西突厥を経てササン朝ペルシアに至り、東ローマ帝国にまで繋がる東西交易路が再び本格的に機能するようになりました。一方、555年に突厥に滅ぼされた柔然の一派が西へ逃れて558年にはアヴァール人という名でカスピ海北方に出現し、更に西進して567年にはドナウ川北岸にアヴァール帝国を建国し、7世紀前半にかけてドナウ河以北の東ヨーロッパ一帯に大勢力を築いて東ローマ帝国や西ヨーロッパのローマ帝国故地に乱立していたゲルマン諸族の王国を圧迫するようになりました。
特にこの頃の西ヨーロッパはまさに暗黒時代で、農耕はいまだ普及せず牧畜生活の段階にとどまり、都市というものも存在せず、農村というものすらそもそもほとんど存在しておらず、ゲルマン人の王侯などといっても組織的な徴税すら出来ず、各地を巡って行き当たりばったりの現地徴発を行ってなんとか統治を維持していたという、一歩間違えれば盗賊と大差ないような状況でした。そのような低迷した状況であった西ヨーロッパですからアヴァール帝国の圧迫も強く受けることになったのです。
7世紀初頭の段階で文明の中心といえばユーラシア大陸の西でいえばササン朝ペルシアと東ローマ帝国であり、ユーラシア大陸の東でいえば隋帝国であり、この両文明地帯を結びつけるユーラシア中央部の遊牧帝国が突厥帝国であったのです。その起源や性格を全く異にしつつも弱体である故に中心的文明の影響を免れ得ないという点で西ヨーロッパは東ローマ帝国の周縁文明に過ぎませんでしたし、同様に日本や高句麗、新羅、百済なども隋帝国の周縁文明でありました。

東ローマ帝国は西ヨーロッパは実効支配出来ていませんでしたが、それでも建前上は「ローマ帝国」であったので、西ヨーロッパのゲルマン諸侯の支配する地も建前上は東ローマ皇帝の支配地でした。そして4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となって以降、キリスト教会は国家権力と密接に結びつき、ローマ皇帝の戴冠はキリスト教会の主教によって為されていました。東ローマ帝国においてはそうした「ローマ帝国の国教」としての伝統が受け継がれてキリスト教会は国家権力と一体化し、硬直した官僚制に従属する存在でありました。つまり古代ローマ帝国の国教となることをもってその頂点に達した古代キリスト教の特色を色濃く受け継いだ宗教であり、これがいわゆる「正教会」というものです。
一方、西ヨーロッパのローマ帝国の故地においては肝心の「ローマ帝国」という国家の実体というものが無く、それでいて、あくまでそこが「ローマ帝国」であるという建前があるために、「ローマ教会」という本来はコンスタンチノープルを本部とする「正教会」の西ヨーロッパ担当支部に過ぎない出先機関が存在しました。しかし実際に西ヨーロッパを支配していたゲルマン諸侯は当初は必ずしもキリスト教を信仰しなかったので、結びつくべき国家権力を持たないローマ教会は孤立していき、布教重視路線を取るようになり、国家権力に対して相対的なスタンスをとるようになり、次第に暗黒時代の西ヨーロッパで布教していく中で終末論や救済思想を唱えて異教や分派を弾圧するカルト的な独立権力と化していき、自然に「正教会」とは性格を異にする「ローマ・カトリック」となっていきました。それでも戦乱の西ヨーロッパ世界では現世否定・来世救済のキリスト教は次第に信者を獲得していきました。
「正教会」が実在する「ローマ帝国」である東ローマ帝国という世俗権力に従属する存在であり続けたのに対して、「ローマ・カトリック」は架空の「ローマ帝国」に従属する立場となったために、後にはそれが「神の王国」への直接従属という形に転化して、自らを西ヨーロッパの世俗権力よりも上位に置くようになっていき、世俗権力も自らの王権の正統性を示すためにキリスト教を政治利用するようになっていき、領民にキリスト教への改宗を強制したりするようにもなり、教会は人民の上に君臨する権力的存在になっていきました。後にローマ教会は独自に「ローマ皇帝」の戴冠を行う権利を行使して政治的行動をとるようになり、東ローマ帝国の「正教会」との間に亀裂を生じることになります。
それらは後のこととなるのであって、とりあえずこうした立ち遅れた西ヨーロッパに細々と文明の恵みを供給する窓口の役割を果たしていたのが東ローマ帝国であったのですが、この東ローマ帝国もローマ帝国末期の硬直した中央集権官僚制と皇帝専制体制、つまりシナ帝国の体制に類似したような体制の弊害をそのまま引きずっていた国家であったので、領土も縮小したその本質は元祖のローマ帝国とは違いササン朝ペルシアの周縁文明に過ぎなかったのであり、7世紀に入るとアヴァール帝国とササン朝ペルシアの攻撃を受けて弱体化が顕著になり、シリアやエジプトをササン朝ペルシアに奪われたりするようになり、その後は内紛を繰り返して衰退していきます。
つまりは7世紀初頭において真に世界の中心的文明であったのは、西においてはササン朝ペルシア、そして東においては隋帝国であったということになります。特にササン朝ペルシアはユーラシア西部の文明の十字路であり中心地で、東ローマ帝国におけるキリスト教による異教系学問の弾圧の結果、ギリシャの学者などが多くササン朝に移住し、古代ギリシャや古代ローマの学問が伝えられて大いに学問が栄え、6世紀後半には最盛期を迎えていました。しかしこのササン朝ペルシアと隋帝国が7世紀前半において相次いで、それぞれ新興のイスラム帝国と唐帝国によって滅ぼされることになるのです。古代世界の大帝国の最後を飾ることになるのがこの2つの新興の大帝国となります。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

馬券の検索サイト。種類、買い方、万馬券、購入、競馬など馬券に関する各種情報をお届けしています。 http://ticket.portocallrestaurant.com/

【2008/11/26 10:47】 URL | 57 #- [ 編集]



この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。