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日本史についての雑文その347 唐とイスラム
7世紀初頭の世界の2大文明国といえば東のシナ世界の隋帝国と西の中近東世界のササン朝ペルシア帝国という2つの農耕大帝国であり、その2大国を結ぶ中央アジア交易路を支配していたのが突厥帝国という遊牧帝国でありました。高句麗や新羅、百済、日本などは隋の周縁文明で、東ローマ帝国や西ヨーロッパのゲルマン諸侯の諸国などもササン朝ペルシアの周縁文明に過ぎませんでした。
隋もササン朝ペルシアも共に中央集権官僚制に支えられた専制皇帝制と貴族制を併用した国家で、強大な軍事力を誇っていました。特に隋はシナ南北朝時代に北朝において整備された律令制という国家総動員体制で動員した兵力を漢化した鮮卑系貴族の中核軍に配した強力な軍隊でもって589年にシナ統一を成し遂げ、初代皇帝の文帝の時代には律令制が完成して第二次シナ帝国の基礎を築きました。しかしこの隋の強大な軍事力の源泉となっている鮮卑貴族の軍事力は反乱の原因ともなるものであり、実際、律令制を施行していた隋以前の北朝の王朝は全て皇帝の配下の貴族による簒奪によって滅びていました。そして隋もほどなく同じ運命を辿ることになります。

さて南北朝時代に軍事力で優勢な北朝がなかなか南朝を征服出来なかった理由は、淮水と長江の間の網の目のような小河川が邪魔をしてなかなか進軍出来なかったからでした。そこで文帝は587年に淮水の下流の沼沢地と長江の下流の揚州を結ぶ運河を開削して兵船で軍隊を移動させて南朝を征服してシナ統一を成し遂げたのでした。604年に文帝の後を継いで隋の皇帝となった煬帝は605年からこの事業を更に拡大して、まず黄河中流の開封と淮水の沼沢地を結ぶ運河が開削し、長江と黄河を淮水を介して連結し、黄河を溯って首都の長安まで直接豊かな江南の物資を運べるようにして、更に揚州から杭州まで開削して運河を東シナ海にまで通して更に南方の物資も運びこめるようにし、また高句麗遠征のために開封から北へ運河を延長して天津まで通しました。こうして610年には天津から開封、揚州を通って杭州まで達する大運河が開通したのです。
この大運河の建設は後に大きな意味を持ってくることになるのですが、あまりに大事業であったために国力の消耗は激しく、また高句麗遠征の失敗などもあって煬帝の権威は失墜し、616年に煬帝がこの大運河を通って揚州に巡幸に出かけた間に各地で反乱軍が蜂起し、それに乗じて617年には北方の太原にあった軍の司令官を務めていた李淵という鮮卑系貴族が東突厥帝国に臣従して反乱を起こして長安に入城し、618年には煬帝が部下によって揚州で殺されて隋は滅び、李淵は長安で皇帝を称し、ここに唐帝国が興ることになったのでした。

といっても、当初は唐の支配地は華北の一部に過ぎず、しばらくは様々な反乱軍の群雄割拠の状態でありましたが、2代皇帝の太宗の時代になって628年には唐によるシナ世界の統一は達成されました。また当初は唐は東突厥帝国の臣下という立場だったのですが、シナ統一の勢いを駆って630年に太宗はそれまで臣従していたモンゴル高原の東突厥を攻めて、東突厥の皇帝にあたる可汗(カガン)を捕らえて連れ去り、これで東突厥帝国は滅びました。
そこでそれまで東突厥に従っていたモンゴル高原の遊牧民部族の族長たちは太宗を新しい可汗に選び、「天可汗(テングリ・カガン)」という称号を授けて主君と仰ぐようになりました。そもそも太宗も鮮卑系部族の出身であったわけですから可汗になる資格があったということでしょう。これはモンゴル高原が唐帝国の版図に加わったということではなく、唐の皇帝である太宗が北方遊牧民の可汗も兼ねたというだけのことであったのです。2つの異なった王位を兼ねることによって農耕民の帝国と遊牧民の帝国を同時に支配するという新しい統治方法の例が初めて示されたことになります。また唐の異民族統治政策は、異民族支配地の長官にその異民族の長を任命して自治権を認めるもので、それまでの直轄統治でも冊封でもない、シナ帝国において今までに無いものでした。一国二制度の起源といえるかもしれません。しかしそうした統治方式が後のシナ世界におけるある種の定番となっていくのです。

太宗は北方遊牧民の可汗として中央アジア方面へ進出していき、その事業は引き続いて北方遊牧民の可汗を兼ねた3代皇帝の高宗にも引き継がれ、657年までに西突厥も屈服させて中央アジア交易路を押さえ、更に668年には高句麗を滅ぼし、またチベット高原の吐蕃とも同盟関係を維持し、この頃には唐帝国はシナ世界に加えてアラル海から満州平原に至る広大な遊牧地帯、チベット高原を勢力圏とする空前の巨大帝国を作り上げたのでした。この唐帝国の脅威を受けて、それに対抗して生き残っていくために、日本や新羅のような周縁国家は律令制を導入していくことになったのです。
また、唐が西突厥を圧迫したために西突厥は内紛を起こして衰えていくようになり、西突厥の支配下にあったトルコ系遊牧民の多くが自立するようになり、そのうちの幾つかが西進してカスピ海北岸のヴォルガ河下流域地方に居住するようになりました。それらはブルガル人、ハザール人、ペチェネーグ人、クマン人などでしたが、そのうちハザール人が7世紀後半には黒海北岸まで勢力を伸ばしハザール王国を建国し、その際ブルガル人の一部が押し出されて黒海北西岸のドナウ河下流域に移動して681年に原住民の南スラブ族を支配してブルガリア帝国を建国し、南に接する東ローマ帝国を圧迫するようになるという影響ももたらしました。
このあたりの時代が地球寒冷化の極まった頃にあたります。元々は寒冷化の時代においては農耕国家のほうが疲弊しやすく、遊牧国家も疲弊はするのですが軍事力に優れているので農耕国家を襲撃したりして不足分を補い、その分余計に農耕国家が疲弊するという構図になっていたのですが、隋や唐のような第二次シナ帝国の場合は律令制という戦時国家総動員体制を創造して採用したことによって疲弊分を少なくし、軍事力においても遊牧国家を凌駕し得るようになったので、逆に寒冷化の極まった時代において遊牧帝国を圧倒して世界帝国を築くことが出来たのでしょう。

一方、隋と並ぶもう1つの大帝国であったササン朝ペルシアの南にはアラビア半島の砂漠地帯が広がり、点在するオアシスの商業都市に定住するアラブ商人たちと、その周辺の砂漠でラクダや羊を放牧するベドウィンという遊牧民とが共生関係を築いていました。6世紀までのアラビア半島は多神教世界で、これらのアラブ商人やベドウィン達が部族ごとに分かれて紛争を繰り返していました。
こうした中、隋で大運河が完成した610年にアラビア半島南部のメッカという商業都市のムハンマドという40歳のアラブ商人が唯一神アッラーフと名乗る神の啓示を受け、その教えを説き始めました。この唯一神アッラーフという神は、この頃既に唯一神として有名であったユダヤ教やキリスト教の神と同一の存在であるとされ、ムハンマドはその唯一神に選ばれた最後にして最高の預言者であり、先行するモーゼやイエスのような預言者よりもより正確な神の教えを受けたと主張しました。ユダヤ教やキリスト教の神と同じ神なのですから、その主張するところも大体同じようなもので、いずれこの世は滅び去るが唯一神の教えを信じ守る者の魂は救済されるであろうという、典型的な終末論的な救済宗教でした。
ただユダヤ教やキリスト教との違いは、ムハンマドを預言者と認めるという点でした。要するに、ムハンマドの話を神の啓示だと受け止める者はこの宗教の信者となり、ムハンマドをただの法螺吹きだと見なす者は異教徒となるという、単純明快な区別ということになります。ムハンマドに下された神の啓示によればムハンマドは唯一神の最高の預言者ということになっていますから、ムハンマドを預言者と認めないということは神の言葉を信じないということを意味し、不信心者ということになります。よって、ムハンマドを預言者と認める者は神を信じる者ということになり、自動的にムハンマドに下された神の啓示にある様々な戒律に従うことになります。そこには神への帰依の方法が事細かに示されております。よって、この宗教を「神への帰依」を意味するアラビア語「イスラム」を冠して「イスラム教」というのです。

そしてこのイスラム教においては、個人レベルでの信仰の深化は当然のこととして、それ以上に信仰共同体としての「イスラム共同体」の建設が重要視されているのが大きな特徴といえます。例えばイスラム教徒の重要な信仰行為である礼拝は毎日5回決められた時間に全信者が一斉に行い、金曜日は1回は信者はモスクに集まって礼拝することが奨励されます。また決められた期間に全信者が一斉に行う断食もイスラム教における重要な信仰行為ですが、これは神を意識するためと、貧しい者への連帯感を持つために行われます。貧者を救済するための互助システムとしての喜捨も制度化されており、相互扶助や一体感を重んじる特色があるといえます。同じ行為を集団で一体的に行い、助け合いによって信者間の精神的紐帯を強めることによって、信者は「イスラム共同体」の一体感を高めることになるのです。巡礼はメッカが聖地と定められた後世になってから信仰行為に加えられたものですが、これも1年のうちの決められた日に信者が一斉にメッカに集まって同じ手順に従って行事をこなしていくという、最も「イスラム共同体」の一体感を感じることが出来る行事となっています。
しかし、こうした相互扶助と一体感を重んじる共同体というものは本来は古来からの部族共同体や氏族共同体によってその役割を担われてきたものでした。そうしたものと同じ役割をもった共同体の建設というものがイスラム教において特に強調されているということは、それが従来の共同体の代替物として提唱されていることを意味します。
実はイスラム教の本質は上記のような細々とした信仰行為の規制の多さにあるのではなく、むしろイスラム教の本質は「平等主義」と「個人の自由」にあります。もちろんそれは西洋近代的な意味合いとは違ったもので、「イスラムの戒律を守った上で」という前提付きではありますが、時代背景を鑑みて考えれば要するにイスラム教は旧来の部族共同体の因習から脱した個人のより自由で普遍的な活動を求めたのです。しかしそのためには人は旧来の共同体から脱さなければならないのですが、人は何らかの共同体に属さなければ生きていけないのです。そこでイスラム教が新たに上記のような新たな相互扶助と一体感を保障する「イスラム共同体」の概念を提唱したというのが実際のところでしょう。現代的視点で見ればイスラム教の諸規制は例えば女性の扱いなどにおいてもそうですが、古臭い因習のように見えるかもしれませんが、当時の感覚で見ればおそらく非常に簡素で合理的な最低限のもので、旧来の部族共同体の因習に比べればかなり斬新で新しいものに見えたのではないでしょうか。

つまり「イスラム共同体」の建設はその共同体内における個人の自由な活動を促進するためであったといえます。いや、そうではなく、ムハンマドに言わせれば「神がイスラム共同体の建設を望んだから」ということになるのでしょう。私も奇跡を全く否定するつもりはありませんから、実際に神が出現してムハンマドにそのように告げたのであろうと考えます。ムハンマドが「イスラム共同体」建設のために都合の良い戒律を提唱するためにその権威付けのためにキリスト教の教説を拝借して神の出現話をでっち上げたなどと言うつもりは毛頭ありません。おそらくムハンマドは本当に神と思しきものの声を聞いたのであろうし、「イスラム共同体」を良きものと考えて提唱したのでありましょう。そしてそれに純粋に共鳴して賛同した人も多くいたのでしょう。キリスト教や仏教の場合もそうでありましたが、そうした宗教的な熱情というものが無ければ世界宗教などというものが生まれるわけはないのです。
しかし同時に、このイスラム教という世界宗教は、仏教やキリスト教という他の2つの世界宗教と比べて、その誕生から世界宗教への発展の速度、広範囲への伝播の速度が、あまりにも速いのです。それは仏教やキリスト教の誕生時は古い時代で交通不便であったとかいう問題ではなく、同時代的に比べてみても、イスラム教の伝播拡散の速度は際立っているのです。この伝播の異様な速さは、単なる純粋なる宗教的熱情だけでは不可能であろうし、説明できないことでもあるでしょう。つまり、「イスラム共同体」の建設を、単に宗教的に素晴らしいものとだけ考えるのではなく、個人の自由な活動を促進するために有用なものであると判断して積極的に支持した人達が、その支持者の中には少なからず存在したのであり、宗教的熱情によって支持する人達と、そうした打算によって支持する人達の双方の力が合わさって、そうして初めてイスラム教の異常な速さでの伝播拡散が実現したと考えるほうが自然なのではないでしょうか。いや、よりリアルに表現すれば、個々の信者の中にそうした宗教的熱情と打算の部分が同居して渾然一体となって、相互補完的に作用したことによって、急速なイスラム共同体の発展が実現したのだといえるでしょう。

では何故、イスラム教信者にとって個人の自由な活動は促進されるべき「良きもの」と判断されたのでしょうか。それはイスラム教の初期の拡散期の信者たちを構成したのがアラビア半島のアラブ商人たちであったことを考えれば答えは見えてきます。つまり彼らはアラビア半島の商業都市における個人の商業活動をより円滑に進めるために、アラブ商人やベドウィン達を拘束する部族共同体の因習や紛争を超越した新たな大きな枠組みを求めていたのであり、個人の自由な活動を保証する「イスラム共同体」の構想は歓迎すべきものであったのです。
当初、アラブ商人やベドウィンの中で旧来の部族共同体を重視する人達はムハンマドを迫害しましたが、新たな大きな枠組みを作って商業活動の拡大を目指す革新派といえる人達はムハンマドを支持し、「イスラム共同体」を作るようになりました。こうしてアラビア半島において「イスラム共同体」と、それに反対する勢力との間で抗争が続くようになり、そうした抗争を正当化するためにイスラム共同体において「ジハード」の思想が生じるようになりました。それは、「世界の理想的状態はイスラム共同体に包摂されたものであるから、イスラム共同体の力が及ばない勢力をイスラム共同体に組み入れる努力をすることはイスラム教信者の義務である」というようなものです。もちろんこれは武力侵攻だけに限定されるわけではなく、平和的に浸透していくことも含まれるのですが、それにしてもここまで独善的な主張を出来るというのは、やはりかなりの宗教的熱情があったことは間違いないでしょうし、それだけ現実の戦いが熾烈なものであったとも言えます。
実際、イスラム共同体の側のほうが商業活動を活発化させることが出来たので、次第に多くのアラブ商人やベドウィンが加わるようになっていき、戦いはイスラム共同体のほうが優勢に進めるようになっていき、632年にムハンマドが没した頃にはアラビア半島の大半を支配するようになっていました。ムハンマドの死後はイスラム共同体は「預言者の代理人」として「カリフ」という指導者を選挙で選んで立てるようになり、初代カリフのアブー・バクルの時代、634年頃にアラビア半島を統一し、北方のササン朝ペルシアや東ローマ帝国と境を接するようになったのでした。

この頃、ササン朝ペルシアと東ローマ帝国は互いに激しく戦っており疲弊していました。またイスラム共同体のアラブ人の中にはムハンマドには従ってもカリフには従わないという勢力もあり、アブー・バクルはイスラム共同体の団結を保つためにも共通の敵を求めなければいけない事情もありました。そしてなんといってもイスラム共同体には「ジハード」の思想がありました。イスラム共同体を拡大することは商業活動の拡大にも通じるという実利面のメリットもありました。
こうしてアブー・バクルの時代からササン朝ペルシアと東ローマ帝国への攻撃が開始され、634年に選ばれた2代目カリフのウマルの時代には東ローマ帝国からシリアとエジプトを奪い、ササン朝ペルシアに壊滅的打撃を与えてメソポタミアを奪い、中近東の要地を押さえる大帝国を築きました。ウマルはササン朝の中央集権官僚制を引き継ぎ、アラブ人を特権階級とした中央集権的国家体制を構築しました。
ムハンマドに語りかけた神の言葉はアラビア語でありましたし、その啓示を後に文書化した「クルアーン(コーラン)」もアラビア語で書かれていたため、イスラム教の信者は当初は全員アラブ人でありました。現在は「アラブ人」というのは「アラビア語を話す人達」を指し、ユダヤ人と同じように非人種的概念なのですが、これはイスラム教が世界宗教になってからアラビア語を公用語にするようになった異民族を後にひっくるめて「アラブ人」と呼ぶようになったからなのであって、この7世紀半ばの時点では「アラブ人」というのはアラビア半島に住んでいた人達を指したのでした。イスラム共同体は、このアラビア半島のアラブ人のみによって構成されていたのです。
ウマルが本拠地であるアラビア半島に加えてメソポタミア、シリア、エジプトを征服して作った大帝国はイスラム共同体を支配階級として他の民族を支配する国家でしたから、言い換えるとアラブ人イスラム教徒が異民族や異教徒を支配する国家であったということになります。そこでウマルは各地にアラブ人の常備軍の駐留する軍営都市を築いて異民族や異教徒への抑えとして、中央集権官僚機構を駆使して異民族や異教徒から租税を徴収し、集めた租税を軍人や官僚に俸給として支給するというシステムを構築しました。つまり都市生活を送る軍人や官僚、そして彼らを相手に商売する都市商人たちはみんな特権支配階級のアラブ人で、都市では貨幣経済が成立するようになります。
単なる貨幣の使用ではなく本格的な貨幣経済の成立は人類史上初のことであり、これは大変なことなのですが、イスラム共同体における効率的な経済活動、強力な常備軍、世界の中心的文明地帯であったメソポタミア・シリア・エジプトの豊かさ、金銀の産出地の確保、そしてササン朝の遺産である高度な中央集権官僚制などが結びつくことによって経済規模が大きくなり、その取引の規模が物々交換では追いつかなくなり自然に貨幣経済を必要とするようになったのでしょう。
このようにこのイスラム共同体の支配する帝国は画期的な性格を持ったものではあったのですが、アラブ人のイスラム共同体有力者を特権階級として異民族を支配するという点で、例えばペルシア人のゾロアスター教神官階級や貴族階級を特権階級として異民族を支配していたササン朝ペルシアと基本的には同じ性格の国家と言うことも出来、支配階級がペルシア人からアラブ人に変わっただけのことで、ササン朝ペルシアを後継する古代帝国の1つであったと言っていいでしょう。そういう意味で、このイスラム共同体から発展してウマルによって基礎を形成された帝国は「アラブ帝国」と呼ぶのが適切だといえます。

ウマルは644年に死に、次いで選ばれた3代目カリフのウスマーンの時代にアラブ帝国はエジプトから更に西進してチュニジアまで達し、また651年にはイラン高原に逃れていたササン朝ペルシアを滅ぼし、ササン朝の旧領を全て併合してアラル海の南で西突厥と境を接することになり、アラブ帝国は唐へ使者を派遣し、イスラム教が唐に伝来します。そして657年に唐の高宗が西突厥を討つとアラブ帝国と唐帝国は直接国境を接することになりました。しかしここで一気に唐とアラブ帝国が激突しなかったのは、アラブ帝国で内紛が起きたからです。
この3代目カリフのウスマーンは自分の一族であるウマイヤ家を優遇したため他の勢力の恨みを買い656年に暗殺され、その後、ムハンマドの娘婿であったアリーが4代目カリフに選ばれますが、ウマイヤ家のムアーウィヤもカリフ就任を宣言し、この両者が抗争を繰り返し、結局アリーは661年に暗殺されて、ムアーウィヤが単独のカリフとなり、ウマイヤ家によるカリフ位の世襲を開始し、ウマイヤ朝を開いたのです。ちなみに、このウマイヤ朝の正統性を認めずアリーの子孫のみをカリフの正統継承者として非主流派となったのがシーア派で、ウマイヤ朝の正統性を認めた主流派をスンニ派といいます。

ウマイヤ朝アラブ帝国は国家制度を整備して世俗化し、もともと初代のムアーウィヤの地盤がシリア地方で東ローマ帝国との戦いを担当していたので、ウマイヤ朝はシリアのダマスカスを首都として主に環地中海方面に進出していくことになりました。アラブ軍は東ローマ帝国を盛んに攻め立てましたが、小アジアとバルカン半島のイスラム化は辛うじて阻止されました。東ローマ帝国は南からはアラブ帝国、北からはアヴァール帝国やブルガリア帝国の攻撃に晒されながら、何とか耐え忍んで8世紀末まで小アジアとバルカン半島の版図は維持することになります。
一方、アラブ軍は北アフリカのサハラ砂漠をどんどん西へ進出していって、700年には大西洋岸へ到達しました。これらの地域はイスラム教の誕生の地であるアラビア半島と同じような商業都市と砂漠の遊牧民の土地であったので、小アジアやバルカン半島のようなキリスト教の正教会のテリトリーとは違い、イスラム共同体を受け入れやすい下地があったのでしょう。
北アフリカの大西洋岸にまで達したアラブ軍は更にその勢いに乗って711年にはジブラルタル海峡を北に渡りイベリア半島に侵入し、東ローマ帝国などに比べれば格段に弱体であるゲルマン人の一派である西ゴート族の勢力を駆逐して720年までにはイベリア半島の大部分をイスラム化し、更にピレネー山脈を越えて南フランスへ侵入して来ましたが、ゲルマン人の一派でキリスト教に改宗していたフランク族は宮宰のカール・マルテルの活躍もあって735年までにどうにか南フランスからアラブ軍を撃退することに成功しました。これによって、イスラム教勢力の侵攻に対抗するという意味合いで「西欧キリスト教世界」という概念が初めて生まれるようになったのです。

ただ、実際のところこの頃はまだ西ヨーロッパは牧畜生活の段階で都市も無ければ農村すら無い状態で、フランク族の騎士達も牧畜民が寄せ集まった義勇兵のようなもので、常備軍の騎兵隊が整備されたアラブ軍を撃退できたのはほとんど僥倖と言っていいもので、フランク族も早急に騎兵隊を整備する必要がありました。そのためにカール・マルテルはフランク族の騎士たちに農民付きの農地を与えて馬や兵士を育成させてそれぞれ騎兵隊を編成させるようにしました。
また、もともと西ヨーロッパのゲルマン諸族は東ローマ帝国からはローマ帝国への不法侵入者として敵視されており、また東からはアヴァール帝国に圧迫され、不安定な牧畜社会の不足しがちな物資の供給には地中海経由で北アフリカからの物資を頼りにしていたのですが、こうして北アフリカやイベリア半島をアラブ帝国に奪われて地中海の制海権がアラブ側のものになってしまったために地中海経由で西ヨーロッパに物資が入ってこなくなり、全く四面楚歌の状況で農村での自給自足体制を整備せざるを得なくなってきたという事情もありました。
こうしてフランク族の居住する西ヨーロッパで、領主が配下の騎士たちに土地所有を保証するという西洋封建制が生まれるようになったのですが、それはまだこの時点ではそういう方向性が生じたというだけのことで、なかなかそれが実現するというわけにはいきませんでした。とにかく森林の多いフランスやドイツ地方においては農地が少なく、多くの人は相変わらず牧畜生活を送っていくことになり、封建制はこの8世紀の段階では広く普及するには至りませんでした。そうした状況に変化が生じるのは9世紀後半になってノルマン人の侵攻を受けてからのことです。

このように661年のウマイヤ朝の成立以降、アラブ帝国の西方においては目覚しい領土の拡大があったのに比べれば、アラブ帝国の東方においての領土の拡大はさほど大したものではありませんでした。それでもアラブ帝国は8世紀初頭にはパミール高原のラインまでは進出し、唐の皇帝に臣従していたトルコ系遊牧民のうちのいくらかはアラブ帝国の捕虜となり、イスラム圏で遊牧生活を送るようになっていました。これは本来は唐としては看過できないことのはずなのですが、唐はこれにすぐに対処することはありませんでした。この時期の唐はそれどころではなかったからです。
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定年とは、一定の年齢に達した際に組織を退職させる年齢のことをいう http://laugher.photobycolin.com/

【2008/11/25 10:31】 URL | 57 #- [ 編集]



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