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日本史についての雑文その348 第一次シナ帝国
シナの歴史をざっと見てみると、まず紀元前2000年ぐらいに黄河中流域でシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族などの多民族が集まって営む商業都市連盟とその周辺の農耕エリアが形成され、その盟主的存在としてシナチベット族の一部族である夏族が王に推戴されて夏王朝が成立しました。
これは現代から数えて4000年ぐらい前にあたります。このことをもって「中国四千年」と言うかというと、そんなことは全然なく、これは1911年の辛亥革命の時に司馬遷の「史記」に記された黄帝という伝説上の君主の即位した年から数えて1911年が4609年目であるというスローガンが唱えられたことに由来するものです。物凄く大まかに言えば5000年のほうが近いとも言えるのであり、それゆえ「中国五千年」とも言います。それで烏龍茶や麻婆豆腐の宣伝文句にまで「中国四千年の味」や「中国五千年の歴史」などという大仰な謳い文句が踊ることになるのですが、烏龍茶や麻婆豆腐には4000年の歴史も無いし、だいたい「中国」という国自体が1911年に初めて誕生したものです。まぁ「中華民国」という正式名称の略語としてですが。

しかしまぁ、とにかく偶然ではありますが、現在の「中国」が存在する土地に最初の王朝といえるものが成立したのも約4000年前であったわけですが、その後、夏族の言語を商業都市連盟の異民族間商取引上の公用語とし、筆談用に発明され使用されるようになった表意文字に夏族の言語の音をあてて読むようになり、その夏族の言語が商取引で使用されるうちに語彙を増やし高度化されていったため、各部族はその公用語をベースにして自部族の語彙を組み込んでそれぞれの混合語を作るようになり、シナ語の各方言が形成され、各部族はそれぞれ表意文字に方言の語彙の音をあてて読むようになり、表意文字は発展して漢字となり、まぁ方言といっても日本語の方言などとは違い実質的には全く別言語なので話し言葉では意思疎通は不可能ですから漢字を用いた筆談で互いに意思疎通を可能にしたのです。
こうしてもともと雑多な民族の集まりでありながらシナ語の方言を漢字という表意文字を通じて意思疎通させて商取引を行う多民族集団が黄河中流域の都市国家連盟において成立し、それを一括して「夏人」「華人」「中華の民」と呼ぶようになったのです。この「中華の民」が後に一括して秦帝国の民に組み込まれて西方の文明圏で「秦人」、つまり「シン人」「チン人」「シナ人」「チナ人」などと呼ばれるようになるわけですから、紀元前2000年以降の夏王朝の時代に「シナ人」という多民族集団の概念が成立したと考えていいでしょう。

シナ人たちはシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族などに属する多数の部族によって構成されており、各部族の首長は諸侯となって夏族の王に仕えて、王を補佐して商業都市連盟の運営を行っていました。こうした夏王朝によって運営される黄河中流域の商業エリアをシナ人は「中原」「中華」と自称し、「中原」の周囲に居住してシナ語の方言も漢字も使わず商取引に参加しない人達を「夷」と呼んで区別していました。これが「華夷秩序」の原型です。
しかし「夷」を構成する民族はだいたいシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族、アーリア族、オーストロネシア族であり、「中原」と「夷」は民族的にはかなりダブっていました。この「中原」と「夷」の差異はこの頃はあくまで部族単位で「中原」での商取引に参加しているか否かによって生じるものであり、例えば同じモンゴル族の中でも「中原」のメンバーとして扱われる部族もあれば、「夷」として扱われる部族もありました。おそらく「中原」で商取引に参加するモンゴル族の一部族は、商業都市連盟の構成員たる「シナ人」というアイデンティティと同時に「モンゴル族」というアイデンティティも二重に感じていたのではないかと思います。現在のヒスパニック系アメリカ人が「アメリカ市民」というアイデンティティと同時に「ヒスパニック」というアイデンティティを持つのと同じようなものといえるでしょう。また、「中原」と「夷」の構成員の区別は、その時々において商取引に参加したりしなかったりによって出入りが激しく、その区別も流動的なものでありました。

ただ、次第に「中原」の流儀を受け入れてその構成員となり商取引に参加する「夷」の部族も増えてきて、「中原」の範囲も広くなり、「シナ人」も増えていくようになりました。そのようにして夏王朝は約600年続き、続いて紀元前1400年ぐらいからおそらくモンゴル族の一部族であろうと思われる殷族の首長が中原の盟主となり、殷王朝の時代となりました。この殷王朝が約400年続き、紀元前1027年にモンゴル族の一部族である周族の首長が殷王朝を倒して中原の諸侯の盟主となり周王朝が始まり、この周王朝の時代には中原の範囲は黄河下流域や淮水流域にまで広がりました。その周王朝が成立して256年後の紀元前771年に諸侯が周王に背き、周王が夷の一部族である犬戎に敗れて本拠地の鎬京を追われて洛陽に移ると周王は力を失い、諸侯は周王を無視して勝手に行動し始め、春秋時代となります。
つまり春秋時代においては中原の諸侯の治める商業都市をまとめる盟主が事実上存在しない状態となり、それまでは周辺の夷に対して周王のもとに中原諸侯がまとまって対抗していたことによって存在していた抑止力が無くなり、夷が中原に攻め込んでくるようになりました。それに対抗するために諸侯の中で実力者が周王を援けて諸侯をまとめていこうとするようになりました。そうした動きが特に顕著であったのは斉公や晋公でありました。そして夷の部族をまとめてそれらに対抗しようとしたのが南方の楚族や西方の秦族で、それらの首長もいつしか諸侯を名乗るようになり、他の有力な中原諸侯と中原の覇権を賭けて争うようになっていきました。
シナ人の社会では元来、王の下に諸侯がいて、諸侯は氏族の首長を従えて、人民は氏族社会に属していました。しかしこうした春秋時代の諸侯間の争いが続いている間に氏族社会の解体が進行していきました。そうした春秋時代が約370年ほど続いて、紀元前400年ぐらいに地球寒冷化の影響で従来の農業が壊滅して独立小農民が大量発生し、それを大量に抱え込んだ諸侯が強大化して「王」と称するようになり、「王」は農民を直接支配するようになり氏族社会は崩壊し、「王」が氏族社会を経由せずに直接人民を支配する専制支配体制が確立され、その専制支配を運営していくために低い身分から登用された者が官僚として王に仕えるという中央集権官僚制も発生しました。
紀元前400年以降、このような国王専制体制と中央集権官僚制を備えた王によって支配された7国が相争う戦国時代となり、戦争の規模も大規模化して徹底的な殲滅戦が行われるようになります。この戦国時代が約180年続くことになります。この春秋戦国合わせて550年間に及ぶ戦乱によって氏族社会が完全に解体されたため、もともと存在した中原の部族のそれぞれの民族的特色が薄らぐようになり、中原諸部族の総称としての「シナ人」ではなく、1個の擬似的な民族単位としての「シナ人」というものが形成されるようになっていきました。但し、相変わらず各部族間では言葉も通じないなど、同一民族集団とは言い難い面もありましたが。また、戦国時代には中原の範囲も黄河全流域から長江中下流域に及ぶようになっていきました。

紀元前330年頃にアレクサンドロス大王の帝国が中近東世界を統一し、戦国の7国のうち最も西に位置した秦が中央アジアの月氏を介してこれと交易して強大化していき、他の6国を征服していき、紀元前221年に秦の政王によって中原は統一され、政王は各国の王を廃して自分は「皇帝」という新しい名前の君主に就き、初代皇帝という意味で「始皇帝」と名乗りました。これが秦帝国の成立であり、シナ帝国の誕生です。
始皇帝の作り上げたシナ帝国の制度は、戦国時代の制度を継承したものでありながら、同時に戦国時代の制度を否定し乗り越えたものでした。戦国時代において各国の国王は自国内の商業都市を「県」として直轄統治し、複数の「県」を含むエリアを「郡」という軍管区として、そこに直轄軍を置いて治安維持の任を負わせ、行政権を与えました。「県」における商取引を管理する「県令」も、「郡」における直轄軍の司令官である「太守」も、国王直属の官僚が中央から派遣されました。これが「郡県制」です。始皇帝もこの「郡県制」を秦帝国において採用しましたが、戦国時代と大きく違ったのは、国王を全廃して、全ての「郡」と「県」を皇帝直属のものとしたことです。戦国時代というのは国王が存在する時代であり、始皇帝の作ったシナ帝国というシステムは戦国時代を否定して生まれてきたものですから、「国王がおらず、全権力が皇帝のみに集中する」ということに大きな特徴がありました。
殷や周の時代のように諸侯が中原の商業都市を個別に支配し、その上に盟主としての王が存在するというシステムではなく、皇帝が中原の全ての商業都市を直接支配するためのシステムがシナ帝国というものであったのです。実際、中原が一定規模を超えて大きくなり、中原の構成員が多彩になれば殷や周のようなシステムでは追いつかなくなり、皇帝が全てを直轄統治するほうが効率が良いのは事実でした。そもそも周王朝が諸侯をまとめきれなくなり春秋時代の戦乱に突入していったのは、そういった限界が露呈したからともいえます。ならば今更そのようなシステムに戻れるはずもなく、シナ帝国という新しいシステムが必要だと考えた始皇帝はさすがに天才的であったと思います。

ただ、このような新しい制度を定着させるためには、例えば国王が進んで皇帝に権限を委譲したくなるような、それを正当化する政治思想というものが必要なのですが、始皇帝はそういうことにはあまり興味は無かったようで、ひたすら力攻めでシナ帝国のシステムを作っていきました。まぁ力攻めだけでそれを実現できるというのは、それはそれで凄いことで、よほどの圧倒的な実力とカリスマがあったからこそ可能であったのでしょう。つまり、自分以外の全ての国王や、国王になり得る者、国王を支える者を皆殺しにして、物理的に始皇帝に全ての権力が集中する状態を作ったのです。
これはまさに恐怖政治であり、多くの恨みを残すことになりました。また、そうして敵対勢力を根絶やしにしても、結局は始皇帝一人で統治が出来るわけではなく、功臣や皇帝一族の有力者などをそれなりの地位につけて手足のように動かさねばなりませんでした。それらは始皇帝にとっては部下であり味方なのですが、内心では始皇帝一人が権力を独占することが面白いはずはありません。ただ圧倒的カリスマたる始皇帝に勝てないことが分かっているから表面上大人しくしているだけのことで、始皇帝がいなくなれば、滅び去った戦国の国王たちに代わって「国王」的な権力を握るという野心は自然に沸いてくるのであり、消すことは出来ないのでした。
そういうわけで、紀元前210年に始皇帝が没すると、そうした野心や恨みが一気に噴出して、全土で一斉に反乱が起きて、あっという間に秦帝国は滅んでしまいました。これはやはり己の力のみに頼り過ぎた始皇帝の過ちであったでしょう。秦帝国が滅んだのは紀元前206年ですから、秦帝国の寿命は15年という短さでした。

秦帝国が滅んだ後、シナ各地に反乱軍の武将や戦国の王国の末裔などが国王となって乱立する群雄割拠の状況となり、その中から頭角を現した項羽と劉邦が争い、紀元前202年に項羽を滅ぼした劉邦が天下の最有力者となり、始皇帝を倣って「皇帝」を名乗り、漢帝国が始まりました。しかしこの時点で劉邦以外の国王たちは劉邦に臣従してはいましたが、まだ国王として健在なのであり、「国王というものを認めない」というのがシナ帝国の基本理念であるはずなのですから、これは大きな逸脱といえました。
劉邦の直轄統治していた漢国はもともと戦国時代に秦国があった場所で、つまり劉邦は始皇帝がやったのと同じように他の王国を征服するための戦争を起こす必要があったのです。しかし始皇帝がそれを可能としたのは、西域交易によって秦国を富強にしたからでした。しかし劉邦は匈奴帝国に敗れて西域交易路を押さえることが出来なかったため、東方諸国への征服戦争は断念せざるを得ず、シナ帝国を標榜しながら国王の存在を許すという変則的な統治形式となりました。すなわち、「郡」や「県」を皇帝が直接統治するのではなく、皇帝直轄地の漢国を除いては、「郡」や「県」は他の国王に支配され、その国王を皇帝が支配するという間接統治方式となったのでした。これが「郡国制」です。
これでは殷や周の制度を大規模化しただけのことで、真の意味でのシナ帝国とは言えないものでした。そこで皇帝への集権化を図る勢力は徐々に巻き返しを図り、6代皇帝の景帝の時代の紀元前154年の呉楚七国の乱で国王勢力に大打撃を与え、次いで即位した7代皇帝の武帝の時代に始皇帝以来の積み残しの問題を解決してシナ帝国を確立することになります。

武帝のまず着手したことは西域交易路の確保と儒教の国教化でした。前者は漢国の他の国に対する実質的な優位の確保のためであり、後者は皇帝専制支配を正当化する政治思想の確立のためでした。そしてこの両者は連動していたのです。この世は徳の高い者が統治すれば丸く治まるというのが儒教の教義です。儒教というものはシナ社会で生まれたものですから、シナ社会の特有の作法や習慣、これを「礼」といいますが、この「礼」に叶った行動をとれる人が「徳」のある人ということになります。となるとシナ社会である中原の住民、つまりシナ人は「礼」を知るゆえに「徳」があり、その周辺の夷は「礼」を知らず「徳」に欠けた人達ということになります。ところで「徳」の高い人というのは単に自分が「徳」があるだけではなく、「礼」を知らない者に「礼」を教え、相手の「徳」をも高めるようなことも出来る人でありましょう。皇帝というのはシナ世界の周辺の夷に対してそのようなことが出来る最も高徳の存在なのです。ならば、そのような最も徳の高い皇帝が直接統治するほうがシナ世界も最も平和に治まるということになります。
このような政治思想で武帝は国王を廃して高徳の皇帝が全てを直轄統治することに正当性を与えたのです。そして皇帝の高徳をシナ人に対して証明するために夷を服属させることが必要条件となり、それは武帝の西域攻略を正当化する作用をもたらしたのです。そうして武帝は西域交易路を押さえる匈奴をなんとか排除して交易の利権を得ることに成功し、それによって皇帝の実質的な力は増していったのです。このように武帝は、始皇帝のように実力一辺倒ではなく、実質的な力と思想的な力との両方を駆使して国王勢力を追い詰めていき、紀元前127年に各国の国王や諸侯の権力を骨抜きにして中央から派遣される官僚による全国統治を実質的にスタートさせることに成功しました。つまり、秦帝国が滅んで以来79年ぶりに「郡県制」が復活し、皇帝専制支配体制が復活したのです。ここにおいてシナ帝国は確立し、上記のような儒教思想と華夷秩序思想を組み合わせた皇帝高徳論とでも言うべき思想がシナ帝国の基本思想として定着することになったのでした。
武帝はこの思想に基づいて外征を繰り返したために漢帝国の国力は疲弊し、そのため紀元前87年の武帝の死後は歴代皇帝は外征は自重して内政を充実させることに努めました。その間、対外的に大きな脅威が現れることもなく武帝の広げた版図は維持され、この頃が地球温暖化の頂点の時代であったこともあり、次第に国力も回復してきて、まさに武帝の唱えた「高徳の皇帝が直轄統治すれば丸く治まる」という思想の正しさが証明された形になったわけで、この思想はシナ帝国の根本的政治思想として定着していきました。

こうして、武帝が「郡県制」を復活させてから約120年間ほど比較的安定した中央集権的治世が行われましたが、漢帝国の国力が充実してきてその経済規模が大きくなってくると、その巨大な利権を皇帝一人が独占しているという状態に対して不満が生じてきました。武帝のような絶対的カリスマが健在の間はそうした不満は表面化しませんでしたが、その後、凡庸な皇帝が続くようになると功臣や皇族の中で実力を蓄える者も出てきて、利権の分配を求めるようになっていきました。それでも始皇帝死後のようにすぐさま反乱の火の手が上がらなかったのは、武帝の考案した儒教的シナ皇帝高徳思想がシナ社会における骨格的思想となっていたからでありましょう。
ただ、武帝はあくまでこの思想をシナ帝国確立のための方便として使っただけで本気で信じていたわけではないのでしょうけれど、このように実際にこの思想のもとで安定した時代が100年以上も続くようになると、この思想を原理主義的に妄信してしまう人も現れてきます。それが王莽に代表される勢力で、分権を求める勢力をシナ帝国の原理に反する者として弾圧して極端な集権化を推し進め、最終的には漢帝国には既に徳が失われたとして史上初の易姓革命を行い紀元後8年に漢帝国を滅ぼして王莽自らが皇帝となり新帝国を開き、更なる集権化と外征に乗り出しますが、このあまりに極端な集権化に分権勢力の各地の有力者や民衆が一斉に反発して14年以降反乱が頻発し、23年には新は滅び、その後も群雄割拠の内乱状態が続くことになります。ここにおいて、武帝が集権化に成功してから150年にして再びシナ世界は分裂し、分権状態となったことになります。
このように見てみると、秦から漢にかけてのシナ帝国の時代は、シナ帝国だから一貫して中央集権国家であったかと思いきや、よく観察してみると、始皇帝の創始した皇帝専制体制を貫徹しようとする「集権派」と、戦国時代以前のように国王的存在の分立した状態に戻ろうとする「分権派」との間のせめぎ合いの歴史であったことが分かります。まず始皇帝が「分権派」である戦国の諸国王たちを倒してシナ帝国を創始して「集権派」有利の時代を作り、それが15年で破綻して、その後、内戦を劉邦が制しますが始皇帝のような集権体制を作ることは出来ず「分権派」有利の時代が79年間続き、そこに武帝が現れてシナ帝国の原理を確立して集権化に成功し、「集権派」有利の時代が150年間続きますが、その末期には「分権派」の巻き返しがあり、「集権派」と「分権派」の党争が繰り広げられた後、「集権派」の暴走があり、それに反発して「分権派」が「集権派」を倒して再び乱世に戻り「分権派」の天下となったということになります。

そして23年の新帝国滅亡後の乱世を制したのは漢の皇帝一族の劉氏の傍流であった劉秀で、劉秀は25年に皇帝を自称して後漢帝国を開きますが、この時点では実際には群雄の1人に過ぎず、劉秀による実質的なシナ統一は37年のことですから、乱世は14年間であったことになります。しかしこの間に人口が激減して国力が減退し、シナ本土はともかく辺境を皇帝が直轄統治することは無理になっていました。そこで劉秀は武帝の作ったシナ帝国の原理を現状に合わせて少し改変することにしました。
シナ帝国とは「国王という存在を認めない」という体制なのですが、シナ本土の周辺にある「夷」の地域、つまり辺境に関してだけは現地勢力の有力者を「王」に任命して利権を与える見返りに安全保障を請け負わせたのです。そうして何とか辺境の交易路を確保して皇帝に入ってくる交易の利益を最低限は確保して、シナ本土の分権勢力に対する皇帝の実質的優位を確保することにしたのです。ただ辺境とはいえ「王」という存在を認めることで皇帝の権威が低下しますから、そのケアとして辺境の「王」が皇帝の高徳を慕ってシナ帝国の都を訪れて皇帝に臣従の証を立てるという「朝貢」という儀式が大々的に挙行されるようになりました。これは要するに皇帝と周辺の夷の王とが結託して商業利権を分け合って、夷の王は利権を得る代わりにシナ皇帝の権威の演出に協力し、それによってシナ皇帝はシナ本土における専制支配体制を維持するというものでした。
これは辺境に関して言えば「分権派」優位の状況のようにも見えますが、辺境はそもそもシナではないのですから、辺境の状況を利用してシナ本土で「分権派」を押さえて集権体制を敷いたという意味で、劉秀の築いた体制は「集権派」優位の体制であったといえると思います。これは非常にバランスのとれた巧みな施策で、14年間の乱世における「分権派」の時代の後、劉秀の築いた「集権派」優位の時代は147年間続くことになります。
ただし、この劉秀の築いた「集権派」優位の状況は武帝の体制に比べれば不安定なものでした。まず辺境の交易利権を夷の王と分け合ってしまったために皇帝に入ってくる財貨の量が少なく、シナ国内の「分権派」に対して皇帝が絶対的優位な状況を築くことが出来ませんでした。そして、辺境とはいえ皇帝の下に「王」の存在を認めてしまったために、シナ国内の「分権派」が国内においても「王」的存在を求める欲求に大義名分を与えてしまったのでした。
そうして劉秀の死後、50年ほど経って人口も回復して経済規模も大きくなってくると、また「分権派」の地方豪族たちが利権の分け前を求めて蠢動し始め、それに対して「集権派」の中央官僚勢力が締め付けを厳しくするという、「分権派」と「集権派」の党争状態という、漢帝国の末期に繰り広げられた状況が再演されるようになってきました。特に「集権派」において中心的であったのは、皇帝権力と一体化した存在である宦官勢力で、皇帝の権威を嵩に着て「分権派」の地方豪族や外戚貴族の勢力をたびたび徹底的に弾圧し、国政を欲しいままにして極端な集権化を推し進めました。
それに対して「分権派」の恨みは募り、184年に黄巾の乱が起きるとそのドサクサに地方豪族が宦官勢力を皆殺しにして中央政府は機能を停止し、各地で豪族が群雄割拠の状態となり相争う戦乱の時代となりました。これによって劉秀の築いた「集権派」の時代は終わりを告げたのでした。そしてこれは同時に後漢帝国の実質的な滅亡であり、また秦・漢・新・後漢と続いた第一次シナ帝国における「集権派」優位の時代の終焉でもありました。

184年以降の戦乱は新滅亡後の戦乱の時のように短期間では終わらず、長引きました。この頃になると地球寒冷化傾向が顕著になってきており、戦乱の荒廃が大飢饉に結びつき人口が10分の1に激減してしまったため、どの群雄も兵力不足、生産力不足によって天下統一の決め手に欠くようになったからでした。それでも戦乱が20年ほど続いた頃には曹操、劉備、孫権の三勢力に収斂されていき、それらが220年頃には魏・蜀・呉の三国でそれぞれ「皇帝」と名乗るようになり、3人の皇帝が鼎立する異常事態となったのでした。しかしこれは「王」が「皇帝」を自称しているだけのことで、真の意味での皇帝ではありませんでした。いや、それ以前に戦国時代レベルでの「王」にすら到達していない存在に過ぎませんでした。
戦国時代には「王」は都市や軍隊を官僚機構を通じて直轄支配する立場でしたが、この三国の時代には官僚機構も整備されていない状況で、三国の皇帝たちは配下の武将たちに国内の統治をそれぞれの領地ごとに委任して、その武将たちを束ねる存在に過ぎなかったのです。そのように皇帝は配下の武将に大きく依存する存在であり、だからこそ戯曲の「三国志」に見られるような君臣の熱い交わりが見られたのです。それはそれで人間ドラマとしては非常に面白いのですが、そうした君臣の近さというのは始皇帝や武帝の作り上げた「シナ帝国」というシステムとは異質のものであり、むしろ殷や周の時代における諸侯と殷王や周王との関係に近いといえます。
それもそのはずで、人口の激減によってあらゆる産業が壊滅し、殷や周の時代から積み上げてきた中原の商業網が全てご破算になってしまい、その商業網の上に君臨していたシナ皇帝システムも崩壊してしまったのです。そうして一度「無」に戻ったシナ社会を再び構築していく過程がこの三国時代であったのです。商業網をまず一から作っていくために必要なのは絶対君主ではありません。絶対君主は商業網などの社会システムが出来上がってから登場してくるものです。この時代に必要であったのは、君臣が協力して国作りをしていく体制でした。だからこの時代は「分権派」の時代であり、それはシナ世界が三国に分裂していたからとかそういう意味ではなく、シナ帝国成立より遥かに昔の殷周時代に巻き戻されたレベルの意味での原始的な「分権」の状態なのであり、つまり始皇帝の作り上げた第一次シナ帝国は184年において崩壊滅亡し、その後は原始的分権状態が続くということになるのです。
その原始的分権状態は280年の晋帝国によるシナ統一によっても何ら変化は生じませんでした。それは単に3人の自称皇帝が1人の自称皇帝に減っただけのことに過ぎず、真の意味での専制的な中央集権統治を行う皇帝など1人も存在しなかったからでした。存在していた晋帝国の皇帝とは、配下の武将や貴族、皇族らに権限の多くを依存し、彼らの都合によって左右される非力な王にしか過ぎませんでした。その証拠に、シナ統一のわずか20年後の300年には八王の乱という皇族勢力の反乱が起きて晋帝国は大混乱に陥り、その中でもともと人口不足を補うために移住させてきていた「五胡」と呼ばれる北方異民族集団が部族ごとに次々と蜂起し、更に北方から「五胡」の本隊が晋帝国領内に雪崩れ込んできて華北は異民族による群雄割拠の状態となり、316年に晋帝国は滅んでしまいました。ここにおいて、184年の黄巾の乱の勃発以来132年間の原始的分権状態、つまり「分権派」の時代を経て、完全に第一次シナ帝国は滅び、シナ世界は原始に戻ったのでした。

紀元前221年の秦帝国の建国をもって第一次シナ帝国の開始とし、この316年の晋帝国の滅亡をもって第一次シナ帝国の終焉とするのは、この期間において曲りなりにも春秋戦国時代に成立した擬似的民族集団としての「シナ人」を皇帝としたシナ世界の統一を志向した統治が行われていたからであり、紀元前221年以前はそもそも「シナ帝国」という概念が存在しませんし、316年以降は少なくとも華北は「シナ人」の統治する世界ではなくなったからです。
この第一次シナ帝国に含まれる王朝は秦、漢、新、後漢、魏、蜀、呉、晋で、その期間は合計537年間となります。約1200年間の夏、殷、周の中原商業都市連盟の時代があり、その後に約550年間の春秋戦国の戦乱の時代があり、その後に537年間の第一次シナ帝国の時代があるということになります。ただ、その第一次シナ帝国の実像は「集権派」と「分権派」のせめぎ合いの歴史であり、この期間中、「集権派」優位の期間が合計312年間、「分権派」優位の期間が合計225年間となります。ただ、「集権派」優位の期間のうちの半分くらいは「集権派」と「分権派」の党争時代であり、真に中央集権体制が機能していたのはおよそ150年間程度ではないかと思われます。
このような第一次シナ帝国の姿は、私達日本人が抱くシナ帝国のイメージとはやや異質な感じがします。そもそも私達日本人がシナという国の実像をちゃんと見るようになったのは明治維新以降のことです。それ以前の日本人は貿易の関係などでシナ商人と接することはありましたが、シナにまで出向いてシナ社会を観察するということを庶民レベルで行えるようになったのは明治維新以降のことになります。その時点でシナ世界に存在したシナ帝国は清帝国で、そこで見た清帝国のイメージをもってシナ帝国のイメージを形成してしまっている日本人が多いので、同じ「シナ帝国」であるというだけで私達は第一次シナ帝国もまた清帝国のような社会であったという先入観を持つ傾向があります。
しかし、明治の日本人が清帝国(厳密に言うと清帝国統治下のシナ世界)に感じた、揺るぎない皇帝独裁と中央集権体制、絶望的なまでの停滞と腐敗、激しい相互不信と同族への寄生、というような、日本とはあまりにも異質な社会全体を覆う腐臭は、この第一次シナ帝国からはあまり感じ取れません。もちろんそれなりに権力は腐敗していますが、権力が腐敗するのは古今東西の常であり、社会全体として見れば分権派と集権派の相互牽制によってそれなりに社会の流動性が確保されているようにも見えます。言い換えれば皇帝専制支配の中央集権体制としてはまだ未成熟であったということでもあります。
そうした中央集権体制が完成され、その代わりに流動性がほとんど失われた、よどんだ空気がシナ帝国として完成した清帝国におけるシナ社会の特色であったのであり、この第一次シナ帝国のような社会が、何時、どのようにしてシナ帝国として完成度を高めて清帝国のシナ社会のようになっていってしまったのか、そのような疑問を切り口にして、第一次シナ帝国に続いて登場する第二次シナ帝国、すなわち隋唐帝国について考察していくべきではないかと思います。
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ファイアーウォールとは、防火壁のことをいう http://batle.misterblackband.com/

【2008/11/23 11:38】 URL | 57 #- [ 編集]



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