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日本史についての雑文その349 第二次シナ帝国
316年に晋帝国が滅んだ後、晋帝国の版図の北部は五胡といわれる北方異民族の支配する地となり、晋帝国の版図の南部は晋の皇族の生き残りが亡命して建てた東晋王朝の支配する地となりました。その境界線が淮水あたりで、もともと晋帝国の支配する地が「中原」「中華」と同義であったので、この後、淮水より北を「華北」、淮水より南を「華南」と呼ぶようになったのです。
華北に割拠するようになった五胡というのは鮮卑、匈奴、羯、氐、羌の5つの民族ですが、鮮卑はトルコ系、匈奴と羯はモンゴル系、氐と羌はチベット系の民族で、これらの諸民族が部族集団ごとに割拠していたというのが316年以降の華北の状況であったわけです。この諸民族はおそらくかつてシナ人の起源となった諸部族の中にも似たようなものが含まれていたのでありましょうが、今回新来の部族は民族はそれらシナ人の先祖と同じでも、ずっとモンゴル高原やチベット高原で遊牧生活を送っていた部族ですから、シナ人とは全く別の文化を持った異民族、つまり「夷」であったと考えていいでしょう。

そうした「夷」の世界が2世紀末以降に本格化した地球寒冷化の影響で北方や西方の高原地帯から華北にそのままスライドしてきて、華北の自然環境に合わせて農耕化していったのが、この時代の「五胡」というものの実態でしょう。つまり彼らはシナ人ではなく遊牧民族そのものであったわけですから、部族ごとに集団を作り、部族の首長の下に氏族共同体が集まり、人々は氏族共同体に属していました。要するに彼らの社会は、シナの歴史でいえば殷や周のような王朝の下での商業都市連盟を形成していた頃と同じような段階であったのです。
何と言うことはない、華北はその構成員を入れ替えて再び殷周の頃からの歴史をやり直す羽目になったわけです。いや、これらの諸部族をまとめる安定的な盟主というものが存在せず、諸部族が目まぐるしく争い合うという状況となったわけですから、むしろ春秋時代の再来であったというべきでしょう。春秋時代というと完全なる分権状態ということになります。
一方、華南の東晋王朝のほうはどういう状態であったのかというと、そもそもその母体となった晋帝国が帝国とは名ばかりの分権型国家であったところに加えて、移転した先の華南の地がまだこの頃は荒廃した華北以上の後進地帯であったので、まずは華南の地の開拓を優先せねばならず、集権型国家の建設など夢のまた夢で、名ばかりの皇帝の下に領主的権限を持った貴族層が存在し、その支配層は華北から逃れてきたシナ人貴族と在地勢力出身の貴族とによって構成され、その中には南方の「夷」であるシナチベット族やオーストロネシア族の部族の首長も含まれているような状況でした。こちらも華北のように戦乱状態ではないものの、まさに殷周時代のような分権状態にあったといえます。
このように華北も華南も分権状態にあった316年以降の、いわゆる五胡十六国時代という戦乱の時代が439年の鮮卑族の北魏による華北統一まで123年間続くことになりますが、この時代はシナ帝国における「分権派」優位の時代などというレベルのものではなく、そもそもシナ帝国と呼べるようなものは片鱗も存在しておらず、第一次シナ帝国が滅び去った後、第二次シナ帝国が生まれてくるまでの谷間にあたる時代であるといえるでしょう。

439年に華北を統一した北魏はトルコ系の鮮卑人の王朝でした。これは華北に乱立していた鮮卑族の各部族国家を統合し、その上で他の匈奴族、羯族、氐族、羌族の中の戦乱の中で生き残った部族国家を支配下に組み込んだものでした。つまり遊牧民の部族国家の伝統を引いた王朝で、シナ帝国のような皇帝専制体制とは異質な王朝でした。だから北魏皇帝の配下には五胡の各部族の首長が貴族階級として存在し、彼らは彼らの部族の人民をそれぞれ統治し、彼らのもともとの商業都市を管理し、彼らの直属の軍隊を保有していました。そうした貴族階級の上にその主君として皇帝が存在していたのです。
一方、華南のほうでも貴族階級の勢力の強い国家が常態化するようになり、420年には東晋に仕える貴族の劉裕という男が東晋の皇帝を追放して宋という国を建国していました。この後も華南の地においては同じように皇帝権力が弱く貴族の勢力の強い国家が続き、その国家交替は必ず皇帝が臣下の貴族に国を乗っ取られることによって行われました。
このように華北でも華南でも、それぞれ貴族階級の連合体のような国家が存在し、その南北の国家が睨み合い、時には戦ったり、また南北の国家の中で時には分裂が生じたりするような、そういう時代が439年以降、589年までの150年間続くことになります。この時代を南北朝時代といいますが、これもシナ帝国とは全く異質な時代と考えていいのであり、第一次シナ帝国と第二次シナ帝国の間の谷間の時代ということになります。谷間の時代は先行する五胡十六国時代と合わせて合計273年間にも及ぶことになります。これだけ長期間の第二次シナ帝国の準備期間があれば、この谷間の時代の終盤においてはシナ帝国に向けての変化も生じてくることになります。

北魏は最初は遊牧民出身の貴族たちの部族社会の連合国家に過ぎず、その首都も最初は平城といって今の北京のあたりに在り、当時のシナ世界においては極端に北に偏した位置にあり、つまりはモンゴル高原の遊牧民社会をその権力の源泉とするような国家であったのですが、そうした状態を改めて皇帝の権力を高めようとしたのが471年に即位した北魏の6代目皇帝の孝文帝でした。
孝文帝は漢化政策を推し進めた皇帝として名高いが、別にシナ文化に憧れていたわけではありません。そもそも華北においてはほとんどシナ文化などは絶滅して存在していませんでしたから、憧れようがありませんでした。ただ単に皇帝権力を強めて貴族勢力を抑えるのにかつてのシナ帝国の理念を廃物利用するのが好都合であったからです。
まず孝文帝は皇帝直轄の人民を増やすことにしました。そのために滅び去ったシナ帝国の基本理念であった「王土王民思想」や「一君万民思想」、すなわち「全ての土地や人民は皇帝が所有するべきである」「皇帝のみが君臨し、万民は皇帝の前に平等である」という思想を持ち出しました。もちろん貴族たちは自分の土地や人民をみすみす皇帝に差し出したりはしませんでしたが、そもそも北魏が華北を統一する過程で多くのシナ人の人民が北魏に取り込まれていましたし、滅ぼされた夷の部族も多く、それらの難民も北魏には多く存在していました。孝文帝はこれら貴族の所有になっていない人民を全部皇帝の直轄民にして、彼らに土地を均等に貸与して耕作させ、そこから安定的な税収を得て国家財政を潤わせることにしたのです。これが「均田制」の始まりです。
そしてこの均田制によって得られた税収の一部によって、この均田制を実施していくために必要な皇帝直属の巨大な官僚機構が維持されるようになり、皇帝は均田制によって財政基盤と同時に手足のように仕える巨大官僚機構も持つようになり、貴族勢力に対抗できる力を持つようになっていきました。孝文帝が均田制を実施したのはこれが目的であったのであり、シナ帝国の理念の実現などは実はどうでも良かったのでした。
また孝文帝はシナの伝統に倣って同姓通婚の禁止令なども出していますが、これも要するに貴族勢力を支える氏族共同体の弱体化を図るために、同姓同士の通婚を禁止して同一氏族の結束を弱めることが狙いでありました。また平城から華北中央部の洛陽に遷都して鮮卑貴族たちに洛陽での居住を義務づけ、鮮卑貴族たちにシナ人風の漢字の姓を与え、シナ人有力者を貴族に登用し、鮮卑貴族とシナ人貴族の通婚を奨励し、また朝廷においては鮮卑人の服装を禁じ、鮮卑の言語を使用することも禁じました。これら一連の施策も、貴族たちを遊牧民の氏族共同体から引き離して弱体化させるための企みでありました。

このように北魏の孝文帝は184年の黄巾の乱のドサクサで殺戮された宦官勢力以来、実に287年ぶりに現れた久しぶりの本格的な「集権派」の為政者であり、499年に孝文帝が死んだ後もその方針はしばらく引き継がれたのですが、これが鮮卑貴族の氏族共同体、すなわち「分権派」の反発を招かないはずはなく、523年に北方の柔然への備えとされていた六鎮という遊牧民部隊が反乱を起こし、その混乱の中で528年には北魏の皇帝は殺され、その配下の官僚たちも皆殺しになり、事実上、北魏は滅びました。こうして北魏の「集権派」はシナ帝国復活への第一歩を踏み出したところで貴族勢力によって叩き潰されてしまったのですが、535年に北魏が分裂して出来た東魏と西魏においてもそれらの皇帝によって均田制は受け継がれていったのでした。
東魏も西魏もそれぞれ北魏の有力貴族の高歓と宇文泰が北魏の皇帝一族を擁立して傀儡として建国した国ですが、鮮卑族の精鋭は東魏のほうに集まり、西魏は弱体で劣勢に追い込まれがちでした。そこで西魏の実権を握る宇文泰は兵力不足を補うために均田制を敷いている主にシナ人の人民のうち、租税免除と引き換えに1戸につき1人の自弁の農民兵を徴発する戸を指定し、その兵員徴発によって皇帝直属の軍団を編成するようになり、550年にはこの軍団を24軍に編成し、24軍の司令官を12人の大将軍が統率し、12人の大将軍を6人の柱国が統率し、6人の柱国を宇文泰が統率するというピラミッド型の軍制を確立しました。これが「府兵制」の始まりです。この西魏の府兵制における24人の軍司令官や12人の大将軍、6人の柱国に宇文泰と西魏皇帝家を合わせた八柱国は全て鮮卑族やシナ人の有力貴族の家系から選ばれ、この家系がこの後、北周、隋、唐における有力貴族の家系となっていくのです。

律令制というのは均田制と府兵制を柱として、中央集権官僚機構と律令法制を駆使して皇帝専制支配体制を実現するものとされていますから、この550年の時点で律令制の基礎は出来上がったことになります。そしてこの律令制を基本理念として成立する第二次シナ帝国の祖形も、この時点で生まれてきたのだといえます。
ただ、この均田制や府兵制の成り立ちの経緯をよく見てみると、これが本当に皇帝専制支配体制を構築するためのものであったのか疑問ではあります。均田制からは最初から貴族やその私有民や私有地は特別扱いで除外されていますし、府兵制においても貴族階級は農民兵を指揮する特権的立場を保障されています。つまり、この南北朝時代の北朝において成立した律令制というものは、皇帝一人の専制権力を保障するかのように見えて、その実は、特権階級である鮮卑貴族(と少々のシナ貴族)がシナ人民を統治していくためのシステムであったのです。
つまり律令制というシステムは貴族階級をその規制から除外することによって貴族階級の特権を保証するシステムとなっており、皇帝への集権は貴族の特権維持によって最初から大きな障害を抱え込むという宿命を負っていたのでした。この律令制の祖形を作り上げた西魏は557年に宇文泰の子の宇文覚によって簒奪されて北周となり、同じく高歓の子である高洋が東魏を簒奪して建国した北斉を577年に滅ぼして華北を統一し、その北周が581年に十二大将軍の1人である楊堅に乗っ取られて滅び、楊堅は皇帝となり隋帝国を建国したのですが、この間も一貫して律令制は受け継がれてきており、律令制の孕む、皇帝への集権を志向しつつも貴族層への分権をも許容するという矛盾した宿命もまた、律令制を基本理念として成立することになる第二次シナ帝国にも受け継がれていったのでした。
それゆえ、589年に華南の南朝王朝である西梁と陳を相次いで征服してシナ統一を果たし、律令制を完成させて第二次シナ帝国を創始し、北京から杭州まで貫く大運河をも完成させて絶対的繁栄を誇った隋帝国が、高句麗遠征の失敗程度のことで618年に貴族勢力の反乱を受けてあっけなく滅びることになったのでした。それは、皇帝専制支配のシナ帝国であるはずなのに、実際は貴族勢力が強大であったからなのであり、帝国の基本理念である律令制には貴族勢力の力を抑制する効力が無かったからなのです。
それゆえ、結局は皇帝の専制支配を正当化するためには第一次シナ帝国の時に漢の武帝によって作られた古い手法に頼るしかなくなってきたのです。つまり外征の成功によって皇帝の高徳性を証明しようという方法です。そのために「集権派」である隋の2代皇帝の煬帝は高句麗遠征を強行して集権を行おうとして、その失敗によって権威を喪失して、「分権派」である貴族勢力によって滅ぼされてしまったのです。

こうして589年の隋帝国によるシナ統一によって始まった第二次シナ帝国は、当初は明確な集権化の志向を示しながら、隋帝国の治世は29年間という短さで終わり、その後は10年間の戦乱の時代を経て、628年にシナ世界は八柱国の1人であった李淵やその子の李世民(太宗)の唐帝国によって再統一されることになるのですが、この時点での唐帝国の性格は滅びた隋帝国と基本的には同じで、鮮卑人の貴族連合体の上に皇帝が推戴されている状態で、人民は華北は五胡が多く華南はシナ人が多く、遊牧民王朝がシナ世界を統治するという一種の征服王朝でしたが、華北の五胡の人民の多くを貴族勢力が押さえていたため、それに張り合うために皇帝権力は華南のシナ人を押さえる必要があり、皇帝権力は華南を好みシナ化を推進しようとする傾向が強く、貴族勢力はそれを嫌う傾向が強かったといえるでしょう。
楊堅や煬帝が華南に繋がる大運河の建設に執着したのも、この第二次シナ帝国における皇帝の華南好みの傾向の表れであり、その煬帝が華南に行幸に出た留守に華北で貴族勢力が蜂起して隋を滅ぼしてしまうという構図も、何か示唆的なものがあります。唐においては華南では均田制や府兵制は施行されていなかったとのことで、こうなると律令制というものは表向きは「王土王民」「一君万民」の理念を実現させるための制度ということになってはいますが、その実態は華北の遊牧民王朝体制において皇帝と貴族勢力の権力を配分し均衡させて、皇帝と貴族勢力の協力体制のもとに強力な国家を作ることを目的とした制度ということになり、むしろシナ統一後は華南の地においては貴族勢力の権益を保障する律令制は皇帝によって排除されて、より徹底した皇帝専制体制が志向されていたのではないかと思われます。
言い換えれば、華北に存在した遊牧民王朝がシナを統一したり西域交易路を確保するために強力な国家を作り上げねばならず、そのためにこそ律令制は有効だったのであり、シナ統一を成し遂げた第二次シナ帝国においては既に律令制の存在意義は薄らぎつつあったのではないでしょうか。律令制は確かに第二次シナ帝国を作り上げ、その国家理念にもなりましたが、出来上がった第二次シナ帝国においては律令制に代わる、より徹底した中央集権体制への試行錯誤が始まっていたのです。第二次シナ帝国というのは、皇帝と貴族の協力体制である律令制から始まり、次の第三次シナ帝国において確立する新たな中央集権体制へ至る試行錯誤の期間、過渡期であったのではないでしょうか。

ただ、唐帝国の初期には、まだ律令制の存在意義は大きいものがありました。皇帝権力を支える交易利権を確保するために西域交易路を支配しなければならず、そのために突厥帝国を屈服させねばならなかったからでした。この頃はまだ華南の経済は弱く、大運河も有効に機能していませんでしたから、交易の中心はやはりタリム盆地の中央アジア交易路を通った西域交易でした。隋や唐の首都が黄河上流域の長安に置かれたのも、西域交易路の入り口である河西回廊に近いからでした。
長安から西へ続く西域交易路を押さえるためには突厥帝国を討たねばなりません。そして精強な突厥を討つためには府兵制によって編成される鮮卑貴族に率いられた24の軍団の軍事力と、その軍事計画を支える華北の均田制の生産力はまだまだ必要でした。隋はあまりに短命であったためにこの突厥との決戦の前に滅びてしまったのですが、隋の遺産を引き継いで628年にシナ統一を果たした唐の2代皇帝の李世民、つまり太宗は630年に東突厥を滅ぼして、自ら北方遊牧民の王である「天可汗(テングリ・カガン)」となりました。
これはシナ皇帝としては規格外のことでありました。始皇帝は「王という存在を認めず人民を直轄支配するのがシナ皇帝である」という原則を作り、武帝は「夷を征服して文明人へと教化することでシナ皇帝の高徳が証明される」と唱え、劉秀は「シナ帝国の軍事力の及ばない夷の地であれば、シナ皇帝の高徳を慕って朝貢してくる者を王として封じることは可である」という暗黙の了解事項を作りました。
だから、この太宗の場合はモンゴル高原を支配下に組み込んだわけですから本来は夷の王など置かずに皇帝としてこの地を直轄統治すればいいはずなのです。ところが「可汗」などという夷の王の存在を許し、しかもシナ皇帝自身がその非文明的存在である夷の王も兼ねてしまうなどということをすれば儒教的な華夷秩序の原則は崩れ、シナ帝国は成り立たなくなってしまいます。
また、太宗から次の高宗の代にかけて唐の皇帝はモンゴル高原に加えて、西突厥や高句麗などを討ってこれらの地も支配下に組み込んでいくのですが、それらの地においても夷の王を置かずに都護府という皇帝支配下の官庁を設置しているということは確かにそれは直轄支配であるはずなのに、その都護府の長官は中央から派遣された官僚ではなく、現地の夷の有力者を任命し、実質的に夷の自治権を認めてしまっているということは、太宗や高宗は夷を支配しながら夷の習俗を容認して文明化を図ることを怠っているということになり、シナ皇帝としての正当性を疑われる施策ということになります。
これはしかし実は問題でもなんでもなく、つまり、太宗や高宗の頃は、彼らの意識としては「シナ帝国」を経営しているという意識は薄く、「シナ皇帝」という自覚もあまり明確ではなく、むしろ彼らは鮮卑人の可汗を盟主とし、鮮卑貴族たちを中心として諸民族の連合体としての一大遊牧民帝国を作って東西交易を支配しようという考えのほうが強く、「シナ帝国」などというものは彼らにとってはその東西交易で回す物資の消費と供給のための植民地程度の扱いでしかなかったのではないかと思われます。
こうした考え方は後の遼以降の北方遊牧民征服王朝の考え方と極めて似通っており、唐帝国の初期の統治形態というのは後の征服王朝の先駆け的存在であったとも考えられます。いや、後に唐が衰退して辺境の都護府の大部分が機能停止状態に陥る中で、遼東地区にあった安東都護府は唐の滅亡まで機能しており、そこで唐の異民族統治法を最も身近で見て経験していたのが契丹人であり、その契丹人が遼帝国を作り征服王朝の最初の例となるのは、決して偶然ではなく、契丹人たちは遊牧民王朝としてシナ世界を植民地的に統治するという手法を唐から学んだのでしょう。

このように唐初期の太宗や高宗のような皇帝たちが支配化に組み込んだ異民族に自治を認めるような、およそ従来のシナ皇帝としては考えられないような統治を発想したのは、彼ら自身の直属の配下である鮮卑貴族たちも実質的には自治を認められたような存在であり、そうした分権的環境の中でトップとして統治を行っていた太宗や高宗であるからこそ、新たに配下にした異民族の有力者たちに対しても、そのような分権的統治を行おうと思ったのは、むしろ自然な流れであったのでしょう。
ただ、そのような分権的統治環境の中で貴族勢力が強い権力を持ち、皇帝の権力を制限するような傾向を快く思わない人達もいました。もちろん太宗や高宗のような皇帝本人は特に強くそうした思いは持っていたでしょうけれど、唐帝国の拡大という国家的事業の流れの中で貴族勢力の力は必要不可欠のものでありましたし、特に太宗などは始皇帝や武帝にも匹敵し得る個人的に卓抜した資質の持ち主であったので貴族たちを従わせることに不安は感じなかったのでしょう。
しかし高宗ともなると病弱であり、かなり凡庸な人物であったので太宗のように個人の力で貴族たちを屈服させることは容易ではありませんでした。そうなると貴族勢力の反乱によってあっけなく滅ぼされた隋の煬帝の二の舞になりかねないのであり、皇帝周辺には危機感が高まることになります。また、668年に高句麗を滅ぼして唐の支配地は最大に達し、拡大路線も一段落したため、貴族勢力の力が必ずしも必要ではなくなってきており、貴族階級の力を弱めて皇帝に権力を集中させようという動きも生じてくるようになりました。

そうした動きの急先鋒となったのが高宗の皇后であった武后でした。武后も鮮卑系貴族の家の出身でしたが655年に高宗の皇后になってからは病弱な高宗に代わって宮中で実権を振るうようになり、従来の律令制を超越した皇帝専制体制の確立を目指した施策を行うようになっていきました。そのためには貴族勢力を弱体化させねばならないわけですが、そこで武后が目をつけたのが「科挙」という制度でした。
「科挙」とは「試験科目による選挙」の略称で、要するに試験による人材登用を表す一般名詞であり、そのようなことは漢の時代から行われていましたが、それはあくまで貴族や豪族の子弟をどのような役職に就けるかを決定するためのものでした。それを隋の初代皇帝の楊堅がシナ統一に伴って多数の優秀な人材を官吏として登用する必要に迫られたため、広く一般から受験者を募って官僚登用試験を行うことを制度化し、これがこの後「科挙」と言われるようになります。
科挙の合格者を家柄など関係なくただ試験の結果のみを判断基準にして国政に携わる官僚に登用することについての正当性は、その試験科目が主に儒教の知識を問うものであったことによるものでした。すなわち、儒教をよく理解している者は仁や礼を理解した徳の高い人物であるはずであり、徳の高い人物によって政治が行われれば世の中は丸く治まるというのが儒教に基づくシナ帝国の基本原理であったから、科挙の合格者が国政に携わることはシナ帝国における道理に適ったことになるのでした。ただ、隋時代や唐初期の朝廷の要職は貴族階級が家柄で世襲して占めており、当初は科挙で採用された官僚は下級職に就くことになっていました。
武后は貴族階級の勢力を削ぐためにこの科挙の制度を利用して、科挙合格者を朝廷の要職に起用するようになり、この科挙に合格して登用された新官僚グループは皇帝や武后に忠誠を尽くし、貴族勢力と対峙するようになりました。武后といえども要職から貴族階級を追放するようなことは出来ませんでしたが、このように朝廷内に皇帝の手足となって貴族側を牽制する勢力が生まれたことは十分に貴族勢力にとってダメージとなりました。
また、武后は府兵制における軍司令官や大将軍などの軍事指揮官の要職にも科挙合格者を就かせるようにして貴族勢力と軍事力とを分断して、貴族勢力を弱体化させようともしました。これも貴族勢力にとっては確かに大きなダメージにはなったのですが、農民兵の寄せ集めが軍事専門家である鮮卑貴族に率いられることによって正常に機能していた府兵制の根本を骨抜きにする結果ともなり、唐の国軍が弱体化するという結果ももたらしました。もともと府兵制は農民に過重な負担を強いて成立しているものであったので農民による不満も大きく、しかも唐の版図が巨大なものになったことによって自弁の農民兵への負担は深刻なものとなっており、そうした危うい状況を鮮卑貴族たちの統率力で何とか組織維持を図っていたものですから、この武后の施策によって一気に唐の府兵制の国軍は農民の兵役拒否などが増加してほぼ崩壊状態になってしまったのです。

この結果、670年には朝鮮半島で新羅が背き、またチベット高原の吐蕃が勢力を増して河西回廊を脅かすようになり、673年からは日本において唐と断絶して律令制に基づいた国家建設が始まり、676年にはウマイヤ朝アラブ帝国が唐帝国の最西方の西突厥のサマルカンドに攻め込んで占領し、また唐帝国の最東方の朝鮮半島は新羅のものとなり、682年にはモンゴル高原において東突厥帝国が復活し、698年には高句麗の故地の満州平原において渤海国が自立するなど、唐帝国の辺境周辺は軍事力による抑えが効かない状況となり収拾がつかなくなってきました。
しかし武后にとっては辺境の状況よりも皇帝への集権化のほうが大事だったのであり、こうして辺境が騒がしい間にも密告を奨励する恐怖政治で反対派の貴族勢力を粛清していき、その行き過ぎを危惧した高宗による廃后を阻止し、高宗が684年に死ぬと息子の中宗や睿宗を傀儡として立てて独裁政治を行い、688年には皇族の反乱を鎮圧して皇族の李氏もほとんど皆殺しにし、690年にはついに自ら帝位につき武則天と称し、ここに一旦、唐は滅びて、武則天は国号は周としました。この周が705年に武則天が年老いて病気が重くなったので再び息子の中宗に帝位を譲り、それに伴って再び帝位が李氏に戻り唐が復活し、周は武則天の一代限り、15年間の短命に終わったのですが、よく考えれば武則天には再び息子を後継者にするしか選択肢は無く、唐の復活は既定路線でした。ならばわざわざシナ史上唯一の女帝として即位して新たな一代限りの王朝を立ち上げる必要性など無かったのではないかとも思ってしまいます。しかし、おそらく武則天は自ら皇帝になってこそでないと真の皇帝専制体制確立のための改革は成し遂げられないという強い思いがあったのでしょう。その恐怖政治の凄まじさから「中国三大悪女」にも数えられる武則天ですが、決して暗愚ではなく、特権的貴族勢力以外からは意外と嫌われておらず、皇帝専制体制を樹立して第二次シナ帝国における皇帝集権化を目指した改革者としての側面での再評価がなされて然るべきではないかとも思います。

実際、この周の時代にも継続された武則天の独裁政治によって貴族勢力は大きくその力を後退させ、705年に唐が復活し、706年に武則天が死んだ後は貴族勢力もいくらか盛り返しましたが、科挙で登用された新官僚が国政の要職に進出して貴族勢力と張り合うという構図はそのまま引き継がれ、この後、貴族勢力の「分権派」と新官僚勢力の「集権派」とが競合していく構図が続くことになります。結局、第二次シナ帝国においても「集権派」と「分権派」の党争が常態となっていくのです。ただ第一次シナ帝国の場合と違うのは、「分権派」が主に鮮卑系貴族階級で華北や北方の辺境を根拠地にしており、「集権派」が主にシナ人新官僚勢力で華南を勢力基盤としているという違いが際立っているという点でした。
「集権派」の新官僚たちは712年に即位した玄宗皇帝の下で要職を歴任して「開元の治」といわれる唐の絶頂期を演出していくことになります。これは7世紀後半あたりに最も落ち込んだ地球気温がこの時期あたりから持ち直して温暖化傾向を見せ始めたことによって農業生産力が回復した勢いにも乗ったものでしょう。
一方、府兵制の崩壊によって乱れた辺境の状況を改善するために、辺境地域に駐屯して自弁ではなく給料を支給される兵士を募集することにして、辺境においてそうした兵士たちを統率する「節度使」という役職を710年以降に新たに設けていくようになり、節度使には兵士への給料の財源として駐屯地での租税徴収権を与えたのです。こうして北方の辺境地帯において独自の財源、つまり支配下の人民と軍隊を持った強大な権限を有した節度使という存在が10個生まれることになったのですが、この節度使という役職は武人か異民族有力者の就く役職と規定されたのです。武人といえば要するに鮮卑貴族のことであり、異民族有力者というとかつての都護府の長官を務めていたような人達のことでした。要するにこの「節度使」という役職は、府兵制や辺境領土の崩壊の後、新たに「分権派」がその勢力基盤として獲得した権益なのでした。

この各辺境の節度使の活躍によって玄宗治世下の唐は辺境領土の安定を回復することになりました。吐蕃と度々戦い河西回廊を確保し、また東突厥を討って弱体化させ、744年には東突厥は滅び代わりにモンゴル高原をウイグルというトルコ系遊牧民が支配するようになります。739年には西突厥を滅ぼしてタリム盆地を領有することになり、西域交易路を確保することになりましたが、その西のパミール高原より西には世界のイスラム化を名分としたアラブ軍による征服が及んでおり、たびたび現地勢力から唐に救援要請もありましたので、唐軍は747年にパミール高原を西に越えて侵攻し、西方の覇権も得ようとしました。これに対してイスラム軍も応戦し、751年にタラス河畔にて両軍は激突し、唐軍は惨敗を喫してパミール高原以西はイスラム軍の手に落ちたのでした。
ところがこの後、イスラム軍は更に東へ侵攻してくるということはありませんでした。また、唐軍も再びパミール高原を越えて反撃に転じるということもありませんでした。それは、イスラム社会においてこのタラス河畔の戦いの1年前に革命が起きていたことに関係しているのであり、また唐においてこのタラス河畔の戦いの4年後に大乱が勃発することにも関係しているといえるでしょう。
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ビール酵母はビールを作る時に、麦汁を発酵させるために使われる酵母です http://halm.sabellsenterprises.com/

【2008/11/22 11:09】 URL | #- [ 編集]



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