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日本史についての雑文その350 イスラム帝国
メッカのアラブ商人であったムハンマドが610年に唯一神アッラーフの啓示を受けてイスラム教の布教を開始した時、その布教対象となったのはムハンマド自身の属する部族であったクライシュ族でした。ムハンマドの生誕地であるメッカにおけるアラブ商人を構成していたのがクライシュ族で、クライシュ族は多くの氏族に分かれた大きな部族で、その中でも有力な一門がハーシム家やウマイヤ家で、ムハンマドはハーシム家の生まれでありました。
ハーシム家の祖はハーシムという男で、その息子アブドゥルにはアブドゥッラーフ、アブー・ターリブ、アッバースの3人の息子がおり、アブドゥッラーフの息子がムハンマドなのですがムハンマドには男児が2人いたが夭折し、娘のファーティマがアブー・ターリブの息子のアリーに嫁入りしてハサンとフサインという2人の息子を設けました。ムハンマドの血を引く男子はこの2人だけですが、これはアリー家の一員ということになりますからアブドゥッラーフ家はムハンマドの代で断絶し、ムハンマドの一門であるハーシム家にはアブー・ターリブ家とアッバース家が残ることになりました。そしてアブー・ターリブにはアリーの他にジャアファルとアキールという息子もおりましたので、ハーシム家は結局、アリー家、ジャアファル家、アキール家、アッバース家に分かれることになります。これらが預言者ムハンマドの近親の家系ということになります。

さてムハンマドが610年にメッカで布教を開始した時、最初に入信したのが妻のハディージャで、それに次いで入信したのがムハンマドの従兄弟でムハンマド夫婦の養子となっていたアリーや、ムハンマドの友人のアブー・バクルで、最初はムハンマドの周辺の人間だけのごく小さな教団でありました。ウマイヤ家をはじめとしたメッカのクライシュ族の大部分はムハンマドの教団を迫害し、ムハンマドの叔父のアブー・ターリブを代表とするハーシム家だけがメッカでムハンマドを保護していたのですが、619年にはそのアブー・ターリブが死んで、ムハンマドは信徒と共に622年にメッカを脱出しメディナに移り、ここで信徒を増やしてイスラム共同体を作り、その後メッカのクライシュ族とアラビア半島において何度も戦い、628年にイスラム共同体とクライシュ族の一時停戦が成立した後、クライシュ族からイスラム教に入信する者が激増し、630年にムハンマドはメッカを陥落させてイスラム教の聖地としたのです。
その後、アラビア半島の大半を領有して632年に預言者ムハンマドが死ぬと、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと四代の正統カリフが「預言者の代理人」としてイスラム共同体を率いて、中近東の支配者たる大帝国を作り上げるのですが、この4人は全員クライシュ族の出身で、ムハンマドとの血縁関係の濃さによって選ばれたわけではなく、この4人の間にも濃い血縁関係は無く、イスラム共同体内の選挙によって選ばれたのでした。しかし一方で最初期の入信者でムハンマドの従兄弟にして養子、しかも娘婿でムハンマドの孫息子の父でもあるアリーは初期からムハンマドの片腕として貢献しており名声が高く、尊敬する者も多く、早くからムハンマドの正統な後継者と目されていました。ただ若年であったのでアブー・バクル以下の3人が先に正統カリフに選ばれていたのです。
そこで、三代目の正統カリフのウスマーンが自分の一門であるウマイヤ家の者ばかり優遇することに不満を感じた者たちがウスマーンを暗殺してアリーを担ぎ出して四代目の正統カリフに推したのですが、ウマイヤ家のムアーウィヤをカリフに推す勢力と争うことになりました。アリーを推す勢力は「ムハンマドの娘婿であるアリーの家系のみがカリフを継ぐ資格を有する」という考えで、ムアーウィアを推す勢力は「四代の正統カリフ選出の慣行に従ってクライシュ族でさえあればムハンマドとの血縁関係は問わずカリフになる資格はある」と唱えました。
結局、661年にアリーが暗殺されてムアーウィアがウマイヤ家がカリフを世襲していくウマイヤ朝を開くことになり、ムアーウィアを推していた勢力はその体制を支えていくことになり、「スンニ(慣行)派」と呼ばれていくことになるのですが、アリーを推していた勢力は「アリー派(シーア・アリー)」と名乗って反体制派となり、これが後に「シーア派」と言われるようになります。こうしてウマイヤ朝アラブ帝国においては、その版図をイベリア半島からパミール高原まで拡大する一方で、スンニ派とシーア派の抗争が続いていくことになります。

またウマイヤ朝アラブ帝国においてはカリフが世俗化したことに対してイスラム教信者からの評判が悪く、その上、宮廷内では内紛やカリフ位を巡る争いも絶えず、またアラブ人優遇政策に対する不満も非アラブ人の間で鬱積していました。アラブ帝国においては非アラブ人はイスラム教に改宗しても土地にかかる租税や人頭税を取られ、アラブ人イスラム教徒は土地を持っていても租税を免除され、非アラブ人はアラブ人のように官僚や軍人にはなれませんでした。これは「イスラム共同体」を世界に拡大していこうというイスラム教の理念に反した現状で、これではアラブ帝国はイスラム教の理念を悪用してアラブ人が特権を貪るための帝国であると言われても仕方ない状態でした。
743年にウマイヤ朝の10代目カリフのヒシャームが死去するとこれらの不満は爆発して各地で蜂起が相次ぐようになりました。そうした状況の中で勢力を広げていったのがムハンマドの近親一族であるハーシム家の一員であったアッバース家でした。アッバース家はもともとムハンマドに血筋が近いことから潜在的人気が高く、ウマイヤ朝への不満が高まるほどその人気も上がっていったので、イスラム世界の支配権を得ようと画策するようになり、「ハーシム家の一員をカリフにしよう」という言葉でシーア派と同盟して、各地に秘密結社のようなものを作ってウマイヤ朝への不満を持った勢力を組織していきました。シーア派としてみれば今までの経緯からしてアリー家の者をカリフにすることにアッバース家が協力してくれたものと思ったのでしたが、実際はアッバース家はそのあたりをわざと曖昧にしてシーア派を騙していたのでした。
こうしたアッバース家の組織した秘密結社員のうち、イラン高原の北東部でシーア派勢力やペルシア人改宗者勢力を組織したアブー・ムスリムという男がいて、747年にアブー・ムスリムは挙兵してイラン北東部を占拠し、さらに西に軍勢を送ってウマイヤ朝の軍を次々に撃ち破りました。それを受けて749年にアッバース家の当主であるアブル・アッバースをカリフとする宣言が発され、750年にウマイヤ朝は滅亡して、アッバース朝の時代が始まったのでした。これがアッバース革命です。

なお、ウマイヤ朝の王族の生き残りはイベリア半島まで逃れて、756年にアッバース朝に対抗して後ウマイヤ朝を立てることになりますが、こうした混乱の影響でイベリア半島におけるイスラム勢力はウマイヤ朝時代のような勢いが無くなり、その侵攻に晒されていた北方のフランク王国は一息つくことが出来て、その間に力を蓄えていくことになり、768年からかつてイスラム軍のフランス南部侵攻を撃退したカール・マルテルの孫のチャールス1世、つまりカール大帝の時代を迎えます。
チャールスは生涯を戦闘に明け暮れた男で、文字も書けなかった牧畜民の族長というのが実像ですから「大帝」というイメージには程遠い男なのですが、とにかく戦争には強く、未だ牧畜生活のフランク王国でなんとか組織した騎兵隊を率いて奮戦し、現在のフランス、ドイツ、イタリアに相当する地の大部分を征服した後、イベリア半島の後ウマイヤ朝にも何度か攻め込み、796年には東方の遊牧帝国であるアヴァール帝国を滅ぼして西ヨーロッパに対する東方の脅威を消滅させることに成功しました。なお、アヴァール帝国の故地は更に東方のドナウ河下流域の遊牧帝国であるブルガリア帝国が奪取し、それによって強大化したブルガリア帝国は9世紀にはバルカン半島の南スラブ諸族の東ローマ帝国への反乱を支援しつつ南下していき、東ローマ帝国を北から圧迫していくことになります。
ローマ教会はチャールスに保護される立場となっていたわけですが、これらのチャールスの功績を称えて800年にチャールスに「西ローマ皇帝」の冠を授けました。これによってローマ教会は東ローマ帝国の出先機関という立場から脱皮して、西ヨーロッパの独自の世俗権力と結びついていく独特の道を歩んでいくようになり、「ローマ・カトリック」となっていくのです。そしてこれは西ヨーロッパが東ローマ帝国の影響を排除して独自の文化圏として成立していくことも意味していました。
ただ、この800年の時点では、あくまでチャールスに授けられたのは「西ローマ皇帝」の位であったので、東ローマ皇帝との棲み分けはなされており、この時は東ローマの正教会とカトリック教会との間に決定的な対立は生じませんでした。また、このようなカトリック教会の手法は、未だ世俗権力に寄生し従属していく道であり、まだローマ帝国末期や東ローマ帝国の手法の域を脱したものではありませんでした。

チャールスの時代以降に成立していく西ヨーロッパ独自の文化とは、ゲルマン文化とキリスト教と古代ローマ帝国の遺産の融合によるもので、チャールスはこれらの融合を政策的に進めていき、どうやら古代ローマ帝国末期のような中央集権的な王権を志向していたようですが、これは牧畜民の部族社会を単にチャールスの武力で纏め上げていたに過ぎず、まともな徴税システムすら無く、チャールス自身が各部族を巡って現地徴発を繰り返すしかなく、ゆえに固定した王都も持てなかった当時の彼の勢力圏の現状を考えれば、あまりに無理な構想であったと言うべきでしょう。まずは当時の西ヨーロッパは自給自足可能な農村を作ることから始めるべき段階であり、彼の死後は彼の思惑とは全く逆に分権的な封建社会が築かれていくことになります。
それにしてもゲルマン文化とキリスト教の融合ということになると問題になってくるのは、ゲルマン諸部族の一般の人々がキリスト教をなかなか受け入れないということでした。それまでにキリスト教を受け入れたのは主に領主階級の人々で、その信仰の動機はまず戦争などに際しての神頼みや御利益を見込んでのもの、あとは単なる権威付けや東ローマ帝国とのコネ作りのためなど政治的動機が多く、真の信仰とは言い難いものでした。
どうして一般のゲルマン人がキリスト教に抵抗を感じていたのかというと、ゲルマン社会は部族社会で先祖の霊を大切にしますから、「イエスの教えを信じる者は救われて死後に天国へ行き、イエスの教えを信じない者は救われず死後に地獄へ行く」というキリスト教の教義に従えばイエスの教えを知らずに死んだ自分の先祖は地獄に行ったということになり、それではあまりに救いが無く、そんな教えを子孫の自分たちが信じるのは忍びないと思ってキリスト教を拒絶していたのです。しかし、キリスト教においてはこのように信仰の有無によって死者の魂を分別するのは終末論と合わせて教義の核心にあたる部分でしたから、キリスト教の側としてもなかなか譲れない部分であったのです。
そこで考え出されたのが「煉獄」という概念でした。「煉獄」は地獄に行くほど罪が重くはない者が死後に罪を浄化する場所とされ、「煉獄」で浄化された魂は天国へ行けるとされます。しかし「煉獄」については聖書に具体的記述が無く、正教会では「煉獄」の教義は認めておらず、「煉獄」を認めるのはカトリックだけです。つまり「煉獄」はゲルマン人への布教のためにローマ教会が独創した概念であるといえます。ローマ教会は「煉獄」という概念を独創して、その上でゲルマン人の先祖たちの霊も「煉獄」に行ってから魂が浄化されて天国へ行ったのだと説明づけたのです。それを聞いてゲルマン人たちは安心してキリスト教に帰依することが出来たのでした。
更に、その「煉獄」における魂の浄化は聖母マリアや諸聖人の執り成しによって行われるという説明がなされることによって、西ヨーロッパにおいて聖母マリア信仰や聖人信仰が発生することにもなりました。しかしこれはおそらく話が逆で、もともとゲルマン社会において存在していた大地母神信仰や精霊信仰、祖霊信仰に迎合する形で、そういったゲルマン人に馴染みの深い霊的存在への信仰を取り込む形で「煉獄」の教義を完成させて、ゲルマン人の信者を多数獲得しようとしたということでしょう。つまり一種のキリスト教とゲルマン文化の習合であったわけです。そして、このように聖人信仰と死後の罪の浄化思想が結びついたことによって、現世に存在する聖人中の聖人であるローマ教会の主教が死後の罪の贖いを左右する絶対的存在として超越的な権威を帯びてくるようになり「ローマ教皇」へと進化していくのです。

このようにしてローマ教会は「ローマ・カトリック教会」という、東ローマ帝国の「正教会」とは一線を画した宗派へと変わっていったのでした。「カトリック」の語源は「普遍的」ということであるそうで、なるほど確かに「カトリック」はヨーロッパのゲルマン社会でより「普遍的」に受け入れられるようにゲルマン文化と習合して作り変えられたキリスト教でありました。むしろ古代ローマ帝国末期の普遍的宗教であった「キリスト教」の姿を正統的に保持していたのは「正教会」のほうであったといえるでしょう。ちなみに「正教会」は英語では「オーソドックス」といい、「正しい賛美」「正統」を意味します。
こうしてゲルマン文化とキリスト教の習合によってカトリックが生まれたことによって、9〜10世紀にかけて西ヨーロッパのゲルマン諸部族の多くの人々がカトリックの信者となっていくようになり、そしてまたカトリック教会は東ヨーロッパに住むスラブ諸部族もカトリックに改宗させていくようになっていくのでした。
そして、このローマ教皇の現世権力として唯一保持するようになった免罪特権というものは俗世のカトリック信者を死後の魂の救済を盾にした脅迫や誘惑で動かすことが可能になり、後に十字軍の暴挙や宗教裁判や魔女狩りなどを引き起こすことにもなるのです。そして、その免罪特権の是非を巡る論争をきっかけにして後に宗教改革運動が始まり、カトリックからプロテスタント(抗議者)が分派することになるのです。ゆえにプロテスタントの教義では「煉獄」の存在は認めないのです。

それにしても、ユーラシア大陸西端のヨーロッパにおけるチャールス1世の時代というのはユーラシア大陸東端の島国日本においては桓武天皇の時代に重なり、ユーラシア中心方面発祥の世界宗教と在地の伝統宗教との習合によって宗教面での新たな展開が生じ、しかもそれが死後の魂の救済を強調していくようになり、それらが独自の文化圏形成に繋がっていくというチャールス以後の9〜10世紀のヨーロッパにおける展開は、桓武天皇以後の日本における神仏習合や阿弥陀浄土信仰の展開、国風文化の成立などとほぼ同時進行する相似形をなしており、興味深いといえます。
しかし、ヨーロッパや日本で何がどうしようとも、そんなことはアッバース革命後の8世紀後半から9世紀前半の世界においては所詮は片田舎の些事に過ぎず、当時の世界の中心はなんといってもバグダッドであり、そして長安でした。特にバグダッドこそはアッバース朝イスラム帝国の首都となり、空前の繁栄を極めることになるのです。

そのアッバース朝イスラム帝国を作った750年のアッバース革命は表面的にはアッバース家によるカリフ位の簒奪闘争でありましたが、その原動力になったのはシーア派とペルシア人を中心とした非アラブ人改宗者勢力でした。シーア派はアリー家の後継者のカリフ推戴を目指して革命に協力したわけですからアブル・アッバースの即位によって裏切られた形になり、怒ったシーア派はアッバース朝の治世下においても再び反体制派に転じることになりました。
一方、非アラブ人の改宗者勢力は待遇の改善を勝ち取ることが出来ました。すなわちイスラム教徒であれば非アラブ人であっても人頭税を取られることはなくなり、一方アラブ人でも土地を持っていれば租税を徴収されるようになり、そうして集められた租税から支払われる俸給を支給される軍人や官僚にはウマイヤ朝時代はアラブ人だけが特権的に就くことになっていたのが、このアッバース朝時代においては非アラブ人でも軍人や官僚になって俸給を受けることが出来るようになったのです。つまり、アラブ人も非アラブ人も同じイスラム教徒であれば分け隔てなく租税を徴収され、みんな平等に支配階級になることが出来るようになったのです。ここに「イスラムの平等」が実現することになり、それを基本原理とする「アッバース朝イスラム帝国」が成立することになりました。ウマイヤ朝はアラブ人のみの特権国家であったので「アラブ帝国」と呼ばれますが、アッバース朝はアラブ人も非アラブ人も問わず普遍的に「イスラムの平等」を実現したゆえ、「イスラム帝国」と呼ばれます。
アッバース家にしてみれば、もともとはこうした「イスラムの平等」の実現もまた王権簒奪のための方便でしかなかったのでしょう。王権奪取後のアッバース家の望みは王権の安定であり、そのために王権の絶対化、というかそれを通り越して「神の代理人」としての神格化を図りました。それはウマイヤ朝のあまりの世俗化に失望していたイスラム教徒たちにとって歓迎されることとなりましたが、それを具体的に実現していくためには複雑な中央集権官僚機構を構築する必要が生じ、そのノウハウは世俗化したウマイヤ朝を見本にしては得られず、ササン朝以来のペルシア人官僚組織の蓄積したノウハウから学ぶことになりました。そのために多くのペルシア人官僚が取り立てられ、彼らの望む「イスラムの平等」は実現することになったのです。「イスラムの平等」のもとでも、アッバース家のカリフは「神の代理人」として隔絶した地位に置かれることになったので、カリフとしても「イスラムの平等」に異議は無かったというわけです。こうして結果的に「イスラムの平等」が実現したためにイスラム世界の枠組みのみならず世界の枠組みまでも変わることになり、それゆえにこの王朝交替は単なる王朝交替ではなく、まさに「革命」と呼ぶに値するものとなったのです。

「イスラムの平等」の実現によってアラブ人でなくてもイスラム教徒であれば支配階級となることが出来るようになり、多彩な民族の多くの人々がイスラム教に改宗するようになりました。しかしそれらの多彩な民族が文化まで一致するということはなく、それぞれ多彩な文化を保持したままイスラム教徒となりました。すると同じイスラム教でありながら、それぞれの土着文化と習合して微妙に違ったイスラム文化が形成されるようになっていきました。アラブ人のみが支配階級であったウマイヤ朝時代であればアラブ人のイスラム文化が正統なものとされて統一されたのでしょうが、「イスラムの平等」によってどの民族でも支配階級になれるわけですから、多彩なイスラム文化が平等に許容されることになります。
こうして、イスラム教の信者が増えるにつれて、例えばイラン・イスラム文明やトルコ・イスラム文明、インド・イスラム文明のような、各地の土着文明と融合した多彩なイスラム文明が生まれてくるようになり、それらが同じイスラムの名のもとに連帯した「イスラムによる世界の一体化」が進展し、イスラム文明は多彩な文化や民族の融合と一体化が促進された「普遍的文明」となったのです。また、多彩な民族文化との融合を重んじたイスラム文明は、それゆえにイスラム教を信奉しない異教徒に対しても寛容な姿勢を示すようにもなりました。
そうなるとウマイヤ朝時代のように武力で異教徒を征服していく必要もなく、イスラム教は交易などを通じて自然に浸透していくようになります。いや、そもそもカリフの命令のもとに帝国全体が一致した軍事行動をとる時代ではなくなっていきます。辺境のそれぞれの民族がそれぞれの民族なりのイスラム文明の原理に基づいた行動をとるようになり、別にカリフの命令に従う必要も無くなってきます。カリフは確かに「神の代理人」ですが「唯一神」そのものではないわけですから、他に「神の代理人」であるカリフがいてもいいわけです。実際、後には3人のカリフが立つことになります。またカリフが統治を行うべきだとクルアーン(コーラン)に書いてあるわけでもありませんから、カリフはカリフとして尊重しておいて、現実政治における統治は各地で民族ごとに代表を決めて行ってもいいわけです。このように、カリフ自体の権威は絶対化して中央集権化は進みつつも、同時にイスラム文明の多様化の進展によって辺境における分権化の傾向は進み、その結果、イスラム文明の征服的傾向は薄らいで、融合的傾向が強くなっていきました。

そういうわけですからアッバース朝イスラム帝国の首都バグダッドは国際交易の結節点として大いに賑わうこととなりました。その交易は地中海を通じて東ローマ帝国と、内陸の隊商交易としてはサハラ砂漠を通っての内陸アフリカとの交易、そしてコーカサス山脈を越えて南ロシアのハザール王国と、また中央アジア交易路を通って唐をはじめとした東アジア世界にも及びましたが、このバグダッドという首都がアッバース朝によってわざわざチグリス河中流沿いに新たに建設されたことから考えて、その首都機能の肝はチグリス河の注ぐペルシャ湾を通ってインド洋に出る海上貿易の拠点としての機能であったことが分かります。その海上貿易の範囲は東アフリカ沿岸からインド、東南アジア、シナ南部の広州にまで達し、これらの範囲で交易を行うと共にイスラム教の布教も行ったのでした。
そしてバグダッドをはじめとしてイスラム帝国においてウマイヤ朝時代よりも更に広く深く定着するようになった官僚制や常備軍制、そして彼らに支払う給料が貨幣で賄われるほどの貨幣経済の浸透、そうした官僚・軍人・商人などの都市生活者の活動を円滑化するための個人の自由の実現など、これらに代表されるイスラム型の政治・経済・社会システムや生活様式が、この広大な交易範囲に広まることになったのでした。
また、こうしたアッバース朝イスラム帝国の全盛期は8世紀後半から9世紀前半のことになりますが、この時期にイスラム帝国においてはアラビア語の公用語化が進みました。文芸も発達し、「千夜一夜物語」、つまりアラビアン・ナイトの原型が成立したのもこの時代です。そしてこの時代の特筆すべきことは、この時期のイスラム帝国において古代のギリシャ・ペルシア・インドなどにおいて発展していた学問の文献が集められ、これらがアラビア語に翻訳されて学者らによって研究されてイスラム科学としてまとめられたことです。このイスラム科学が後に10世紀から11世紀にかけて大発展を遂げ、12世紀になってヨーロッパに伝わり近代西洋科学の基礎となるのです。それらの中には化学のもとになった錬金術や、インドのゼロの概念を取り入れた現在世界中で使われているアラビア数字なども含まれます。

さて750年のアッバース革命の達成後、747年に最初の挙兵を敢行してその後も革命の主力となった最大の功臣のアブー・ムスリムは新生アッバース朝イスラム帝国においてイラン東部から中央アジアにかけての広大な範囲を管掌することになりましたが、ほとんど独立政権のような状況であったようです。
このアブー・ムスリムの支配地の東端の地、すなわちパミール高原の西側に747年から侵攻してきていたのが唐軍で、すなわちアブー・ムスリムが挙兵して西へ軍勢を差し向けた時期にちょうど唐軍の侵入があり、それゆえアブー・ムスリムは暫く唐軍への対処が出来ない状態であったのですが、750年にアッバース革命が終了し、軍勢を東へ向けることが可能になったため、751年にアブー・ムスリムはタラス河畔に軍勢を送り、唐軍を散々に撃ち破ったのでした。
ところがこのアブー・ムスリムがあまりに大勢力となったためにアッバース家のカリフに警戒され、755年に謀殺されてしまいます。それに怒ったアブー・ムスリムの支配地の住民はアッバース朝に対して反乱を起こし、一旦は鎮圧されますが、その後もたびたび反乱を起こし、だいたい8世紀終盤ぐらいまではこの地は政情不安が続きました。
それゆえ、タラス河畔の勝利以後にイスラム勢力が更に東へ侵攻して唐帝国の西域領土を侵すという事態は生じなかったのであり、むしろ逆に唐軍がイスラム側の内紛に付け込んでパミール山脈の西に再侵攻するチャンスであったはずでした。ところがそうした事態にもならなかったのは、アブー・ムスリムが謀殺された同じ年に唐において安禄山の乱が勃発したからでした。
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この記事に対するコメント

あけおめ〜!みてみて→http://gabriel.s299.xrea.com/

【2008/01/18 02:28】 URL | かおる #- [ 編集]


セリ100g中には、カルシウム/33mg、カロチン/1300μg、鉄/1.6mg、ビタミンA/216μg、カリウム/400mg、ビタミンC/19mg、食物繊維/2.4gが含まれています http://hafnium.crosstudio.net/

【2008/11/21 12:20】 URL | #- [ 編集]



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