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日本史についての雑文その351 唐の滅亡
705年に武則天が息子の中宗に譲位して唐王朝が復活した後、中宗の皇后の韋后が国政を壟断し、武則天のように王権の簒奪を行おうとして710年には夫の中宗を殺したのですが、これを中宗の甥の李隆基が誅殺し、この時25歳の李隆基は自分の父である睿宗を皇帝として自分は皇太子になりました。この李隆基が2年後の712年に即位して玄宗となるのですから、玄宗も若い頃は英明な君主で、治世の前半は科挙合格者の集権派の新官僚たちを宰相として駆使して皇帝の指導力を発揮して「開元の治」といわれる唐の絶頂期を演出し、節度使の制度を整備して北方辺境の交易路も確保しました。
この頃の節度使は万里の長城の外のものは武人や異民族出身者を起用することになっていましたが、万里の長城の内側のものは朝廷の文官が起用されることになっていました。実質的に辺境の異民族と戦うのは前者の長城の外のほうですから戦闘に長けた武人貴族や異民族出身者がそのエリアの節度使に任じられるのは道理であり、彼らは分権派で中央政府に対して独立的傾向が強いので、それに対する抑えとして長城の内側には集権派の新官僚勢力の者を節度使に任じていたのです。このように玄宗の治世の前半においては集権派を中心として、分権派を上手く制御していたといえます。
ところが737年に玄宗のお気に入りの妃が死んでしまい、新たに楊貴妃を後宮に入れたところ、玄宗は愛欲に溺れて政務を見なくなってしまい、宰相の李林甫が国政を壟断するようになりました。李林甫は皇帝一族と同族の李氏で、典型的な鮮卑貴族で分権派ですが、とにかく権力欲が強く、楊貴妃の親族で鮮卑貴族の楊国忠と結託して、「開元の治」を行っていた集権派の新官僚たちや豪族たちを左遷してしまい、更に新官僚勢力の出世を妨げるために彼らの出世コースになっていた長城内節度使の職に異民族出身者をあてるように制度改正を行いました。
これによって節度使は全て分権派が占めるようになったのですが、その中でも特に勢威を誇ったのが李林甫に取り入って10の節度使のうち3つの節度使を兼ねるようになり、北方で独自の行政権と18万の兵力を持つようになった西域出身の異民族軍人の安禄山でした。安禄山はもともと商才に長けた人で西域交易に関わる官職から出世したのですが、分権派の中でも旧来の鮮卑貴族よりもこういう人物のほうがのし上がってくるようになるということは、それだけ西域交易の規模が拡大していたということであり、それはつまり8世紀に入って地球気温が最低レベルから上昇し始めてシナ世界の生産量や流通量が増え始めていたということを意味します。
752年に李林甫が死ぬと、楊国忠と安禄山が結託して李林甫の勢力を駆逐して、その後は楊国忠と安禄山が主導権争いを始めましたが、楊国忠が玄宗に安禄山に謀反の疑いがあると讒言したため、それに危機感を覚えた安禄山が755年に挙兵して、翌756年には皇帝を称して長安を陥れ、玄宗は四川省へ逃れ退位して代わりに息子の粛宗が即位して反乱軍鎮圧の指揮をとることになり、楊国忠や楊貴妃は逃走の途中で殺されました。反乱軍のほうは長安奪取後すぐに内部分裂を起こし、安禄山は息子に殺害され、その腹心の史思明は離反し、757年にはモンゴル高原の遊牧民ウイグルの援軍を得て唐軍が長安を奪還しますが、759年には反乱軍は史思明を皇帝に擁して洛陽を根拠地として各地で依然として兵力を維持し、761年に反乱軍の内部分裂で史思明が殺されると唐軍は攻勢に出て、763年には反乱軍をだいたい鎮圧しました。これが「安禄山の乱」、あるいは一般には史思明も加えて「安史の乱」といいます。こう見ていくと分かるように、反乱鎮圧は唐軍の実力によるものではなく、反乱軍の内部分裂による自滅と、ウイグルの援軍の力によるものが大きいといえます。それらが乱後の状況に影響していきます。

この反乱の結果、分権派の大物であった安禄山や楊国忠は滅びましたが、かといって中央集権が進んだかというとそういうわけでもなく、まず8年間にも及ぶ内乱によって唐朝の威信は大きく傷つき、しかも反乱軍の内部分裂を図るために反乱軍から唐軍への寝返り分子を裏切りの見返りに節度使にどんどん就任させていったため、北方辺境だけでなく唐の領土のほぼ全域にわたって節度使が乱立する状況となり、しかもその節度使に就任した者達はもともとは安禄山らと反乱軍に加わっていたような者達でしたから、唐内のあちこちに半独立の軍閥のようなものが出来てしまうことになり、中央集権どころではない状況になったのです。つまり分権派優位の状況になったわけですが、だからといって旧来の鮮卑貴族がその担い手であったというわけではありませんでした。
貴族層はまず武則天の時代に官職の一定分を科挙で選ばれた新官僚に奪われていました。そして、律令制というものの実態は皇帝の下に人民を隷従させておいて貴族だけはその隷従から外れた特権的地位を保障することによって相対的に人民に対する貴族の優位を維持するシステムになっていたのですが、その律令制が8世紀に入ってから揺らぎ始めていたのです。
律令制の二本柱は府兵制と均田制ですが、まず府兵制が7世紀末から8世紀初頭の時点で武則天によって崩壊させられており、その代用物としての8世紀以降の節度使制は貴族の軍事への関与を府兵制の時ほどには満足させるものではありませんでした。それは、節度使が異民族出身者にも門戸が開かれており、安禄山のように異民族出身者のほうが勢威が盛んであったからでした。何故なのかというと、8世紀以降の温暖化への転換によって生産力と流通量が増えており、商才のある異民族出身者のほうが抜擢されることが多かったからです。もちろん貴族にも商才のある者もいましたし、逆に異民族出身者でも商才の無い者もいましたから一概にそうも言えないのですが、現実に10個の節度使のうち3個まで安禄山が占めており、その安禄山の反乱に従った者達も異民族出身者が多く、その連中が裏切りの報酬で新設の全国各地の節度使に就任していったのですから、乱後の節度使の増加は貴族勢力の伸張には全く結びつかなかったのは事実です。そもそも鮮卑系の貴族勢力の権力の源泉は北方遊牧民の部族社会なのですから、それと縁の無い南方の地などで節度使になどなっても貴族として勢力を維持することは出来ないのです。

いや、そもそも8世紀以降の温暖化の開始が律令制のもう1つの柱である均田制を突き崩していったのでした。シナ律令制においては農民は一律に支給される耕作地以外に一定量までの私有地を開墾して持つことが出来ていたのですが、これは律令制が確立された6世紀後半から7世紀までは地球が寒冷化していたために耕作可能地自体が少なく、農民にも余裕が無く、名目だけの規定になっていました。しかし8世紀になってやや温暖化傾向になると実際に開墾によって私有地を持つようになる農民が増えてきました。
しかし農民としても政府に納める租税分や自分達が食べる分の収穫は支給田のほうで事足りていますから、私有地のほうの収穫は余剰となり、余剰分は流通路に回して別の品物と交換しなければ意味がありません。つまり私有地の開墾によって生産量が上がれば流通量も連動して増えるのです。しかしそういった余剰生産物を流通路に回して品物と交換するような業務は、個々の農民が農作業の傍らでやるよりも、一括してそれを専門に行う者に任せたほうが効率的です。そこで余剰生産物を生み出す私有地そのものを一括して預かって、そこから上がる余剰生産物の流通業務を一手に引き受ける業者が生まれて、それが更に発展して、その業者が農民達から私有地そのものを買い取って、農民達は土地の代金を得た上でその土地の小作人としての報酬も得るようになっていったのです。そしてその業者は地主となり、その土地の生産物を私物として流通路に乗せて商売していくようになったのでした。こうした流通の発達を更に促進したのが隋の時代に作られていた北京から広州まで繋がる大運河でした。
このようにして8世紀に入ると新興地主層が生まれてきて、温暖化が進むにつれてその経営規模を大きくしていき、流通量も増やしていき、財産を膨らませていきました。ところが律令制の税制は財産の多寡は問わず一律の租税を課す人頭税方式でしたから、こうした新興地主層も普通の農民も個人として同じ分の租税しか負担しないことになっており、結果的に多く稼いでいる地主層のほうがますます財産を増やしていくということになりました。
しかしそうなってくると真面目に支給田を耕して租税を納めている農民は馬鹿馬鹿しくてやってられないわけで、租税を払わなくて済むように戸籍を離脱して逃亡する者が増えてきました。7世紀まではそんなことをしたら生きていけなくなったものですが、8世紀になると新興地主層のところに逃げ込んで土地を売り払い小作人になれば生きていけるようになったので、逃亡農民が増えたのです。
しかし逃亡農民は犯罪者ですから、そんな犯罪者を匿ったりしたら地主も罪に問われるのではないかと思われるかもしれませんが、なかなかそうはならないのです。新興地主層は貯め込んだ財産を使って子弟に教育を施して科挙を受験させて官僚にしていったからです。科挙に合格するためには長期間にわたって勉学に集中できる環境や書物を購入する財力が必要で、普通の農民などにはそんな余裕は無く、また貴族の子弟は科挙など受けませんでしたから、自然に科挙合格者は新興地主層の子弟ばかりになり、新興地主層と新官僚層が重なるようになっていきました。つまり逃亡農民を取り締まる官憲が新興地主層と癒着しているような状況となったので、逃亡農民は平気で新興地主層の小作人になれたのでした。こうしたことだけではなく、新興地主層は官僚としての特権を利用して更に財産を積み上げていき、豪商や富農のような存在になっていくものも現れました。
しかし、このように戸籍を離脱して逃亡する農民が増えてくると均田制は維持できなくなってきて、政府への租税収入も激減することになります。結局、律令制というシステムは地球が寒冷化して生産性が極めて低い時代に限られた国力を総動員するために編み出された兵営国家システムなのであり、地球が温暖化して生産性が上がって余剰の生産物や土地が流通ルートに乗るような時代には対応できないシステムであったといえるでしょう。
そのように律令制が機能不全になって、律令制によって一律に皇帝に隷従させられていた人民の間に格差が生じて新興地主層や市民経済が勃興してくるようになると、相対的に特権階級としての貴族層の優位性は崩れていきます。もちろん貴族層も私有地や私有民を持つことを許されていましたので、逃亡農民は貴族層のところへも逃げ込んだことでしょうし、貴族層もそれを積極的に受け入れて勢力の拡大を図ったことでしょう。そうなると貴族層と新興地主層のどちらが拡大する流通経済の中で適応力があるのかという勝負ということになってきます。
ただ、こうした大土地所有を進めようとする者にとって、形骸化しつつあったとはいえ、それでもやはり均田制というものは障害となっていたのであり、その均田制は主に華北で施行されており、華南ではあまり施行されていませんでした。つまり華南では大土地所有を目指す動きには大きな障害は無くスムーズに進められたのであり、華北ではそれほどスムーズではなかったということになります。そして華北は貴族勢力の地盤であり、華南はどちらかというと新興地主層の地盤であったので、そういう点でも新興地主層のほうが有利な状況であったといえるでしょう。また、そうして華南のほうがスムーズに大土地所有を進められたということは、その分経済が活性化したということであり、それがまた新興地主層を豊かにしていったという好循環を生んだとも考えられます。

これらの状況が8世紀前半に進行していたところに755年に安禄山の乱が勃発したのですが、安禄山の乱はそうした既に始まり進行していた状況を更に大きく促進させるきっかけになったといえます。まず8年間にわたる内乱によって中央政府が機能不全となったために、既に形骸化しつつあった均田制の崩壊が一気に進行し、農民への耕作地の支給がほとんど出来なくなりました。それによって租税収入が激減し、それでいて反乱鎮圧の戦闘を続けるためには税収を確保せねばならず、苦肉の策として乱の最中の758年に塩と鉄の専売制を開始し、塩と鉄の生産販売は登録制として多大な税がかけられることになりました。しかしそれだけでは税収不足は解消せず、乱終結後、780年には律令制の一律の人頭税方式を廃止し、財産に応じて租税を徴収する「両税法」という方式に切り替えました。これは言い換えると大土地所有の公認であり、均田制の放棄でした。ここで律令制は実質的にほぼ崩壊したのです。
こうなると、貴族層も新興地主層もあからさまな土地争奪合戦や経済戦争を繰り広げることになるのですが、安禄山の乱は全国で戦闘が繰り広げられたとはいえ、その主戦場はやはり華北であり、その分、8年間の内乱による華北の荒廃は深刻で、華北経済は華南経済に遅れをとることになりました。
また、反乱鎮圧のためにモンゴル高原のウイグルの援軍を要請したため唐に対するウイグルの外交的優位が確定し、西域交易路をウイグルに支配されてしまうようになり、唐は世界帝国の地位を失ってしまいました。これによって西域交易路を通る唐の隊商はウイグルに一種の通行料を支払わねばならなくなり、貿易赤字が膨らむことになり、その赤字分を埋めるために国内でまた増税をするという悪循環に陥っていきました。そうした悪循環を少しでも減らそうとするとなると、西域交易での赤字を別の方面の交易の黒字で埋めるということになるのですが、当時の世界情勢から言ってそれはやはり西域交易と同じイスラム帝国との交易でなければ赤字分を埋めるだけの黒字を生み出す可能性はありませんでした。そこで西域の陸路が駄目なら海路でイスラム帝国と連結するしかないわけで、ちょうどアッバース革命を終えたイスラム帝国が交易船団をバグダッドからインド、東南アジアを経て華南の広州までやって来るルートを開拓していましたので、広州を窓口にしたイスラム商人との交易が始まり「海のシルクロード」が開かれたのです。
するとシナ各地の物産は各地の細かな水路から最終的には大運河に入り広州に運ばれてイスラム商人に渡されることになり、またイスラム商人が持ち込んだ舶来品は広州でシナ商人の船に積み替えられて大運河を北上して黄河中流の開封まで運ばれ、そこから黄河を遡って長安まで運ばれるということになります。このような流通形態が出来上がると華北よりも華南の経済のほうがますます活性化するようになり、そうなると華北においては首都の長安よりも華南と直結した開封のほうがいつしか重要となっていき、唐の中心都市は開封になっていきました。
しかしこのように華南経済のほうが活性化してきて、華北においても内陸との繋がりの深い長安よりも華南との繋がりの深い開封のほうに重心が移っていくようになると、華北の内陸部を地盤とする鮮卑貴族勢力の力は低下するようになっていき、華南を地盤とする新興地主層に押されるようになっていきました。その上、安禄山の乱の後は節度使勢力という分権派の新興勢力が全国に展開するようになり、新興地主層と張り合って土地や財産の集積を始めるようになり、そうした新興勢力同士の争いの中で貴族勢力は埋没していくようになりました。こうした時勢の影響で科挙を受験する貴族も出てきましたが、これは貴族としての特権の放棄であり、特権あってこその貴族ですから、生まれ育ちは関係なく、こういうものはもはや貴族ではなく、貴族は消滅へ向かって進みだしていきました。
隋や唐のような第二次シナ帝国を作ったのは華北の鮮卑人の貴族勢力であったのですが、それは地球寒冷化時代に対応したシステムを備えた帝国であり、地球寒冷化が緩み温暖化が開始されると新たな経済体制が勃興してきて第二次シナ帝国のシステムはその変化に対応できなくなり、新しいシナ帝国の在り方を模索して新興勢力が勃興してきて貴族勢力は没落していくことになったのです。それにつれて安禄山の乱以後は貴族を中心とした鮮卑人の部族社会が解体していくようになり、シナ人と混じり合うようになり、混血の結果、新たなシナ人が生まれてくることになります。この新たなシナ人社会をまとめていくシステムこそが第三次シナ帝国のシステムとして立ち現れてくることになるのですが、その原型は既にこの時期には現れてきつつありました。

安禄山の乱の勃発時に玄宗に代わって即位した粛宗は乱が終息しないうちに没し、その子の代宗の時代は乱を終息させて後始末に追われ、また均田制の崩壊期にあたり、その子の徳宗が779年に即位して翌年に両税法を施行して律令制に見切りをつけた頃から新たな社会システムの模索が本格化することになります。この頃にはイスラム商人は広州に現れて交易を開始しており、アッバース朝イスラム帝国は全盛期を迎えていました。この新たに世界の中心的大帝国として勃興してきたイスラム帝国のシステムを、律令制という古いシステムを捨て去ったばかりの新たなシナ人たちは、新たなシナ帝国のシステムのお手本としようとしたのです。
ただ、安禄山の乱の後、辺境の防衛が弱体化したためにウイグルや吐蕃などに押し捲られるようになった唐においては、かつての世界帝国の時代とは違い、その担い手が鮮卑人から儒教経典を丸暗記して科挙を突破してきたシナ人中心に変わりつつあったというのもあり、シナ中心の国粋主義的風潮が高まり、武帝の確立した第一次シナ帝国の儒教的華夷秩序の世界観が復活してきていたので、イスラムの平等に基づいた融合的文明原理は定着することはなく、イスラム帝国における中央集権官僚制や常備軍制、都市における貨幣経済のみがお手本とされ、それらがシナ帝国の原理と習合していくことになったのでした。あるいはイスラム文明における「融合性」というものが伝播力を上げる作用はするが、その多様性を許容する「寛容さ」が帝国を統合していく力は低くするということに何となく気づいていたのかもしれません。
そうした新たに目指されるべき統治体制の最重要の担い手は都市における貨幣経済の担い手であると同時に官僚の供給源でもある新興地主層でした。しかしこの新興地主層はイスラム帝国における商人層とは違いイスラム教徒ではありませんから「イスラム共同体」という個人の自由を尊重して交易を円滑化させる共同体を持つことが出来ませんでしたから、その代用として儒教原理に基づいて同一の父系血族の繋がりで結びつけた商売のための相互扶助体制を作って広大なシナ世界における流通網をカバーして中央政府や節度使らの過酷な収奪に対抗して没落を防いでいくようになったのです。これが「宗族」という名の同族間の相互扶助のための結合なのです。

いや、厳密に言えば「宗族」という父系同族集団というものはもともとシナ人社会において同族同士の観念的結合として古来から存在していたのですが、それを商売上の相互扶助組織として活用し始めたのが唐末の新興地主層であったということになります。この「宗族」というものは日本人には理解が難しいが、それはシナ人独特の宗教観に基づくものだからです。
シナ社会にはもともと祖霊信仰があり、それが発展して儒教が生まれたのですが、「宗族」というのはその宗教観に基づくものです。日本にも弥生時代にその祖霊信仰は入ってきて、それが日本古来の自然神や精霊への信仰や農耕神信仰と合体して神道となったのですが、その際に毎度毎度の日本の外来思想受容のパターンですが、その祖霊信仰は作り変えられたものとなったので、日本にはそのシナにおけるオリジナルの祖霊信仰の姿が残っていないのです。
つまり、日本においては一般に人間は死ぬとその魂は肉体を離れると考えられますが、これは人間の霊魂と自然神や精霊が一体化するという考え方に基づくもので、自然神信仰と祖霊信仰の合体宗教である神道ならではの考え方といえます。このように肉体から魂が分離するという考え方が根底にあるので、死者の魂が「あの世」に行くという仏教的考え方も容易に受け入れられたのです。しかしシナにおける純粋なる祖霊信仰においては死者の霊魂は死体から離れずこの世に留まり続け、食事もするので、男系の血を引いた子孫が祭祀をして食事の世話を続けなければならず、それを怠ると先祖の霊は餓鬼になってこの世を彷徨うのだということになっています。
どうしてそんなことになるのかと言われても、昔からそういう信仰が存在するのだから仕方ないとしか言いようがありません。とにかく、こういうわけでシナ社会においては先祖の霊への祭祀は絶対に絶やしてはならず、その祭祀はその先祖の血を男系で引き継いだものでなければならないのです。だから他の一族から養子を取ることは出来ないし、この男系は本当に純粋に男系でないといけないので同族の血でも女系の血は混じってはならず、だから同族内での結婚は禁止ということになります。どうしてそうであるのかと言われても、これもそういう教義なのだから仕方ないとしか言いようがありません。そうして他の一族から嫁を迎えて一族の男系の血統をとにかく本家に引き継いで、本家の跡取りがその一族の先祖の祭祀を責任を持って行っていくのであり、もし本家の男子の跡取りが途絶えたら分家の男系の血を引く男子を本家の養子にすればいいわけです。
そうやって血族による祭祀を継続していくために、そしてそれは厳密な血統のルールに基づいて間違いが許されないために、一族の血縁的な関係が確認できる記録が厳密に書き記されることになります。これが「族譜」というもので、この「族譜」に記されたメンバーが「宗族」のメンバーということになります。
そして、こうした「宗族」による祖霊祭祀はもともとは同一地域に集まって暮らす氏族共同体において行われていたのですが、戦国時代においてそうした地域共同体としての氏族共同体が解体すると、「宗族」はバラバラに暮らすようになりました。しかしそれでも祖霊祭祀は絶やしてはならないので、本家の族長を中心に「宗族」の観念的結合は維持され、「族譜」は記録され続けていったのでした。実体としての氏族共同体は消滅したのですが、「族譜」の上にのみ確認される一種のバーチャルな共同体として「宗族」は継続したのです。こうして「宗族」のネットワークはシナ世界の広域にわたって広がることになり、この唐末の時代になって新興地主層がその「宗族」のネットワークを同族内の相互扶助組織として活用するようになったのです。
つまり、例えば「王」という一族の「宗族」において、広州で交易に携わる「王」さんもいれば、揚州で地主を営む「王」さんもいて、彼らは同じ「宗族」ですからお互いに損をしないように取引して利益を上げていき、また蘇州にいる「王」さんは貧乏だが、儲けている広州の「王」さんの援助で勉強して科挙に合格して官僚になり、その特権を使って広州の「王」さんの商売の便宜を図って恩返しをし、また官僚としてのキャリアの中で特権などを使い財産を貯め込み、その財産でまた別の「王」さんの商売や勉学の援助を行って「王」という「宗族」のトータルの利益を維持していくようにするのです。

「シナ帝国」という形で広大で雑多でバラバラなシナ世界を統一的に統治していくためには中央集権体制しかあり得ないのです。それは始皇帝の統一事業によって答えは出ているのです。しかしそうして出来上がった第一次シナ帝国は皇帝のみが君臨し他は全員が奴隷という、あまりに極端な体制であり、武帝によって儒教的正当性は加えられたりしましたが、それでもやはり権力の分け前にあずかりたい人々が「分権派」を形成し、常に中央集権体制を突き崩そうという行動をとるようになり、それに対抗する「集権派」との抗争がエスカレートして、最終的には第一次シナ帝国は空中分解して、始皇帝以前の分権状態に戻ってしまったのでした。
その分権状態のシナを、分権状態の鮮卑族が征服し、鮮卑族が自分たちの分権状態を維持しながらシナを統治しようとして作り出した制度が律令制で、その律令制に則って作られたのが第二次シナ帝国でした。しかし経済発展によってそのシステムが破綻し始め、やはりシナ世界を集権的に統治していこうという動きが生じてきました。しかしそうなると、また第一次シナ帝国の時と同じように「集権派」と「分権派」の争いが繰り広げられることになるわけで、その行き着くところはまた空中分解となります。
そうした歴史を繰り返さずに中央集権体制を安定化するためには、中央集権体制の下においても権力の分け前を求める人々の不満が蓄積しないような統治手法が必要となってきます。そこで、イスラム帝国に倣った中央集権官僚制の商業国家において、統一シナにおける商業活動によって利益を得つつ、科挙官僚を輩出することによって不定期に権力の分け前に与り、それでいて世襲的にその権力を維持するわけでないので究極的には皇帝専制体制を損なうことはない「宗族」という民間の利権集団の単位が細胞のように集まって皇帝専制権力に寄生しつつ、同時にあくまで統治側ではなく被統治側にあり続けるという体制を確立することによって、中央集権体制に対する強力な分権派の不満が生じる余地を少なくして中央集権体制を恒久的に安定化するという方向性が生じたのです。これが第三次シナ帝国の国家体制の原型となります。つまり皇帝独裁官僚体制と宗族による国家への寄生体制は表裏一体の関係となるというわけです。

ただ、こうした「宗族」ごとのブロックによって構成される新興地主層(官僚層)を基本とした中央集権的な統治体制作りを阻害する要因がこの唐後期の時代には多く存在し、この新たなシナ帝国のシステムはなかなか上手く構築されていきませんでした。まず、地球温暖化がまだ十分なレベルにまで達していなかったので経済発展が十分ではなかったことと、経済発展によって貨幣経済が求められても貴金属資源が不足していたので貨幣供給量が足りない状態となり貨幣経済が完全には成立しなかったことも大きな要因でした。
そして粛宗が宦官に擁立されたという事情もあり、粛宗の治世以降は朝廷において宦官の専横が甚だしく、それによって国政が乱れて政府の威信が低下し、中央集権化の進展を阻害したということもあります。中央集権化を進めるには皇帝権限を強化しなければいけないのですが、皇帝と宦官は不可分の関係ですから、皇帝権力を高めると宦官の権力も大きくなり、宦官の権力を削ぐと皇帝の権力も低下するという、何ともいえない複雑な事情があり、宦官の専横がなかなか抑えられない状況でありました。
また、新興地主層が中央集権化によって全国の流通網を一本化して流通を円滑化することで利益を得ようという立場であったのに対して、節度使勢力は各地の利権を独占することによって利益を得るというスタイルでありましたから、中央集権化は歓迎せず、そうした流れには抵抗し続け、その実力を背景に節度使の地位の世襲化を強引に政府に認めさせ、自立傾向を強めました。また、官僚層もそうした困難な状況の中で政策の違いから党争に走りがちになり、分裂抗争を繰り返していたという事情もありました。
こうした膠着状態の中で805年に即位した憲宗は皇帝直属軍を強化して反抗的な節度使を討伐して、そうした軍事的勝利を背景に節度使の権限を縮小し、その任期も短縮化して、節度使の統制に成功しました。これで一時期、皇帝権力が強化されましたが、皇帝権力が強くなると宦官の専横も激しくなり、それを抑えようとして宦官の誅殺を目論んだ憲宗は820年に逆に宦官に暗殺されてしまい、その後は宦官の専横は抑えられなくなり、皇帝は宦官の傀儡のような存在になり、主体性を発揮することは無くなり、節度使は再び自立傾向を強めて、支配地で徴収した租税を中央へ送らないことも多くなり、政府の財政は逼迫しました。
そうなるとその穴埋めのために政府は専売制で管理する塩や鉄にかける税率を上げていくようになり、特に人間が生きていくために不可欠な塩に法外に高い税をかけることは人民の反発を招き、塩の密売が公然と行われるようになり、政府の取り締まりに対抗するために塩の密売業者は武装化するようになり、また民衆の支持も得て大きな勢力になっていきました。
また、憲宗の時代に政府が節度使の統制にある程度成功したことにより、官僚が節度使に就任してその権限を使って支配地で搾取を行い財産を貯めこむようにもなり、これによって利権を奪われた在地の軍閥勢力の反発を招き、その兵士たちが官僚節度使の更迭を求めて反乱を起こすようになり、やがてこうした兵士たちの反乱に圧制に苦しむ農民も加わるようになり、いつしか農民反乱のほうが主体となっていき、850年代以降は農民反乱が各地で頻発するようになりました。

そして874年に王仙芝と黄巣という塩の密売商人が数千人の兵を率いて河南省で挙兵し、これに唐全土の塩の密売商人の勢力が呼応して挙兵して全土は大混乱に陥り、王仙芝と黄巣は各地を転戦し、王仙芝は878年に討ち死にしますが黄巣は880年に長安を陥落させ、唐の皇帝の僖宗は蜀に逃れ、黄巣は長安で皇帝を自称して略奪の限りを尽くして唐の高官を大量に殺戮しました。黄巣は部下の朱全忠の裏切りによって長安を追われ884年に滅び、黄巣の乱は収まりましたが、その間に唐は全国支配を行う能力を喪失して長安周辺のみを支配する一地方政権になり、各地の節度使などの軍閥勢力や塩密売人の残党らは完全に自立して群雄割拠の様相を呈するようになっており、事実上、第二次シナ帝国としての唐帝国は滅び、戦乱の時代である五代十国時代が始まっていました。
その後は、黄巣を裏切った塩密売人の朱全忠と黄巣を討ち取った突厥人節度使の李克用とが地方政権としての唐王朝の主導権争いを繰り広げ、それに勝利して実権を握った朱全忠によって907年に唐王朝は簒奪されて最後の皇帝も殺害され、ここに完全に唐は滅びたのでした。
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【2008/11/19 11:48】 URL | 57 #- [ 編集]



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