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日本史についての雑文その352 中世の始まり
紀元前2000年ぐらいに始まったシナ文明は、夏・殷・周の約1200年間の黄河中流域を中心とした商業都市連盟の時代の後、春秋・戦国の約550年間の戦乱の時代の中で都市国家同士の争いを経てシナ人の居住するシナ世界を万里の長城以南、長江中下流域以北という範囲まで拡大していき、7つの王国が群雄割拠する状況へ収斂し、最終的には秦王国が他の6王国を併呑して、紀元前221年に秦・漢・新・後漢・三国・晋というふうに537年間続く第一次シナ帝国の時代の幕を開きます。
第一次シナ帝国は、夏殷周の時代に比べて遥かに拡大した種々雑多なシナ世界において統一した商業網を維持していくためには1つの中央集権的な専制権力による統治を実現するしかないという思想に基づいて秦の始皇帝によって創始されたシナ人による帝国ですが、シナ人の中にはそうした集権化を歓迎しない勢力も根強く、第一次シナ帝国は集権化傾向の強い時期と分権化傾向の強い時期を交互に繰り返していきました。その過程で紀元前2世紀にはシナ帝国を支える政治思想としての儒教的徳治思想とそれに基づく華夷秩序思想が確立され、また1世紀にはシナ帝国を中心とした国際社会体制としての冊封体制と朝貢貿易体制というものが生まれ、次第にシナ帝国の特性が明確になっていきました。しかし最終的には集権派と分権派の争いが頂点に達して第一次シナ帝国は2世紀終盤に破綻し、戦乱と寒冷化による飢饉の中でシナ人は人口を激減させてほとんど絶滅状態になり、五胡といわれる北方から侵入した複数の異民族によって316年に晋帝国が滅ぼされたことにより、第一次シナ帝国の時代は完全に終わりを告げます。
その後、シナ人の生き残りは多くが華南に移住していき原住民と混血していき、その混血シナ人の居住地は南シナ海方面にまで広がりました。そこで彼らは東晋王朝を建て、その内実はシナ帝国とは全く異質な貴族制国家でしたが、当時の東アジアにおいてはシナ帝国思想以外に国家思想と呼べるようなものは皆無であったので、統治の建前としてのシナ帝国の思想は引き継がれていきました。一方、華北は五胡といわれる北方異民族の部族集団が相争う状況となりましたが、それが幾つかの有力国に収斂され、また東晋とも争うようになってくると、やはりシナ帝国思想を建前とした貴族制国家となっていきました。そうした貴族制の諸王朝が華北と華南で王朝交替を繰り返しつつ相争う戦乱の時代が、316年の晋帝国滅亡以降、五胡十六国・南北朝の273年間続くことになります。
そうした中も寒冷化は更に進んでいき、6世紀に華北の五胡の一派の鮮卑人の諸王朝において寒冷化による低生産社会において国家の強大化を図る体制として律令制という、貴族制と中央集権制を折衷した軍国動員体制が形成され、これによって強大化した華北の鮮卑人王朝である隋が589年に華南のシナ人王朝を滅ぼしてシナ世界を統一し、シナ帝国的な国家思想を建前としつつ、実際は律令制によって鮮卑貴族がシナ人を支配し、同時に北方遊牧民の盟主も兼ねるという、第一次シナ帝国とはかなり異質な貴族制の世界帝国としての第二次シナ帝国を創始しました。
この第二次シナ帝国は隋が短期間で滅んだ後、唐に受け継がれ、8世紀前半に最盛期を迎えますが、この頃には地球気温は温暖化に転じており、寒冷期適応型の制度である律令制は破綻しつつあり、シナ帝国的な国家思想を現実に安定的に支えていく新たな国家制度が模索されるようになりました。755年に勃発した安禄山の乱はそうした変遷の分水嶺となった出来事で、この乱以降は律令制は一気に形骸化し、それに伴って貴族層は没落して華北の鮮卑人をはじめとする五胡と華南のシナ人が交じり合い新たなシナ人が形成されるようになり、その中で新たに勃興してきた新興地主層が宗族単位で広域的な商業活動を行いつつ科挙官僚の供給源となるという、中央集権官僚制を利用して宗族単位で適度に利権を分配するシステムを作ることによって中央集権官僚制の上に乗っかった皇帝専制体制を安定化するという新たなシナ帝国の制度が形成されていきました。

第二次シナ帝国というものの期間は589年の隋によるシナ統一から874年の黄巣の乱勃発までの285年間ということになりますが、それは755年の安禄山の乱勃発を分水嶺にして前期と後期に分かれ、前期の166年間は律令制が機能していた期間で、鮮卑人による貴族制の世界帝国という特色を持ち、後期の119年間は律令制が機能しなくなり、新生シナ人によって新たな中央集権制商業国家としてのシナ帝国が志向されていった時代だといえます。
こうした後期における変化がスムーズに進行していけば、このまま第三次シナ帝国に直結して移行していった可能性は高く、そうなればわざわざ第二次と第三次のシナ帝国を分ける必要も無かったかもしれませんが、実際には安禄山の乱の際に生じた、宦官の専横や節度使の強大化というような負の遺産が第二次シナ帝国後期に増幅されていき、それらを解決することが出来なかった唐帝国は最後は874年の黄巣の乱の農民反乱で実質的に滅亡し、その後は節度使や反乱軍残党らが軍閥となって各地に割拠する五代十国の戦乱の時代が979年の宋によるシナ再統一まで105年間続くわけですから、明らかに第二次シナ帝国と宋以降の第三次シナ帝国は別物ということになります。
第一次シナ帝国は皇帝独裁体制を標榜しつつも実際には明らかに権力者としての貴族や豪族が存在していた時代であり、世界の他の文明地帯にも同時期に存在していたものと同じような、典型的な古代帝国でした。しかし宋以降の第三次シナ帝国になると貴族や豪族というような階層は存在せず、権力は皇帝に集中し、その手足となる官僚を構成する地主階級が一時的な利権享受者として存在するのみという体制になります。これは明らかに第一次シナ帝国とは異質な国家体制であり、第一次シナ帝国が古代帝国であるとするならば、第三次シナ帝国は中世帝国と呼ぶべきものでしょう。
ならばその中間に位置する第二次シナ帝国というものは、古代から中世への過渡期の帝国というべきものであり、古代と中世の架け橋的存在の帝国であったと考えるのが適当でありましょう。第二次シナ帝国の前期は古代帝国に近く、後期は中世帝国に近いともいえます。どうして第二次シナ帝国のような過渡期的存在が必要とされたのかというと、それはおそらく第一次シナ帝国末期に元来のシナ人がほとんど絶滅してしまったため、混血によって新たなシナ人を生み出すためにシナを統一支配する帝国がひとまず必要であったからでしょう。そしてその新たなシナ人によって次の第三次シナ帝国が生み出されるという、段階を踏んだ変化が必要だったのでしょう。

しかし、それにしても何故、第二次シナ帝国はそのままスムーズに第三次シナ帝国に移行せずに五代十国時代という100年余りの戦乱の時代を挟むことになったのでしょう。確かにこの五代十国時代における徹底的な下克上によって旧来の貴族層などが完全消滅することになったのは第三次シナ帝国の体制形成にとっては有利な条件とはなりましたが、それはあくまで結果論であり、五代十国時代の諸国家の体制は完全なる分権的な軍閥政治であり、シナ帝国の思想とは全く逆方向を向いたものでした。だからそのまま分裂状態が続き、シナ帝国が生まれなかった可能性もあるわけですから、五代十国時代というのは第二次から第三次のシナ帝国への移行においてはイレギュラーな出来事であったと見たほうがいいでしょう。
何故、そういったイレギュラーな事態が生じたのかというと、第二次シナ帝国の後期において安禄山の乱以降の負の遺産の解決に失敗したからであるということになりますが、では何故失敗したのかというと、それは宦官の専横はともかくとして、節度使の自立傾向を抑えることが出来れば何とかなっていたであろうところに、結局は節度使の自立傾向に歯止めがかけられなかったからです。
それは唐帝国の当局の不手際によるものばかりではないでしょう。節度使そのものを討伐して抑え付けても、当局に従順な人間を節度使に任命しても、結局は各地の軍閥勢力を構成する兵士達をコントロールすることが出来ず、すぐに下克上を起こされてしまうのです。つまりそれだけ各地方の軍閥勢力が力をつけてきていたということで、これは唐帝国当局の不手際というよりも、そういう時代であったということなのでしょう。
つまり、温暖化の進展に伴って各地方の経済力が上昇して、地方勢力が勃興して世界は複雑化しようとしていたということであり、第二次シナ帝国が9世紀末に解体していったのも、そうした潮流に沿った出来事であったのです。そしてそうした潮流が唐帝国において明確な形になって現れたのは9世紀中頃に地方軍閥の兵士達の反乱が頻発するようになり、それが農民反乱に結びついて大きなうねりに成長し始めた頃ですが、この頃には地球温暖化傾向はもはや明確となっており、世界各地で同じように地方勢力の勃興による世界の複雑化が開始され、その後、温暖化がピークを迎える13世紀中頃にモンゴル帝国による世界帝国の建設によって一旦収斂されるまで、古代帝国時代のシンプルな世界観から見比べれば世界が一変するほどの複雑化を達成することになるのです。この9世紀中頃から13世紀中頃に至る世界的潮流の一環として、シナにおける五代十国時代の分裂状態を見ることも出来るのであり、その後の宋帝国成立以降の東アジアの国際社会も見ることが出来ます。そしてその中には日本における独自文明の成立も含まれているのです。

8世紀の世界において中心都市といえたのはアラブ帝国の首都ダマスカス、イスラム帝国の首都バグダッド、そして唐帝国の首都の長安ですが、この3つの都市は共にほぼ北緯35度のライン上に位置しました。ちなみに日本の平城京、新羅の首都の金城もほぼ北緯35度線上にありました。イベリア半島の後ウマイヤ朝の首都コルドバは北緯38度付近、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルと西ヨーロッパの求心的存在であったローマでもせいぜい北緯40度線を少し北に越えた位置でした。
だいたい8世紀以前においては世界の文明国家は北緯20度線以北、40度線以南のエリアに集まっていたといえるでしょう。北緯20度線あたりに存在したのは台湾島、海南島、南北インド境界部、メッカなどであり、北緯40度線あたりに存在したのは日本の本州北端、万里の長城、タリム盆地、サマルカンド、アルメニア、コンスタンチノープル、ローマ、イベリア半島のイスラム圏北端などになります。
それより北、つまり北緯40度線以北の世界というのは地球寒冷化の影響が残っていた8世紀まではまだ寒すぎて生産力も劣っていて本格的な国家形成は困難な状況にあったといえるでしょう。ましてや北緯50度線(樺太中央部、バイカル湖、ウラル山脈南端部、ドーバー海峡あたり)以北となると、細々と生きていくのに精一杯という状況であったことでしょう。
それが9世紀に入って地球温暖化傾向が明らかになると、まずもともと文明国家が集中していた北緯20度線以北40度線以南のエリア(唐帝国やイスラム帝国、東ローマ帝国、日本、新羅などを含む)においては生産性が急激に上昇し始めてそれぞれの国家内の地方勢力が自立可能なほどに力をつけてくるようになりました。また北緯40度線以北(渤海、契丹、ウイグル、ハザール、ブルガル、フランクなどを含む)でも生産性が上昇して北緯40度線以南と比べてそう遜色無い国家形成が可能な状態となり、北緯50度線以北(キルギス、ノルマン、スラブ、アングロサクソンなどを含む)でも普通に暮らしていくには不自由ない状態となったのでした。

唐においては9世紀に入ると各地方の節度使の自立性がいっそう強まり、それに対処するために憲宗による節度使統制政策がとられたのですが、820年に憲宗が暗殺されると結局は元に戻り、官僚が節度使に進出して軍閥勢力の反発を買ったために余計に混乱を増したことは触れましたが、同時期にアッバース朝イスラム帝国においても地方勢力の自立が進行していました。イスラム帝国は「イスラムの平等」を基本原理とした融合的な世界帝国であり領域内の各民族の多様性を尊重していたので、もともと分裂しやすい傾向はあったのでした。
イスラム帝国の最盛期の第五代カリフのハールーンにはアミーンとマームーンという2人の息子がおり、ハールーンはカリフ位をアミーンに譲り、マームーンには帝国の東半分を治めさせ、アミーンの次のカリフはマームーンとするという遺言を残して809年に亡くなりますが、アミーンがこの約束を反故にしたため兄弟の争いが起き、アミーンはアラブ人の兵の後援を受け、マームーンはイラン人の兵の後援を受けました。結局、マームーンが勝って813年にカリフになり833年に没しますが、マームーンはその治世においてイスラム科学の集積に励む一方、821年にはイスラム帝国の東端部のイラン東北部から中央アジア方面にかけての統治をイラン人の将軍ターヒルに一任し、イスラム帝国内の最初の分立王朝であるターヒル朝が興りました。
何故マームーンが帝国の東端部を名将として名高いターヒルに一任したのかというと、イスラム帝国の主要兵力であったイラン兵が先のカリフ位継承争いで疲弊したため、その代用として中央アジアのイスラム領においてジハードで捕虜にしたトルコ系の騎兵隊をイスラム教に改宗させてイスラム帝国の軍事力として供給させるためでした。どうして新たな軍事力が必要であったのかというと、その軍事力を使ってマームーンは東ローマ帝国を征服して東地中海を制しようとしたのです。
かくして826年にイスラム帝国による地中海侵攻作戦が開始されたのですが、このためにイスラム帝国内にはトルコ人騎兵隊が多く入ってくるようになり、地方総督たちは競ってこの新戦力を採用して軍事力を高め、中央政府に対して自立的傾向を強めるようになっていきました。一方、南からイスラム軍の侵攻を受けることになった東ローマ帝国は、この頃は北部領土バルカン半島の南スラブ諸族の反乱を支援しつつドナウ河流域から南下してくるトルコ系遊牧民のブルガリア帝国の脅威も受けていましたが、これらの脅威を何とか凌いでいくことになります。

このように東ローマ帝国がイスラム軍の侵攻に晒されていた頃、西ヨーロッパは北方からノルマン人の侵攻を受けることになりました。ノルマン人はゲルマン民族の一派で、もともと北緯50度線以北のスカンジナビア半島やバルト海沿岸地方で細々と農業や漁業を営んでいたのですが、それだけではやっていけないので外洋や内陸河川のルートでハザール王国、ブルガリア帝国、フランク王国、イングランド島のアングロサクソン王国などと交易活動を広く行い航海術を磨いていました。それが9世紀になって温暖化が進むと人口が急増して原住地だけではその人口を賄いきれなくなったため生活圏を求めて周辺に拡散していくようになり、830年代にフランス地方やイングランド島に進出していったノルマン人達は現地のフランク族やアングロサクソン族の共同体とトラブルを起こすことになり、略奪行為に及ぶようになりました。
9世紀初頭はフランク王国(西ローマ帝国)はチャールス1世(カール大帝)の時代でありましたが、チャールスが814年に死ぬと、彼の超人的能力によって維持されていたに過ぎない中央集権型フランク王国は内紛によって分裂していき、843年には西フランク(だいたい現在のフランスに相当)、中フランク(だいたい現在のイタリアに相当)、東フランク(だいたい現在のドイツに相当)の三王国に分裂しました。北緯40度線以北に位置するフランク王国においても温暖化によって地方勢力の力が強まってきたということですが、まだまだ牧畜社会の域を抜け出しておらず、脆弱な社会でありました。イングランド島のアングロサクソン王国も内情は同じようなもので、こうした有様のところに9世紀中頃からノルマン人の侵攻は本格化することになります。

ノルマン人が温暖化によって人口を急増させていたのと同じ9世紀初頭、同じく北緯50度線以北のバイカル湖西方の草原地帯で遊牧生活を送っていたキルギスというトルコ系遊牧民部族が温暖化によって人口を増やし、生活圏を求めて840年に南のモンゴル高原に侵攻しました。モンゴル高原を支配していたのはウイグル族を中心としたトルコ系民族の連合体で、9世紀初頭にはウイグルは南方の唐の優位に立って繁栄を極めていたのですが、この頃はウイグル族に抑えられていた各部族が温暖化によって力をつけて内紛を繰り返すようになっており、このキルギスの攻撃を受けてモンゴル高原におけるウイグルの支配は崩壊し、ウイグル族をはじめとしたトルコ系部族の多くは西へ移動して河西回廊からタリム盆地方面に定住して交易を生業とするようになり、西ウイグル王国を作り9世紀中頃にはターヒル朝と境を接するようになりました。しかしモンゴル高原におけるキルギスの支配は長続きせず、北東方向からタタール人というモンゴル系民族の集団が入ってきてキルギス人をまたバイカル湖方面へ追いやってしまい、モンゴル高原はタタール人の各部族が割拠する状態となりました。
北緯40度線以北の状況を更に東に見ると、崩壊したモンゴル高原のウイグル帝国の東側に居住していた契丹人は温暖化とウイグルという脅威が無くなった影響とで勢力を伸ばし始め、その首長は可汗を名乗るようになりました。またその東にあった渤海国は8世紀までは不安定な国情でしたが9世紀になると温暖化によって豊かになり、最盛期を迎えていました。一方、渤海国の南にあった北緯40度線以南の国である新羅は、8世紀末から始まっていた王位継承争いが9世紀になると地方に波及して、新たに勃興してきた地方豪族と組んで地方で反乱が頻発するようになっていきました。また同じく北緯40度以南の国家である日本でも830年代ぐらいから地方で群盗海賊が横行し、中央政府の統制が揺らぎ始めていました。これらも地方勢力が力をつけてきたことによるものであるのでしょう。そして唐帝国においてもそうした傾向は進行し、850年代から各地で軍閥兵士の反乱や農民反乱が頻発するようになり、唐帝国は分裂滅亡への道を進み始めたのでした。

その頃、西ヨーロッパではノルマン人の侵攻が激化していました。ノルマン人の武装船団はヴァイキングと総称されていましたが、ノルマン人が8?9世紀にかけて北欧の本拠地に築いたデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの諸王国別に、本拠地をどの王国とするのかによって違う名称でも呼ばれました。例えばデンマーク王国を本拠地とするものはデーン人と呼ばれ、ノルウェー王国を本拠地とするものはノルマン人と呼ばれ、スウェーデン王国を本拠地とするものはヴァリャーグと呼ばれたのですが、そもそもこれら3つの王国に部族的な違いがあるわけではなく、単なる雑多な民族の政治的集合体に過ぎず、ヴァイキングの構成員は多様な民族構成であったことからも、これらは一括して民族集団としてではなく政治集団としての「ノルマン人」として扱っておいていいと思われます。
ただ、9世紀においては、北海に面したデンマークを本拠地として拡散していったノルマン人は主に対岸の東フランク王国やアングロサクソン王国を襲い、大西洋に面したノルウェーを本拠地として拡散していったノルマン人はスコットランドからアイスランドへ西進、あるいは南下してアイルランドを経て西フランク王国やイベリア半島の後ウマイヤ朝、更に地中海に入って中フランク王国などを主に襲撃しており、そしてバルト海に面したスウェーデンを本拠地として拡散していったノルマン人は主に対岸のロシア平原に進出していったというような、本拠地ごとに襲撃地の傾向というものはありましたから、それぞれの襲撃された土地の住民がヴァイキングの集団につけた呼称が本拠地別の呼称の由来になっているのかもしれません。
さて、以上のような地がノルマン人の侵攻に悩まされていたわけですが、彼らの船、つまりヴァイキング船は外洋で帆走も可能である一方、喫水線が浅くオールで漕ぐことも出来たので河川を内陸深くまで遡ることも可能で、しかも軽量であったので陸上を運ぶことも出来、つまりノルマン人は非常に機動力に優れ、神出鬼没で何処にでも突然現れる手に負えない集団だったのです。こうなるとチャールス1世が整備したような中央の国王直属軍などでは対処不可能なわけで、ノルマン人の襲撃から地域社会を守るためには各地の諸侯がそれぞれの軍事力を向上させる他ないのです。そしてそのためには諸侯たちは自分の支配地の乏しい生産力を出来るだけ効率よく集積していく必要に迫られ、独自に私有地の開発を行って開発領主となっていったのでした。こうして地方における開発領主となった諸侯たちにそれぞれの土地の支配権を追認するのが国王の役割となっていき、西フランク、中フランク、東フランク、アングロサクソンの各王国においては封建的土地所有制度が進行していったのでした。
もちろん、こうした変化が順調な形で進行していったわけではなく、ノルマン人の略奪を受けながらのことですから生産性が簡単に上昇するはずもなく、ここから200年ほどは西ヨーロッパの封建諸侯たちの苦闘は続くことになりますが、ノルマン人の侵攻の猛威によって国土が荒廃して人口が減少したことによって却って諸侯による地域社会の再編が容易になったという効果もあり、少しずつ封建諸侯の地力は上昇していったのでした。一方、ノルマン人の侵攻による西ヨーロッパの各国国王の権威低下は著しく、例えば875年には中フランク王国は滅亡し、イタリア地方は封建諸侯の割拠する状態となりましたが、その他の地方でも諸侯の力が相対的に上昇して事実上の諸侯割拠状態となっていきました。日本においてもほぼ同時期に地方における神出鬼没の群盗海賊に対応するための在地軍事力の必要性が模索され、それにより武士が誕生し、200年ほどかけて開発領主として定着していくのですが、こうした西ヨーロッパの状況と相似形を為しているようで興味深いようにも思えます。
さて、一方、ロシア平原に侵入していったノルマン人は西ヨーロッパで受けたほどの強い抵抗は受けませんでした。それは、ロシア平原に暮らしていた東スラブ諸族の社会が西ヨーロッパのゲルマン社会ほどにも成熟していなかったので、ノルマン人の侵攻にほとんど為す術が無かったからです。そういうわけでノルマン人は東スラブ諸族を征服して862年にはバルト海にほど近いノヴゴロドの都市国家の支配権を握り、更にそこから南へ進んで882年には北ウクライナにあるキエフを首都としてキエフ公国を建国し、バルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配しました。そしてその交易路における競合相手となった黒海北岸のトルコ系のハザール王国に対抗するために東ローマ帝国と同盟し、キエフ公国と東ローマ帝国に南北から圧迫されたハザール王国は9世紀末には衰退していきました。

その東ローマ帝国は860年代あたりになるとイスラム帝国の侵攻を撥ね返すようになっていましたが、それはイスラム帝国内の地方勢力の自立傾向が進んで、統一して東ローマ帝国と戦争するどころではなくなってきたからでした。そうした中で867年にはイラン東部にてサッファールというイラン人豪族が独立してサッファール朝を興し、868年にはエジプト総督代理を務めるトゥールーンというトルコ系軍人が事実上の独立政権としてのトゥールーン朝を開き、877年にはトゥールーン朝はその領土をシリア、アナトリア半島南部、イラク北部まで拡大しました。
一方、サッファールはシーア派に改宗して872年にはターヒル朝を滅ぼしてサッファール朝の領土を中央アジアからイラン東部、インダス河西岸まで広げたので、バグダッドのアッバース朝のカリフは874年にターヒル朝の遺臣のサーマーンというイラン人土豪に中央アジアの支配権を与えてサーマーン朝を興させて、サッファール朝に対抗させました。このサーマーン朝がサッファール朝と戦うための戦力を得るために中央アジアでトルコ系部族とのジハードを繰り広げ、捕虜をイスラム教に改宗させていったのですが、これによって更にイスラム世界にトルコ系軍人勢力が拡散していくようになりました。
また、このサーマーン朝のジハードはタリム盆地の西ウイグル王国との戦いを引き起こし、その戦いの余波で北西カザフスタンに住んでいたトルコ系遊牧民のオグズ族の一部が西へ向かい、9世紀末にカスピ海北岸のトルコ系遊牧民のペチェネーグ族を圧迫し、ペチェネーグ族は黒海北岸に移動して、そこに住んでいたマジャール人を西へ押し出して、マジャール人は893年にハンガリー平原に進出し、さらにマジャール人は東フランク王国、西フランク王国、イタリアに侵入し荒らし回ることになります。10世紀前半の西ヨーロッパは北からのノルマン人に加えて東からのマジャール人の脅威にも晒されることになるのです。またペチェネーグ族やマジャール人に北部領土を奪取されたブルガリア帝国はバルカン半島南部に進出して東ローマ帝国と本格的な戦争状態に突入していくことになります。

この間、東アジアでは唐帝国において874年に黄巣の乱が勃発し全土が騒乱状態になり、この時点で唐王朝によるシナの統一支配は崩壊しているので、ここで実質的には唐帝国の時代は終了し、五代十国時代が開始したと見ていいでしょう。五代十国時代とは、黄河流域を支配する王朝が後梁、後唐、後晋、後漢、後周というふうに5つ交替する間、それ以外の諸地方では塩密売人や軍閥出身の10個ほどの地方政権が割拠し興亡していた時代ということで「五代十国時代」といわれます。その実質的な終了は、五代の最後の王朝である後周を引き継いだ宋が979年までに諸地方政権を滅ぼしてシナ全土を統一するまでということになりますから、分裂時代としての五代十国時代は実質的には105年間続いたことになります。
黄巣の乱の全国的大混乱の中、884年には長安から黄巣を追い払って唐王朝は長安に返り咲きますが、この時点で既に地方政権は実質的に独立しており、唐は黄河流域の一地方政権に過ぎず、しかも皇帝は傀儡に過ぎず、その内部では軍閥勢力による主導権争いが熾烈を極め、そうした中で主導権争いを制したのは黄巣を裏切って唐についた塩密売人の朱全忠で、907年に朱全忠は唐王朝を滅ぼして皇帝を名乗り後梁を建国しました。しかしこの朱全忠の即位を認めない各地の軍閥勢力はそれぞれ皇帝や王を名乗って公然と自立し、後梁は黄河流域に支配権を及ぼすのみでありました。しかもその支配地においても反対勢力は多く内戦が続き、923年には有力な反対勢力であった節度使出身の李克用の子の李存勗が後梁を滅ぼして唐皇帝を名乗り後唐を建国しました。
東アジアの中心的国家であった唐帝国がこのような分裂状態に陥った余波は周辺諸国にも及び、唐と同じ律令制を国是とする新羅でも9世紀末には農民反乱や豪族の独立が頻発するようになり、892年に南西部に後百済が、901年には北部に後高句麗が独立して後三国時代という分裂時代に突入し、その中で918年に後高句麗の武将の王建が後高句麗を倒して高麗を建国し、新羅と後百済と争うという情勢となっていきました。新羅の北の同じく律令制を敷いていた渤海国も10世紀初頭から国内で内紛が頻発するようになっていき、また日本においてもこの9世紀末から10世紀初頭の時期は、中央集権制度が崩壊して武士が生まれてきた時代にあたります。
そして遼河上流の万里の長城の北側では唐の滅亡後の混乱に乗じてモンゴル系遊牧民の契丹人が916年に契丹国を建国し、925年にはモンゴル高原のタタール人の諸部族を服属させ、926年には渤海国を滅ぼしてその故地に東丹国という属国を立てましたが、渤海遺民たちが多く南の高麗へ逃亡してしまい東丹国は930年に消滅し、契丹は満州からモンゴル高原にまでを統治する大帝国を築き上げることになりました。

このようにシナ世界における分裂状態、分権状態というのは世界各地で同時進行的に起きていた複雑化の潮流、すなわち「中世の始まり」の一環であったと見ることが出来るわけで、それが世界同時発生的なものであったことを考えれば、それは政治的要因によるよりも、地球温暖化という気候的要因による変化であったと考えたほうが自然といえるでしょう。
そしてそうした中世的な複雑化、分権化が温暖化に起因する変化であるとするならば、温暖化自体は13世紀中頃のピークに至るまで更にエスカレートしていくのであり、実際それに連動して世界的には13世紀中頃に突如モンゴル帝国によって統一されるまでの間、いっそうの複雑化が進展していくことになるのですが、ところがシナ世界のみが10世紀半ばの段階でそうした世界的潮流に逆行するかのように統一に向かい、それも単に国家が統一されるだけではなく、徹底した中央集権化が進められることになるのです。
つまり、シナ世界における「中世」のみが世界から見て特殊なのです。中世帝国である第三次シナ帝国が古代帝国である第一次・第二次シナ帝国とは明らかに別種の帝国であることからも、それは決して「古代」への逆行ではなく、明らかに古代とは別種の「中世」的なものではあるのですが、それにしてもシナ世界のみが特殊なのです。ならば、このシナ世界の特殊な変化は、気候に起因する世界的潮流とは全く別要素の、この時代のシナ特有の何らかの政治的経済的要因によるものであると考えるべきなのでしょう。それが何であるのかは、中世の歴史の続きを追っていきながら考えていきたいと思います。
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