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日本史についての雑文その353 騎士の誕生
2世紀後半に本格化した寒冷化時代において理想のシステムとされてきたのは、古代ローマ帝国末期やササン朝ペルシア、漢帝国などで確立されていた中央集権制であり、そうした集権化システムが寒冷化時代における試行錯誤の結果、結実したのが7〜8世紀における唐の律令制、イスラム帝国や東ローマ帝国の中央集権官僚制、フランク王国の国王専制体制などであったのですが、それらが結実した直後、9世紀頃から地球は温暖化し始め、単純化、集権化されていた世界は複雑化、分権化していくことになるのです。
それが世界規模での中世の始まりということになるのですが、実はその中世をもたらした温暖化は13世紀にピークに達した後、急激に寒冷化に向かい、以後地球は長い寒冷化の時代が続きます。その寒い時代の当初は混乱を引き起こしましたが、そうした混乱が収まった後、いや正確には混沌に人々が慣れた頃、世界は再び集権化傾向を見せ、よりシンプルな姿になろうとし始めました。そうして長い寒冷化時代において世界各地で試行錯誤されていった集権化システムの最終勝者、集大成といえるものが近代西洋システムであり、それが結実したのが19〜20世紀における西洋システムによる世界分割、世界支配でありました。それが20世紀以降、再び温暖化を開始した地球上において、複雑化、分権化して解体していこうとしているのが現在の世界の状況であり、現代は新たな中世の劈頭であるとも言えます。そういう意味でも、中世の歴史を見ていくことは現代にも通じる意義があるとも言えるでしょう。

さて、10世紀初頭、シナ世界においては唐帝国が滅びて五代十国時代に入り、その北の満州平原で契丹人が勃興し始めた頃、その西のモンゴル高原にはタタール人の諸部族がおり、その西のタリム盆地方面には西ウイグル王国があり、その西にあってタラス河あたりで西ウイグル王国と係争していたのがイスラム世界の東端に位置したサーマーン朝でした。そのサーマーン朝が西ウイグルと争っていた主な理由はトルコ人騎馬兵を捕虜として獲得して戦力とし、南のサッファール朝と戦うためでありました。
サッファール朝はシーア派の教義を奉じており、つまりはアリー家の者しかカリフとして認めていないということですから、アッバース家の者がカリフを務めるイスラム帝国を否定する反体制分子ということになります。だからアッバース朝のカリフはサーマーン朝に命じてサッファール朝を攻撃させていたのです。そして908年にサーマーン朝はサッファール朝を滅ぼしてその領土を吸収し、東イランから中央アジアに広がる大勢力となりました。
このサーマーン朝はアッバース朝のカリフにとっては友好勢力であり、またアッバース朝は905年にはエジプトで独立していたトゥールーン朝を滅ぼしており、アッバース朝カリフはここに一応その面目を回復したのでした。ところが909年に自らをシーア派の正統継承者にして救世主であると唱える過激なシーア派教宣師のウバイドゥッラーという男がチュニジアの地にファーティマ朝を建てたのです。ファーティマというのはイスラム教の始祖ムハンマドの娘で第4代正統カリフのアリーの妻となった女性の名で、シーア派においては特別な存在です。このシーア派による北アフリカにおけるファーティマ朝の建国はバグダッドのアッバース朝カリフを倒す革命の第一歩として位置づけられていたので、ウバイドゥッラーはカリフを自称し、ファーティマ朝はさっそく東へ向けて勢力拡大を図り、まずエジプトがその標的となりました。
こうして「神の代理人」たるカリフがこの世に2人存在するという事態となってしまったのです。カリフが1人しか存在してはいけないというわけでもないのですが、この新しいシーア派のカリフはバグダッドのカリフを偽者と決め付けているわけですから、やはりバグダッド側としても放置しておくわけにはいかないわけで、しかもエジプトに攻撃を仕掛けてくるわけですから、アッバース朝カリフはエジプトにトルコ人騎兵を送り込んで軍事的テコ入れを図りました。

このようにイスラム帝国内部において戦争が頻発し、また同時に東ローマ帝国との戦いも継続していた中、アッバース朝においてもトルコ系などの軍人の発言力が増していき、カリフの実権を奪って、宮廷においても将軍たちによる内紛が繰り広げられるようになってきました。このようにバラバラな状況になってくるとイスラム帝国の勢いはやや衰えてくるようになりましたが、それでもイスラム世界全体の勢いが低下したわけではなく、むしろ東西の辺境地域においてはじわじわと拡大する勢いはまだ維持していました。
イスラム世界の西端にあたるイベリア半島における後ウマイヤ朝は10世紀になってイベリアのカトリック教徒の攻撃を受けるようになっていました。これは後にカトリック側では「国土回復運動」などという美名で称えられるものの初期のものになりますが、実際はこの頃は文明地域であるイスラム世界に対してカトリック教徒の野蛮人が略奪目的で襲撃を繰り返していただけのことで、むしろ排斥的、差別的であったのはカトリック教徒のほうでした。そうした無法者たちを追い払い討伐していたのが後ウマイヤ朝であり、10世紀前半には後ウマイヤ朝は最盛期を迎え、その王は926年にはカリフを名乗ることになります。こうしてバグダッドのアッバース朝、チュニジアのファーティマ朝、イベリア半島の後ウマイヤ朝と、3人のカリフが同時に並立することになったのでした。
一方、イスラム世界中心部のアッバース朝のほうは、929年に北イラクの総督が自立して建てたハムダーン朝がアッバース朝内部の将軍たちの抗争に介入するようになり、また932年に西イランにおいてシーア派を奉じるブワイフ朝が自立し、イラク地方にも勢力を伸ばしてくるようになりました。また、エジプトにおいてはトルコ系将軍が自立してイフシード朝を興し、チュニジアのファーティマ朝と対峙するようになりました。こうしてアッバース朝の直轄地はイラク南部、シリア、アラビア半島に限られるようになり、942年にはハムダーン朝がバグダッドを支配下に置くようになり、カリフはその庇護下に置かれるようになりました。続いて945年にはブワイフ朝が西進してきてハムダーン朝を追い出してバグダッドに入城し、カリフを庇護下に置いて政権を奪いました。
こうして10世紀中頃にはアッバース朝(東カリフ国)のカリフは全くその実権を失い、西イランから南イラクに広がるブワイフ朝政権の庇護下に入り宗教的権威のみの存在となりました。そのブワイフ朝の西には北イラクから北シリアにかけてハムダーン朝があり、南シリアからエジプトにかけてはイフシード朝、そしてエジプト以西の北アフリカにはファーティマ朝(中カリフ国)、その北のイベリア半島には後ウマイヤ朝(西カリフ国)があるという、イスラム帝国は分裂状態となりました。
この後、969年にはファーティマ朝がイフシード朝を滅ぼしてエジプトを征服し、本拠地をカイロに移してチュニジア以西を徐々に放棄していき、代わりに更に東を窺うようになりハムダーン朝の西領土を侵食していき、一方、ハムダーン朝の東領土はブワイフ朝の影響下に入り、980年代にはバグダッドを巡ってファーティマ朝とブワイフ朝が睨み合う情勢になりました。

そのブワイフ朝の東にある東イランから中央アジアにかけてはサーマーン朝が存在していましたが、このイスラム帝国の東端方面ではイスラム教はまだまだ大きな浸透力を有しており、940年頃にはサーマーン朝の北東にあった西ウイグル王国の勢力圏の西端に居住していたトルコ系遊牧民部族がイスラム教に改宗してカラハン朝を興し、ジハードによってタリム盆地を征服してイスラム化し、更に西のサーマーン朝を圧迫してアラル海方面へ領土を広げていきました。
これはトルコ民族が部族単位でイスラム王朝を興した最初の事例でありました。中世世界の主役はイスラム教と遊牧騎馬民族ということになるのですが、この2つの要素を結びつける存在がトルコ民族なのです。そのトルコ人が最初に興したイスラム王朝がこのカラハン朝で、都市型宗教であるイスラム教に改宗したトルコ人たちはその領土内のオアシス都市に次第に定住するようになり、後にこれらのカラハン朝の版図の土地は「トルコ人の土地」という意味で「トルキスタン」と呼ばれるようになります。
一方、サーマーン朝の南東部、アフガニスタンのガズナにおいて955年にトルコ系軍人が自立してガズナ朝を興し、サーマーン朝の南東部の領土を侵食していき、また南のパンジャブ地方に勢力を拡大していきました。そして999年にガズナ朝とカラハン朝はサーマーン朝を滅ぼして、サーマーン朝の故地を東西に分割し、睨み合うことになりました。
こうしてイスラム世界は10世紀を通して分立した王朝が対峙し合うという状況を継続し、その間にアッバース朝のカリフは名目だけの存在となり、10世紀末には東からカラハン朝、ガズナ朝、ブワイフ朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝などが分立する状態となったのでした。ただその間にもイスラム世界は中央アジア方面では勢力を拡大し、続く11世紀にはインド方面へも拡大していくわけですから、まだまだその勢いは衰えず、むしろ各地に王朝が分立したことによって満遍なくイスラム文化が浸透して、各地の中心都市においてイスラム科学などの花が開いていったのは、この分裂時代であったのです。そういう意味で、やはりイスラム世界はこの時代における世界最高の文明先進地帯でありました。

ただ、そうはいっても、これだけバラバラに王朝が分立して互いに内戦を行っていれば、外に征服していく力は低下するのは必然であり、相手が中央アジアの部族国家程度ならばまだしも、それなりの中央集権体制国家であれば抵抗も激しく、こうなってくると征服は困難となってきます。そういうわけで東ローマ帝国は10世紀の中頃にはイスラム軍の侵攻を撃退し、アナトリア半島を死守することに成功したのでした。
むしろこの間、東ローマ帝国にとってより大きな脅威であったのはペロポネソス半島北部まで進出してきた北方の脅威ブルガリア帝国のほうで、10世紀の前半には最盛期を迎えて何度も東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに迫りましたが、10世紀後半になると勢いが衰え、10世紀終わり頃には逆に東ローマ帝国のほうが攻勢に出てブルガリア帝国を圧迫するようになっていきました。また、ノルマン人がロシア平原に作ったキエフ公国も10世紀には黒海経由で東ローマ帝国に何度か攻め込みましたが、10世紀末には正教会に改宗するようになり、東ローマ帝国とは友好的な関係となっていきました。これがロシア正教の起源ということになります。

一方、西ヨーロッパのゲルマン諸侯にとってもノルマン人は引き続き大きな脅威であり、特に激しくノルマン人の侵入を受けたのはアングロサクソン王国と西フランク王国で、911年には西フランク王国はドーバー海峡南のセーヌ河の河口付近の一角をノルマン人の酋長ロロに割譲させられることになりました。これによりこの地方は「ノルマン人の土地」ということで「ノルマンディ」と呼ばれるようになり、ロロの子孫はノルマンディ公と称していくことになります。
東フランク王国やイタリア諸侯もノルマン人の侵入は受けましたが、それよりも10世紀前半にこれらの地方に大きな脅威を与えたのはハンガリー平原を本拠地としたマジャール人の侵入でした。マジャール人はフン族の末裔だという説もありますが実際はコーカソイドの遊牧民であったようで、何にしても機動性に富んだ騎馬戦術に長けた遊牧民族であったのは確かなようです。マジャール人はその神出鬼没な襲撃によって散々西ヨーロッパを荒らし回り、東フランク王国は911年に滅んでしまい、現在のドイツ地方もイタリアと同様、諸侯乱立状態となりました。
このドイツ諸侯の中の有力なものにザクセン大公があり、マジャール人に対抗するために団結せねばならないドイツ諸侯たちはこの当主のハインリヒを919年に新たに東フランク国王に選出し、その跡を936年に継いだ息子のオットーがドイツ諸侯をまとめてマジャール人と戦っていくことになります。

オットー率いるドイツ諸侯らはゲルマン人であり、ゲルマン人はコーカソイドの中でも大柄なほうで、馬に乗ると馬体への負担が大きいのでどうしても機動性が損なわれ、比較的小柄なマジャール人と騎馬戦闘をすればスピードで劣るので不利でした。そうした不利はフン族やアヴァール人のようなモンゴロイド系遊牧民に散々やられていた頃から痛感されていたことであり、そうした不利を補うためにゲルマン人は武装を強化して装甲を分厚くする工夫をしてきました。装甲を分厚くすればますます重量が増えるので機動性は低下しますが、どうせ同条件では小柄な民族には機動性では勝ち目は無いわけですから、いっそ機動性は切り捨てて、ゲルマン人の大柄な体格を活かして、重厚な鎧をまとって巨大な剣を振り回す、突撃力と防御力に特化した重騎兵への道が模索されたのでした。
しかし重い鎧や剣を帯びた場合、まずその重量に耐えられるだけの馬体を持った馬がいませんでした。古代の馬は現在よりだいぶ小柄だったからです。また重装甲で馬に乗った場合、重心が高くなり、あまりに不安定で落馬の危険性が高いという問題点もありました。そこでまず馬の品種改良が行われて大きい馬体の馬が作られるようになりました。といってもゲルマン人が品種改良したわけではなく、南北朝時代のシナで大きな馬体の馬が作られるようになり、また同時期にシナで鐙も発明されて重装備での騎乗が可能になったのです。つまり重騎兵は別にゲルマン人の専売特許というわけではなく、6世紀ぐらいから東アジアでは存在しており、それが大きな馬と鐙などと共にトルコ人騎兵などの手を経てイスラム世界にも伝わっており、更に東ローマ帝国にも伝わり、この10世紀になってゲルマン人にもようやく伝わったのでした。ただ、東アジアやイスラム世界、東ローマ帝国などでは接近戦に長けた重騎兵は軽装備でスピード重視で敵を取り囲み騎射で殲滅する軽騎兵と臨機応変に使い分けるものという扱いであったのですが、ゲルマン人はその体格的特徴を活かして、重騎兵を中心に据え、騎射より突撃を重視した接近戦主体の勇猛な戦法を編み出したのでした。
この重騎兵を主体にしたオットー率いるドイツ諸侯たちが軽騎兵を主体としたマジャール軍を打ち破ったのが955年のレヒフェルトの戦いで、これによりマジャール人はオットーに服従するようになり、西ヨーロッパを脅かしていたマジャール人による被害は沈静化します。そして、これ以降、ヨーロッパの諸侯たちの間では重騎兵が主要戦法となり、更なる馬の品種改良、馬具や武器、甲冑の改良も、全てこの重騎兵戦法の充実のためになされていくようになったのでした。

大型馬に跨った巨漢たちが全身を覆う鉄の甲冑を身に纏い、太く長い剣や槍を振り回して疾駆するという、私達がイメージする「西洋騎士」というものは、このレヒフェルトの戦い以降に定着するようになった重騎兵のイメージなのです。つまり、10世紀にヨーロッパにおいて騎士という存在が生まれ、定着していったということになります。日本においてもちょうど同じ頃に「武士」という存在が生まれ定着していったという類似性は興味深いものではありますが、それはこの騎士と武士という2つの戦士階級が共にその後、封建領主として成長していき、共に騎士道と武士道という独特の規範意識を帯びるようになり、そしてそのままこの両者が邂逅したことによって、その対比が好奇の目で見られるようになったからなのであって、この10世紀時点においては世界中どこにでもこうした戦士階級はありふれて存在していたのであるから、この時点での騎士と武士の同時発生そのものは、さして注目すべきことではないでしょう。
その違いという面で言うならば、日本の武士の場合も、特にその初期形態である平安武士や鎌倉武士というものは大鎧などの重厚さを見る限り、重騎兵の一種であるように見えますが、その主要戦法は騎射であり、日本刀を用いての斬撃戦も最終決戦段階では重要ではあるものの、それでも騎射なくして武士という存在はあり得ないのであり、西洋騎士の重騎兵とはかなり異質なものだといえます。実際、日本刀の構造そのものがスピード溢れる馬上戦闘での使用を前提としたものであり、鎧兜も見た目の重厚さの割には皮革製であることもあって、かなりの軽量化がなされており、日本の武士は軽騎兵と重騎兵の中間的存在であったといえるでしょう。
これは、西洋の騎士と日本の武士の社会的役割の違いに起因するものでしょう。だいたい武装というものは、防御的性格が強くなれば重武装化して機動性は低下し、攻撃的性格が強くなれば軽装になり機動性は向上するものです。例えばマジャール人はひたすら略奪目的なのでスピード重視の軽騎兵でいいわけです。一方、西洋騎士の場合は領主的性格が強いので、自分の領地の財産や人民を守らなければいけません。だからとにかくやって来る敵を追い払えばいいのであって、追撃まではあまり考えなくていいのです。そうなると、まずはやられなければいいのであり、領地全体を城郭で囲ってしまって籠城し、自分は部下と一緒に重厚な甲冑を身に纏い城壁の外に出て、敵に突撃して剣でなぎ倒し、敵が退却すれば勝鬨を挙げるということでいいのです。しかし日本の武士の場合は領主であると同時に追捕使としての役割がありますので、逃げていく悪党どもを追いかけて捕まえなければいけません。そういう意味で騎乗のスピードは殺すわけにはいかず、また遠距離攻撃兵器としての弓矢の技術は武士としての第一の素養とされたのです。かといって、あくまで領主としての責任がありますから、マジャール人のように防御力を無視していいというわけではなく、それであのような中間的形態になったのでしょう。それに、そもそも日本人の場合、あまりに重い甲冑を身に着けた場合、ゲルマン人に比べて筋力が少ないので、騎乗以前に自分の身体を自由に動かすことが困難であったという事情もあるでしょう。
逆にゲルマン人はその巨体ゆえに、どうせ軽騎兵にしてもスピードでは他の民族に劣ることになるので軽騎兵はどうしても敬遠しがちになったのでしょう。その点、イスラム戦士などは戦場の状況に合わせて軽騎兵と重騎兵を巧みに使い分けたので、後に十字軍の戦いでグルマン諸侯たちは苦戦を強いられることになります。また、基本的にのどかな牧畜民であったゲルマン人はあまり手先が器用ではなく、狩猟民や遊牧民などの外人部隊を様々に繰り出してくるイスラム軍などに比べて、弓矢の腕前で劣っていたのかもしれません。つまり、こう見てみると、別にヨーロッパの重騎兵戦術が最強のものであったわけではなく、むしろ、ゲルマン諸侯にとっては最初から選択肢は限られており、やむを得ない選択であったに過ぎないのではないかと思われるのです。それが単に偶然、マジャール人相手に上手く噛み合ったのが955年のレヒフェルトの勝利であり、それによって騎士というものが生まれることになったのです。ただ、この不器用なゲルマン戦士たちが後に文明を摂取した後、自らの技量不足を補うためにひたすら武器の改良に励んだ結果、世界史の流れが大きく変わることになるのですが、それはまだまだ先の話です。

また、この時、騎士は生まれましたが、騎士道というようなものはまだ存在しませんでした。いわゆる現在言われているような武士道という行動規範の多くが江戸時代以降の成立であり、武士と武士道の誕生が同時でないのと同じように、騎士と騎士道の誕生も同時ではなく、騎士が戦場よりもむしろ宮廷における身分となってから現在的な意味での騎士道が整備されたのだと考えたほうがいいでしょう。
だから、10世紀当時の騎士の実態は正直、高潔、寛大、親切、礼儀正しさ、弱者保護、貴婦人への献身などというような徳目とはおよそ正反対のものであったであろうと思われ、それは12世紀の十字軍における騎士たちの蛮行によって証明可能でありましょう。むしろ実態があまりに酷かったために、稀にその正反対の行動をとる騎士がいた場合に大いに喜ばれ称えられたため、これらの徳目が騎士にとって栄誉なことであると考えられるようになっていったのでしょう。つまりあくまで現実には存在しない理想像としての騎士道ならば存在したのかもしれません。また、十字軍の遠征に加わった騎士たちが敵であり文明人であるイスラム戦士たちの洗練された行動やその規範意識の高さに驚き、それに比べて仲間の騎士たちのあまりの野蛮さやだらしなさに恥を感じて、イスラム戦士を見習おうと思うようになったことも騎士道誕生のきっかけになったものと思われます。
ただ騎士の誕生と同時に、騎士の突撃重視の戦法を駆使する上で、戦場における戦闘能力、勇猛さ、忠誠心は強く求められたであろうと思われ、これらは実際に当初から騎士の行動規範として存在していたと考えられます。また、優しさや慈悲の心は騎士の徳目とされていますが、実際は敵に対して無慈悲にならねばならないのが戦場であり、その無慈悲を貫徹させるためには己を絶対的に正しいと信ずる信心が必要であり、それがキリスト教への信心ということになるのですが、これはしばしば、というか基本的に狂信となり、恐るべき残虐行為を引き起こしました。そして清貧という徳目も騎士道にはありますが、清いかどうかはともかく、10世紀当時の騎士たちはひどく貧しく、これで略奪さえしなければ清貧と言っても差し支えは無かったのですが、残念ながら略奪は常態化していたので、これはやはり稀な理想像としての徳目に含まれるものでありましょう。

レヒフェルトの戦いの結果、誕生したものは騎士だけではありませんでした。マジャール人を服従させたオットーは「キリスト教国を異教徒の禍から救った聖なる戦士」として称賛され、大きな注目を浴びるようになり、961年にはイタリアに遠征してイタリア諸侯も従え、962年にカトリックの総本山であるローマに入城し、ローマ教皇はオットーに「ローマ皇帝」の冠を授け、ここに「ローマ帝国」が復活したのです。
しかし、正確に言えば、当時も「ローマ皇帝」はコンスタンチノープルにれっきとして存在していました。東ローマ帝国こそが古代ローマ帝国の正統を継承する「ローマ帝国」だったのです。私も便宜上、「東ローマ帝国」と記述していますが、これは歴史記述における便宜上の名称に過ぎず、当時のコンスタンチノープルを首都としていたこの帝国の政府や住民は自分たちの国を「ローマ帝国」と呼んでいたのです。当然、その君主は「ローマ皇帝」であり、それはコンスタンチノープルの正教会によって戴冠されて皇帝になっていたのでした。
ところが、本来はコンスタンチノープルの正教会(正統教会)の支部に過ぎないローマ教会が「カトリック教会(普遍的教会)」などと名乗って異教徒に媚びたような教えを勝手に布教するだけならまだしも、勝手にゲルマン人の酋長のような男に「ローマ皇帝」の冠を授けて、かつてローマ帝国の版図ですらなかった地に勝手に「ローマ帝国」の建国を宣言したわけですから、「本家」の「ローマ帝国」である東ローマ皇帝や正教会関係者が怒るのも当然でしょう。現代ならば商標登録違反で訴えられるところです。いや、事は国家の正統性に関わることですから、そんな穏便な問題では済まないでしょう。
実際、この962年のオットーの「ローマ皇帝」の戴冠による「ローマ帝国」の復活(一般には「神聖ローマ帝国」初代皇帝のオットー大帝の戴冠といわれる)以降、正教会とカトリック教会の間の関係は修復不可能なほど悪化するようになり、1054年の東西教会の相互破門事件などを経て、最終的には1204年の第四回十字軍によるコンスタンチノープル陥落と略奪行為によって決定的に正教会とカトリックは分裂することになります。
ローマのカトリック教会側としては、正教会の教義を離れてカトリックの教義を成立させた以上、正教会の支配から離れて独自にカトリックの信者獲得のための布教活動を行うしか道は無く、その布教対象は主にゲルマン人ということになりますが、ゲルマン社会で布教を行うためにはゲルマン諸侯たちの許可をいちいち得なくてはいけません。それが非常に面倒臭いのですが、それら諸侯たちの盟主であるオットーに取り入って布教許可を取り付ければ、後はオットーから諸侯に話を通してもらえばいいだけですから楽なわけです。そのために「ローマ皇帝」というキリスト教の主教からしか戴冠を受けられない肩書きを与えたわけです。ローマの主教に過ぎないローマ教皇にその資格があるのか微妙ではありますが、この際細かいことは無視されたのでしょう。オットーにとっても諸侯たちをまとめていくためには「ローマ皇帝」という権威は有用だと思えたことでしょうから。

こうして962年に現在のドイツとイタリア北部を中心とした地域に神聖ローマ帝国が成立したのですが、カトリック教会はその思惑を達成していくことになりました。ゲルマン世界の英雄であるオットーの後押しによってカトリックの教えはゲルマン社会に急速に広まっていき、また965年にはオットーに服従してハンガリー平原に定住するようになったマジャール人もカトリックに帰依し、翌966年には神聖ローマ帝国の東のポーランド平原の西スラブ族のポーランド王国もカトリックに改宗し、また同じ頃に北欧のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンなどのノルマン人の諸王国もカトリックを受け入れていったのです。そして1000年にはマジャール人の族長であったステファンという男がローマ教皇からハンガリー国王の冠を授かりハンガリー王国が成立し、折りしもこの年はキリスト生誕千年起にあたり、多くのカトリック信徒たちがローマに巡礼に訪れ、カトリック教会とローマ教皇の権威は大いに高まったのでした。このあたりからカトリック教会は少し変になっていくのです。
一方、神聖ローマ帝国のほうは、ほぼ同時期に東アジアで成立した宋帝国とは全く違い、「帝国」とは名ばかりの諸侯の連合体に過ぎませんでした。実際、まだ10世紀の段階では諸侯の権力を取り上げて皇帝に権力を集中させることが可能なほど、ゲルマン社会は成熟していなかったのです。まだ牧畜が主要産業の時代ですから、カール大帝の頃とそんなに大差は無かったのです。この頃はマジャール人をやっと服従させたばかりであり、まだノルマン人の侵攻は続いていましたし、それらの侵攻のための荒廃から復興していくのは次の11世紀以降のことになります。
ただ、この神聖ローマ帝国は、諸侯連合体であるゆえにそれをまとめる国王に「ローマ皇帝」という権威が不可欠であり、その「ローマ皇帝」という称号を得るためにはローマ・カトリック教会の長であるローマ教皇による戴冠が不可欠で、しかもローマ教皇は戴冠のためにいちいちドイツまで出張してきてくれないので、ドイツ諸侯の王はいちいち代替わりの度にイタリアまで遠征してローマに顔を出さねばなりません。平和な時代の旅行ではありませんから、いちいち戦争をしなければいけないということです。こういう余計なことを常に強いられたためにドイツの王は自分の足元であるドイツを固めるのが疎かになりがちで、このためドイツやイタリア地方における中央集権化は遅れることになるのです。つまり神聖ローマ帝国は弱体となる宿命を背負っていたということになります。
このような宿命を背負いこんでしまった最大の理由は、神聖ローマ皇帝がローマ教皇にその権威を依存していたからということになります。しかしローマ教皇は世俗的な権力をほとんど有しておらず、神聖ローマ皇帝に依存しなければ布教活動すらままならないのであり、神聖ローマ皇帝とローマ教皇は元来は相互依存の関係にあったといえます。これは末期の古代ローマ帝国皇帝とキリスト教会、また、東ローマ皇帝と正教会の関係と同じようなもので、カトリック教会は神聖ローマ帝国の国教となったということです。国教になったということは、カトリックは神聖ローマ帝国という国家に従属したということです。
しかし、当初は信者獲得のために神聖ローマ帝国を利用したカトリック教会は、布教活動の成果が予想以上に挙がり北西ヨーロッパ全域に勢力を拡大するようになった11世紀になると、この「帝国」とは名ばかりのドイツとイタリアの諸侯の寄せ集め政体の国教という地位には満足しなくなっていくのです。
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この記事に対するコメント

ぶっちゃけダメ元のつもりだったのにww
気づいたらいつの間にか卒業してたよ。
http://8e8ae.net/mp/0zvxcgb
これでやっと飲み会で妄想話さなくて済むwwwってか、卒業すると自信付くね、普通に。

【2008/01/27 08:26】 URL | グリーナー #63ak7VFI [ 編集]


源泉所得税とは、所得税は年間の所得が確定した後に確定申告を行い納税することになるが、その場合徴税が年度末後などに集中してしまい、政府の資金繰りが安定しない http://damfool2.rcrane4law.com/

【2008/11/17 07:14】 URL | #- [ 編集]



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【アジア】についての検索結果をリンク集にして…

アジア に関する検索結果をマッシュアップして1ページにまとめておきます…
あらかじめサーチ!【2008/01/27 02:35】





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