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日本史についての雑文その354 第三次シナ帝国
10世紀のイスラム世界やヨーロッパ世界は複雑化、分権化の道を進みつつ、後世に繋がる枠組みが成立していった時代であるといえますが、同時期の東アジア世界はどのようであったのかというと、これはまた違った展開をしつつも、これも後世に繋がる枠組みが成立していった時代でもあったといえるでしょう。
874年の黄巣の乱勃発によって唐王朝は長安付近のみの地方政権となり、各地の節度使が自立するようになり、中には王を自称する者も現れました。895年には太原において李克用が晋王を称し、901年には漢中において李茂貞が岐王を称し、902年には揚州において楊行密が呉王を称し、903年には成都において王建が蜀王を称するという具合でありました。

そして903年に黄河中流域を押さえて梁王を称した朱全忠が907年に唐王朝を滅ぼして開封を首都として梁帝国を興して皇帝を称したところ、各地の王や節度使が反発してこれに従わなかったため、この梁帝国は黄河流域一帯に勢力を及ぼすのみとなりました。この梁帝国を南北朝時代の南朝にあった梁と区別するため歴史上では後梁といいます。
後梁はそれでも華北においては当初は最大勢力を誇り、李克用の晋や李茂貞の岐を押さえつけていました。むしろ後梁に匹敵し得る大勢力は揚州を中心とした経済先進地帯を押さえていた呉と、成都を中心とした四川の豊かな土地を押さえていた蜀でした。そこで後梁の朱全忠は907年に呉の東の杭州で勢力を有していた銭鏐という塩密売人を呉越王に任じ、呉の西の湖南の節度使の馬殷を楚王に任じてそれぞれ呉を牽制させ、また自らの副将の高季興を蜀の東の荊南地方の節度使に任じて蜀を牽制し、これに対して蜀王の王建は皇帝を称して対抗しました。この蜀も、三国時代の蜀や後で出てくる後蜀と区別する意味で歴史的には前蜀といいます。
また909年には呉越の南の福建で節度使の王審知が自立して閩を建国したので、後梁の朱全忠はその南の広州で南海貿易で勢力を拡大して半独立勢力となっていたアラブ系の節度使の劉隠を南平王に任じ、その子が917年には皇帝を名乗り自立し、広州からベトナム北部までを版図とした漢という国を建国しました。これは歴史上は便宜的に南漢と呼称します。

その間、912年には朱全忠は悪政を繰り返した挙句に息子に殺され、荊南節度使の高季興は自立して荊南国を建国しました。それを見て李克用の後を継いでいた晋王の李存勗が後梁に対して攻勢に出て華北で晋と後梁が激しく争うようになり、その北の満州平原では916年に契丹人の可汗が皇帝を名乗り契丹帝国が興り、その南の朝鮮半島は三国分立状態でありましたが、その最北の後高句麗を乗っ取って918年に高麗が興りました。そして923年には晋は国号を唐に改め、唐帝国の復活をスローガンに掲げて後梁を滅ぼし、李存勗は洛陽に遷都して唐皇帝の荘宗として即位しました。これを便宜上、後唐といいます。
後唐は建国後すぐに岐や前蜀を滅ぼして、呉や閩を除く諸国も服従させて勢力を拡大しましたが、荘宗は唐時代への復古政策をとったため配下の武将たちの反感を買い926年にクーデターによって殺害され、その後は後唐は軍閥によるクーデターが連続するようになり政情不安定になっていきました。そうした状況の中、後唐から前蜀の故地の統治を任されていた武将の孟知詳は934年に自立して蜀皇帝を名乗るようになりました。これを便宜上、後蜀と言うのです。
後唐が内輪揉めしている間に北方では契丹がモンゴル高原を制圧し、渤海国を滅ぼして930年には沿海州からモンゴル高原に至る大帝国を築き上げ、また936年には朝鮮半島を高麗が統一しました。高麗は高句麗の後継国家を自認しており、契丹が滅ぼした渤海国も高句麗の遺民の作った国でしたから、渤海国の難民は高麗に多く吸収されました。そうなると国境を接するようになった契丹と高麗は自然に不仲になっていきます。
一方、後唐では内部の権力争いに敗れた有力軍閥の石敬瑭が契丹に臣従して、契丹軍と共に936年に後唐を滅ぼして開封を首都として晋帝国を建国しました。これを便宜的に後晋といいますが、この後晋は実質的に契丹の属国のようなもので、軍事援助の見返りに現在の北京付近のシナ人居住地帯である燕雲十六州という地方も契丹に割譲してしまいました。このような有様を見て後唐に服従していた地方の各国も後晋を見限って自立していき、南方の呉と結ぶ国も出てきました。
しかしその呉も937年には配下の武将の徐知誥に簒奪されて滅び、徐知誥は唐の後継者を自認して唐という国を建てました。これも他と区別するために南唐と呼ばれます。この南唐が945年には閩を滅ぼし、951年には楚を滅ぼし、華南に大きな勢力を築くことになります。その南唐の南の南漢においては、939年に北ベトナムの呉氏が独立して王と称して、呉朝を開きましたが、その後は諸勢力が乱立する状況となります。
華北の後晋は各国の離反によって振るわず、942年に石敬瑭が死去すると対契丹強硬派が政権を握り、これを不満とした契丹は946年に大軍を南下させて開封を陥れ、後晋を滅ぼし、国号を遼帝国と改めて華北を支配しようとしましたが、国内にシナ支配に反対する意見が強く、結局は翌947年に満州平原に引き返していきました。すると後晋の武将であった劉知遠という男が皇帝に即位して開封を首都にして漢という国を建てました。この国を歴史学的には後漢といいます。第一次シナ帝国の時の後漢は「ごかん」で、こっちのほうは「こうかん」と読むのだそうです。
ところがこの後漢は短命で、950年に配下の武将の郭威という男に滅ぼされてしまい、郭威は951年に周という王朝を興しました。これを後周といいます。また、後漢の皇帝一族の一部は北方の遼との国境付近の晋陽へ逃れ、漢という国を継続しましたが、これを北漢といいます。この北漢は遼の属国となり、遼と連合して後周に対抗するようになります。954年に郭威が死ぬと北漢は遼の援軍を得て南下して後周軍と戦いましたが、後周の2代目皇帝の世宗によって撃退され、これ以後、北漢は弱体化し、その宗主国たる遼の国内では、シナ文化を取り入れようとする派閥と、契丹独自の風習を守ろうとする派閥との内部抗争が続くことになり、これから20年以上も南へ目を向ける余裕が無くなります。

その間に後周の世宗は内政固めを行います。そもそも華北の政権が不安定で王朝が目まぐるしく交替する羽目になっていたのは軍閥(節度使)の勢力が強すぎたからです。これを抑えるために世宗は皇帝直轄軍を拡充して軍閥の配下の優秀な兵を引き抜いて皇帝直轄軍に組み入れました。この時代の兵は傭兵で、兵は待遇のいい軍を渡り歩いていましたから、皇帝直轄軍のほうが軍閥の軍よりも給金が良ければ簡単に引き抜くことが出来たのです。もちろん軍閥もそうした兵への待遇を良くするために支配地域の行政権を握っていたので、皇帝を圧迫するほどの勢力を持つことが出来ていたわけです。
そこで世宗は租税を引き下げました。租税が下がると軍閥の懐に入る中間搾取分も減りますから、軍閥の懐事情が苦しくなって軍閥の配下の兵の待遇が悪くなります。そこに皇帝直轄軍の好待遇の勧誘があれば、兵は皇帝直轄軍に移籍してくるというわけです。租税が下がれば皇帝の手元の金も減るのではないかとも思われるでしょうが、租税負担が減れば人民の可処分所得が増えて市場に多くの金が流れますから、流通上の利権を有している皇帝には有利なのです。ただ、そのためには市場を流通する多数の貨幣が不可欠ですが、唐末期から貨幣は慢性的に不足しており、そのために貨幣経済がいまひとつ成長しなかったのです。そこで世宗は銅の私有を禁止して皇帝が銅を独占する体制を作り、貨幣を大量に鋳造できるようにしました。また廃仏令を出して仏教を禁止し、仏教勢力の持っていた財産や権益を皇帝が没収すると共に、銅製の仏像を大量に鋳潰して貨幣の原料にしました。
このようにして世宗は皇帝の財産を増やして、その財産を使って軍閥の軍から兵士を大量に引き抜いて皇帝直轄軍に組み入れ、皇帝の権限強化と軍閥の弱体化を同時に達成したのでした。そしてここで重要なことは、こうした世宗の施策は租税の軽減を伴っていたことから人民に支持され、特に貨幣経済の進展という面において商業に携わる新興地主層に歓迎されたということです。
しかし、この新興地主層というのは「宗族」という父系血族集団のネットワークを相互扶助組織としてシナ全土に張り巡らせていたので、華北の後周においてのみ世宗の施策が行われているだけでは十分ではなく、こうなると各国が分立してその国境によって流通や貨幣経済の浸透が妨げられたりするのは新興地主層にとっては歓迎されざることになってきました。また、各国が分立していることによって銅の産出地も分断されており、それが統一されれば更に貨幣供給量が増えるという事情もありました。
いや、そもそも新興地主層にとっては本質的にシナ世界は統一した経済体であるほうが望ましく、分裂状態は彼らにとって利得の少ないことではあったのですが、戦乱の中では軍閥勢力のほうが発言力が大きく、新興地主層はいまひとつ伸び悩んでいたのです。軍閥勢力は分裂状態のほうが利得が大きいので、彼らの発言力が大きいうちは統一への機運が生じにくいのであり、そして分裂状態では新興地主層はあまり利益が上がらないので実力をつけることが出来ず、軍閥勢力を押しのけて統一への流れを作ることが出来ず、そうして五代十国時代の分裂状態はズルズルと続いていたのです。

五代十国時代というのは、シナ世界が群雄割拠状態で分裂している戦乱の時代という意味で、春秋戦国時代や五胡十六国時代と同じような時代だと考えられがちですが、それらの時代とは全く性格の違う時代です。春秋戦国時代の段階ではシナ世界はまだ「統一」という状態を知らない段階で、しかも途中で寒冷化によって農業が一旦壊滅して、ほとんどイチから社会を作り直す羽目になっており、その結末が始皇帝による統一で終わったということ自体、春秋戦国時代の人々にとっては全く予想もしなかったことであろうと思われ、つまり先の全く見えない延々と500年以上続く分裂状態が春秋戦国時代であったのです。いや、そもそも「統一」を知らない人々は自分たちの置かれた状態を「分裂」と意識することすらなかったでしょう。単なる戦乱状態と意識していたであろうし、それも500年も続けば、それが一般的な状態だと意識されていたことでしょう。
五胡十六国時代も完全な寒冷化時代で、先行する戦乱によってシナ人がほとんど絶滅し、産業が壊滅したような状態からスタートしているので、まず地域社会を構築するところから始めなければいけない時代で、その遥か先に「統一」という形は想像されていたとは思いますが、それは世界滅亡の後で生き残った人々が世界政府の樹立を夢想するようなもので、非現実的な空想に近いものでした。少なくともそれは遠い遠い目標であり、実際、再統一は南北朝時代も含めた300年近く後になってからのことになったのです。
しかし五代十国時代というのは温暖化の中で経済が成長を続けていた時代であり、「統一」が達成されるだけの社会成熟水準はクリアされており、常に「統一」を望む勢力も存在しながらも、地域経済の発展によって軍閥勢力もまた地方において勢力を伸ばし、その膨れ上がった利権を地域ごとに独占しようとする軍閥勢力という存在がネックになって分裂状態が続いていただけのことで、軍閥勢力を有効に抑え得ることが出来れば、「統一」は短期間に達成される状態にあったといえます。それを行おうという意思を持った政体は華北にしか存在しなかったわけですが、その華北の政体が非常にだらしなく、短期間で次々と王朝が交替する有様であったので、いつまでもシナ全土の分裂状態が放置されていたのです。言うなれば華北における「五代」という不安定状態がシナ各地の「十国」という分裂状態を継続させる要因になっていた時代が「五代十国時代」ということになります。
したがって、「五代」の最後の5つ目の王朝である後周において、やっと世宗という名君が出てきて軍閥勢力を弱体化させたことによって、一気にシナ統一の機運が盛り上がり、各地の地方政権はほとんど自壊に近い形で、意外なほどにあっけなく崩れていくことになるのです。それはシナ世界の統一市場の出現を望む新興地主層の意向に沿った時代の動きであったのです。

後周で世宗が即位した954年時点での各地の勢力は、華北の後周の北方の遼との国境付近の晋陽に北漢があり、後周の南の国境線は淮河のあたりで、その国境線に接するのが東から順に南唐、荊南、後蜀の3国で、このうち南唐が最も強大で華南の大部分を押さえており、南唐の東の杭州を中心としたあたりに呉越があり、南唐の南の広州を中心としたあたりに南漢があるという情勢でした。
そこで世宗は954年に北漢と遼の連合軍を斥けた後は、955年から国内改革と同時進行で南唐と後蜀を攻め、958年までに南唐から長江以北の地を奪い、後蜀からは漢中の地を奪いました。またこの際に南唐の支配下にあった楚が再び独立し、南唐は弱体化しました。これらによって大勢は一気に後周による統一に傾いたのですが、959年に世宗が死去すると世宗の第一の腹心で後周の皇帝直轄軍の司令官であった趙匡胤という武将が諸将によって擁立され、趙匡胤は後周から禅譲を受けて960年に宋を建国することになったのでした。
趙匡胤はこの時33歳で開封を首都として宋帝国を建国して皇帝となったのですが、この人はシナ歴代皇帝の中でも名君として知られる人で、戦乱のシナを統一して平和をもたらしたことや、皇帝独裁型の官僚制国家を作り上げたことなどが功績ではありますが、この人のとにかく偉いところは、決して急がなかったことです。
960年の宋建国の時点で趙匡胤はシナ世界で最大の軍事力を握っていましたから、その気になれば短期間で軍閥勢力を力で圧服させることも出来たであろうし、地方の諸国を一気に滅ぼすことも出来たであろうと思われます。しかし趙匡胤は基本的に世宗の方針を引き継ぎつつ、その強大な軍事力を背景にしながら実に根気強く軍閥勢力を硬軟取り混ぜた手法で説得してその権限を徐々に奪っていき、その間に科挙合格者を重要な役職につけるようにし、官僚任命権と軍隊指揮権を皇帝のものとするという制度改正を行い、いつの間にか節度使を単なる名誉職としてしまい、軍人は官僚によって統制されるという文治主義への転換を成し遂げたのでした。
これを性急に無理押しして行えば軍閥勢力の反発を買い、趙匡胤には逆らえないにしても将来的には反乱の芽は残り、また乱世に逆戻りする可能性はあったでしょう。趙匡胤が無理押しを嫌ったのは恒久的な平和を望んだからです。それは彼が平和主義者であったとかいうわけではなく(彼は生粋の軍人でした)、彼の統一事業を後押ししていた新興地主層が平和を望んだからでした。何故彼らが平和を望んだのかというと、それは平和に統一されたシナのほうが彼らの商売に都合が良かったからでした。
そういうわけで統一事業のほうも趙匡胤は決して将来の禍根を残さないように慎重に進めていきました。彼は決して大義名分の立たない戦を仕掛けようとはせず、諸国が討伐の口実を提供するような失敗を犯すのをじっと待ち、またそのような失敗を犯すように周到に仕向けていきました。そしていざ討伐ということになっても決して始皇帝のような殲滅戦は行わず、出来るだけ無駄な流血は避けて相手の降伏を勧告し、降伏してきた敵国の指導層は手厚く遇して(もちろん実権は剥奪した上でですが)決して殺しませんでした。それもこれも別に彼がヒューマニストであったからではなく、将来の反乱の大義を与えないためでした。
まず趙匡胤は963年に大陸中央部の荊南と楚を併合して、手強い南唐と後蜀が連携するのを阻止しておいて翌964年から後蜀を攻め、965年には後蜀を併合し、更に970年に広州の南漢を攻め落として南唐を包囲し、974年にはシナ統一の最大の難敵であった華南の南唐を降し、残る地方勢力は杭州の呉越と晋陽の北漢のみとなったところで976年に趙匡胤は急死してしまったのでした。しかし後を継いだ弟の趙匡義が統一事業を受け継ぎ、978年には呉越が降伏し、979年に北漢を滅ぼして宋はシナ統一を成し遂げたのでした。また、趙匡義は兄の政治路線も受け継ぎ、文治主義政策を更に拡充して完成させました。
日本人的に分かりやすいイメージで言えば、100年ほどの下克上の徹底した戦乱の続いた五代十国時代というのは日本で言えば戦国時代で、この宋による統一時代というのは戦乱を収めて泰平の世を開いた江戸時代初期の頃に似ており、慎重かつ穏便、そして周到な「待ち」の政治家であり、なおかつ最強の武将でもあった趙匡胤という人は、日本で言えば徳川家康にイメージが近い人であるといえるでしょう。

この趙匡胤が実質的に第三次シナ帝国の基本形を作ったといえます。それはどのようなものかというと、宋帝国について一言で言えば、貴族や軍閥が没落して権力が皇帝のみに集中した独裁制国家で、実務に関しては皇帝の下にある科挙で選ばれた官僚によって構成された巨大な官僚機構が担う国家であるとされています。しかし、貴族層の消滅と科挙の重視という点では特徴的ではありますが、これでだけの定義では基本的に第一次、第二次シナ帝国とそう大差ない感じです。また、あまりにも暗い独裁国家のイメージでもあります。確かに後に明の時代になると、この第三次シナ帝国の負の側面が前面に出てきて、まさに暗い独裁国家そのものになっていくのですが、それは明の時代から再び厳しい寒冷化の時代になったことにも起因しており、むしろ温暖化時代の宋においてはそうした暗いイメージは無く、目覚しい経済発展を遂げています。そもそも独裁国家だといいながら、その肝心の独裁者であるはずの皇帝の個性が、始祖の趙匡胤を除けば殆ど見えてこないのが宋帝国であり、だとすれば宋の時代に作られた第三次シナ帝国の当初のコンセプトは暗い官僚独裁国家ではなく、むしろ陽性の商業国家がその本質なのではないでしょうか。
宋のシナ統一の300年後の1279年に宋(南宋)が元(モンゴル)に滅ぼされますが、その滅亡時の抵抗は激しく、宋に殉じた忠臣は他の王朝の滅亡時に比べて異常に多く、だいたいはシナにおける王朝滅亡はもっとあっさりしたものなのですが、それはそれだけこの宋という国が決して独裁者である皇帝の独占物ではなく、彼ら官僚たちにとって自己同一化を図れる国だったということを意味しており、官僚たちは単なる皇帝の手足であったのではなく、実は官僚たちこそが宋の主役であり建国者であったのではないかと思われます。そして官僚は科挙を受験して合格した者たちですから、その実態は新興地主層であり、商人層であったのです。
つまり、宋という国の成り立ちは、皇帝がシナを統一して上から独裁を押し付けたのではなく、地主層や商人層のような富裕層が統一されたシナ経済共同体を望み、統一されたシナ経済共同体を作り維持していくためには権力を皇帝に一本化して独裁体制を敷くことが求められたから、下からの独裁を求める要請によって作られた国家なのだといえます。

富裕層がシナ全土にそれぞれの宗族ごとに張り巡らせた商業ネットワークを合体させてシナ全体の統一された経済共同体を作り上げ、それを統一的に運用していくためには中央集権型の巨大な官僚機構が必要で、その巨大官僚機構が地域ごとに軍閥化しないようにするためには官僚たちの権限を出来るだけ制限して皇帝に権限を集中させ、「皇帝あってこその官僚」といえるほどの皇帝独裁体制を作らなければいけないのです。しかし皇帝独裁体制とはいっても、その手足となる官僚が科挙を通じて富裕層の独占物となることによって、官僚機構とその官僚機構によって指導される経済共同体とは一体化することになり、実態は富裕層が動かす経済共同体の上に独裁者である皇帝が乗っかっている形となります。
これは決して民主的システムなのではありません。あくまで独裁は独裁であり、民意を汲み上げるシステムは存在しないからです。ただ経済的な統一体をシナ世界に打ち立てるために富裕層の意思という一種の「民意」が皇帝独裁を望んだのです。まぁ民意が独裁を望むというのは、ある意味では民主主義の究極の形であるとも言えるかもしれませんが。
つまり、まず大事なのは経済的統一体を作ることであり、その達成のために1人の支配者とその他全員の被支配者とに構成員を峻別するという皇帝独裁体制を作り、実質的な国家の主役である富裕層は自ら被支配者の側に立って経済活動に専念することを望むという構図になるわけですが、こうなると宋帝国の本質は「国家」というよりは、むしろ「宗族細胞が集合したシナ全体の経済的統一体」がその本質の姿ということになります。これに近いイメージとしては、EUからEU議会を取っ払ってEU議長の権限をもっと強大化して官僚機構を大きくすれば宋帝国のイメージに近いかもしれません。つまり「超国家的な経済共同体」が宋帝国の本質であり、五代十国時代の国境線は表向きは消滅しましたが、それは経済的要請に基づくものであり、経済は一体化されましたが、あくまで文化的にはそれぞれの地域は異国のままであり、それらの異国同士を宗族単位の経済活動の円滑化のために経済的に一本化したものが宋帝国であり、第三次シナ帝国の本質であったのです。それゆえ、複雑化、分権化の中世の世界的趨勢の中で経済的要請によって例外的に極端な中央集権化が実現されたのです。

この第三次シナ帝国は、その本質部分を共有するという点において、宋、元、明、清と932年間も継続することになるのですが、その本質が「異国同士を宗族単位の経済活動の円滑化のために経済的に一本化したもの」であるゆえ、この第三次シナ帝国というシステムが継続している間は王朝の交替があっても各地域がバラバラになるということは無かったわけですが、1911年の辛亥革命によって第三次シナ帝国が滅んだ途端、五代十国時代のような軍閥による群雄割拠状態に戻ってしまったのです。
宋、元、明、清はそれぞれ支配体制は微妙に違っており、第三次シナ帝国として一括りにするのは無理があるという意見もあるかもしれませんが、支配体制が微妙に違うのは支配層が入れ替わっているのですから、それぞれの支配層が自分達が支配しやすいように制度の修正をいくらか行うのは当たり前のことであり、それは所詮はごくごく一部の社会の上層部だけの変化であり、社会の大部分である被支配者層のほうは932年間通してほとんど変化していないのです。
皇帝が唯一絶対の権力を持つ独裁者であり、その手足となる官僚は科挙に合格した知識人であり、官僚を輩出したのはいわゆる士大夫階級と呼ばれる富裕層であり、士大夫階級はその官職による特権を利用して財産を貯め込み、また官僚は自らの宗族の経済活動に便宜を図り、富裕層の宗族は相互扶助的に機能して経済活動を担っていきました。どんなに有力な宗族であっても、その宗族の誰かが官僚となって皇帝の手足となることはあっても、決して宗族単位で統治に関与するということはなく、支配者はあくまで皇帝とその分身としての官僚機構という非人格的存在のみであり、あくまで支配される側に立って経済活動のみに専念して租税を徴収されるのがシナ人民の姿でありました。そうした社会構造は宋、元、明、清の治世下におけるシナ人社会に共通したものであり、それゆえこれらを第三次シナ帝国のシステムとして一括りにしていいのではないかと思うのです。

このように書いてみると、この第三次シナ帝国というものは先行する第一次、第二次シナ帝国とはかなり異質なもののように感じられます。確かに根本的に違う部分も多くあります。しかし皇帝が唯一絶対の権力者であるというシナ帝国の原理についてはこの第三次のほうが第一次や第二次よりも徹底しており、より理念型に近づいているといえます。そして第三次シナ帝国においてはまず経済共同体があり、そこから官僚機構の必要性が生じて、そしてその上に君臨する皇帝が必要になるという筋道になっているため、皇帝独裁の根拠を示すことが出来ません。そこで皇帝独裁の根拠を提供する理念として第一次シナ帝国以来の儒教的シナ帝国思想が使われることになります。それゆえ官僚選抜試験である科挙の科目も儒教知識の確かさを問うものとなるのです。
つまり、第三次シナ帝国は実質的には国家ですらない超国家的な宗族細胞の集合した経済共同体でありながら、表向きは儒教的な有徳君主の支配する中華帝国であるという、表と裏で大きなギャップのある存在であったのです。言い換えれば、第三次シナ帝国を支える顕教は儒教であり、密教は宗族制度を支える祖霊信仰と拝金主義ということになります。この顕教のほうは主に支配者層に信仰され、密教のほうは被支配者層に信仰されることになります。この顕密、建前と実質のギャップが後に中華主義思想を生み出す原因となるのです。
この第三次シナ帝国というシステムが932年間という長きにわたって継続していた間、日本においては全く違った国家システムが発展しており、もともと根本的に違った文明同士であったのですが、唐時代においては一時的に似通った文明システムを採用して少し近づいたこの両国でしたが、その後、シナは上記のような第三次シナ帝国の道を歩み、日本は日本で独自文明の道を歩むという、900年以上にもわたる別々の道を歩んだため、結局、全く異なった文明となったのです。

それにしても、どうして第三次シナ帝国のシステムは932年間も継続したのでしょうか。それはまず、この第三次シナ帝国のシステムが先行する第一次や第二次のシナ帝国のシステムに比べて完成度が高かったからであるといえます。第一次や第二次の頃は集権派と分権派の対立というものが常にありましたが、この第三次シナ帝国のシステムにおいては分権派というものが存在せず、集権派のみが存在して政権は安定していました。そして、細かな問題点はあったものの少なくとも経済的には宋が滅びるまでの300年間はこの第三次シナ帝国システムは上手く機能して多大な成果を挙げたので、シナ人達はこのシステムを歓迎して受け入れたのです。
しかし、宋滅亡以降に関しては、まず異民族王朝であった元においてはシナ人に馴染みのある統治システムということで温存されたと解釈すべきであり、そして元を北方に追ってシナ人の王朝を再興した明においては、それは最初は宋のシステムの復活として採用されましたが、地球が急速に寒冷化していく中でこのシステムはプラスの方向で機能しなくなり、まず経済共同体があって皇帝独裁官僚制があるという宋の時代とは全く逆にネジが巻かれるようになり、まず皇帝独裁官僚制ありきで経済共同体はそれに奉仕させられるような、暗い独裁国家に変わっていったのです。しかしそうした暗黒化したシステムもまた、第三次シナ帝国のシステムであるという点は同じなのであり、その明を滅ぼした異民族王朝の清もまた、その暗黒化された第三次シナ帝国のシステムをシナ人統治システムとして温存したのでした。そのように元や明や清の時代に第三次シナ帝国システムが人民を苦しめるようになるにつれて、シナ人社会もまた変質していくようになるのです。そのようにして出来上がったシナ帝国というものに私達日本人が明治維新以後に邂逅した時、日本社会とのあまりの異質さに驚くことになるのです。

それにしても、なぜ宋においては人民(富裕層に限るかもしれないが)にとって有益に機能していた第三次シナ帝国のシステムが、その後の時代においては逆回転したように皇帝や官僚機構の暴政を容認するシステムに変質してしまったのでしょうか。
それは、この第三次シナ帝国システムの本質が国家ならぬ経済共同体であったために、経済共同体の上に付け足しのように独裁的統治者として皇帝を置き、「皇帝=支配する側」と「経済共同体=人民=支配される側」の間の関係性を希薄なものとしたため、皇帝はシナの人民から全く遊離した存在、極論すれば異民族の族長でもカルトの教祖でも構わない状態になり、温暖化時代においてはそれでも皇帝と人民があまり干渉し合わずに経済成長に邁進していけばよかったのですが、寒冷化時代になって限られた資源を皇帝が酷政をもって人民から奪い取ることに罪悪感を感じる必要の無い体制を作る結果となってしまったのです。
そのような方向に第三次シナ帝国が変質していくきっかけとなったのが異民族王朝である元による支配ですが、異民族がシナ人社会を支配するということにおいて元の先駆けとなったのが金で、そのまた先駆けとなったのが遼、すなわち契丹でした。第三次シナ帝国のシステムを変質し、(悪い意味でですが)完成させることになるのは、この契丹に始まる「征服王朝」という統治手法なのです。
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この記事に対するコメント

ちょ!!なんか適当にやってたらマネーもらえたんけど(笑)
コレってそういうもん?
インド人もびっくりだよね!!
http://ame-tk.net/ma/mogilgz

【2008/01/30 06:29】 URL | TAMURA #63ak7VFI [ 編集]


郵便局の検索サイト。営業時間、振込み、アルバイト、再配達、イラストなど郵便局に関する各種情報をお届けしています。 http://anolin.santamonicatravelodge.com/

【2008/11/16 11:46】 URL | #- [ 編集]



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