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日本史についての雑文その355 澶淵の盟
宋帝国がシナ統一を果たした979年は、日本においては円融天皇の治世で藤原頼忠が関白を務めていました。頼忠は摂関政治の基礎を築いた忠平の孫で、頼忠の次の関白がその従兄弟で藤原道長の父の兼家で、つまりはこの時代の日本は既に摂関政治の全盛期で、地方では有力貴族の荘園がますます増え、武士が興起してきていました。宋が志向していた皇帝独裁型官僚制とは全く正反対の方向へ進んでいたといえるでしょう。また、この後の日本の指導層も宋からの珍しい舶来物には興味は示しましたが、宋の政治制度を見習おうという機運は全く生じませんでした。
しかし日本のお隣の朝鮮半島を936年に統一した高麗は高句麗の後継国家を自認していたため北進政策をとり、北方の契丹(遼)と対立することになったため、その対抗上、シナへの傾斜を強めるようになり、958年には早くも科挙を導入し、963年に宋によるシナ統一事業が開始されるとすぐに宋に朝貢して服属しました。その後も高麗は宋の政治制度を取り入れていき、宋と歩調を合わせて遼に対抗していくようになりました。それまでは比較的似通った道を歩んでいた日本と朝鮮半島の道がこのあたりから決定的に違ってくるようになった最初のきっかけは、遼の脅威の有無の差であったといえるでしょう。
高麗の朝貢を受けた宋はシナ統一を進めていき、皇帝独裁型官僚制国家を建設していきました。その実態はシナ人の宗族細胞の集合体である超国家的経済共同体であったのですが、表向き皇帝の独裁を正当化する論理は第一次シナ帝国以来の儒教的華夷秩序思想でした。それは野蛮な周辺異民族が皇帝の徳を慕って朝貢したり冊封を求めてくるということをもって皇帝の高徳を証明し、そんな高徳の皇帝に支配されるシナ社会は丸く治まるのだから皇帝の支配は正当なものであるということが証明されるという思想です。これは「徳の高い者が統治すれば世は上手く治まる」という儒教の「徳治思想」を前提とした思想です。
このようなシナ古来の礼儀作法に通じた者が文明人でそうでないものは野蛮人であるというような思想は儒教を信奉していない者にとっては世迷事のようにしか受け取れないものなのですが、不思議に儒教を信奉するようになるとこれが当然のことのように思えるもので、高麗の支配層などは当初は遼への対抗のために宋に倣ってこうした政治思想を導入しただけだったのですが、そのうちに本気でこうした儒教思想に染まるようになっていき、シナ皇帝の高徳性を信じるようになり、自分たちもシナ皇帝の高徳を慕って朝貢したかのように思うようになり、そうすることによって自分たちも徳化され文明化され中華の民の仲間入りをしたかのような意識を持つようになっていったのでした。あるいは大国である遼に対抗していくためには文明度においては高麗のほうが上であるという意識を持つ必要があって、それで儒教思想が必要とされたのかもしれません。
そういう高麗のような国を相手にしている分には宋の儒教的華夷秩序思想も通用していたのですが、他の周辺国から見ればこの時代においては既に全く時代錯誤な考え方でしかなかったのでした。そうは言っても他に皇帝独裁体制を正当化する論理も無かったので、宋としてはこの論理を建前論として押し通すしかなく、この建前と現実のギャップがこの後の東アジアの国際関係に影響を及ぼしていくのです。

979年の宋によるシナ統一の仕上げは北漢の征服であったのですが、北漢そのものは諸国の中ではかなり弱体なほうで、別にもっと早くに宋に併合されていてもおかしくなかったのです。それが最後の最後まで残されていたということは、宋としても北漢の後ろ盾になっている遼と戦うためには、まずは南方の諸国を併合しておく必要があると判断したということでしょう。つまり宋にとって北漢の併合はシナ統一の総仕上げなのではなく、遼との戦いの始まりを意味するものであったのです。
それは北漢を滅ぼすことによって遼が報復のために攻め込んでくるということを意味するわけではありません。宋としてはいずれ遼とは戦うことは予定内のことであり、そのために南方諸国を併合し、最後に北漢という遼の衛星国家を滅ぼすと同時に遼に攻撃を仕掛けるつもりであったのです。つまり、宋の側が戦争を望んでいたわけです。
何故、宋は遼を攻めようとしたのかというと、シナ皇帝としての正統性を得るためでした。正統なシナ皇帝として独裁統治を認められるためには徳を示さなければならず、徳は版図の広さや朝貢国の多さで決まります。少なくとも唐の末期におけるシナ帝国の版図は確保しなければ正統な皇帝とはいえません。シナ帝国の版図といってもその固有領土の範囲は曖昧なのですが、北方の国境は割と明確で、万里の長城より南はシナ固有の領土と考えていいでしょう。だから万里の長城以南を統一支配すればシナ皇帝としては一応正統といえるわけです。ところが、いくら五代十国の群雄諸国を統一しても、936年に契丹(遼)が後晋から奪取して以来占領したままの燕雲十六州は残ります。つまり宋はシナ統一事業の最後の仕上げとして遼を討って燕雲十六州を奪還しようとしたのです。この宋による979年の侵攻を遼はなんとか撃退して燕雲十六州を守りきるのですが、この頃の遼は内紛が続いていて、なかなか宋の攻勢に対応するのが難しい状況にありました。

契丹は生粋の遊牧民族であったのですが、926年に農耕国家である渤海を滅ぼした際にその故地に渤海人の官吏を使った傀儡国家である東丹国という国を作り、農耕民族である渤海人を農耕民族の流儀で間接統治しようとしました。契丹の本国のほうでは遊牧民を遊牧民に見合った統治手法で統治していたのですが、それとは別に農耕民たる渤海人は農耕民の流儀で統治しようという二元統治方式というわけです。こういう手法は唐の異民族統治のやり方を参考にしたものでしょう。
ところが渤海人の官吏たちがみんな逃亡して高麗に行ってしまい930年に東丹国は崩壊してしまい、仕方なく契丹人が直接、見よう見まねで渤海人に対しては農耕民族用の統治をすることになり、それが何となく上手くいったので、契丹の2代目皇帝の太宗はシナも同じようにして統治できるのではないかと思うようになったのでした。そこで936年に後唐の中の権力争いに敗れた石敬瑭が契丹を頼ってきた時に、軍事支援を与える見返りにシナ支配の足がかりとして万里の長城より南の燕雲十六州を譲渡させる盟約を結んだのです。そして盟約に従い契丹の軍事支援を受けた石敬瑭が後唐を滅ぼして後晋を建て、燕雲十六州は契丹に引き渡されたのでした。契丹はこの燕雲十六州にも渤海旧領と同じように農耕民用の統治を行いました。これが後に「征服王朝」といわれる異民族によるシナ人統治の最初の事例となります。
そして946年に後晋が契丹を裏切ったのを受けて太宗は大軍を南下させて後晋を滅ぼし、華北一帯を占領し、この時点で国号を契丹から「遼」に変更しました。「契丹(キタイ)」という異民族風の国名から「遼」という、いかにも中華王朝風の気取った国名に変えたことから見ても、太宗としてはこのまま華北に居座って燕雲十六州におけるシナ人支配の形を華北全体に拡大してシナ帝国を打ち立てようとしていたと思われます。ところが遼の武将たちにこれに反対する者が多く、そのような不安定な状況で華北に留まることを不利と考えた太宗は軍を北方へ引き返し、その帰路の途中で947年に死んだのです。これで太宗のシナ帝国樹立の野望は頓挫したのでした。

何故、太宗はシナ帝国を樹立しようとし、そして何故、配下の武将たちはそれに反対したのでしょうか。それは南北朝時代の北魏の孝文帝の漢化政策の例を見ればよく分かることで、遊牧民国家をシナ帝国化する目的は部族社会の影響力を弱めて皇帝への権力集中を図るためなのですから、太宗は遊牧民国家である契丹を「遼」というシナ帝国に生まれ変わらせることで皇帝権力を強めようとしたのであり、配下の武将たちが自分たちを弱体化させようとする太宗の企みに反対したのは当然のことであったのです。
北魏の時は地球寒冷化の時期でしたから北方遊牧民も華北へ下りてきて農耕化せざるを得ない事情もあったので、結局は孝文帝の思い通りになったのですが、遼の時期は地球は温暖化しており、満州やモンゴルの草原地帯での遊牧生活に何ら支障は無いわけですから、遊牧民の諸部族にしてみれば何もわざわざ太宗の思惑に乗って華北に移住する必要など無く、北方で遊牧帝国を維持していればいいのです。そういった「遊牧生活重視派」の意向も尊重しつつ、シナを支配して皇帝権力を強化した帝国を作りたいという野心も捨てきれない太宗を中心とした「漢化政策推進派」も存在し、この二派の妥協の産物が「支配下の遊牧民は遊牧民の支配方式で、農耕民は農耕民の支配方式で治める」という「二元統治方式」であったといえるでしょう。
太宗は本音では支配下の遊牧民も農耕民と同じように中央集権的に支配したかったのでしょうが、「遊牧生活重視派」の抵抗が大きくてそれが出来ず、それで二元統治方式に甘んじていたのですが、946年の華北占領という好機を得て、一気に「漢化政策推進派」に比重を置いた政策をとって二元統治を解消して支配下の全ての人民に中央集権支配を及ぼそうとして、それで国号を「契丹」から「遼」に変更までしたのですが、この時もやはり「遊牧生活重視派」の激しい抵抗でその野望は頓挫し、北方の草原地帯へ引き上げていくことになったのでした。
その引き上げ途中で太宗は死に、その後も二元統治方式は維持され、北方草原地帯では遊牧民的な分権的統治が行われ、燕雲十六州や渤海旧領ではシナ帝国的な集権的統治が行われました。そして遼では「遊牧生活重視派」と「漢化政策推進派」との抗争が続くことになるのです。太宗没後の遼の歴代皇帝は基本的には漢化や中央集権化を進めようとするのですが、それが行き過ぎると反対派から暗殺されたりして国内は乱れました。そうこうしているうちにシナでは宋による統一が行われ、979年に燕雲十六州の奪還を目指して宋が遼に攻め込んでくるようになったのです。

こうなってくると降りかかる火の粉は払わねばなりませんから、遼軍も応戦して逆に宋の領内に攻め込んだりするようにもなりました。すると遼の国内の「遊牧生活重視派」も皇帝が宋と戦ったり場合によっては華北に攻め込んだりすることは許容せざるを得なくなってきました。それでも遼のシナ帝国化は断固として受け入れられませんから、ここで皇帝を中心とした「漢化政策推進派」との間で話し合い、妥協点を見出すことにしたのだと思われます。それは、皇帝の権限強化を容認して対宋政策を一任する代わりに、遼はあくまで遊牧帝国であり、華北に領土を拡張しないこと、二元統治を継続して遊牧民の生活を尊重することを確認したというような感じであったのだと思われます。
そうした合意の証が982年に6代皇帝の聖宗の即位と同時に国号を「遼」から再び「契丹」に戻したということであろうと思われます。これは新皇帝の聖宗から国内の「遊牧生活重視派」に対する「あくまで遊牧帝国であり続ける」という約束の証であったのでしょう。こうして契丹は再び国内の意思統一がなされて周辺に向けて拡張していくことになり、北方草原地帯を本拠地とした遊牧帝国でありながら、周辺諸国から朝貢を受ける中華帝国的な存在になっていきます。
契丹は985年には満州平原の東に居住する女真族を服属させ、986年、988年には宋に侵入して燕雲十六州を若干拡張し、990年には黄河上流域の銀州や夏州に拠って宋からの独立を図る李継遷というチベット系のタングート族の族長を西夏王に封じて支援し、西方進出の足がかりとし、993年には高麗を攻撃して、翌994年には高麗も契丹に朝貢するようになりました。
高麗の指導層は科挙を導入して儒教的価値観を受け入れて50年ぐらい経っていましたから野蛮人の契丹を天子と仰いで朝貢するのは屈辱であったでしょうが、頼りの宋が契丹に押されている状況では背に腹は代えられなかったのでしょう。契丹も高麗がちゃんと臣下の礼をとっている限りにおいては高麗に対して好意的で、後のモンゴルのように内政干渉してくるようなこともありませんでした。但し、高麗が臣下の礼を怠った場合にはしばしば懲罰のために高麗に攻め込んで国土を蹂躙しました。高麗も高麗でどうしても契丹に素直に服属できない部分があって、宋にも朝貢するという両属外交を展開していたので、そうした契丹に対する面従腹背な外交姿勢がしばしばそういう事態を招いたのですが、民衆には迷惑な話でありました。

このように高麗や、そして西夏も契丹にだけではなく宋に対しても朝貢し冊封を受けているという両属外交をしていましたから、宋としては一応の面子は保っていましたが、北方に宋の思い通りにはならない「もう1つの中華帝国」ともいえる契丹が存在し、しかもその契丹に燕雲十六州を占領されたままであるという現実は、宋帝国の正当性にとって少なからぬ打撃でありました。そこで宋は北方で失われた面子を南方で取り戻そうとしてベトナム方面に目を向けました。
北ベトナムに住んでいたのはキン族といって、もともとはシナ南部に住んでいたオーストロネシア系の旧モンゴロイドの一派で、この地はもともとは唐の直轄領で、五代十国時代は当初は南漢の領土であったのですが、939年に呉(ゴー)朝が興り南漢から自立した勢力となり、その後、豪族勢力の群雄割拠状態を経て968年に丁(ディン)朝が成立して南漢に朝貢して交趾王の位を受けていました。つまり冊封を受けていたわけですが、日本のように一度もシナ帝国の直轄領になったことのない地とは違い、シナ帝国の直轄統治を受けたことのある地の王朝に対してはシナ帝国の潜在的にせよ顕在的にせよ直轄地へ組み込もうとする志向は非常に強く、そういう地においては日本のように全くの独立独歩の姿勢を示すよりも、むしろ冊封を受けてシナ側の自尊心を満足させながら実質的な独立を既成事実化していくほうが軋轢が少なくて良いのです。
北ベトナムの丁朝は、まさにそのようにしていたのであり、971年に南漢が宋に併合されると973年には宋に使節を送り朝貢し、やはり交趾王の冊封を受けたのですが、北ベトナム国内向けには皇帝を自称して独自の年号を使ったりして、実質的な独立国であることを暗黙のうちに宋に認めさせていたような状態でした。
この丁朝を倒して北ベトナムの覇権を握った黎(レー)朝が980年に宋に朝貢してきて丁朝と同様の待遇を求めてきた際、宋はこの王朝の継承が正当なものではないと難癖をつけて懲罰のために北ベトナムに出兵したのでした。これは北ベトナムを直轄領に編入して唐時代の版図を回復して宋の皇帝の徳を示すためという考え方が根底にありましたが、より直接的には前年の979年に遼に敗れて燕雲十六州の奪還に失敗した汚名を南方の北ベトナムで雪ぐためというのが主要な動機でありました。
しかしこの北ベトナム侵攻は泥沼化し、北方で遼が契丹と改名して勢力を拡大して宋の権威を低下させている間、宋は北ベトナムで黎朝との戦いに足をとられることになり、結局998年に黎朝の王を南平王に冊封して、黎朝の北ベトナム支配を実質的に認めることになったのでした。これを受けて黎朝は調子づいて広東方面に頻繁に侵入して略奪行為などを行ったりしましたが、宋は取り立ててこれに対処しようともしませんでした。

宋としては北方国境においても南方国境においても、表向きは儒教的シナ帝国思想を掲げて夷を討って、シナを統一支配するに相応しい宋の皇帝の徳を示そうとしていましたが、そもそも宋によるシナ統一自体が平和統一されたシナ経済圏における商業の活性化が目的であったのであり、それを実現し拡大することが真の意味での宋皇帝の徳を示すことになるのでした。ならば徒に国境紛争ばかり繰り返すというのは本来の意味での宋によるシナ統一の目的に反するものであり、宋皇帝の徳を損なう結果をもたらすのでした。
宋の軍事的勝利によって簡単に平和がもたらされるのであればそれが最善なのですが、10世紀の末頃になると宋の軍事力の弱体化は明らかになってきて、北方国境においても南方国境においても宋の一方的勝利による平和到来という可能性は低くなってきました。どうしてそんなに宋の軍事力が弱体化したのかというと、宋朝の始祖の趙匡胤が偉大過ぎたために彼の施策が全て「祖法」として絶対化されるようになり、彼の進めた文治政策も絶対化されて976年の彼の死後に更に極端に進められるようになり、武将は文官の下に置かれるというのが文治政治ですが、これの極端化によって、文官の地位はますます高くなり、武将や兵の地位はますます低下するようになり、そうした傾向が四半世紀近くも続くうちに優秀な人材は将兵にならなくなり、将兵の質が非常に低下してしまったのです。それで宋の軍隊は数は多くても烏合の衆となってしまい弱くなったのです。
こうなってくると宋としても儒教的シナ帝国思想にばかり拘っているわけにはいかず、現実的になって経済優先で平和への道を模索していかねばならなくなってきました。かといって全く儒教的な名分が立たないようでは宋の皇帝の面子は丸潰れですから、なんとか落とし所を見つけていかなければいけないわけです。南方国境における落とし所が北ベトナムの黎朝を冊封国とすることでその独立を事実上容認するというところだったのでしょう。後は北方国境における落とし所を探していくということになりますが、そういうところに1002年に西夏が宋に背いて河西回廊の東端にあたる霊州を陥れ、宋がその対処に追われている時に、1004年に西夏と結んだ契丹が大軍を率いて南下してきて黄河中流域の澶州で契丹軍と宋軍の大軍が睨み合うことになりました。宋としても二正面作戦の不利を口実に講和を結ぶチャンスが到来したということになります。

この時、契丹側は講和の条件として領土の割譲を要求しましたが、宋側はそれは呑めないとして国境線の現状維持の代わりに毎年宋から契丹へ財貨を提供することを提案し、財貨提供の見返りに、宋を兄、契丹を弟とする盟約を結ぶことを求めました。財貨は兄から弟への施しとして送るという建前とするのです。結局、これで妥結して1004年に宋と契丹の間で「澶淵の盟」が結ばれ、和平が成立したのでした。また宋と西夏の間も1005年に宋から西夏に財貨を送る代わりに西夏が宋に臣従するという形で講和が結ばれました。
これで宋は契丹の兄、西夏の主君として儒教的に一応面子を保つことが出来て、平和が到来したことで宋は経済発展に専念出来るようになり、契丹や西夏は財貨を得ることで経済発展を遂げ、それにより東アジア地域全体の交易量が増えて、宋は契丹や西夏に提供した財貨分を補って余りある利益を得ることになりました。実は契丹や西夏には宋への侵略の意思は無かったので財貨を得るほうがメリットが大きく、契丹は国境線の現状維持によって燕雲十六州の領有を確定することが出来て、更に盟約によって宋の攻撃を心配する必要が無くなったので西方のウイグル族の征服に専念できるようになり、また西夏も宋によって河西回廊の支配を黙認されたような形なので安心して西方へ進出していけるようになりました。
しかしこうして見てみると財貨を支払ってまで兄だの弟だのの序列にこだわる宋のシナ帝国思想の頑迷さには恐れ入ります。なんと「ややこしい国」なのだろうと思わざるを得ないのですが、これがシナ帝国というものであり、契丹や西夏、高麗、ベトナムなどの周辺諸国はこうした「ややこしい国」を宥めすかして、四苦八苦して、この「ややこしい国」との交渉の仕方を学んでいったのです。それに比べて日本はこの頃は藤原道長の絶頂期で、「源氏物語」がちょうど執筆されていた頃で、こうした「ややこしい国」と接触する必要も無く暢気なものでした。この後も日本は近代に至るまでだいたいこんな調子で、お陰で変な雑音に邪魔されずに独自の文化を築くことが出来たわけですが、シナ帝国との付き合い方については経験の積み上げが不足したことは認識しておくべきでしょう。朝鮮やベトナムなどには学ぶべき点が多いと思われます。

さて、こうして1004年から1005年にかけての盟約によって宋、契丹、西夏の三国はそれぞれ繁栄への道を歩みだすことになりました。特に宋は契丹と西夏に莫大な財貨を毎年送っても平気であったわけですから、その経済成長は著しいものであったと思われます。それを支えたのは11世紀における江南の農業革命でした。そのカギとなったのがチャンパ米という南ベトナム原産の米で、このチャンパ米は風水害に強く短期間で栽培可能で収穫量が多く、これが1012年から江南地方で大々的に栽培されるようになり、二期作や二毛作が可能になったため、江南の農業生産力が飛躍的に上昇したのです。
この農業生産力の上昇の要因としては地球温暖化による基本的生産率の向上もありますが、特にこのような南方原産の米が江南地方で栽培可能になったというのは温暖化による如実な影響であるといえるでしょう。また、唐末ぐらいから農機具の改良がなされていたのがここに結実したというのも大きな要素であります。
そして、この豊富な農産物をシナ全土に運ぶための運河網が全土に張り巡らされました。こうしてシナ全土で商業が活性化して市民経済が勃興しました。こうした市民経済を支えたのが貨幣経済の発達で、宋の全土において銅銭が大量に流通するようになりました。しかし経済成長のほうが銅銭供給量を上回ったため、すぐに銅銭不足の状態に陥り、それを補うために1023年には世界最初の紙幣である交子も発行されるようになりました。
こうして11世紀前半に宋は繁栄の絶頂を迎え、この頃には経済発展の中で収益を上げた富裕層出身で科挙を通過した者だけが権力中枢に入ることが出来るようになり、こうした新しい支配層は「士大夫」と呼ばれるようになっていきます。また経済発展に伴って実用技術の発達も見られて、方位磁石の発明、火薬や活字印刷の実用化も見られるようになりました。これらの発明物が海上交易路を通じてイスラム世界に伝えられ、それが後にヨーロッパに伝わることになるのです。

交易路は西域方面に関しては契丹や西夏の支配下にあったので宋としては南方の海上路を重視するようになっていきました。経済の中心地が完全に江南地方に移ったということも、南方海上路を重視するようになった大きな要因でもありました。そうした海上交易路を運航するために海運技術が大幅に向上し、海上航行に優れた頑丈なジャンク船が作られるようになり、杭州を基点にしてシナ大陸沿岸を南下し、インドシナ半島を経由して、マラッカ海峡を通過してインド半島沿岸へ至り、そこでインドからペルシャ湾を経てバグダッドに至るイスラム商人の海上路と連結する交易路において大々的な取引が行われるようになったのです。
そのため、この海上交易路に面した諸地域において仲介貿易を通じて様々な国家が勃興してくることになりました。北ベトナムでは黎朝に代わって1009年には李(リー)朝という初めての本格的な長期政権が成立し、その南方にある南ベトナムにはチャンパ王国というチャム人というオーストロネシア系でインド文化の影響を強く受けた部族の作った王国が1000年に交易船の重要寄港地であるヴィジャヤを首都として建国され、交易国家として繁栄し、西隣にあるカンボジアのアンコール王朝としばしば争いました。また、1044年にはビルマでは最初の王朝であるパガン朝が建国されています。
マラッカ海峡を挟むスマトラ島やマレー半島周辺には7世紀ぐらいからシュリーヴィジャヤ王国というマレー系の海上交易国家が栄えていましたが、10世紀末から南インドで勢力を拡大していたチョーラ朝というタミル人のヒンドゥー王朝が11世紀初頭にはマラッカ方面に進出してくるようになり、1013年には宋に通商のための使者を送り、1017年以降シュリーヴィジャヤを攻撃し始め、マラッカ海峡を支配するようになり、11世紀前半はインド洋からシナまでの制海権を握って勢威を示すようになりました。
このチョーラ朝の北にある北インド地方に対しては、アフガニスタンのイスラム王朝であるガズナ朝が1001年から侵攻を開始し、1018年までにはガンジス河流域地方までその勢力圏を広げ、北インドを席巻し、インドのイスラム化を開始しました。それに伴いイスラム商人もインドに進出し、宋から延びてきた海上交易路を引き継いで、交易品をバグダッドまで運ぶ役割を果たしたのでした。

このようにシナ世界からイスラム世界に至る海上交易の発達は、東南アジアからインドに渉る地域の地図を大きく塗り替える効果をもたらしたのでした。一方、シナ世界からイスラム世界に至る陸上交易路である西域交易路の東の基点は契丹や西夏であり、11世紀初頭に宋との講和を結んだことで南からの脅威を消した両国は安心して西へ進出していくことになりました。その西にある東西交易の要衝であるタリム盆地を押さえていたのはウイグル人の諸勢力であり、それらのうち西半分ぐらいはトルコ人のイスラム王朝であるカラハン朝に属していました。
11世紀の初めに契丹や西夏がタリム盆地方面へ進出しウイグル人勢力を討伐したため、カラハン朝は後退を余儀なくされました。またこの時期、ガズナ朝もカラハン朝を南から攻撃しサーマーン朝の故地の大部分を獲得し、カラハン朝は西方へ活路を見出してアラル海方面へ勢力を伸ばしていくことになりました。このアラル海の東岸地域にはイスラム教に改宗したトルコ系遊牧民のオグズ族の君長セルジュークを始祖とするセルジューク一族とそれに従う一団が住んでおり、このセルジューク族とカラハン朝が対立するようになり、この対立抗争の中でセルジューク族は勢力を拡大して南へ進出するようになり、1038年にはイラン東北部でセルジューク朝を建国し、1040年にはガズナ朝を破ってイラン東部に確固とした勢力を築きました。
このセルジューク朝がいわゆるセルジューク・トルコで、このセルジューク族が熱心なスンニ派イスラム教徒であったので、バグダッドのアッバース朝カリフがシーア派王朝であるブワイフ朝の庇護下にある状況を憂いて、バグダッドを奪取しようと西進を開始し、1050年にはイランの大部分を支配下に組み入れ、アラビア語で「権力」「権威」を意味する「スルタン」という君主号を名乗るようになり、その後アッバース朝カリフと連絡をとり、その招きに応じて1055年にブワイフ朝を追い出してバグダッドに入城し、カリフから正式にイスラム世界の支配者としてスルタンの称号を授与され、1062年にはブワイフ朝を滅ぼして名実ともにイスラム世界の覇者となったのでした。
セルジューク朝の西遷に伴ってトルコ人もそれまでのように個人レベルで傭兵としてではなく、部族集団単位で中近東へ移住してくるようになり、1071年にはセルジューク朝がアナトリア半島に侵入して東ローマ帝国の皇帝を捕虜にする大勝利を上げ、トルコ人はアナトリア半島にも大量に流入するようになり、アナトリア半島はこれ以降トルコ化していくことになるのです。
セルジューク朝はペルシア人官僚やトルコ人傭兵を駆使した中央集権君主制の王朝として整備され、支配下の各地にセルジューク一族のトルコ人が小さな王朝を作ってスルタンに服属するというような構造をとり、11世紀終盤にはその全体的な支配領域が西はアナトリア半島やシリアから東は中央アジアのタラス河付近にまで及ぶセルジューク帝国が成立するようになりました。この帝国形成の過程で、1084年にはエジプトのファーティマ朝からシリア地方を完全に奪取し、この際、その中にエルサレムが含まれていたことから十字軍の遠征を引き起こすことに繋がっていくのでありました。
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この記事に対するコメント

 読み応えがあります。本当に敬服致しております。 貴ブログの事を知り合いにも知らせていきます。 今後共宜しくお願い致します。

【2008/02/05 00:41】 URL | 干城 #- [ 編集]


所定労働時間とは、就業規則や雇用契約書で定められた労働者の労働時間のことをいう http://machinate.misterblackband.com/

【2008/11/15 12:04】 URL | 57 #- [ 編集]



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