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日本史についての雑文その356 農奴制の成立
宋帝国に11世紀初頭に農業革命をもたらした地球温暖化は、ほぼ同じ時期にヨーロッパにおいても農業革命をもたらしていました。寒冷地であった西ヨーロッパは10世紀以前は農耕の生産性が極端に低く、牧畜主体の生活を送る地であり、農村もほとんど形成されていない有様でした。つまりアルプスの少女ハイジのような暮らしを送っていたのです。各自が柵で囲った野原にヤギなどを放し飼いにして、その傍らの小屋に住むというような生活ですから、村落というものがそもそも無いわけです。
例えば麦などは米などに比べて丈夫で過酷な環境下でも収穫が確保しやすい農作物なのですが、その麦でも当時のヨーロッパではだいたい「一粒の種を蒔いて二粒の実を収穫する」というような収穫率であったようです。1つの種から育つ穂に2粒しか実りが無いわけはありませんから、つまりそれだけ途中で枯れてしまうということです。しかし「一粒の種を蒔いて二粒の実を収穫する」のでは、一粒は次の年の種に使わねばなりませんから、実質的な収穫は「一粒蒔いて一粒収穫する」ということになり、これでは暮らしていけませんから牧畜のほうがマシということになるのです。
それが10世紀末ぐらいから地球温暖化の影響で麦の収穫率が改善されるようになり、更に加えて、原野を開墾して農地を増やすための大斧、耕作地を深く耕すために鉄製の鋤を馬に牽引させる手法、耕作地に水を汲み上げるための水車というような農耕に関する新技術が普及するようになったことで、農地を春耕地、秋耕地、休耕地(牧場として利用)に分けてローテーションで回していく三圃農法が可能になり、これによってヨーロッパにおける収穫率は「一粒蒔いて十粒」ぐらいの割合に改善されたのでした。
こうした三圃農法の普及によって11世紀に入るとヨーロッパでも農村が形成されるようになり、農村が余剰資産で潤うようになると、農村を支配する諸侯も潤うようになっていきました。それまでは諸侯は自分の治める地域の牧畜民をノルマン人やマジャール人、他の諸侯らの略奪から守ってやる見返りに、自ら散在する牧畜民の小屋を回って現物徴収を行っていたのですが、農村ができれば農村共同体が成立しますから、その共同体に徴税を行わせて貢納させれば済むようになり効率が良くなりました。しかしそれは農村共同体が団結して領主たる諸侯に対抗し得るようになったということも意味しており、それまでは一方的に収奪される側でしかなかった民衆が領主にとって脅威になり得る存在となってきたのでした。
そうなると諸侯のほうも今までのように諸侯同士で争ったりノルマン人やマジャール人と争ったりばかりしているだけではなく、領民に対しても警戒せねばならなくなり、領民を上手く手なずけて管理する方法を求めることになります。それはヨーロッパへの侵略者であるノルマン人やマジャール人にしても同じことで、彼らもヨーロッパの各地に支配地を持つようになった以上、他の封建諸侯と同じように領民を統治していくという課題を抱え込むことになったのです。そこでこれらヨーロッパの諸侯たちが領民たちの共同体を統制していくための道具として目をつけ、活用するようになったのが、カトリックというカルト教団の統制力だったのです。

キリスト教というのは基本的にカルト宗教です。キリスト教の教義の核心部分は「この世界はいずれ滅びるがイエスの教えを信じる者だけは救われる」というものですから、今日び、こんな脅迫的な教義を唱えていれば間違いなくカルト認定されます。昔ならいいのかというと、そういうわけでもなく、実際にキリスト教の唱える世界の終末がまだ到来していない以上、現代のカルト宗教の唱える終末論と大差無いといえるでしょう。
「いや、そんなことはない。キリスト教は愛の宗教だ」と仰る方もいるでしょうけれど、ならば、正確に言えばキリスト教の教義の核心部分は「世界の終末においてイエスが再臨して最後の審判を行い、それまで死んだ者の魂のうちイエスの教えを信じる者の魂のみが復活して永遠の生命を得てイエスと共に神の王国で暮らす」というものですから、その人に「最後の審判」も「イエスの再臨」も否定するのですか?と聞けば、それはやはり否定はしないでしょう。これらを否定すればそれはもうキリスト教ではありませんから。しかしこれらは世界の終末が大前提となっていますから、やはりキリスト教は終末論という恐怖で人々を脅して信心を強制するカルト的性格があるということになります。
あるいは現在においてはキリスト教は愛の宗教であり危険な要素は薄らいでいるのかもしれませんが、少なくとも宗教改革以前におけるカトリックの影響下で引き起こされた様々な否定的な出来事を見る限り、当時はそれが正義の行いであったのかもしれませんが、第三者的にはどう見ても反社会的としか思えない行為が多々見られます。また、その異教に対する行いを見る限り、極めて排他的であったと言わざるを得ません。反社会的であり排他的であるとなれば、やはりカルト的性格が強いということになります。

そもそもキリスト教は一神教であり自らの崇拝する唯一神以外の他の神々を排斥する性格ゆえに古代多神教世界において反社会的・排他的カルトとして認定されていたユダヤ教の中の異端として誕生したのであり、キリスト教ももちろん一神教ですからユダヤ教のカルト的性格を受け継いでおり、古代ローマ帝国では反社会的カルトとしてしばしば弾圧されていました。
しかしこの古代キリスト教はカルトであるユダヤ教からでさえ異端視されていたのであり、そのユダヤ教とキリスト教とで大きく相違していた点は、キリスト教が極めて終末論を強調していた点と、それに関連することではありますがイエスが終末に再臨する救世主であるという点でした。おそらくはイエスを救世主として正当化するためにグノーシス主義思想から終末論を移植して補強してキリスト教の終末思想が出来上がったのでしょう。終末論が強い分、キリスト教はユダヤ教のカルト性を更に強めたものであったといえるでしょう。
カルトというのは外部に対する攻撃性も強いのですが、それ以上に内部の異端に対する攻撃性は強く、キリスト教はユダヤ教から猛烈な迫害を受けることになりました。そこでキリスト教の生命線はイエスの権威をいかに維持していくかということでしたから、最初は単なる救世主であったイエスが次第に神格化されていくようになり、唯一神とイエスを一体化させるような考え方が生じてきました。イエスは人であり神でもあったという考え方で、こうした考え方の人々はアタナシウス派といわれました。一方、もともとのキリスト教徒、つまりイエスは人であり救世主であったという考え方の人々はアリウス派といわれました。
このキリスト教がその終末論が古代ローマ帝国後期の社会不安の中で人々に受け入れられて信者を増やしていきました。カルトが一概に悪いというわけではなく、時代や状況によってはカルトは人々を惹きつける魅力を持っているのです。あるいは人間というものはカルトが好きで、宗教というものは多かれ少なかれカルト的なものなのかもしれません。とにかくキリスト教は4世紀末にはローマ帝国の国教の地位にまで登りつめるのですが、その過程で325年の第一ニカイア公会議において、イエスが人であると主張するアリウス派は異端とされ、イエスが神であり人であるとするアタナシウス派が正統とされました。

ところでカルトの顕著な特徴として、世俗の財産や権力に異常に執着を示すという傾向があります。それが極まると政治権力と一体化することになります。もちろん政治権力の側もカルトの教勢を利用しようとするから、そういった一体化が実現するわけです。キリスト教がローマ帝国の国教になったのは、まさにそうしたカルトの特徴そのものであり、そしてそれはキリスト教の腐敗堕落をもたらしたのでした。
そしてカルトは内ゲバをするのが常ですが、国家権力と結びついたカルト内の正統派はその権力を使って異端の撲滅に乗り出します。アタナシウス派もアリウス派を徹底的に弾圧し、アリウス派は消滅してしまいました。こうした国家権力を使ったカルトによる弾圧は徹底しており、異端側はその国家権力の及ばない遠方に逃れるかでもしなければ、異端側の書いた文書は全て抹殺され、残るのは正統派側が異端について書いた誹謗中傷に満ちた内容の文書だけということになります。
しかしイエスが神であり人でもあるというのは一体どういうことなのか、アタナシウス派の主張には論理的整合性のとれた根拠というものが示されていませんでした。これに何とか論理的裏づけを与えようとしたのがネストリウス派で、イエスの神としての側面と人としての側面はそれぞれ独立していたのだと説明しました。これも突き詰めれば何のことかよく分からないといえば分からないのですが、少なくともアタナシウス派の主張よりは、物事の整理はつきそうに思えます。だいたい、そもそもアタナシウス派が「イエスが神であり人である」などと意味不明なことを言うからこうした不毛な論争が生じてくることになったのです。
しかしこのアタナシウス派とネストリウス派の論争は、431年のエフェソス公会議で、いくらか論理的なネストリウス派のほうが異端とされ、「イエスの神性と人性は不可分」という意味不明な主張をしたアタナシウス派のほうが正統とされたのでした。これは結局、論理的整合性に優れた側よりも、より世俗権力に近い側のほうが勝利するというカルト特有の現象であり、むしろ論理的整合性に欠けた側が常に勝利するという傾向がカルトの顕著な特徴であるといえるでしょう。そしてアタナシウス派はネストリウス派を徹底的に弾圧し、ネストリウス派は東方に逃れてペルシア帝国や中央アジア、シナにまで布教して、むしろアタナシウス派よりも多くの信者を獲得しますが、7世紀にイスラム教が興隆してきて衰退することになりました。

さてカルト特有の枝葉末節の不毛な論争と内ゲバ、弾圧騒動はエフェソス公会議後もまだ続き、アタナシウス派の「イエスの神性と人性は不可分」という摩訶不思議な主張が正統となってしまった以上、そこから論理的に思考をスタートさせるしかないのであり、そこから論理的に思考してしまった人達がいたのです。しかしカルトにおいては論理的に思考してはいけないのですが、そこまでカルトに染まりきれない人達は「イエスの人性の部分は神であるイエスの作り出した幻影のようなものである」というグノーシス主義的思考や、「イエスの人性は神性に吸収されて消滅した=イエスは神である」というような、割とすっきりとした主張をするようになりました。「イエスは神であった」ということなら、それはそれで分かりやすくていいのです。それでいいじゃないか(ハッキリ言ってどうでもいいし)とも思うのですが、アタナシウス派にとってはどうもそれは不都合であったようで、451年のカルケドン公会議でこうした考え方は異端とされました。
どうもイエスが人であったということが救済宗教としてのキリスト教の根幹であるので、それは無くすわけにはいかないようなのです。それならばそもそもアリウス派の主張でいいのではないかとも思えるのですが、結局、イエスが神であるとか人であるとかいう論争は、その内容自体に意味があるのではなく、本質的にはカルト内部の政治的主導権争いの具でしかなかったということなのでしょう。
例えばカルケドン公会議の結果を受けてエジプトやシリアの東方諸教会が異端とされたのですが、これらの教会においてはカルケドンで異端とされたような教義は唱えられておらず、単にアタナシウス派にとって政治的競合関係にあったので、カルケドン公会議のドサクサに異端として追放されただけであったのです。こうして、最も権力に近く、そして最も支離滅裂な主張をするアタナシウス派が最終的に正統として残るという、全くカルト宗教らしい結末を迎え、これにより中近東地域でのキリスト教の勢力は衰え、キリスト教を国教とする東ローマ帝国の力も衰えるようになり、この後すぐに西ローマ帝国も滅びますから、結局キリスト教というカルトは内ゲバを繰り返した挙句、古代ローマ帝国を滅ぼすという形で害悪を究めて、その後はその害悪も寿命が尽きたようで、アタナシウス派が「三位一体説」という不可解な教義を完成させて東ローマ帝国に寄生する「正教会」という比較的穏健なカルトに落ち着いていったのでした。
「三位一体説」というのは、神には「父なる神」と「子なるキリスト(イエス)」と「聖霊」という3つの位格があり、これら3つは同一の本質を持ちつつ互いに混同しないという説で、ハッキリ言って何のことやらさっぱり分かりません。これはイエスの神性を認めてしまったため、ユダヤ教から引き継いだ造物主と、それから聖書に登場する明らかに別人格の聖霊という神霊的存在とで3つの神が存在することになってしまい、それでは一神教としての原則に矛盾するので、無理矢理この3つの神を1つにまとめるための理論であったのであり、それゆえ支離滅裂になってしまったのです。

ただ実際、この「古代キリスト教=正教会」程度のカルトはまだ大したことはないほうで、内部抗争は激しく、異教徒にも不寛容ではありましたが、それほど破滅的不祥事を引き起こしたわけでもありません。だからこそ比較的早期に害悪の賞味期限が切れて大人しくなっていったのでしょう。そしてまた、7世紀に中近東においてユダヤ教から派生して正教会の不可解な「三位一体説」を批判して、神は造物主アッラーフ1人であり、イエスは聖人の一人であり、預言者ムハンマドは最後にして最高の預言者ではあるがあくまで人に過ぎないとしたイスラム教という宗教は、確かにユダヤ教の一神教の伝統を引いたカルトではありましたが、その毒性は正教会よりは低いものとなったのでした。それゆえそのカルトとしての毒性も11世紀ぐらいにはかなり低くなっていたのでした。
ところが9世紀に西ヨーロッパで正教会から派生して生まれたカトリックという新しいカルトは、「煉獄」という概念を発明したことによって極めて毒性の強いカルトとなっていったのでした。正教会の教義においては、とにかくキリスト教の信者として生きて死んでいけば、世界の終末時の最後の審判で救われて復活して永遠の生命を得ることが出来るのですが、カトリックの場合はそう簡単にはいかなくなったのです。
「煉獄」は地獄に落ちるほどではない些細な罪を犯した人が死後に魂を浄化して天国へ行く準備をする場所であるとされ、カトリックで独創された概念で聖書には一切「煉獄」についての記述はありません。もともとはキリスト教の存在すら知らずに亡くなった(これが些細な罪とされた)ゲルマン人の先祖たちの魂への救済措置として、ゲルマン人への布教を専らとしていたローマ教会によって考え出されたもので、この「煉獄」の独創をもってローマ教会はカトリックとなったともいえます。
しかしこの「煉獄」という概念は独り歩きを始めます。考えてみれば全く些細な罪も犯さない人生を送る人などほとんど存在しません。つまりカトリックの教義に基づくと、この世に生きるほぼ全ての人が死んだ後は煉獄へ行くのです。そして煉獄における死者の魂の罪が浄化されるためには聖職者のとりなしが不可欠とされるのです。どうしてなのかというと、もともとはゲルマン人の改宗者が教会の聖職者を通して神に先祖の罪(キリスト教を知らずに死んだ罪)を許してもらうように頼むことが必須とされたからでした。もし誰もが煉獄に行って自然に魂が浄化されるのならゲルマン人は安心して誰もキリスト教に改宗しないでしょうから、ゲルマン信者獲得のためにそういう手続きが必要であるというふうに決められたのです。
この結果、カトリックの教義においては、全ての人は死んだ後に煉獄へ行って罪を浄化しなければ、来るべき(古代や中世の人々はすぐにでも到来すると思っていた)世界の終末時の最後の審判から取りこぼされて、復活は叶わず、永遠の生命を得ることも出来ず、神の王国にも行けなくなるという立場に追い込まれることになり、その明暗を分けるのが聖職者のとりなしの有無ということになったのでした。つまり聖職者は死者の魂の生殺与奪(?)の権を握ることになったのです。その聖職者の親分がローマ教皇です。カトリックにおいては教皇の権力が大きくなり、実質的には神よりもイエスよりも大きな権限を振るうようになったのでした。ある意味、神を否定して現世の人間に対する個人崇拝に傾く傾向があり、極めてカルト性が強くなったのでした。
実際、現世に存在しない遠い存在である神が絶対者である場合は、各自の心の中で神への信仰心さえ保持していれば「神はきっと認めてくださる」と胸を張ることは出来るのですが、現世の人間が絶対者となった場合、内心の信仰心などよりも表面的な服従を常に求められるようになり、身近な恐怖による支配が始まることになります。しかもカトリックの場合、その絶対者である教皇の手足となる教会組織が身近にまで伸びてきているので、日常生活まで監視されるようになり、人は信仰心によってではなく、恐怖によって動かされる存在に堕していきます。これは完全なるカルト教団であるといえるでしょう。違うとは言わせません。教皇は実際に人々を免罪特権を使って操ったり、破門することによって現世での法的庇護権さえ失わせたりして脅迫したりしていたのですから。
こうして一旦、死後の魂の免罪を左右されるという恐怖によって縛られた信者たちを教会組織が監視するという恐怖統治のカルト教団が出来上がると、その中で教皇や聖職者などの上位者に対する反抗や異論などを行えば異端認定されて現世での不利益も蒙るようになり、結局このカトリックというカルト教団では現世と来世の両方における恐怖によって信者はがんじがらめに支配されていくことになるのです。

このカトリックという新しいカルト教団と、元祖カルトというべき正教会は、9世紀以降、聖像崇拝に関する問題や、聖霊が父から生じたか父と子から生じたかなど、全くどうでもいいような問題で延々と非難合戦を繰り返すことになりますが、本来最も重大な争点とすべき問題は、この正教会から生まれたカルト教団が、正教会の崇拝する神さえも蔑ろにするような恐怖支配を行い得る非常に危険な分子であるということであったはずなのです。しかし正教会もカトリックもそうした点については問題意識は持たず、かといって上記の枝葉末節の神学論争も実はどうでもよくて、本当のところ相手の気に入らない部分は、その結びつこうとする世俗権力の相違に起因するものでした。こういうところは流石にお互いカルトの面目躍如というところです。
カルトは世俗権力と結びつきます。正教会は東ローマ帝国の国家権力と結びついていましたが、カトリックはゲルマン諸侯たちと結びつこうとしました。東ローマ帝国(ローマ帝国)から見ればゲルマン人たちは西ヨーロッパのローマ帝国領における野蛮な不法侵入者でありましたから、東ローマ帝国や正教会としては、そんなものと手を組もうとするカトリックが許し難かったのです。
カトリックは9世紀から西ヨーロッパのゲルマン諸侯と結びつくようになりましたが、それは布教や信者支配の後ろ盾になってもらうためでした。そしてゲルマン諸侯たちにとしてはカトリックのカルト教団特有の恐怖支配を自分の領地支配に利用しようとしたのでした。ただ、この頃はまだ西ヨーロッパは牧畜社会で農村もありませんでしたから、その支配は緩やかなものに止まっていました。また、9世紀中頃からはノルマン人と、9世紀末からはそれに加えてマジャール人との戦いが忙しくなり、諸侯たちも領民支配は二の次というような状況となっていきました。

それでも領主権力と結びつくようになったカトリックの聖職者たちの堕落や腐敗はこの頃から目立っていたようで、10世紀中頃ぐらいから、そうした風潮に対して批判的な反カトリックのキリスト教的な民衆運動が生じてきます。それが「カタリ派」というものです。これも一神教的カルトの一種で、キリスト教側はこれをキリスト教の異端と見なしていますが、これはキリスト教とは少し違います。いや、イエスやその弟子の頃の初期キリスト教に回帰したものに近いといえるかもしれません。「カタリ」とは「清浄なるもの」というような意味で、これはグノーシス主義の反宇宙的二元論の影響を受けた神秘思想で、物質世界を悪なる世界と規定して、穢れた世俗と関係を断った厳しい禁欲生活を送ることで非物質世界である天国へ到達できるとして、そうした完全なる禁欲生活を送る「完全者」という修行者が指導者となって一般信徒を指導するという形式をとっていました。
これは、本来はカトリックの聖職者たちがこうした禁欲生活を送って信徒を導いていくべきであるのに、それが全く正反対の堕落した生活を送っており、それに失望した民衆が「あるべき指導者」の在り方、つまりカトリックの聖職者に対するアンチテーゼとして「完全者」のような禁欲的修行者像を求め、それを実践していくようになった過程の中で、それを根拠づける論理としてグノーシス主義の反宇宙的二元論を導入したのだと思われます。
このカタリ派という民衆運動は様々な意味でカトリックやそれと結託する世俗権力にとって危険な存在でした。まず、カタリ派における「完全者」という禁欲生活を送る指導者層の存在そのものがカトリックの聖職者に対する痛烈な批判となっていたことと、カタリ派においては禁欲生活によって天国に到達出来るとされており、つまりは煉獄における聖職者のとりなしというものを認めておらず、これはカトリックにおける聖職者の権威を揺るがし、カトリックの恐怖支配を根底から覆す危険性を孕んでいました。そもそもキリスト教のような救済宗教においては、あくまで救済とは神や救世主、その代理人たる教皇などのような絶対的な他者によってもたらされなければならないものであり、自力で行われる修行や神秘体験などによって救済されるというカタリ派のような考え方は相容れないものがあったのです。また、カタリ派の極端な禁欲主義、現世否定主義は子孫を作ることも禁じており、カタリ派が増えれば領民がいなくなってしまうことになる諸侯たちにとってもカタリ派は厄介な存在でした。

そういう状況の中で10世紀末にヨーロッパに農業革命が起きて農村が形成されるようになると、各地の封建諸侯たちは農村共同体を統制していくために積極的にカトリック教団を誘致して、農民共同体の統制をカトリック教団の恐怖支配で行わせて農民を逆らえないようにさせて、そのカトリック教団を領主がコントロールするという統治方式を編み出しました。こうして新しく成立した農村の豊かな生産物は封建諸侯やカトリック教団に吸い上げられるようになり、諸侯や聖職者は潤ったのでした。こうして農民がカルト教団の恐怖支配と領主の暴力支配によって逆らえずに働かされる「農奴制」が成立したのです。
このようにして西ヨーロッパの封建諸侯や国王たちは10世紀末から11世紀初めにかけて雪崩を打ってカトリックに帰依していったのでした。それは信仰心というよりは農村共同体に対峙して領地支配をスムーズに行って確実に租税を徴収するための手段としての側面が強かったといえます。それゆえ、この時期にはゲルマン諸侯だけではなく、同じように農村共同体を自らの領地に抱え込むことになったマジャール人やノルマン人の王や諸侯も同じようにカトリックに帰依していったのでした。
マジャール人やノルマン人も当初は心からカトリックに帰依していたというわけではありませんから、他の諸侯や民衆にとってはまだそんなに心の許せる存在ではありませんでした。しかしこの頃にはノルマン騎士たちも北方の本国とは無関係に各地に土着して領地を経営する領主となっており、以前のような単なる略奪者とは明らかに違った存在になってきていました。
例えばノルマンディのノルマン騎士であるロベール・ギスカールはもともとはイタリアで山賊のようなことをやっていたのですが、ローマ教皇は1059年にロベールを南イタリアやシチリアの領主に任じて、この地を支配していたイスラム勢力や東ローマ帝国軍とロベールらノルマン騎士を戦わせて、この南イタリアのノルマン朝シチリア王国を通じてカトリックの支配地を拡大しようとしたりしました。ロベール・ギスカールは後に東ローマ帝国征服も企図し、コンスタンチノープルに迫ったりもしましたが、その目的は果たせず亡くなり、彼の長男のボエモンは後に第一回十字軍に参加して1098年にアンティオキア公国を建国することになります。
また、フランス王に仕えるノルマンディ公であったギョームは1066年にイングランドのアングロサクソン王朝を征服してノルマンディ公の地位のままウィリアム1世となり、イングランドにノルマン王朝を開き、イングランドに封建制を敷き、イギリス王家の始祖となりました。もともとイングランドは北方のデンマーク系のノルマン人(デーン人)の影響が強かったのが、この事件以降はフランスとの繋がりが強くなったといわれているくらいですから、ノルマン人とはいってもこの頃のノルマンディ公はもう既にフランスに土着した存在であったということでしょう。

マジャール人は神聖ローマ帝国に服従し、ノルマン人もこのように明確に敵という存在でもなくなってくると、これらと戦うために生まれたゲルマン騎士たちが手持ち無沙汰になってしまい、その戦闘力を持て余して、互いに私闘を繰り返したり、農民を苛めたりするようになりました。だいたい騎士たちは諸侯や聖職者の手先となって農奴を虐待したりすることも多かったようです。
しかし、やはりこの鬱積したエネルギーは外に新たな仮想敵を求めていくことになり、その標的となったのが異教徒であるイスラム教徒でした。11世紀初頭はイスラム商人が地中海を行き来していましたから、これを襲ったりするようになりました。上記のロベール・ギスカールなどもそうした輩の一種でした。また、11世紀に入るとイベリア半島の後ウマイヤ朝(西カリフ国)が内紛を起こすようになって急速に衰えていき、1031年には後ウマイヤ朝は滅亡してしまい、その後は短命のイスラム王朝が続くことになりました。この機に乗じて「レコンキスタ(国土回復運動)」という名の、イベリア半島におけるカトリック教徒によるイスラム教徒排斥運動が勢いづき、戦闘に飢えたゲルマン騎士たちがこれに参戦していくようになりました。
しかし、イベリア半島のイスラム王朝側が11世紀の大部分において混迷を極めていたにしては、カトリック勢力のイベリア半島の「国土回復」はそれほどは進まなかったことを考えると、まだまだこの時期におけるゲルマン騎士たちの力はイスラム勢力には及ばない部分が多く、またゲルマン騎士たちもあまり統制がとれていなかったのであろうと思われます。そうしたカトリック勢力の弱点は、後に十字軍において露わになることになります。ただ、それでも11世紀末にはイベリア半島の北半分はカトリック勢力の支配下に入るようになり、特にここで特筆すべきことは、1085年にトレドがカトリックの勢力圏に組み入れられたことです。トレドはコルドバに次ぐ後ウマイヤ朝の第二の都市であった地であり、ここにはイスラムの大図書館があり、イスラム科学なども含むアラビア語の文献が多数所蔵されており、これらがこの後続々とヨーロッパの学者によって翻訳されて、ヨーロッパの学術文化の発展に大いに貢献することになるのです。
このように、イスラム教徒を敵視する風潮は騎士階級という戦闘を生業とする階級がそのエネルギーを持て余した結果、無理矢理にイスラム教徒を仮想敵として作り出されたという側面はありました。これが十字軍に繋がっていくのですが、しかし第一回十字軍には騎士階級だけでなく膨大な数の民衆も参加しており、しかもそれはほとんど狂気の集団と化していたのであり、かなりの宗教的熱情もあったと見られています。しかしこれは「宗教的熱情」などという綺麗なものではなく、カルト教団であるカトリックに洗脳された狂信と、恐怖支配の中で鬱積した民衆の不満が半ばヤケクソ気味に爆発した現象であったのだと考えるべきでしょう。騎士たちの戦闘欲と領土欲、そして民衆の狂気が引き起こしたものが十字軍であったのです。
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【2008/11/14 12:17】 URL | 57 #- [ 編集]



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