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日本史についての雑文その357 第一回十字軍
11世紀のヨーロッパにおいて農業革命によって成立した農村に出現したのは、ゲルマン諸侯が騎士の暴力とカトリックというカルト教団の恐怖によって農民を縛って収奪を行う農奴制でした。こうしてカトリックの聖職者たちは社会の細部において密接に世俗権力と結びつき、農民から収奪を行う立場に立ったことになります。ここに至って聖職者の腐敗と堕落は頂点に達することになりました。このカトリック聖職者の堕落した姿に呆れた多くの民衆は禁欲的な指導者層に率いられたカタリ派へと走り、11世紀になるとカタリ派は急速に勢力を拡大することになります。こうした状況にカトリック側は危機感を高め、1073年にローマ教皇に就任したグレゴリウス7世は聖職者の綱紀粛正を図るべく改革に着手します。これが世に言うグレゴリウス改革です。
聖職者の腐敗堕落の中でも特に酷かったのが「シモニア(聖職売買)」でした。新約聖書に出てくる聖霊の力を得るために金銭供与を申し出た魔術師シモンの名に由来するシモニアは、金銭その他の世俗的利益と引き換えに聖職者の位階や霊的な事物を取引することを指します。例えば賄賂を積んで聖職者の地位を手に入れたり、聖職者が神の恵みを信者に与える儀式(秘蹟という)を金をとって執り行ったり、御利益のある護符などを売買することはシモニアに相当します。
こういう行為というのは現在でも新興宗教においてはよく行われており、そもそもぶっちゃけて言えば宗教という非生産的営為はこういった他者からの利益供与(例えば寄進)が無ければ維持していけないのではないかとも思われるかもしれません。しかし、確かにそれが教団維持のために教団全体として行われている分には、まぁよほど悪どい取引でさえなければまだ許容できるでしょうけれど、聖職者が個人的に利益を得るために行うとなると問題でありましょう。そういった不正を防ぐためには、やはり布施や寄進は教団の活動全体に対して行われるべきであって、個別の事案ごとに金銭の遣り取りが行われるのは禁止すべきなのでしょう。だから、「この壷はいくら、この数珠はいくら」みたいな感じで料金表まであるような宗教は、やはり如何わしい宗教なのだと考えたほうがいいでしょう。

カトリックというのは、こうした如何わしい不正が行われる宗教であったわけです。しかもそれは古代ローマ帝国時代のキリスト教から既に見られていた現象であったのですが、特にカトリックにおいては顕著な現象でありました。もちろんこうした個人の利益追求のためのシモニアは古代ローマ時代から禁止されてきましたし、カトリックにおいても何度も禁止令が出され、グレゴリウス7世もそれは当然禁止としたのでした。
しかし、何度禁令を出しても、カトリックにおいてシモニアはしつこく続けられていました。それはやはり根本的には聖職者の権限が大きすぎたことが原因でした。よほど心が清らかな人でなければ、このようなカルト教団で絶対的権限を握ればそれを不正のために使いたくなるものです。そうした絶対的権限を持つ高位聖職者の地位を得るために金銭を使ったりするのも、それはそれだけ高位聖職者が「儲かる」地位であるからで、地位を得るために使った金を補って余りあるだけの儲けをシモニアであげることが可能であるし、また、そうしなければ赤字になってしまうのだから、高位聖職者は大抵は熱心にシモニアに励むことになったのでした。
シモニアの根本的原因は「聖職者の権限が絶対的であること」「聖職者が善人ばかりとは限らないこと」であり、その結果の1つとして「聖職者の地位を金銭で買う」という行為も存在するということになり、そうして聖職者になるために金がかかることが更なるシモニアを増やす一因にもなっていたのですが、グレゴリウス7世は「聖職者の地位を金銭で買う」という行為がシモニアに代表される聖職者の腐敗堕落の元凶であると考えたのでした。そして「聖職者の地位を金銭で買う」行為の原因は、聖職者の叙任権を神聖ローマ皇帝や封建領主のような世俗権力者が握っていることであると考えたのでした。それゆえ、グレゴリウス7世は即位後、俗人が聖職者の叙任に関与することを禁じたのでした。
確かに世俗権力者が喜んで聖職者からの賄賂を貰って不正な叙任を行っていた事例が多かったことは事実でしょう。そしてそうした不正行為で叙任された聖職者が更なるシモニアに励んだことも容易に想像できます。しかし叙任を行うのが更なる高位聖職者であったり聖職者同士の互選であったとしても、彼らが賄賂を受け取らないという保証はありませんし、また、買収で聖職者になった者でなくてもシモニアを行う可能性は十分にありました。つまり世俗権力者による聖職者の叙任はシモニアを助長する要因ではありましたが、シモニアの根本的な原因ではなかったのです。実際、このグレゴリウス改革の後、様々な曲折を経て1122年のヴォルムス協約において俗人による聖職者叙任への関与は正式に禁止されることになるのですが、その後もシモニアは一向に無くならなかったのでした。それどころか、大々的に行われるようにさえなります。
もし本当にシモニアを根絶したいと思うのであれば、カトリック聖職者の無謬性や絶対性を否定することから始めなければいけません。しかし、それをやってしまえばカトリックというカルト教団のカルト性が崩壊してしまいます。カルトでなくなったカトリックはカトリックではなくなってしまいます。そういうわけでグレゴリウス7世も、そこまでの根本的解決に乗り出すことは出来ず、あくまで聖職者は無謬の存在であり、俗人のような穢れた存在が叙任に関与することに問題があるのだという認識に止まることになり、聖職者の叙任権が聖職者に属すのか俗人に属すのかについての論争の域を出ることはなかったのでした。そのような中途半端な改革であっても、それでも改革に乗り出さざるを得なかったのは、やはりグレゴリウス7世やカトリック界が、カタリ派の勢力伸張にそれだけ大きな危機感を抱いていたということなのでしょう。

こうしたグレゴリウス7世の改革路線に対抗したのが世俗権力側を代表する神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世で、深刻な対立の末、1076年にグレゴリウスはハインリヒの王位剥奪を警告し、それに対してハインリヒはグレゴリウスの教皇廃位を通告し、それに対してグレゴリウスはハインリヒの破門を宣言したのでした。このハインリヒの破門をドイツ諸侯や民衆は支持しました。諸侯が破門を支持したのはハインリヒの追い落としを狙っていたからで、そのために破門を利用しようとしたのです。また民衆が破門を支持したのは、あまりにハインリヒの言い分が世俗権力側の手前勝手な意見であったからでした。慌てたハインリヒは1077年に単身、グレゴリウスのもとに赴いて謝罪し、それを受けてグレゴリウスはハインリヒの破門を解いて和解しました。これが名高い「カノッサの屈辱」という事件です。
しかしこの表面的な和解はハインリヒの追い落としを狙うドイツ諸侯たちには歓迎されず、彼らはハインリヒを追い詰め、ドイツは内戦を開始しました。グレゴリウスはそうした世俗の争いに関与したくなかったのか、中立を維持しましたが、これは両陣営や民衆からは日和見と解釈され、結局、反ハインリヒ派が優勢になったところで再びグレゴリウスがハインリヒの破門を宣言した時には、それを支持する人はほとんどいなくなっており、勢いを盛り返したハインリヒによって1084年にローマを追われたグレゴリウス7世は翌1085年にサレルノで憤死しました。
こうしてグレゴリウス改革は頓挫したのですが、この教皇と皇帝の対立の中で、聖職者の叙任権が教皇に属すのか皇帝に属すのかについての論争がヨーロッパ中のカトリック教会において生じることになり、この論争はグレゴリウス7世の死後も継続していくことになります。そしてこの論争は、かつてのアタナシウス派やアリウス派などの正統異端論争の時のようなドグマとドグマのぶつけ合いの挙句に政治的に強いほうが勝つというような不毛なものではなく、相互の立場の正当性をそれぞれが学術的、理論的に証明しようとする姿勢を有したものとなります。

どうしてそういうことが可能になったのかというと、まずその先駆け的な存在として、グレゴリウス改革およびその後の叙任権論争の時期に活躍していた神学者にして哲学者のアンセルムスの活動が挙げられます。アンセルムスは1078年からノルマンディ地方のベック修道院の院長を務め、1093年から1109年に亡くなるまでイングランドのカンタベリー教会の大司教の座にあった聖職者で、まさに叙任権論争の当事者であり、彼はイングランド国王を向こうに回して聖職者叙任権が教皇に属することを訴え続け、遂には1107年にイングランド国王に叙任権放棄を約束させるに至り、この合意が彼の死後に1122年のヴォルムス協約のモデルとなり、叙任権論争に幕を下ろすことに繋がるという、叙任権論争における最重要人物と言っていい聖職者であったのですが、彼は既に1070年代のあたりからヨーロッパ中に知られた高名な神学者でもありました。いきおい、彼の論争方式、論述方式、思考方法がこの叙任権論争の論争におけるモデルとなっていったのでした。
アンセルムスは初めて神の存在を理性をもって把握しようとした人でした。それまでのキリスト教においては神が全能であることは説明不要のドグマであり、権威でもって押し付けられるものでしかありませんでしたが、アンセルムスは違っていたのです。彼は単に神を盲目的に信じるだけではなく、理解することを求めたのです。かといって、彼は後世の合理主義者たちのように理性によって理解できることや論証できることしか信じないというような偏狭な考え方であったわけではなく、ましてや神を殺してその万能の座に理性を置くというような傲慢へと暴走したわけでもありませんでした。彼はただ神を信じているがゆえにより深い理解を求めたのであり、また深い理解を得るためにはまず神を信じることが不可欠であるとも考えたのです。結局、神を信じるということは盲目的な行為なのではなく、神について深い理解を得るために理性的に考えるという行為であるべきだというのがアンセルムスの神学的立場なのだといえます。
例えばアンセルムスの神の存在証明の論理は、人間の理解の内にのみ存在するものよりも実際に存在するもののほうが大きな存在であり、神はそれ以上大きなものがない存在であるので、神が人間の理解の内にのみ存在するということになると神より大きなものが存在するということになり、神がそれ以上大きなものがないという定義に反し、それゆえ神というものは人間の理解の内に存在するだけではなく、実際にも存在する、というようなものです。
私はキリスト教徒ではないのでハッキリ言って神の存在証明には興味も無いし、このアンセルムスの論理が完璧なものであるのかどうかもよく分かりません。なんだか屁理屈のような気もします。しかし、仮に屁理屈であったとしても、とにかく彼が理屈でもって神の存在を考察しようとしたことは事実であり、それまではそんなことをしようとした人はいなかったのです。そしてこれが前提となる複数の命題の間で相互に矛盾の生じない組み合わせによって結論を導き出していくという、西洋特有の論理的思考の雛形となっていることには気づきます。アンセルムスという人はこのような思考方法で神の存在を把握しようとした人なのであり、もちろんその他の命題についてもそのような思考方法で論考を行いました。その中には当然、聖職者叙任権問題に関する論考も含まれており、彼がヨーロッパ神学界の第一人者であったことによって、多くのこの問題に関連する論者たちが彼と同じような論理的思考で論争をすることになり、これによって後にヨーロッパの学界においてはあらゆる問題についてこのような論理的思考で論考していくことがスタンダードになっていくのです。

では、何故アンセルムスはそのような思考方法で神の存在を把握しようとしたのでしょうか。それはもちろん彼自身の真摯な信仰心がその動機になっていたのでありましょうし、また彼の天才性に負うところが大きいのはもちろんのことです。ただ、彼が孤立した天才ではなく、彼の思想的試みに理解を示す人がある程度存在した時代に生まれたからこそ、彼の事業は成果を上げ得たのだとも思います。そういう意味では彼は生まれた時代に恵まれてもいたのです。そうした時代の人であったからこそアンセルムスは神の存在を理性的に解釈しようとしたのでしょう。
人間は食うや食わずの状態では、あんまり観念的な問題で小難しいことは考えないものです。「神は存在する」「神は万能だ」などと結論をドグマとして提示されれば「ああ、そうか」と受け取るか、あるいはイヤなら拒絶するだけのことです。無謬なるドグマの内容や正否について解釈していこうなどと考える余裕が無いのです。しかし、とりあえず食っていけるだけの余裕が生じれば、いや社会全体がそうはならなくても、とりあえず上層階級や知識階級だけでもそういう状態になれば、無謬なる「神」や「天」のような存在についてあれこれ解釈していきたくなるものなのです。また、裕福になると人間は堕落します。そうした堕落を目の当たりにした人のうちで問題意識を持った人は、ドグマをドグマとして受け取っているだけでは堕落を止められないと感じて、ドグマについて更に論考していこうとします。
11世紀の農業革命後のヨーロッパというのはそうした状態にあったのであり、それゆえこうした論理的思考で神について解釈していこうというアンセルムスの試みについて共感が得られたのであり、そうした時代背景のもと、1088年にはヨーロッパ最初の総合大学であるボローニャ大学が作られ、その流れが次の12世紀になって「スコラ学」という形に発展していくことになるのです。イスラム世界ではこれより少し前に裕福な社会が実現していましたから、10世紀から11世紀にかけてイスラム科学が大成されており、それがヨーロッパにおけるスコラ学に影響を与えることになるのです。そしてまた、この11世紀という地球温暖化の進んだ時代においては、シナにおいても儒教における「天」という無謬なる存在について解釈を加えていこうとする「宋学」が興り、また日本においても「神」や「仏」について日本独自の解釈を加えた神仏習合理論が盛んとなり、また末法思想が隆盛となり、そこから庶民の仏教が生まれてきて12?13世紀の鎌倉仏教の出現に繋がっていくのです。

こうしたアンセルムスのような論理的思考はカトリック教団の絶対性や無謬性を相対化する効力がありましたから、カトリックの対抗勢力としてのカタリ派の隆盛と合わせて、こうした論理的思考が発展していけば、カトリックのカルト的支配を揺るがし、それによって聖職者の絶対的権威が相対化されることで真の意味でのシモニア根絶への道を開く可能性を秘めたものでした。しかし、ここで十字軍騒動が持ち上がったことで状況は変わっていくのでした。
中央アジアから興って1062年にイスラム世界の覇者となったセルジューク帝国は、1071年にはアナトリア半島に侵入して東ローマ帝国軍を破り、1084年までにはアナトリア半島やシリア地方の征服を完了しました。東ローマ帝国はアナトリア半島を奪われて国家存亡の危機となったので背に腹は代えられず不仲であったカトリック教会に早くから救援を求めており、それを受けたカトリック側は東ローマの正教会に貸しを作って統合する機会と見てとり、ローマ教皇グレゴリウス7世が1074年に西ヨーロッパの騎士たちに東ローマ帝国への支援を訴えたりしましたが、この頃は大した反響もありませんでした。カトリックに帰依した騎士たちにとっては普段は敵対している東ローマ帝国のために戦うという必然性はあまり感じられず、またローマ教皇庁としてもこの後すぐに聖職者叙任権論争が盛り上がったため、それほどこの頃はこの問題に執着はしていませんでした。
しかしその後、1092年にセルジューク帝国の最盛期を治めたスルタンのマリク・シャーが死去するとセルジューク帝国は地方政権同士が内紛を開始して混乱し始め、そうした状況を見て東ローマ帝国はアナトリア半島奪還を目指してエジプトのファーティマ朝と手を組んでセルジューク帝国に対して攻勢に出ることにしました。ファーティマ朝はイスラム王朝でありましたが、シーア派王朝であったので、スンニ派王朝であるセルジューク朝とはもともと不仲であり、セルジューク帝国に奪われていたシリア地方を奪回しようとしていたので東ローマ帝国とは利害が一致し、手を組むことになったのです。
そして更に1095年に東ローマ帝国はローマ教皇に特使を派遣してセルジューク帝国との戦争に支援を求めました。東ローマ帝国としてはとにかくあらゆる方面に手を打ったというところでしょう。これを受けたローマ教皇のウルバヌス2世は正教会をカトリックの傘下に組み込む好機と見て西ヨーロッパの騎士たちを傭兵として東ローマ帝国支援に向かわせるように呼びかけることにしましたが、まともに東ローマ救援を呼びかけても1074年の時のように大した反響が無いだろうと予想し、セルジューク帝国が占領しているキリスト教の聖地エルサレムでキリスト教徒の聖地巡礼が妨害されているということを誇大に言い立てて、エルサレム奪回のための義軍を組織するという名目で騎士の参加を募ることにしたのです。この義軍が後に「十字軍」と言われるようになったのです。更にウルバヌス2世は義軍に参加する騎士たちに見返りとして征服地における領地獲得を示唆し、また、この異教徒との戦いに参加する者には、その者が生き残っても戦死しても「贖宥」を行うと宣言したのでした。

「贖宥」とは、カトリックで言う煉獄における罪の浄化のためのとりなしを聖職者から受ける代償に課せられる「罪の償い」を、カトリック教会の権威でもって軽減することを指しますが、その「贖宥」が初めて行われたのがこの第一回十字軍の時であったわけです。要するに、この聖職者の煉獄でのとりなしの代償に義務的に信者に課される「罪の償い」というものによってカトリック信者たちはカトリック教団の恐怖支配に延々と縛り付けられていたわけで、更にそのカトリック教団と一体化した世俗領主権力による支配にも縛られることになり、農奴として絶望的に抑圧された暮らしを送っている農民が多かったのでした。
そういうわけですので、ウルバヌス2世はあくまで騎士階級の十字軍への参加を呼びかける目的でこの「贖宥」を宣言したわけなのですが、この「贖宥」を得られるという噂がヨーロッパ各地に広まっていくにつれて、むしろ農民たちの間で熱狂が引き起こされ、聖職者や領主らの制止を無視して、1096年の春にはウルバヌス2世の全く予想していなかった聖地エルサレムへ向かう農民ばかりの10万人の大群衆が組織され、騎士たちによる十字軍本体に先行して出発してしまったのでした。
つまり彼らは十字軍に参加して「贖宥」を受けることによって農村共同体において自分を縛る「罪の償い」という精神的負担を少しでも軽減させることを望んだのであり、仮に異教徒との戦いの中で死んでしまったとしても、既に「贖宥」が与えられた上での死であるわけですから煉獄における罪の浄化も簡略化され、すぐに天国へ行けるのであり、むしろ延々と農奴として罪の償いを強制され続ける「生」よりも、異教徒と戦って「贖宥」を与えられた上での「死」のほうがマシと彼らは考えたのです。つまりはそれだけ彼ら農奴の日々の暮らしがカトリックのカルト支配によって酷く抑圧されたものであったということでした。この十字軍への農民の参加は「宗教的熱情」と解釈されることが多いようですが、この熱狂はそんな高尚なものではなく、一種のヤケッパチの類であり、狂信、いや、単なるカルトの生み出した狂気であったと言っていいでしょう。
この10万人の民衆十字軍は戦闘技術など全く持ち合わせていない集団で、女性や子供、病人、老人なども多く含み、戦闘集団というよりは、さながら死を求めて行進する大巡礼団のようなものでありました。彼らはヨーロッパ各地を様々なトラブルを起こしながら移動し、物資の補給などという概念も無かったために途中で各地で略奪を行ったため、各地の諸侯や国王の軍隊の攻撃を受けて4分の1が殺され、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに辿り着いた生き残りは首都住民に恐れられて追い出され、結局アナトリア半島で内部分裂を起こしてバラバラになった小集団が略奪を繰り返しながら彷徨っているところをセルジューク帝国軍に各個に包囲されて全滅してしまいました。彼ら自身が死んだことは本懐であったかもしれませんが、彼らの略奪行為に晒された無辜の人々にとっては単なる疫病神の集団でしかなかったことでしょう。

このような民衆十字軍という暴挙は決してローマ教皇やカトリック教会の企図したものではなく、むしろ彼らはこうした暴挙を止めようとしていました。彼らの企図したものはあくまで騎士を中心とした正規軍でありました。しかし、この1096年暮れにコンスタンチノープルに集結した正規の十字軍のほうも惨憺たる有様でした。そもそも東ローマ帝国はアナトリア半島奪回のための支援兵として彼らを見ているのですが、彼ら騎士集団はエルサレム奪還という殆ど狂信的熱情に支配されているか、そうでない者は領土を増やしてやろうという野心家、あるいは単に異教徒相手に(場合によっては誰相手にでも)殺戮や略奪を愉しみたいという無法者の集団であったのであり、最初から指揮権や占領地の取り扱い、作戦などを巡って両者は衝突を繰り返し、結局、東ローマ帝国の補給と道案内を受けて十字軍はアナトリア半島を経てエルサレムへ向かい、占領地は東ローマ帝国のものとするということになりましたが、進軍中も十字軍は統率が全く取れず、あちこちで略奪を行い、東ローマ帝国と十字軍との相互不信は高まっていきました。
そんな有様の十字軍ではありましたが、それを迎え撃つセルジューク帝国のほうも内紛が激しく、まともな抵抗も出来ないまま十字軍の侵攻を許す羽目となり、1098年にはエデッサやアンティオキアなどを十字軍は陥落させました。しかしここで十字軍の中で東ローマ帝国との約束を反故にして占領地を自分たちの領土としようという意見が出てきて内紛を起こし、さらに食料不足のためか狂信のためか、占領地のイスラム教徒を殺戮して串焼きにして食べるという人肉食事件まで起こす始末となりました。こうなると民衆十字軍のほうがまだ幾分まともとも言えるわけで、正規十字軍もまた全くの狂信者の群れと化していったのでした。
結局、1099年になって、領土欲にかられた連中を残して宗教的使命感のある連中だけでエルサレムに向かうことになり、十字軍兵士たちによってエデッサ伯国やアンティオキア公告などが作られることになったのですが、しかし、宗教的使命感と言えば聞こえはいいですが、これは単なる狂信でありましたので、まだ領土欲のある連中のほうが幾分まともというもので、最悪のメンバーがエルサレムに向かったということになります。
ところでエルサレムは1098年の段階で東ローマ帝国と同盟したエジプトのファーティマ朝の軍によってセルジューク帝国から奪回されており、ファーティマ朝から見れば十字軍は同盟軍であるわけで、まさか十字軍がエルサレムを攻撃してくるとは思っていなかったのですが、狂信者の群れと化した十字軍はいかなる説得も無視してエルサレム攻撃を開始し、7月にはとうとうエルサレムを陥落させ、エルサレムはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の聖地であったのでそれぞれの宗教の教徒が住んでいたのですが、十字軍は城内の住民をイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒やキリスト教徒も見境なく虐殺し、ほとんど皆殺ししてしまいました。そして十字軍はこの地にエルサレム王国を建国したのでした。

こうして第一回十字軍は当初の目的であるエルサレム奪還を果たして、成功したのでした。また、東ローマ帝国もアナトリア半島の西半分の奪回に成功し、1134年までにはアナトリア地方の大部分を取り戻して再び東地中海地方の大国として復活することが出来ました。但し、十字軍の無法な振る舞いに対しては警戒感を募らせ、正教会とカトリックとの断絶は一層深まる結果となりました。それにしても、このような無謀な計画が曲がりなりにも成功したのは、ひとえにセルジューク帝国側が内輪揉めに終始して有効な反撃体制を構築出来なかったという不手際によるものでしょう。また、セルジューク帝国全体で見ればこの十字軍戦争の戦場となった地は新たに領土に編入したばかりの辺境の地に過ぎず、そうした辺境の地に更に辺境から野蛮人の群れが突然襲撃してきたという程度の事件であり、それほど重大視されなかったという事情もあるでしょう。
現地のイスラム勢力も一致して十字軍を排斥しようというまとまりを見せることもなく、十字軍の兵士たちの多くはエルサレム王国の建国後は熱狂が醒めたように故郷へ帰っていき、エルサレム王国をはじめとした十字軍国家の多くの防備はかなり手薄になったのですが、周辺のイスラム勢力はむしろ十字軍国家と共存していくようになり、十字軍国家も次第に土着していくようになりました。故郷へ帰った騎士たちは、留守中に発生した所領争いなどの解決のためにまた戦いの日々を送ることになりました。
一方、この予期せぬ大成功はカトリック教会の権威を大いに高めることになりました。バラバラに分裂した西ヨーロッパの諸侯や騎士たちをまとめることが出来る存在としてローマ教皇は権威を高めました。特に十字軍参戦によって「贖宥」が得られるという概念が示されたことによって、異教徒との戦争が宗教的行為となり得るということになり、騎士や諸侯たちはローマ教皇の指揮のもとで宗教的行為として戦争を行うことが出来るようになったのでした。これは言い換えれば、ローマ教皇は独自の判断に基づいて宗教的行為として戦争を遂行し、騎士や諸侯らを軍事力として使役することが出来るようになったということでした。つまり、この第一回十字軍の高揚をきっかけに、西ヨーロッパにローマ教皇を中心として精神的な意味で「カトリック共同体」といえるような超国家共同体が成立するようになったのです。
思えば、地球温暖化の進展する時期、10世紀には東アジアで「宋帝国」という超国家的な経済共同体が構築され、11世紀には中東で「セルジューク帝国」という、これもまた一種の超国家的な共同体が形成され、そして11世紀末から12世紀にかけてヨーロッパにおいて「カトリック共同体」といえるような超国家共同体が出来たということになります。これらは結局、域内の人や物の行き来が活発になった結果ではなかろうかと思われます。ヨーロッパにおいても12世紀に商業が発達していくのです。

そして、このように騎士や諸侯らを率いて聖戦を指揮し得る実体的な権力となったローマ教皇は、神聖ローマ皇帝に匹敵、あるいは凌駕する権力を有することとなり、係争中であった聖職者叙任権論争においても有利な立場に立つようになりました。そして1122年にヴォルムス協約が結ばれて、聖職者の叙任権から世俗権力は排斥され、叙任権はローマ教皇側に属することが決定され、聖職者叙任権問題は決着したのでした。しかしその後も皇帝派と教皇派はその他の権利問題で争い続け、論争は続いていくことになります。その論争の中で12世紀にはスコラ学が確立されていくことになるのです。
それにしても、これで聖職者の叙任から世俗権力者が排除されることとなり、グレゴリウス7世の悲願は達成されたことになりますが、ではこれでグレゴリウスが予想したようにシモニアが無くなったかというと、そんなことはなく、むしろ叙任権の保持者となった教皇が十字軍以降は騎士や諸侯の上に立つ、皇帝より強力な世俗権力的存在と化していったため、聖職を望む者が教皇や高位聖職者に賄賂を送るようになっただけのことで、シモニアは一向に減りませんでした。そもそも聖職者の絶対的権威がシモニアの元凶なのですから、その聖職者の親玉である教皇の権威が更に絶対的なものになってしまってはシモニアが減るはずはなく、むしろ増えるのが道理というものでしょう。
実際、この第一回十字軍において初めて実施された「贖宥」が、異教徒との戦闘に参加出来ない者については寄進を行うことによって「贖宥」を受けることが出来るとされたことから、寄進を受けて「贖宥」を与えるという新たなシモニアの形が成立するようになり、これが後にローマ巡礼によって贖宥が得られるとされるようになり、14世紀の教会大分裂時代に敵対勢力の妨害によってローマ巡礼に来られない者にローマ巡礼と同じ効力を持つものとして「贖宥状」の販売が行われるようになり、これがきっかけとなって聖職者によって各地で様々な名目で「贖宥状」の販売が行われるようになりました。この「贖宥状」が、いわゆる「免罪符」と言われているもので、これは聖職者が私腹を肥やすための究極のシモニアといえるものでした。この「贖宥状」の販売がドイツ地方であまりにも大々的に行われ、これに疑問を抱いた聖アウグスチノ修道会員のマルティン・ルターが1517年にこれについて問題提起を起こしたことをきっかけにして宗教改革の大波が起こり、その結果、プロテスタントというカトリックの対抗勢力が出現することになり、カトリック聖職者の絶対的権威を相対化することになり、それによって、やっとシモニアは減少していくことになるのです。

このように16世紀の宗教改革まではシモニアは盛んに行われ続けるのですが、それは12世紀においてカトリック教会の権威が第一回十字軍の成功によって高まって絶対的なものになったことによるものでした。しかし、この時期にもカトリックの権威を相対化する対抗勢力としてカタリ派が存在したはずなのです。それがどうして機能しなかったのかというと、弾圧によって潰されてしまったからでした。そしてそれも十字軍に起因しているのです。
1096年に十字軍運動が起こった時、10万人の民衆十字軍がイスラム教徒と戦って「贖宥」を得ようとしてヨーロッパからエルサレムへ向かって出発していきましたが、これに参加しなかったヨーロッパの民衆たちの中には、独自の解釈で十字軍活動を行って「贖宥」を得られると勝手に思い込んで暴走する者達がいました。すなわち、別にわざわざ中東まで出向かなくても身近に存在する異教徒と戦えばそれは聖戦であり「贖宥」の対象となるはずだというわけです。身近に存在する異教徒とは、まずはユダヤ人でした。
こうして1096年に初めてヨーロッパにおいてユダヤ人への組織的な虐殺・迫害が行われたのです。そしてこれ以後、ユダヤ人への暴力行為は定期的に繰り返されていくことになります。ヨーロッパにおいて狂信による暴力が横行する時代が始まったのです。これはやはり、カトリックの抑圧的なカルト支配下で鬱積していた農民たちの狂気が「聖戦」という口実を見つけて「異教徒への暴力」という捌け口に向けてぶちまけられた現象と見るべきでしょう。カトリック教会は決してこうした暴力行為を煽っていたわけではなく、むしろ抑制しようとしていたようですが、こうした暴力行為は農民たちの不満の一種のガス抜きともなっていたので、それを無理矢理にでも押さえつけるとまではいかず、結果的にほぼ野放しになっていたようです。
この異教徒に対する攻撃の次の矛先となったのがカタリ派で、12世紀に入るとヨーロッパのカトリック信徒の農民たちが独自にカタリ派への暴力行為を引き起こすようになり、更にそれに日頃からカタリ派を面白く思っていなかった領主たちが便乗して、カタリ派信者を捕らえて裁判にかけて火あぶりにしたりして、13世紀になると特にカタリ派の多かった南フランスの情勢は不穏になったのでローマ教皇は「アルビジョワ十字軍」を組織して南フランスのカタリ派拠点を鎮圧し、その後、「異端審問」というシステムを運用してカタリ派を取り締まっていくことになります。これは一般農民や領主たちのカタリ派への暴力があまりに酷いので、むしろその暴力の逸脱を防ぐためにカトリック側がガイドラインとして「異端審問」のシステムを定義したというのが本当のところです。
しかしこのシステムはすぐ変質していき、聖職者によって異端と認定されたカタリ派信者を領主権力が引き取ってどんどん火あぶりにして処刑していくという形となり、結局は狂信による暴力が横行することとなり、13世紀にはカタリ派は消滅してしまったのでした。
また、十字軍兵士は初めてイスラム世界に乗り込んで戦ったことによって様々な東洋の思想や情報に触れるようになりましたが、その中には「悪魔が人間を使って悪の業を行う」という思想もあり、これがヨーロッパに持ち帰られて土着信仰などと習合して「悪魔に憑かれた人」や「魔女」に対する恐怖という集団心理を生み出しました。これが異教徒狩りの集団ヒステリーと結びついて民衆法廷で魔女裁判を行うという風潮を生み出し、狂気の中で多くの罪なき人々が虐殺されるようになったのでした。
このように、第一回十字軍以降、ヨーロッパ社会においてはカトリック信徒の民衆による逸脱した暴力行為が公然と行われるようになるのですが、これは十字軍運動によって権威を高めたカトリック教会の指導によって引き起こされたものではなく、むしろカトリックのカルト的抑圧がそうやって強まっていく中で、その抑圧の下で鬱屈した民衆の狂気が第一回十字軍の際に生じた「聖戦思想」に捌け口を求めて暴走したものだと解釈すべきでありましょう。そして後にはそうした狂気にカトリック教会自体も呑み込まれていくことになるのです。

さて、十字軍兵士が持ち帰ったのは悪魔についての思想だけではなく、神の国の情報もありました。とにかくイスラム世界はヨーロッパのような世界の片田舎に比べて非常に先進的で、十字軍兵士たちは驚嘆しました。このような素晴らしい東洋には神の国があるに違いないと思ったことでしょう。そして、現地で聞いた話では東洋にもキリスト教徒がいるというのです。確かに東洋にはかつてヨーロッパから追放されたネストリウス派が布教をしていましたから、その情報を聞いたのでしょう。ならば東のほうには非常に進んだキリスト教国家があるはずだと十字軍兵士たちは思いました。そしてその国の君主を「プレスター・ジョン」と名づけたのです。
この東洋のキリスト教国家の王「プレスター・ジョン」についての様々な伝説が第一回十字軍以降、ヨーロッパで語られるようになり、1144年にセルジューク帝国によってエデッサ伯国が滅ぼされた際に、アンティオキア公国からローマ教皇への使者が「最近プレスター・ジョンの軍勢がセルジューク帝国の軍勢を破って十字軍救援のためにエルサレムに向かっている」という情報も合わせて伝えたため、この救援をあてにして1147年に第二回十字軍が派遣されることになるのですが、この「プレスター・ジョン」についての情報は、1141年にセルジューク帝国の軍勢を中央アジアのカトワンにおいて破った契丹軍についての情報を誤認したものでした。結局、「プレスター・ジョン」などやって来ず、第二回十字軍は惨憺たる失敗に終わり、十字軍国家の運命も暗転していくことになるのですが、それにしてもどうしてこの時期に契丹軍がセルジューク帝国軍と交戦することになったのか、それについては次に東アジアの情勢を見ていきたいと思います。
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【2008/11/13 12:05】 URL | 57 #- [ 編集]



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