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日本史についての雑文その359 世界宗教史2
さて、東方のシナ世界の黄河文明は紀元前8世紀に始まる厳しい寒冷期の影響で周王朝の支配体制が崩壊し、春秋時代の戦乱が始まりました。シナにおける宗教観はもともとは多神教信仰と死者復活信仰で、人間は死ぬと霊(シナではこれを「魂」という)は天へ行き、魂(シナではこれを「魄」という)は肉体と共に地下に埋葬されるという思想でした。魄と共にある肉体は霊と合体する真の復活の日までは無意識的に生きている状態なので子孫は埋葬した先祖が墓場の中でひもじい思いをしないように飯の世話をしなければいけません。もし飯を絶やすと腹をすかせた死者は墓場の外に出てきて外を彷徨うキョンシーになってしまい、これに悪い霊がくっつくと悪鬼になってしまい乱暴狼藉を働くと信じられていたのでした。それで子孫による先祖への祭祀は絶やしてはならないものとされ、これが強調されたために、いつしか死者の復活思想のほうは後退して、先祖への祭祀のほうが重視されるようになっていき、氏族共同体による多神教崇拝と祖先祭祀がシナにおける宗教となっていました。
しかし、そうなると死者復活の前の魂(霊)の待機場所としての「天」の存在意義が曖昧になってきて、「天」に新たな定義が求められるようになってきました。そこにインドからウパニシャッド哲学の影響が及んできて、その影響を受けて紀元前5世紀に老子が大成したのが道家思想で、「天」は全ての存在を規定する原理であると同時にそれら全てを生み出した母なる存在で、それは人知を超えた存在であるため、人為を排して自然であることが「天」に通ずる道であり、「天道」といいます。これを単に「道」ともいい、万物が本来自然から授かった生きるべき正しい方向、宇宙自然や万物の終始に関わる道であるとされ、この「道」を最重視したゆえ、老子の哲学を道家思想といいます。
この道家思想における「天」や「道」は、ウパニシャッド哲学やそこから派生した仏教におけるブラフマンや解脱の境地と似ているように思えますが、それは道家思想がウパニシャッド哲学の影響によって成立したものであったからでしょう。ただ、ウパニシャッド哲学や仏教においてはその思想は輪廻転生思想と一体となっており、解脱してブラフマンと一体化し得ない霊魂が輪廻転生していくということになっていたのですが、この輪廻転生思想が、シナにおける魄が肉体と共に留まるという祖先祭祀思想とは相容れず受け入れられなかったために、シナにおいては道家思想と祖先祭祀思想の整合性をとるために、この祖先祭祀思想がウパニシャッド哲学における輪廻転生思想の位置に入れ替わるという思想の変形を生じました。すなわち、天道に則って「天」と一体化し得ない魂(意識)と対になった魄(肉体を動かす幽体)と肉体は死後は共に埋葬されて子孫はその飯の世話をせねばならないということです。「礼」というのはもともとは死者と交通するシャーマニズムの儀礼を意味し、それはつまりシナの祖先祭祀思想においては死後の魄や肉体の世話をする作法を指したのですが、道家思想においては「天」は「礼」を超越した存在であるとされ、つまり「天」と一体化した魂と対になった魄や肉体は祖先祭祀によって飯の世話を受ける必要が無くなるということで、魄と肉体は墓場には入らず魂と共に「天」と一体化して永遠の生命を得るということになります。道家思想においてはこういう面は強調されることはありませんでしたが、道家思想を祖先祭祀思想と絡めて解釈するとこうなるのであって、こうした解釈から後に道教が形成されることになるのです。
ただ老子の思想においては、この人為を排して自然であるという「天道」に則った方法を処世術や統治まで適用すべきであるという主張がなされており、解脱を目標とするウパニシャッド哲学や仏教とは違い、ウパニシャッド哲学の世界観を援用しつつ現実世界を改変していく哲学、特に乱世を収拾して世を治めていく統治哲学を志向したものであったといえます。しかしこの老子の道家思想は紀元前4世紀には後継者の荘子によって現実世界における価値観を相対化するようになり、俗世間を離れて人為を排した世界において超然とし、現実世界における有用性にこだわることに批判的となり、夢幻のような世界に遊ぶような姿勢を強調したものへと改変されていきました。これはウパニシャッド哲学の本来の姿に近づいていった結果であろうと思われ、「人為を排して自然である」という方向性に従うならば老子の志向よりも荘子の志向のほうがより自然であったといえるでしょう。
この荘子の道家思想がシナの民衆に広く受け入れられていくことになるのですが、荘子の思想が成立した背景や、それが受け入れられていった背景には、紀元前4世紀になってから今までで最も厳しい寒冷期に突入して時代は戦国時代となり、氏族共同体が崩壊して多くの人々が没落していく中で、荘子のような現世否定色の強い思想が歓迎されたという事情もあるでしょう。この現実を超越したような道家思想はシナ人の精神の基層の一部を構成することになっていくのです。ただ、現実的な統治哲学としては荘子では使い物にならないわけで、老子の目指したような俗世における統治哲学の方向を突き詰めていったのはむしろ儒家のほうでした。

儒家というのはもともと祖先祭祀の儀礼を行う集団で、それぞれの氏族共同体の中に何人か祖先祭祀専門の者がいて祭祀を担当していたのであり、その祭祀儀礼を普遍化させるための祭祀担当者のネットワークがあり、それが儒家を形成していました。それが春秋時代の戦乱の中で氏族共同体が次第に弱体化してきて、祖先祭祀の継続が困難になってきました。そこで儒家の中で新たに祖先祭祀を正当化するイデオロギーを再編しようとする動きが起きるようになり、ウパニシャッド哲学の影響を受けた道家思想の「全ての存在を規定する原理」としての「天」の概念を道徳的に特化させて「普遍的な道徳的原理」と解釈し、祖先祭祀における「祖先に阿り奉仕する」儀礼(これをもともと「仁」という)は「普遍的な道徳的原理」である「天」の指し示す道に適ったものであるので、人々はこれを「天」の命令、つまり「天命」として行わねばならないと定義づけたのです。
そして、この「天命」に逆らって祖先祭祀、すなわち「仁」を行わない者には「天」は罰を与え、「天命」に従って祖先祭祀を行う者には「天」は恵みを与えるとも唱えられたため、ここにおいて「天」は「道徳的原理」という非人格的側面以外に、人格神的な側面も持つようになりました。また、儒家の思想においては「天」のみに道徳的正当性を帰さしめるために氏族共同体における多神教信仰を無視するようになったため、「天」への崇拝には一神教的側面も生じるようになったのでした。
この儒家集団において紀元前5世紀の初期に孔子が出現して、儒家思想を乱世を収める統治哲学として昇華させようという試みがなされることになります。孔子は、この「天命」によって行わねばならない道徳、すなわち「徳」を祖先祭祀の儀礼としての「仁」のみに限定せず、「仁」を「他人に対して阿り奉仕すること」=「他人に優しくすること」へと拡大解釈し、その「仁」こそが最高の「徳」であり、「仁」を実践する「徳」の高い者が「天」の意思、すなわち「天命」に適う者であるとし、そうした他人に優しい「徳」の高い者によって世の中が統治されることを「天」も望んでいるとしました。これは武力に優れた者、力の強い者による統治が横行する当時の乱世の世相を批判したもので、「徳」の高い者に「天」が「天命」を下して世の中を統治させ、逆に武力や財力ばかりに長けて「徳」に欠ける者による統治に対しては「天」は「天罰」を下し、その統治権を剥奪するという「徳治思想」を生みました。
ただ、実際に儒家集団が実践していた「仁」というのは氏族共同体内での祖先祭祀儀礼におけるものあったので、それは具体的には周王朝時代に起源を発する古めかしい儀礼様式で、それらを総称して「礼」と言ったのですが、この「礼」を古い規定通りに確実に遂行することが結局は「仁」の実践にあたるというのが孔子の儒家思想における実践哲学でありました。また、古式の「礼」の根本精神は氏族共同体における上下秩序の維持にあったので、その「礼」が「仁」(最高の「徳」)の実践であるとなったことで、「徳」の実践を祖先祭祀以外の部分にも拡大解釈していったといっても、それは結局は社会、特に血族社会における上下秩序を維持するということを意味するにとどまり、特にその中で重視されたのが親や祖先を大切にする「孝」の実践であり、次いで、年長者を尊重するという「悌」の実践が重視され、次いで主君に従うという「忠」の実践が重視されました。
このように孔子の主張した儒家思想というのは「天命」という新たな概念を使って古来の氏族共同体由来の道徳的価値観の再確認を図り、当時の乱世の世相を批判した復古主義的な政治思想であったのであり、逆に言えば、こうした復古思想を正当化するために、道徳的原理であると同時に最高唯一の人格神のような存在である「天」が「徳」という復古的道徳観の高低に応じて人や王朝に恵みや罰を与えてきたという世界観、歴史観や、人には「天」から与えられた使命があるという人生観などを呈示した思想であったといえるでしょう。
ただ、こうした孔子の発展させた儒家思想は当時の乱世の現実とは合致せず、まさに武力を駆使して勢力を拡大していた当時の為政者たちの論理と噛み合うはずもなく、統治哲学でありながら統治者階級にはほとんど受け入れられませんでした。また、氏族共同体が解体していこうとしている当時の世相において、このような復古主義的思想はあまりに観念的であり、厳しい乱世の中で生きる民衆を強く惹きつけるにも至りませんでした。

この孔子の儒家思想を学び、それに反発して紀元前5世紀後半に独自の思想を打ち立てた墨子を開祖とする思想が墨家思想です。儒家思想が復古主義的であったのに対して、墨家思想の大きな特徴は春秋戦国時代の当時の現実を直視した実用主義的であったという点です。まず当時の氏族共同体の崩壊していく状況を受け入れて、古い身分制秩序を維持することを目的とする儒家の「孝」「悌」「忠」などを偏ったものとして排して、全ての者を隔たりなく広く愛するべきであると唱え、そして当時の社会問題の第一は戦乱による民力の疲弊にあると捉え、戦乱を抑えて秩序を安定させて分け隔てなく人材を登用して経済強化を図ることを主張しました。
墨家思想においては、「天」の意思を絶対とするという点では儒家思想と同じですが、古めかしい儀礼を守ったり、天命によって人の宿命は定まっていると諦めたりする考え方は否定し、上記のようにして人々が現実の社会問題に対処して自分や国家の運命を変えていくことこそが「天」の求める「徳」であると主張されました。これは儒家思想の作り上げた思想の枠組みを使って、より現実主義的、実用主義的な主張を行った思想であるといえるでしょう。それゆえ、この墨家思想は儒家思想よりも一般民衆に広く受け入れられるようになっていきました。ただ、戦乱を否定する墨家思想は戦乱を引き起こすことによって勢力を拡大していた有力諸侯たちには受け入れられず、統治哲学としては大成せず、民衆による教団のような形で広まっていきました。
墨家思想が民間教団として発展していった要因としては、まず墨子が自らの思想を実践していくことを通してその正当性を証明していこうとしたという事情があります。それは諸侯に対してのデモンストレーションであったので、その目的自体はあまり達成はされなかったのですが、とにかくその実践のために土木や冶金などの技術者集団、防御戦用の戦闘集団など、常に多くの集団を組織することになったため、その支援要員も含めて自然と多くの民衆を引き連れることになったのです。
また墨子は観念論はあまり使わず、一般民衆に理解されやすい教えを構築しており、例えば「天」という絶対者の下に、当時のシナ人には馴染みの深かった多神教世界の神々を人々にその行いに応じて賞罰を与える「鬼神」、すなわち「天」の眷属のような存在として再編して配して、墨家思想を民衆に馴染みやすいものとしたということも民間教団として発展していった要因であるでしょう。多神教の神々のことをシナではもともと「帝」とも言ったので、その上位に位置する「天」を人格神的な主神として「上帝」と呼び、この「上帝」と「鬼神」によって構成される新たな多神教思想を「上帝鬼神思想」と言いまして、この「上帝鬼神思想」と民間教団という手法は、後に道教に引き継がれることになります。

こうして、紀元前4世紀あたり、戦国時代前期のシナにおいては、多神教信仰は墨家思想によって、祖先祭祀は儒家思想によって、それぞれリニューアルされて習合した形でシナ民衆の間で維持され、やや急進的な民間教団としては墨家教団が大きな勢力を誇り、統治哲学としては儒家思想や道家思想などがありましたが、いずれもあまり受け入れられず、やがて道家思想において荘子が出てきて現世否定色を強めていくにつれて民衆の支持を得るようになっていき、同時に統治哲学としては用を足さなくなっていきました。この荘子と同時代、すなわち紀元前4世紀後半に現れた儒家思想の大成者が孟子です。
孟子は儒家思想における「徳」の中で孔子が最重要とした「仁」に並ぶものとして「義」をクローズアップして、それを「正しい行いを守ること」としました。「義」の対立概念は「利」であり、つまり「欲望や損得勘定に基づかず、正しいと信じることを行う」というのが「義」であり、「義」は人間の行動を喚起する行動哲学なのです。なぜ孟子が行動哲学を重視したのかというと、それはやはり孟子の時代において、古い儀礼に囚われずにより実践的な活動を行っていた墨家教団の隆盛を意識してのことでありましょう。それに対抗するためには儒家としても形式的な「仁」や「礼」だけでなく、より自由な立場で社会を変革していける行動哲学が必要であったのであり、それが「義」であったのです。
ただ、それでも孟子は儒家思想を民間で広く受け入れられるようにしようとしたわけではなく、やはりあくまで統治哲学として大成しようとしたのであり、その上で墨家思想よりも正当な行動哲学を志向したのです。統治哲学でありながら行動哲学であるということは、為政者に「仁」や「礼」だけでなく「義」をも求めるということであり、孟子が為政者に求める「義」=「正しい行い」とは「王道政治」の実現でありました。
孟子は政治の在り方を、徳によって行う「王道」と、武力によって行う「覇道」に分類し、「王道」が「覇道」よりも優れているとしました。これは孔子流に言えば「天」が「王道」を望んでいるからだということになるのでしょうが、孟子はこのあたりをもう少し論理的に説明しようとしました。すなわち孟子は「天」の意思は「民」の意思となって現れるものであると唱え、民衆は「覇道」よりも「王道」、つまり徳による仁政(優しい政治)を望むのであり、それは天下の民全てがそうであるのだから、王道政治を行う国がたとえ小国であっても、周辺の大国の官吏や人民もその小国の政治を慕い、そうなれば自然とその国に富が集まるようになり、他国もその国を侵略することは出来ず、その国が天下の盟主となるはずだというわけです。こういうわけですから「王道」は「覇道」よりも優れているということになるのです。
孟子はこのように、政治にとって最も大切なものは「天」の声たる人民であり、次いで「天」の下にある国家の祭神(多神教の神)が大事で、君主の地位などはその下に過ぎないとしたのです。「天」という絶対的概念を「人民」と同一視することによって、「人民あってこその君主であり、君主あっての人民ではない」という極めてラディカルな思想に到達したのだといえます。そして、この孟子の「天の意思は民の意思となって現れる」という理論は、徳を失った君主を民が武力をもって倒したとしても、その「民」の行動は「天」の意思の表れであるのだから正当なものだとされるという、「武力革命」をも容認する理論にもなり得るのです。但し、あくまで孟子はその革命に道徳性を求め、君主が徳を失った場合のみ革命が有効なのであって、そうでない場合はただの簒奪であると言うのですが、しかしこの理論は後世においては革命の後で滅ぼされた王朝の不徳が捏造されるという風にして悪用されていくことになります。
しかし、このようにラディカルで為政者にとって危険な思想が各国の君主に好まれるはずもなく、また当時は現実世界では「王道」よりも「覇道」が横行し、道徳性の欠片も無いような簒奪劇が繰り広げられていたわけですから、つまりは「天」の意思は「民」の意思となって現れておらず、民衆には道徳性など無いということであり、それならば君主が仁政など行ったところで民衆がそれを支持するわけもなく、「王道」が「覇道」に勝つはずもないのは道理であるということになります。現実がそうであるならば、孟子の口車に乗って君主が「王道政治」など行っても馬鹿を見るだけであり、このように現実との整合性が取れない分、孟子の思想は受け入れられ難かったといえます。
孟子の思想に対するそうした懐疑論に反駁するには、孟子は民衆、つまり人々は道徳的原理である「天」と同じ道徳性を備えており、「天」の意思を代弁することが出来るのだということを証明し、その上でどうして現実はそのようになっていないのか論理的に説明する必要があったのです。そういうわけで孟子は「性善説」を唱えなければならなかったのでした。
この頃は人間の本性が善であるか悪であるかについては、「人の本性には善も悪も無く、環境によって善にも悪にも染まり得る」という墨家思想の説が主流でした。しかし孟子は人間の本性は皆一様に善であり、「天」の持つ「徳」と本質的に同一の性質を有していると唱えたのです。すなわち、あらゆる人には先天的に「惻隠(他人の苦境を憐れむ心)」「羞悪(不正を羞じる心)」「辞譲(謙譲の心)」「是非(善悪を判断する心)」という4つの「善の兆し」があり、これらがそれぞれ修養を積んでいくことによって「惻隠」は「仁」、「羞悪」は「義」、「辞譲」は「礼」、「是非」は「智」という4つの「徳」となって現れていくのであり、この4つの「徳」こそが「天」の本質である道徳的原理そのものであるのだから、人間の本質は「天」の道徳的原理そのものと基本的に同一で、「善」なるものであるという論理です。ただ、孟子は手放しで人間の善性を礼賛しているわけではなく、人間は修養によって「善の兆し」を「徳」へと高めていかなければいけないとしており、現実には悪が横行しているのは人間の外部に存在する「悪」が人間に外部から影響を及ぼして、その内在する善性を曇らせているからであると唱えました。だから人間は外界の悪の影響を取り払い、その上で修養を積んでいかなければ本来の善性に到達することは出来ないわけで、だからこそ儒家思想によって人を導く必要があるのだということになります。また、修養を積まない人は悪に染まったままなので「禽獣」同然の劣った存在であり、修養によって本来の「徳」に目覚めた「君子」はこうした「禽獣」のような人民を指導していく資格を有するということにもなります。

このように論理的説明は加えていったものの、孟子の「性善説」には結局、戦国時代の現実にはなかなか合致しない部分があって、儒家思想は墨家思想や道家思想のように広く受け入れられるには至りませんでした。そこで戦国時代も終盤に入った紀元前3世紀前半に孟子の「性善説」を乗り越えて、儒家思想を現実主義に立脚したものに改変しようとしたのが荀子でした。
荀子は「天」は道徳的原理などではなく単なる自然現象に過ぎず、人間の本性は聖人君子ではなく欲望的存在に過ぎないとしました。これが荀子の「性悪説」ですが、別に荀子は人間の本性が極悪人だと言っているわけではなく、人間には欲望があり、欲望によって動かされる存在であり、孟子の言うような高徳な存在が本性ではないと主張したに過ぎません。こんなことは現代人に言わせれば当たり前のことで、それほど奇異なことを言っているわけではありません。
実は荀子が言いたかったことは「人間の本性は欲望的存在に過ぎないが、後天的努力によって公共善を身につけることが可能である」ということであり、これは孟子の「人間の本性である善性を曇らせる外界の悪は修養によって取り払うことが出来る」という主張と、後天的努力を重視するという点でほぼ同じことを述べているのです。それもそのはずで、荀子が重視したのは人間の本性の善悪や天の定義でもなく、人間が人生において「仁」「義」「礼」などの徳目を実践し、政治においては「徳」に基づいた「王道政治」が行われることの正当性であり、そのための孟子よりも説得力のある論理的根拠を新たに示すことであったからです。だから結論部分は孟子とほぼ同じく「後天的努力(修養)の重視」になるのは当然で、その根拠となる論理が違ってくるのです。
荀子は乱世においては「人間は欲望的存在である」と定義するほうが現実に沿っていると判断しました。そして人間に善性が内在していないのなら、わざわざ「天」を道徳的原理として定義する必要もなく、単なる自然そのものと見ればいいのです。自然状態を放置しておくと社会的混乱が生じるものだと考えるほうが、乱世の現実を説明するには自然であったといえます。その上で後天的にそれを克服していくのですが、孟子の場合は人間が本質的には善であるのでその努力は自発的・内発的に生じてくることが期待されるのですが、荀子の思想においては人間は本質的に欲望的存在で放っておいたら努力などしないので、外部から外在的な「仁」「義」「礼」などを教え込んでいく矯正・感化させていく必要があるということになります。結果的に人間は学問的修養を通して高徳な存在になっていくのであり、また、そうやって高徳となった君子がまだ欲望的存在にとどまっている人民を指導していく資格を有するという点でも、荀子の主張は孟子の主張とそう大差があるわけではありません。
ただ、「人間は欲望的存在に過ぎず外からの矯正や感化が必要である」という、現実的な醒めた認識に基づいている点が荀子が孟子とは決定的に違う点であったのでした。そしてこの荀子の弟子で紀元前3世紀後半に活動した韓非や李斯によって、この荀子の儒家思想は法家思想へと昇華していくことになります。

荀子の弟子の韓非や李斯は、荀子の思想を更に統治哲学として発展させて、欲望的存在である人間を学問で矯正・感化するよりも、法に定めた賞罰によって行動を規制して「礼」を強制して、悪を未然に防ぐほうが効率が良いとしました。そのために君主が一律に定めた法による統治、つまり中央集権制が必要であり、中央集権制を維持するためには郡県制のシステムが必要ということになります。これが法家思想で、法家思想においては法による統治を実効力あるものとするために、刑罰と賞与のアメとムチのシステムが徹底的に究められました。
この法家思想ももちろん本来の目的は人間を法によって矯正して高徳な存在へとすることであり、そういう点では荀子や孟子と変わりないといえます。ただ、そのための手段が儒家思想の場合は学問修養であり、法家思想の場合は法による統治であったのです。そして為政者にとっては法家思想のほうが馴染み易く、都合が良かったといえます。紀元前246年に即位した秦の政王、後の始皇帝は法家思想に傾倒しますが、政王が人間を高徳にすることを目指したというわけではなく、統治ノウハウとしての法家思想、またその統治を正当化する思想としての法家思想にこそ魅力を感じていたに過ぎないでしょう。それは法家思想家たちの思惑とは違っていたのかもしれませんが、法家思想は権力者、特に秦の政王にもっぱら利用されることとなり、統治哲学としては頂点を極め、紀元前221年の秦によるシナ統一、そして始皇帝の即位によるシナ帝国の誕生の原動力となったのでした。
法家思想の統治手法は、賞罰を駆使して冷徹に人民を統制して皇帝独裁体制を支えるマキアベリズムそのものであり、これがシナ帝国の国教となりました。シナ帝国というシステムを維持していくためには法家思想は不可欠の存在となったのでした。すなわち、シナ帝国というシステムは法家思想を用いて人民を統制していくシステムであり、これはこの後、シナ帝国が存続している間、ずっと不変の真理でありました。
戦国時代末期においては墨家教団が大きな勢力を誇っていましたが、秦は統一事業の過程で墨家教団を徹底的に殲滅し、壊滅させました。墨家思想の持つ人民によって現実社会を変革していく実用的思想に脅威を感じたからでした。法家思想を利用する秦にとっては人民は指導されるべき欲望的存在であるべきで、自発的に現実社会を変革していく存在であってはいけないのでした。そういう意味では、「天」の意思を代弁する人民による革命を肯定する孟子の儒家思想も秦にとっては危険思想でした。そこでシナ統一後に儒家たちが郡県制に反対して周の時代の制度への復古を主張したことをきっかけに紀元前213年に儒家思想に対する大弾圧を行いました。これが「焚書坑儒」です。
儒家思想はもともと民衆にはあまり受け入れられていなかったので、これは民衆にとっては大した事件ではなかったのですが、墨家思想の壊滅のほうは民衆にとっては大きな事件でした。墨家思想と共に民衆に浸透していた思想は道家思想でしたが、こちらのほうはあまりにも俗世に背を向けた思想であったので、秦帝国の当局にもあまり警戒されず、弾圧はされなかったようです。それで墨家思想の一部となっていた、シナ世界の多神教信仰を再編成した上帝鬼神思想は道家思想に取り込まれることになって受け継がれることになったのでした。

こうして紀元前221年以降の秦帝国の治世下においては、統治哲学としては法家思想があり、民衆の思想としては上帝鬼神思想を包含した道家思想、そして儒家思想によって再編された祖先祭祀思想があり、統治哲学としての儒家思想はほとんど壊滅状態というような感じであったと思われます。
法家思想ももともとは人間が徳を求めて努力していくことを肯定する立派な思想を出発点としていたはずなのですが、単なる統治技術として権力によって利用される存在に堕落してしまったのでした。法家思想を使って人民を指導する存在が権力であるということになるのですが、しかし法家思想においては、その権力による人民への指導を正当化する論理が欠けているのです。法家思想の源流は荀子の思想にあるのですが、荀子においては人間は欲望的存在ですから「徳」は外在的に存在しており、その「徳」を身につけた君子が人民を指導できることになるのですが、その外在的な「徳」がどうしてそこに存在するのか、それについてのちゃんとした論理が無いのです。それでも結果的に君子、つまり権力者の指導によって人民の「徳」が上昇しているのであれば、その結果こそが外在的な「徳」の存在証明になるというのが荀子の論理になるのですが、権力者が単に荀子思想や法家思想を利用して人民を統治しているだけで、人民の「徳」の上昇に全く寄与していない場合には、この権力者を権力者たらしめている外在的な「徳」の根拠は崩れ去り、権力の正当性は揺らぐことになります。これが、つまり法家思想の堕落なのです。
こうなると正当性の無くなった権力を単に武力やカリスマで維持しているという状態になり、始皇帝の死や農民反乱でその維持もおぼつかなくなった秦帝国はあっという間に瓦解し、紀元前206年に滅びました。そして同時に統治哲学としての法家思想も破綻したのでした。但し、シナ帝国の基本制度である中央集権制、郡県制、皇帝独裁体制などは法家思想とは不可分となっていましたから、統治技術としての法家思想はシナ帝国が続く限りは永遠の存在となったのでした。つまりシナ帝国の国教は密教と顕教に分かれることになり、法家思想はシナ帝国の密教となったのです。そうなると、その法家思想を使って人民を賞罰で統治するシナ帝国の権力自体を正当化するための顕教としての統治哲学が必要となってきます。

秦滅亡後の戦乱を紀元前202年になんとか収めてシナ帝国の再興を志した漢帝国も、新たな統治哲学を模索することになります。漢帝国において当初、統治哲学として用いられたのは道家思想でした。これは単に当時、道家思想が民衆の間で最も盛んであったということと、漢帝国の統治階級が創始者の劉邦をはじめ大部分が庶民出身で道家思想に馴染みが深かったということも要因としてあるでしょう。道家思想自体も上帝鬼神思想の影響を受けて変質し、荘子や老子よりも遡る道家の始祖として伝説的君主である黄帝を崇拝するようになり、更にこの黄帝が法家思想の源流であるという説が唱えられるようになりました。これが漢帝国の初期に流行した「黄老刑名の学」という道家思想の一派なのですが、これは要するに道家思想を顕教、法家思想を密教として、道家思想によって法家思想による統治を正当化しようとした試みであるといえるでしょう。
しかし道家思想はやはり統治哲学としてはあまりにも未熟で、実際、道家思想を統治哲学としていた初期の漢帝国は中央集権体制を貫徹することも出来ずにいました。つまり法家思想を機能させることが出来なかったのです。それはつまり顕教としての道家思想が脆弱なものであったからでした。そこで7代皇帝の武帝は儒家思想に目をつけて紀元前136年に国教としたのでした。ここにおいて儒家思想はシナ帝国の統治哲学、顕教としての儒教となります。
ここで漢帝国によって採用されたのは基本は孟子の「性善説」で、「天」は道徳的原理であり、人間の本質は善であるのだから、「天」の意思は人民の意思となって現れるという説です。つまり人民が漢帝国の皇帝の治世を歓迎しているということは「天」が漢帝国にシナを支配する天命を下ろしているのと同義であるということになります。「王道政治」を行う高徳の君主は自国だけでなく他国の人民からも慕われるはずですから、シナ皇帝は外征によって他国の人民も徳で教化して高徳をアピールし、それによってシナ人民は皇帝の高徳を意識して支持し、それは「天」の支持に通じるのです。そうした「天命」を受けた高徳の皇帝であるからこそ、まだ徳に目覚めていない人民を指導して、法によって「仁」「義」「礼」などを教え諭し、本来の善性を目覚めさせる資格があるのであり、それは多少厳しい方法になるかもしれないが、善性に目覚めるのは結局は人民本人のためになるのだから、それはやはり「仁政」といえるのです。
まぁだいたい漢帝国において確立した統治哲学としての儒教の論理というのはこういう感じで、前提部分は孔子や孟子なのですが、最後のところだけちょっと法家思想になっているのがミソといえるでしょう。ただ、この儒教がすぐにシナ全土に浸透していったわけではありません。シナの人民にとって最も馴染みのあったのは相変わらず道家思想と祖先祭祀思想で、儒教はあくまで統治哲学ですからまずは統治階級の上のほうから徐々に広がっていき、紀元前1世紀の終わりぐらいまでにその統治哲学は人民に広く意識されるようになって実質的に国教化が完了したのだといえます。ただ、それはあくまで統治哲学ですから民衆の信仰対象となったわけではなく、あくまで民衆の生活は道家思想と祖先祭祀と共にあったと考えていいでしょう。民衆はあくまで、儒教を通して皇帝の統治の正当性を意識するようになったということです。

しかし、この儒教には問題点が何点かありました。まず根本的な問題として、孔子の思想というのは「仁」や「礼」によって上下秩序を維持することが目的であり、対人的な相対的価値観はあっても個人の内面的な絶対的価値観というものがそもそも無い思想であるということです。そしてそれを補った孟子は「義」を強調して善悪の価値観を導入しましたが、これでは各自がそれぞれ自分が「善」だと思い込んだことを信じて貫くということになります。だから現在でもシナ人の言う「義」というのは必ずしも公共的な正義と合致しない場合が多いのです。世間的には悪党でもとにかく自分の仲間内のルールを大事にするのがシナ人の「義」なのです。このように儒教における「義」は曖昧なものになりがちなので、そこで善悪の判断を行う「智」が孟子においては重視されることになります。
このように孔子の教えが孟子によって補正されて儒教はやっと一人前の思想体系になったというのが実態であったのですが、漢帝国において国教化した儒教においては儒教の始祖としての孔子がやたらと聖人として持ち上げられて重視されたので、これ以降の儒教は思想的にはほとんど発展しなくなり、古の聖人の書いた文章をひたすら解釈するだけの訓詁学へと堕していきます。
しかし、仮に孟子に着目してみたとしても、儒教においては価値観は善悪の軸しか存在しないということに気づきます。「義」は善を行うことであるし、「智」は善悪を判断することです。何故そうなるのかというと、儒教の神である「天」がそもそも道徳的原理なのであり、究極的な「善」に過ぎないのであり、決して「真理」や「美」の体現者ではないからです。それゆえ、儒教においては善悪の価値観のみが存在し、真偽や美醜の価値観というものが無いのです。
世界の価値判断の基準は善悪の尺度だけではありません。善悪の縦軸に交差して真偽の横軸を引いた座標上で「真善」「真悪」「偽善」「偽悪」の四象限が形成され、「真善」と「偽悪」が美、「真悪」と「偽善」が醜ということになります。いや、どれを美と感じるか醜と感じるかは基本的には各自の感性次第ではあります。とにかく善悪の尺度だけあって真偽の尺度に欠けていると美醜も分からなくなるのです。「真・善・美」が価値観の基本であって、真偽・善悪・美醜の価値観が掣肘し合って、お互い暴走することを防いでいるものなのです。それが儒教においては善悪の尺度しか無いから、ひたすら善悪の縦軸が一次元的に真っ直ぐ延々と伸びていき、暴走して堕落していくのです。
それを掣肘するには他の宗教思想によって真偽の横軸を引くしかないのですが、道家思想やその発展形である道教、また後に入ってくる仏教などはむしろ価値観を超越することに意義を見出すタイプの宗教であるので、儒教の暴走を掣肘するには適役ではありませんでした。それゆえ、そうやって形成されたシナ文化(およびその亜種としての朝鮮文化)においては事実関係など無視した観念的な道徳論が横行し、しかもその議論や行動には道徳論とは思えないほどの卑怯な振る舞いが多くて日本人を面食らわせることになるのですが、これらは全て、真偽や美醜の観念が抜け落ちているせいであります。
しかし儒教は高徳の君子たる権力者には人民を指導し支配する資格があると言いますが、真偽や美醜の観念の抜け落ちた善性など脆弱なものに過ぎず、その高徳性がそうそう長持ちするとは思えません。そもそも人間の本性が善であるなどという前提が怪しく、荀子の言うように人間は欲望的存在であるという見方のほうが正しいといえるでしょう。実際、シナ帝国の権力者も本当は人間を欲望的存在と見ているから法家思想を実践しているのであって、儒教はそれを正当化するために利用しているだけなのです。そのような権力者が高徳者であるはずもなく、むしろ儒教によって正当化された絶対権力は権力者を腐敗堕落させて徳を損なっていくようになっていきました。

そのように儒教が腐敗堕落して本来の姿ではその権威を保持できなくなってくると、その最高神である「天」をやたらと持ち上げて、何か悪い事が起きればやたらと天罰だ天罰だと騒ぎ立てるようになり、逆に何か良い事があれば天の示した瑞兆だと有難がるようになります。そのように「天」がやたらと神がかりな人格神のようになってきて儒教が神秘思想化していった果てが紀元前1世紀末から1世紀初期にかけての王莽による王権簒奪、儒教原理主義による政治の混乱であったのです。
その後、37年に後漢帝国がシナを再統一した後は一時的に儒教はその影響力を低下させましたが、1世紀後半以降は再び後漢帝国の国教(顕教)としての地位を固め、相変わらず腐敗堕落して神がかりになりながらも、シナ人の意識に儒教的価値観を次第に浸透させていくようになりました。このように、何かと欠陥の多い儒教がこの時期においてシナ世界で受け入れられていったのは、儒教がこの世に魄と肉体を残して復活に備える祖先祭祀と一体化した現世肯定宗教であったからでした。この紀元前後を挟んだ時代は、戦国時代末期に始まった地球温暖化のピークにあたる時期で、現世で生きていくことについて人々が肯定的であった時代でありましたから、基本的には現世肯定宗教であった儒教は、現世否定思想であった道家思想などよりも人々の受けが良かったのだといえます。ただ、この温暖化時代は2世紀後半には終わりを告げて、再び寒冷化時代が始まることになり、それに伴って道教や仏教のような現世否定色の強い新しい宗教がシナ世界に出現してくるようになるのです。

なお、日本列島や朝鮮半島、満州平原などはもともとは精霊信仰が行われていましたが、満州平原や朝鮮半島北部には割と早期、おそらく紀元前1000年ぐらいからシナと同じような祖先祭祀と多神教信仰が浸透して、ゆっくりと精霊信仰に取って変わっていったようです。ただ、その後シナ世界で道家思想や儒家思想、墨家思想、法家思想などの、いわゆる諸子百家の思想が興った春秋戦国時代においては、万里の長城以北にこれらの思想が広がることは無かったので、満州平原や朝鮮半島北部にもそれらの思想の影響はほとんどありませんでした。
それでも紀元前1世紀以降は朝鮮半島北部に関してはシナ帝国の直轄地となったのでいくらかはシナ帝国の統治哲学であった儒教の影響も受けるようにもなりましたが、実際は武帝の治世下の一時期を除いてはそれほど強固な統治が行われたわけではありませんので、満州平原や朝鮮半島北部では祖先祭祀と多神教信仰の世界が続くことになったのです。但し、この時期のこれらの地域における祖先祭祀は、シナ世界におけるような儒教によってリニューアルされた祖先祭祀とは違い、多神教信仰とセットになった昔ながらの祖先祭祀の形を保持していたのでした。
一方、朝鮮半島南部や日本列島には多神教信仰や祖先祭祀の影響が及んだのは割と遅く、紀元前5世紀以降であろうと思われ、しかもその影響力はかなり控えめであったので、多神教信仰も祖先祭祀も既存の精霊信仰に取り込まれるようにして浸透していきました。すなわち精霊がそのまま個々の性格を明確にしていって固有名詞のある神々(カミガミ)になっていったり、魂や魄の区別は曖昧になり、祖先の霊と精霊が同一視されるようになり、祖霊が精霊の一種、あるいは精霊の1つの側面となって精霊の形成する多神教世界の一員となり、一種の神(カミ)として扱われる祖霊信仰が成立するようになったのです。
紀元前1世紀のシナ帝国の朝鮮半島進出以降も、朝鮮半島南部にはシナ帝国の実質的統治はほとんど及んでいなかったので、朝鮮半島南部や日本列島において、こうした精霊信仰や祖霊信仰が行われるという状態は変わりなく継続し、特に日本列島は自然環境が豊穣であったので精霊信仰と祖霊信仰を混ぜ合わせた独自の多彩な信仰体系である神道を作り上げ、2世紀後半においては精霊と祖霊を合体させた首長霊という神霊を王位継承者が代々受け継ぐという祭政一致体制のもとで王権を誕生させていくことになります。
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【2008/11/11 02:37】 URL | 57 #- [ 編集]



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