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日本史についての雑文その360 世界宗教史3
紀元前1500年以降、本格的に北方からエーゲ海方面へ進出したイオニア人、アカイア人、ドーリア人らのギリシャ諸族は紀元前8世紀末までにはギリシャ南西部、エーゲ海の島々、アナトリア半島西岸に都市国家を築くようになり、古代ギリシャ文明が成立しました。ギリシャの地は農業生産性が低かったので、古代ギリシャ人たちは食糧を求めて地中海各地に殖民していき、紀元前5世紀頃までにはそれらの植民都市とギリシャ本土との間に地中海全体から黒海に広がる交易ネットワークが形成されるようになっていきました。
古代ギリシャの都市国家はポリスといいまして、互いに同盟を結んだりして戦ったりしていましたので、それぞれのポリスでは成人男子の市民がみんな戦士となり政治家となり、生産活動は戦争によって獲得した奴隷に行わせ、市民は肉体の鍛錬と政治談議に明け暮れるようになりました。そうした中でギリシャ哲学が成立していったのでした。
ギリシャ人たちの世界観はもともとは精霊信仰であったのですが、都市文明を形成するに伴って多神教信仰に移行するようになり、紀元前8世紀ぐらいにはオリンポスの十二神を中心とした体系的なギリシャ神話の世界観を持つに至っていました。

このギリシャ人たちの都市国家群の歴史はおおまかに言うと、まず紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけてポリス間の抗争期間があり、その後、紀元前492年から紀元前479年にかけてペルシア帝国の侵略をポリスが連合して撃退したペルシア戦争を経て、紀元前5世紀の中葉には対ペルシア同盟の盟主であったアテネが他のポリスを従属させるようになり、全盛期を迎えます。そしてそれに対するスパルタなどの諸ポリスの不満が募り、紀元前431年から紀元前404年にかけてのペロポネソス戦争や紀元前371年のレウクトラの戦いなどポリス間の攻防が繰り返され、スパルタやテーベがアテネに替わってポリスの覇権を握るようになっていきました。そうこうしているうちに紀元前4世紀中頃にはギリシャの北方のマケドニア王国が強大化し、紀元前338年のカイロニアの戦いでマケドニアのフィリップ2世はギリシャのポリス連合軍を破り、ギリシャを支配下に組み込み、その2年後にフィリップ2世の暗殺を受けてその息子のアレクサンドロス大王が紀元前336年に即位し、紀元前334年には東征を開始し、紀元前323年に大王が病死するまでの11年間の短期間でギリシャからインド西部まで及ぶ世界帝国を築き上げることになりました。大王の死後、帝国は内紛を起こし、紀元前3世紀初頭には4つの王国に分裂しますが、これらの諸王国にはギリシャ人が植民していき、ギリシャ文化と東方の文化を混ぜ合わせたヘレニズム文化が花開きます。そして紀元前3世紀末に地中海世界の新たな覇者となったローマ共和国にもヘレニズム文化が流入していくようになり、紀元前146年にはギリシャやマケドニアはローマの属州となり、ギリシャ文明はローマ共和国に大きな影響を及ぼしていくことになるのです。そのローマ共和国が紀元前27年に帝政に移行し、ローマ帝国となり、ヨーロッパ文明の源流の1つとなるのですから、古代ギリシャ文明はヨーロッパ文明を語る上で重要ということになるのです。

この古代ギリシャにおいて、ポリス間の抗争期間の紀元前6世紀からペルシア戦争開始までの時期にアナトリア半島西岸のイオニア地方で、世界の起源や万物の根源について、伝統的なギリシャ神話における「神の意思によって世界が作られた」という文脈でない、目に見える身近な事物に基づいた理論で説明しようという知的な試みが初めて行われるようになりました。これは、イオニア地方がギリシャ圏の東端に位置しており、古代からの先進地域であったメソポタミアやエジプトで発達していた天文学や数学のような自然観察学の影響を受けやすかったからでしょう。
イオニア地方において紀元前6世紀前半にまずはターレスが万物の根源は水であると唱えましたが、しかしそれでは水と相反する性質を持つ火の存在が説明できないなど不足な点が多かったので、同時代にアナクシマンドロスは万物の根源は観察不可能で無限な存在であるとし、その弟子のアナクシメネスはその無限の存在とは空気であると唱えました。彼らは自然哲学者と分類される人達で、またイオニア地方のミレトスという都市国家の出身であったのでミレトス学派とも呼ばれます。
また、アナクシメネスと同世代の人で、南イタリアで活動していたピュタゴラスという学者は万物の根源は数であるという独自の思想を打ち立て、独自の教団を作っていました。彼の思想の詳細は伝わっていませんので、よく分からないのですが、彼は輪廻を説いていたらしく、どうやら紀元前6世紀の中頃にはギリシャ文明圏にもウパニシャッド哲学が伝わっていたようです。
ギリシャ圏にインド起源のウパニシャッド哲学を伝えるに際して媒介となったのはおそらく紀元前525年にオリエントを統一したペルシア帝国であり、ペルシア帝国からはウパニシャッド哲学だけでなく、ゾロアスター教やグノーシス主義などもアナトリア半島のイオニア地方を経由してギリシャ文明圏にもたらされたものと思われます。
このイオニア地方の都市国家であるエフェソス出身のヘラクレイトスは、アナクシメネスやピュタゴラスより半世紀ほど後に生まれ、主に紀元前6世紀終盤から紀元前5世紀初期に活躍しました。すなわちヘラクレイトスはペルシア戦争前に活躍した最後の世代の自然哲学者でしたが、彼はミレトス学派の思想にペルシアから伝わったウパニシャッド哲学やゾロアスター教の影響を加えた新しい世界観を打ち立てました。それは、表面上の万物は流転しているが、その背後に不変の根源的な1つの存在があるという世界観で、ヘラクレイトスはその根源的な存在を「火」として、この「火」から他の全ての物質は生成すると唱えました。ただヘラクレイトスは単純にミレトス学派のように「火によって世界が出来ている」と唱えたわけではなく、「火」によって象徴される根源的存在から万物が生成し、そうやって生成した万物は流転していくという「根源の一者」と「表層の万物」を別存在として扱ったウパニシャッド哲学的な「生成と流転の世界観」を提示したのであり、その根源的一者を「火」によって象徴したという点では「火」を崇拝対象としたゾロアスター教の影響があったといえるでしょう。

このようにペルシア帝国は紀元前6世紀中頃からギリシャ文明圏に思想的な影響を与えてくるようになったのですが、やがて政治的、軍事的な影響をも及ぼそうとしてくるようになり、その結果、紀元前492年からギリシャのポリスが連合してペルシア帝国の侵攻を撃退するというペルシア戦争が戦われることになったのでした。そのペルシア戦争が紀元前479年に終結した頃に南イタリアのエレアというギリシャ植民地で活動を開始した思想家がパルメニデスで、彼の創始した学派をエレア派といいます。
パルメニデスは先行するミレトス学派の自然哲学者やヘラクレイトスの唱えたような、1つのものから万物が生じたり万物が生成流転するような認識に異議を唱え、それは人間の感覚としてそう認識されているに過ぎず、感覚ではなく理性で考えれば「無」から「有」が生じたり「有」が「無」になったりするわけがなく、真に存在するものは変化などしないし運動もしない不生不滅の存在であると唱えました。また、パルメニデスの弟子のゼノンはパルメニデスの説を受け継ぎ、その理性によって真理に到達する方法として、質疑応答により相手の主張を前提として議論を展開し、その矛盾に対して反駁することを通して知識を探求する「弁証法」を編み出しました。
こうしてゼノンによって知識の探求は弁論を通じて行われるようになっていったのですが、ゼノンと同時代に活躍した哲学者にプロタゴラスがおり、彼は「万物の尺度は人間である」と唱え、人間それぞれが尺度であることから、人間はそれぞれ異なった主張を持つのであるから、それぞれ相反した言論が成り立つとしました。つまり絶対的な真理というものは無く、弁論によって相手を言い負かした側の言論が通るという考え方も成り立つことになります。
ゼノンとプロタゴラスは共に紀元前430年頃に亡くなりますが、その頃にペロポネソス戦争が始まり、古代ギリシャはポリス間の攻防の時代となります。この時代において相手を弁論で言い負かすための弁論術が技術として発展していくことになります。その先鞭をつけたのがアテネで授業料を取って弁論術を教え、数多くの弁論術に関する著作をなしたというゴルギアスですが、彼はまた同時に、その巧みなレトリックを駆使してエレア派などの唱える哲学的思索を茶化してみせたり、多様な視点によって絶対的価値観を懐疑して相対化する文学的作品も多く製作しており、単に弁論術を金儲けの手段として堕落させた人というよりは、真理の探究よりはプロタゴラスの「万物の尺度は人間である」という相対主義を徹底的に追求した人であったのだといえます。このゴルギアスに始まる理念よりもレトリック重視の知識人の流れをソフィストといいます。
実際、世の中というのはこうしたソフィストのような、やや冷静で一歩引いた態度で高尚な理念なるものに懐疑の目を向ける庶民目線の立場と、一方ではひたすら道義や真理を探究する高尚な学者先生のような立場の両方が存在してバランスがとれているものなのですが、ソフィストのような立場が堕落腐敗しやすいというのも確かで、ゴルギアスはあくまでも弁論術をテクニックとして扱い「徳」を相対化するものとしたのですが、ゴルギアスの後を継いだソフィスト達の中には「徳」を教えると称して弁論術を教えるというような者まで現れるようになりました。なお、この西洋の場合の「徳」というのは、東洋の儒教的な「徳」のように道徳的な卓越性に限定したものではなく、「Vritue」の訳語としての「徳」で、より広範な分野における卓越性を指すもので、儒教におけるように「天」などのような抽象的存在に仮託されるものではなく、人間にのみ備わるものとされます。

こうしたソフィスト達の、「徳」を教えるといいながら「徳」を教えない、実際に「徳」の何たるかも理解していないような傾向を批判し、弁証法を相手に「自分は何も知っていない」という「無知の知」を自覚させて真理の探究に向かわせるために使うべきであると説いたのが紀元前5世紀の終盤に哲学的活動を行ったソクラテスでありました。そしてソクラテスはそのように知識や真理を探究することで人の魂はより良くなっていき、魂をより良くしていく生き方が「徳」なのであり、「徳」を実践する人は幸福であると説きました。そのような主張をするにあたりソクラテスはソフィスト達や当時のアテネの有力者たちを攻撃したために彼らに憎まれ、紀元前399年に讒言によって罪を受け死刑判決を受けて毒を飲んで自殺させられることになったのでした。
ソクラテスに先行するギリシャの哲学者たちは基本的に自然について探求する人達、あるいはエレア派やソフィストのように論理学を追求する人達であって、そこにソクラテスは初めて「魂の向上」という倫理学の概念を持ち込んだのでした。実際、「哲学(フィロソフィ)」という名詞はソクラテスによって初めて用いられたのであり、ソクラテスにおいて実質的に自然学、論理学、倫理学の総合体としての「哲学」という概念が始まったといえます。
ただ、ソクラテスは、そしてソクラテス以前の哲学者達も皆、まとまった著作を後世に残さなかったため、その思想の全貌は後世に伝わらず、後世の学問に直接的な影響を残すことはありませんでした。それらのソクラテス以前のギリシャ哲学者の思索を受け継ぎ再編成して後世に影響を与える著作を残したのはソクラテスの弟子であったプラトンと、その弟子のアリストテレス以降の哲学者たちでした。

プラトンは紀元前4世紀前半に活動し、その世界観はヘラクレイトスの万物流転説とパルメニデスの不生不滅説を統合する試みの産物でした。これがイデア論で、個別の事物の背後に「イデア」という完全不滅の普遍的な真の存在があり、イデアは個別の事物の本質であり、個別の事物はイデアの影が投影されたものに過ぎないという理論です。そしてプラトンはイデアは理性によってのみ認識され得るとされ、そのイデアへ至る理性的な知こそが「徳」であるとしました。こうしてプラトンはイデア論と一体となった倫理学を確立し、それを政治学にまで昇華しました。すなわち、人間の霊魂が理性、意志、情欲に分かれるのに対応して国家を構成する階層も、理性的存在である支配階層、意志的存在である防衛階層、情欲的存在である職能階層に分かれ、それぞれ支配階層は知恵、防衛階層は勇気、職能階層は節制という「徳」に至ることが可能で、特に支配階層から理性によってイデアに到達する哲人王が生まれ得るのであり、哲人王の下で意思を1つにして支配されるのが理想の政治形態であるとプラトンは唱えました。
しかし、このイデア論では無数に存在する個別の事物とイデアとの関係性がいまひとつ不明となります。個別の事物がイデアの影であるとするならばイデアも無数に存在するのかということになります。無数にイデアが存在するならそれぞれのイデア間の関係はどうなっているのか、プラトンは多数のイデアの中でも「善のイデア」を最高のものとしましたが、それはイデアの普遍性の中でどのように説明されるのかについて説明不足でありました。そこでプラトンも晩年においては「デミウルゴス」という世界の創造者がイデアの存在するイデア界の在り方を模倣して物質世界を創造したという説を唱えるようになりました。

紀元前347年にプラトンが没した後、プラトンの学問は彼がアテネに開設した学園「アカデメイア」に学んだ弟子たちに受け継がれ、その学統は「アカデメイア派」と呼ばれるようになります。プラトンの没時にはギリシャの北方にマケドニア王国が勢力を強めてくるようになっており、このアカデメイアでプラトンに学んだ弟子のアリストテレスはプラトンの学説を乗り越えて独自の学説を確立し、プラトン没後すぐにマケドニア王フィリップ2世に招かれて王子アレクサンドロスの家庭教師となり、その後、マケドニアによるギリシャ征服を経て、アレクサンドロスが即位して東征を開始するとアリストテレスはアテネに戻って「リュケイオン」という学園を開きました。そしてアレクサンドロスが世界帝国を築いた後、紀元前323年に急死した翌年、紀元前322年にアリストテレスが没した後、彼の学問はこの学園に学んだ弟子達に引き継がれ「リュケイオン派」を形成することになります。
プラトンが理性によってのみ認識できるイデアこそが真の実在であるとしたのに対して、アリストテレスは人間の感覚によって認識できる個別の事物が基本的実在であるとしました。といってもアリストテレスが師プラトンのイデア論を否定したわけではなく、イデア論を改良発展させたというのが適切でしょう。プラトンはイデアと個別の事物を別々の存在と捉えたのですが、アリストテレスはイデアは個別の事物に内在するものと捉え、その事物に内在するイデアを「エイドス」と呼びました。アリストテレスの考えた「エイドス」は事物の性質を決定づける因子で、「エイドス」は常に「ヒュレー」という事物の素材とセットになっており、「エイドス」と「ヒュレー」によって個別の事物は形成され、その集合体である世界における現象が生起すると唱えました。
すなわち、ヒュレーそのものは素材であるので何にでもなり得る可能性を有しているのですが、それがエイドスと結びつくことでエイドスの制約を受けて現実的な何物かになるのであり、そうやって生じた現実的な何物かがまた別のエイドスと結びつくヒュレーとなってまた別の新たな何物かを生成していくのです。そうした生成の連鎖によって世界はまとまった秩序を形成していくというのがアリストテレスの世界観でありました。
例えば、人間は魂と肉体によって形成されますが、魂はエイドスであり、肉体はヒュレーにあたります。何者にでもなり得る肉体(ヒュレー)が魂(エイドス)という制約によって性質が決定づけられて、ある特定の人物になるのです。このように通常はエイドスとヒュレーが結びつくことによって万物は生成を繰り返していくのですが、究極なる存在として、ヒュレーとは結びつかない純粋のエイドスというものがあるとすれば、このエイドスは事物の生成の手段となることはなく、生成の停止した不動の存在となります。この究極のエイドスこそがプラトンの唱えた「善のイデア」であり、「最高善」と呼ぶべき存在であるとアリストテレスは考えたのです。
つまりアリストテレスの説を延長していくと、魂がエイドスであり、その究極に純粋の形態が「善のイデア」であるとするなら、「善のイデア」は純粋な霊的存在であり、「神」とほぼ同じ存在であるということになります。そして人間の魂というエイドスは本質的には「善のイデア」や「神」と同質の存在であり、それが肉体というヒュレー結びつくことによって現実的な制約を受けた個々の人間となっているということになります。
また、人間の行動における「目的」というものはその行動の方向性に制約を与える存在であるからこれも一種のエイドスであり、そのエイドスの究極の形、純粋なるエイドスのみの存在がイデアであるとするなら、それ自体が目的となるものこそがイデアであり、人間のエイドスである魂を発展させる活動によって幸福や満足を得ることこそが、それ自身が目的となる「最高善」であるイデアを見出す最高の価値、すなわち「徳」であるということになります。
この他、アリストテレスは自然学や政治学などにおいても非常に多岐にわたって多彩な業績を残しており、後世「万学の祖」と称されることになりますが、特筆すべきは論理学における功績で、師のプラトンがソクラテスから引き継いだ弁証法を唯一の方法論としたのに対して、アリストテレスは経験的事象をもとにして演繹的に論理を積み重ねて真実を導き出す分析論を重視し、三段論法などを駆使しました。
三段論法とは、まず法則などの一般的原理である「大前提」を置き、次いで、目前の具体的事実である「小前提」を置き、この二者から導き出される具体的事実に関する「結論」を導き出すという推論規則で、これは例のアンセルムスの「神の存在証明」の推論法の原型となるものです。つまり11世紀末のアンセルムスがアリストテレスの論理学の手法を駆使しているということになりますが、これは中世ヨーロッパで長らく失われていたアリストテレスの学問がイスラム圏で保存されており、それが1085年の後ウマイヤ朝のトレド大図書館の接収によってカトリック圏の手に入ることになり、アリストテレスの学問の復活がヨーロッパにおけるスコラ学の発生につながっていくことになるわけです。

このようにアリストテレスの学問は、師であるプラトンの学問に比べて、現実的な感覚に基づいたものとなっており、アリストテレスを祖とする「リュケイオン派」はオーソドックスな現実的学問で、一方、プラトンを祖とする「アカデメイア派」はやや神秘主義に傾いたものであったと解釈できるでしょう。
また、プラトンの初期のイデア論については基本部分は師であるソクラテスから受け継いだもののようで、現実世界は真の存在であるイデアの影に過ぎないという現世否定的傾向はプラトン以外のソクラテスの弟子にも受け継がれました。その一人がアンティステネスで、彼は現世における栄達や欲望を否定し、粗末な身なりで禁欲的に生きて、魂をより良くしてイデアに至る無為自然の道を実践することに重きを置き、プラトンやアリストテレスが思索に傾いていたのに比べて実践を重視したアンティステネスの教えは分かりやすく、多くの貧しい階層の人が弟子となり、「キュニコス派」を形成するようになりました。
その後、アレクサンドロス大王の築いた世界帝国は大王の死後には内紛が続き、紀元前4世紀末にはマケドニア、エジプト、トラキア、シリアの4つの王国に分裂し、時代はヘレニズムの時代に入っていき、紀元前3世紀初頭にはギリシャのポリス群もマケドニアの支配から脱するようになりました。そのギリシャのアテネにおいてその頃に、「キュニコス派」の禁欲主義と実践主義を受け継ぎながら「アカデメイア派」や「リュケイオン派」において整理された知恵、勇気、節制などの「徳」の実践をより重視した新たな学派を起こしたのがゼノン(エレア派のゼノンとは全くの別人)でした。彼が創始した学派を「ストア派」といいます。
「ストア派」においては、人の魂は神と同質のものであることから「魂は神から借りているだけ」とされ、現世はかりそめのものであるのだから人間は現世の運命に執着すべきでなく、ただ当然のこととして運命を受け入れる覚悟を持つべきで、怒らず悲しまず、あらゆる感情や欲望から解放された状態で、ただひたすら「徳」を実践し、自分が善いと判断した生き方を送ることによって魂の安定した状態を得ることを目標とします。しかし同時に不完全な運命を補正して善き生き方や運命を実現していく自由意思を最終的には尊重しており、例えば状況次第では自殺によって自由意思で生を終えることも肯定されていました。
また、ゼノンと同時代の人でアカデメイアやリュケイオンで学んだエピクロスという哲学者は独自の学派を立てて、紀元前3世紀初頭にアテネで「エピクロスの園」という万人に開かれた学園を開き、弟子たちと共同生活を始めました。「ストア派」においては魂の安定は「徳」を実践することによって得られると見なされたのですが、エピクロスは魂の安定は快楽が満たされることによって得られると見なし、そのようにして得られる平静な心を追求することが善であり人生の目的であるとしたのでした。ただ、快楽といってもエピクロスが追求すべきであるとしたのは例えば健康や良好な人間関係や最低限の衣食住などのような自然で必要な欲求を満たすことであり、贅沢や名声、権力、性的快楽などは結果的に不快や苦しみをもたらすとして含まれませんでした。そうした一般世間の苦しみから逃れて自然で必要な欲求のみを追求する理想的生活を送るために「エピクロスの園」において自足的な共同生活を送るというのがエピクロスの哲学の実践であったのです。このエピクロスの哲学の実践者たちの系譜は「エピクロス派」といわれるようになります。

つまり、「ストア派」は徳の実践を通して、「エピクロス派」は快楽の達成を通して、それぞれ魂の安定した状態を得て、それによって「イデア」へと到達しようとしたのだといえます。「アカデメイア派」「リュケイオン派」「ストア派」「エピクロス派」がヘレニズム時代から古代ローマ時代にかけてのギリシャ哲学の四大学派と言われますが、「アカデメイア派」や「リュケイオン派」は主に哲学的思索によってイデアへ到達しようとしたのであり、「ストア派」と「エピクロス派」はそれぞれ正反対の方向性ではありましたが、共に哲学の実践によってイデアへ到達しようとしたのでした。
つまり「ストア派」も「エピクロス派」も実践哲学であったのであり、それゆえに「アカデメイア派」や「リュケイオン派」のような思索のみの哲学とは違い、論理が思索の中で完成された状態ではなく、例えば「ストア派」においては運命を受け入れるべきとしながら自由意思を重視したり、「エピクロス派」においては確たる根拠も無く欲求の種類分けを行ったり、それぞれ実践に伴って生じる論理的整合性のとれていない部分を孕んでいたのです。それは決して否定的なことではなく、実践哲学ならではのダイナミズムであったといえます。
それゆえ、ヘレニズム時代から古代ローマ時代にかけては「ストア派」や「エピクロス派」のほうが「アカデメイア派」や「リュケイオン派」よりも多くの支持者を得るようになったのでした。「アカデメイア派」や「リュケイオン派」は学究の徒が多く、「ストア派」や「エピクロス派」にももちろん熱心な学究の徒もいましたが、むしろ一般市民の生き方の指針やスタイルのような感じで受け入れられていったケースが多かったようです。
つまり「ストア派」にしても「エピクロス派」にしても、また「アカデメイア派」も「リュケイオン派」も、ヘレニズム世界や古代ローマ世界においては、一部を除いて多くの人々にとっては信仰といえるほどにまで深いものではなく、むしろ学究の対象であったり生活信条のようなものであったのだといえます。ギリシャ哲学の四大学派は紀元前3世紀以降、アレクサンドロス大王の遺産となったギリシャからインダス河にまで広がるヘレニズム世界にギリシャ人の植民活動と共に広まっていきましたが、それは決して支配的なものではなく、ヘレニズム世界に存在した多岐にわたる信仰世界の中の一部を構成したに過ぎないのです。
ヘレニズム世界においてはもともとゾロアスター教、ウパニシャッド哲学、グノーシス主義、ユダヤ教などが存在し、また古来の多神教信仰も盛んでした。そこに紀元前3世紀になってギリシャ哲学が加わり、これらが入り混じり習合して、新しい宗教的展開が生じていったと思われます。こうした流れの中で例えば「ストア派」や「エピクロス派」も元来は厳格な禁欲主義や快楽主義を実践する閉じた信仰グループであったものが、様々な信仰を持った各自の中の生活信条となって普及していったのでしょう。
ゼノンやエピクロスが没した紀元前3世紀中頃ぐらいから地球は温暖化し始め、そうした時代においては多神教信仰が盛んになっていきました。もともとギリシャにおいてもオリンポス十二神への信仰が人々の主要な信仰であり、そうした信仰を持っていた人々の中で「アカデメイア派」「リュケイオン派」「ストア派」「エピクロス派」などの信条も併せ持っていた人が存在していたというのが実情であり、哲学的信条は持たずにオリンポスの神々への信仰のみを抱いていたギリシャ人ももちろん相当数存在したことでしょう。そうした状態がヘレニズム世界全体に拡大したのが紀元前3世紀後半以降の実情であったと思われます。そして、それが紀元前2世紀以降は古代ローマ共和国にも波及していったのです。ローマ共和国においても元来はユピテルを主神とする十二神を中心としたギリシャと同系統の多神教が盛んで、紀元前後を頂点とする地球温暖化の進展の中でローマ多神教信仰はますます盛んとなっていき、ローマ共和国が紀元前2世紀後半から急速に版図を拡大して地中海世界の覇者となっていく過程では異国の神々もその多神教世界に取り込んでいくことによって「寛容」というローマ世界の中心的価値観が形成され、それは紀元前27年の帝政移行後のローマ帝国においても維持されていったのでした。
そうしたローマ的多神教世界の中ではギリシャ哲学の諸学派もまた新たに加わった異国の神々の1つであったのであり、ローマ市民の各自の中で多神教の神々への信仰と両立してギリシャ哲学の信条は保持されたのでした。これは例えて言えば神仏習合後の日本において多くの日本人が神道における多神教の神々を信仰しながら同時に仏教的価値観や信条を有していたのと似ているといえます。対応関係としては、ギリシャやローマやその他のヘレニズム世界の多神教は日本における神道に相当し、思索を中心とした「アカデメイア派」や「リュケイオン派」はさしずめ日本においては南都六宗や平安二宗に相当し、実践を主とした「ストア派」や「エピクロス派」は日本で言えば鎌倉仏教に相当するといえるでしょう。
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この記事に対するコメント

手のひらでふくれあがったクリを刺激しながら、中指を熱くたぎった中心に差し込み、かき混ぜるようにする。
ぬめりけを帯びた液体をかき混ぜるような激しい音。そしてからみつく中の肉。
「あっ……! んぅぅっ!」
ビクビクン! とのけぞって、ソファに背筋を押しつける。指先を吸い込むようにその部分が数回震えて、同じ回数だけ小さく達していたようだ。
「くぁぅぅっ! ああんっ!」
手の動きは止めない。再び小さく叫んだ彼女は……
つづきは現実で
http://cuturls.com/2217/?q0tipby

【2008/03/02 19:48】 URL | yu-ki♪ #Xn22Lr7c [ 編集]


更新を楽しみにまっています。

【2008/04/13 00:27】 URL | たろう #- [ 編集]


>たろうさん
実は今、気分転換に全然違うジャンルのブログやってまして、それがどうも興に乗ってしまって終わらなくて困ってます。
またそれが一段落したらこっちやります。

【2008/04/23 16:52】 URL | 管理人 #- [ 編集]


是非、違うジャンルのブログのURLをお教えください。貴方の卓見がどのようなジャンルで発揮されているか知りたいです。

【2008/05/05 00:34】 URL | たろう #- [ 編集]


包茎だからSEXできない・・・って勝手に思いこんでたけど、
包茎好きの女っていっぱいいたんだよ!
ぶっちゃけ、悩んでるのがバカらしくなるぞ!!
http://dtjapan.net/te-muki_h/uhyku1e

【2008/05/05 05:01】 URL | 智樹 #QxL/Rh.I [ 編集]


プッツン女優広末涼子の乱れた下 半身映 像!!


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ここでそのすごさを皆さんに見てもらいましょう!!

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マジでイ ッちゃう5秒前
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【2008/07/21 05:31】 URL | プッツン女優広末涼子の乱れた下 半身映 像!! #IwJzmwXM [ 編集]


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元々スレンダーな印象の加藤あいだったが5キロ太っていたとは思えないほどのカラダでセミヌード公開!!


そんな加藤あいといえば有名なのが温泉盗 撮!!

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【2008/07/21 13:48】 URL | 16歳の若さですでに…。加藤あい脱 いでた!!! #W52i8FcM [ 編集]


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【2008/11/10 04:33】 URL | 57 #- [ 編集]



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