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日本史についての雑文その361 2つの倫理
世の中というのは、やや冷静で一歩引いた態度で「徳」を相対化して高尚な理念なるものに懐疑の目を向ける庶民目線の立場と、一方ではひたすら道義や真理を探究して「徳」の実践を重視する高尚な学者先生のような立場の両方が存在してバランスがとれているものなのですが、紀元前5世紀終盤のギリシャにおいて前者の立場で「徳」を相対化して実利を優先していたのがソフィスト達であり、それに対して異議を唱えて哲学を創始して「徳」の実践こそ魂を向上させる価値があると唱えたのがソクラテスであったのでした。
その後、哲学の主流はソクラテスの弟子のプラトン、アンティステネスに受け継がれ、プラトンの系譜からは思索重視の学派が生まれ、プラトンは「アカデメイア派」を創始し、プラトンの弟子のアリストテレスは「リュケイオン派」を創始し、またアンティステネスの系譜からは実践重視の学派が生まれ、アンティステネスは「キュニコス派」を創始し、紀元前3世紀初頭に「キュニコス派」の流れからゼノンが出て「ストア派」を創始しました。

これらの諸派はそれぞれ立場は違えどソクラテスの系譜に位置しており、「徳」の実践に魂の向上における価値を見出すことは共通していました。そして、その「徳」というものは古代ギリシャの都市国家の統治階級であり戦士階級でもあった市民層における「徳」として生成発展してきたため、それは都市国家を防衛しその秩序を維持するための「徳」であり、戦いに勝つための知恵と勇気、規律と名誉と忠誠を重んじ、利より義を選び質実剛健、国家の伝統を尊び、潔く生き潔く死すというようなものでした。
これは「統治の倫理」と分類される種類のもので、例えば古代ギリシャのポリスのような非常に関係の濃い同じ価値観や利害関係を共有した仲間内同士の共同体を維持していくための道徳律で、どちらかというと内向きの道徳律であるといえます。こうした互いに気心の知れたような共同体を維持していくために必要なのは統治者や戦士のセンスであって、そうした階層の人達の倫理がそのまま共同体の倫理になるのです。このように古代の共同体に内在していた「統治の倫理」を哲学的な体系として纏め上げたのがソクラテスで、そうした傾向の延長線上にプラトンの「哲人王の下で意思を1つにして支配されるのが理想の政治形態である」という政治哲学があり、またアリストテレスも理想の政治体制はポリスのような小規模の共同体であるとしました。このような伝統的な「統治の倫理」のヘレニズム時代やローマ時代における実践哲学がストア派でありました。「統治の倫理」の歴史上の例としては、他には典型的なものとしては儒教があり、また武士道や騎士道なども基本的には「統治の倫理」に分類されるものです。

もともとは人間社会における「徳」、すなわち倫理には、この統治者や戦士による共同体防衛のための「統治の倫理」しか存在しませんでした。ところが文明誕生以降初めて地球が寒冷化した紀元前1500年以降、文明地帯は拡大していくようになり、遂には多くの共同体を併合した大帝国が成立するようになっていきました。ポリスのような小規模共同体を理想としたアリストテレスの弟子(といっても基礎教養を学んだだけであり哲学上の弟子ではないが)であったマケドニアのアレクサンドロス大王は、師匠の政治思想とは全く逆に紀元前4世紀終盤に世界帝国を築き上げ、その広大な征服地の各地にギリシャ人を植民させていきました。そして大王の死後、帝国は分裂はしましたが、共通の基盤を持ったヘレニズム世界のネットワークは維持され、折しも紀元前3世紀中頃から地球は温暖化し始め、ヘレニズム世界各地のギリシャ人共同体間の商業ネットワークがかつてないほど活発に機能するようになってきました。ここにきて人類は、自分の属する共同体を防衛するための倫理だけでなく、異質な共同体を結ぶネットワークを有効に機能させるために必要な倫理を初めて必要とするようになってきたのでした。
こうした新しいタイプの倫理を、既存の「統治の倫理」に対して「市場の倫理」といいます。「統治の倫理」は共同体防衛を重視する余り、異質な相手に対して警戒感が強く排除する傾向が強く、仲間と余所者を差別し、仲間内でのみ通用するルールを重視しがちで、保守的で進取の精神が乏しく、組織防衛のために部外者を欺く傾向が強いので信頼関係のネットワーク拡大に不向きでありました。そこで「統治の倫理」とは別に、自分達とは異質な立場の余所者とでも気安く協力して契約を結び、効率を高めて勤勉と節倹を旨として満足や快適さを追求し、正直さを尊び見知らぬ相手との信頼関係を積極的に構築することによって自分も他人もより多くの満足を得ることに価値を見出す「市場の倫理」が必要とされるようになったのでした。この「市場の倫理」の初期の例が、ソフィストの系譜を引く「エピクロス派」であります。
「市場の倫理」はその名の通り商人の倫理で、いわば「商人道」とでも言うべき価値観です。これに対して「統治の倫理」は為政者の倫理で、「武士道」と言い換えてもいいでしょう。経済原理と政治原理の対比ともいえますが、その社会的現象そのものというよりは、それぞれの原理によって生じる社会現象に対処していくために商人や為政者が持つべき倫理道徳の類を指すという意味で、やはり「倫理」や「道」という言葉をつけるべきでしょう。つまり「統治の倫理」と「市場の倫理」は、その成因も担い手も元来は全く異質であり、それぞれ何の関連性も無いもの同士です。「統治の倫理」が先行して存在し、後に「市場の倫理」が生じましたが、「統治の倫理」から「市場の倫理」が派生したわけではなく、それぞれが別個に発生したものです。そしてこの2つの倫理は水と油のように互いに相反するものでもあります。

「統治の倫理」は、人工的であれ自然発生的なものであれ、成文的なものであれ非成文的なものであれ、とにかく規律やルールを守ることによって共同体内部の安定を保っていこうとするもので、共同体が善悪を峻別して規律や道徳を作り、個人にそれを強制する形になります。そう書くと何か窮屈な感じもしますが、個人がいちいち相手の信頼性を見極めなくても共同体が自動的に異分子を排除してくれますから、共同体内の人間関係においては個々の事情を考慮せずに一括して安心感を持つことが出来ます。もちろん異分子の排除という作業そのものは共同体の成員たる各自にも負担がかかってくるのですが、とにかく排除すべき異分子を認定する基準は共同体での合意によって提供されるわけで、個人はそれによって排除された異分子以外の人と付き合えばいいわけですから、個人に判断の責任がかかってくる局面は少ないといえます。最初から異分子は排除されていますから、相手との間に個別の信頼関係が無くても安心して人間関係を築くことが出来るのです。これはこれで非常に気楽で良いものです。ただ、これは裏返して言えば、「統治の倫理」においては共同体の個々の成員間の信頼関係は特に重視していないということになります。
こういった「統治の倫理」による共同体を維持していくためには、善悪の基準を明確にした規律を作り、それを共同体の成員に守らせることが必要です。その規律を守る者は善なる者であり共同体に歓迎されますが、規律を守れない者は悪なる者として共同体から排斥されます。そのようにして異分子を排除することによって共同体の安心が守られるのです。ですからこの「統治の倫理」は箇条書きの徳目のような形で成文化して、教育によって共同体の成員に徹底させることが可能であり、その普及にはそういう手法が有効だといえます。
また、この規律が共同体成員の共通した価値観に則ったものであることによって、より多くの成員がその規律を守ることが可能になりますから、この規律はその共同体の伝統的価値観に則ったものである必要があります。よって、「統治の倫理」においては伝統的価値観は尊重されることになります。
そして「統治の倫理」による共同体においては、共同体の内と外も明確に峻別され、内は善であり外は悪であり、外部の悪から内部の善と安心を守り正義を実現するための戦いこそが共同体にとって最重要のテーマとなり、この共同体は防衛的性格や排他性が強くなります。よって内部の規律は重視され意思統一が必要視されます。
そして、戦って勝つことが何よりも優先されますから、戦士が最も尊敬され、勇敢、忠実、剛毅などが賞賛されます。一方、正々堂々というのは自軍の正当性を示して士気を維持するという意味では尊ばれますが、それよりも勝利が優先されますから、究極的には卑怯な手を使ったり敵や味方を欺いてでも勝つことのほうが尊ばれ、正々堂々や正直さはそれほど重視されません。それよりも重要視されるのは悪である敵をなんとしても倒すという敵愾心や復讐心で、敵との妥協や取引は忌むべきものとされます。
そして共同体の資産は全て戦いのために注ぎ込まれるべきものとされますから、戦いのための備蓄は尊ばれますが、無駄に蓄財する必要は無く、武器や兵糧のために惜しげもなく散財する豪気さが尊ばれ、また敵に弱みを見せないために見栄を張ることも重視されます。そして何といっても生命を賭して戦う戦士への恩賞や戦死者の遺族への施しなどにおいては最大限の気前良さが求められます。つまり質実剛健が尊ばれるといっても、それは個々の成員の質素さが尊ばれるという意味ではなく、共同体全体として「豊かさを目指すよりも成員(特に戦士)への保障や還元や相互扶助を優先する」という意味での質実剛健であるといえます。
つまり「統治の倫理」の共同体は戦士の共同体なのであり、成員は基本的にみんな戦士ということになりますから、そのメンタリティーも戦士のそれになり、常に死と隣り合わせですから自己の運命を受け入れる傾向が強く、与えられた生を精一杯生きて、名誉を貴ぶ生き方が好まれます。

これに対して「市場の倫理」においては、共同体の規律から自由な異分子とも連携していくことが求められるために、何らかの規律を作って個人にそれを守らせるということにはあまり意味は無く、むしろ「他者へ施しをすることによってそれが社会全体のメリットとなり巡り巡って自分のメリットとなって返ってくる」という、かなり楽観的で前向きな思想で、社会の成員が利益を共有し、各自が利益を目的に行動することによって、社会全体が好循環を起こして各自が利益を得るという世界観を社会の成員が体得することが、この「市場の倫理」の普及のポイントとなります。
実際には社会には悪い人間もおり、「市場の倫理」においては「統治の倫理」のように悪者を共同体が排除してくれないので、個人は安心して相手と付き合うことは出来ず、相手が信頼出来る人間なのかどうか見極めなくてはならなくなります。つまり、ここでは「統治の倫理」のように善悪の基準を共同体が示してはくれないので、「市場の倫理」においては各個人は相手の話の真偽を確認することがまず重要となります。逆に言えば、「市場の倫理」の社会においては個人は共同体を介さずに個別に真の信頼関係を他人との間に築くことが可能になるということです。
ただ、そのような信頼関係を構築するに至るまでの間には何度も他人に裏切られたり傷つけられたりするリスクが伴うことになります。しかし「統治の倫理」による共同体に守られてそうしたリスクを負わない人は逆に排他的な共同体に阻まれて外の世界へ連携の輪を拡大していく道を閉ざされることになりますから、これはこれでリスクであり、「市場の倫理」の社会の成員はそうしたリスクからは解放されて外へ飛び出していく自由や外部の新技術や新情報を得ることが出来ます。そうした試行錯誤の中で人々は何が真実で何が虚偽であるのかについて見極める目を各自で会得していくのです。
そうして社会の成員が真偽を見極める目を会得すれば、他人を裏切ったり騙したりした人間は結局は他人からの信用を失い、逆に正直に誠実に他人に接する人間の評判は高くなり、多くの人が嘘つきで不誠実な人間よりは正直で誠実な人間と付き合ったり取引することを望むようになるので、「市場の倫理」の支配する世界においては最終的には正直者でいるほうが得をするようになっているのです。
つまり、「市場の倫理」の社会においては、「統治の倫理」のように規律を作って善悪を峻別し異分子を排除して安心を得るのではなく、社会の成員各自が自然に真偽を判別する目を養い、互いに信頼関係を構築することが重視されます。そして「統治の倫理」においては悪を排除して正義を実現することによって共同体の安心を確実なものとしましたが、「市場の倫理」においては社会の成員の全員の満足を実現することによって、その成員間の信頼関係を意義深いものとします。つまり「統治の倫理」は正義の実現を目標とし、「市場の倫理」は満足の実現を目標とするわけです。このように「市場の倫理」は経験によって自然に会得していくものですから、例えば「正直であるべし」などという文言を箇条書きにして徳目として教え込んだり違反者に罰則を課したりしても意味は無く、各自が経験によって真偽を見極める目を養わねば、そういうことをしてもむしろ有害といえましょう。つまり道徳教育や規制強化にあまり大きな意義を見出さないのが特徴といえます。といっても、教育や規制の効果が全く無意味であるというわけでもなく、それはそれなりに自然に「市場の倫理」が浸透していく手助けになるような方向性で行うのであれば一定の有効性はあるといえます。
また「市場の倫理」においては様々な立場の人々の満足の実現が目標とされますから、特定の共同体の伝統的価値観が尊重されるということは無く、むしろ伝統に拘泥することは忌むべきこととされ、効率を追求して新しい発想や外来の知識などをもとにして創意工夫をして、快適と便利さを実現することが重視されます。
そして共同体の内と外を峻別しての争いは無益なこととされ、排他性や暴力性は嫌われ、外部の異分子とも共に満足できる合意点を見出して協力関係や適正な競争関係を築くことが奨励されます。そういった外部との良好な関係を維持していくためには、相手との間に結んだ契約を誠実に遵守することが最も重要なこととされます。ですから、やはり正直さや信頼性が尊重されることになります。逆に、共同体内部の規律や意思統一を守ることはそれほどは尊重されず、外部との関係拡大のためにはむしろ共同体内部に様々な異説や異論が存在することは歓迎されます。こういう傾向は外部に善意が溢れている場合は開放的で良い結果をもたらしますが、外部から悪意をもって侵入してくる者には大いにスキを提供することになりますから、両刃の剣ともいえます。
「市場の倫理」においては暴力は否定されがちですから戦士はあまり尊敬されず、むしろ利益を追求して満足を提供してくれる商人や冒険家が尊敬されます。社会全体が豊かになり満足していくことが目標とされますから、戦争による散財は愚かなこととされ、共同体は無駄遣いせずに節倹が求められます。といっても蓄財が奨励されるわけでもなく、共同体は利益を生産的目的に有効に投資していくことが理想とされます。
しかし、そうなると共同体がその成員への施しに回す余裕が無くなりますから、成員は共同体からの保障や還元、相互扶助を期待せずに常に自己救済を図る必要があります。そのためには常に勤勉に働き節倹を心がけ、蓄財をしておくこと、あるいは有効な投資活動を行うことが尊ばれます。つまり「統治の倫理」の共同体に比べて、成員の質素さや勤勉さ、経済感覚が求められている社会であり、共同体そのものよりもその成員にそうした能力がより多く求められるということは、成員に共同体への依存度が低いということです。また、この「市場の倫理」の社会は商人の社会ですから、そのメンタリティーは実利優先で、ポジティブに楽観的に自己の運命を切り開いていく姿勢が称賛されます。

このように、「統治の倫理」と「市場の倫理」という人類社会における2種類の倫理は、全く相反する特性を持ったものなのです。端的に言えば、「統治の倫理」は善悪を軸とした倫理で、正義の実現を目標とする価値観であり、一方、「市場の倫理」は真偽を軸とした倫理で、満足の実現を目標とする価値観となります。
「統治の倫理」は共同体を防衛して安心して暮らせる社会を作るための思想であり、「市場の倫理」は共同体の枠を越えて信頼関係のネットワークを作るための思想です。「統治の倫理」は伝統的共同体を維持するための思想で、「市場の倫理」は世界帝国などの超国家体制を形成するための思想となります。「統治の倫理」は戦士の倫理で戦いを重視し、「市場の倫理」は商人の倫理で取引を重視します。「統治の倫理」は共同体を守るための掟で、「市場の倫理」は商売を円滑化するための心得のようなものです。「統治の倫理」は閉鎖的で頑迷だが防御力に優れ、「市場の倫理」は開放的で自由だが防御力に劣ります。「統治の倫理」はドグマチックで教育によって徹底させることが有効で、「市場の倫理」はフレキシブルで経験によって学んでいくものです。
「統治の倫理」は伝統重視で、「市場の倫理」では進取や創意工夫が尊ばれます。「統治の倫理」では勇敢や忠実や潔さが尊重され、「市場の倫理」では勤勉や正直や節倹が尊ばれます。「統治の倫理」では名誉が重んじられ、「市場の倫理」では利益が重視されます。「統治の倫理」では規律が重視され、「市場の倫理」では契約が重視されます。「統治の倫理」では余剰資産は気前よく共同体の仲間に還元されるべきとされ、「市場の倫理」では余剰資産は生産設備への投資あるいは蓄財にあてることが奨励されます。「統治の倫理」においては「人間は遅かれ早かれいずれ死ぬので今を精一杯生きよう」というような達観が目指すべき境地とされますが、「市場の倫理」においては「希望を持って頑張れば運命は変えられる。何とかなるさ」というような楽観が尊ばれます。「統治の倫理」は戦乱の時代や貧しい時代に適応した倫理であり、「市場の倫理」は平和な時代や豊かな時代に適した倫理であるといえるでしょう。

このように相反する特徴を持った2種類の倫理は本来、相容れることが出来ないものでもあります。敵味方をやたら峻別する「統治の倫理」では共同体の垣根を越えて取引する「市場の倫理」の目指す目標を達成することは出来ませんし、「市場の倫理」の尊ぶ正直や自由が行き過ぎれば、共同体を外敵から守ったり内部の規律を維持する「統治の倫理」に則った行動の足枷となります。伝統や名誉を重んじる「統治の倫理」は「市場の倫理」の特性である真理の探求の邪魔ともなり、利益や効率を重視する「市場の倫理」は「統治の倫理」の求める正義の実現を妨げることも多々あります。「統治の倫理」の是とする名誉を守るための復讐は「市場の倫理」の是とする新たな契約や条約で未来を切り開くことを妨げますし、「市場の倫理」の目指す自由競争は弱肉強食によって共同体内の格差を生み、「統治の倫理」によって構築された内部の規律を乱す元となります。
このように全く相反した性格を持った2つの倫理ですが、この2つの倫理はそれぞれ全く別個に発生したにもかかわらず、両方とも現在の私達の社会において身近に存在している価値観となっています。例えば「統治の倫理」は大きな政府を理想とする福祉国家の思想として、「市場の倫理」は小さな政府を理想とする自由経済の思想として存在しているといえます。また「統治の倫理」は国防重視の保守主義思想、「市場の倫理」は国際経済重視のグローバリズム思想として現在は存在しているとも言えます。
国家による統治を重視する「統治の倫理」は国家主義の傾向が強く、それに相反して国際的連帯を重視して、むしろ国家主権に反する立場をとる「市場の倫理」は国際主義の傾向が強いといえます。つまり、「統治の倫理」は右翼思想、「市場の倫理」は左翼思想に通じるのだといえます。本来の左翼思想というのは反国家思想であり、国家権力の暴走や横暴を掣肘するために生まれたものであり、例えばかつてのソ連や現在のシナや北朝鮮のような国家は左翼思想に偽装した「統治の倫理」にのみ基づいた超右翼国家であるに過ぎません。
そもそも「市場の倫理」たる左翼思想に基づいて国家が成立するなどあり得ない話であって、「一国革命思想」などというのはスターリンの出鱈目でしかなく、だいたい生産階級が統治階級になるなどという「階級闘争理論」自体、あり得ない妄想であり、マルクス主義思想は左翼思想に偽装した右翼思想に過ぎず、真の左翼思想は「統治の倫理」に対する庶民の国際的チェック機能としてこそ存在意義があるものであり、現在の左翼はまずマルクス主義を否定した上で国際的な人道活動に取り組むべきであり、シナや北朝鮮のようなウルトラ右翼国家をまず糾弾しなければ、もうそれは左翼としての資格は無いでありましょう。

また、成員に規律を強制的に守らせることや外敵を警戒し戦うことを重んじる「統治の倫理」は人間性悪説の立場に立つ傾向が強く、楽観的で、共同体内部の異論や異分子を容認し、部外者と気楽に連帯していこうとする「市場の倫理」は人間性善説の立場に立つ傾向が強いともいえます。
例えば「統治の倫理」の典型例である儒教は孟子の「性善説」が有名ではありますが、先述のように実際に漢代以降のシナ世界において統治哲学として確立された儒教は、その本質は「性悪説」に基づいた法家思想であり、儒教は王権の権威づけを行うために利用されていたに過ぎないのであり、「統治の倫理」としての儒教は実際は性悪説の立場に立っていたのだといえます。これが後に宋の時代になって孟子が再評価されて「性善説」が重んじられる学説である朱子学が起こり、どうやらこれが明代に官学とされて以降、儒教が統治哲学として上手く機能しなくなっていっていったようにも思えるのです。
一方、「市場の倫理」の典型例である左翼思想も本来は「お花畑」と揶揄されるほどに性善説に基づいた理想主義的、楽観主義的傾向が強く、疑うということを知らない人が多いため、よく騙されるし、若者もこうした純粋さに惹かれて左翼思想に傾倒するようなことも多かったといえます。しかし近代の左翼思想の中には「目的は手段を正当化する」「造反有理」などのような手段を選ばないようなマキアベリズムが存在しており、これは左翼思想本来の性善説的傾向とは全く相容れません。こうしたマキアベリズムの部分というのは偽の左翼思想であるマルクス主義思想に由来するものであり、本来の左翼思想とは全く異質の、むしろ国家主義的な右翼思想に基づくものです。しかしソ連や共産シナのような全体主義国家が「左翼国家」と自己を詐称して、自らの持つマキアベリズムも左翼思想の一部であるかのように大嘘をついたのを、もともと純粋で騙されやすい左翼思想家が信じ込んでしまったため、このような捩れた状態になったのだといえます。

この「統治の倫理」「市場の倫理」という2つの相反する倫理観の現在の姿の歴史的意義などについては、また詳細は後ほど触れることになるでしょうが、ここで言いたいのは、それぞれ別々に発生した2つの倫理観は人間社会においてかなり早い段階から併用されるようになっていたということです。元来の人間社会に存在したのは「統治の倫理」のみでしたが、紀元前3世紀のアレクサンドロスの世界帝国の成立によって「市場の倫理」が発生しました。世界帝国を成り立たせるには「市場の倫理」が必要であったからです。
しかし世界帝国は元来の地域共同体を包含したものであり、「市場の倫理」のみで各地域の共同体に伏在する「統治の倫理」を押さえ込むことは出来ず、ほどなく各地に「統治の倫理」が勃興して紀元前3世紀には世界帝国は分裂し、結局ヘレニズム世界では「統治の倫理」と「市場の倫理」が並存する社会が展開されていくことになり、その後そうした2つの倫理観が並存する状態は様々な紆余曲折を経て現代にまで至ることになるのです。
この2つの倫理観はどちらが優れているということはなく、それぞれが組み合わさって人間社会を形成していく重要な要素となっています。ただ、その組み合わせ方などは時代や地域によって千差万別であり、それによって文明は様々な相を見せてきたのでした。

「統治の倫理」にも「市場の倫理」にも一長一短があり、ならばこの2つの倫理を融合した究極の倫理を作り上げればいいのではないかという考え方もありましょう。しかし、それは大間違いというもので、このような水と油のように正反対の倫理観を混ぜ合わせて正常に機能するはずがありません。それどころかこの2つの倫理観を融合してしまうととんでもない腐敗をもたらすことになるのです。
「統治の倫理」と「市場の倫理」を融合して1つの倫理にしてしまえば、戦士や為政者が利益を追い求め、商人が組織防衛に走るというような転倒が起こることになります。そうなると政治家は賄賂を貰いまくり利権団体の言いなりになり、軍人は金と引き換えに軍事機密を他国に売り飛ばし、企業は消費者を騙してインチキ商品を売りつけて自分だけ儲ければいいと考えるようになり、不正を指摘されても口裏を合わせて言い逃れようとするでしょう。こういう状態は、武士が真っ当な武士道を捨てて商人道に走った状態、商人が真っ当な商人道を捨てて武士道に走った状態とも言うことが出来ますが、こうなると社会からはモラルが失われていくのであります。
こうなると本来は公共に尽くすべき統治階級は自己の利益のみを追求して権力を私的に濫用するようになります。そこに正義は既にありません。一方、本来は社会全体を富ますべき企業や商売人は社会全体の利益を考えなくなり利己的な営利活動を行うようになり、既得権を守ることに汲々として事実を隠蔽しようとします。そこに真理を尊ぶ精神はもはや存在しません。また、統治者と結託した商人は国家権力を後ろ盾にして他の商人や他の共同体の利益を損ない暴利を貪り、その財産を奪って社会格差を拡大していくことになり、商人を統制した統治者は経済活動を全て共同体に奉仕するものとしてしまい、自由な経済の活力を奪ってしまいます。つまり「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合は最悪のモラル崩壊を引き起こすのです。

「統治の倫理」が善悪の倫理で、「市場の倫理」が真偽の倫理であるのならば、社会の価値観の在り方は、「統治の倫理」が善悪の縦軸、「市場の倫理」が真偽の横軸として直角に交わる座標軸であるべきであり、善悪と真偽の価値観がそれぞれ別個に機能して互いに牽制し合って、一方の価値観の暴走を抑制してバランスを取るのが理想ではないかと思います。善悪や真偽のどちらかの価値観が一方的に強い状態や、片方の価値観しか無い状態というのはあまり良い状態とは言えず、そして善悪と真偽の価値観が一体化して座標軸自体が崩壊して一次元的な一本の線になってしまった平板な状態が最悪であるといえます。こういう場合というのは「統治の倫理」が「市場の倫理」を取り込んでしまった場合か、あるいはその逆で「市場の倫理」が「統治の倫理」を取り込んでしまった場合ということになります。
「統治の倫理」、すなわち善悪の倫理を突き詰めていくと、善は必ず勝つということになり、それは宇宙の法則に反してでも勝つのであり、そうなると「勝った者が善である」という転倒によってしか善を善であると証明する手段が無くなり、「勝てば官軍」という思想に行き着いてしまいます。すなわち、どんな汚い手を使ってでも、とにかく勝てば正義ということになり、正義や善の信頼性が揺らぐことになり、そのような正義の勝利というものが果たして真の意味での「正義の実現」にあたるのかどうか不安定な状態になってきます。「正義の実現」こそが「統治の倫理」の目標とするところですから、「統治の倫理」をとことん突き詰めていくと「統治の倫理」の目標が達成できなくなるという転倒が起きることになるのです。そうした転倒を解消するためには善に信頼性が担保されねばならず、善悪判断に真偽判断によるチェックという制約を加える必要が生じるのであり、そのためには真偽の倫理、すなわち「市場の倫理」が必要となってくるのです。つまり「統治の倫理」を矛盾なく成り立たせるには「市場の倫理」が必要とされるようになるのであり、「市場の倫理」によって抑制されない「統治の倫理」は本来の機能を果たすことが困難になってくるのです。
また、「市場の倫理」、すなわち真偽の倫理を突き詰めていくと、真理は常に正しいということになりますが、実際には絶対的な真理ほど実も蓋もないものも無く、自然界の真理とは常に弱肉強食、優勝劣敗であり、強い者はひたすら勝ち続けて弱い者はとことん負け続けるというものです。そうなると悪者であっても強くさえあれば勝利を収め続けるわけで、弱い者は善良であっても負け続けるわけです。もし勝者が特に悪でなかったとしても、勝者は強者であるわけですからひたすら勝ち続け、一人勝ちとなります。一方、敗者は弱者なので負け続け、この世は少数の勝ち組と多数の負け組に分かれることになります。しかしこうなると多数の弱者にとってはこの世は安心して暮らしていける場ではなくなり、社会の安心感が揺らぐことになります。このようにして得られる満足は社会のごく一部にとっての満足に過ぎず、真の意味での「満足の実現」とはほど遠いものとなるでしょう。「満足の実現」こそが「市場の倫理」の目標とするところですから、「市場の倫理」をとことん突き詰めていくと、「市場の倫理」の目標が達成できなくなるという転倒が起きることになるのです。そうした転倒を防ぐためには真理に安心感が付加されねばならず、真偽判断に善悪判断を加味した総合判断が必要となってくるのであり、そのためには善悪の倫理、すなわち「統治の倫理」が必要となってくるのです。つまり「市場の倫理」を矛盾なく成り立たせるためにもまた「統治の倫理」が必要とされるようになるのであり、「統治の倫理」によって抑制されない「市場の倫理」もまた本来の機能を果たすことが困難になってくるのです。
このように、「統治の倫理」は、その本来の目標を達成するためには「市場の倫理」の存在を必要とし、「市場の倫理」もまた、その本来の目標を達成するためには「統治の倫理」の存在を必要とするようになったのです。もともとはこの2つの倫理は別個に存在したはずなので、このようにお互いがお互いを必要とするようなことはなかったはずなのですが、共同体の枠を越えた商業ネットワークが発達し、それぞれの共同体内部に元来の「統治の倫理」を有した戦士階級以外に「市場の倫理」を有した商業ネットワークに関与する商人たちを多く抱え込むようになったヘレニズム時代以後の共同体においては、それ以前のように戦士階級の意向のみで社会の方向性の形成が行われるというわけにはいかなくなり、「統治の倫理」と「市場の倫理」という2つの倫理によって社会が動くようになっていったのです。「統治の倫理」の目指す目標も、「市場の倫理」の目指す目標も、共に人間社会において達成されるべきものである以上、ヘレニズム時代以降に人間社会が「統治の倫理」と「市場の倫理」によって動かされるようになったからには、「統治の倫理」はその目標達成のために「市場の倫理」の助力も必要となったのであり、逆もまた然りというわけなのです。

つまり、「統治の倫理」と「市場の倫理」はどちらも人類社会にとっては必要なものであり、どちらか一方だけしか存在しないなどという事態はあってはならないのです。実際、「統治の倫理」しか存在しない社会というものは単なる兵営社会であり何ら生産性というものが無いので、結局は周辺の共同体を襲い略奪するだけの存在となります。そしてまた実際、「市場の倫理」しか存在しない社会というものは全く無秩序な拝金主義に陥り、自壊していくだけであるので、そもそもそんな社会は存在しません。「統治の倫理」しか無い社会というものはあってはならない社会であり、「市場の倫理」しか無い社会というものは存在しないということになります。
しかし、先に見たように、この「統治の倫理」と「市場の倫理」は同一の社会において1つに融合した形で存在した場合には極めて深刻な腐敗をもたらし、その結果、社会からは安心感も信頼性も共に失われ、正義も満足も実現不可能になりますので、この2つの倫理は必ず両方が同時存在していなければいけないのであると同時に、それは別個に存在しなければならず、決して混じり合わずに互いに距離を置いて牽制し合うような関係が理想となります。これらは独立して存在していれば素晴らしい価値観なのだが、干渉し合うようになると破滅的作用を及ぼすようになるのです。
「統治の倫理」が「市場の倫理」を支配してしまった社会においては、汚職が横行し、自由な経済活動は妨げられ、最終的には自由そのものが無くなり窒息してしまい、ゆえにそのような社会は存在してはいけないのです。また「市場の倫理」が「統治の倫理」を支配してしまった社会においては利益や効率ばかり重視されて文化が破壊されて均一な社会が出現するが、均一な社会というものは多様な地球環境上では存在し得ないものであるので一部に異常な歪みを生じて、最終的には全体的に自壊していくことになり、ゆえにそもそも存在しないものということになります。

それゆえ「統治の倫理」は善悪軸という縦軸(Y軸)、「市場の倫理」は真偽軸という横軸(X軸)として直角に交わって座標軸を形成し、「統治の倫理」における善悪の度合いに応じて付けられたY軸の値(善が+値、悪が−値)と「市場の倫理」における真偽の度合いに応じて付けられたX軸の値(真が+値、偽が−値)とによって割り出された座標面上のポイントによってそれぞれの社会のそれぞれの場合における倫理の状況が表現されることになります。
つまり、「統治の倫理」と「市場の倫理」の均衡の状態が座標面上に現れるのであり、その均衡の状態が個々の目に見える社会における事象の性格を決定しているのであり、それらの事象の倫理的性格をそれぞれ人の感性がどのように捉えるのかが重要であるということになります。何故なら人間は結局は感情的な生き物であり、倫理といえども理屈ではなく感情や感性によって解釈されるからです。この善悪と真偽の軸の交差する座標上に現れたポイントの表現する善悪と真偽の均衡状態は、それを見たり感じたりした人間の感性において「快」や「不快」に感じられることになります。「快」と感じられるものを人は「美」と表現し、「不快」と感じられるものを人は「醜」と表現します。つまり善悪と真偽の均衡状態は人の目には「美意識」として受容され、「美」や「醜」に分類されることになります。善悪でもなく真偽でもなく、その均衡状態に過ぎない個々の事象は「美醜」という第三の感性的な価値観によって判定するしかないのです。
どのような倫理の均衡状態やそのX値やY値の度合いを「美」と感じるのか「醜」と感じるのかに関しては各自の受け取り方次第で千差万別であるといえますが、とにかくこのポイントの集合体である座標面の広さが「美意識」を受容する感性の領域の広さと等しいのだといえます。すなわち、座標面の広さを決定するのはX軸やY軸の長さであるのですから、X軸(真偽軸)ないしはY軸(善悪軸)が極端に短い座標においては座標面は狭くなります。言い換えれば「市場の倫理」や「統治の倫理」のどちらか、あるいは両方が未発達な社会においては、美醜を判別する感性の領域は狭くなり、その分、美意識が発達しないということになります。逆に、「市場の倫理」や「統治の倫理」が発達すればするほど、その社会における美意識も発達することになります。
こうした善悪と真偽の軸が直交する座標上に美や醜の点が点在するという状態を維持するためには、まずは善悪の倫理である「統治の倫理」と、真偽の倫理である「市場の倫理」が混じりあったり融合したりせずに、確固として別々に存在していなければなりません。もしこの2つの倫理が融合すれば直交する軸が失われ座標そのものが消滅し、美意識も失われますから人間が倫理を感じ取ることも出来なくなるのです。すなわち倫理や道徳の無い、アンモラルな社会が出現することになるのです。

それを防ぐためにはまず「統治の倫理」と「市場の倫理」を融合しないように切り離し遠ざけておく必要があります。そのためにはそれぞれの倫理の担い手を明確に分けておくのが有効です。つまり、「統治の倫理」はあくまで戦士階級や統治者階級の倫理であり、「市場の倫理」はあくまで商人の倫理であるという意識を徹底しておくのです。言い換えれば、武士は武士道を守っていれば良く、商人は商人道を守っていれば良いということです。武士道はあくまで武士の世界の道徳であり、商人が武士道を実践しても仕方ないし、商人道はあくまで商人の世界の道徳であり、武士が商人道を実践しても仕方ないのです。つまりはそれぞれ「分をわきまえる」ということが大事なのだといえます。
こうした、武士は武士の、商人は商人の「分」をわきまえるという意識を個人に幼少時から徹底させるために社会には「身分制」や「階級制」という慣習が存在したのです。社会において戦士(統治階級)と商人(生産階級)という、それぞれ「統治の倫理」と「市場の倫理」という異なった価値観を持った身分や階級が決して混じり合わずに同時に存在することによって、社会という座標面上において善悪の軸と真偽の軸が直交して各象限において対峙し合う状況が維持されるのです。逆に身分の垣根を取っ払って武士も商人も心を一つにしてしまうというのは一見すると良いことのように思えますが、実際には武士(為政者)の世界に商人道を持ち込んで、為政者が汚職に手を染めたり利権まみれになったりすることを助長したり、また商人の世界に武士道を持ち込んで、企業が詐欺的商売に走ったり組織防衛に腐心したりするようになったりして、本来の武士道や商人道の貫徹を阻害して社会に腐敗をはびこらせる結果をもたらすのです。
そうなると現在の日本などはまさにそうした腐敗した社会そのものの様相となっているのですが、これは身分の区別というものが完全に撤廃されて「統治の倫理」と「市場の倫理」が完全にごっちゃになってしまっているせいなのかもしれません。戦後の日本はそうした傾向が極端に進んだ社会ではありますが、こうした腐敗は戦後日本だけに特有の現象ではなく、ヘレニズム時代以降、世界各地で様々な時代において似たような腐敗構造は存在しており、人間社会の歴史というものは「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合による腐敗と、それを克服して「統治の倫理」と「市場の倫理」を別個に打ち立てて均衡をとっていく努力とが入れ替わり繰り返されていくのが常態であったのだといえます。
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物的分割とは、会社分割の手法を株式割当先の違いによって区分する言葉で、分割された事業を行う会社の株式を分割元の会社に割り当てる方法のこと http://ovolo.catvtestchips.com/

【2008/11/07 17:17】 URL | #- [ 編集]


自己受為替手形とは、受取人が自己となっている(振出人と受取人が同じ)為替手形のこと http://manul.catvtestchips.com/

【2008/11/08 15:29】 URL | #- [ 編集]


薄毛とは細い髪の毛ばかりが多くなり、ボリュームがなく、地肌が露出してくる状態をいいます http://handicap.victoriaclippermagazine.com/

【2008/11/27 16:46】 URL | #- [ 編集]


コリンは、体内でアミノ酸から合成される水溶性のビタミン様物質です http://mainframe3.victoriaclippermagazine.com/

【2008/11/28 16:04】 URL | #- [ 編集]



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