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日本史についての雑文その363 2つの倫理と東洋史
米ソ冷戦構造がどのように崩壊していったのかについてはまた後ほど触れるとしまして、その冷戦対立の主要舞台となり、なおかつ冷戦時に世界を二分したイデオロギーの発火点となったヨーロッパの歴史と倫理との係わり合いから少し離れて、そのヨーロッパ文明を生み出した海といえる地中海から見て東にあたる地域、古来「オリエント」と称された地域の歴史と2つの倫理観の係わり合いについても見ていきたいと思います。
このオリエント、つまり中東地域において生まれた文明が古代ギリシャに伝わり倫理というものを生み出し、またそれが中東に伝わって幾つかの世界宗教、キリスト教やイスラム教を生み出していったのですが、7世紀になって中東地域ではイスラム教に基づく「統治の倫理」と「市場の倫理」を持つイスラム共同体が世界帝国を築くようになり、次いでそのイスラム世界帝国の東への拡大がユーラシア大陸中央部の騎馬民族に大きな影響を及ぼすようになっていったのでした。

ユーラシア大陸中央部方面は古来から地中海や中東の文明地帯とシナ世界を結ぶ交易路「シルクロード」の通り道として重視され、遊牧騎馬民族が興亡する地域であり、この騎馬民族は戦闘力に優れていたのでしばしば大帝国を築くこともありましたがだいたいは短命に終わり、すぐにバラバラになりました。これは騎馬民族は部族ごとに遊牧民の慣習法のような「統治の倫理」を持っていたのですが、あまり体系的な「市場の倫理」を持っていなかったからでした。
しかし10世紀ぐらいからこの地域の騎馬民族はイスラム教の影響を受けて体系的な「市場の倫理」も導入したことによって幾つかの永続的な大帝国を築くようになり、特にトルコ人はイスラム化して中央アジアから中東、アナトリア半島まで展開してアラブ人やイラン人を支配してイスラム世界の盟主になるようにもなりました。そうした騎馬民族の興亡の結果、13世紀には中東のイスラム世界も含めてモンゴル帝国によって世界帝国として統一されました。モンゴル帝国の西半分における「市場の倫理」は特にイスラム教と深い関係にありました。

しかしこのモンゴル帝国が14世紀になると黒死病の流行で崩壊します。世界帝国のネットワークが逆に黒死病の伝染経路となり、帝国内での黒死病の大流行を招いたのです。そうなると帝国内の各勢力はネットワークを遮断して共同体の防衛を優先するようになります。つまり「統治の倫理」が優位になってくるわけで、こうして地域ごとにモンゴル帝国の後継国家が分立するようになりました。
黒死病の猛威がおさまった後、そうしたモンゴル帝国のユーラシア大陸南西部の後継国家の大部分を統一して14世紀末に成立したのがイスラム教を奉じたチムール帝国でしたが、これは15世紀末に滅び、その後にイランにおいて成立したのがイスラム教シーア派を国教としたサファヴィ朝でした。また、モンゴル帝国の西のアナトリア半島に13世紀末に興ったトルコ人の国家であるオスマン・トルコ帝国は、チムール帝国と対峙しつつ東ヨーロッパ方面へ勢力を伸ばして1453年には東ローマ帝国を滅ぼし、またチムール帝国滅亡後の16世紀にはメソポタミアやシリア、エジプト、北アフリカなど、イランより西のアラブ人の住むイスラム圏を全て制圧してサファヴィ朝と対峙するようになり、北方はドナウ河を越えてハンガリーまで領土を拡張してヨーロッパ世界を大いに圧迫する世界帝国に成長し、17世紀に最盛期を迎えますが、このオスマン・トルコ帝国はイスラム教スンニ派を国教とする帝国でした。

イスラム教というものは「統治の倫理」も「市場の倫理」も全て含んだ包括的な倫理体系で、しかもその体系の中で「統治の倫理」と「市場の倫理」は分離しており、かなり「市場の倫理」が重視された体系になっています。それゆえイスラム共同体は、後の西洋世界とはまた別の近代以前における世界帝国を形成することが出来たのだといえます。
オスマン・トルコ帝国もサファヴィ朝も17世紀には隆盛を迎え、大航海時代に突入したヨーロッパ諸国との交易で栄えましたが、これらの諸国はもともと「統治の倫理」と「市場の倫理」が分離したまともな国家だったのが、大航海時代以降の「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合するようになったヨーロッパ諸国との関係が密接になっていったせいでありましょうか、次第に2つの倫理が混ざり合い腐敗や混乱が生じるようになり内紛を繰り返すようになっていきました。また18世紀には北方のコーカサス地方からロシア帝国の圧迫も受けるようになっていきました。
そうした影響を受けて18世紀にサファヴィ朝は滅び、イランの地は短命の王朝が興亡してロシアとイギリスの勢力が争う場となっていきました。また同じ頃、オスマン・トルコもドナウ河以北の領土を失い弱体化し始め、19世紀になると産業革命を終えて帝国主義化したヨーロッパ諸国の力が強くなり、オスマン・トルコはヨーロッパや北アフリカの領土をほとんど奪われ、劣勢に立たされるようになり、イランはイギリスとロシアの半植民地のように事実上、分割されてしまいました。
ロシアがイランの地に進出しようとしたのは内陸国家であったロシアが海洋交易に参入しようとして単純に冬でも凍結しないインド洋に面した港を求めてのことで、それをイギリスが阻止しようとしたのはインド洋交易を独占したいからでした。イランの地を巡る争いはそうした交易戦略的要請によるもので、この時代はまだイランの油田は発見されていませんし、だいいち石油を燃料として本格的に使用するようになるのは20世紀以降のことですから資源争奪戦の要素はありませんでした。つまり産業革命期の死活的要請に基づいて何が何でも領有したいというほどの土地ではなかったということで、敵に奪われるぐらいなら自分が奪ってやろうという程度の存在であったようです。ですから従順な保護国的存在に出来ればそれでいいわけで、正式に領有までする必要は無いのでした。
また19世紀のオスマン・トルコの北アフリカ領土に関しては、まず19世紀前半にオスマン・トルコの弱体化に乗じてトルコ支配下の北アフリカ各地のアラブ人勢力が自立して国家を分立し、その後、19世紀後半に帝国主義化したヨーロッパ諸国が資源目当てにアフリカを分割した流れの中で、この北アフリカ諸国も植民地化されたのでした。このアフリカ分割は主にサハラ砂漠以南の地の資源争奪がメインテーマであって、そこから連鎖的に全アフリカ分割というムーブメントが生じたのであり、実際はこの北アフリカの地そのものはこの時代においてはさほど資源面では重要な地ではありませんでした。ただ、ヨーロッパ諸国としては地中海の対岸の地を領有しておくことで地中海の制海権を磐石のものとするという意味合いはあったとは思われます。

そして20世紀に入ってオスマン・トルコは第一次世界大戦で敗戦国となったため、トルコ人の住むアナトリア半島の本土領土以外を失い1923年には共和国となり、アラブ人の住む中東の地はトルコの支配から離れてイギリスやフランスが分割して管理する国際連盟信託統治領となったのです。これは第一次大戦において敵国トルコの後方霍乱のためにイギリスやフランスら連合国がトルコ支配下の中東のアラブ人を「民族自決」というスローガンで扇動して決起させるという戦略をとったため、大戦後にアラブ人国家を中東の地に作ることになったことによるものです。この「民族自決」というスローガンは第一次大戦において連合国側が自国の植民地の兵士を動員するのに際しての建前としても掲げられたために、敗れた同盟国側のドイツ、オーストリア、トルコの植民地をさすがにそのまま分捕るわけにはいかず、そこで一旦国際連盟に預けた上で連合国の各国が分担して統治を受け持つという形式にして、実質的には連合国の植民地にして山分けしまうというトリックを考え付きました。これが「信託統治」というものでした。もちろん第一次大戦が終われば民族自決の原則など無かったかのように、連合国側の植民地にはこの原則は適用されず、連合国側の植民地はそのまま維持されたのでした。
オスマン・トルコから分離した中東のアラブ諸国家はこの「信託統治」という手法によってイギリスやフランスによって実質的に支配されることになったのでした。中東の油田はこの時点ではまだ発見されていませんから、この時点では資源確保という意味合いは無く、イギリスがこの中東の信託統治を提唱した理由は、ただ単にインド洋の通商路確保のためという程度の意味合いであったと思われます。そもそも第一次大戦の原因の1つにドイツとトルコが連携してバグダッドを確保してイギリスのインド通商路を破壊するという計画を巡る攻防があったわけですから、大戦の結果、戦勝国イギリスがバグダッドを含む中東地域に支配権を確立しようとするのは当然の帰結であったといえましょう。
しかし更に事態をややこしくしたのは、イギリスが第一次大戦中にアラブ人との約束とは別に、オスマン・トルコ支配下のパレスチナへの聖地帰還運動で以前から移住してきていたユダヤ人たちに対してもトルコに対する武装蜂起と引き換えにパレスチナの地にユダヤ人国家を建設することを約束していたことでした。このなりふり構わぬ一連の秘密外交やダブルスタンダードが叩かれたイギリスはユダヤ人との約束を果たせなくなり、約束を破られたユダヤ人は過激化し、パレスチナの地でアラブ人と対立するようになったのです。
さて、この「民族自決」という自らのスローガンを裏切る詐欺的組織である国際連盟が第二次世界大戦の勃発によって崩壊し、戦禍によってイギリスやフランスが弱体化して海外植民地を喪失していく流れの中で、第二次世界大戦後にこれら中東の信託統治領もその持ち主である国際連盟が無くなったわけですから自動的に独立して複数のアラブ人の王国が生まれたのですが、同様にイギリスの影響力の低下によってパレスチナのユダヤ人も更に過激化して、アラブ人とユダヤ人の抗争が激化し、1948年にはユダヤ人がパレスチナの地にイスラエルを建国し、現在まで続くパレスチナ問題が発生したのです。

また、これら中東の地に誕生したアラブ諸国の国境線というものは第一次大戦後にイギリスやフランスがトルコ旧領を山分けする過程で恣意的かつ適当に引かれたものであり、実際は中東地域に住んでいるアラブ人はそれぞれの国家への帰属意識は薄く、「アラブ人」としての「統治の倫理」を持ち、「イスラム教徒」としての「市場の倫理」を持った人々であるといえます。
「アラブ人」という意識にも「イスラム教」という概念は決定的な影響を与えていることを考えれば、結局は17世紀以前のイスラム教に則った「統治の倫理」と「市場の倫理」が対峙していた世界が潜在的には中東の地に存在しているということになります。
そしてイランの地にも第二次大戦後に独立国家としてのイラン王国が生まれましたが、アナトリア半島のトルコ共和国も合わせて、これらの非アラブ人国家もまたイスラム教文明という括りではアラブ人の諸王国と共通しているのであり、アラブ人、イラン人、トルコ人たちは潜在的なイスラム教文明、すなわち「イスラム共同体」を共に構成しており、「イスラム共同体」にこそ帰属意識を持っているのだといえます。各自の心の中にある、そのイスラム教に則った「統治の倫理」と「市場の倫理」が対峙する「イスラム共同体」を現世に実体を持ったものとして出現させようという思想が「イスラム原理主義」であり、その実践の第一歩が1979年のイラン=イスラム革命であったのです。

このイスラム共同体のイスラム文明というものは西洋キリスト教世界とは全く異質な文明です。西洋キリスト教世界では「統治の倫理」としての閉鎖的カルトであるキリスト教しか存在しなかった後進的文明であったヨーロッパ文明がイスラム科学の影響を受けてキリスト教とは異質な「理性万能主義」という「市場の倫理」を発明し、この異質な基盤を持つ「統治の倫理」と「市場の倫理」を融合させて作り上げた文明が展開されているのであり、イスラム教文明とはその倫理の基盤も有様も全然違うわけです。
イスラム文明は完全にイスラム教という宗教に基づいた文明であり、しかも「市場の倫理」が「統治の倫理」から離れて独立して優位な立場にあるために、非常に普遍的な浸透力が強く、イスラム文明の影響下に入った地域は大抵がイスラム教化されています。それに比べて西洋文明は「統治の倫理」としてのキリスト教と「市場の倫理」としての理性万能主義、科学万能主義が合体したもので、「西洋文明=キリスト教文明」というわけではありません。だから西洋文明の影響下に入った地域の多くは、必ずしもキリスト教化されていないのです。ヨーロッパ以外にキリスト教化されたのは先住民の文明を滅ぼしてキリスト教徒自体が移住していったアメリカ大陸やロシア東部ぐらいのものでしょう。それは軍事力による征服の結果であり、イスラム教のように宗教そのものの持つ浸透力によるものではありません。すなわち西洋文明では「統治の倫理」たるキリスト教と「市場の倫理」たる理性万能主義の距離が近く、その腐敗構造によってキリスト教そのものの浸透力はイスラム教ほどは高くないのです。
このように西洋文明とイスラム文明は全く違った性格を持っており、だから西洋人から見ればイスラム教徒というのは極めて異質な存在のように見えるのです。しかしイスラム教文明のような在り方もそれはそれで有りなのであり、よく考えればそれほど異様なものでのなく腐敗したものでもないのであって、西洋人も異質なものとしてイスラム文明とは共存していくべきものだといえます。むしろ、イスラム教の成立には古代キリスト教の大きな影響があり、西洋文明の起源の一部にはイスラム文明の影響が大きいということを考えれば、この両文明から見たシナ文明や日本文明などよりも、彼らにとってはよほど分かりやすく、理解し合える部分は多いといえます。

むしろ現代のイスラム文明、そしてイスラム原理主義をも歪めているものは18世紀以降に西洋文明と接触したことによって次第に生じた腐敗の部分であり、特に第一次大戦後に西洋諸国が勝手に引いた国境線によって区画された支配地域における利権を西洋諸国と結託して握った一種の軍閥勢力が第二次大戦後は国王や独裁者となって各国の利権を押さえたわけですが、この国王たちこそがイスラム共同体に西洋的な「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合した腐敗を持ち込んでいる元凶だといえるでしょう。この国王や独裁者たちは国内の政治と経済を一手に支配する帝国主義体制下の一種の僭主となり民衆からの搾取をほしいままにしているのが実情です。
こうした僭主たちを倒して社会の腐敗を取り除き真っ当なイスラム共同体を作り上げようというのがイスラム原理主義の本来の理想なのですが、実際はイスラム原理主義者たちの中にもこうした西洋的腐敗である帝国主義構造に染まっている者も多く、単に現在の国王に成り代わって自分たちが新たな僭主になろうとする者や、再生するイスラム共同体を帝国主義的な新たなイスラム帝国にして、周辺に対して覇を唱えることを目指そうという者もいて、こういう者達に対して西洋人もまた近親憎悪的な嫌悪感を抱き、なかなかややこしい状況にあるといえます。
それに加えて事態を更にややこしくしているのが、第二次大戦後にイスラム教の聖地でもあるエルサレムに建国されたユダヤ人国家であるイスラエルの存在であり、イスラエルとの対立が続く中で中東のイスラム世界の各国の中で、それまでは潜在的であったイスラム原理主義思想がどんどん表面化し活発化していき、また過激化し本来の姿から逸脱していったのです。

この中東地域の東にあったのがインド世界ですが、紀元前においてヘレニズム世界からインド方面へ多神教信仰と抱き合わせで「市場の倫理」が伝わっていたと思われます。インド北部で紀元前5世紀に生まれた仏教は当初は倫理というよりは解脱のための神秘主義思想といえるものであったのですが、紀元前1世紀頃に土着やヘレニズム世界由来の様々な多神教信仰や「市場の倫理」と習合して「衆生の救済」に重きを置いた大乗仏教が成立し、次第にこれがインド北部に住むアーリア人の民族宗教であったバラモン教などよりも優勢になっていきました。この大乗仏教が2世紀にはアフガニスタンから中央アジア経由でシナに伝来するのです。
一方、既に紀元前3世紀には仏教はインド南部やスリランカに伝播しており、1世紀にはそこから東南アジア方面に伝わっていきましたが、こちらは「市場の倫理」の影響をあまり受けずに、基本的に神秘主義的な修行や戒律を重んじる教えにむしろ独自に土着信仰と習合して「統治の倫理」に近い要素を持つようになった上座部仏教であり、インド北部の大乗仏教とは異質なものでした。こうした南北インドの文化的な違いというのは、北インドがアーリア人社会、南インドが元来のモンゴロイド系の部族の社会であったというように、人種の違いに由来するものでした。
ところが、ここで4世紀になって仏教に対抗するためにバラモン教と民間宗教を習合させて、イスラム教のように「統治の倫理」と「市場の倫理」の両方を含んだ包括的な宗教であるヒンズー教が成立し、同時期に成立したインド北部の土着王朝であるグプタ朝がヒンズー教を国教としたことをきっかけに、この後の時代のインドにおいてはヒンズー教の教えが広まり、仏教はしばしば弾圧されるようになりました。
そこで仏教は7世紀になるとヒンズー教と習合して密教という形態を生み出し、これがシナに伝来し、9世紀にはその後期形態がチベットにも伝来してチベット密教の元となるのですが、それでもインド本国においての劣勢を挽回することは出来ず、11世紀ぐらいにはインドではヒンズー教が主流となり、仏教はすっかり廃れてしまいました。そういう状況のところに11世紀からイラン方面からイスラム教が入ってきて仏教はインドから消滅することとなったのでした。

こうして11世紀以降はインド北部ではイスラム系の王朝が続き、インド南部ではヒンズー系の諸王国が割拠するという形になりました。これを見ても分かるように、イスラム文明は小さな共同体を束ねて大きな帝国を作る傾向が強く、ヒンズー文明は小さな共同体が自立して睨み合う傾向が強いといえます。つまりイスラム文明もヒンズー文明も、共に「統治の倫理」が「市場の倫理」を包含されて対峙していながら、イスラム文明は「市場の倫理」が強く、ヒンズー文明は「統治の倫理」のほうが強いということになります。キリスト教とはまた違った意味合いでイスラム教の対極に位置する宗教がヒンズー教であるといえます。
13世紀にユーラシア大陸の大部分はモンゴル帝国によって統合されますが、インドの諸勢力はモンゴルによる支配は受けることはなく、北部のイスラム文明、南部のヒンズー文明という枠組みを維持します。そしてモンゴル帝国の瓦解後にユーラシア南西部を統一したチムール帝国が15世紀末に滅びると、チムールの末裔のバーブルがインドへ進出してきてムガール帝国を立て、インドの大部分を支配しました。ムガール帝国はイスラム系の王朝でありましたが、ヒンズー教にも寛容政策で臨み、これによってインドでは、主にイスラム教徒が支配層、ヒンズー教徒は被支配層を形成するようになりました。
こうしたインド社会に17世紀になると大航海時代の西洋諸国が交易のためにやって来るようになり、ムガール帝国は大いに栄えることになりますが、このムガール帝国もオスマン・トルコやサファヴィ朝のような中東のイスラム系の帝国と同じく、イスラム系であるゆえに同じように西洋諸国の「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合した腐敗ぶりに触れることによって次第に腐敗していくようになりました。こうして18世紀になるとムガール帝国は内紛を起こして衰えていくようになり、インドにおける交易利権を巡って争い合っていた西洋諸国の中から18世紀後半に最終的に勝ちあがったイギリスが産業革命を経て帝国主義化して圧迫を加えてくる19世紀になると一気にインドの植民地化が進み、1858年にはムガール帝国は滅びてインドはイギリスの植民地となってしまったのでした。

イギリスとしてはどうしてインドを植民地化したのかというと、インドが大きな人口を抱える一大消費市場であったからでした。最初にイギリスがインドにやってきた17世紀の頃はイギリスにとってインドは毛織物や綿織物の輸出先であり、また茶などの商品作物を安価な労働力で生産する地であり、つまり単なる交易相手に過ぎませんでした。しかし19世紀になって産業革命によってイギリスで大量の綿織物が生産されるようになると、その原料の綿花を安く大量に供給する原産地が必要になり、出来上がった大量の綿製品を高く売りさばく大きな市場が必要となり、インドはその条件を備えた土地であったのでした。
しかしよく考えればこれはおかしな話で、安い綿花が大量に調達できるのならインド自体が安い綿製品を大量に作って売ればいいわけで、そこにイギリス産の綿製品を高い値段で売っても、インド産品に太刀打ちできるはずがないのです。それが通常の経済活動というものです。つまり、そういう通常の経済活動ではあり得ないような不自然なことを可能にするためには、経済に政治が介入して、関税や物品税などを不自然に操作して商品価格を上下させてイギリス産品を有利にしてインド産品を不利にするような作為を行う必要があり、そのような政治的作為を可能にするためには軍事力の裏づけを必要とするのです。つまり軍事力を背景にしてアンフェアな経済体制を押し付けて一国の市場を乗っ取ってしまうという政治経済が融合した腐敗した遣り口が帝国主義体制の本質であり、インドはその人口豊富な巨大市場ゆえにイギリスにそうした遣り口のターゲットにされたのです。
西洋帝国主義はこのように「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合した腐敗体制でありましたが、それは本国での形態であり、海外の出先においては活動するのは商人ばかりですから主に「市場の倫理」が前面に出ることになります。一方、イスラム文明は「市場の倫理」が強く「統治の倫理」が弱い社会ですから、イスラム文明の「市場の倫理」と西洋文明の「市場の倫理」がぶつかり合うことになり、帝国主義の段階にある西洋の「市場の倫理」のほうが強いわけですから、イスラム側は強い「市場の倫理」を潰されて西洋の「市場の倫理」を受け入れることになり、そうなるとイスラム側の弱い「統治の倫理」では西洋の「市場の倫理」には太刀打ちできずに呑み込まれてしまい、結局は西洋風の「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合した腐敗した体制に堕してしまい、ズルズルと植民地化していくわけです。これがイスラム文明が西洋帝国主義に対して脆弱であったメカニズムで、要するに「市場の倫理」優位のイスラム文明は西洋帝国主義に対して相性が悪かったわけです。そういうわけでオスマン・トルコもサファヴィ朝も西洋帝国主義に対して脆弱であったのであり、ムガール帝国もイギリスの帝国主義にあえなく敗れて滅びてしまったのです。

ところがインド社会はムガール帝国の支配層のようなイスラム文明だけでなく、サブシステムとしてヒンズー文明も備えていたのです。ヒンズー文明の場合、イスラム文明とは逆に「統治の倫理」が強く「市場の倫理」が弱いので、西洋帝国主義の「市場の倫理」と接触した場合、自らの弱い「市場の倫理」を西洋の「市場の倫理」で補完して強いものにして、それを自らの強い「統治の倫理」でコントロールすることが可能なので、西洋の「統治の倫理」を拒絶することが出来て、その結果、植民地化されにくいのです。つまり、ヒンズー文明の場合は西洋帝国主義と接触した場合、簡単に植民地化されないだけではなく、むしろ弱点である「市場の倫理」を補完して、より文明を活性化させることが可能なのです。要するに「統治の倫理」優位のヒンズー文明は西洋帝国主義に対して相性が良いわけです。
イスラム文明であるムガール帝国は相性の悪い西洋帝国主義に簡単に敗れてインドは植民地化されてしまいましたが、その後、インド文明におけるサブシステムであるヒンズー文明が発動してヒンズー勢力を中心に独立運動がしつこく続けられていくことになるのです。もちろん西洋帝国主義に相性の悪いイスラム文明もまた存在しているわけですから、独立運動がすんなり上手くいくというわけにはいかず、一進一退ということになりますが、それでもヒンズー文明が存在したことによって持続的な抵抗が可能になったのだといえます。特に独立運動の基礎となったのが西洋資本主義を導入してインド経済を補完強化したことによって出現した民族資本家の支援であったことを考えると、まさに西洋の「市場の倫理」によってインドの「市場の倫理」を補完して、それによって西洋の「統治の倫理」を拒否するという典型的なパターンだといえます。

その後、初めて有色人種が白人に勝利した1905年の日露戦争の終戦以降、インドの独立運動も活発になり、業を煮やしたイギリスは独立勢力を分断するためにイスラム勢力に肩入れし、イスラム教徒優遇政策をとります。イギリスは西洋帝国主義に対して強いヒンズー勢力との正面対決を避け、西洋帝国主義に弱く与しやすいイスラム勢力を懐柔する作戦に出たわけです。思惑通り、イスラム勢力は親英に転じ、これによって独立勢力内でヒンズー派とイスラム派の深刻な対立が生じたのでした。
しかし、1914年に始まった第一次世界大戦におけるイギリスの「民族自決」に関する二枚舌に憤った独立勢力は、ヒンズー派もイスラム派も大同団結し、第一次大戦後は再び活発な独立運動を展開するようになり、第二次世界大戦の末期においては独立勢力の武装組織であるインド国民軍が日本軍と協力してイギリス軍と交戦するまでに至りました。そして1945年の終戦後、投降したインド国民軍兵士の免責を求めて全インドで大規模な抵抗運動が発生し、戦禍で弱体化したイギリスになす術は無く、インド独立は決定的となりました。しかし同時に、かねてよりの独立勢力内のヒンズー派とイスラム派の対立が再び表面化して、結局、1947年に、ヒンズー教徒の多いインド南部を中心としたインド連邦、イスラム教徒の多いインド北部にあるパキスタン自治州(後にパキスタンとバングラデシュに分裂)の2つの独立国が生まれることになりました。

独立後はヒンズー国家であるインドとイスラム国家であるパキスタンは激しく対立するようになり、その対立に東西冷戦の対立構図も絡んでくるようになりました。アメリカやイギリスなどの西側陣営は原則的に中東のイスラム国家を利用してソ連の南下を食い止める戦略であったのでパキスタンもその防壁として世界戦略に組み込まれ親米国家となり、そのパキスタンと根深い対立関係にあるインドは自然にソ連寄りとなり西側諸国とは疎遠な関係となっていきました。といってもソ連の衛星国になったわけではないのですが、西側の自由主義陣営とは冷えた関係が続きました。よって、その間、インドの経済はあまりパッとしませんでした。
ところが1991年にソ連が崩壊して東西冷戦の構図が無くなると、西側の自由主義陣営もインドへの警戒心が無くなり、インドに経済進出していくようになりました。するとヒンズー文明は西洋の「市場の倫理」によってインドの「市場の倫理」を補完して、より強力な「市場の倫理」を生み出しつつ、「統治の倫理」に関しては西洋風のものの侵食を拒絶して独自のスタイルを維持し得るという特性がありますから、政治に関しては西洋から見れば全く後進的な田舎政治に見えつつも何故か上手く機能する不思議な「世界最大の民主主義国家」でありながら、経済に関しては見ようによっては西洋以上に西洋的な極めて合理的かつ洗練されたスマートさを有して驚異的な経済発展を遂げるという、西洋から見てなんとも不可解な国家が出現することとなったのです。
一方、パキスタンのほうは戦後一貫して自由主義陣営に属し、アメリカの極めて重要な同盟国であったにもかかわらず、独裁と貧困が常態というなんともいえない後進性が常にまとわりついています。これは冷戦時代における中東の他のイスラム親米国家と共通した特徴であり、どうもやはりイスラム文明というものは近代西洋文明との相性が悪く、西洋に関わると上手く利用されて腐敗構造のみ生み出してしまう宿命にあるようです。ならばヒンズー文明のように近代西洋文明と関わることで肯定的な成果が生まれるということはなく、むしろ近代西洋とは一定の距離をとって、イスラム文明独自の「統治の倫理」と「市場の倫理」を追い求めようという考え方が出てくるのであり、これが「イスラム原理主義」ですが、こうした考え方が中東のイスラム国家において一般に広まるのはソ連という脅威が無くなって安心してアメリカ離れが出来るようになった冷戦終結後のことでした。
そういうわけでパキスタンにおいても冷戦終結後はイスラム原理主義が広まることになり、その反西洋主義は象徴的に反米主義に収斂されることとなります。また僭主であり腐敗構造の上に存在している軍事政権はその政権基盤が国民には無くアメリカの支援にあるわけであり、アメリカとしてもイスラム原理主義の拡大を抑えるためにもパキスタン政府との連携は必須であるという事情もあり、一応はパキスタン政府は親米を維持していますが、冷戦後に宿敵であるインドにアメリカが接近していく状況の中でインドへの抑止力を維持するために裏では共産シナと手を組むようにもなっています。

なお、幕末の開国時の日本は、どちらかというと「市場の倫理」が強く「統治の倫理」が弱かったのであり、つまりイスラム文明と同じく近代西洋の帝国主義に対して相性が悪かったのです。それゆえ日本では開国時は亡国の危機感が切迫したものと感じられていたのですが、結果的には日本は独立を維持し、逆に明治期において目覚しい発展を遂げることになりました。
これはどうしてなのかというと、他の国の失敗を見てよく学んでいたからであろうと思われ、つまり幕末から明治の日本においては西洋の「市場の倫理」の侵入に対しては様々な障壁を設けてブロックして、日本の「市場の倫理」を保護しつつ、西洋の「統治の倫理」のほうは積極的に取り入れて、弱体であった日本の「統治の倫理」を補完して強化していき、「統治の倫理」と「市場の倫理」のバランスを適切に取ることに成功したからでした。
ただ、これは実際やるとなるとなかなか大変で、日本にやってくる西洋人などは普通は商人ばかりで「市場の倫理」しか持ち合わせていませんから、そういう連中の商売根性をかわしつつ、「統治の倫理」を持った西洋人をわざわざ日本に呼び寄せてお抱え外国人教師としたり、場合によっては西洋諸国に日本人を留学生として派遣して本場の「統治の倫理」を学ばせたり、色々と単純な商売以外に余計なことをやらないといけなくなるのです。これをやり遂げたことによって、日本は本来は相性が悪いはずであった近代西洋文明の摂取に成功したのです。(ちなみに、最近の日本はこれと逆のことをやろうとしており、それゆえどうも最近の日本はうまくいかないのです)
つまり、この日本のケースは日本と同じく「市場の倫理」優位のイスラム文明にとって、近代西洋文明との付き合い方を考える上で、イスラム原理主義とはまた別の方向性の1つのモデルケースとなるものなのです。そして、この日本のケースを参考にして上手に近代西洋文明を摂取したイスラム国家の例が、第一次大戦に敗れた後、1923年に共和制に移行したトルコでした。それゆえトルコはこの後は安定し、他の中東のイスラム国家のような腐敗や混乱、独裁や貧困などの後進性とは無縁の先進国となり、現在もイスラム国家として唯一のNATO加盟国として、国際社会で特異な地位を占めることが出来ているのです。但し、日本も同じことが言えるのですが、これが必ずしも絶対的に正しい方法とは限らないということも認識しておく必要はありますが。

次いでインド世界の東には東南アジア地域があります。この地域には1世紀ぐらいにインド南部やスリランカから上座部仏教が伝わってきていましたが、これによって国家が形成されるというようなことはなく、素朴な部族社会が続きました。この部族社会の共同体を支えたのは素朴な「統治の倫理」であり、ここに加わった上座部仏教も狭い宗教サークルを束ねる「統治の倫理」でしかなかったので、あまり大きな展開を見せなかったのでしょう。
東南アジア地域で国家形成の動きが生じるのは、8世紀にこの地域がシナ世界とインド・イスラム世界を結ぶ交易路である「海のシルクロード」や「西南シルクロード」の通り道として重視されるようになって以降のことであり、それはつまり、東南アジアでの国家形成は「市場の倫理」主導で行われたということを意味します。
まずは8世紀に西南シルクロードの要衝である雲南地方においてビルマ人の南詔という国が興り、中継貿易国家として栄えて9世紀には最盛期を迎え、南下してビルマやインドシナ方面にも版図を広げましたが10世紀には内紛によって滅び、代わって大理という国が雲南地方に興りました。
その南の東南アジアでも8世紀ぐらいから交易国家が生まれ始め、10世紀以降は「海のシルクロード」の中継貿易を行う幾つかの国家が栄えるようになり、だいたいベトナム、カンボジア、ビルマ、そしてマラッカ海峡近辺を中心とした国家が分立する様相となっていきました。

これらの東南アジアや雲南の国家群は宋と良好な関係を保ってインドやイスラム世界との交易の中継貿易国家として活発に活動していたのですが、13世紀にモンゴル帝国が宋を滅ぼしてシナ世界を支配すると、大理やビルマ、ベトナムはモンゴルに征服されることになりました。またこの13世紀頃、マラッカやインドネシア方面へイスラム教が伝播し、急速に広まっていきました。こうした外部からの刺激を受けて、東南アジアではもう少し国家を外部からの脅威に対して耐性の強いものにしようという考え方、すなわち「統治の倫理」を必要とする傾向が生まれてきたのです。
特にモンゴル勢力とイスラム勢力に南北から挟まれることとなったタイ地方でその傾向は顕著となり、14世紀に興ったタイ王国では仏教を国教として、仏教を中心に据えた「統治の倫理」を打ち立てて内政改革を行ったのです。これは7世紀に日本で行われた仏教を中心とした律令国家建国の改革に類似した改革でありました。仏教自体があまり「統治の倫理」としては強いものではないのですが、それでもそれまではあまりちゃんとした「統治の倫理」の無かった東南アジアでは画期的なことであり、モンゴルが北方へ去っていった後のビルマやカンボジア、ベトナムもタイ王国に倣って仏教を国教として「統治の倫理」を持つようになっていきました。ただ、やはり元祖だけあってタイが最もしっかりした「統治の倫理」を持っていたようです。

14世紀後半にモンゴルを北方に追い払ってシナ世界を支配するようになった明は当初はモンゴルの支配地を全て回収することを目標として膨張政策をとっていましたので、まずは雲南を併合して、その上で東南アジア方面へ圧迫を加えてきていましたが、ほどなく鎖国政策に転じ、これによって東南アジア諸国は軍事的脅威からは解放されましたが今度はシナとの交易の消滅の危機に直面してしまいました。しかし明の統制を逃れて密貿易を行うシナ商人は多く、これに日本人商人も加えた倭寇という商人集団との間に交易網を形成した東南アジア諸国はほどなく南アジア多島海に一大交易圏を作り上げたのでした。
この一大交易圏に16世紀になると大航海時代に突入したヨーロッパ諸国の商人が進出してくるようになり、更に交易は盛んになったのですが、インドや中東の例でも見たように、このヨーロッパ勢力は「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合によって生じる腐敗を振りまく危険な存在でもあり、しかもこれは「市場の倫理」優位の社会に対して特に猛毒性を発揮するという特性を持っていたのでした。
然るに、この東南アジアの諸国家は一様に「市場の倫理」が強い社会構造を持っており、仏教中心の「統治の倫理」はあまり統制力の強いものではありませんでした。またマラッカ海峡からインドネシア方面のイスラム教圏に関しても、そもそもイスラム文明が「市場の倫理」優位の文明の典型例で、近代西洋文明に対して相性が最悪なのですから、結果は自ずと明らかというものでした。
こうして東南アジア諸国は16世紀から18世紀にかけて西洋諸国と交易を活発に行いつつ、同時期の中東やインドの国々と同じように、じわじわと腐敗と混乱が広がっていき弱体化していったのでした。そして19世紀になって帝国主義の時代に入った西洋諸国の攻勢の前にほとんどなす術なく植民地化されていったのでした。

ただ、その中で唯一、19世紀前半のタイだけが仏教を改革して合理化し、統治階級の教育に西洋の知識を導入し、「統治の倫理」を強化しつつ、国家を挙げて米を増産して有力な輸出商品として、西洋との貿易で主導権を握ることに成功したため、西洋諸国としてもタイの国内経済体制に外部から手を加えることにメリットを感じるということはなく、また強化されたタイの「統治の倫理」と衝突することのデメリットも考慮することになり、結局は植民地化を免れたのでした。この近代西洋文明に対する対処の仕方は、幕末維新期の日本や第一次大戦後のトルコなどと類似したものであったといえます。
ただ、タイの場合、植民地化を免れた大きな理由の1つとして「特にこれといった天然資源が無かったから」というのもあります。まぁこれも日本もトルコも似たようなものですが。19世紀の帝国主義列強の植民地獲得の動機は産業革命で大量生産する製品の原料の安価での確保と、大量生産した製品を高値で売れる消費市場の確保のためであったわけですが、インドとは違って東南アジア諸国の場合、大量消費市場として合格点なのはインドネシアぐらいで、あとはだいたい皆、列強諸国の本国における工業生産において必要とされる天然資源の供給地としての意味が強かったのでした。東南アジア諸国における天然資源を安く手に入れるためには、軍事力を背景にして人民を支配してしまい、現地民を奴隷同然の低賃金労働で働かせて資源を採掘させたり生産させたりするのが一番であり、東南アジアにおける植民地化というのは、そのための植民地化であったのです。むしろ、19世紀において大量消費市場として西洋列強が熱い視線を注いでいたのはシナ市場のほうでありました。

さて、そのように19世紀の末までにはタイを除く東南アジア地域は西洋列強の植民地になってしまったのですが、1905年の日露戦争における日本の勝利に触発されて各地で独立を求める運動が発生するようになります。特に独立運動が盛んであったのはインドネシアであったのですが、先述のインドの場合も共通しているのですが、大量消費市場型の植民地のほうが独立運動が盛んになりやすい傾向があります。これは帝国主義のジレンマで、こうした植民地の人民には割高の西洋産品を買わせなければならないわけですから、全くの貧乏人では困るわけです。だからある程度の財産は持っておいてもらわないといけないので、ある程度は民族資本が生まれるように支援することになります。しかし民族資本が生まれると不平等な経済関係の是正を求めるようになり、それが独立運動に繋がっていきます。そういうわけで宗主国としては生かさず殺さず、援助したり弾圧したり、政策が一定しなくなり、余計に混乱が深まっていくことになります。まぁインドネシアの場合はサブシステムとしてのヒンズー文明を持っていたインドとは違い、西洋文明と相性の悪いイスラム文明一辺倒であったので、インドよりも独立運動の状況は良くなかったようです。
そのように一進一退の状況で、なかなか独立を勝ち取るまでには至らなかったのですが、シナ大陸での紛争に巻き込まれてアメリカとの関係が悪化して経済制裁を受けて進退窮まった日本が1941年に資源を求めて東南アジアの西洋列強の植民地に侵攻してきて占領し、大東亜戦争が始まりました。ここで東南アジア地域は西洋の植民地から解放されたのですが、代わって日本の植民地になったというわけではありませんでした。アメリカと全面戦争に突入した日本には新たな占領地を植民地として経営していく余裕は無く、日本としては出来るだけ早く東南アジア諸国を自立した友好国として成長するよう支援する程度のことしか出来ず、また占領地の民衆の支持を得るために「アジア植民地の解放」を戦争の大義名分としたところ、日本国内のアジア主義的熱情が燃え上がって、日本は官民挙げて東南アジア独立支援に乗り出すことになったのでした。
この東南アジアの占領地は戦争末期に奪還されたフィリピンとビルマを除いては1945年の終戦まで日本の占領下にあり、その間、日本式の近代国家作りの準備が急ピッチで進められていきました。日本式というとどういうものであったのかというと、1929年の世界大恐慌後の日本は基本的にケインズ型全体主義体制とヘーゲル型全体主義の折衷型の体制に移行しており、ちょうどこの型の全体主義体制が後進国がナショナリズムを求心力として政治と経済が一体となって急ピッチで発展していくのに適した体制であり、そのノウハウが数年間とはいえ、東南アジア地域に一気に集約的に投下されたことになります。

1945年8月の日本の降伏は、日本にとっては遅すぎた降伏であったと言えますが、実は連合国の大部分にとっては晴天の霹靂のように早すぎた降伏でした。もともと連合国は日本本土上陸の上で日本を完全占領しての無条件降伏を想定しており、その終結は1946年以降になると予想していました。本土決戦の前に交渉によって早期に日本が降伏するというシナリオは想定されていなかったのです。ですから、1945年5月にヨーロッパでの戦争が終結したばかりでまだ戦禍の傷跡が癒えない東南アジア地域の宗主国では1945年8月時点ではまだ植民地奪還の準備が整っていませんでした。
そうした時に突如、日本の降伏および日本軍の武装解除によって東南アジア地域では一種の権力の空白が生じ、それを埋めるように独立勢力が独立を既成事実化してしまったのでした。その後に慌てて戻ってきた宗主国が形の上では独立を取り消し、支配を回復しましたが、一度既成事実化してしまった独立は大きな影響力を残しており、しかも日本による占領中にこれら独立勢力はナショナリズムを求心力としたちょっとした全体主義体制に到達しており、第二次大戦の戦禍で疲弊した宗主国の植民地軍ではなかなか抑え込むのが困難な存在になっていました。そういうわけで、1940年代末までには東南アジア諸国は相次いで独立を達成したのでした。
独立後の東南アジア諸国がナショナリズムが強く、強権的な独裁体制が多く、官主導の急ピッチな経済発展のかたわら、政治と経済が利権構造で癒着した腐敗体制が蔓延しがちであったのは、その出発点が戦時中の日本による全体主義体制の移植によるものなのです。但し、戦後のアジアにおける共産主義勢力の伸張の影響を受けて、インドシナ半島はマルクス型全体主義体制の国家が形成され、また他の地域でも共産主義勢力が一定の影響力を持つようにもなりました。
また、タイだけはいちはやく近代化していたおかげで植民地化も免れ、1932年には既に民主革命が起きて立憲君主制に移行しており、第二次大戦中も日本による占領も受けなかったため、戦後も東南アジアで最も政情が安定し、インドシナやビルマに浸透してきた共産主義勢力に対する防波堤としてアメリカの世界戦略において重要な国家となり、多くの支援を受けて発展していきました。
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この記事に対するコメント

検索から探していたブログに漸く出会えました。

印に足跡を残していきす。ペタッ

【2008/05/17 01:13】 URL | ゆいか #- [ 編集]


人や動物の腸管、土壌、水中などの自然界に広く分布しています http://aerukamo.sabellsenterprises.com/

【2008/11/03 10:35】 URL | 57 #- [ 編集]



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