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日本史についての雑文その364 2つの倫理と新大陸
このように東南アジア地域やインド地域、中東地域などのユーラシア大陸南部地域は西洋諸国によって植民地化、あるいは半植民地化されたことによって、植民地時代だけでなく独立後も何かと苦労する羽目になっているといえます。それは確かに事実ではあるのですが、しかし東南アジアやインド、中東などの場合はまだ恵まれているほうなのです。
どういうふうに恵まれているのかというと、独立後に西洋起源の全体主義体制や帝国主義体制、民主主義体制などを導入した際、自らのもともと持っていた伝統的な価値観、例えば東南アジア地域では仏教文化であったり、インドではヒンズー文化であったり、中東やパキスタンやインドネシアではイスラム文化であったりする伝統的価値観との間で、相性が合ったり合わなかったり、様々な軋轢が生じているのですが、こういう軋轢が生じるということ自体が一見苦しいことのようで実は恵まれていることなのであり、こうした伝統的価値観が全体主義体制や帝国主義体制の持つ腐敗の暴走に対する一種のブレーキとして機能していたのです。

どうして独立後にそういう伝統的価値観が存在していたのかというと、植民地時代にもその伝統的価値観やそれを保持するのに必要な地域共同体などの中間組織が破壊されずある程度温存されていたからでありました。実際、東南アジア諸国などは植民地化されましたが、それはもともと存在した国家の枠組み単位で植民地化されたのであり、例えばアフリカのように宗主国の都合で恣意的な国境線が引かれたりはしなかったのでした。もともと存在した共同体は厳しい抑圧を受けはしましたが、破壊はされなかったのです。また中東の場合は恣意的な国境線は引かれましたが、信託統治であり本格的な植民地でなく、しかも資源供給地(油田発見は第二次大戦後)や消費市場として期待されていたわけではないので、統治は緩やかで、イスラム文化は大した干渉も受けず温存されました。
これらユーラシア南部の諸地域で伝統的共同体や文化が温存されたのは、もともと植民地時代以前にそうした伝統的価値観を保存する独自の社会がある程度強固に確立されていたからであり、それを破壊するのはなかなか容易なことではなかったからでした。おそらくもっと長期間、植民地支配が続いていれば破壊されたのかもしれません。いや、それでも破壊はされていなかった可能性が高いともいえます。何故なら西洋諸国がこれらの地域を支配した19世紀から20世紀前半の時代においては既に支配地の共同体を破壊するということに大きな意味は無くなっていたからです。
つまり西洋諸国はかなり以前に比べて大人しくなっていたというわけです。まぁそれでもかなり酷い搾取や差別待遇をされているこれらユーラシア大陸南部の諸地域がまだマシということは、その他の植民地化された地域は恐ろしく酷い目にあっているということです。そこにこそ西洋諸国の真の恐ろしさと罪深さがあるといえるでしょう。
そもそも植民地とは何かというと、その字の通り、本来は人間がどんどん移民して住み着く土地という意味で、そう考えると帝国主義時代の東南アジア、インド、中東の西洋植民地というものは本来の意味の植民地とは少し趣が異なっており、むしろその実態は「経済植民地」という一種の比喩的な意味合いで「植民地」という語を使っているに過ぎないということが分かります。本来の意味での植民地に最も近いのは、16世紀以降の大航海時代における南北アメリカ大陸に対するヨーロッパ諸国の行った植民活動でしょう。

13世紀にユーラシア大陸を席捲したモンゴル帝国において14世紀に黒死病が大流行し、それがヨーロッパにももたらされ、ヨーロッパの人口の4分の1が失われました。これによって農民が不足したので封建制度が維持出来なくなり、例えば百年戦争などの戦乱を経て15世紀の終わりまでに国王権力の下に社会が再編されましたが、これは要するに人口減少時代に対応しての社会のスリム化でした。ところがその後、16〜17世紀にかけて人口が回復してくるとスリム化された社会から溢れ出してしまう人が増えてきました。ちょうどこの時期に宗教改革が起きて各地でカトリックとプロテスタントの争いが起きますが、この争いが激化した一因にこうした余剰人員の増加もあると思われます。こうなってくると争いを収めるためにもその余剰人員を何処かへ持っていく必要も生じてきました。
一方、14世紀の黒死病の大流行によってヨーロッパの人々は黒死病の特効薬と信じられた香辛料を求めるようになりました。香辛料は東南アジアやインド方面が原産地で、イスラム商人の手によって東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルまで運ばれてきており、ヨーロッパの、特にイタリアの自治都市の商人たちがイギリスやフランスで作られた毛織物を持ってコンスタンチノープルまで出向いて、毛織物と香辛料を交換して、ヨーロッパに持ち帰った香辛料を売りさばきました。この香辛料の需要が黒死病流行の影響で14世紀以降急速に高まったため、イタリアの自治都市の商人、特にベネチア商人が大いに潤い勢力を伸ばしました。このイタリア自治都市の繁栄と東ローマ帝国との交流の活発化が14世紀にイタリア・ルネサンスを生み出したのでした。
東方からイタリア自治都市にもたらされたものは香辛料だけではありませんでした。特に東ローマ帝国において13〜14世紀に復興していた古代ギリシャや古代ローマの知識体系や最新イスラム科学など、イタリア・ルネサンスを興す基となった様々な知識などが最も重要なものでありました。9世紀からヨーロッパを支配していたカトリック権力への盲従からの解放の思想的試みは十字軍遠征後にイスラム科学に触れて生じた12世紀のスコラ学から始まっていましたが、この14世紀のイタリア・ルネサンスによって伝えられたカトリック体系に属さない新知識はスコラ学の延長線上に立ちつつ、それを更に超克してカトリック支配体制を完全に相対化するための思想的熟成に繋がっていったのでした。これが後にプロテスタンティズムや啓蒙主義思想に繋がっていくのです。

そして実用的な技術も東方からイタリア自治都市に伝わったのでした。ルネサンスの三大発明といわれるのは活版印刷術・火薬・羅針盤ですが、これらは実際はイタリア自治都市で発明されたものではなく、11〜13世紀あたりに東アジアで既に実用化されていたものがモンゴル帝国によって東西交通が一元化されたことによって中東へ伝わり、東ローマ帝国経由で14〜15世紀にイタリア自治都市にもたらされたものでした。
これらのうち、活版印刷術は聖書の一般への普及、それも聖職者しか読めない難解なラテン語ではなく庶民の日常語での普及をもたらし、それまでカトリックの司祭が独占していた神への祈りを一般庶民の各自に解放したのでした。そうなると聖書にはカトリックの司祭たちが言うような煉獄説や贖宥などの極端な現世否定思想に基づいた概念など書かれておらず、それらはカトリックが現世を支配するためにでっち上げた謬説ではないかと考える人も出てきて、「聖書に帰れ」をスローガンに16世紀に宗教改革運動が起こったのでした。その結果、カトリック司祭を通さずに一般庶民が直接神への信仰を捧げる信仰スタイルであるプロテスタンティズムが生まれ、北ヨーロッパに多くの信者を獲得しました。そしてまた、ヨーロッパ各地でカトリック教徒とプロテスタントの間で宗教戦争が起こるようになったのでした。
一方、火薬についてはヨーロッパ諸国よりも15世紀にアナトリア半島において急速に勢力を伸ばしたイスラム教国家であるオスマン・トルコ帝国のほうがまず有効利用をしました。火薬の爆発力を利用して銃身から銃弾を発射する「銃」という新兵器がいつ誰によって発明されたのかは定かではありませんが、東方から伝わった火薬を使って中東あたりで作られたものと思われます。それを最初に組織的に運用したのは15世紀のオスマン・トルコ軍で、チムール帝国の騎馬軍団に対抗するために使い始められたようです。銃はイスラム騎馬軍団に対して有効な武器ですから、当然、同じように突進戦法を得意とするヨーロッパの騎士団に対しても有効で、銃を駆使したオスマン・トルコ軍は1453年にコンスタンチノープルを陥落させて東ローマ帝国を滅ぼし、更にバルカン半島に侵入してきてヨーロッパの騎士団を散々に打ち破ったのでした。
こうして15世紀後半にバルカン半島を奪われ、ハンガリーも脅かされるようになったヨーロッパのキリスト教勢力はイスラム教国家のオスマン・トルコとは敵対的関係となり、その銃を使った戦法に対抗するために急速に軍事改革を行い、16世紀初頭には騎士中心の軍制から銃隊中心の軍制に切り替えていったのでした。銃も戦闘に使いやすいように改良され火縄銃が開発されるようになりました。そしてその銃を使用した戦闘の実地訓練は、16世紀にヨーロッパ中を吹き荒れた宗教戦争を舞台として行われ、ヨーロッパの軍の練度は上がっていったのでした。
そして、羅針盤はもともと航海民であったイタリア自治都市の商人たちによって活用されていきましたが、特に羅針盤を必要としたのは、長年にわたる国土回復戦争の結果、14世紀においてほぼイベリア半島全土を回復し、北アフリカに後退したイスラム王朝と熾烈な戦いを繰り広げるようになっていたポルトガル、アラゴン、カスチラなどのヨーロッパ南西端のイベリア半島国家でした。これらの国家、特に大西洋に面していたポルトガルはイベリア半島や北アフリカ西海岸の沖合いの大西洋上でイスラム海軍と海戦を戦うための拠点として大西洋上の島々を確保する必要があり、羅針盤を使っての外洋航海を常に行うようになっていきました。

一方、バルカン半島を席捲したオスマン・トルコ帝国はヨーロッパ諸国や自治都市と敵対的関係となっていき、1480年にはベネチア海軍を破って地中海の制海権を握り、コンスタンチノープルにおける交易に莫大な関税をかけてヨーロッパを圧迫するようになりました。これによって、コンスタンチノープルを舞台にしたイタリア自治都市商人による香辛料の取引が困難になってきたのでした。
そこで、地中海を東に進んでコンスタンチノープルに向かうのではなく、地中海の南西端にあるジブラルタル海峡を抜けて大西洋に出て、そこからアフリカの西海岸を伝って南下していきアフリカの南端を東へ回っていけば、オスマン・トルコ帝国の裏側に出て、そこでイスラム商人と直接取引したり、更には香辛料の原産地であるインドで直接取引が出来るのではないかという考え方が生じてきました。しかし当時はアフリカの南端に到達したヨーロッパ人はおらず、その先がどうなっているのか、だいたいアフリカがどれだけの大きさであるのかも誰も知りませんでしたから、この計画は不確実な仮説に過ぎませんでした。
その仮説を実行に移したのが、大西洋におけるイスラム海軍との海戦に勝利し、逃げるイスラム海軍を追撃した結果、1480年時点でアフリカ西海岸の赤道付近まで到達していたポルトガル王国でした。イスラム教徒を追い払ったイベリア半島国家は民族主義的熱情に燃え、同じイスラム教国であるオスマン・トルコによってもたらされた危機を克服することに使命感を感じ、この冒険的航海を敢行したのでした。そうして1488年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが遂に喜望峰を回ってインド南部の西海岸にあるカリカットに到達することに成功したのでした。
この時点でガマの到達したインド南部にはヒンズー系の諸王国が存在し、これらの諸王国は西にはチムール帝国(ガマ到達の2年後に滅びてサファヴィ朝に代わる)に属するイスラム商人達の海上交易ネットワーク、東には東南アジア諸国の商人やシナ蜜貿易商人、倭寇などが入り組んで活動する南アジア多島海の交易ネットワークと連結していました。これらの活発な海上交易ネットワークに関与する中東から東アジアにかけての諸国は当時のヨーロッパから見れば先進国であり、食い詰めたヨーロッパからやって来たポルトガルの商船団が数隻でどうこう出来るようなチャチなものではありませんでした。あくまでポルトガルとしては香辛料の取引が目的であり、侵略や植民地化などが目的ではありませんでした。
いや、正確にはポルトガルとしても侵略や植民の意思が無かったということはないでしょうけれど、ユーラシア南部の諸地域には付け入る隙が無かったというのが実状でありました。確かに軍事革命を迎えていた16世紀初頭当時のヨーロッパの軍事力はそれなりに強いものではありましたが、それでもオスマン・トルコよりは劣っていましたし、その他のユーラシア南部諸国ともそれほど大差ない状態でした。だいいち当時の帆船は積載人数が少なくて大兵団の輸送は不可能でしたから、多少武器の程度が良かったからといって数隻単位の帆船しか送れない状態では侵略など不可能でした。まぁ別に侵略しなくても交易だけで十分に利益が上がるほどにユーラシア南部は豊かで先進的な地域であったので、ポルトガルとしてもわざわざ侵略するという考えはあまり浮かばなかったことでしょう。つまり、大航海時代における16世紀の中東・インド・東南アジアというのはヨーロッパにとっては基本的には交易相手であり、侵略対象ではなかったのです。

一方、イベリア半島にあったアラゴン王国とカスチラ王国も1479年に合同してイスパニア王国(スペイン)となり、インドへの航路開拓の冒険的航海事業に参入しようとしましたが、既にアフリカ西海岸を南下していく航路はポルトガルに独占されてしまっていました。そこでスペイン国王は「地球が球形であるならば大西洋を西へ進んでもインドの東海岸に到達するはずだ」というジェノバ商人コロンブスの説を信じて、コロンブスに船団を与えて大西洋を西へ進む航路開拓を命じたのでした。これにより1492年にコロンブスは大西洋の対岸にある大陸に到達していました。ガマがアフリカ南端を回ってインド西海岸に到達する6年前のことでした。コロンブスはこの時インドの東海岸に到達したと信じましたが、そこは実は未知の新大陸、すなわちアメリカ大陸であったのでした。
16世紀初頭に調査の結果、どうやらここがインドではない新大陸であることが認識され、その新大陸の先に大きな海(太平洋)が広がっていることも判明し、スペイン人たちはその太平洋の先にこそインドがあるのだと考え、太平洋への冒険に旅立っていき、1519年から1522年にかけてマゼランの艦隊が世界一周することでその考えが正しいことを証明し、その後、スペイン商人も太平洋を経由して南アジア多島海の交易圏に参入するようになりました。
しかし、スペイン本国から南アジアまではあまりに遠く、直行便で航海するのはほとんど不可能であったので途中で拠点を作らねばなりませんでした。そこでスペインは南米大陸の北部や北米大陸の南部に植民地を作って商人たちが移民して、太平洋に向けて出帆する前線基地としようとしたのです。そういうわけでスペインはペルーやメキシコに移民や商人、軍隊を送り込んで植民を開始したのでした。
ユーラシア南部のように現地民がもともと交易ネットワークを築いているのであれば、それに参画させてもらってそのインフラを活用させてもらうのが一番効率的なのですが、新大陸では現地民はアジア交易などやっていませんでしたから、スペイン人自身が植民して一から交易のためのインフラを構築しなければいけなかったのでした。また、アフリカ西海岸をインドに向かって南下中に漂流したポルトガル船が偶然に漂着して発見したブラジルにはポルトガル人が植民するようになっていきました。

さて、南アジア多島海でアジア商人と香辛料の取引をしようとしたスペイン人やポルトガル人は、アジアでは彼らヨーロッパ人の主要輸出品目であった毛織物の需要が全く無いことに愕然としました。毛織物を欲しがっていたのはイスラム商人だけであったので、肝心の香辛料原産地にやって来てもヨーロッパ人は取引困難に直面してしまったのでした。ではアジア商人たちは香辛料と何を交換していたのかというと、それは銀でした。特に当時の明代のシナでは貨幣経済が発達していた割には鉱物資源に乏しく、銀は重宝がられていました。だからシナ商人が香辛料を売る時には代価として銀が最も喜ばれました。しかしヨーロッパには鉱物資源が乏しく、銀はイスラム商人が多く握っていました。つまりヨーロッパ人はイスラム商人を介さずに香辛料原産地での直接取引をすることが困難だということになります。
ところが新大陸では銀が産出したのです。それを知ったスペインは現地民を排除して銀を独占するために軍事力による征服を開始しました。当時の帆船では大兵力を送ることは不可能でしたからスペイン側は少数兵力でありましたが、新大陸の現地民たちはユーラシア大陸の住民ほどには戦争慣れしていませんでしたので、簡単に征服されてしまったようです。
何故、新大陸の住民が戦争慣れしていなかったのかというと、ユーラシア大陸のように遊牧民というものがいなかったからであろうと思われます。ユーラシア大陸における戦争文化の発展を常にリードしてきたのは遊牧騎馬民族でした。しかし新大陸にはそもそも馬が生息しておらず、家畜を飼う習慣自体がありませんでした。つまり徒歩の狩猟民か農耕民しかいなかったのです。これではユーラシア大陸の西端でイスラム教徒やモンゴル帝国の騎馬軍団と必死で戦ってきたヨーロッパ人とでは勝負になりません。その上、スペイン兵たちは新兵器である銃を持っていました。
本来はこの当時(19世紀に蒸気船が出現するまで)の船舶の兵員輸送能力では、海を渡っての侵略や征服というものはほぼ不可能であったのです。例えば13世紀に当時世界最強のモンゴル帝国も日本侵攻に失敗していましたし、16世紀にインドや東南アジアへ進出したポルトガルやスペイン、オランダも少数の未開人が住んでいただけのフィリピンと台湾を除いては侵略はしませんでした。16世紀末の日本の豊臣秀吉による朝鮮出兵も失敗に終わりました。18世紀終盤のアメリカ独立戦争においてもイギリスは海の向こうの反乱軍を鎮圧出来ませんでしたし、19世紀初頭においてもナポレオンはイギリス本土に侵攻することに失敗しました。しかし、それらは彼我の戦闘能力にそれほどの大きな違いが無い場合に限ってのことであり、この時のスペイン軍と新大陸住人との間のように、あまりに戦闘能力に大きな差がある場合はその限りではないということです。
こうして易々と征服に成功したスペイン人たちは現地民を強制労働させて銀の採掘を開始し、その過酷な労働に現地民が反抗すれば見せしめや報復のために現地民を虐殺したり、暴虐の限りを尽くすようになっていきました。こうして掘り出された新大陸の銀が南アジア多島海に運ばれ、シナ商人との間で香辛料と取引され、その香辛料はヨーロッパに運ばれて高価な値段で売買されたのでした。こうして新大陸に植民したスペイン商人は新大陸の住民を奴隷のように働かせて得た銀と高価な香辛料を交換して莫大な利益を得ることになったのでした。

この成功を見て、他のスペイン商人やポルトガル商人も新大陸の植民地に押し寄せ、そしてまだスペインやポルトガルが植民していない土地を狙って、イギリスやフランス、オランダなどの商人たちも16世紀終盤から17世紀にかけて大挙して新大陸に押し寄せて植民地を築き、現地民を暴力で排除して鉱山などを探し、鉱山が見つからなければ仕方なく現地民を強制労働させて低コストの農作物などを作って本国へ売って財産を築いていきました。その多くは黒死病による人口激減からの人口回復によってヨーロッパ社会であぶれてしまった食い詰めた貧乏人なども多く、いっそのこと新大陸で悪いことでもやって一山当ててやろうというような無法者や、そもそも犯罪者が流刑として送られることも多く、かなり性質の悪い移民が多く、現地民を虐待するようなことが多かったようです。
しかし、いくら戦争慣れしていないからといって、それにしても現地民のほうが圧倒的多数派であったはずなのに、移民たちの暴虐に対してまともな抵抗もほとんど無かったというのは奇怪なことのようですが、これは奇怪でもなんでもなく、新大陸の現地民たちは疫病によって人口が激減していたので、そもそも多数派でもなくなっていたのです。
新大陸の現地民は家畜を飼う習慣が無かったので人畜共通感染の伝染病に対する免疫がほとんど無く、ヨーロッパ人移民が持ち込んだ馬や牛、羊などの家畜を感染源とするありとあらゆる伝染病に罹患して大量死していったのでした。一方、ヨーロッパ人は長年の家畜を飼う暮らしの中で自然に免疫が出来ていたので平気で、現地民ばかりがバタバタ死ぬという状況となっていました。それに加えて強制労働や虐待、虐殺などによって現地民の人口は激減し、だいたい17世紀の終わりまでには全人口の8〜9割が絶滅したといわれています。疫病の流行まではヨーロッパ人の望んだことではなかったでしょうけれど、これはれっきとしたジェノサイドでした。

しかし、当時のヨーロッパ人の移民たちは疫病で現地民たちがバタバタ死んでいくのを見て困ってしましました。可哀想とかいうのではなく、奴隷のように無料でこき使える労働力が絶対的に不足してきたからです。そこで奴隷労働力を補うためにアフリカ大陸から黒人奴隷を運んでくるようになったのでした。
アフリカ大陸は北部のサハラ砂漠より北にはアラブ人が住んでおり、砂漠の交易民の宗教であるイスラム教世界が広がっていました。そのサハラ砂漠の南には熱帯雨林やサバンナの世界が広がり、黒人が住んでいる「ブラック・アフリカ世界」が広がっていました。アフリカ西海岸沿いに南下したポルトガルによって、このブラック・アフリカにおいて奴隷狩りが行われて黒人奴隷がポルトガル本国へ運ばれるということは15世紀から細々と行われていましたが、新大陸植民地での現地民の人口激減を受けて、新大陸に奴隷労働力を大量移送するために大々的に奴隷貿易が展開されるようになったのは16世紀以降のことでした。
ただ、黒人の場合は新大陸の現地民とは違い、決して弱い存在ではなかったのです。まず新大陸人と大きく違っていた点は、黒人はヨーロッパ人の持ち込んだ家畜を感染源とする伝染病に免疫がありました。もちろん当時は免疫についての知識などありませんでしたから、黒人に免疫があったのは結果論に過ぎないのですが、それでも免疫があったということは黒人は故郷のアフリカにおいても家畜と暮らしていたということで、つまり遊牧民の戦争文化を持っていたということです。実際、古代から黒人は優秀な戦士として知られていました。だから本来は黒人はそう易々とヨーロッパ人によって狩り立てられて捕獲され奴隷として売り飛ばされてしまうような存在ではないはずなのです。
その黒人が実際には大量に奴隷として新大陸へ送られるようになったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りによるものではなく、むしろブラック・アフリカは部族間の戦争が絶え間ない戦国時代が出現したのが実情で、その度重なる黒人の部族同士の戦争の結果、捕獲された大量の捕虜の黒人を、黒人自身の手によってヨーロッパ人商人に売り飛ばしていたというのが実態であったのです。
新大陸の現地民の人口が激減していくにつれて黒人奴隷の需要は大きくなり、多くのヨーロッパの奴隷商人たちがブラック・アフリカに出向いて奴隷調達を様々な黒人部族共同体に働きかけるようになり、黒人共同体にとっても奴隷貿易は大きな商売となり、報酬目当てに敵対部族にどんどん戦争を仕掛けて捕虜を奪っていきました。このようにしてアフリカから大量の黒人奴隷が新大陸に運ばれていったのでした。
16世紀から本格化した黒人奴隷貿易は新大陸の現地民が減っていくのに伴って急激に規模を拡大し、17世紀にはヨーロッパの奴隷商人たちが黒人部族から奴隷を買い上げる代価としてインド産の綿織物と共にヨーロッパ製の銃火器などの武器も提供するようになり、その武器を用いてますます黒人部族同士の戦争はエスカレートしていくという通商形態が確立しました。これは資源(奴隷)を得るために武器を提供するという現代における「死の商人」と基本的に同じ通商形態がアフリカを舞台に昔から行われていたということを意味します。そうして17世紀末に新大陸の現地民がほぼ絶滅した後、18世紀にはイギリス商人を中心に最大規模に膨れ上がり、その後、19世紀になって奴隷売却先の北米植民地を失ったイギリスが奴隷貿易にあまり意義を見出さなくなった後、急速に廃れていきました。
この16世紀から18世紀の約300年間、目先の利益のために黒人部族同士の奴隷を得るための戦争が繰り返され、黒人による黒人狩りが際限なく続いた結果、ブラック・アフリカ世界の人口は激減し、アフリカの黒人社会は壊滅状態に陥り、カオスが出現したのでした。この間、ヨーロッパ諸国はアフリカにおいて植民地をほとんど建設しておらず、ヨーロッパ諸国のアフリカに対する関心は、あくまで新大陸での労働力確保のための奴隷調達の場としてのみであったことが分かります。そしてその奴隷確保のためにヨーロッパ人が黒人社会を征服したり攻撃したということもなく、アフリカの黒人社会から奴隷貿易によって労働力を奪い、アフリカの黒人社会を壊滅させた直接の当事者はアフリカの黒人自身であったのです。つまりアフリカは自滅したのです。
思うに、ブラック・アフリカの社会にも、もともとは部族単位で独自の「統治の倫理」や「市場の倫理」も存在したのでありましょうが、おそらく部族間の連帯を強調する「市場の倫理」よりは部族同士の対立を強調する「統治の倫理」のほうが強く、その各部族の「統治の倫理」がヨーロッパ人の持ち込んだ商品や武器への誘惑という「市場の倫理」と結びついて、「互いに経済的利益のために戦争をする」という、「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合による最も腐敗し堕落した戦争の形態が蔓延し、終には自らの文明を滅ぼすにまで至ったのでありましょう。

一方、現地民がほぼ絶滅し、新たに黒人奴隷を大量に受け入れた南北アメリカ大陸では新たな文明が構築されるようになりました。南北アメリカ大陸ではヨーロッパ人がやって来る以前には古代以来の独自の文明が栄えており、各地域の各部族ごとに独自の「統治の倫理」や「市場の倫理」のようなものもあったのであろうと推測されますが、それは何らかの文明的な必然性や脈絡があってのことではなく、ヨーロッパ人のもたらした全く外部的な要因によって急激に訪れた現地民社会の壊滅によって17世紀末までに消滅してしまったのでした。その後の南北アメリカ大陸における文明は、それ以前の現地民の文明とは全く連続性は無く、南北アメリカ大陸に出現した広大な全くの更地にヨーロッパ文明を移植する形で展開していくことになります。これは、現地民の文明が温存された上で西洋の支配を受けることとなった19世紀のアジアにおける西洋の植民地とは大きく異なった点であるといえます。
そして、その南北アメリカ大陸の新文明は、全くの更地に人工的に移植されることによって、ヨーロッパの本国の文明と類似しながらも、それをより極端な形にした、また少し異質なものになっていったのです。そしてそれは南アメリカ大陸の場合と北アメリカ大陸の場合とでもまた互いに異質な文明となっていきました。それは南北アメリカ大陸のそれぞれの植民地の宗主国の状況の違いやその成立時期の違いなどに起因するものでした。

スペインやポルトガルが新大陸を征服したそもそもの動機は銀を得るためでした。では何のために銀が必要であったかというと、それはアジア多島海の交易場においてシナ商人に香辛料の代価として支払うためでした。ところがそのアジア多島海の状況が16世紀後半になって日本という新たなプレーヤーが参入することによって一変していたのです。
1543年にポルトガル人が種子島に到達して火縄銃を日本人に提供したところ、戦国時代真っ只中の日本人は、アフリカの黒人部族とは異なって、素直にこの「死の商人」から火縄銃を購入するのではなくコピーして、あっという間に大量の火縄銃を自作しました。ところが大量の火縄銃を撃つためには大量の火薬が必要で、火薬の原料の硝石が日本では全く産出されなかったため、結局ポルトガル人は硝石の産地であるシナから硝石を仕入れて日本の商人や大名に販売するという「死の商人」的な交易を始めました。そして、ちょうどこの頃から日本国内の各地で金山や銀山が開発されて大量の金銀が産出されるようになり、とにかく大量の鉄砲を駆使して戦闘に勝ちたい戦国大名たちは大量の金銀を支払ってポルトガル商人から大量の硝石を購入するようになったのでした。ほどなくアジア海域に進出してきたスペインもこの新しい交易に参入してきました。
日本の戦国大名たちにとって硝石は極めて必需品で、大量の金銀と引き換えにしても手に入れたいものでありましたが、シナにおいては硝石など大した価値も無いものであったのでスペインやポルトガルの商人たちは安く硝石を買って日本で高く売って大量の金銀を得ることが出来るようになったのです。その金銀は新たに硝石を購入してもお釣りが来るほどの量であったので、日本から得た金銀でかなりの香辛料もシナ商人から購入することが出来るようになったのでした。
アメリカ大陸から太平洋を渡ってアジア海域へ銀を運んでくるよりも、アジア海域の隣にある日本で硝石を売って金銀を調達するほうが遥かに効率的です。だから日本との交易を開始して以降は、スペインやポルトガルはアメリカ大陸の銀山で採れた銀をあまり多くアジア海域に送らなくて済むようになったのです。では、余ったアメリカ大陸産の銀をどうしたのかというと、ヨーロッパへ運んでくるようになったのでした。

スペインやポルトガルが大西洋や太平洋の覇者となり、新大陸の富を独占出来たのはどうしてなのかというと、それは軍事力によるものでした。強大な軍事力によって征服をし、征服によって得た利権を軍事力で守るというのが彼らの流儀でした。スペイン人やポルトガル人はカトリック信者でしたが、カトリックは現世否定思想が基本であり、この世のものは基本的には全て神のものであり、人間のものではないわけですから、相手のものでもないわけで、自分が力任せに分捕ってしまっても後で「これは神のものだ」とか「神の思し召しだ」などと言っておけばいいという発想ですから、自分が神の代理人だと信じ込むことが出来れば略奪行為を全く罪とは思わず、真っ当な手段で財産を取得するということをあまり重視しない傾向があります。逆に神の思し召しでもない場合に単なる人間が自分の財産に執着することは誤ったことであるかのような傾向もありました。
だからスペインやポルトガルの発想はどうしても軍事力に任せての略奪が中心になりがちで、実際に軍事力によって覇権を築いたという自負もあったので、軍事力への過度な信仰が存在しました。そこで更なる軍事力の強化のために新大陸の銀をヨーロッパへ持ち込んで大量の武器や兵器を調達したのでした。
あるいは、スペインやポルトガルは本当は日本を征服したかったのかもしれません。日本を征服して当時世界最大の産出量を誇った金山や銀山を手中に収めることが出来れば、いちいち硝石を持って交易などしなくてもアジア海域で香辛料の代替物が無料で手に入るわけですから、それに越したことはありません。しかし日本人は新大陸の現地民とは違って非常に戦争慣れしていて、しかも大量の自作の銃で武装していました。そうした日本を征服するためには更に大量の武器が必要だと思ったのかもしれません。
とにかくそうしてスペインやポルトガルは大量の新大陸の銀をヨーロッパに持ち込んで、ヨーロッパの武器商人たちに大量の銀を代価として支払ったのです。つまりスペインやポルトガルは武器購入のためにひたすら散財し、ヨーロッパの市場には今までにない大量の銀が流通するようになったのです。これによってヨーロッパの貨幣経済が大発展したのでした。

貨幣というものは不思議な魔力を持ったもので、簡単に持ち運び出来て腐ったり痛んだりせず長持ちして、何にでも交換することが出来るのですが、貨幣そのものは何の役にも立たないので、貨幣を持つと蓄積したくもなりますが、最終的にはどうしても他の何かと交換したくなるという特性があります。つまり貨幣を多くの人が持つようになると、自給自足のような自己完結型の経済というものが成り立たなくなり、市場における貨幣の消費欲求が非常に高くなり、様々な商品が売れるようになるのです。だから貨幣経済が発展した16世紀後半以降のヨーロッパにおいては、貨幣を使う消費者になるよりは、貨幣を獲得する購買者になるほうが利口であったのです。
スペインやポルトガルのようなカトリック国家は、どうもそういう発想にはならなかったようです。財産を溜め込むのは卑しいことで、神の名誉のために戦う戦士や宣教師こそが偉いのであり、欲しいものがあれば敬虔なカトリック教徒には神が与えてくださる(実際は神の名を騙って略奪する)というような感覚であったのでしょう。それでひたすら武器購入のために散財したのです。これはまさに「統治の倫理」の発想です。カトリックは典型的な「統治の倫理」であったのです。
現在のカトリックというのは穏健な宗教のように見えますが、それは宗教改革によって同じヨーロッパ社会にプロテスタントという対抗勢力が現れたために自己改革をした姿であって、宗教改革の影響を受ける以前の純粋なカトリックの姿といえば、魔女狩りや異端審問などの頑迷で残酷なカルト的な恐怖支配体制というところです。こうした頑迷な「統治の倫理」たるカトリックに略奪経済体制という貨幣経済以前の古い「市場の倫理」が融合した、神の名のもとにおいての略奪や奴隷制を正当化する腐敗した独裁的な搾取体制が16世紀のスペインやポルトガルの社会の実態でありました。そして、その南米や中米の植民地社会は、一握りの特権階級が現地民や黒人やその混血児たちを奴隷階級として使役して略奪や搾取をほしいままにする腐敗独裁体制をカトリック教義によって正当化するという暗黒支配体制でした。
スペインやポルトガル本国においては「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合に対して抵抗する「統治の倫理」の中の保守主義的部分、この場合はカトリックを略奪を正当化するために濫用することに対する嫌悪感というような健全な宗教感覚が生じて、こうした腐敗の暴走にいくらか歯止めがかかったのですが、こうした保守主義というものは歴史や伝統の存在する土壌にしか発生しないものなので、現地民の文明を滅ぼした後の更地に根無し草のようにやって来た移民たちによって移植されたこのスペインやポルトガルの南米や中米の植民地社会は、その腐敗構造を掣肘する保守主義的部分というものを持ち合わせていなかったため、「統治の倫理」と「市場の倫理」の結合はより強固なものとなり、その腐敗の度合いはいっそう深刻なものとなったのでした。
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【2008/11/01 05:24】 URL | #- [ 編集]



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